「大乃国康」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''大乃国 康'''(おおのくに やすし、1962年10月9日 - ) 昭和後期-平成時代の力士。 昭和37年10月9日生まれ。中学3年のと…」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Infobox 力士
 
|名前 = 大乃国 康
 
|画像 = [[Image:Onokuni 08 Sep.jpg|300px]]
 
|説明 = 芝田山親方
 
|四股名 = 青木康 → 大ノ国康 → 大乃国康
 
|本名 = 青木 康
 
|愛称 = 白熊パンダ・象・スイーツ王子<br />スイーツおじさん・スイーツ親方<br />キング・オブ・スイーツ
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1962|10|9}}
 
|没年月日 =
 
|出身 = [[北海道]][[河西郡]][[芽室町]]
 
|身長 = 189cm
 
|体重 = 210kg
 
|BMI = 58.79
 
|所属部屋 = [[花籠部屋]]→[[放駒部屋]]<ref name="nishonoo23" />
 
|得意技 = 右四つ、寄り、上手投げ
 
|現在の番付 = 引退
 
|最高位 = 第62代[[横綱]]
 
|生涯戦歴 = 560勝319敗107休 (81場所)
 
|幕内戦歴 = 426勝228敗105休 (51場所)
 
|優勝 = [[幕内最高優勝]]2回<br />十両優勝1回
 
|賞 = [[殊勲賞]]5回<br />[[敢闘賞]]2回
 
|初土俵 = [[1978年]]3月場所<ref name="nishonoo23" />
 
|新十両 = [[1982年]]3月場所
 
|入幕 = [[1983年]]3月場所<ref name="nishonoo23" />
 
|引退 = [[1991年]]7月場所<ref name="nishonoo23" />
 
|引退後 = [[芝田山部屋]]師匠<br />日本相撲協会理事(1期)<br />2018年3月 -<br />日本相撲協会副理事(2期)<br />2014年4月 - 2018年3月
 
|他の活動 =
 
|趣味 =
 
|備考 = [[金星 (相撲)|金星]]4個([[北の湖敏満|北の湖]]1個,[[千代の富士貢|千代の富士]]1個,[[隆の里俊英|隆の里]]2個)
 
|作成日時 = [[2018年]][[3月26日]]
 
}}
 
  
'''大乃国 康'''(おおのくに やすし、[[1962年]][[10月9日]] - )は、[[北海道]][[河西郡]][[芽室町]]出身の元[[大相撲力士]]。第62代[[横綱]]。本名は'''青木 康'''(あおき やすし)<ref name="nishonoo23">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ関部屋』p23</ref>。
+
'''大乃国 康'''(おおのくに やすし、[[1962年]][[10月9日]] -
  
== 来歴 ==
+
昭和後期-平成時代の力士。
=== 誕生〜入門 ===
 
[[1962年]]に、北海道河西郡芽室町で牧畜と農業を営む家の長男として生まれる。2歳のときに北海道東部の健康優良児として表彰を受けた。小学校から帰ってくると畑仕事を手伝い、小学校3年の時に、畑の中でトラクターを動かし、刈り取った豆を脱穀機まで運んでいた。小学校4年の時に、実家の牛と預かった近所の農家の牛に水をやり、[[サイロ]]から餌を出して牛舎に運んでいた<ref>「負けるも勝ち」P19~21</ref>。小学校までは通学だけで数時間かかるほどだったが、毎日繰り返すことで自然に足腰が鍛えられ、勉強よりスポーツを好んだ。離農者が多かったことから生徒が著しく減少し、部活動としては活動できなかったが野球・水泳・スキー・スケートで運動していたが、スキーでは6年生で3級を取得するほどの腕前だった<ref name="koubun">光文社</ref>。
 
  
芽室中学校では柔道部に所属し、芽室町の学年別大会で優勝したほか全十勝中体連大会・北北海道大会でも優勝するほどの強豪だった。北海道・[[十勝総合振興局|十勝管内]]の柔道関係者の中では、1年後輩の保志(のち第61代横綱・[[北勝海信芳]]、[[広尾郡]][[広尾町]]出身)と共に名前が知られていた。身体の大きさを見込まれただけで出場した陸上競技大会では全く練習していなかった砲丸投げに出場させられたもののいきなり優勝してしまい、ぶっつけ本番で残したこの実績を買われて[[東海大学付属第四高等学校]]から勧誘されたほどである<ref name="koubun" />。数々の大会で優勝していた自信から入学に乗り気だったが、夏に地元で行われた巡業を柔道部全員で見学に行った際に、恵まれた体格をした青木少年を見つけた人物から成り行きでまわしを付けられ、相撲を取らされた<ref name="koubun" />。かなりの力量を引退したばかりの若十勝正雄に見出され、連絡を受けた[[魁傑將晃|魁傑]](元[[大関]]・のち[[放駒]]親方)から勧誘を受けたが、親族会議を開催したものの進学を決めていたために逃げ回った。「部屋見学だけでも」と熱心に食い下がれたために4泊5日で部屋へ見学に行くと、東京見物をさせてもらっただけでなく小遣いをもらい、さらに靴も買ってもらえた上に魁傑自身が入門したときの経緯を聞かせてもらった(大学で柔道を行っていたが両親の意向で嫌々ながら相撲に転向した)ために気持ちが揺らぎ、翌年の入学願書締切日の前日に魁傑から電話で「柔道じゃ食っていけないよ」と言われたことで決心が固まり、内弟子として相撲界へ入門した<ref name="koubun" />。
+
昭和37年10月9日生まれ。中学3年のとき魁傑(かいけつ)(放駒(はなれごま)親方)にさそわれ,昭和53年花籠(はなかご)部屋に入門。のち独立した放駒部屋の部屋頭となり,58年入幕。200kgをこす巨体からの寄りを武器に60年大関。62年62代横綱となる。平成3年引退。優勝2回。年寄芝田山を襲名。11年芝田山部屋をおこす。北海道出身。本名は青木康。
  
=== 入門後〜関脇 ===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
入門当初は185cm、83kgという体格であり、後に横綱となった自身とは似ても似つかぬ体型であった<ref name="koubun" />。「大ノ国」の名は、元[[花籠]]親方(元[[幕内]]・[[大ノ海久光|大ノ海]])の現役時代の四股名と、故郷である「[[十勝平野]]」にちなんで命名された。[[1978年]]3月場所で[[初土俵]]を踏む。この場所7日目に師匠の魁傑が大関・[[旭國斗雄|旭國]]との対戦で[[水入り]]、再水入りでも勝負がつかず、両者に休憩時間を挟み、三度目の水入りとなる寸前に[[掬い投げ]]で勝った合計10分19秒にわたる相撲史に残る大熱戦を見た<ref>「大関にかなう」P224</ref>。
 
  
本人が述懐するところによると花籠部屋時代は稽古も然ることながらちゃんこ番や雑用、付き人など部屋の仕事に特に真剣だったといい、若い衆としての仕事は花籠部屋時代の内にほぼ完璧にこなせるようになったと自らについて胸を張って証言している。[[1981年]]に引退したばかりの師匠・魁傑が分家独立した[[放駒部屋]]へ移籍すると部屋のホープとして頭角を現す。創設当初の放駒部屋は稽古相手すらいないほどの小部屋であり、稽古を行うために、同じ阿佐ヶ谷にある一門の[[貴乃花部屋|二子山部屋]]へ毎日出掛けていた。当時の[[貴乃花部屋|二子山部屋]]は[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]や[[隆の里俊英|隆の里]]の2横綱始め、[[若嶋津六夫|若嶋津]]など大勢の現役関取が所属していた上に当時の角界の中でも一際厳しい[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が指導を行ってたので、恵まれた環境の中で真剣に稽古に打ち込むことができた<ref name="koubun" />。二子山部屋での出稽古は壮絶で、時間にして二十分の距離である二子山部屋から放駒部屋の間を自転車に乗って帰る力が残っていなかったという。[[1982年]]3月場所で新[[十両]]に昇進。本人は1981年3月場所から6場所連続で勝ち越した時期について「今振り返ってみても、1年間負け越しなしで十両に上がったというのはすごかったなぁと思いますよ。花籠部屋で鍛えられて、さらに二子山部屋の先輩たちに揉まれたことが、知らないうちに、私にとって大きな財産になっていたんですね」と振り返っている<ref name="koubun" />。実際に、二子山は「大乃国はおれのところで育ったようなものだ。」と言っていたという<ref>「負けるも勝ち」P80</ref>。翌5月場所は幕下に逆戻りするも3場所の幕下暮らしを経て11月場所に再十両を果たす。だがこの場所で九州入りした直後の稽古で右足小指の甲を骨折する怪我を負い、痛みにより場所初日まで稽古ができなくなってしまった。それでも関取の地位を守りたいという思いで痛めた足をテーピングで固めて皆勤し、この場所で11勝を挙げた<ref name="koubun" />。翌[[1983年]]3月場所で、奇しくものちに第63代横綱となる[[旭富士正也|旭富士]]と共に新入幕を果たした。
 
