「千葉ロッテマリーンズ」の版間の差分

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(西村監督時代)
 
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* 千葉県(1992年 - 現在)
 
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|本拠地 = [[千葉マリンスタジアム|ZOZOマリンスタジアム]]([[千葉県]][[千葉市]][[美浜区]])
<br/>[[File:QVC Marine Field (27170481472).jpg|center|317px|]]
 
 
|キャパ = 30,200人(ZOZOマリンスタジアム)
 
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|永久欠番 = 26
 
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|特記事項= [[1957年]][[11月]]に大映野球株式会社を吸収合併。
 
|特記事項= [[1957年]][[11月]]に大映野球株式会社を吸収合併。
 
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{{Portal|野球}}
 
  
'''千葉ロッテマリーンズ'''(ちばロッテマリーンズ、{{Lang-en|Chiba Lotte Marines}}、{{Lang-zh-tw|千葉羅徳海洋隊}})は、[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団。[[パシフィック・リーグ]]に所属している。
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'''千葉ロッテマリーンズ'''(ちばロッテマリーンズ、{{Lang-en|Chiba Lotte Marines}}、{{Lang-zh-tw|千葉羅徳海洋隊}}
  
[[千葉県]][[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、同県[[千葉市]][[美浜区]]にある[[ZOZOマリンスタジアム]]を[[専用球場]](本拠地)としている。また、[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[埼玉県]][[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]]にある[[ロッテ浦和球場]]である。
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[[日本]][[日本プロ野球|プロ野球]]球団。[[パシフィック・リーグ]]に所属。
  
== 球団の歴史 ==
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[[千葉県]][[プロ野球地域保護権|保護地域]]とし、同県[[千葉市]][[美浜区]]にある[[ZOZOマリンスタジアム]][[専用球場]](本拠地)としている。また、[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|二軍]]([[イースタン・リーグ]]所属)の本拠地は[[埼玉県]][[さいたま市]][[南区 (さいたま市)|南区]]にある[[ロッテ浦和球場]]。
=== 東京時代 ===
 
==== 毎日時代 ====
 
 
 
'''{{by|1949年}}'''
 
 
 
[[9月]][[毎日新聞社]]を親会社とする毎日球団が設立され、「'''毎日オリオンズ'''(まいにちオリオンズ)」が結成された<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 1949 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。[[戦後]]、[[正力松太郎]]からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する[[都市対抗野球]]の有力選手をスカウトして球団を結成。[[9月21日]]、[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]に加盟を申請。
 
 
 
リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった[[読売新聞社]]([[読売ジャイアンツ]]の親会社)・[[中日新聞社|中部日本新聞社]]([[中日ドラゴンズ]]の親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]・[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]・[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]・[[埼玉西武ライオンズ|西鉄クリッパース]]・[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]の7球団からなる太平洋野球連盟([[パシフィック・リーグ]])と毎日オリオンズ加盟反対派の[[阪神タイガース|大阪タイガース]]・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・[[松竹ロビンス]]・[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]・[[広島東洋カープ|広島カープ]]・[[西日本パイレーツ]]・[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]の8球団からなるセントラル野球連盟([[セントラル・リーグ]])が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。
 
{{Main|プロ野球再編問題 (1949年)}}
 
 
 
この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった[[若林忠志]]・[[別当薫]]・[[土井垣武]]・[[本堂保弥|本堂保次]]・[[呉昌征]]が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
 
 
 
'''[[1950年の毎日オリオンズ|1950年]]'''
 
 
 
パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は[[後楽園球場]]。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は[[明治大学]]のエースから前述の大毎野球団の一員となった[[湯浅禎夫]]を総監督、前大阪監督の[[若林忠志]]を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋漁業(後の大洋ホエールズ)]]から獲得した[[河内卓司]]・[[戸倉勝城]]を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した[[星野組硬式野球部|星野組]]のエース[[荒巻淳]]や、大洋から獲得した[[野村武史]]が活躍。[[10月25日]]、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 1950 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>、[[1950年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[松竹ロビンス]]を4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。打者では別当薫が本塁打、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。
 
 
 
'''[[1951年の毎日オリオンズ|1951年]]'''
 
 
 
首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
 
 
 
'''[[1952年の毎日オリオンズ|1952年]]'''
 
 
 
7月16日、[[福岡市|福岡]]・[[平和台野球場]]での対[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生([[平和台事件]])。[[7月27日]]、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 1952 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。
 
 
 
'''[[1953年の毎日オリオンズ|1953年]]'''
 
 
 
首位南海と14.5ゲーム差の5位。[[西宮球場]]での対阪急戦が、[[日本放送協会|NHK]]によるプロ野球初のテレビ中継となる<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 1953 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。
 
 
 
'''[[1954年の毎日オリオンズ|1954年]]'''
 
 
 
3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。
 
 
 
'''[[1955年の毎日オリオンズ|1955年]]'''
 
 
 
[[山内一弘|山内和弘]]が打率リーグ2位の.325と打点王、[[中川隆 (野球)|中川隆]]が最優秀防御率をあげ、新人の[[榎本喜八]]が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。
 
 
 
'''[[1956年の毎日オリオンズ|1956年]]'''
 
 
 
首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。
 
 
 
'''[[1957年の毎日オリオンズ|1957年]]'''
 
 
 
シーズン成績は3位。[[11月28日]]、成績が低迷していた[[大映ユニオンズ]](大映野球)と[[対等合併]]し「'''毎日大映オリオンズ'''(まいにちだいえいオリオンズ)」に改称。略称は「'''大毎オリオンズ'''(だいまいオリオンズ)」。新会社「毎日大映球団」<ref group="注">一部の資料{{要出典|date=2015年10月}}では「株式会社大映毎日球団」とする記述もある。</ref>が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には[[毎日新聞社]]と[[大映]]の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の[[永田雅一]]がオーナーに就任するという「[[逆さ合併]]」だった。
 
 
 
==== 大毎時代 ====
 
 
 
'''[[1958年の毎日大映オリオンズ|1958年]]'''
 
 
 
[[葛城隆雄]]が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]と[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった<ref>{{harvnb|井上章一|2001|p =164}}。ここでは1958年に『[[SPA!|週刊サンケイ]]』に載った[[中澤不二雄]]の意見と、1959年の『[[読売ウィークリー|週刊読売]]』の記事が紹介されている。</ref>。オフには、この年セ・リーグの首位打者となった[[田宮謙次郎]]が[[フリーエージェント (日本プロ野球)#10年選手制度|A級10年選手]]の権利で阪神より移籍する。
 
 
 
'''[[1959年の毎日大映オリオンズ|1959年]]'''
 
 
 
優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。
 
 
 
'''[[1960年の毎日大映オリオンズ|1960年]]'''
 
 
 
[[西本幸雄]]が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「[[ミサイル打線]]」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの[[1960年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、4連敗で敗退。その時の[[バント]]戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。
 
 
 
この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた<ref>{{harvnb|井上章一|2001|p=163}}および{{harvnb|永井良和 |橋爪紳也|2003|p=155}}。</ref>。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある<ref>{{harvnb|井上章一|2001|p=166}}および{{harvnb|永井良和|橋爪紳也|2003|p=155}}。</ref><ref group="注">毎日新聞社がオリオンズの経営から手を引いたのち、元毎日新聞社社長の[[小池唯夫]]がパ・リーグ会長を務めた時期がある。</ref>。
 
 
 
'''[[1961年の毎日大映オリオンズ|1961年]]-[[1963年の毎日大映オリオンズ|1963年]]'''
 
 
 
3年続けてBクラス([[1961年]]・4位→[[1962年]]・阪急と同率の4位→[[1963年]]・5位)。
 
[[1962年]]より本拠地は永田が私財を投じて[[荒川区]][[南千住]]に建設した専用球場・[[東京スタジアム (野球場)|東京球場]]に移転。
 
 
 
==== 東京オリオンズ時代 ====
 
 
 
'''[[1964年の東京オリオンズ|1964年]]-[[1968年の東京オリオンズ|1968年]]'''
 
 
 
[[1964年]]、球団名を「'''東京オリオンズ'''(とうきょうオリオンズ)」に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から[[東京ヤクルトスワローズ]]に改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌[[1965年]]1月に引き上げ、なおかつ後援も[[1966年]]度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。
 
 
 
優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。原因として、主砲の[[山内一弘]]や、[[葛城隆雄]]といった主力選手をトレードで放出し、[[田宮謙次郎]]が引退するなど、それまでの[[ミサイル打線]]を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年に[[ジョージ・アルトマン]]、[[アルト・ロペス]]などを獲得してようやくこの数字を逆転し<ref group="注">本塁打95本、被本塁打76本。</ref>、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている<ref>{{harvnb|宇佐美徹也|1993|pp=427 - 428}}。</ref>。
 
 
 
==== ロッテ時代 ====
 
 
 
'''[[1969年のロッテオリオンズ|1969年]]'''
 
 
 
[[1月18日]]、永田は友人である[[岸信介]]の斡旋により、[[ロッテ]]をスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を「'''ロッテオリオンズ'''」に改称。ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の[[スポンサー|冠スポンサー]](現在に置き換えれば[[命名権]]の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。首位阪急と5.5ゲーム差の3位。
 
 
 
'''[[1970年のロッテオリオンズ|1970年]]'''
 
 
 
10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった[[1970年の日本シリーズ|日本シリーズ]](東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。
 
 
 
'''[[1971年のロッテオリオンズ|1971年]]'''
 
 
 
[[1月25日]]をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる<ref group="注">球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを全て従来のままとしたケースはこれが初めてであり、類似のケースとしては[[2001年]]の[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]が挙げられる(球団を[[マルハ]]から[[東京放送ホールディングス|TBS]]に譲渡した時、連盟登記の球団名やユニフォームなどは全て従来のままとした)。</ref>。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。[[7月13日]]西宮での対阪急戦で[[江藤愼一]]のハーフスイングの判定をめぐり[[濃人渉]]監督が猛抗議、[[放棄試合]]を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され2軍監督に降格、後任に[[大沢啓二]]二軍監督が就任。この年は、優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打した[[ジョージ・アルトマン]]など<ref group="注">他に[[有藤通世]]27本、江藤愼一25本、[[アルト・ロペス]]24本、[[山崎裕之]]21本。</ref>チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて日本プロ野球記録となった<ref>{{harvnb|宇佐美徹也|1993|pp=427 - 428 }}。</ref>。
 
 
 
'''[[1972年のロッテオリオンズ|1972年]]'''
 
 
 
前年と一転、Bクラスの5位に転落。本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である[[児玉誉士夫]]の斡旋で[[国際興業]]社主の[[小佐野賢治]]が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、シーズンオフに監督に就任した[[金田正一]]が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。
 
 
 
=== 仙台時代 ===
 
{{seealso|ジプシー・ロッテ}}
 
 
 
'''[[1973年のロッテオリオンズ|1973年]]'''
 
 
 
この年から[[宮城県]][[仙台市]]の[[宮城球場]](現:楽天生命パーク宮城=[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、[[明治神宮野球場]]、[[川崎球場]]を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は[[1977年]]まで続き、この5年間は「[[ジプシー]]球団」などと揶揄された([[#歴代本拠地|歴代本拠地]]参照)。日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否。このためフライヤーズは[[日本ハム]]に売却されることになった(現:[[北海道日本ハムファイターズ]])。また、1971年からオーナーを務めた[[中村長芳]]が[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ)]]の経営に参画・[[福岡野球]]株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い<ref group="注">野球協約が制定される以前は[[阪神電気鉄道]]が[[読売ジャイアンツ|東京ジャイアンツ]]の、[[読売新聞社]]が[[阪神タイガース|大阪タイガース]]の株式を互いに持ち合った事例がある。</ref>、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。
 
この年からパ・リーグは[[プレーオフ#1973 - 82年|前後期制度]]を導入。成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。
 
 
 
'''[[1974年のロッテオリオンズ|1974年]]'''
 
 
 
金田監督の下で[[有藤通世]]、[[山崎裕之]]、[[弘田澄男]]、投手では[[成田文男]]、[[村田兆治]]、[[木樽正明]]らが活躍して後期優勝。[[1974年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では前期優勝の[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]を3連勝で破りリーグ優勝。中日との[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では4勝2敗で日本一になった。このときの日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグの[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)#パシフィック・リーグ|プレーオフ]]は宮城で開催されたが、[[1977年の日本シリーズ]]にロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。また、日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。
 
 
 
'''[[1975年のロッテオリオンズ|1975年]]'''
 
 
 
前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。
 
 
 
'''[[1976年のロッテオリオンズ|1976年]]'''
 
 
 
前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。
 
 
 
'''[[1977年のロッテオリオンズ|1977年]]'''
 
 
 
前期は5位に終わるも後期は優勝。[[1977年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。
 
 
 
=== 川崎時代 ===
 
 
 
'''1977年'''
 
 
 
神奈川県横浜市で[[横浜スタジアム]]の建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンから[[川崎球場]]への本拠地移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。
 
 
 
'''[[1978年のロッテオリオンズ|1978年]]'''
 
 
 
この年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。移転1年目は、総合4位に終わる。シーズン終盤金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任した<ref>[[スポーツニッポン]]、[[村田兆治]]の我が道2017年7月15日</ref>。
 
 
 
==== 山内監督時代 ====
 
 
 
'''[[1979年のロッテオリオンズ|1979年]]'''
 
 
 
山内一弘が監督に就任。就任1年目は、総合4位に終わる。
 
 
 
'''[[1980年のロッテオリオンズ|1980年]]'''
 
 
 
山内の下、[[レロン・リー]]、[[レオン・リー]]のリー兄弟、投手陣では[[仁科時成]]、[[水谷則博]]、[[倉持明]]が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。
 
 
 
'''[[1981年のロッテオリオンズ|1981年]]'''
 
 
 
エース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。
 
 
 
==== 山本監督時代 ====
 
 
 
'''[[1982年のロッテオリオンズ|1982年]]'''
 
 
 
[[山本一義]]が監督就任。[[落合博満]]が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者[[三冠 (野球)|三冠王]]となる。順位は5位に終わる。
 
 
 
'''[[1983年のロッテオリオンズ|1983年]]'''
 
 
 
球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任<ref>{{Cite book |和書 |title = 俺たちの川崎ロッテ・オリオンズ BBMタイムトラベル いま蘇る「川崎劇場」の14年間! |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |series = B.B.MOOK |year = 2013 |page = 47 |isbn = 9784583620473 }}</ref>。
 
 
 
==== 稲尾監督時代 ====
 
 
 
'''[[1984年のロッテオリオンズ|1984年]]'''
 
 
 
