外戚

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外戚(がいせき)とは、皇帝の母親またはの一族のことである。

概要

親に対する「」を重んじる儒教社会では、君主が人々に対する模範として、率先して母親やその親族に対して礼を尽くすべきであると考えられてきた。

春秋』の注釈書である「公羊伝」の隠公元年春王正月条(すなわち『春秋』の冒頭記事にあたる)の解釈の中に「子以母貴、母以子貴(子は母を以って貴し、母は子を以って貴し)」という文章がある。これは本来、嫡子がおらず庶子の中から後継者を選ぶ際には母親の出自の高い方を選ぶという意味であった。だが、後世に後半の「母以子貴」の部分が強調されて、母親及びその親族に対する尊重の意味に捉えられるようになった。日本桓武天皇延暦9年壬辰12月1日791年1月9日)に外祖父母を追贈した際のにおいて「春秋之義。祖以子貴。此則礼經之垂典。帝王之恒範。」として、礼制に適った行為であることを強調している(『続日本紀』)。

しかし、その奉仕の方法として経済的方法のみならず、社会的・政治的権限までも付与してしまったために、様々な弊害を引き起こした。

各国の外戚

中国

中国においては、寵妃の親族は皇帝によって引き立てられ、顕位に上り権力を振るうことになる。特に後継者争いが生じやすい状況ではその後見人として、皇帝親政において、ある特定の妃を寵愛した場合にその親族が取り立てられ外戚が権勢を振るうことが多い。外戚としても、権勢を振るえるのは現皇帝の寵姫の一族であればこそであり、后が年老いて寵愛を失ったり皇帝の代が変われば、その根源を失うことになる。そうなれば、自らのみならず一族も権勢を失い、溜まった恨みが復讐となったり、新たな外戚により徹底的な弾圧をされかねない(当時、一族皆殺しは普通に行われていた)。このため、自らの保身だけでなく一族の身の安全のためにも、外戚である内に次の皇帝とも外戚となるようにするのは必然といえる。

幼い皇帝が即位した場合、その後見として皇太后が付く垂簾聴政を行うことが多いため、自らの親族を補佐の為に取り立てることも多かった。前漢初期の呂后一族の専横がこれである。また、後漢においては幼帝が続いたために宦官に対抗する権力として外戚を利用したり、外戚を牽制するために宦官を利用するなどしたため、しばしば政治に混乱が生じ、西晋では外戚同士の派閥争いがきっかけにより八王の乱が起こり数百年の動乱が起こるなど、宦官と共に権力を壟断する害悪として常に王朝の頭痛の種になった。

逆には権力を持った外戚らを追放することにより、権力を王中心に持たせる変革を行い、後に始皇帝による中国統一へと繋がった。

日本

日本においては、天皇に自分の娘を嫁がせ次の天皇に成る皇子を産ませ、その皇子を擁立し外祖父として一族の政治力を強化・維持する方法が古代より知られ、磯城氏・三輪氏物部氏尾張氏葛城氏大伴氏蘇我氏藤原氏などによる外戚関係・外戚政治が長年行われていた。平清盛などもそれに倣って外戚政治を行った。その後も西園寺家などの有力公家が天皇家との外戚関係を持って発言力を得る例があったが、家格の固定化とともに外戚の影響力は低下していくことになる。ちなみに三大幕府征夷大将軍を直系尊属に持った天皇は、江戸時代において明正天皇の例があるのみである。

朝鮮

朝鮮半島においては、李氏朝鮮1392年 - 1910年)の時代に王の親族と外戚の官府として敦寧府が置かれ王后の父には正一品の領敦寧府事の官職が与えられた。加えて王妃の父は忠勲府より正一品・府院君が与えられた。

垂簾聴政に伴って外戚が政治権力を持つことがあり、勲旧派の中心人物の一人で仁粋大妃と同じ清州韓氏韓明澮睿宗成宗の外戚であった。

仁宗明宗の治世においては文定王后の弟で仁宗の後宮である淑嬪尹氏の叔父尹元衡が専横を振るった。尹元衡と明宗の妃である仁順王后の外戚・李梁、沈通源は「朝鮮の三凶」と呼ばれた。

李氏朝鮮末の19世紀頃の王の外戚である安東金氏による外戚政治を勢道政治の一つとする。

外戚政治や外戚同士の政争が士禍の一因になることがあった。

朝鮮民主主義人民共和国においても、金正日体制で外戚が側近を務めていた。

大韓民国では歴代大統領の多くが外戚への不正な口利きが原因で逮捕されている[1]

有名な外戚

中国の外戚

モンゴル帝国の外戚

日本の外戚

李氏朝鮮の外戚

北朝鮮の外戚

  • 張成沢(金正日の妹の夫、金正日後継者問題を解決させたと報じられた)

台湾の外戚(鄭氏政権

ベトナムの外戚

脚注

関連項目