  
新入幕の場所を8勝7敗と[[勝ち越し|勝ち越した]]後、4場所目の1983年9月場所で新[[小結]]に昇進した。この場所は6勝9敗と[[負け越し|負け越した]]ために1場所で明け渡したものの、東前頭3枚目で迎えた同年11月場所では[[北の湖敏満|北の湖]](第55代横綱)・[[千代の富士貢|千代の富士]](第58代横綱)・[[隆の里俊英|隆の里]](第59代横綱)の3横綱を破る大活躍<ref name="nishonoo23" />を見せ、10勝5敗で初の三賞(殊勲賞)を受賞。この11月場所と翌1984年1月場所では保志が自身とともに三賞を受賞しているが、満年齢で言って最年少の幕内力士2人が揃って三賞を受賞した例としてはそれぞれ史上3例目と4例目である<ref>『大相撲中継』2017年11月18日号 p.89.</ref>。
 
 
[[1984年]]1月場所では新[[関脇]]で迎えて9勝6敗と勝ち越し。同年3月場所では、大ノ国から大乃国と四股名を改名。同場所では3[[横綱]]・3大関を破って10勝5敗の成績を挙げ、殊勲賞・敢闘賞を獲得するが、下位に対する取り零しの多さが課題として残った。大関獲りの足掛かりだった次の5月場所は4日目まで3勝1敗と順当だったが、5日目の北の湖戦で敗れてから調子を狂わせてしまい、6勝9敗と負け越した。
 
 
平幕に落ちた1984年7月場所は10勝5敗で殊勲賞を獲得するなど持ち直し、[[蔵前国技館]]最後の場所となった同年9月場所では、初日から好調で9日目に千代の富士貢を土俵際の[[掬い投げ]]で破って勝ち越した。幕内初優勝の期待を持たせたが、10日目の時点で既に負け越していた[[逆鉾昭廣|逆鉾]]の出足に苦杯を喫して2敗と後退。さらに翌11日目、同年9月場所で[[幕内最高優勝の記録一覧#平幕優勝|平幕優勝]]を果たした[[多賀竜昇司|多賀竜]]に[[上手出し投げ]]で脆くも横転し3敗、13日目は[[小錦八十吉 (6代)|小錦]]にも[[上手投げ]]で屈して、結局10勝5敗に終わった。
 
 
その後3場所を一桁勝ち星と不振の場所が続いたが、[[1985年]]5月場所は前に出る攻撃相撲が増え復調し10勝5敗、東関脇で迎えた7月場所では終盤まで優勝を争って12勝3敗の成績を挙げた。それまでの直前3場所の成績は9勝・10勝・12勝の合計31勝(14敗)で、直近の大関昇進の事例と比べると勝星数で劣ったが、前年9月から6場所連続で関脇の地位に定着していたことや横綱・大関戦で互角の成績を残したことが評価され、大関昇進が決定した<ref>過去に[[琴風豪規|琴風]]・[[増位山太志郎|増位山]]の3場所31勝(大乃国と同数)、さらには[[北の富士勝昭|北の冨士]](のち第52代横綱)・[[北葉山英俊|北葉山]]の3場所28勝で大関昇進した例がある。また横綱・大関の合計が少ない場合は昇進が甘くなるケースもある。</ref>。この関脇時代については「上位力士を苦しめて当たり前という感じで、とても楽しい時期だったと思います」と本人が語っている<ref name="koubun" />。大関昇進披露宴では、引き出物に[[広辞苑]]を配り、相撲協会関係者や相撲記者を驚かせた<ref>神戸新聞2014年5月20日1面正平調</ref><ref>日本経済新聞2014年5月19日「評伝 誠実・不屈貫いた苦労人」</ref>。引き出物は押入れの奥にしまうことが多いので、役に立つものにしたかったという師匠・放駒親方の考えだったという<ref>「相撲」1992年4月号P127</ref>。また、地元選出代議士である[[中川昭一]]の他に<ref>[http://nakagawa-shoichi.jp/2008/05/最近読んだ本(5月)『負けるも勝ち』 芝田山康/ 中川昭一ライブラリ2008年5月28日 最近読んだ本(5月)『負けるも勝ち』 芝田山康 ダイヤモンド社 ]</ref>、[[東京大学大学院情報学環教育部|東京大学新聞研究所]]長の[[竹内郁郎]]が、[[東京大学]]教授として初めて力士の後援会長を務めたことで注目を集めた<ref>「サンデー毎日」1985年(昭和60年)8月11日号「新大関・大乃国の後援会長は角界初の東大教授」</ref>。
 
 
=== 大関時代 ===
 
大関昇進後は12勝3敗・11勝4敗と着実に星を残して、「昭和の大横綱」千代の富士に次ぐ実力ナンバー2と目され、横綱候補の筆頭だった。[[1986年]]1月場所では13日目まで1敗で、星一つの差を付ける千代の富士との14日目の直接対戦に幕内初優勝を賭けたが、極度の緊張から力を全く出し切れずに敗れ、千秋楽も[[北尾光司|北尾]](のち北尾改め第60代横綱・双羽黒)の引きに敗れて12勝3敗に終わり、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]すら出場できなかった。翌3月場所に初めての横綱挑戦権が与えられたものの<ref>現在では12勝3敗の優勝次点程度では「綱獲り」と騒がれることはほとんどない。事実、年6場所制定着以降に綱取りを果たした力士の中で直近2場所前が12勝の優勝次点にとどまった者は他に北尾と[[稀勢の里]]しかおらず、これを下回る例は直近2場所前が11勝であった[[柏戸剛|柏戸]]、直近2場所前が10勝止まりであった[[玉の海正洋|玉の海]]のみである。参考として、 [[北勝海信芳|北勝海]]は直近2場所前が12勝での優勝であった。</ref>、序盤で2敗を喫したことで9勝6敗に終わりチャンスを逃した。
 
 
同年5月場所では、逆鉾に寄り切られた際に右足を骨折する重傷を負った。それでも休まず11勝4敗の成績を挙げたが、この無理が影響して約1年間低迷する。同年9月場所は7勝1敗で迎えた9日目から失速して8勝7敗。次の11月場所は10勝5敗だったものの、翌1987年1月場所から2場所連続で9勝6敗と期待を裏切り続けた。それまで新勢力の一番手と見なされてきたが、この過程で優勝では第61代横綱・[[北勝海信芳|北勝海]](大乃国と同じ北海道[[十勝支庁]]出身)に、横綱昇進では双羽黒に、共に大乃国より1年年下の「[[花のサンパチ組]]」(昭和38年生まれ)にそれぞれ先を越されてしまった。同年11月場所は千代の富士を土俵際の投げで破った際に[[失神]]させたり、初優勝を目指す双羽黒に土をつけたり、1987年3月場所で優勝を決めた北勝海を破るなど存在感は見せつけたが、下位力士への取りこぼしは相変わらず多かった。
 
 
しかし、[[1987年]]5月場所は初日から見違えるような安定した相撲で連勝を続けて、千秋楽で当時横綱昇進が掛かっていた北勝海を下して15戦全勝で初の[[幕内]]最高優勝を果たした<ref name="nishonoo23" /><ref name="100retsu" />。横綱昇進がかかった同年7月場所は千秋楽では前場所とは逆に、この場所で横綱に昇進した北勝海に敗戦を喫し12勝3敗でチャンスを逸したものの横綱挑戦権は継続され、次の9月場所は13勝2敗と順調に星を重ねて場所後に第62代横綱への昇進を果たした<ref name="nishonoo23" />。杉並区阿佐ヶ谷南の放駒部屋で行われた横綱昇進伝達式では、「初一念を忘れず、相撲道に精進します。」と口上を述べた。1987年10月1日、[[二所ノ関一門]]の親方が揃う中、放駒部屋で綱打ち式が行われた。横綱土俵入りの指導は、[[琴桜|佐渡ヶ嶽]]が当初行っていたが、途中から一門の総帥である[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が土俵にあがり、直々に土俵入りを指導、「ウっと四股を踏んで、ダッと腰を下ろしたら拍手が来るから、そしたらググっと摺り上がれ。」「すぐ摺り上がったらだめ、拍手を待つくらいの余裕を持たなきゃ。」「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ。」と助言を受けた<ref>[https://www.jiji.com/jc/v4?id=hyaku_00001_20170127&p=hyaku001-jpp12890093 時事ドットコムニュース 「鬼」と「おしん」と稀勢の里]</ref><ref>「負けるも勝ち」p120~121</ref>。
 