[[稲尾和久]]が監督就任。なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなかった。[[石川賢 (1960年生の投手)|石川賢]]が[[最高勝率 (野球)|最高勝率]]。
 
 
 
'''[[1985年のロッテオリオンズ|1985年]]'''
 
 
 
落合、[[西村徳文]]、レロン・リー、新人の[[横田真之]]が打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでも[[ランディ・バース]]([[阪神タイガース|阪神]])が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。
 
 
 
'''[[1986年のロッテオリオンズ|1986年]]'''
 
 
 
Bクラスの4位に終わる。落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]。稲尾が監督退任。
 
 
 
==== 有藤監督時代 ====
 
 
 
'''[[1987年のロッテオリオンズ|1987年]]'''
 
 
 
[[有藤通世|有藤道世]]が監督就任。「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した落合博満を[[牛島和彦]]・[[上川誠二]]・[[平沼定晴]]・[[桑田茂]]の4選手との1対4トレードで中日に放出<ref>{{Cite web |date = 2007-12-11 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_december/KFullNormal20071211158.html |title = 【12月23日】1986年(昭61)ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表 |publisher = [[スポーツニッポン]] |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している<ref>{{Cite book |和書 |author = [[落合博満]] |title = 野球人 |year = 1998 |publisher = [[ベースボール・マガジン社]] |page = 78 |isbn = 4583035691 }}</ref>。また、同年には女性向けの[[フリーペーパー]]「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pは[[ロッテリア]]などで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。これにより観客動員数が10万人ほど増えたという<ref group="注">このことは後年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の番組『[[トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜|トリビアの泉]]』でも紹介された。</ref>。なおこの年は、やはり落合の抜けた打線は迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最優秀救援投手]]に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。
 
 
 
'''[[1988年のロッテオリオンズ|1988年]]'''
 
 
 
この年は最下位だったが、[[10月19日]]の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は[[10.19]]参照)。[[1989年]]、二軍の本拠地が[[東京都]][[青梅市]]の[[青梅スタジアム|青梅球場]]から[[埼玉県]]浦和市(現:[[さいたま市]])の[[ロッテ浦和球場]]に移転<ref group="注">その後、[[1998年]]に現在の球団寮が竣工した。</ref>。5月13日の対日本ハム戦に勝利し、村田兆治が通算200勝を達成。[[高沢秀昭]]が首位打者・[[小川博]]が[[最多奪三振 (日本プロ野球)|奪三振王]]に輝く。
 
 
 
'''[[1989年のロッテオリオンズ|1989年]]'''
 
 
 
最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。村田が[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|防御率1位]]に輝く。
 
 
 
==== 第2次金田監督時代 ====
 
 
 
'''[[1990年のロッテオリオンズ|1990年]]'''
 
 
 
チーム成績は[[1990年]]は5位。西村が[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]になる。村田が現役引退。
 
 
 
'''[[1991年のロッテオリオンズ|1991年]]'''
 
 
 
首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への[[人工芝]]敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の[[新語・流行語大賞]]表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった<ref>{{harvnb|宇佐美徹也|1993|p=1082}}。</ref>。[[平井光親]]が首位打者を獲得。
 
 
 
=== 千葉時代 ===
 
==== 八木沢監督時代 ====
 
 
 
'''1991年'''
 
 
 
[[9月4日]]、翌年から保護地域を川崎から[[千葉県]]、専用球場を同県[[千葉市]][[美浜区]][[千葉マリンスタジアム]]に移転することがオーナー会議によって承認、発表された。移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、同年[[11月21日]]、新しい球団名は「'''千葉ロッテマリーンズ'''(英語で海兵隊)」に決定した。
 
 
 
この年のオフ、金田が監督を解任された<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 1991 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。後任に球団OBの[[八木沢荘六]]が就任。本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・[[球団旗]]・[[ペットマーク]]・マスコットを一新。
 
 
 
'''[[1992年の千葉ロッテマリーンズ|1992年]]、[[1993年の千葉ロッテマリーンズ|1993年]]'''
 
 
 
本来開幕権は[[オリックス・バファローズ|オリックスブルーウェーブ]]が持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。しかし翌年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
 
 
 
'''[[1994年の千葉ロッテマリーンズ|1994年]]'''
 
 
 
開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。その後は、[[中西太]]が代理監督を務め、5位に終わる。オーナーの[[重光武雄]]が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団<ref>[[井箟重慶]]、オリックス元代表 球界への遺言、中西太さんは年俸5000万円と聞くなり「この話は終わり」 2017年7月4日、[[日刊ゲンダイ]]</ref>。
 
 
 
==== 第1次バレンタイン監督時代 ====
 
 
 
'''[[1995年の千葉ロッテマリーンズ|1995年]]'''
 
 
 
日本球界初のGM([[ゼネラルマネージャー]])として[[広岡達朗]]が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のある[[ボビー・バレンタイン]]監督を招聘。序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された[[諸積兼司]]、リーグ打率2位の[[堀幸一]]、打点王を獲得した[[初芝清]]、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担った[[フリオ・フランコ]]、[[伊良部秀輝]]、[[小宮山悟]]、[[エリック・ヒルマン]]の先発三本柱、[[河本育之]]、[[成本年秀]]のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。
 
 
 
==== 江尻 - 近藤 - 山本監督時代 ====
 
 
 
'''[[1996年の千葉ロッテマリーンズ|1996年]]'''
 
 
 
バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた[[江尻亮]]が昇格したものの広岡の[[早稲田大学|大学]]の後輩ということで「広岡の[[傀儡政権]]」と陰口を叩かれる。またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをしたがそれ以外が計算出来なかった。野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され<ref>[[広岡達朗]]著、巨人への遺言プロ野球 生き残りの道 幻冬舎、2016年、P75</ref>、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・[[ニューヨーク・ヤンキース]]に移籍。ヒルマンも巨人へ移籍。
 
 
 
'''[[1997年の千葉ロッテマリーンズ|1997年]]'''
 
 
 
[[近藤昭仁]]が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の[[藤田元司]]に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった<ref>{{Cite web |date = 2016-04-04 |url = http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20160404-OHT1T50126.html |title = 【あの時・98年ロッテあぁ18連敗】(4)倒れるまで、やらせて下さい |publisher = [[スポーツ報知]] |accessdate = 2016-04-04 }}</ref>。投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、[[黒木知宏]]が初の二桁勝利、[[薮田安彦]]が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。野手では新人の[[小坂誠]]が新人王に輝き、投手から打者に転向した[[福浦和也]]が台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた[[定詰雅彦]]・[[田村藤夫]]が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された[[清水将海]]が開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。
 
 
 
'''[[1998年の千葉ロッテマリーンズ|1998年]]'''
 
 
 
近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰。ストッパーの河本が離脱しリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は[[#悪夢の18連敗|後述]])。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人の[[ブライアン・ウォーレン]]が加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。
 
 
 
'''[[1999年の千葉ロッテマリーンズ|1999年]]'''
 
 
 
[[山本功児]]が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、[[黒木知宏]]頼みの投手陣(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。この年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使する意向を球団に伝えた結果、自由契約となった。しかし、この時期にドラフトで獲得した[[清水直行]]、[[渡辺俊介]]、[[今江敏晃]]、[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。
 
 
 
'''[[2002年の千葉ロッテマリーンズ|2002年]]、[[2003年の千葉ロッテマリーンズ|2003年]]'''
 
 
 
[[2002年]]オフには[[2000年]]限りで[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]を退団した[[ロバート・ローズ]]を獲得するが、翌年の春季キャンプ中に、野球に対する情熱が無くなっているのに気づいたとして早々に退団している<ref>{{cite web |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/column/200302/0219sn_02.html |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2011年4月13日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120121155753/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/npb/column/200302/0219sn_02.html |archivedate=2012年1月21日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。
 
 
 
特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。
 
 
 
[[2003年]]オフ、韓国・[[三星ライオンズ]]から[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]を獲得。山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された<ref>{{Cite news |title = ロッテ・山本監督が試合前のスタッフ解雇通告に激怒 |newspaper = [[スポーツニッポン]] |date = 2003-10-13 }}</ref>。
 
 
 
==== 第2次バレンタイン監督時代 ====
 
 
 
; [[2004年の千葉ロッテマリーンズ|2004年]]
 
 
 
バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。
 
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; [[2005年の千葉ロッテマリーンズ|2005年]]
 
 
 
今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「[[マリンガン打線]]」と呼ばれ、4番に[[サブロー]]を起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]と対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降[[千葉ロッテマリーンズ 26-0 東北楽天ゴールデンイーグルス|最多得点差となる26-0で楽天に圧勝]]している。この年から導入された[[セ・パ交流戦]]では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対[[埼玉西武ライオンズ]]戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ第1ステージ]]で西武、第2ステージで[[福岡ソフトバンクホークス]]を破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした<ref group="注">プレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝チームとされていた。</ref>。[[10月22日]]からの[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では阪神を2002年の巨人以来、3年ぶりで、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。[[11月10日]]から[[東京ドーム]]で行われた第一回[[アジアシリーズ]]に出場。決勝で韓国の[[三星ライオンズ]]を5-3で下して勝利し優勝している<ref group="注">この年のアジアシリーズも初回大会であり、毎日時代のパ・リーグのリーグ戦、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの'''初代王者'''の称号を手に入れたことになる。</ref>。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる'''日替わり打線'''などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、'''ボビーマジック'''と言われた。この年、[[渡辺俊介]](15勝)、[[小林宏之 (野球)|小林宏之]](12勝)、[[ダン・セラフィニ]](11勝)、[[清水直行]](10勝)、[[久保康友]](10勝)、[[小野晋吾]](10勝)が2ケタ勝利を挙げた<ref group="注">同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]以来である。</ref>。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の[[荒巻淳]](26勝)・[[榎原好]](16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。
 
 
 
; [[2006年の千葉ロッテマリーンズ|2006年]]
 
 
 
[[小坂誠]]と李承燁が巨人へ金銭トレードされ、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続となる優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフには、[[福岡ソフトバンクホークス]]を退団した[[フリオ・ズレータ]]を獲得。
 
 
 
; [[2007年の千葉ロッテマリーンズ|2007年]]
 
 
 
3月24日の開幕戦(千葉マリンの対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦)が降雨コールドで引き分け<ref group="注">パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事。</ref>。翌日も延長12回で引き分け<ref group="注">開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。</ref>。投手陣は、中継ぎ陣が[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]の防御率10点台を超える乱調や、[[小林雅英]]の度重なる救援失敗により、事実上YFKは崩壊したが、38[[ホールド#ホールドポイント|HP]]で[[最優秀中継ぎ投手]]賞を獲得した[[薮田安彦]]が、シーズン終盤に抑えに回り、2年目の[[川崎雄介]]と新人の[[荻野忠寛]]が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却し、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして[[成瀬善久]]が16勝1敗、防御率1.817で、[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]と[[最優秀投手]]の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は[[福浦和也]]、[[今江敏晃]]、[[フリオ・ズレータ]]の故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、[[早川大輔]]の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。[[2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ1stステージ]]ではソフトバンクを2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。
 
 
 
; [[2008年の千葉ロッテマリーンズ|2008年]]
 
 
 
先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位となっている。チーム防御率はリーグ最低となった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。[[12月21日]]、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに[[井口資仁]]を獲得。
 
 
 
; [[2009年の千葉ロッテマリーンズ|2009年]]
 
 
 
ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、[[淑徳大学]]とパートナーシップ包括協定を締結。シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。その影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。バレンタインの後任にはヘッドコーチの[[西村徳文]]が監督に昇格。韓国・[[ハンファ・イーグルス]]からFA宣言した[[金泰均 (1982年生の内野手)|金泰均]]を獲得。
 
 
 
==== 西村監督時代 ====
 
 
 
;[[2010年の千葉ロッテマリーンズ|2010年]]
 
 
 
序盤はルーキー[[荻野貴司]]や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と[[唐川侑己]]の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。[[2010年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]のファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年[[南海ホークス]]以来37年ぶりとなった<ref group="注">当時は前後期の首位同士の[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]の結果で優勝チームを決定しており、1973年のプレーオフに勝利した南海はシーズン3位扱いではなく、リーグ優勝扱いであった点が異なる。シーズン3位として日本シリーズに進出したのは2010年ロッテが初。</ref>。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず<ref group="注">シーズンの通期勝率が2位以下で日本一となった例は1975年の阪急、1982年の西武、2005年のロッテがあるが、各当時のルールでは全てリーグ優勝の扱いとなっていた。</ref>に日本シリーズを制した球団となった<ref group="注">セ・リーグでは2007年の中日が2位から日本一となっている。</ref>。3位からの日本一は史上初めてである。[[11月13日]]、[[日韓クラブチャンピオンシップ]]では[[SKワイバーンズ]]を3-0で降して日韓王者に輝いた。[[12月27日]]、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・[[QVC|QVCジャパン]]による[[命名権]]導入に伴い、名称を「'''QVCマリンフィールド'''」に改めることを発表した。オフには小林宏之が阪神へ、西岡が[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]・[[ミネソタ・ツインズ]]へそれぞれFA移籍している。また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。
 
 
 
; [[2011年の千葉ロッテマリーンズ|2011年]]
 
 
 
[[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が[[液状化現象]]を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 2011 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。また開幕が当初予定の[[3月25日]]から[[4月11日]]に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり<ref group="注">本来は[[3月25日]]のKスタ宮城での楽天戦だった。</ref>、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。[[5月19日]]の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として<ref>{{Cite news |title = 連夜の逆転負け…ロッテ3連敗で貯金なくなった |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-05-19 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/19/kiji/K20110519000848440.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>以降は借金生活となり、[[6月8日]]の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落<ref>{{Cite news |title = ロッテ ついにリーグ、交流戦でダブル最下位 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-06-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/06/09/kiji/K20110609000984770.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。交流戦は8勝14敗2分の10位<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2011/stats/std_inter.html |title = 2011年度 交流戦 チーム勝敗表 |publisher = [[日本野球機構]] |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。[[6月29日]]にはサブローが[[工藤隆人]]プラス金銭で巨人にトレードされる<ref>{{Cite web |date = 2011-06-29 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/7324.html |title = サブロー選手と読売ジャイアンツ・工藤隆人選手プラス金銭でのトレードについて |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、[[9月7日]]の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝達成<ref>{{Cite news |title = 唐川、連敗止めた!ロッテ、通算4000勝に到達 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-09-08 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/08/kiji/K20110908001577950.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>するが、終盤戦に入っても低迷は続き、[[10月9日|9月29日]]には9年ぶりの11連敗を記録<ref>{{Cite news |title = ついに11連敗 西村監督「みんな空回りしている」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-09-29 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/29/kiji/K20110929001717620.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定<ref>{{Cite news |title = ロッテ、サヨナラ勝ちも…CS進出の可能性消滅 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-09-30 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/30/kiji/K20110930001732200.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>、[[10月9日]]の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて<ref>{{Cite news |title = 日本一から最下位…ロッテ パ史上初の屈辱 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-10-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/09/kiji/K20111009001789110.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差<ref>{{Cite web |url = http://bis.npb.or.jp/2011/stats/  |title = 2011年度公式戦成績 |publisher = 日本野球機構 |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。得点は球団史上最低記録となる432<ref group="注">これまでの記録は1958年の435。</ref>、チーム本塁打は46本で球団史上最少、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の西武[[中村剛也]]の48本を下回り、1959年の近鉄以来の記録となった<ref group="注">近鉄27本、中西太31本。</ref><ref>{{Cite news |title = ロッテ2桁アーチ0人おかわり以下のチーム合計46発 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2011-10-23 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/23/kiji/K20111023001873580.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している<ref>{{Cite news |title = 〈野球〉金泰均「日本では野球の面白さを感じることができなかった」 |newspaper = [[中央日報]] |date = 2011-09-19 |url = http://japanese.joins.com/article/873/143873.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。[[12月23日]]、この年6月に巨人に移籍したサブロー<ref group="注">巨人時代の登録名は本名の大村三郎。</ref>がFA移籍で半年でロッテに復帰<ref>{{Cite web |date = 2011-12-23 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/8461.html |title = 大村三郎選手との契約について |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。
 
 
 
; [[2012年の千葉ロッテマリーンズ|2012年]]
 
 
 
開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど<ref>{{Cite news |title = 60年ぶり!ロッテ開幕4連勝…最下位から下克上再び |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-04-05 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/05/kiji/K20120405002981370.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>、序盤から首位争いをし[[5月11日]]に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上<ref>{{Cite news |title = ロッテ逃げ切り首位浮上!通算千投球回の成瀬が3勝目 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-05-11 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/05/11/kiji/K20120511003232420.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した<ref>{{Cite news |title = ロッテ前半戦サヨナラ締め“快足”荻野貴ダイブ生還 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-07-19 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710600.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。しかし後半戦は[[7月31日]]の対日本ハム戦(QVC)に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し<ref>{{Cite news |title = グライ背信で首位陥落も…西村監督「あした頑張ればいい」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-07-31 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/31/kiji/K20120731003802970.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>、[[8月31日]]からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり<ref>{{Cite news |title = ロッテ6試合連続1得点以下リーグワーストにあと1 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-09-10 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/10/kiji/K20120910004084270.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、[[10月3日]]に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し<ref>{{Cite news |title = ロッテCS消滅 今季5度目のサヨナラ負けでBクラス確定 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-10-04 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/04/kiji/K20121004004252780.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。[[角中勝也]]が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった<ref>{{Cite news |title = 角中初の首位打者!出身独立Lへ「活躍することが恩返しになる」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-10-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/09/kiji/K20121009004297420.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている<ref>{{Cite news |title = ロッテ弟V!“中田キラー”植松今季ベス投 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2012-10-07 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/10/07/kiji/K20121007004271990.html |accessdate = 2012-10-21 }}</ref>。[[益田直也]]が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。[[10月8日]]、西村が監督退任<ref>{{Cite web |date = 2012-10-08 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/10235.html |title = 西村監督退団について |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2012-10-08 }}</ref>、[[10月15日]]にはヘッドコーチの[[高橋慶彦]]ら8コーチも退団<ref>{{Cite web |date = 2012-10-15 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/10269.html |title = コーチ契約に関するお知らせ |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2012-10-15 }}</ref>。[[10月18日]]、監督に[[伊東勤]]<ref>{{Cite web |date =  2012-10-18 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/10279.html |title = 伊東勤新監督 就任記者会見について |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2012-10-18 }}</ref>が就任。
 
 
 
==== 伊東監督時代 ====
 
 
 
; [[2013年の千葉ロッテマリーンズ|2013年]]
 
 
 
5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち<ref>{{Cite news |title = ロッテ 8連勝!奪首 延長11回、暴投でサヨナラ勝ち |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-05-09 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/05/09/kiji/K20130509005770810.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に<ref>{{Cite news |title = ロッテ 今季ワーストタイの4連敗…2位に転落 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-07-06 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/06/kiji/K20130706006162310.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>、前半戦を2位で折り返した<ref>{{Cite news |title = ロッテ2年連続2位以上ターンは42年ぶり |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-07-18 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/18/kiji/K20130718006242180.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが<ref>{{Cite news |title = 楽天 7月上旬から首位快走!星野監督 史上3人目の3球団V |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-09-26 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/26/kiji/K20130926006694700.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref><ref>{{Cite news |title = マー君どうする?胴上げ投手プラン実現なら記録はストップ |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-09-26 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/26/kiji/K20130926006690480.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>、[[10月4日]]にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりの[[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定した<ref>{{Cite news |title = ロッテ CS進出決定 伊東監督「日本一への挑戦権が取れたことはひと安心」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-10-04 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/04/kiji/K20131004006749300.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。10月8日に西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった<ref>{{Cite news |title = 西武、8連勝締め!2位死守でCS本拠地開催決めた |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-10-08 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/08/kiji/K20131008006773370.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが<ref>2013年10月15日朝日新聞夕刊スポーツ面</ref>、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した<ref>{{ Cite news |title = 楽天 日本シリーズ初進出!26日から34度目進出の巨人と対戦 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2013-10-22 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/21/kiji/K20131021006854620.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。オフに西武の[[涌井秀章]]をFAで獲得した。
 
 
 
; [[2014年の千葉ロッテマリーンズ|2014年]]
 
 
 
開幕から5連敗を喫し、チームは5月の[[ルイス・クルーズ]]から始まり6月の荻野、7月の[[クレイグ・ブラゼル]]と主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。シーズン途中にキューバ出身で[[メキシカンリーグ]]の大砲・[[アルフレド・デスパイネ]]を獲得<ref>{{Cite web |date = 2014-07-15 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/13778.html |title = アルフレド・デスパイネ・ロドリゲス選手の獲得について |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>、[[9月25日]]の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった<ref>{{Cite news |title = 日本ハム 対ロッテ勝ち越し ロッテ4位以下が確定 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2014-09-25 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/25/kiji/K20140925008993240.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。最終結果は4位に終わった。[[里崎智也]]が現役を引退し<ref>{{Cite news |title = ロッテ 里崎 引退あいさつで投手陣に謝罪「もっと良い成績残せたのに」 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2014-09-28 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/28/kiji/K20140928009011330.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。
 
 
 
; [[2015年の千葉ロッテマリーンズ|2015年]]
 
 
 
チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。交流戦では一時は首位に立つ<ref>{{Cite news |title = ロッテ交流戦首位浮上!角中 球団25年ぶり9回2死逆転満弾 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2015-06-03 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/06/03/kiji/K20150603010469480.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>も最終結果は10勝8敗の5位に終わった。[[7月13日]]、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した<ref>{{Cite news |title = ロッテ伊東監督、自力V消滅「諦める数字じゃない」 |newspaper = [[日刊スポーツ]] |date = 2015-07-13 |url = http://www.nikkansports.com/baseball/news/1506626.html |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。[[7月9日]]にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、[[7月30日]]に[[独立リーグ]]の[[ベク・チャスン]]を獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。[[10月2日]]の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。そして[[10月4日]]の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定され、2年ぶりのCS進出が決定した<ref>{{Cite news |title = ロッテが逆転勝ちで2年ぶりCS進出決定 “5年周期”で下克上の日本一なるか |newspaper = Full-Count |date = 2015-10-04 |url = http://full-count.jp/2015/10/04/post19357/ |accessdate = 2015-10-27 }}</ref>。[[2015年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]のファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。オフに今江が[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で楽天に、クルーズも巨人に移籍した。一方でソフトバンクから[[ジェイソン・スタンリッジ]]を獲得した。
 
 
 
; [[2016年の千葉ロッテマリーンズ|2016年]]
 
 
 
[[2月21日]]、新外国人の[[ヤマイコ・ナバーロ]]が銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。
 
 
 
開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまった。それ以降ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。しかしながらその後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した<ref>[http://mainichi.jp/articles/20160925/k00/00m/050/024000c プロ野球:ロッテがCS進出…パ・リーグ] - 毎日新聞 2016年9月24日</ref>。クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。
 
角中が首位打者と最多安打を獲得、また[[石川歩]]が2.16で最優秀防御率を初受賞、サブローが現役を引退。また、デスパイネが金銭面の関係で退団した。
 
 
 
; [[2017年の千葉ロッテマリーンズ|2017年]]
 
 
 
オープン戦を首位で終えたものの、シーズンに入ると打撃陣は新外国人の[[ジミー・パラデス]]と[[マット・ダフィー (1989年生の内野手)|マット・ダフィー]] の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も昨年最優秀防御率のタイトルを獲得した石川の大乱調などで4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/05/04/kiji/20170503s00001173255000c.html ロッテ 3連敗で最下位転落 伊東監督「はい上がるしかない」] - スポニチアネックス、2017年5月4日</ref>、そのままシーズン終了まで一度も最下位を脱出できなかった。[[5月16日]]、この日の西武戦にも敗れ6連敗を喫しここまで通算37試合でわずか9勝(27敗1分け)しか挙げられず、ロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した<ref>[http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20170517-OHT1T50027.html 【ロッテ】異例!37戦目で自力V消滅…今季初の6連敗] - スポーツ報知、2017年5月17日</ref>。5月から6月にかけ、[[2017 ワールド・ベースボール・クラシック・キューバ代表|WBCキューバ代表]]の[[ロエル・サントス]]<ref>[https://www.baseballchannel.jp/npb/32557/ ロッテ、WBCキューバ代表のサントス獲得を正式発表! 林本部長「リードオフマンが絶対ほしいという大きな課題に見合った」] - ベースボールチャンネル、2017年5月18日</ref>と、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーした[[ウィリー・モー・ペーニャ]]<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2017/06/06/kiji/20170606s00001173194000c.html ロッテ 元楽天のペーニャ獲得!日本で4球団目 今週中に来日へ] - スポニチアネックス、2017年6月6日</ref>を相次いで獲得する。秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗で今季初の月間勝ち越しを達成するが<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/201709300000826.html ロッテ伊東監督「本当?」今季初めての月間勝ち越し] - 日刊スポーツ、2017年9月30日</ref>最下位脱出には至ることができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことでロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。そして10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終えた。一方、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督が辞任し、井口が現役を引退した。同年10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの[[山下徳人]]ら7コーチに対して来季コーチ契約を行わないことを通告した<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00001533.html コーチ契約について] - 千葉ロッテマリーンズ オフィシャルサイト 2017年10月11日</ref>。
 
 
 
==== 井口監督時代 ====
 
 
 
2017年10月12日、昨年現役を引退した井口が監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームぺージで発表された<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00001535.html 井口新監督就任合意のお知らせ]</ref>。
 
 
 
; [[2018年の千葉ロッテマリーンズ|2018年]]
 
 
 
2018年2月23日、[[重光昭夫]]代表取締役オーナー代行が同月13日に韓国で贈賄の罪で収監された<ref>{{Cite web|date=2018-02-13|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO26846820T10C18A2MM8000/|title=韓国ロッテ会長に実刑判決朴・前大統領への賄賂認定 懲役2年6月 ソウル地裁|work=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2018-02-27}}</ref>ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ同日付で[[ロッテホールディングス]]の[[河合克美]]取締役が代表取締役オーナー代行に就任した<ref>{{Cite web|date=2018-02-23|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO27298790T20C18A2000000/ |title=千葉ロッテ、重光昭夫氏が代表権とオーナー代行を返上 |work=日本経済新聞|publisher=日本経済新聞社|accessdate=2018-02-27}}</ref>。[[5月10日]]、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの[[鳥越裕介]]がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの[[小坂誠]]が一軍内野・守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の[[堀幸一]]が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。また、一軍内野・守備走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。
 
 
 
== 所属選手・監督・コーチ ==
 
{{See also|千葉ロッテマリーンズの選手一覧}}
 
{{千葉ロッテマリーンズ|state=expanded}}
 
 
 
== チーム成績・記録 ==
 
[[画像:Chiba Lotte Marines Ranking.svg|320px|thumb|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本一を示す。]]
 
{{See also|千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の年度別成績一覧}}
 
* リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)
 
* クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)
 
* 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)
 
* アジアシリーズ優勝 1回(2005年)
 
* 日韓クラブチャンピオンシップ<ref group="注">アジアシリーズの振り替え大会。</ref>優勝 1回(2010年)
 
* セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)
 
* 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)
 
* 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)
 
* Aクラス 27回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年 - 2016年)
 
* Bクラス 40回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年 - 2012年、2014年、2017年)
 
* 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)
 
* 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)
 
* 最下位回数 9回(1983年、1988年 - 1989年、1991年 - 1992年、1997年、1998年、2011年、2017年)
 
* 最多勝 85勝(1955年)
 
* 最多敗 87敗(2017年)
 
* 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)
 
* 最高勝率 .704(1950年)
 
* 最低勝率 .361(1983年)
 
※1974年は阪急との[[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]を制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来連続43シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。また、これは[[横浜DeNAベイスターズ]]の大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超え、[[日本野球機構|NPB]]最長記録となっている。
 
 
 
=== その他の記録 ===
 
* 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
 
* 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
 
* 最多本塁打 193本(1971年)
 
* 最少本塁打 46本(2011年)
 
* 最高打率 .287(1985年)
 
* 最低打率 .232(1965年)
 
* 最高防御率 2.40(1956年)
 
* 最低防御率 5.12(1983年)
 
* 最多連勝 18(1960年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は14(同年)
 
* 最多連敗 18(1998年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は12(同年)
 
* 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録)
 
 
 
== チームの特徴 ==
 
* [[1982年]]まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。前・後期制だった[[1975年]]前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位は[[1983年]]が球団史上初である。
 
* チームの生え抜き及び在籍経験選手が監督に昇格する[[読売ジャイアンツ]]や[[広島東洋カープ]]などと比べ[[外様]]監督が多いことでも知られている。このため、生え抜き監督は[[西本幸雄]]・[[有藤道世]]・[[八木沢荘六]]・[[西村徳文]]の4人で(西本・八木沢・西村は後に他球団の指導者を経験)、現役およびコーチ時代に他球団在籍経験のあるOBを含めても、[[戸倉勝城]]・[[大沢啓二]]・[[山内一弘]]・[[山本功児]]・[[井口資仁]]を加えた9人である。反面、コーチはオリオンズ・マリーンズ[[OB・OG|OB]]が多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。
 