 
昇進直前の2場所は全て優勝次点だったが、直前3場所通算の成績は40勝(5敗)で近年では[[貴乃花光司|貴乃花]](41勝)に次ぐ高い数字(当時第56代横綱・[[若乃花幹士 (2代)|2代若乃花]]と並ぶ最高タイ記録)<ref name="koubun" />であった。ただし、1987年11月場所後に双羽黒が師匠・[[立浪]]親方(元関脇・[[安念山治|安念山]])らとの衝突の末廃業事件を起こしたきっかけに、その後「横綱昇進の条件は(原則として)大関の地位で2場所連続優勝」に事実上変更される<ref>旭富士も大関時代の1989年1月から5月にかけて、大乃国の横綱昇進時と同じ3場所通算で40勝5敗という成績を残したが、「横綱昇進基準厳格化」の煽りを受けて昇進が見送られた。その後旭富士は翌1990年5月と同年7月に大関で2場所連続優勝を果たしてようやく横綱に昇進した。</ref>。それ以降、第63代・旭富士から第70代・[[日馬富士公平|日馬富士]]の8力士は全て「大関2場所連覇」での横綱昇進だったが、2014年5月場所新横綱の第71代・[[鶴竜力三郎|鶴竜]]は14勝(優勝同点)・14勝(優勝)と、27年ぶりに大乃国以来連覇無しでの横綱昇進となっている<ref>ただし、鶴竜以降の横綱も直前場所で優勝して横綱に昇進しており、直前場所優勝無しで昇進したのは現在のところ大乃国を最後に出ていない</ref>。
 
 
=== 横綱時代 ===
 
横綱昇進を祝うパーティーの席上で、当時の[[春日野]]理事長(第44代横綱・[[栃錦清隆|栃錦]])からは「今後の相撲界の歴史を大きく変える力士の一人だ。『角聖』と呼ばれた[[明治時代]]の名横綱・[[常陸山谷右衛門|常陸山]]を目指せ」と期待されていた。しかし、新横綱の1987年11月場所は極度の緊張からか動きが悪く、序盤で3連敗を喫した。中盤は立ち直ったかに見えたが終盤も黒星を重ね、最後はギリギリ勝ち越しの8勝7敗(皆勤した新横綱としてワースト)に終わる<ref>平成以降の新横綱では、[[2012年]]11月場所・第70代横綱の日馬富士と、及び[[2014年]]3月場所・第71代横綱の鶴竜が、共に9勝6敗の1桁勝利に終わった。</ref>。実は大乃国本人は、横綱昇進当初から体の異変を感じており、「[[睡眠時無呼吸症候群]]」の症状(土俵下でいきなり強烈睡魔に襲われる一方夜中に40分おきに目が覚めてしまう)により、睡眠が安定しないことで立合いの集中力が発揮できなかったという。<ref name="100retsu">北辰堂出版『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(塩澤実信、2015年)142ページから143ページ</ref><ref name="mukokyu">朝日新聞 2013年1月15日</ref>
 
 
[[1988年]]1月場所に際しては前場所中の太り過ぎの反省から食事を減らして減量したものの、これが裏目に出て力が入らなくなった。米をやめてニンジンやこんにゃくで腹を満たすようにしたが却ってむくみがたまり、筋肉が落ちて体が弛んだことでマスコミから「稽古不足」と批判される状態となった<ref name="mukokyu" />。この1月場所は9日目を終わって5勝4敗となり、「肝機能障害」によって10日目から途中休場し、引退危機と騒がれた。体調不良の原因としてプレッシャーや糖尿病を疑ったが血液検査の結果は「異常無し」であり、体調不良の正体が分からぬまま疲れを押して土俵に上がり続けることにした。<ref name="mukokyu" />
 
 
早くも進退を懸けることとなった横綱3場所目の1988年3月場所は、序盤で2連敗したが連勝を続け14日目で12勝2敗、[[千秋楽結びの一番]]では前日まで13勝1敗だった北勝海を本割りで[[寄り倒し]]、大乃国と北勝海が13勝2敗の同点となった。優勝決定戦では北勝海に押し込まれながらも土俵際の[[突き落とし]]で下し、大逆転勝利で5場所ぶり2度目の幕内最高優勝、横綱初優勝を果たした<ref name="100retsu" />。しかしその後1988年5月場所以降から引退するまで、主に[[九重部屋]](千代の富士・北勝海の両横綱)ら<ref>ほか大乃国が引退する迄の幕内優勝力士は、大関の小錦(1989年11月場所)、大関〜横綱の旭富士(1990年5月・7月・1991年5月場所)、大関の霧島(1991年1月場所)、平幕の[[琴富士孝也|琴富士]](1991年7月場所)の4人が居る。</ref>の活躍に押されて、自身何度も終盤まで優勝争いに加わるも、幕内優勝は二度と果たせなかった<ref name="nishonoo23" /><ref>大乃国の1988年5月〜1991年7月と通算20場所(期間・3年2か月)の間、横綱として一度も幕内優勝無しは、年6場所制(1958年)以降では最長記録となる。</ref>。
 
 
当時優勝決定戦での勝敗は翌場所の[[番付]]に反映されなかったため(1988年3月場所の番付は西正位横綱・北勝海、東[[張出]]横綱・大乃国)<ref>[http://www2.tokai.or.jp/tamaro/newpage2-1-10.htm 優勝者番付上位の正当性(タマローのコラム2001)]</ref>、1988年5月場所の番付は東正位横綱に優勝同点の北勝海、西正位横綱に優勝の大乃国だった<ref>1997年9月[[日本相撲協会]]の[[理事会]]で、「同地位で優勝決定戦を行った場合優勝者を上位とする」という規定に改正。現在のケースであれば翌場所の番付は、優勝者(大乃国)が東正位横綱に上がり、優勝同点者(北勝海)は西正位横綱に廻す形式となる。</ref>。その後も大乃国は、当時の横綱陣で最高成績を挙げられず、東正位横綱を一回も経験することが出来なかった<ref>東正位の地位に1度もつかなかった横綱は、双羽黒以来史上5人目。</ref>。
 
 
それでも横綱としての最大の見せ場は1988年11月場所の千秋楽、結果的に[[昭和]]時代最後となった結びの大一番で、同場所14日目まで53連勝中だった千代の富士を怒涛の寄り倒しで54連勝目を阻止、歴史的な場面を演出したことだろう<ref name="nishonoo23" /><ref name="100retsu" />。その千秋楽前日の夜、部屋での食事中放駒親方からは'''「どうせ今のお前じゃ何をやっても勝てないんだから、'''(千代の富士を)'''ヒヤッとさせる場面ぐらいは作って来いよ」'''などと揶揄される<ref name="100retsu" />も、逆に大乃国は'''「連勝記録は俺が絶対に止めてやる!」'''と闘志に火がついたという。
 
 
千秋楽当日の早朝、大乃国は普段より2時間早く[[稽古]]場に姿を現して徹底的に対策を行っていた。この取組では、大乃国が立合い鋭く踏み込み、千代の富士のまわしを取り、千代の富士に左上手を与えない体制で一気に寄り立て、あせった千代の富士が右下手投げを打ったところを、左から押しつぶすように寄り倒した<ref name="koubun" />。千代の富士の連勝記録を見事にストップさせた取組の後、報道陣のインタビューに対しては'''「俺だって横綱だ!」'''と珍しく声を荒らげた<ref name="koubun" />。後日、千代の富士はこの話を聞いて「全然知らなかった。俺はその頃明日は楽勝だと2・3軒飲み歩いていた。あのとき俺の特番の撮影のためにマスコミもいたんだ。どうして教えてくれなかったのか?恨むねぇ」と苦笑いしながら語っていた。大乃国はこの殊勲を特に大仕事とも思っておらず、同じ横綱として千代の富士の連勝記録を伸ばしてしまった責任を取ったまでであるという趣旨の弁明をしている。<ref name="koubun" />のちに放駒親方が、千秋楽で大乃国が千代の富士の連勝を止められなければ、翌年初場所千秋楽で横綱・双葉山の69連勝に並ぶと計算していたことを知り、「師匠のその思いを知ったら震えて負けていたかもしれない。師匠は先の先を読んでいたんです」と歴史的一番の裏にあった師弟愛を明かした<ref>[https://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20170905-OHT1T50177.html スポーツ報知2017/9/6「芝田山親方、トークショーで熱弁 千代の富士戦の秘話明かす」]</ref>。
 
 
=== 相次ぐ不運・病気と怪我 ===
 
[[平成]]時代の[[1989年]]5月場所は、北勝海・旭富士らと3人で最後まで優勝争いを演じていた。12勝2敗で迎えた同場所千秋楽結びの一番で、北勝海との取組では[[肩透かし]]で大乃国が敗れるも、その寸前に大乃国の突き落としで北勝海の右手が土俵の上を掃いたのでは?と見られる場面があった(VTRではその光景がはっきり映し出されている)。ところが、[[立行司]]と[[勝負審判]]5人共にこの場面を誰も気付いておらず、さらに[[物言い]]もつかなかったため、不幸にも大乃国が敗戦となった。もしこの一番が大乃国の勝利ならば、旭富士(当時大関)との13勝2敗同士の優勝決定戦に進出するはずだった(北勝海-旭富士との優勝決定戦は、北勝海が送り出しで勝利)。
 
 
1989年7月場所では場所前から痛めていた右膝が悪化、1勝4敗で5日目から途中休場。日本大医学部付属板橋病院に入院、右膝の治療と同時に全身の問診を受けた結果、医師から初めて「[[睡眠時無呼吸症候群]]」という診断を受け、横綱昇進時から表れていた体調不良の真相を知った。睡眠時に一時間あたり60回呼吸が止まる程の重病であり<ref name="koubun" />、心不全による突然死も時間の問題であり、診断の直後に治療用の呼吸器を使用開始した<ref name="mukokyu" /><ref>読売「大相撲」平成元年4月号・「北出清五郎のやあこんにちは」での本人談「180kgが理想体重。(中略)関脇のころが最高だった。200kgはムリがあると思うがなろうと思ってなったんじゃない、なってしまった。(中略)体質的に太りやすいんだよ」</ref>。入院加療ののち病気の症状は回復して退院するも完治せず、横綱として2年近くも低迷することとなる。
 
 
同年9月場所も不調で4日目で1勝3敗、その後一旦は持ち直して11日目で7勝4敗としたが、そこから連敗を喫し14日目の千代の富士戦で7勝7敗、勝ち越しをかけた千秋楽結びの一番の北勝海戦でも敗北したことで、ついに7勝8敗と負け越した。横綱が皆勤しての負け越しは史上5人目(6例目)、しかも15日制が定着してからは初めての不名誉な記録だった<ref>事実、横綱昇進後の大乃国の9月場所の成績は15勝15敗15休と全く振るわなかった。</ref><ref>10年後の1999年9月場所には、[[花田虎上|若乃花]](第66代横綱)も7勝8敗の皆勤負け越しを喫している。</ref>。一旦は引退届を提出するも、当時の[[二子山 (相撲)|二子山]]理事長(第45代横綱・[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]])からは「まだ若いんだから初心に帰った気持ちでもう一度やり直せ。汚名を残したまま辞めてはいかん」と慰留されて現役を続行する。なお大乃国本人はこの不名誉に対して、不調の際は休場するという横綱の固定観念に囚われず、不成績を恐れず全力で戦ってこそ横綱であると思いの丈を明かしており、大乃国としては「自分の力をこの世界でどこまで出せるかを試したい」という入門当初の志に従った結果であるという。<ref name="koubun" />
 
 
一場所休場した後の[[1990年]]1月場所で進退を懸けるも、11日目で8勝3敗と勝ち越したが、翌12日目から終盤4連敗で8勝7敗。さらに千秋楽の千代の富士戦では左足首の靱帯を断裂、その上骨折という大怪我を負う悲惨な結末となり、その故障が長引き4場所も連続全休した。この頃に前述の呼吸器を使用した影響で体が顕著にしぼみ、放駒からは不審に思われたという。その呼吸器を使用している様子を実際に確認した放駒は「そんな変な器具を使ってはダメだ。勝てなければ夜眠れないのは当然だ」と叱咤したため、大乃国は放駒を連れて病院の医師に事情を説明させた。すると放駒は「お前、病気だったのか」と納得し、その後は放駒の理解を得た上で治療に励んだ<ref name="mukokyu" />。同年11月場所で復帰するが序盤で平幕に負けるなど2敗を喫し、相撲振りは決して良くなかったが、千秋楽に前日優勝を決めた千代の富士に土をつけ、何とか10勝5敗の二桁勝利を挙げて引退の危機を免れた。大乃国は当時の週刊誌報道などで真面目横綱として知られていたせいか、報道陣も大乃国に対して非難する声は強くなく、[[日本経済新聞]]の夕刊コラムでは[[森鴎外]]が訳した[[ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ]]の「苦痛は人を清める。悲哀は人を高める」という言葉を引用し、「たかが相撲じゃないか。まだ28歳になったばかりの青年だ。相撲ばかりが人生じゃないが、大乃国はわき目もふらず土俵人生の再起を目指す。再起の成否はまだわからないが、彼は一回り大きな人間に成長するにちがいない。」と掲載されるなど<ref>1990年11月17日(土)日本経済新聞夕刊1面「鏡」</ref>、
 
苦しい土俵を続ける横綱の復活を見守る雰囲気があったと[[中野翠]]は[[文藝春秋]]に書いている<ref>文藝春秋1991-1「中野翠 大乃国さまハラハラ日記」P282~290</ref><ref>1990年11月16日号 日刊ゲンダイ終面「大乃国はなぜ八百長しないのか 八百長するなら相撲やめるというクリーン横綱が孤立する相撲界の怪」</ref>。
 
 
1991年1月場所も10勝5敗に留まったが、必死に取り組む姿に声援を送るファンも多く、[[オール讀物]]の特集では[[井上ひさし]]、[[石堂淑朗]]、[[畑山博]]、[[保坂正康]]、[[黒鉄ヒロシ]]が、「大乃国はプレハブ住宅を組み立てる建設作業者とは異なった、手作りの家を建てようとする職人のようなもの。」、「病や怪我でなかなか勝てなくても必死に取り組んでいる君の不器用な相撲人生を、己が人生と重ね合わせて記憶の底に焼きつけて声援を送っている者も多い。」などと寄稿した<ref>「オール讀物」1991年3月号p240~p249『特集:それでも「大乃国」を愛する理由』</ref>。同年3月場所での大乃国は1989年5月以来11場所振りに千秋楽まで優勝を争い、ようやく復活の兆しを見せたかに思えた。14日目に12勝1敗同士の直接対決で、北勝海は大乃国に寄り倒しで勝ったがその際に膝を負傷。翌日の千秋楽北勝海はまともに戦える状態でなく、もし大乃国との優勝決定戦になった場合、北勝海はどうやって戦うかずっと悩んでいたという。しかし北勝海の故障に全然気が付かなかった大乃国は、前日まで4勝10敗と極度の不振だった[[霧島一博|霧島]]に大相撲の末よもやの敗北で12勝3敗、またもあと一歩で北勝海(結びの一番で旭富士に敗れて13勝)に優勝を奪われた<ref>横綱昇進後も大乃国は相手が不振や弱敵でも、常に安心して見られない不安定さがあった。また霧島との幕内対戦成績は6勝8敗と非常に分が悪かった。</ref>。今度こそ優勝をと雪辱を期すはずだった同年5月場所は、不運にも場所前に[[蜂窩織炎]]による高熱と右膝関節を痛めて急遽入院することになり、ふたたび全休となった。
 
 
=== 現役引退 ===
 
1991年7月場所は再び進退を懸けて土俵に上がることとなる。この場所が最初で最後の対決となった[[貴乃花光司|貴花田]](のち第65代横綱)・[[花田虎上|若花田]](のち第66代横綱)に勝利したが、初日に[[曙太郎|曙]](のち第64代横綱)の[[突っ張り]]に一撃で土俵下へ吹っ飛ばされたり、最後の相撲となった[[安芸乃島勝巳|安芸ノ島]]戦ではまともに引くところを見透かされ一方的に[[押し出し (相撲)|押し出され]]たりと8日目で4勝4敗という散々な成績だった<ref>この場所は他の横綱陣も大変な不調で、千秋楽は北勝海と旭富士で8勝6敗同士の横綱戦という事態だった。</ref>。安芸ノ島戦での内容が「明日に繋がらない相撲」と悟った大乃国は現役引退を表明した<ref>9日目の[[琴ヶ梅剛史|琴ヶ梅]]戦は不戦敗。</ref>。歴代横綱の中で28歳9か月での引退は、廃業した双羽黒や現役中に死亡した[[玉の海正洋|玉の海]]を除けば、[[栃ノ海晃嘉|栃ノ海]]の28歳8か月に次ぐ若さだった<ref>なお、このとき大乃国本人は引退するつもりはなかったが、二子山理事長(当時)が続投を許さなかった{{要出典|date=2013年6月|}}。</ref>。[[毎日新聞]]は、「'''妥協を許さない相撲を取り続け、格闘技のもつ真剣勝負としての相撲を楽しませてくれた力士'''」という論評を載せ、もろさと底知れぬ強さが同居した大乃国の栄光と挫折は、全力を傾注して妥協することのない土俵態度が生み出した結果であり、勝負にかけるかたくななまでの意地には価値があった。引退間際の横綱特有のみじめさはあったが、相撲界の受け止め方はずいぶん違い、「なにごとにもまじめな横綱だった。とくに勝負に対しては潔癖すぎるほど潔癖だった。七勝七敗で千秋楽に負け越したのを見てもわかるだろう。貴花田など元気な若手が出てきて盛り上がっているが、相撲界がまともなことをファンに分かってもらうためにも、もう少し頑張ってほしかった。」というある親方の言葉を紹介、刀折れ、矢尽きて土俵を去ったが、大乃国の姿勢は評価されるべきであると報じた<ref>1991年(平成3年)7月17日(水)毎日新聞4面・記者の目「妥協ない横綱だった大乃国 ひとり孤高を保ち勝負に予断与えず」</ref>。引退会見で現役時代の思い出の一番として、稽古をつけてくれた同門の先輩である隆の里に初めて勝った相撲をあげた<ref>1991年(平成3年)7月15日(月)朝日新聞</ref><ref>大乃国の最後の対戦相手である安芸乃島も、引退会見で思い出の一番として、1988年秋場所で同門の先輩である大乃国に初めて勝った相撲(初金星)をあげている</ref>。
 