* 過去に4回、[[日本選手権シリーズ]]を優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった[[1950年]]以外の3回はいずれもロードの球場([[1974年]]・[[ナゴヤ球場|中日球場]]、[[2005年]]・[[阪神甲子園球場]]、[[2010年]]・[[ナゴヤドーム]])で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。ただし、リーグ優勝における胴上げはある([[1970年]]・東京、[[1974年]]・仙台=プレーオフ優勝。他に年間優勝ではないが、[[1980年]]前期と[[1981年]]前期の優勝を川崎で達成している。本拠地での日本一の胴上げを未だ成し遂げられていないのは、現存する11球団では他に[[阪神タイガース]]〔[[1985年]]・[[西武ドーム|西武ライオンズ球場]]〕のケースしかない)。
 
* 球団創立以来、現存する12球団及び合併・消滅した近鉄を含む計13球団で唯一[[沢村栄治賞|沢村賞]]を受賞した投手が1人もいない(2015年現在)。
 
* 完全制覇<ref group="注">1年を通してレギュラーシーズン1位の状態で日本一。</ref>は活動1年目の[[1950年]]しかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。
 
* パ・リーグでは勝率3位から[[クライマックスシリーズ]]を突破して[[日本シリーズ]]に進出した唯一の球団であり、そこから日本一を果たしたのも唯一である<ref>2010年のこと。</ref>。また、[[2005年]]にはシーズン2位からプレーオフを勝ち抜いてリーグ優勝して日本一にも輝いたが、年間勝率2位以下で日本シリーズに2回進出したことのある球団は12球団の中でロッテだけである。また、それで2回日本一になっているのもこれまた唯一である。
 
* 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも1回もない<ref>因みに、消滅した9球団で全球団に負け越したシーズンの経験がある球団は、[[松竹ロビンス]]・[[大和軍]]・[[大阪近鉄バファローズ]]・[[高橋ユニオンズ]]・[[大映ユニオンズ]]の5球団である。</ref>。
 
 
 
=== 東京・仙台・川崎時代 ===
 
以前のニックネーム「オリオンズ」は[[星座]]の[[オリオン座]]が由来。球団創立以来[[1991年]]まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・[[毎日新聞社]]の[[社章]]でもあることから付けられた。
 
 
 
大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』([[大阪毎日新聞]]の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
 
 
 
毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した<ref name="mnp140426">[http://mainichi.jp/area/osaka/news/20140426ddlk27040386000c.html 喫茶店「茶房オリオンズ」」:閉店の名残惜しむ 感謝の集い /大阪]{{リンク切れ|date=2015年10月}} 毎日新聞大阪版2014年4月26日</ref><ref>「余録」毎日新聞2014年4月28日、1面</ref>。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた<ref name="mnp140426" />。
 
 
 
=== 千葉時代 ===
 
{{by|1992年}}から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、[[綱島理友]]が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも[[海兵隊]]の文字が散見される。オーナー企業である[[ロッテ]]は菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『[[すすめ!!パイレーツ]]』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中での[[千葉パイレーツ|パイレーツ]]が(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
 
 
 
[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]による選手の補強には消極的である。1995年オフに[[仲田幸司]]が阪神から移籍、2011年オフにサブローが巨人からFAで加入(厳密には古巣に復帰)、2013年オフに[[涌井秀章]]が西武から移籍しているのみ。また、球団からFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている(例外は1998年オフの[[初芝清]]、[[堀幸一]]、2017年オフの涌井)。
 
 
 
2000年代の後半になると長距離打者の不足に悩まされることが増え、2017年終了時で30本塁打以上打ったのは、2005年の[[李承燁]]にまで遡る程<ref>https://baseballking.jp/ns/141922</ref>。
 
 
 
[[2006年]]から[[2015年]]までは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。[[2016年]]に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、[[東京ドーム]]を会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した[[石川県立野球場]]、[[富山市民球場アルペンスタジアム]]での試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった<ref>{{Cite web |date = 2015-12-11 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/16528.html |title = 東京ドーム主催試合について |publisher = 千葉ロッテマリーンズ  |accessdate = 2015-12-24 }}</ref><ref>{{Cite news |title = 東京Dで主催試合 千葉ロッテ |newspaper = [[千葉日報]] |date = 2015-12-11 |url = http://www.chibanippo.co.jp/sports/lotte/293181 |accessdate = 2015-12-24 }}</ref>(試合は4-0でホークスが勝っている)。2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアムで、8月21日に2年ぶりに東京ドームで、それぞれ地方開催を予定している<ref>{{Cite web |title = パシフィック・リーグ試合日程についてお知らせ |publisher = [[日本野球機構|NPB]] |date = 2017-11-23 |url = http://npb.jp/news/detail/20171123_01.html |accessdate = 2017-12-08 }}</ref>。
 
 
 
== チームスローガン ==
 
<!-- ; 1992年: -->
 
* 1993年:「心・技・体 '93」
 
* 1994年:「激闘」
 
<!-- ; 1995年: -->
 
* 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」
 
<!-- ; 1997年: -->
 
* 1998年:「Play Hard '98」
 
* 1999年:「For The Team」
 
* 2000年:「For the Team 2000」
 
* 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」
 
* 2002年:「For the Team」
 
* 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」
 
* 2004年:「This year is beginning of the future.(今年から未来が始まる)」
 
* 2005年:「BUILDING OUR DREAM!〜夢をみんなで〜」
 
*: 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)!」の文字が公式サイトに現れた。
 
* 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」
 
* 2007年:「All Hands to The Flag! 〜結束、フラッグのために〜」
 
* 2008年:「A Passion for Our Dream, A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」
 
* 2009年:「Remember 〜1969―2008、2009〜」
 
* 2010年:「和」
 
* 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」
 
*: 「今こそみんなで和の力」は[[東日本大震災]]復興スローガン。
 
* 2012年:「和のもとともに戦おう」
 
* 2013年:「翔破〜頂点を目指して〜」
 
* 2014年:「翔破 〜頂点へ、今年こそ。〜」
 
* 2015年:「翔破 〜熱く!勇ましく!!泥臭く!!!〜」
 
* 2016年:「翔破~熱き心で~」
 
* 2017年:「翔破~限界を超えろ!~」
 
* 2018年:「マクレ」
 
 
 
== マスコット ==
 
{{Infobox baseball player
 
|選手名 = マーくん
 
|所属球団 = 千葉ロッテマリーンズ
 
|役職 = マスコット
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 =
 
|写真サイズ =
 
|写真のコメント =
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|出身地 = 幕張の浜
 
|生年月日 = 8月9日
 
|没年月日 =
 
|身長 =
 
|体重 =
 
|利き腕 = 右
 
|打席 = 右
 
|守備位置 = [[マスコット]]
 
|プロ入り年度 =
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 =
 
|最終出場 =
 
|経歴 =
 
* 千葉ロッテマリーンズ(1992 - )
 
}}
 
現在のマスコットである'''マーくん'''は3代目で[[カモメ]]がモチーフ。[[ペットマーク]]等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている<ref>[http://www.city.chiba.jp/senkyo/poster.Jpg 千葉市]{{リンク切れ|date=2015年10月}}</ref>。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国の[[ロッテ・ジャイアンツ]]にもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似のマスコット(イラストではユニフォーム・キャップなどの色違い)が制定されており、日本のマーくんにあたる'''ヌリ'''がペットマークに使用されている。
 
;マーくん
 
: 6歳・メインキャラクター
 
: ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。
 
: [[チーム・マイナス6%]]メンバー(744号)
 
:1992年に登場。着ぐるみは数度変更されており、ペットマークに導入された際に現在のルックとなった。
 
: 2012年3月1日からは[[Twitter]]のアカウントが独立<ref>{{Cite web |date = 2012-03-01 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/8743.html |title = マリーンズ公式マスコットキャラクター『マーくん』公式twitterアカウントを開設!! |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2012-04-02 }}</ref>。元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している(2012年4月現在)。千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。[[つば九郎]](スワローズのマスコット)曰く意外とマクドナルドが好きとのこと。生粋のアイドルヲタクである。
 
; リーンちゃん
 
: 4歳・マーくんの彼女
 
: [[ポニーテール]]でピンクのサンバイザーに白のトレーナーもしくはピンク系のスタジアムジャンパー・白またはピンクのプリーツミニスカート姿。
 
: 「M☆splash!! ダンスアカデミー」の校長を務めている。
 
: チーム・マイナス6%メンバー(745号)
 
; ズーちゃん
 
: 3歳・マーくんの弟
 
: 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。
 
: チーム・マイナス6%メンバー(746号)
 
; クール(COOL)
 
: [[イワトビペンギン]]をモチーフに[[サングラス]](登場当初はビン底メガネ。環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)。
 
: 「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたハッピやチーム・マイナス6%のロゴ入りのビジターユニフォーム(背番号なし)などを着用。
 
: マリーンズ誕生後の[[1992年]]、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。[[2005年]][[8月3日]]、謎の新マスコットとして突然デビュー。[[8月24日]]に名前が正式発表される。登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、のちに正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。
 
: [[2006年]]8月に[[小池百合子]]環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。チーム・マイナス6%メンバー(546号)。
 
: [[2007年]]4月にテーマ曲「COOLだぜ!」(作詞・作曲・演奏 [[伝承歌劇団-エウロパの軌跡-]])が作られた。
 
: [[運転免許]](普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。
 
: 2017年2月5日を持って、卒業
 
 
 
いずれも基本的にはしゃべらないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しくしゃべる(声優不明)。また、イベント限定キャラクターとして、まれに[[コアラ]]の「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
 
 
 
;謎の魚
 
2017年5月より登場した新キャラクター。名前は「魚」としか表記されていない。第一形態は魚にあんこうのような提灯が点いた姿でスコアボードのビジョンに登場、第二形態はチョウチンアンコウのような見た目に、スリムな足が生えるという奇抜な出で立ちで現実世界に登場、この独特な見た目が話題となり、MLBのサイトでも紹介された。そして6月11日、第三形態として中身の骨が飛び出るという衝撃的なパフォーマンスを行い話題を呼んだ。この際は、再び第二形態に戻って退場している。
 
 
 
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には謎の魚を除く4人が[[浴衣]]を着たり、[[アロハシャツ]]に[[半ズボン]]・麦藁帽子姿になったりする。
 
; 過去のキャラクター
 
* 初代[[マスコット]]は東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。
 
* 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。
 
 
 
== 営業・ファンサービス ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
[[瀬戸山隆三]]が球団代表に就任し、[[ボビー・バレンタイン]]が監督に復帰した[[2004年]]以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。[[プロ野球再編問題 (2004年)|プロ野球再編問題]]によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。[[セ・パ交流戦]]の際にこれを見た[[阪神タイガース]]前オーナーの[[久万俊二郎]]は「これこそファンサービス」と感動したという。また、[[京葉線]]の最寄り駅の[[海浜幕張駅]]の[[発車メロディ]]も2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
 
 
 
=== ボールパーク化構想 ===
 
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、[[幕張海浜公園]]の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
 
 
 
[[プロ野球再編問題 (2004年)#第2の合併|2004年のプロ野球再編問題における10球団構想]]では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、さらに2006年度からは[[指定管理者制度]]を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの[[指定管理者]]に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
 
 
 
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他[[2009年]]には、[[広島東洋カープ]]が同年開場した本拠地の[[MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島]]の指定管理者となった他、[[都市公園法]]に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、[[オリックス・バファローズ]]が2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていた[[神戸総合運動公園野球場|ほっともっとフィールド神戸]]と、2005年以後の[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の本拠地の[[宮城球場|フルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城]]の例がある。また、2016年には、管理許可のもとで[[横浜スタジアム]]を運営していた[[第三セクター]]の株式会社横浜スタジアム<!--球場自体と区別するために「株式会社」まで入れています-->を、[[横浜DeNAベイスターズ]]が[[株式公開買付け|友好的TOB]]により買収している。
 
 
 
=== 360度全席自由席 ===
 
ロッテは[[2005年]]から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
 
 
 
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対[[福岡ソフトバンクホークス]])が中止となったことから([[#韓国での公式戦開催構想|後述]])、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
 
 
 
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、[[ビアガーデン]]のように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌[[2006年]]シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
 
 
 
[[2007年]]はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。また、ゲストとして[[渡辺真知子]]を招聘するなど(一部[[#「かもめが翔んだ日」|後述]])、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
 
 
 
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
 
 
 
マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円)。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
 
 
 
=== その他の営業・ファンサービス ===
 
* 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後に[[花火]]が打ち上げられる。そのうちの1試合で開催される「[[京成グループ]]花火ナイター」は毎年恒例となっている。
 
** 2007年度は平日のナイターは18時15分開始、週末は18時からの開始となっていた。2009年度は金曜日以外の平日は18時15分、金曜ナイターのみ週末の初日で多くのファンを確保したいという観点で18時30分の開始<ref group="注">18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]本拠地最終年となった1990年の主催ナイターを18時半に全て開始した事例がある。セ・リーグでは[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]が1989年まで[[明治神宮野球場|神宮]]での試合を大学野球の都合もあり、通年で18時半開始としていた他、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]も2009年の火曜日の一部の試合でテレビ中継(当時19時55分から21時48分にナイターを放送)の都合上18時半開始とした試合があった。</ref>となった。また、週末開催のナイターは土曜日のみ18時からは変わらないが、日曜日は薄暮デーゲームとして17時から行う<ref group="注">平日のナイターで開始を15分ずれこませているのは、当初の18時開始では仕事終了後だと「試合開始に間に合わない」、18時30分開始では「帰宅時間が遅れる」という苦情が出たことや、駅からやや時間がかかるためでもある。</ref>。
 
** また、この時期になると[[冠スポンサー]]である[[京成グループ]]([[京成電鉄]]・[[新京成電鉄]]{{#tag:ref|2013年からはペナントレース期間中に球団のラッピング電車を独自に運行している<ref>{{Cite web|url=http://rail.hobidas.com/rmn/archives/2013/04/88008801.html|title=【新京成】8800形8801編成 "伊東マリーンズ号"として運行開始|work=鉄道ホビダス|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|date=2013-04-01|accessdate=2016-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.marines.co.jp/news/detail/12981.html|title=新京成電鉄にてラッピング電車「2014マリーンズ号」を運行!! |publisher=千葉ロッテマリーンズ|date=2014-03-25|accessdate=2016-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.shinkeisei.co.jp/topics/2015/3020/|title=千葉ロッテマリーンズのラッピング電車「2015マリーンズ号」を運行(3/24〜9月末)|publisher=新京成電鉄|date=2015-03-26|accessdate=2016-12-03}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.marines.co.jp/news/detail/17025.html|title=新京成電鉄にてラッピング電車「2016マリーンズ号」を運行!! |publisher=千葉ロッテマリーンズ|date=2016-04-05|accessdate=2016-12-03}}</ref>。|group="注"}}・[[北総鉄道]])の車両で「花火ナイター号」が運行される。
 
* [[始球式]]は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。
 
* [[チアリーダー|チア・パフォーマー]]チーム[[M☆Splash!!]]がホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。
 
* 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。
 
* 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「[[Take Me Out to the Ball Game]]」が演奏されていた(現在は「[[マリンに集う我ら]]」)。
 
* 地元千葉県の[[地方銀行]]である[[千葉興業銀行]]が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団[[定期預金]]」を販売している。
 
* 2010年、2013年の[[クライマックスシリーズ]]では全試合において千葉マリンスタジアムで[[パブリックビューイング]]が行われた。入場無料ながら特別ゲストに[[立川隆史]]を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市市長の[[熊谷俊人]]も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。
 
* 2013年から交流戦では他球団を挑発するポスターが毎年制作されている<ref>[http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20140521/CK2014052102000150.html ロッテが今年も挑発ポスター 「惨劇の」巨人? 竜?コアラ?] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140525233831/http://www.tokyo-np.co.jp/article/chiba/20140521/CK2014052102000150.html |date=2014年5月25日 }} 東京新聞{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。2015年のクライマックスシリーズ時には対戦相手のファイターズとホークスに対する挑発ポスターを制作した。結果はファーストステージでは2勝1敗でファイターズを下したものの、ファイナルステージではホークスに3連敗(アドバンゲージ1勝を除く)し終戦。ポスター内にあった[[下克上]]を意味する「二度ある事は三度ある」を達成することはできなかった<ref>{{Cite news |title = ホークス戦!千葉ロッテが恒例の「挑発」ポスター公開 |newspaper = 福岡のニュース |date = 2015-10-14 |url = http://twitfukuoka.com/?p=37695 |accessdate = 2015-10-18 }}</ref>。2016年のクライマックスシリーズ時にはファイナルステージに進出した際に対戦相手のファイターズ対する挑発ポスターを制作したが、結果はファーストステージで2敗で敗れ、一時はお蔵入りの危機に瀕していたが、「来季は大谷投手に勝る存在感で優勝して欲しいとの思いから、あえて公開しました」という理由で2016年12月5日に公開された。内容は「二刀流対伊東(いっとう)流」である<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1747926.html ロッテ幻の挑発ポスター公開「二刀流vs伊東流」] 日刊スポーツ 2016年12月6日</ref>。
 
* 2016年4月29日に開催された対北海道日本ハムファイターズ戦では、隣接する[[幕張メッセ]]で同日開催された「[[ニコニコ超会議|ニコニコ超会議2016]]」とタイアップ、『超野球』と題して当日のニコニコ超会議入場券所持者は特別に用意された「超野球観戦シート」にて入場無料で観戦できるようにした。また当日は、7回裏直前にフィールド内での[[ジェット風船]]片づけ作業体験や、球場内で来場者が生放送配信できる「超野球ユーザー生放送」などの企画も合わせて実施された<ref>{{Cite web |title = “ニコニコ超会議2016”の詳細情報が発表! 今年は幕張メッセ全エリアに加え、QVCマリンフィールドも会場に |publisher = ファミ通.com |date = 2016-02-17 |url = http://www.famitsu.com/news/201602/17099624.html |accessdate = 2016-02-18 }}</ref>。
 
 
 
=== 公式ファンクラブ『TEAM26』 ===
 
球団公式ファンクラブ『'''TEAM26'''』があり、プレミアムゴールド・ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・マリーンズ(無料)の6コースがある。前売りチケットやグッズの購入で'''Mポイント'''を貯めることが出来る。かつての「'''TEAM26'''」会員証は[[楽天Edy]]機能搭載の[[ANAマイレージクラブ|AMC]]カード一体型だった。
 
 
 
== 独立リーグへの派遣構想(2007年) ==
 
[[2007年]]10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の[[瀬戸山隆三]]は、5 - 8人程度の[[育成選手制度 (日本プロ野球)|育成選手]]を獲得した上で、[[独立リーグ]]である四国アイランドリーグ(現:[[四国アイランドリーグplus]])の[[徳島インディゴソックス]]に派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「[[イースタン・リーグ]]の混成チームであるフューチャーズ<!-- リンク先は曖昧さ回避のページであるためリンクしない -->の活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、[[日本野球機構|NPB]]内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
 
 
 
2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名([[池田健 (野球)|池田健]]、[[宮本裕司]]、[[小林憲幸]]、[[白川大輔]]、[[大谷龍次]])は、支配下登録を受けた1名(宮本)を除き2009年のシーズン終了後に[[戦力外通告]]を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた[[長崎セインツ]]へ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。
 
 
 
約4年半が経過した[[2012年]]3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusと[[ベースボール・チャレンジ・リーグ]]へ選手の派遣を認めた<ref>{{Cite web |author = 石田洋之 |date = 2012-03-01 |url = http://www.ninomiyasports.com/sc/modules/bulletin02/article.php?storyid=5685 |title = 独立リーグ結果&ニュース : 育成選手の独立リーグ派遣OKに |publisher = スポーツコミュニケーション |accessdate = 2015-10-28 }}</ref>。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は[[広島東洋カープ]]・[[オリックス・バファローズ]]・[[中日ドラゴンズ]]・[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]・[[埼玉西武ライオンズ]])。
 
 
 
[[2014年]]3月にベースボール・チャレンジ・リーグの[[福井ミラクルエレファンツ]]と業務提携を行い、ロッテ球団職員の[[荘勝雄]]がトレーニングコーチとして派遣されることになった<ref>{{Cite news |title = ロッテ、BCリーグの福井と指導者派遣の業務提携で合意 |newspaper = サンケイスポーツ |date = 2014-03-06 |url = http://www.sanspo.com/baseball/news/20140307/mar14030704420000-n1.html |accessdate = 2015-10-28 |publisher = 産業経済新聞社 }}</ref>。
 
 
 
== ユニフォームの変遷 ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
=== 東京・仙台・川崎時代 ===
 
==== 毎日時代 ====
 
* [[1950年]](シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。
 
** 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。
 
** 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。
 
*** 胸マークについては、[[2005年]]発行の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』(著:[[綱島理友]]・絵:綿谷寛)では、赤となっているジン着写真(当時発売されたブロマイド)が掲載されているが、著者の綱島は「胸マークには赤は無かったとも思われる」として、綱島が推定した上で濃紺に塗り変えた写真も一緒に掲載している。
 
* 1950年 - [[1957年]] - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時の[[ロサンゼルス・ドジャース]]をイメージして作られた。1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた([[1951年]]からは[[月桂樹]]の枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。[[1952年]]シーズン途中から[[1955年]]は[[平和台事件]]を起こした責任を取る形で廃止したが、[[1956年]]には「Orions」ロゴが入る形で復活)。
 
** シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。
 
** アンダーシャツは、濃紺。
 
** 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。濃紺。[[1950年]])、「Orions」(セリフ風書体。濃紺・白縁取り。1950年シーズン後半より使用)。
 
** 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。[[1950年]]には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。
 
** [[1956年]]には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、[[1957年]]には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク([[ニューヨーク・ヤンキース]]の「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。
 
 
 
==== 大毎→東京オリオンズ時代 ====
 
* [[1958年]] - [[1965年]] - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。また、大映からゴシック体の番号フォントが継承された。ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、[[1960年]]から「TOKYO」に変更される。この間、[[野球の背番号|腰番号や胸番号]]が付く。
 
** 帽子マークは、1958年に「D」と「M」を重ねたマークが採用。[[1960年]]は左上よりに「D」右下よりに「M」の字を絡ませたマーク、その後[[1961年]]、[[1962年]](「O」マーク)、[[1965年]](「T」と「O」を絡ませたようなマーク)に帽子マークの変更を行った(いずれも白色)。
 
** ビジター用は最初上下グレー地だったが、1960年はブルーグレー地に白の縦じまが入ったものを使用。翌年以降は再びグレー地となった。
 
* [[1966年]] - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中の[[6月22日]]の対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持った[[桃太郎]]のイラストが描かれたもの)がつく。
 
** 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。
 
* [[1967年]] - [[1968年]] - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。このデザインはロッテになってからも引き継がれた。帽子は、濃紺地に白文字の「T」。
 
 
 
==== ロッテ時代 ====
 
* [[1969年]] - [[1972年]] - 株式会社[[ロッテ]]が[[命名権|スポンサー]](1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。ユニフォームは東京時代のスタイルを踏襲(ただし、紺→青になる)。ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「'''LOTTE'''」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。背番号(赤色)はオリジナル書体。また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。
 
* [[1973年]] - [[1991年]] - [[金田正一]]の監督就任に伴い、ユニフォームを一新。帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。また、金田のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅(基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみを表したということ)。また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る<ref group="注">このときのユニホームデザインは、韓国・ロッテジャイアンツのユニホームにも応用された。</ref>。
 
** ホーム用はオフホワイト地。
 
** ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。
 
** 翌[[1974年]]より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。
 
** [[1984年]]より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。
 
** [[1989年]]より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。
 
*** 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。
 
** 背番号の書体の中で「'''1'''」については、下に「'''_'''」の付かないスタイルであったが、背番号1の選手([[ジム・ラフィーバー]]→[[ラファエル・バチスタ]]→[[高橋博士]]→[[愛甲猛]])については「_」が付いていた。
 
 
 
=== 千葉時代 ===
 
* [[1992年]] - [[1994年]] - 本拠地が[[千葉市]]に移転し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」となり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。
 
** 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。
 
** シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。
 
*** 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。
 
** 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。
 
** 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。
 
** 背番号の「'''1'''」の書体は、「_」の無いもの(ただし、左上の欠けていない書体)が引き続き採用されたが、背番号1の愛甲猛については引き続きオリオンズ時代と同様の書体が採用された。
 
* [[1995年]] - [[2003年]] - [[千葉ロッテマリーンズ#先祖帰りのユニフォーム|後述]]する事情から、[[広岡達朗]][[ゼネラルマネージャー|GM]]の提案によりユニフォームを一新。チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、[[シカゴ・ホワイトソックス]]を模したデザインになる。さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていたため、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークの[[刺繍]]が入る)。ちなみにビジターユニフォームの胸の文字はホームユニフォームの“M”に対し、“Marines”の文字が入ったものだった。また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。
 
** [[1997年]] - 夏季の週末のホームゲーム限定で白地に黒の「M」マークを入れた「サンデーキャップ」を採用。(初登場は7月20日のダイエー18回戦<ref>[https://www.marines.co.jp/company/history.php チームヒストリー1997]</ref>。)
 
** [[1998年]] - 夏季の週末のホームゲーム限定で「サマーユニフォーム」を採用。日本では中日に次いで2チーム目の採用となるノースリーブでロゴはビジター用と同じ「Marines」。キャップはつばの部分をグレーに変更。
 
* [[2000年]] - [[2004年]] - ビジターでの負けが多いことから、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。
 
** [[2003年]] - 2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。このサードユニフォームの胸の文字はホームユニフォームと同じ“M”であり、胸番号は無く、背番号の上には選手の名前が書かれていないものだった。このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。おおむね、同時期の[[阪神タイガース]]のビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。
 
* [[2004年]]  -[[2007年]] - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。
 
** [[2005年]]よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「'''誠'''(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「'''侍'''(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「'''戦'''(いくさ)」とした。また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。黒地のビジターユニフォームの胸の文字が“Marines”から帽子のマークと同じ“M”に変更され、濃いピンクのラケットラインが入る。パンツも「誠」と同じものへ変更。「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。(基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択する[[清水直行]]さえ縁起担ぎで「誠」を使用。ポストシーズン([[プレーオフ制度 (日本プロ野球)|プレーオフ]]・[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]・[[アジアシリーズ]])のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。
 
** しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中の[[5月14日]]の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦の1回だけで、先発の[[ダン・セラフィニ]]がこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。
 
** [[2006年]] - [[2009年]] - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。
 
* [[2008年]] - [[2009年]] - [[デサント]]社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。
 
** [[2009年]] - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。図案は“ORIONS-MARINES”のアーチと“40th ANNIVERSARY”“1969-2009”の帯で囲まれた中に、青空と海をバックに歴代のユニフォームを模した色(左からオリオンズ初代、オリオンズ2代目、マリーンズ初代、マリーンズ現行)で空を飛ぶ4羽のカモメ。
 
* [[2010年]] - [[2013年]] - バレンタイン監督の退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。チームカラーの一つとされていた赤が消えた。ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。帽子は従来の黒帽子で統一された。右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。右胸のワッペンスポンサーが[[ハートフォード生命保険]]から[[ネクソン]]に変わる。なお、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。
 
* [[2014年]] - 現在 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。また、ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。胸ロゴが「Marines」(胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り)、背ネームは白字。両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。なお、ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字はなし。ズボンはグレーで、サイドの腰から膝までの部分のみ赤のラインが入る。帽子は黒でロゴが「M」(白字で赤で縁取り)、ツバの縁が赤。また、ホーム、ビジター共にズボンに[[オカムラホーム]]の広告が入る<ref>{{Cite web |date = 2014-01-26 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/12721.html |title = 新ビジターユニフォーム発表のお知らせ |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-28 }}</ref>。ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。
 
** [[2015年]] - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、キャップ左即部に[[ダイユウホーム]]の広告が入る。
 
** [[2017年]] - このシーズンよりサプライヤーがデサントから[[マジェスティック・アスレティック]]に変更される。大きなデザインの変更はないが、刺繍から昇華プリントに変更され軽量化が図られた他、選手名・背番号の字体などが変更される。広告はキャップ左即部が[[住宅情報館]]、右胸のワッペンが[[ガンホー・オンライン・エンターテイメント|GungHo]]、ズボンが[[GMOインターネット|GMO]]にそれぞれ変更。
 
** [[2018年]] - このシーズンよりビジター用のズボンがグレーから白に変更<ref>{{Cite web |date = 2018-02-10 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/00001943.html |title = ビジターユニフォーム(パンツ)変更について |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2018-02-13}}</ref>。
 
 
 
=== 限定ユニフォーム ===
 
* [[2008年]][[8月13日]] - [[8月18日|18日]]の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した<ref group="注">この年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。</ref>。
 
** 「'''1'''」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
 
* [[2009年]][[8月18日]] - [[8月20日|20日]]のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。
 