 
この際、既に10代芝田山([[宮錦浩|宮錦]])から年寄名跡を譲渡され、年寄・芝田山を取得していたが、10代芝田山の停年(定年。以下同)まで10か月ほどだったため、5年期限付きの[[年寄名跡#過去の一代年寄|年寄]]・大乃国を襲名して芝田山の停年を待った。しかし、宮錦の退職後に同門の[[若獅子茂憲|若獅子]]へ[[年寄名跡]]を一時的に貸すことになり<ref>1993年3月に若獅子の師匠である10代[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が停年を迎えるため、年寄名跡の都合が付くことが確定していたため、それまでの繋ぎとして芝田山を借用した。</ref>、[[1993年]]3月場所後にようやく12代芝田山を襲名した。
 
 
[[引退相撲]]は1992年5月場所後に行われた。なお、引退相撲での[[横綱土俵入り]]の[[露払い]]と[[太刀持ち]]は、従来は現役横綱の二人が務めていたが、同年5月場所前に[[横綱#一人横綱|一人横綱]]だった北勝海が引退となり、[[横綱#横綱空位・横綱不在|横綱空位]]となっていた。そのため大乃国は、同門であり当時[[貴乃花部屋|二子山部屋]]の現役幕内力士だった[[隆三杉太一|隆三杉]](露払い)と[[三杉里公似|三杉里]](太刀持ち)をそれぞれ指名し、最後の土俵入りが披露された<ref>この横綱空位のために、同年10月、旭富士の引退相撲でも露払い:[[旭里憲治|旭里]]・太刀持ち:[[旭道山和泰|旭道山]]と、同じ大島部屋の平幕力士が務めている。翌年1月、北勝海の引退相撲では横綱になったばかりの曙が太刀持ちを、大関・小錦が露払いを務めた。しかし[[2003年]]の貴乃花以降、横綱・大関の空位とは関係なく、大関以下の現役幕内力士が露払いと太刀持ちを務めるケースが続いている。</ref>。
 
 
=== 親方として ===
 
芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の[[1999年]]6月に独立して「[[芝田山部屋]]」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい<ref>短期間で独立または[[日本相撲協会]]から退職するか、部屋付きとして長期間在籍した場合は後継者として部屋を譲渡されそのまま部屋持ち親方となるか部屋付きのまま終わる例がほとんどである。[[千代の山雅信|千代の山]]や[[鏡里喜代治|鏡里]]が引退後十年ほど部屋付きとして務めた後で独立しているが、後継者争いに敗れたことによるもので大乃国とは事情が異なる。</ref>。
 
 
師匠の放駒親方同様、「社会に通用する人間であれ」を親方としての信条としている。地位に見合った人徳、品格がないと力士としては一人前とは言えないという考え方に基づき、新潟県十日町の後援者から田んぼを借り、一から米作りを体験させることで、体づくりとともに、食べ物を粗末にしない教育をしている<ref>[https://www.sankei.com/life/news/150724/lif1507240027-n1.html 【私のふるさと】ばあちゃんのようかん、格別な味 芝田山親方」産経新聞2015年7月25日]</ref>。
 
目的は、弟子たちに米が出来る過程にある大変さを知ってもらい、米一粒の大事さ、一粒一粒が重なって初めて、どんぶり一杯のごはんになることを学んでほしい、それが毎日の稽古の積み重ね、地味で地道な練習の積み重ねが力になることに通じるからという考えからである<ref>2003年5月28日 日刊スポーツ 芝田山部屋、田植えで力士教育</ref><ref>「負けるも勝ち」p172</ref>。自身が農業を営んでいた実家の酪農設備を新築するために両親が借り入れた約2000万円の借入金を代わりに返済し、実家の近所でも「孝行息子」と言われていたことから<ref>「週刊現代」1984年12月8日号『大乃国、小錦、北尾ユニーク個性番付』</ref>、農業に対する思いが強く、弟子の教育に取り入れた。
 
 
また、部屋の弟子たちを連れて毎年夏に故郷・芽室町で合宿をするのに合わせて、老人ホームや障害者支援施設を慰問し、子供たちの心と身体の健全育成を目的に芽室神社前の土俵で、「芝田山杯子供相撲大会」を毎年8月に実施している<ref>[http://www.memuro.info/oonokuni.shtml 北海道・十勝・芽室町観光協会ホームページ]</ref>。
 
 
相撲取りとしての理想は、「穏やかで柔和な表情の下に闘志を隠して、ここぞというときに勝負をかける」と述べている<ref>「負けるも勝ち」p161~162</ref>。
 
弟子には、「いろいろな事情があって、辛抱や努力をしたくても出来ない人だっている。相撲取りにしても、誰でもなれるわけではない。心底から相撲取りになりたいと思っても、なれない人はたくさんいる。だから、五体満足で相撲を取れる今の自分に感謝して、前向きに一生懸命努力しなさい。全力でぶつかっていけば、自分の体にも強くなる力が入ってくる。跳ね飛ばされても恐れず、立ち向かう姿勢が大事。」と、自分が若い頃の稽古を通じて学んだ話をするという<ref>「負けるも勝ち」p212~219</ref>。
 
 
相撲協会の業務では[[相撲競技監察委員会|監察委員]]や[[勝負審判]]などを歴任した後に、[[2014年]]に副理事に昇格、巡業部副部長、さらに広報部副部長となった。巡業で[[ちゃんこ]]が廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20140818-1352626.html 大相撲巡業で弁当の改善が課題に] nikkansports.com 2014年8月18日9時56分 紙面から</ref>。[[2015年]]8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1517595.html 巡業で21年ぶりちゃんこ配給復活 暑さを乗り切れ] nikkansports.com 2015年8月4日8時37分 紙面から</ref>。
 
 
[[2018年]]2月2日の[[日本相撲協会]]理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で広報部長に就任した<ref>{{cite web|url=http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20180202-OHT1T50316.html|title=“スイーツ理事”芝田山親方「人任せでなく自分でやっていく」|newspaper=スポーツ報知|date=2018-02-03|accessdate=2018-06-27}}</ref>。
 
 
5月29日午前、大相撲の「女人禁制」に関する参議院文教科学委員会の参考人質疑に出席。「公益法人として説明責任がある。(協会は)女性差別をしていない」と説明した<ref>[https://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20180529-OHT1T50223.html 芝田山広報部長、「女人禁制」めぐり参院文科委の参考人質疑出席で説明「女性差別をしていない」] 2018年5月30日6時0分  スポーツ報知(報知新聞社、2018年9月3日)</ref>。
 
 
== 人物 ==
 
現役時代はきまじめで無口な横綱という印象だったが、引退後にスポーツニュースや[[日本放送協会|NHK]][[大相撲中継]]に出演すると、実際は話がうまく、解説が上手と評判の[[舞の海秀平]]が上手に説明できないような相撲内容も詳しくわかりやすい解説を披露し人々を驚かせた。バラエティ番組出演もこなしている。最近では講演会でも大人気で各地を飛び回っているが聞き手が居なくても数時間の独演をこなすなど理論的で判りやすい内容が好評である。
 
本人は相撲の解説をする時は、「相撲の面白さ、醍醐味を多くの人にわかってもらうために、なるべく専門用語を使わない。」、「勝った力士、負けた力士どちらのファンが聞いても納得できるイーブンな解説」をいつも意識しているという<ref>「負けるも勝ち」P182~186</ref>。
 
 
師匠の放駒親方は、弟子の大乃国に関して、「頭のいい人、若い時から1つを1回教えただけで、教えていない3つを自分で考えて実践していた。」と評している<ref>2003年5月28日 日刊スポーツ 芝田山部屋、田植えで力士教育</ref>。実は機械いじりが大好きで、中学時代に中古のポンコツバイクを入手して、自分で新しく作り替えて、実家の畑で乗り回していた<ref>「週刊現代」1984年12月8日号『大乃国、小錦、北尾ユニーク個性番付』</ref>。
 
 
非常にまじめで優しい性格で、横綱になっても女の子にサインを頼まれると、最後の一人になるまでサインをしたり、パーティーでお年寄が立っていると、すぐそばに寄って椅子のあるところに案内するなど、師匠ゆずりの誠実な紳士ぶりで女性やお年寄りにも根強い人気があった<ref>「週刊ポスト」1989年11月24日号『八百長をしないから仲間はずれ 大乃国の嫌気』</ref><ref>「現代」1987年10月号 p296~303 『相撲狂いの才女、ウンチク放談会 知的な女はお相撲サンのお尻が大好き-大乃国のお腹で滑り台を。ああタニマチ的母性愛』  神津カンナ;久和ひとみ;杉浦日向子;マッハ文朱</ref>。
 
 
現役時代の壮大な土俵入りは定評があった<ref>Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p79</ref>。
 
 
[[板井圭介|板井]]に8勝8敗と非常に苦手としていた。板井は金星を3個獲得しているが全て大乃国からで、入幕後の大乃国は全て[[ガチンコ]]相撲を通したと言われており、昨今話題となっている[[大相撲八百長問題]]とは全く無縁の人と言われ、当時の報道を知る大相撲ファンからは'''ガチンコ横綱'''として評価されている<ref>週刊ポスト1988年15号(945)「角界浄化独走スクープ 八百長をしないガチンコ横綱・大乃国を狐立させるな--関取Aの真相告白・第3弾!」/p38~41</ref>。
 