* [[2011年]]、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から1994年までのホームユニフォームを復刻使用している。
 
** 上記の2008年のユニフォーム同様、「'''1'''」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
 
* [[2013年]]、パ・リーグ共同企画「[[レジェンド・シリーズ2013]]」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニホームを復刻。ただし、復刻ユニフォームの右胸には[[ネクソン]]、パンツ左側には[[君津住宅]]の広告が付く。
 
==== "ALL for CHIBA"シリーズ ====
 
* [[2012年]] - [[2015年]]、千葉移転20周年を記念した「Thanks 20 years “ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、白をベースに両肩と両わき腹に黒いライン、胸に黒文字で「CHIBA」と記したロゴが入ったユニホーム(通称:CHIBAユニフォーム)を着用する。なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは1992年の移転後初。一軍の公式戦数試合で着用するほか、二軍の公式戦でも数試合限定で着用。2013年から2015年は埼玉VS千葉シリーズで西武ドームでも着用された。2015年は4月の3連戦において宮城球場でも着用されている。
 
* [[2016年]]、千葉移転25年目を記念した「“ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、CHIBAユニフォームを一新。千葉県公式マスコットキャラクターの[[チーバくん]]の赤・移転当時のユニフォームのサンライズピンクを掛け合わせた「サンライズレッド」をメインカラーとした「新・CHIBAユニフォーム」を着用<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/16635.html |title = 「ALL for CHIBA」新ユニフォームについて |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2016-01-27}}</ref>。胸には球団ロゴを模した「Chiba」ロゴが表記され、胸番号・背番号・選手名ロゴはマリンフェスタユニフォーム(後述)と同様。ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。
 
* [[2017年]] - 、「CHIBAユニホーム」をマイナーチェンジ。胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。前年と同様に「サンライズレッド」をメインカラーとしており、両肩から脇の部分に黒の太いラインが入っている。さらに、キャップ、パンツの裾部分に赤いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現したことが大きな特徴。右袖に本拠地・ZOZOマリンスタジアムのある千葉市、秋季キャンプ地である鴨川市のほか、県内での2軍試合を開催する8都市、合計10都市の名前入りロゴを試合別で掲出する<ref>[http://www.marines.co.jp/special/2017allforchiba/ 「ALL for CHIBA 2017」特設サイト|千葉ロッテマリーンズ]</ref>。翌[[2018年]]は2軍試合開催地が1都市増加し、合計11都市を掲出<ref>[http://www.marines.co.jp/special/2018allforchiba/ 「ALL for CHIBA 2018」特設サイト|千葉ロッテマリーンズ]</ref>。
 
 
 
==== マリンフェスタ ====
 
「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、さらに試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベント。なお、シーズン後に開催されるファン感謝デーは「スーパーマリンフェスタ」と題し、その年に使用された特別ユニフォームを着用する。
 
* [[2015年]]、「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」、「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」を表現した「マリンブルー」をメインカラーに使用した限定ユニフォームを着用<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/event/2015marinefesta/uniform.php |title = マリンフェスタ2015 UNIFORM |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-28 }}</ref>。胸ロゴは「Marines」で、胸番号・背番号・選手名ロゴはホーム・ビジター用とは異なる字体を採用。脇から袖の部分に黒いラインが入る。
 
* [[2016年]]、前年同様「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」、「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」に加え、「海の上に広がる空」をイメージし、青と白色を基調とし裾に向かって薄くなるグラデーションタイプのユニホームを使用。なお、ロッテがグラデーションタイプのユニホームを採用するのは、2008〜2009年に使用されたビジターユニホーム以来となる。ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る<ref>[http://www.marines.co.jp/event/2016marinefesta/uniform.php 「マリンフェスタ2016」ユニホームについて]千葉ロッテマリーンズ</ref>。
 
* [[2017年]]、胸の「Marines」ロゴは海をイメージした青い迷彩柄の中に白いカモメのイラストをデザイン。また、同年の「CHIBAユニフォーム」と同様、キャップ、パンツの裾部分に青いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現している。「CHIBAユニフォーム」と共に、胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00000120.html 「マリンフェスタ2017」新ユニフォームについて]千葉ロッテマリーンズ</ref>。
 
* [[2018年]]、[[井口資仁]]監督就任1年目から「波に乗り」「ウェーブ」を巻き起こすという気持ちを込めて、力強い波をベースにチームの象徴であるカモメを全体にあしらったデザイン。胸の「MARINES」ロゴは前年までと異なって全て大文字となり、ロッテオリオンズ誕生50年目のシーズンを記念して、1969年にロッテオリオンズとして最初に登場したユニフォームのアーチ型ロゴをモチーフとしたデザインに変更<ref>[https://www.marines.co.jp/news/detail/00001924.html 「マリンフェスタ2018」新ユニフォームについて]千葉ロッテマリーンズ</ref>。
 
 
 
=== 先祖帰りのユニフォーム ===
 
「千葉ロッテマリーンズ」となった[[1992年]]にチームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「[[千葉県]]沖合における[[親潮]]と[[黒潮]]のぶつかり合い」と定義付けられた。
 
* なおOBの[[小宮山悟]]が2018年に『[[ベースボールマガジン]]』のインタビューに語った内容によると、初代ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めたという。しかし結果的にはオーナー代行の[[重光昭夫]]の鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆した、と振り返っている<ref>また小宮山は、最終的な選考結果は選手にもまったく知らされず、知ったのはお披露目記者発表の時が初めてだったと語っている。</ref>。
 
ところが、[[1995年]]に監督に就任した[[ボビー・バレンタイン]]はピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった([[2005年]]に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、[[綱島理友]]の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている<ref>{{Cite book |和書 |author = [[綱島理友]] |coauthors = 綿谷寛 |title = プロ野球ユニフォーム物語 |year = 2005 |publisher = ベースボール・マガジン社 |page = 221 |isbn = 4583038070 }}</ref><ref group="注">このデザインのユニフォームは2016年現在、NPB12球団で最も歴史の長い通常使用のユニフォームとなっており、また2014年で使用20シーズン目となり、1973年から1991年にかけて19シーズン使用されたユニフォームを上回り、球団史上最長使用のユニフォームともなっている。</ref>。
 
<!-- ** この変更については、[[フリオ・フランコ]]の批判により行われたという説もある(当時の[[やくみつる]]の漫画より<ref>「やくやくスポーツらんど」第1巻参照。</ref>) ←これは漫画のネタなのでは? -->
 
* ただし、小宮山悟が前述のインタビューに語った内容によると、上記の批判をしたのはバレンタインではなく[[フリオ・フランコ]]であるという。
 
 
 
=== その他 ===
 
[[2012年]][[8月17日]] - [[8月19日]]の日本ハム戦([[札幌ドーム]])で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。2017年は宮城球場で東北楽天が黒のユニホームを着用するのに伴い、通常のホームユニホームを着用した。
 
 
 
「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。(例外として[[2014年]]は2試合(4月4日と7月31日で、対戦相手は両日ともに同じ[[北海道日本ハムファイターズ]]戦であった)。[[2015年]]・[[2016年]]の対戦相手だった[[福岡ソフトバンクホークス]]はビジター用ユニホームがマリーンズのそれと同じ配色だった為、ホーム用ユニホームでプレイしている。
 
 
 
== 球団旗の変遷 ==
 
{{出典の明記|date=2013年1月|section=1}}
 
* 1950年 - 1970年 - 上から赤・白・青の[[トリコロール]]カラー、左端に☆を三つ。中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。
 
** ちなみに、このトリコロールカラーは当時の親会社・[[毎日新聞社]]のグループ企業にも波及しており[[毎日放送]]や[[スポーツニッポン新聞社]]の[[社旗]]にも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。
 
* 1971年 - 1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。
 
* 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。
 
* 1995年 - 現在 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。
 
 
 
== マリーンズファンと応援スタイル ==
 
{{Main|マリーンズファン}}
 
 
 
== スポンサー ==
 
* ユニフォーム右袖 [[ロッテ|LOTTE]](1992年度 - ホーム用ユニ、マリンフェスタ用ユニ(2015年度 - )に付く。ビジター用ユニは2013年度まで)
 
* ユニフォーム右胸 [[ガンホー・オンライン・エンターテイメント|Gungho]](2017年度 - )
 
* パンツ右側 [[フクダ電子]](2018年度 - )
 
* ヘルメット右側 [[新昭和|クレバリーホーム]]
 
* キャップ左側 [[住宅情報館]](2016年度 - )
 
 
 
== 歴代本拠地 ==
 
* 1950年 - 1962年 [[後楽園球場]] ※1
 
* 1962年 - 1972年 [[東京スタジアム (野球場)|東京スタジアム]] ※1
 
* 1973年 - 1977年 [[宮城球場]] ※2
 
* 1978年 - 1991年 [[川崎球場]]
 
* 1992年 - [[千葉マリンスタジアム]] ※3
 
: ※1 1962年5月まで後楽園を使用、同年6月より東京スタジアムへ移転。
 
: ※2 東京スタジアムの閉鎖に伴う暫定処置。[[1973年]]シーズンは[[プロ野球地域保護権|地域保護権]]を[[東京都]]に置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上の[[専用球場]]としての届け出はこの年できなかった)。同年12月21日の実行委員会で翌[[1974年]]から暫定的に保護地域を[[宮城県]]に移転することが決まり、1974年から[[1977年]]の間は同県を保護地域とした。しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。
 
: ※3 呼称は2011年3月から2016年11月までは「QVCマリンフィールド」、2016年12月からは「ZOZOマリンスタジアム」
 
: なお、埼玉県さいたま市南区には二軍本拠地として[[ロッテ浦和球場]]が存在する。
 
 
 
== 歴代監督 ==
 
* 1950年 - 1952年 : '''[[湯浅禎夫]]'''(登録上は総監督)<ref group="※">1952年は7月27日まで指揮、残り試合は別当薫が代行。</ref>
 
* 1953年 : [[若林忠志]](登録上は1950年 - 1952年も監督<ref group="※">実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。1952年は7月27日までで辞任。</ref>)
 
* 1954年 - 1959年 : [[別当薫]]<ref group="※">ここから毎日大映オリオンズ</ref>
 
* 1960年 : '''[[西本幸雄]]'''
 
* 1961年 - 1962年 : [[宇野光雄]]
 
* 1963年 - 1965年 : [[本堂保次]] <ref group="※">ここから東京オリオンズ</ref>
 
* 1966年 : [[田丸仁]]
 
* 1967年 : [[戸倉勝城]]
 
* 1967年 - 1971年 : '''[[濃人渉]]''' <ref group="※">ここからロッテオリオンズ</ref>
 
* 1971年 - 1972年 : [[大沢啓二]]
 
* 1973年 - 1978年 : '''[[金田正一]]'''(第1次) <ref group="※">1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまでは[[高木公男]]が代行。</ref>
 
* 1979年 - 1981年 : [[山内一弘]]
 
* 1982年 - 1983年 : [[山本一義]]
 
* 1984年 - 1986年 : [[稲尾和久]]
 
* 1987年 - 1989年 : [[有藤通世]]
 
* 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次) <ref group="※">1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまでは[[徳武定祐|徳武定之]]が代行。</ref>
 
* 1992年 - 1994年 : [[八木沢荘六]] <ref group="※">ここから千葉ロッテマリーンズ</ref><ref group="※">1994年は7月31日まで指揮、残り試合は[[中西太]]が代行。</ref>
 
* 1995年 : [[ボビー・バレンタイン]](第1次)
 
* 1996年 : [[江尻亮]]
 
* 1997年 - 1998年 : [[近藤昭仁]]
 
* 1999年 - 2003年 : [[山本功児]]
 
* 2004年 - 2009年 : '''ボビー・バレンタイン'''(第2次)
 
* 2010年 - 2012年: '''[[西村徳文]]'''<ref group="※">優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。</ref>
 
* 2013年 - 2017年: [[伊東勤]]
 
* 2018年 - : [[井口資仁]]
 
※'''太字'''は優勝達成監督
 
{{Reflist|group="※"}}
 
 
 
== 永久欠番 ==
 
2015年現在[[野球界の永久欠番|永久欠番]]は無い。
 
; 準永久欠番
 
* '''8''' [[有藤道世]](1987年-1991年)- 現役引退後欠番となっていたが、1992年の千葉移転後、[[マックス・ベナブル]]が付けたことで永久欠番ではなくなる。後に[[平野謙 (野球)|平野謙]](1994年 - 1996年)、[[清水将海]](1997年 - 2002年)、[[波留敏夫]](2003年 - 2004年)、[[今江敏晃]](2005年 - 2015年)が付けていた。2017年からは[[中村奨吾]]が付けている。
 
* '''26''' [[マリーンズファン]](2005年 - )- 千葉ロッテマリーンズは[[2005年]]度以降、[[野球の背番号|背番号]]26を[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の10番同様にファンのための欠番としている([[出場選手登録|ベンチ入り]]25人に次ぐ「26番目の戦士」の意)。最後に26を付けた選手は[[酒井泰志]](2003年 - 2004年)。試合中はダッグアウトの壁に、個人ネーム無しの背番号26ユニフォームがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、'''TEAM26'''と命名する。
 
 
 
== 主な歴代の球団歌・応援歌 ==
 
* 戦う男達のテーマ([[1960 (音楽グループ)|1960]])
 
* [[わがオリオンズ]](毎日球団の歌)
 
* われらロッテ親衛隊
 
* ビバ!オリオンズ!
 
* [[We Love Marines]]
 
* マリンに集う我ら
 
*: 2010年に作られ、当時の[[千葉マリンスタジアム]]での試合開始前に流れていたが、2011年3月に球場名がQVCマリンフィールドに変わったため使われることが少なくなっている。
 
* マリンフィールドの風
 
* 千葉、心つなげよう
 
*ONE HEART MARINES
 
 
 
== 主なキャンプ地 ==
 
* [[鹿児島市]][[鹿児島県立鴨池野球場|県立鴨池球場]]ほか([[1972年]] - [[1995年]]、[[1997年]] - [[2007年]])
 
* [[アメリカ合衆国]]・[[アリゾナ州]][[ピオリア (アリゾナ州)|ピオリア]]([[1995年]] - [[1998年]])
 
* [[オーストラリア]]・[[ジーロング]]([[2006年]] - [[2007年]])
 
* [[沖縄県]][[石垣市]][[石垣市営球場]]([[2008年]] - 、春季キャンプ)
 
* [[千葉県]][[鴨川市]][[鴨川市営球場]](秋季キャンプ)
 
* [[鹿児島県]][[薩摩川内市総合運動公園]](二軍春季キャンプ)
 
 
 
== キーワード ==
 
=== 最長試合 ===
 
[[1969年]][[10月10日]]、[[日本生命球場]]での[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]戦の[[ダブルヘッダー]]第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。
 
 
 
その後、この日本最長記録は更新(全て[[セントラル・リーグ]]、または[[セ・パ交流戦]])されているが、[[2009年]][[7月2日]]、[[西武ドーム]]での[[埼玉西武ライオンズ]]戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。
 
 
 
また、ポストシーズンでは[[1981年]]の[[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]、[[川崎球場]]での[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]との第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。[[2010年]]の[[2010年の日本シリーズ|日本シリーズ]]、[[ナゴヤドーム]]での[[中日ドラゴンズ]]との第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。
 
 
 
=== 幻の合併計画 ===
 
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に[[大映ユニオンズ]]と合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
 
; 1973年、日拓との合併構想
 
[[1973年]]、ロッテオリオンズは[[ジプシー・ロッテ|ジプシー時代]]最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]はオーナー企業の経営難等により、同年[[2月7日]]に球団の経営権が[[東映]]から[[日拓ホーム]]に譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]も[[読売ジャイアンツ]](巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人の[[V9 (読売ジャイアンツ)|V9]]を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、さらに1リーグ制への移行を画策し始めた。
 
 
 
前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・[[重光武雄]]も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
 
 
 
しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものもほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を[[日本ハム]]に売却、事態は収束した(この一連の詳細は[[プロ野球再編問題 (1973年)]]を参照)。
 
; 2004年の球界再編問題
 
また[[2004年]]には、[[大阪近鉄バファローズ]]とオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらなる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細は[[プロ野球再編問題 (2004年)]]を参照)。
 
 
 
この過程でロッテは、当時親会社[[ダイエー]]の経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は[[福岡ドーム]]、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]を合併して、「ロッテライオンズ」、[[東京ヤクルトスワローズ]]と合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが<ref group="注">両計画とも、本拠地は千葉マリンスタジアムとすることを構想していた。</ref>、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。
 
 
 
結局同年オフ、ダイエーは[[産業再生機構]]の支援を受けて経営再建を図ることとなり、ホークスは[[ソフトバンクグループ|ソフトバンク]]に売却されて[[福岡ソフトバンクホークス]]となった。
 
 
 
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており([[命名権|球団名のスポンサー]]としては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
 
 
 
なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、[[平和台野球場]]への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。
 
 
 
=== ライオンズとの遺恨 ===
 
{{Main|ライオンズとオリオンズの遺恨}}
 
 
 
=== 悪夢の18連敗 ===
 
{{seealso|1998年の千葉ロッテマリーンズ}}
 
[[1998年]]、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「'''悪夢の18連敗'''」と記されている<ref>{{Cite web |url = http://www.marines.co.jp/company/history.php |title = チームヒストリー 1998 |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2015-10-26 }}</ref>。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center;"
 
!試合日!!ビジター!!スコア!!ホーム!!備考!!開催球場!!勝敗!!責任投手
 
|-
 
|[[6月12日]]||オリックス||1 - 2||'''ロッテ'''||||千葉マリン||○||[[黒木知宏]]
 
|-
 
|[[6月13日]]||'''オリックス'''||6 - 4||ロッテ||||千葉マリン||●||[[小宮山悟]]
 
|-
 
|[[6月16日]]||ロッテ||8 - 12||'''近鉄'''||||[[藤井寺球場|藤井寺]]||●||[[竹清剛治]]
 
|-
 
|[[6月17日]]||ロッテ||6 - 9||'''近鉄'''||||藤井寺||●||[[近藤芳久]]
 
|-
 
|[[6月18日]]||ロッテ||5 - 7x||'''近鉄'''||延長11回||藤井寺||●||竹清剛治
 
|-
 
|[[6月19日]]||ロッテ||0 - 7||'''日本ハム'''||||[[東京ドーム]]||●||小宮山悟
 
|-
 
|[[6月20日]]||ロッテ||2 - 3||'''日本ハム'''||||東京ドーム||●||黒木知宏
 
|-
 
|[[6月21日]]||ロッテ||10 - 11x||'''日本ハム'''||||東京ドーム||●||黒木知宏
 
|-
 
|[[6月23日]]||ロッテ||0 - 4||'''西武'''||||[[富山市民球場アルペンスタジアム|富山市民]]||●||[[薮田安彦]]
 
|-
 
|[[6月24日]]||ロッテ||5 - 6x||'''西武'''||延長11回||富山市民||●||竹清剛治
 
|-
 
|[[6月26日]]||'''近鉄'''||3 - 1||ロッテ||延長11回||千葉マリン||●||[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]
 
|-
 
|[[6月27日]]||'''近鉄'''||3 - 1||ロッテ||||千葉マリン||●||[[武藤潤一郎]]
 
|-
 
|[[6月28日]]||'''近鉄'''||6 - 2||ロッテ||||千葉マリン||●||[[ジョー・クロフォード|クロフォード]]
 
|-
 
|[[6月30日]]||西武||5 - 5||ロッテ||延長12回||[[福井県営球場|福井県営]]||△||--
 
|-
 
|[[7月1日]]||'''西武'''||7 - 4||ロッテ||||[[石川県立野球場|石川県立]]||●||[[礒恒之]]
 
|-
 
|[[7月3日]]||'''ダイエー'''||4 - 3||ロッテ||||千葉マリン||●||小宮山悟
 
|-
 
|[[7月4日]]||'''ダイエー'''||10 - 7||ロッテ||延長11回||千葉マリン||●||礒恒之
 
|-
 
|[[7月5日]]||'''ダイエー'''||10 - 3||ロッテ||||千葉マリン||●||クロフォード
 
|-
 
|[[7月7日]]||ロッテ||3 - 7x||'''オリックス'''||延長12回||[[神戸総合運動公園野球場|GS神戸]]||●||藤田宗一
 
|-
 
|[[7月8日]]||ロッテ||4 - 6||'''オリックス'''||||GS神戸||●||薮田安彦
 
|-
 
|[[7月9日]]||'''ロッテ'''||9 - 6||オリックス||||GS神戸||○||小宮山悟
 
|}
 
 
 
=== 1試合最多得点完封勝利試合 ===
 
{{main|千葉ロッテマリーンズ 26-0 東北楽天ゴールデンイーグルス}}
 
[[2005年]]の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。
 
 
 
開幕戦となった[[3月26日]]の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌[[3月27日|27日]]の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の[[渡辺俊介]]が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
 
 
 
26点差での完封勝利は[[1946年]][[7月15日]]、[[富山県]]の[[高岡工業専門学校 (旧制)|高岡工業専門学校]]グラウンドでの公式戦で[[福岡ソフトバンクホークス|近畿グレートリング]]が[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]を相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の[[1950年]][[5月31日]]に対[[北海道日本ハムファイターズ|東急フライヤーズ]]戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
 
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
 
!&nbsp;!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
 
|-
 
!楽天
 
|0||0||0||0||0||0||0||0||0||0
 
|-style="background-color: pink;"
 
!ロッテ
 
|2||11||1||0||1||4||0||7||x||26
 
|}
 
 
 
=== 韓国での公式戦開催構想 ===
 
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から[[大韓民国|韓国]]と[[台湾]]での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、[[釜山広域市|釜山]]の[[社稷野球場|社稷(サジク)野球場]]、[[ソウル特別市|ソウル]]の[[蚕室総合運動場野球場|蚕室(チャムシル)総合運動場野球場]]で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球の[[LGツインズ]]と[[斗山ベアーズ]]の2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である[[仁川広域市|仁川]]の[[文鶴野球場|文鶴(ムナク)野球場]]での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
 
 
 
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は[[#360度全席自由席|前述]])。
 
 
 
=== 1イニング最多記録を7つ樹立 ===
 
ロッテは[[2009年]][[6月11日]]の対[[広島東洋カープ]]4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の'''太字'''は新記録及びタイ記録)。
 
 
 
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの、打者2巡・'''1イニング打者20人'''はこれまでの18人を更新する新記録。'''1イニング15得点'''、'''1イニング15打点'''も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の[[井口資仁]]から15人目の[[里崎智也]]まで3四死球を挟んで記録した'''10打数連続安打'''は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後には[[チェイス・ランビン]]と[[今江敏晃]]も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する'''15者連続出塁'''の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。さらにこの間、井口からランビンまで記録した'''14連続得点'''も、[[1992年]][[7月26日]]に[[オリックス・バファローズ|オリックス・ブルーウェーブ]]が対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]21回戦([[神戸総合運動公園野球場|GS神戸]])で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
 
 
 
また、この回先頭の[[福浦和也]]は2打席目に代走を送られたが、続く[[大松尚逸]]は日本プロ野球史上初の'''1イニング3打席'''を記録した。だが2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れ、試合後には「不思議な感じ。自分はアウトを2つ取られた。損したのか得したのか分からない」と苦笑いしていた。
 
 
 
結局ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2で圧勝。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の[[2005年]][[6月12日]]に[[読売ジャイアンツ]]が対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]6回戦([[東京ドーム]])で記録した19得点を更新する'''セ・パ交流戦最多得点'''の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。
 
 
 
ロッテは前日の[[6月10日]]、広島先発の[[コルビー・ルイス]]に苦しめられるなど11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに、試合後の[[ボビー・バレンタイン]]監督は「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島の[[マーティ・ブラウン]]監督は「まるでラグビーだね」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だ」と悔しさをにじませていた。
 
 
 
球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、[[8月1日]]から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。
 
 
 
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
 
!&nbsp;!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
 
|-
 
!広島
 
|0||2||0||0||0||0||0||0||0||'''2'''
 
|-style="background-color: pink;"
 
!ロッテ
 
|0||2||5||0||0||'''15'''||1||0||x||'''23'''
 
|}
 
* ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)
 
** 福浦 左前安打
 
** 大松 三飛
 
** 井口 中前安打
 
** 橋本将 右前安打 (1)
 
** サブロー 四球
 
** 里崎 中前安打 (1)
 
** ランビン 左前安打 (1)
 
** 今江 四球 (1)
 
** 早坂 死球 (1)
 
** 福浦 右前安打 (1)
 
** 大松 右二塁打 (2)
 
** 塀内 右前安打 (2)
 
** 橋本将 中前安打
 
** サブロー 中前安打 (1)
 
** 里崎 中前安打 (1)
 
** ランビン 死球
 
** 今江 遊ゴロ失策 (1)
 
** 田中雅 中犠飛 (1)
 
** 堀 中前安打 (1)
 
** 大松 右飛
 
 
 
=== 1イニング最多連続打席安打 ===
 
[[2010年]][[6月7日]]の対東京ヤクルトスワローズ4回戦([[明治神宮野球場]])で、7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
 
 
 
ロッテは1点ビハインドのこの回、一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに、[[南竜介]]の左前安打から連打攻勢がスタート。代打[[青野毅]]が中前安打で満塁とすると、[[西岡剛 (内野手)|西岡剛]]の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルト先発の[[村中恭兵]]をKOした。さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて[[金泰均 (1982年生の内野手)|金泰均]]が15号満塁、[[サブロー]]も10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回った[[フアン・ムニス]]が二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成。そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成した。
 
 
 
青野の代打で送られた[[岡田幸文]]が三塁ゴロに倒れ、連続記録はストップ。岡田は試合後「すみません。知りませんでした」と平身低頭だった。同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックス・バファローズが対広島東洋カープ4回戦(福山市民球場)の6回表に、やはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。試合は結局14-2で大勝。[[西村徳文]]監督は試合後「同じ日に同じ事をやるとは思わなかった」と驚嘆しつつも、報道陣の「もう1本続いていれば単独新記録だった」という問いに対しては「そんな贅沢は言ってられない。よく繋いでくれた」と笑顔を見せ、快挙を達成したナインを讃えた。
 
 
 
{|class="wikitable" style="text-align:center;"
 
!&nbsp;!!1!!2!!3!!4!!5!!6!!7!!8!!9!!計
 
|- style="background-color: pink;"
 
!ロッテ
 
|0||0||1||0||0||0||'''10'''||3||0||'''14'''
 
|-
 
!ヤクルト
 
|0||0||0||0||2||0||0||0||0||'''2'''
 
|}
 
* ロッテ7回表の攻撃(括弧内は得点数)
 
** ムニス 投ゴロ
 
** 里崎 四球
 
** 南 左前安打
 
** 青野 中前安打
 
** 西岡 左前安打 (2)
 
** 今江 中前安打
 
** 井口 三塁安打 (1)
 
** 金泰均 左本塁打 (4)
 
** サブロー 左本塁打 (1)
 
** ムニス 左中間二塁打
 
** 里崎 右中間本塁打 (2)
 
** 南 中前安打
 
** 岡田 三ゴロ
 
** 西岡 遊飛
 
1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したのは、前述のヤクルトに次いでロッテが史上2チーム目。ヤクルトが1度目に達成したのは[[1998年]][[4月22日]]の対[[中日ドラゴンズ]]戦でのもので、2年連続での達成は史上初のケースである。さらにロッテが1イニング10連続以上の得点を記録したのは前述の2005年の楽天戦(10連続)、2009年の広島戦(14連続・プロ野球記録)に次いで、これが通算3度目。2桁連続得点は[[阪神タイガース]]が通算5度と最も多く、ロッテは中日と並んで2位タイ、パ・リーグではオリックスの2度を抜いてリーグ最多である。
 
 
 
加えてこの日開催されたセ・パ交流戦の6試合で、パ・リーグ6球団が挙げた総得点は55得点(オリックス21、ロッテ14、日本ハム13、西武4、ソフトバンク3、楽天0)で、1日あたりのリーグ総得点の新記録も更新している。
 
 
 
=== 鬼門の仙台 ===
 
ロッテは宮城県仙台市の[[宮城球場]]での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた[[1973年]]から[[1977年]]にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
 
 
 
1度目は[[1991年]]から[[1994年]]にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は[[2009年]][[7月9日]]から[[2010年]][[9月19日]]にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年[[4月21日]]に[[郡山総合運動場開成山野球場]]で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた<ref group="注">ロッテはこの他、[[東京ドーム]]で開催された[[2010年]][[4月20日]]の同4回戦でも2-8で敗れている。</ref>[[9月20日]]の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌[[9月21日]]の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
 
 
 
なお、同一球場・同一カードの最多連敗記録は、[[1954年]]から[[1956年]]にかけ、[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]が[[後楽園球場]]での対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]戦で記録した21連敗である。
 
 
 