 
角界きっての[[食通]]で、大の甘党。'''「男が甘党でなぜ悪い!」「甘党男児は誇りを持て!」'''を持論としている。本人曰く最近は'''「スイーツ王子」「スイーツおじさん」「スイーツ親方」「キング・オブ・スイーツ」'''などと呼ばれるという。[[元祖!でぶや]]などのグルメバラエティ番組に出演している。少しでも相撲を知るきっかけになって、相撲の面白さがPR出来ればいい、相撲取りになってみたいという若者が出てくるきっかけになればと考えているという<ref>「負けるも勝ち」P193~200</ref>。
 
 
[[甘党]]だからといって[[下戸]]というわけではなく、甘いものの過剰摂取による[[糖尿病]]とも無縁である。「むしろ血糖値が基準値より低め」とのことで、「協会を辞めたらスイーツ[[評論家]]になりたい」と[[日刊スポーツ]]で述べている。
 
 
[[大勇武龍泉|大勇武]]など部屋の元力士から自身や弟子による暴行容疑に対する訴訟を過去に2度起こされるなど弟子育成に関しては苦難を経験しており、一部週刊誌からは「弟子に興味のない親方」という趣旨の書き立てられ方をした<ref>[https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/147084/2 失明した元弟子に提訴された「スイーツ親方」の指導と評判] 日刊ゲンダイ 2014年1月8日(講談社、2017年11月16日閲覧)</ref>。
 
 
== エピソード ==
 
{{出典の明記|date=2014年3月|section=1}}
 
{{雑多な内容の箇条書き|date=2014年3月}}
 
=== スイーツ関連 ===
 
* 現役時代から大の甘党・美食家でも大きく知られており、相撲雑誌の力士紹介欄では他の力士が趣味を「ゲーム」「絵画」「音楽鑑賞」としている中で「'''食べ歩き'''」と記載されていた。好きな食べ物として[[あんみつ]]・[[豆パン|うぐいすパン]]と答えていた時期があった。
 
* 特に[[ケーキ]]は、2ホールを軽くたいらげるという。自らも大関時代から部屋でケーキ作りをするほどで、趣味を生かした『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(ISBN 4532165687)・『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(ISBN 9784532167066)を出版している(どちらも[[日本経済新聞出版社]]より)。新十両昇進が決まった[[大勇武龍泉]]に記者会見で祝いのケーキ(現役時代の自身の似顔絵入り)を渡した。
 
* [[2007年]]6月30日放送の[[テレビ朝日]]「[[ザ・クイズマン!|ザ・クイズマンショー]]」では数々のスイーツに関するクイズを回答して優勝した。「'''スイーツ賢人'''」の称号を送られている。
 
* [[2008年]][[3月31日]]からは、[[ゆうどきネットワーク]]([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]])にて'''「芝田山親方のごっつあんスイーツ」'''のコーナーを担当していた(大相撲千秋楽の翌日など、主に月曜に出演)。
 
* [[2008年]]7月放送の海外向け国際放送・[[NHKワールド]]TVの紀行番組である『NIPPON OUT&ABOUT』(英語放送番組)に出演。出身地である芽室町のあるお宅をたずね、あんこの付いた[[ぼたもち]]を試食する様子が放送された。
 
* [[2013年]]6月放送のNHKテレビ「[[ゆうどきネットワーク]]」に出演し、[[京都]]の[[和菓子]]巡り(麦手餅・あんこ炊きなど)を堪能していた。
 
* [[2015年]]6月6日放送の朝の[[連続テレビ小説]]『[[まれ]]』に[[服部幸應]]、[[辻口博啓]]らとともに審査員役で出演した。
 
* 元プロ野球選手・監督の[[権藤博]]と親交があり、ともに甘党である事から暇を見つけては二人で甘味処巡りを行っている。
 
* 現役時代に[[花乃湖健|花乃湖]]、[[貴闘力忠茂|貴闘力]]、[[三杉里公似|三杉里]]らと共に「大相撲甘党部」を結成していた。
 
* 敬愛する甘味として姫路の玉椿、福岡の筑紫もち、北海道の大沼だんごを自身のベスト3として挙げている。
 
*スイーツ以外にも[[蓬莱]]の豚まんをこよなく愛しており、春場所終わりには大量に買い込んで東京に戻っている。
 
 
=== 大きな太鼓腹 ===
 
* 大きすぎるほどの太鼓腹をした超アンコ型力士であり、特に海外からは、いかにも力士という体型から、ある意味日本以上に人気があったりもした。恐ろしいほど大きく突き出た腹は220キロ超の体重よりも語り草になり、特に立合いの蹲踞時に腹を膨らませてグッと前へ突き出す癖があり、その際のあまりにも大きな腹は、観客からどよめきが起こるほどであった。
 
* 最重量の小錦よりも大きな腹をしており、横綱当時「体重の小錦」「腹の大乃国」との異名もあった。
 
* その非常に大きな体型から、春日野親方(元栃錦)からは「'''[[パンダ]]'''」<ref>[http://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_06 角界「異名」列伝 ウルフの時代] 時事ドットコム</ref>というあだ名が付けられており、1987年6月の力士運動会では大乃国自ら「[[ジャイアントパンダ]]」の扮装をしたことがあった。
 
 
=== その他 ===
 
* 1985年7月、大関に昇進したばかりの北海道巡業中、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『第4回[[全国高等学校クイズ選手権]]』北海道予選の取材を受け、「東京に来て最初に出くわした嫌いなモノは?」という問題を高校生に出題した。正解は[[ゴキブリ]]で、「入門当時、力士たちの集う部屋に入り、足元にうろつくゴキブリを見た瞬間うつ伏せになってしまい、しばらく何もできなかった」と司会の[[福留功男]]に話していた。[[ネズミ]]も幼い頃から苦手だという。
 
* 常識人としても知られ、力士の健康診断では横綱特権(優先検診)をせず順番を守っていた。家事にも積極的で、家庭ごみの分配なども自ら行っている。
 
* 2008年3号より[[ダイヤモンド社]]の隔週刊テレビ情報誌「[[TVステーション]]」にて、「親方に訊け!」というコラムを連載。
 
* 2008年7月28日放送の[[日本放送協会|NHK]]『[[鶴瓶の家族に乾杯]]』で[[ホイアン]]を旅し、現地の子どもたちに相撲を教えた。その際、持参した稽古用[[廻し|まわし]]を半ズボンの上から着けさせた。
 
* テレビ朝日の深夜番組『[[虎の門]]』にゲスト出演しており、番組エンディングの情報コーナーでは「新弟子募集」の告知を必ず行っていた。
 
* 「'''肉の多い大乃国(にくのおおいおおのくに)'''」という[[回文]]がある。[[2010年]][[1月1日]]放送の日本テレビ『[[笑点]]』の新春スペシャルに出演した際に自らネタにした。
 
* 2010年1月6日にテレビ朝日系で放送された『[[史上最強のメガヒット カラオケBEST100 完璧に歌って1000万円]]』内のコーナー「採点カラオケNo.1決定戦」で優勝し賞金30万円を獲得した。
 
* 2013年11月場所後の番付編成会議で、放駒部屋からの移籍組である[[魁猛|魁]]が新関取昇進の内定を得る。しかし西幕下4枚目で4勝3敗の魁の十両昇進は難しいと考え、芝田山は新関取発表日に韓国旅行へ出掛けていた。結局その日の午後5時に慌てて帰国し、正規の会見会場ではなく福岡空港の特別待合室での出張昇進会見が設定された。芝田山は遠路駆け付けた報道陣を気遣い「皆さん、このお返しはスイーツで」。好物を話題に取り上げて笑いを誘ったという<ref>[http://www.daily.co.jp/general/2013/11/28/0006531122.shtml 魁ただ1人新十両 ドタバタ空港会見] Daily Sports Online 2013年11月28日</ref>。
 
* 自身が中卒で入門したことから、大相撲に入門するのは高卒や大卒より中卒の方が良いとしている。「右も左も分からないで入るから良い。相撲ももちろん、社会人としての心構えも身につく。染まっていない時に入るのが大事なんだ」と話しており、自身が新入幕した1983年3月場所は幕内35人中18人が中卒だった<ref>日刊スポーツ 2017年6月1日</ref>。背景として大学中退で角界入りして年下の先輩との関係に悩んだ師匠の放駒親方から、「高校卒業してから相撲取りになって年下のやつに張り倒されるよりは、十五歳で入って先輩から張り倒される方が、まだ我慢できるだろ。」と入門前に言われたことも影響しているという<ref>「負けるも勝ち」P68~69</ref>。
 
* 師匠の放駒親方について、「叱る時、相撲界は“コラッ!”と一発、拳固を食らって済むようなことが多かったなか、師匠は理論的に、理詰めで来る。時に心の臓を撃ち抜かれるくらいの言葉で……。ちゃんこも喉を通らない状態になったこともありますよ。それは、私が横綱を張っていた時でも、変わりませんでした」と引退後述べている<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/824352 相撲春秋 拝啓 放駒元理事長 大相撲復活の礎はあなたが作った ] [[Number]]Web2015年10月20日 </ref>。
 