=== 平日デーゲーム ===
 
平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の[[1950年代]]までは頻繁に、それ以後も少なくとも[[1980年代]]まではリーグ順位決定後の[[消化試合]]や[[ポストシーズン]]を中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、[[2011年]]の[[東日本大震災]]発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム<ref>{{Cite web |author = 荒木重雄 |date = 2011-04-17 |url = http://www.plus-blog.sportsnavi.com/kusaon/article/19 |title = 平日デーゲームの集客は昨対比何%だったか? |work = 草野球オンライン編集長・荒木重雄の“野球界系” |publisher = SportsNavi |accessdate = 2015-10-28 }}</ref>に繰り上げたことがあった<ref group="注">なお同様例は巨人と西武(ドームを本拠としているため、天然光だけではボールが見えにくいなどにより開催が困難なため、主管開催の会場変更・開催日程の変更などが生じた)を除く他の在関東球団のホームスタジアムにおける主管試合でも行われた。</ref>。
 
 
 
その3年後の[[2014年]]、今度は[[春休み]]のファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初<ref group="注">震災前にも、消化試合の日程の関係で、[[ダブルヘッダー]]を含めたデーゲームとなった試合が数例ある。</ref>となる平日デーゲームを[[4月2日]]と[[4月3日]]の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも[[2013年]]最初の平日ナイトゲームとなった同[[4月3日]]に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、[[2015年]]度最初の地元主管試合となる[[4月1日]]と[[4月2日]]の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった<ref>{{Cite news |title = ロッテ 今季も本拠地開幕カードで平日デーゲーム実施 |newspaper = スポーツニッポン |date = 2015-01-22 |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/01/22/kiji/K20150122009675270.html |accessdate = 2015-10-28 }}</ref>。
 
 
 
このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、[[東北楽天ゴールデンイーグルス#平日デーゲーム開催|楽天]]も[[2007年]]以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている<ref group="注">但し楽天の場合、[[仙台市|仙台]]では春先でも夜間は冷えるため開幕当初の平日ナイターは極力避けたいという事情の方が大きい。なお、2015年はこれとは別に、コボスタ花火大会を行うため1試合だけ16時開始の試合を組んでいたが、試合が長引いたため花火大会は後日延期となった。また[[2016年]]度は開幕戦・3月25日のソフトバンク戦を16時、4月1日の西武戦を13時開始に設定した。</ref><ref group="注">この他、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]も週末・休日は札幌ドームでの開催を優先しているため、[[釧路市民球場|釧路]]と[[帯広の森野球場|帯広]]及び[[函館市千代台公園野球場|函館]]での主催試合は平日デーゲームとしている。</ref>。
 
 
 
== 放送 ==
 
=== テレビ・ラジオ中継 ===
 
テレビ中継は全てハイビジョン制作
 
* [[CTCマリーンズナイター]]([[千葉テレビ放送|チバテレ]]):千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像(解説・実況はチバテレ制作)
 
* [[J SPORTS STADIUM]]([[J SPORTS]]):球団の公式映像(解説・実況はJ SPORTS制作。かつては千葉マリンスタジアムビジョン制作協力。現在は[[エキスプレス (制作プロダクション)|Express]]制作協力)2012年で終了
 
* [[FOXスポーツジャパン]]([[ビーエスFOX|fox bs238]]・[[FOXチャンネル]]):球団公式映像。2013年から2014年まで
 
* [[BS12 プロ野球中継]]([[ワールド・ハイビジョン・チャンネル|TwellV]]):2008年シーズンからTwellVでマリーンズ主催試合(公式戦)の内およそ60試合をハイビジョンで生中継。(チバテレ、J SPORTSと同じ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像。解説・実況は球団制作で、後述の動画中継と同じもの)
 
* [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]([[テレビ朝日]]・[[ビーエス朝日|BS朝日]]):年度により放送の有無あり。BS朝日の中継についてはCTCマリーンズナイターの同時中継(2007年まで)、2008年からは上記のTwellVでも使われる球団制作の中継を放送。ただし対巨人の交流戦では実況・解説・テロップと一部映像を自社で差し替える。
 
* [[SAMURAI BASEBALL]]([[TBSテレビ]]・[[BS-TBS]]・[[TBSニュースバード]]):地上波とBS-TBSは実況・解説・テロップは自社で用意するが、映像は公式映像も利用するため、制作クレジットは球団とTBSの連名。2015年から2017年まではTBSニュースバードで後述の動画中継と同じ球団公式映像(スコアテロップはTBSに準拠したデザイン)により主催全試合を中継<ref>{{Cite web |date = 2014-12-26 |url = http://www.tbs.co.jp/newsbird/lineup/baseball/20141226release.pdf |title = CS放送「TBSニュースバード」でプロ野球千葉ロッテマリーンズ主催公式戦全試合を完全生中継 |publisher = [[TBSテレビ|TBS]] |format = PDF |accessdate = 2014-12-26 |deadlinkdate = 2017年9月 |archiveurl = https://web.archive.org/web/20141226084344/http://www.tbs.co.jp/newsbird/lineup/baseball/20141226release.pdf |archivedate = 2014年12月26日 }}</ref>。
 
* [[野球道 (フジテレビ系列)|野球道 〜原点〜]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[BSフジ]]):年度により放送の有無あり。実況・解説・テロップは自社で用意するが、映像は公式映像も利用する。
 
* [[ベースボールLive]]([[テレビ東京]]・[[BSジャパン]]):年度により放送の有無あり。実況・解説は自社で用意するが、映像と一部テロップは公式映像も利用する。
 
* [[NHKプロ野球]]([[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合テレビ]]・[[NHK BS1|BS1]]):BS1の中継のみ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像を利用する。
 
* [[ラジオ日本マリーンズナイター]]([[アール・エフ・ラジオ日本|RFラジオ日本]] なお同局は[[読売新聞グループ]]の一員であり「[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]]」を放送していることにも見られるように、通常は[[読売ジャイアンツ]]戦が主である。対広島戦デーゲームでは[[中国放送]]「[[RCCカープナイター|RCCカープデーゲーム中継]]」への制作協力を実施)
 
* [[文化放送ライオンズナイター]]([[文化放送]]):俳優・[[かわのをとや]]をマリーンズ専任リポーターとして起用
 
* [[Fun!BASEBALL!!]]([[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[BS日本|BS日テレ]]・[[日テレNEWS24]]・[[日テレジータス]]):2018年シーズンから日テレNEWS24により主催試合を中継<ref group="注">編成上の都合により録画放送となり、生放送については[[スカチャン]]で迂回放送することがある。</ref>。BS日テレでも数試合をBS12トゥエルビ・後述の動画中継同様球団制作で放送する<ref group="注">かつて、日本テレビで解説者を務めた[[金田正一]]の監督就任により週末デーゲームを中心に中継を増加させ、時折全国中継も実施したが、千葉移転以後徐々に減少し、2010年代以降はビジター側地元系列局への技術協力による放送のみとなっていた。</ref>。また交流戦のロッテ主催巨人戦では、日テレNEWS24と日テレジータスと並列で生放送する際、前者は球団制作のものをそのまま放送し、後者は日本テレビが別に自社のアナウンサーと解説者を用意して、巨人側の視点を中心とした内容で放送する。
 
;東京球場・ジプシー・川崎球場時代
 
* [[CTCダイナミックナイター]](千葉テレビ。東京球場時代。[[1971年]][[5月1日]]開局の事実上第1号番組は東京球場でのロッテ対東映戦のデーゲーム生放送だった)
 
* [[tvkプロ野球中継 横浜DeNAベイスターズ熱烈LIVE|TVKハイアップ・ナイター(パ・リーグナイター)]]([[テレビ神奈川]]。宮城を主戦場としたジプシー時代と川崎球場時代)<ref group="注">不定期。TVKが担当する大洋(DeNA)、ヤクルトの試合放送がない時に行っていたが、巨人主管試合との重複開催である場合、18時台と21時前からは日本テレビとのリレーナイターをしていたため、ネット局があればその時間は裏送りだった。</ref>
 
* [[TVSヒットナイター]]([[テレビ埼玉]]。川崎を本拠とした時代に年間数試合放送<ref group="注">TVSは基本的に西武に絡む試合(西武主管は[[TBSビジョン]]との提携で「[[TVSライオンズアワー]]」として放送)、または後楽園・東京ドームで行われた日本ハムの主管試合([[東京ケーブルネットワーク]]と提携)をメインとして編成したため、ロッテがビジター扱いとなる西武・日本ハム主管試合の中継で多数登場しているが、西武・日本ハムの試合中継がないか、どちらかがロッテとのビジターゲームとなり、かつTVKが大洋・ヤクルトの試合中継と重複して放送に空きがなかった時に、TVSが川崎球場や平和台球場などの地方球場に乗り込んで試合を放送した事例が何度かあった。</ref>)
 
* [[TBCパワフルベースボール|TBCダイナミックナイター]]([[東北放送]]ラジオ。ジプシー時代、及び川崎球場を本拠としたあとも準本拠として使用していた時代)
 
; 応援番組(いずれも[[文化放送]]のワイド番組で長くやっていたが2017年4月改編を境に応援番組は終了している。<ref>なお、文化放送ライオンズナイターでの対千葉ロッテマリーンズ戦中継時のベンチサイドリポーターにマリーンズ熱血応援レポーターかわのをとや起用は継続している。</ref>)
 
* [[くにまるジャパン]]
 
* [[千田正穂のありがとう!]]→[[高田順次日曜テキトォールノ]]
 
 
 
=== インターネット中継 ===
 
[[パシフィック・リーグ]]は[[セントラル・リーグ]]の球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や[[インターネットテレビ|動画配信]]が非常に盛んであり、IT系の資本である[[福岡ソフトバンクホークス]]や[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]はもちろん、[[北海道日本ハムファイターズ]]も2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
 
 
 
各球団がさまざまな形で主催試合を[[ネット配信|インターネット配信]]している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビ[[GyaO]](ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
 
 
 
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信における[[ポータルサイト]]としての性格が強く、6種類の[[コンテンツ]]をテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
 
 
 
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
 
 
 
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、[[東日本電信電話|NTT東日本]]のインターネット接続サービス「[[フレッツ]]」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
 
 
 
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
 
 
 
2015年からCS放送の配信先が[[TBSテレビ]]運営の[[TBSニュースバード]]に変更されたが、TBSは基本的に制作には関与せず、球団主導型の製作は引き続き維持されている(ただし、スコアテロップのフォントについては、TBSテレビ地上波・BSの中継に準拠したものである)。
 
 
 
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
 
 
 
=== ロッテレビ ===
 
[[ジェイコム千葉セントラル|J:COM 千葉セントラル]]制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内の[[ジュピターテレコム|J:COMグループ]]の[[ケーブルテレビ局]]の[[J:COMチャンネル]](コミュニティチャンネル)で放送されている。
 
 
 
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「'''ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜'''」。タイトルの由来は、“マリーンズ一筋”“マリーンズ命”などの意味から生まれた「'''マリーンズ狂'''」を示す。
 
 
 
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する「ロングインタビュー」や「マークンファミリーの取材」「球団主催行事取材」など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
 
 
 
=== マリーンズ・ベースボール・アカデミー ===
 
{{Main|マリーンズ・ベースボール・アカデミー}}
 
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、[[少年野球]]向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年[[4月4日]]から[[フジテレビジョン]]にて[[東京ヤクルトスワローズ]]が制作協力にあたっている「[[スワローズキッズアカデミー]]」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている[[武藤一邦]]・[[高沢秀昭]]・[[園川一美]]・[[平井光親]]の他、現役のロッテ選手も登場を予定している<ref>{{Cite web |date = 2010-03-02 |url = http://www.marines.co.jp/news/detail/4188.html |title = テレビ野球教室番組『マリーンズ・ベースボール・アカデミー』放送開始のお知らせ |publisher = 千葉ロッテマリーンズ |accessdate = 2010-03-05 }}</ref>。司会進行は[[庄司こなつ]]が担当している。
 
 
 
== ミュージアム ==
 
毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。[[千葉マリンスタジアム#設備]]を参照。
 
 
 
== 関連書籍 ==
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = [[宇佐美徹也]]
 
|title    = 日本プロ野球記録大鑑
 
|publisher = [[講談社]]
 
|year      = 1993
 
|isbn      = 4062061082
 
|ref      = harv
 
}}
 
* {{Cite book |和書
 
|author    = [[井上章一]]
 
|title    = 阪神タイガースの正体
 
|publisher = [[太田出版]]
 
|year      = 2001
 
|isbn      = 4872335651
 
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* {{Cite book |和書
 
|author    = [[永井良和 (社会学者)|永井良和]]
 
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|title    = 南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史
 
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|year      = 2003
 
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== 脚注 ==
 
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=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 関連項目 ==
 
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* [[千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧]]
 
* [[ロッテ・ジャイアンツ]](韓国のプロ野球球団)
 
* [[淑徳大学]] - パートナーシップに関する包括協定を締結している。
 
* [[千葉日報]]・[[千葉テレビ放送|千葉テレビ]] - 応援をしている地元マスコミ。
 
* [[スポーツニッポン]] - [[毎日新聞社]]がかつてオーナー企業だった関係で、祝勝紙面を提供する。
 
* [[千葉ロッテマリーンズの応援団]]
 
* [[千葉商科大学]] - サービス創造学部の公式サポーター企業
 
* [[アストロ球団]] - 漫画作品。アストロ球場のフランチャイズ権(1年間)を賭けて、金田正一監督率いるロッテがアストロ球団と対戦。
 
* [[アストロ球団 (テレビドラマ)]] - 上記のテレビドラマ版。
 
* [[マリーンズマスク]] - 球団をモチーフとした[[覆面レスラー]]。千葉県を活動拠点とする[[KAIENTAI DOJO]]に所属している。
 
* [[浦安鉄筋家族]] - 梅星涙と梅星球道(涙の父)が応援する千葉ロッテマリーンズのトレンドが漫画に現れる。
 
* [[弁当の呪い]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.marines.co.jp/ 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト]
 
* [http://www.marines.co.jp/ 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト]
* {{twitter|Chiba_Lotte|千葉ロッテマリーンズ公式アカウント}}
 
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ロッテグループ > 千葉ロッテマリーンズ

チーム名 千葉ロッテマリーンズ
会社名 株式会社千葉ロッテマリーンズ
加盟団体 パシフィック・リーグ
創設年度 1950年
チーム名の遍歴
本拠地 ZOZOマリンスタジアム千葉県千葉市美浜区
収容人員 30,200人(ZOZOマリンスタジアム)


千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines繁体字: 千葉羅徳海洋隊

日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属。

千葉県保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアム専用球場(本拠地)としている。また、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市南区にあるロッテ浦和球場

脚注

注釈

出典

外部リンク