* [[2016年]]7月31日、大乃国と同じ北海道出身でかつ連勝記録を53でストップさせた「昭和の大横綱」こと元千代の富士・九重親方が61歳で病死。「現役時代よく九重部屋に出稽古に行った。相四つだったので何とか先に左上手を取らせないよう研究した。体重は自分が上でも、力が強かった」と振り返った後、「こんなに早く亡くなるとは思っていなかった」と、先輩横綱の死に驚きを隠せなかった<ref>[http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/700/250109.html 元横綱・千代の富士の九重親方が死去] NHKかぶんブログ 2016年7月31日記事</ref>。
 
* [[2017年]]1月24日、[[二所ノ関一門]]で[[田子ノ浦部屋]]所属の大関・[[稀勢の里寛|稀勢の里]]の第72代横綱への昇進が決まり、1月26日に芝田山は[[横綱土俵入り#雲龍型の土俵入り|雲龍型]]の[[横綱土俵入り]]の指導・継承役を務めた。横綱土俵入りの見せ場である「せり上がり」の際の右手のひらの向きについて、右手のひらの上に粘着テープ1巻を置き、落ちないように上に向けたまま実演して稀勢の里を指導する姿、1987年に若乃花幹士 (初代)が大乃国の土俵入りを直々に指導した過去の写真、映像が報道された姿が報道された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=rTffscAhyOw  KyodoNews2017/1/26 稀勢の里関の綱完成 土俵入り練習、無難に]</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.sanspo.com/sports/news/20170126/sum17012608560006-n1.html|title=稀勢の里の綱完成 芝田山親方が雲竜型の土俵入り指導|work=SANSPO.COM|publisher=産業経済新聞社|date=2017年1月26日|accessdate=2017年1月26日}}</ref>。稀勢の里への指導の最後に、新横綱の大師匠にあたる[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]親方が大乃国の新横綱土俵入り指導で言った「好きにやればいい。横綱がやれば、横綱土俵入りなんだ」の言葉を伝えている<ref>[http://www.sanspo.com/sports/news/20170127/sum17012705030003-n1.html 稀勢、鬼の化粧まわしで教え受けた!芝田山親方が「雲竜型」伝授 サンケイスポーツ2017年1月27日]</ref><ref>サンケイスポーツ特別版「祝誕生!第72代横綱稀勢の里」P10~11 2017年2月6日発行</ref>。1月27日に稀勢の里は東京・[[明治神宮]]で横綱推挙式と奉納土俵入りを行い、大師匠・若乃花幹士 (初代)が使用した化粧廻しを身に着け、18000人の観衆を前に雲竜型を披露<ref>日刊スポーツ 2017年1月27日</ref>、現役時代のライバルだった[[北勝海信芳|八角]]は「同じ型をするんだけど、人によってせり上がりが微妙に違うのがいいところ。大乃国さん(芝田山親方)に教わったから当たり前だけど、やっぱり似ているな、という感じがした」と述べた<ref>[http://www.zakzak.co.jp/sports/etc_sports/news/20170129/spo1701291000005-n1.htm 稀勢の里“正統派”土俵入り継承 不評の白鵬とは違う「手のひらは上に向ける!」  夕刊フジ2017年1月27日]</ref>。
 
*部屋にお客さんが来た時は、「呼出しの克之です。」など、部屋にいる裏方をフルネームで紹介するという。力士だけでなく、裏方も部屋の一員という意識を徹底させ、モチベーションをあげるためである<ref>『裏まで楽しむ大相撲』P148~155「芝田山部屋裏方さん大集合」(ダグハウス)</ref>。
 
* 2018年4月4日に行われた大相撲舞鶴場所にて、[[多々見良三]]が倒れた際に救命処置で土俵に上がった医療関係者の女性に対する、大相撲の女人禁制を優先した対応が物議を醸したが、芝田山は「場内アナウンスの指導や緊急時のマニュアルの作成が必要である」と言う趣旨のコメントをしており、相撲協会全体の問題としてとらえていた。一方で「緊急事態と女人禁制は別の話」としており、一部で女性が土俵を下りた後に大量の塩が撒かれたと報じられたことに対しても「撒かれた塩の量は一般的な量であるし、安全祈願の意味であって女性が土俵に上がったことは関係が無い」という内容の見解を示している<ref>[https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/201804060000829.html 芝田山広報部長、緊急事態と女性を土俵上げる話は別] 日刊スポーツ 2018年4月6日20時43分(日刊スポーツ新聞社、2018年4月9日閲覧)</ref>。
 
* 2018年4月19日、兵庫県宝塚市の中川智子市長が、土俵の女人禁制を見直すことなどの要望書を日本相撲協会とスポーツ庁に提出、対応した理事・広報部長の芝田山は、「わざわざ来ていただくのに、『(要望書を)受け取りました。さようなら』ということはしません」と、向島「長命寺」の桜餅でもてなして約45分も会談し、相撲の伝統などを力説した。“手ぶら”で要望書だけを出しにきた中川市長に、相撲グッズのおみやげまで渡す対応に、「一刀両断に『議論しません』という答えもありうると思っていましたが、『理事会などで議論する』と明言していただきました。誠実に対応してくださった。“柏餅”を出してくださって、親方はとても優しかった」と中川市長は相撲協会の反応にホクホクだった。しかし、芝田山は「関東と関西の桜餅は違うんだよ。関西は道明寺粉というピンクの色がついている。関東は薄い皮であんを包んでいる。俺は“専門家”だから、これは桜餅だと説明したのに…」と残念そうだったという<ref>[https://www.zakzak.co.jp/spo/news/180421/spo1804210002-n1.html 「女人禁制」見直し要望書提出の宝塚市長にスイーツ親方が神対応] (夕刊フジ、2018年4月21日閲覧)</ref>。
 
 
== 主な成績 ==
 
=== 通算成績 ===
 
* 通算成績:560勝319敗107休 勝率.637
 
* 幕内成績:426勝228敗105休 勝率.651
 
* 大関成績:140勝55敗 勝率.718
 
* 横綱成績:155勝79敗105休 勝率.662
 
* 幕内在位:51場所
 
* 横綱在位:23場所
 
* 大関在位:13場所
 
* 三役在位:10場所(関脇9場所、小結1場所)
 
* 連勝記録:19(1987年5月場所初日 - 1987年7月場所4日目)※大関時代に記録
 
* 連続6場所勝利:68勝(1986年11月場所 - 1987年9月場所)
 
* 連続6場所勝利(横綱昇進以降):66勝(1988年3月場所 - 1989年1月場所、1988年7月場所 - 1989年5月場所)
 
* 通算幕内連続勝ち越し記録:21場所(1984年7月場所 - 1987年11月場所)
 
* 幕内連続二桁勝利記録:5場所(1985年5月場所 - 1986年1月場所)
 
* 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1987年5月場所 - 1987年9月場所)
 
 
=== 各段優勝 ===
 
* 幕内最高優勝:2回(1987年5月場所=全勝、1988年3月場所)
 
** 全勝1回
 
* 十両優勝:1回(1983年1月場所)
 
 
=== 三賞・金星 ===
 
* [[三賞]]:7回
 
** 殊勲賞:5回(1983年11月場所、1984年11月場所、1984年3月場所、1984年7月場所、1985年5月場所)
 
** 敢闘賞:2回(1984年3月場所、1985年7月場所)
 
* 金星:4個(北の湖1個・千代の富士1個・隆の里2個)
 
 
=== 場所別成績 ===
 
{{Sumo record box start|大乃国康}}
 
  {{Sumo record year start|1978}}
 
    {{Basho|}}
 
    {{Basho|MAEZUMOU}}
 
    {{Basho|jk|15|w|4|3}}
 
    {{Basho|jo|86|w|3|2|2}}
 
    {{Basho|jo|99|e|5|2}}
 
    {{Basho|jo|49|e|5|2}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1979}}
 
    {{Basho|jo|19|w|3|4}}
 
    {{Basho|jo|32|e|5|2}}
 
    {{Basho|jo|3|e|6|1}}
 
    {{Basho|sa|43|w|3|4}}
 
    {{Basho|sa|53|e|2|5}}
 
    {{Basho|sa|78|w|5|2}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1980}}
 
    {{Basho|sa|46|w|5|2}}
 
    {{Basho|sa|12|w|4|3}}
 
    {{Basho|sa|2|e|2|5}}
 
    {{Basho|sa|29|e|3|4}}
 
    {{Basho|sa|46|e|4|3}}
 
    {{Basho|sa|25|w|6|1}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1981}}
 
    {{Basho|ma|49|w|3|4}}
 
    {{Basho|sa|1|e|4|3}}
 
    {{Basho|ma|48|w|5|2}}
 
    {{Basho|ma|27|w|4|3}}
 
    {{Basho|ma|20|w|5|2}}
 
    {{Basho|ma|8|e|5|2}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1982}}
 
    {{Basho|ma|1|e|4|3}}
 
    {{Basho|j|11|e|5|10}}
 
    {{Basho|ma|6|w|4|3}}
 
    {{Basho|ma|4|e|4|3}}
 
    {{Basho|ma|1|w|5|2}}
 
    {{Basho|j|11|e|10|5}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1983}}
 
    {{Basho|YUSHO|rank=j|r-no=2|tozai=w|win=11|loss=4}}
 
    {{Basho|m|9|w|8|7}}
 
    {{Basho|m|2|w|6|9}}
 
    {{Basho|m|5|e|8|7}}
 
    {{Basho|k||w|6|9}}
 
    {{Basho|m|3|e|10|5|||o|*|*|*}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1984}}
 
    {{Basho|s||e|9|6|||o}}
 
    {{Basho|s||e|10|5|||o|f}}
 
    {{Basho|s||e|6|9}}
 
    {{Basho|m|1|e|10|5|||o|*}}
 
    {{Basho|s||w|10|5}}
 
    {{Basho|s||e|8|7}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1985}}
 
    {{Basho|s||e|9|6}}
 
    {{Basho|s||w|9|6}}
 
    {{Basho|s||e|10|5|||o}}
 
    {{Basho|s||e|12|3|||f}}
 
    {{Basho|o||w|12|3}}
 
    {{Basho|o||e|11|4}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1986}}
 
    {{Basho|o||w|12|3}}
 
    {{Basho|o||e|9|6}}
 
    {{Basho|ho||w|11|4}}
 
    {{Basho|o||w|9|6}}
 
    {{Basho|o||w|8|7}}
 
    {{Basho|ho||e|10|5}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1987}}
 
    {{Basho|o||e|9|6}}
 
    {{Basho|ho||e|9|6}}
 
    {{Basho|o||w|15|0||y}}
 
    {{Basho|o||e|12|3}}
 
    {{Basho|o||e|13|2}}
 
    {{Basho|y||w|8|7}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1988}}
 
    {{Basho|hy||w|5|5|5<ref>肝機能障害により10日目から途中休場</ref>}}
 
    {{Basho|hy||e|13|2<ref>[[北勝海信芳|北勝海]]と優勝決定戦</ref>||y}}
 
    {{Basho|y||w|11|4}}
 
    {{Basho|hy||e|12|3}}
 
    {{Basho|y||w|8|7}}
 
    {{Basho|y||w|11|4}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1989}}
 
    {{Basho|y||w|11|4}}
 
    {{Basho|hy||e|12|3}}
 
    {{Basho|y||w|12|3}}
 
    {{Basho|y||w|1|4|10<ref>右膝関節内障(内側側副靱帯及び内側半月板損傷により5日目から途中休場</ref>}}
 
    {{Basho|hy||e|7|8<ref>横綱皆勤負け越し</ref>}}
 
    {{Basho|KYUJO|rank=hy|tozai=e|<ref>右膝靱帯及び半月板損傷により全休</ref>}}
 
    {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1990}}
 
    {{Basho|hy||e|8|7}}
 
    {{Basho|KYUJO|rank=hy|tozai=e|<ref name="zenkyu">左足関節脛腓靱帯断裂・左脛骨後顆骨折により全休</ref>}}
 
    {{Basho|KYUJO|rank=hy|tozai=e|<ref name="zenkyu" />}}
 
    {{Basho|KYUJO|rank=hy|tozai=e|<ref name="zenkyu" />}}
 
    {{Basho|KYUJO|rank=hy|tozai=w|<ref name="zenkyu" />}}
 
    {{Basho|hy||w|10|5}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
  {{Sumo record year start|1991}}
 
    {{Basho|hy||e|10|5}}
 
    {{Basho|hy||e|12|3}}
 
    {{Basho|KYUJO|rank=y|tozai=w|<ref>右脹脛化膿性蜂窩織炎により全休</ref>}}
 
    {{Basho|INTAI|rank=hy|tozai=e|win=4|loss=5}}
 
    {{Basho|}}
 
    {{Basho|}}
 
  {{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record box end}}
 
 
==改名歴==
 
*青木 康(あおき やすし)1978年3月場所
 
*大ノ国 康(おおのくに - )1978年5月場所-1984年1月場所
 
*大乃国 康(おおのくに - )1984年3月場所-1991年7月場所
 
**※現役引退後に年寄名として・1991年9月場所-1993年3月場所
 
*芝田山 康(しばたやま - )1993年5月場所-
 
 
=== 主な力士(横綱・大関)との幕内対戦成績 ===
 
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
 
|-
 
! 力士名 !! 勝数 !! 負数 !! 力士名 !! 勝数 !! 負数 !! 力士名 !! 勝数 !! 負数
 
|-
 
| [[曙太郎|曙]] || 2 || 1 || [[朝潮太郎 (4代)|朝潮]] || 18 || 13 || [[旭富士正也|旭富士]] || 26 || 10
 
|-
 
| [[北の湖敏満|北の湖]] || 3 || 3 || [[琴風豪規|琴風]] || 8 || 3 || [[霧島一博|霧島]] || 6 || 8
 
|-
 
| [[小錦八十吉 (6代)|小錦]] || 13 || 15 || [[隆の里俊英|隆の里]] || 6(1) || 4 || [[貴乃花光司|貴花田]] || 1 || 0
 
|-
 
| [[千代の富士貢|千代の富士]] || 9 || 23 || [[北尾光司|双羽黒]] || 5 || 5 || [[北天佑勝彦|北天佑]] || 21 || 13
 
|-
 
| [[北勝海信芳|北勝海]] || 20(1)* || 14 ||  [[若嶋津六夫|若嶋津]] || 12(1) || 10 ||  [[花田虎上|若花田]] || 1 || 0
 
|}
 
*他に[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]で北勝海に1勝がある。
 
(カッコ内は勝数の中に占める不戦勝の数)
 
 
== 合い口 ==
 
*「昭和の大横綱」第55代横綱・北の湖とは全く互角の成績だった。
 
*同じく「昭和の大横綱」第58代横綱・千代の富士とは過去幕内で32回取組の内9勝に留まった。又自身が横綱昇進した1987年11月場所以降千代の富士からの勝利は、53連勝で止めた1988年11月と最後の取組となる1990年11月の2場所のみ。
 
*第59代横綱・隆の里とは2つの差で勝ち越している。
 
*第60代横綱・双羽黒とは北の湖同様に五分の成績である。
 
*第61代横綱・北勝海とは大関時代までは16勝7敗と大の得意とし、一時6連勝するなど圧倒していた。だが自身が横綱昇進して以降の成績は、優勝決定戦を含め5勝7敗と逆に分が悪くなった。
 
*第63代横綱・旭富士は三役時代より得意とし、大きく勝ち越している。ただし横綱昇進してからは4連敗を喫するなど、7勝7敗の互角となった。
 
*のちの第64代横綱・曙に初対戦から2連勝したが、最後の取組となる1991年7月場所初日に一方的に押し倒された。
 
*のちの第65代横綱・貴乃花(当時貴花田)と第66代横綱・若乃花(当時若花田)は1991年7月場所で二人共に勝利するも、同場所限りで大乃国が引退の為これが唯一の対戦となった。
 
*先輩大関だった琴風・若嶋津・朝潮・北天佑は、自身が三役定着〜大関昇進後辺りから力関係が逆転し、4人全員揃って勝ち越している。
 
*反対に後輩大関の小錦・霧島と相性が悪く、2人共に揃って2つの差で負け越している。
 
 
== 参考資料 ==
 
* [http://www.kobunsha.com/special/sinsyo/member/serial/pdf/yr005_sm0006.pdf 第62代横綱 大乃国康]光文社のインタビュー
 
* 『横綱』武田葉月(2013年5月)講談社
 
== 関連書籍 ==
 
* 『負けるも勝ち 相撲とは-人生とは』(2008年3月)ISBN 4478003157
 
* 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業』(2006年9月)ISBN 4532165687
 
* 『第62代横綱大乃国の全国スイーツ巡業II』(2009年9月)ISBN 453216706X
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[横綱一覧]]
 
* [[大相撲優勝力士一覧]]
 
* [[現役年寄一覧]]
 
* [[中川昭一]]
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://shibatayama.fc2web.com/index.html 芝田山部屋公式ホームページ]
 
* [http://ameblo.jp/sweets-oyakata 芝田山親方オフィシャルブログ「スイーツ親方のちょっといい話」]本人によるブログ
 
* [http://www.shibatayama.com/ ちゃんこ芝田山]
 
* [http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/onokuni.html 大乃国 康] - goo 大相撲
 
{{大相撲幕内優勝力士}}
 
{{芝田山部屋}}
 
{{現役年寄}}
 
{{歴代横綱|第62代|1987年11月-1991年7月}}
 
{{歴代大関|第219代|1985年9月-1987年9月}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:おおのくに やすし}}
 
{{DEFAULTSORT:おおのくに やすし}}

2018/10/15/ (月) 23:21時点における最新版

大乃国 康(おおのくに やすし、1962年10月9日 - )

昭和後期-平成時代の力士。

昭和37年10月9日生まれ。中学3年のとき魁傑(かいけつ)(放駒(はなれごま)親方)にさそわれ,昭和53年花籠(はなかご)部屋に入門。のち独立した放駒部屋の部屋頭となり,58年入幕。200kgをこす巨体からの寄りを武器に60年大関。62年62代横綱となる。平成3年引退。優勝2回。年寄芝田山を襲名。11年芝田山部屋をおこす。北海道出身。本名は青木康。



楽天市場検索: