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|image= [[File:Nagato Tainei-ji Temple. Grave of Ouchi Yoshitaka and his valet.jpg|250px]]
 
|caption= 大寧寺の大内義隆主従の墓所
 
|conflict=[[戦国時代 (日本)]]
 
|date=[[1551年]][[9月]]
 
|place=[[周防国|周防]]([[大内氏館]])、[[長門国|長門]]([[大寧寺]])
 
|result=大内義隆政権の崩壊
 
|combatant1=[[大内氏]][[ファイル:Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg|15px]]
 
|combatant2=[[陶氏]][[ファイル:Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg|15px]]
 
|commander1=[[大内義隆]] [[ファイル:Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg|15px]]<br />[[大内義尊]][[ファイル:Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg|15px]]<br />[[冷泉隆豊]]
 
|commander2=[[陶晴賢|陶隆房]][[ファイル:Japanese_Crest_Oouchi_Hisi.svg|15px]]<br />[[内藤興盛]]<br />[[杉重矩]]
 
|strength1=2,000<ref name=ziten>戦国合戦史事典(著:小和田泰経 [[2010年]] [[新紀元社]])</ref> - 3,000<ref name=senki>[[歴史群像]]シリーズ49 毛利戦記([[1997年]] [[学習研究社]])</ref><ref name=mouaku>毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社)</ref>
 
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|casualties2=
 
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'''大寧寺の変'''(たいねいじのへん)とは、[[天文 (元号)|天文]]20年[[8月28日 (旧暦)|8月28日]] - [[9月1日 (旧暦)|9月1日]]([[1551年]][[9月28日]] - [[9月30日]])にかけて起こった、周防山口の戦国大名・[[大内義隆]]が家臣の[[陶晴賢|陶隆房(のちの晴賢)]]の[[謀反]]により、[[自害]]させられた政変。この事件で西国随一の戦国大名とまで称されていた[[大内氏]]が実質的に滅亡し、西国の支配構造は大きく変化した。後年の[[本能寺の変]]と並ぶ[[下克上]]の事例ともいわれる<ref name=mouaku />。
 
 
 
== 背景 ==
 
天文10年([[1541年]])、大内氏の傘下の[[毛利氏]]を攻めた[[尼子氏]]は敗退した([[吉田郡山城の戦い]])。これを契機に、[[周防国|周防]]の[[戦国大名]]である[[大内義隆]]は、大内家臣団でも武功派である陶隆房らの主導のもと、天文11年([[1542年]])に大軍を率いて尼子氏の本国・[[出雲国]]への遠征に臨んだが、[[月山富田城]]に籠もって徹底抗戦する[[尼子晴久]]を攻めあぐねる([[第一次月山富田城の戦い]])。ついには、越年した天文12年([[1543年]])2月に大内軍は総崩れとなり、大将・義隆は周防に敗走、甥で養子の[[大内晴持]]に至っては敗走途中の[[揖屋浦]]で溺死するなど、大内方は散々な結果を迎えた。
 
 
 
これにより、勢力の回復を図ろうとして活発化する尼子氏に対して、[[安芸国|安芸]]・[[石見国|石見]]・[[備後国|備後]]などでは大内諸将や[[毛利元就]]らが対抗して出陣するなど、慌ただしくなっていた<ref name=mouaku />([[布野崩れ]]、[[神辺合戦]]など)。一方の義隆は、出雲遠征を主導した陶隆房ら[[武功派]]を国政の中枢から遠ざけた。出雲での大敗が極端なまでの厭戦気運を助長したばかりでなく、政務を[[文治派]]の寵臣・[[相良武任]]に一任して政務から遠ざかり、[[学芸]]・[[茶会]]などに没頭、[[公家]]のような生活を送るようになり、国内治政さえ顧みなくなった。さらには多額の出費を賄うために年貢の増徴も行われ、[[土豪]]や領民も増税に苦しむようになった<ref name=senki /><ref name=mouaku />。
 
 
 
このため、大内家の主導権を巡って武功派の陶隆房・[[内藤興盛]]ら(ひいては、武任の偏重に反発する大内家の[[評定衆]]全体)が、文治派の相良武任を敵対視するようになった。
 
きあ
 
 
 
== 経過 ==
 
=== 謀反に至るまで ===
 
天文14年([[1545年]])になると険悪関係は深刻度を増し、相良武任は隆房を恐れるあまり大内氏を[[辞仕]]、出家後に[[肥後国|肥後]]に隠棲して身の安全を図った。隆房らの巻き返しを受けての武任ら文治派の[[失脚]]の影響と言われる。しかし、天文17年([[1548年]])には義隆の要請を受け大内家に再出仕した。この頃、[[豊前国|豊前]][[守護代]]である重臣[[杉重矩]]が、[[不穏]]な動きをする隆房について義隆に進言したが聞き入れられなかったとされる([[相良武任申状]])<ref name=mouaku />。
 
 
 
天文18年([[1549年]])2〜5月に、大内氏と毛利氏の同盟を強化するための義隆の計らいで、元就が息子たちを連れて山口を訪れて義隆に謁見する。しかし、毛利に近づくための陶の招きとも言われており(相良武任申状)、隆房の嫡男・[[陶長房]]を通じて密書のやりとりがあったとも言われる。また、この長期の滞在の間に隆房と[[吉川元春]]は義兄弟の契りを結んだ。
 
 
 
天文19年([[1550年]])になると、武任と隆房との対立が決定的となり、武任暗殺まで謀られるに至るが、事前に察知した武任は義隆に密告して難を逃れた。しかし、隆房が謀反を起こすという[[伝聞]]が流れるまでになり、義隆の側近である[[冷泉隆豊]]は義隆に隆房の誅殺を進言するほどだった。武任は、美貌で評判だった自分の娘を陶長房に嫁がせることで和睦を図ろうとしたが、隆房が家柄の違いを理由に[[縁談]]を拒否し、融和案は決裂した。
 
 
 
8月24日付けで隆房は、毛利元就・隆元宛と吉川元春宛に2通の密書を書き送りが、「杉や内藤と相談し、義隆を廃し、[[大内義尊|義尊]]に跡目を継がせたい」として協力を求めているのが、隆房が謀反を示す最初の史料とされる(吉川家文書)<ref name=senki />。また、元就を通じて隆房の意向は、[[天野隆綱]]など他の安芸[[国人]]にも伝えられており、隆房への協力の見返りに所領を与えることが約束されていた(天野毛利家文書)<ref name=mouaku />。
 
 
 
9月15日に[[仁壁神社]]・[[今八幡宮]]で行われた例祭での参詣を義隆は急遽欠席し、[[右田隆次]]を代参させた。これは「隆房が、義隆・武任を幽閉する」という噂で、義隆側が警戒したものと考えられている<ref name=senki />。翌16日に義隆は隆房を呼び出して詰問するが、隆房は無実を主張した<ref name=metubou>[http://oouchibunka.jp/ouchishi/outline/07.html 大内氏概略 大内氏の滅亡] - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課/歴史の町山口を甦らせる会)</ref>。他方、武任は同日(16日)に再び大内家から[[出奔]]し、石見の[[吉見正頼]]の元に逃げていた<ref name=metubou />。
 
 
 
11月下旬より隆房は、病気と称して居城[[若山城]]([[周南市]])に籠もり<ref name=metubou />、年が明けた2月の[[修二月会]][[大頭役]]の勤めも果たさなかった(隆房が同役を勤めることは前年から決まっていた)<ref name=senki />。この時、義隆も隆房らの謀反を恐れて、自ら甲冑を着けて居館に立て籠もり、さらに隆房に[[詰問使]]を送るなどしたことから、義隆と隆房の仲は最悪の事態を迎えた。
 
 
 
天文20年([[1551年]])1月、出奔していた武任が、[[筑前国|筑前]]守護代の[[杉興運]]によって身柄を確保された。この一連の騒動で義隆から責任を追及されることを恐れた武任は、相良武任申状において弁明し、「陶隆房に謀反の疑いがあると主張したのは(普段より隆房と不仲であった)杉重矩である。しかし、その[[注進]]が受け入れられなかった重矩は、(隆房の怒りを買わないように保身のため)[[讒訴]]を自分(武任)がしたとすり替えて隆房に近づき、対立していたはずの隆房に寝返った。両名は内藤興盛と共に何か画策している」という根も葉もない讒訴を行なった。つまり、隆房が謀反を起こそうとしており、その対立が生じた責任を杉重矩1人に押し付けて、自らには責任が無いと申し立てたのである。どちらかというと義隆擁護派であった重矩が隆房の謀反に協力するようになったのは、隆房を疑わない義隆に失望したとも<ref name=mouaku />、相良武任申状で讒訴されたことを知ったからともされる。
 
 
 
4月に義隆は、武任を周防に連れ戻して出仕させた。それに対抗するように隆房らは翌5月、[[大友義鎮]]の異母弟・[[大内義長|大友晴英]](義隆の[[姉]]の子=義隆の[[甥]])を大内新当主として擁立する旨に協力を願う密使を[[大友氏]]に送る。北九州における大内領の利権を割譲する代わりに、晴英を貰い受けることで、晴英の快諾と義鎮の許諾を得ている。
 
 
 
=== 陶隆房の蜂起 ===
 
8月10日、武任は隆房を恐れて、大内家から三度目の出奔して筑前に逃走する。
 
 
 
8月20日、隆房は興盛らと共に挙兵。陶軍は最初に東の[[厳島]]の[[神領]]と[[桜尾城]]を接収、呼応して出陣した毛利軍も[[佐東銀山城]]や近隣地域(広島市[[安佐南区]])を接収して、[[山陽道]]の要衝を押さえた<ref name=mouaku />。
 
 
 
8月28日に[[若山城]]から出陣した陶軍は、隆房率いる本隊が[[徳地町|徳地]]口から、陶家臣の[[江良房栄]]・[[宮川房長]]率いる別働隊が[[防府市|防府]]口から[[山口市|山口]]に侵攻した<ref name=senki /><ref name=metubou />。山口に入ったのは同日正午頃で<ref name=mouaku />、杉・内藤の軍勢も呼応して陶軍の陣営に馳せ参じた<ref name=metubou />。陶軍は兵力5,000〜10,000と言われる。
 
 
 
これに対して、義隆の対応は非常に鈍かった。23日には陶軍の山口侵攻の噂で騒然としていたとされるが、[[豊後国|豊後]]大友氏からの使者等を接待する酒宴を続けており、隆房出陣前日の27日には[[能]]興行を行っていた<ref name=mouaku />。隆豊は杉重矩邸への討ち入りを提案するが、義隆は「杉と内藤は敵にはならないだろう」と答えたと伝わる([[大内義隆記]])。
 
 
 
隆房の侵攻を伝える注進が届いてようやく義隆は、[[大内氏館]]・[[築山館]]を出て、多少でも防戦に有利な山麓の[[法泉寺]]に退く<ref name=senki />。[[本堂]]に[[本陣]]を置き、嶽の[[観音堂]]・[[求聞寺山]]などを隆豊らが固めたとされる<ref name=metubou />が、一緒に逃亡した公家たちや[[近習]]らを除けば、義隆に味方した重臣は隆豊くらいであり、兵力も2,000〜3,000人ほどしか集まらなかった。組織的な抵抗もほとんどできず、空となった大内氏館や周辺の近臣邸は、火をかけられたり、宝物を略取されたりした<ref name=mouaku />。前[[関白]]の[[二条尹房]]は興盛に使者を送り、"義隆は隠居して義尊を当主とする"という和睦斡旋を懇願するが、拒否されている<ref name=mouaku /><ref name=metubou />。
 
 
 
[[法泉寺]]の義隆軍は逃亡兵が相次いだことから、翌29日には[[山口市|山口]]を放棄して[[長門国|長門]]に逃亡。法泉寺には、[[陶隆康]]が[[殿 (軍事用語)|殿]]として残って討ち死にしている<ref name=mouaku />。なお、[[継室]]の[[おさい]]の方は、山口宮野の妙喜寺(現在の[[常栄寺 (山口市)|常栄寺]])に逃れた<ref name=metubou />。
 
 
 
[[画像:Nagato Tainei-ji Temple 02.JPG|thumb|大寧寺の「姿見の池」(奥)と「かぶと掛けの岩」(手前)<ref>大寧寺にたどり着いた義隆は、岩に兜を置き、池の水に姿を写して髪の乱れを整えようとしたが、水面に自らが映らないのを見て命運尽きたのを悟ったと伝わる(現地説明板)。</ref>]]
 
[[画像:Nagato Tainei-ji Temple 04.JPG|thumb|冷泉隆豊が自害したとされる大寧寺の経蔵跡]]
 
義隆は、足を痛めながらも[[明|明朝]]には長門[[仙崎]]にたどり着き<ref name=metubou />、海路で縁戚に当たる石見の吉見正頼を頼って脱出を図ったが、暴風雨のために逃れることができなかった。引き返した義隆らは長門深川の[[大寧寺]]に籠り、隆豊らと共に[[戒名]]を授かると、9月1日の10時頃に自害した(中国治乱記)<ref name=mouaku />。隆豊は義隆の[[介錯]]を務めた後、陶軍の中に突撃して壮絶な討死にしたと伝えられる<ref name=mouaku />。また、義隆の嫡男・[[大内義尊]]は従者と共に逃亡するが、2日に陶方の追っ手によって捕らえられ、現在の[[俵山温泉]][[下安田]]にある[[麻羅観音]]の奥で殺害された<ref name="kanban">長門市、俵山温泉観光協会、俵山下安田区住民、俵山旅館組合、俵山温泉旅館組合、俵山温泉合名会社による昭和59年に合同建立された麻羅観音の現地説明板の内容より</ref>。また三男の大内歓寿丸は女装して山中に隠れて生活していたが、翌年に捕らえられ同じく麻羅観音の奥で殺害された<ref name="kanban"/>。ただし、義隆の次男(義尊の弟)である[[問田亀鶴丸]]は、母方の祖父が内藤興盛の孫(興盛の娘の子)であることもあり助命された。
 
 
 
さらに、義隆を頼って京より下向していた二条尹房や前[[左大臣]][[三条公頼]]([[武田信玄]]正室・[[三条の方]]の父)、そして継室おさいの父[[官務]]家[[小槻伊治]]らの公家も殺害された。特に、前[[権中納言]][[持明院基規]]は悲惨な最期だったとされており、義隆を取り巻いていた公家達は、謀反を起こした隆房ら武断派の憎悪を買っていたと思われる<ref name=mouaku />。
 
 
 
=== 結果===
 
相良武任と、武任を匿っていた杉興運ら義隆派は、隆房が筑前に送り出した[[野上房忠]]の軍勢により[[花尾城]]で攻め殺される。武任の首は、隆房によって山口で晒された<ref name=mouaku />。
 
 
 
9月4日、元就は東西条の大内領に兵を進め、義隆派の[[平賀隆保]]が籠もる[[頭崎城]]を攻めた。隆保は頭崎城から逃亡して、[[槌山城]]の[[菅田宣眞]]の元に入った。元就は、吉川・小早川・宍戸らと共に軍勢4000で槌山城を攻め、11日に降伏させた<ref name=mouaku />。
 
 
 
10月、陶氏と姻戚関係にあった石見[[七尾城 (石見国)|七尾城]]主の[[益田藤兼]]が、義隆方の吉見正頼を攻撃<ref name=gunzou>歴史群像シリーズ9 毛利元就([[1988年]] 学習研究社)</ref>。しかし、吉見氏の支城[[能登呂山城]]攻めは、吉見家臣・[[下瀬頼定]]の防戦により失敗した。また、相良武任の子である虎王を捕らえて殺害している。
 
 
 
天文21年([[1552年]])1月に隆房は、杉重矩を長門万倉([[宇部市]])の長興寺で自害に追い込む<ref name=metubou />。これは、重矩が義隆に隆房を讒訴していたことを知ったため(変後に相良武任申状を入手した)と言われている<ref name=mouaku />。
 
 
 
同年3月には、大友晴英を山口に迎えた。新たな大内家当主として家督を継がせた晴英を、[[大内義長]]と改名させると、隆房自らも新たな主君・晴英(義長)へ忠誠を誓う証として晴賢へと改名。こうして、晴賢は義長を[[傀儡]]の当主として大内家の実権を掌握した。
 
 
 
== 影響 ==
 
;大内・陶(周防・長門)
 
:文治的だった義隆政権を否定して軍事力強化に走った義長・晴賢連合の新政権は、大内家支配下にあった国人や諸大名への賦役を増大させたために、かえって反発を受けるなど領国統治に不安を抱えていた。その上、蜂起の際は協力的であった杉重矩が、本来は不仲であった晴賢と再び対立、殺害されるなどして、その政権中枢ですら不安定なものであった。
 
 
 
:天文23年([[1554年]])以降、吉見正頼や毛利元就など大内家(義長・晴賢連合の新政権)からの離反が相次ぎ、義長には家臣をまとめる力は無かった。翌24年([[1555年]])の[[厳島の戦い]]で晴賢が毛利元就に敗れて自害すると、大黒柱を失った大内家は一気に衰退。表面化した大内家臣団の内部対立を調停することもままならないまま、[[毛利氏]]の山口侵攻を受けた義長は[[弘治 (日本)|弘治]]3年([[1557年]])に自害([[防長経略]])。大内氏は義隆の死から6年足らずで滅亡することとなった。
 
 
 
;毛利・尼子(安芸・出雲・備後など)
 
:隆房の謀反に同調した元就は、佐東郡などを領地として得たことに加え、当主が新たになった[[平賀氏]]や[[阿曽沼氏]]が毛利氏の麾下に入ったため、安芸国の大部分を毛利の勢力圏としている<ref name=senki />。
 
 
 
:また、大内氏と激しく抗争を繰り広げていた尼子晴久は、天文21年([[1552年]])4月2日に、出雲・[[隠岐国|隠岐]]・[[伯耆国|伯耆]]・[[因幡国|因幡]]・[[美作国|美作]]・[[備前国|備前]]・[[備中国|備中]]・備後の8ヶ国の守護に任じられた。大寧寺の変の間隙を突いて大義名分を得た尼子氏は、これまで大内の支配下だった備後に出陣する。政変後間もなく出兵できない義長・晴賢に代わり、元就が安芸国人衆を率いて対抗。同年7月から翌22年10月まで断続的に続いた攻防の末に尼子軍を撤退に追い込んだ。これにより、備後の[[山内氏]]・[[宮氏]]・[[和智氏]]・[[三吉氏]]なども元就に服属し<ref name=mouaku />、芸備の有力国人を従えた毛利は、大内・陶に対抗できるだけの勢力を持つことになる。
 
 
 
;吉見(石見)
 
:陶氏と吉見氏は、長年に渡り険悪な関係にあったが、特に義隆と関係の深かった吉見正頼(義隆は正頼の吉見家当主相続の恩人であり、義隆の姉婿が正頼でもある)は、謀反人の陶晴賢と敵対した<ref name=gunzou />。そのため、天文23年([[1554年]])には義隆の姉婿であった吉見正頼が晴賢に対して公然と反旗を翻し挙兵([[三本松城の戦い]])。これが、毛利氏が大内方から独立する[[防芸引分]]のきっかけともなった。
 
 
 
;村上水軍(瀬戸内海)
 
:[[瀬戸内海]]の交通拠点である厳島の権益に注目していた晴賢は、大寧寺の変で真っ先に接収した厳島にて駄別料(通行料)の徴収を始めた。義隆の頃までは、[[村上水軍]]が駄別料徴収を認められていたため、[[村上武吉]]らの反発を招いた<ref name=mouaku />。これが、後の厳島の戦いで村上水軍が毛利方に付く要因の一つとなった。
 
 
 
;その他(国内外)
 
:当時各地で守護と守護代による抗争が繰り広げられていたが、国内屈指の守護が討たれた衝撃は大きく、{{要出典範囲|date=2013年7月|[[畠山義続]]が隠居するなど守護大名の凋落を加速させた。}}
 
 
 
:[[明]]は大内義長を[[簒奪]]者として[[日明貿易]]の再開を認めず、ここに[[勘合貿易]]は名実共に終結した。そして日中間の取引は商人や大名による私貿易・[[密貿易]]が中心となった。
 
 
 
== 要因と評価 ==
 
=== 謀反の理由 ===
 
陶隆房らが謀反を起こした理由については、以下の点が指摘されている。
 
;義隆の治世・政務に対する反発
 
*第一次月山富田城攻め失敗後の義隆が、公家のような文弱な生活を始めたことに対する反発(乱に巻き込まれた公家たちも容赦なく殺害されている)<ref name=ziten /><ref name=mouaku /><ref name=saigoku>戦争の日本史12 西国の戦国合戦(著:山本浩樹 2007年 [[吉川弘文館]])</ref>と、それらにかかる浪費と増税という悪政の是正<ref name=senki /><ref name=mouaku />。
 
*武功派(陶隆房、内藤興盛など)と文治派(相良武任)の関係が決裂し、なおかつ武任を重用し続けた義隆への不満<ref name=senki /><ref name=saigoku /><ref name=mouaku />。
 
**武功派と文治派の実態については、評定衆を務める守護代クラスの重臣と山口の政庁にいた奉行衆や地方の各郡に置かれた郡代などの当主直属の吏僚との対立とも考えられている。義隆の祖父にあたる[[大内政弘]]は晩年([[応仁の乱]]終結後)に自らの権限拡大のため、山口では奉行衆などの政庁吏僚が、それ以外の領国では政弘が任じた郡代に地方支配を当たらせる体制を構築し(守護代の家臣が郡代に任じられた例もあるが、その職務は山口の政庁から指示を受けていた)、その体制は義興・義隆へも継承された。しかしこの体制は、それぞれの領国で影響力を強めたい守護代たちと、当主の意を奉じて郡の統治を行う郡代らとの衝突の要因を生んだ。当主の意向を受けた吏僚たちによって租税徴収などをはじめとする大内氏領国の内政が掌握される一方で、出雲遠征の敗戦後に軍事行動が減少すると軍務を担ってきた守護代の立場が失われていった。その結果、大内氏の政務における実権を奪われた陶晴賢ら守護代の不満の矛先が、相良武任をはじめとする吏僚たちとその背後にいる当主・義隆に向けられたと考えられる<ref>藤井崇 著『中世武士選書‐大内義興』戎光祥出版、2014年、p.155-184</ref>。
 
*天文19年(1550年)に隆房が毛利に宛てた書状によると、当初は義隆を隠居させて嫡子義尊を当主に据える[[主君押込]]を考えていたが、義尊を生んだ継室おさいの方を中心とした派閥(おさいの方に推挙されて取り立てられた者など)が存在しているため、前述の問題を解決させるために義隆・義尊父子を討って大友晴英を擁立するに至った<ref name=senki />。さらに当時は、義尊は義隆の実子では無いという噂もあり(大内義隆記)、事態に拍車をかけた可能性がある。なお、当初計画を変更したのは天文20年(1551年)頃とする場合もあるが<ref name=metubou />、時期ははっきりしない。
 
 
 
;義隆と隆房の対立
 
*もともと東大寺の旧領であった陶の領地の一部を、かつて義隆が東大寺に返還しようとしたことに対する恨み(ただし、最終的に領地返上は実行はされていない)<ref name=gunzou />。
 
*[[文明 (日本)|文明]]14年([[1482年]])に、隆房の祖父にあたる[[陶弘護]]が吉見正頼の伯父にあたる[[吉見信頼]]に暗殺された[[山口大内事件]]の背景として、大内政弘が、応仁の乱で出陣中に留守を守って国政を握った弘護の排除を図った疑惑があり(殺害した吉見信頼はその場で討たれたものの、遺族は赦免されている)、以来、主家・大内氏による当主権威の強化の動きに対して陶氏一族が抱き続けてきた不信感が義隆と隆房の代になって表面化してきたというもの<ref>藤井崇「大内政弘の権力構造と周防・長門支配」『年報中世史研究』32号、2007年。改題・改稿「政弘期の分国支配」藤井『室町期大名権力論』同成社、2013年 ISBN 978-4-88621-650-2</ref>。
 
 
 
=== 大内義隆の対応 ===
 
:隆房謀反の動きについては、早々より杉重矩や冷泉らにより義隆に注進があり、隆房討伐すら提案されていた。しかし、義隆は隆房への疑いを信じようとせず、無策に過ごしていたとされる<ref name=mouaku />。一方で、既に義隆には隆房に対抗する力もなかったと言える。義隆は周防長門を始め7ヶ国の守護であったが、各地の統治を守護代に委ねており、守護代は大きな力を持っていた<ref name=senki />。その上、政務への関心を失った義隆がますます守護代に軍事を一任したため、彼らと任地における国人の癒着は強まっており、軍事力を増強させている。そのため、周防守護代陶氏の力は大内氏を陵駕しており、対抗力は失われていたとされる。
 
:*義隆が元就に送った書状に「家中が錯乱した際には、合力することを申し遣わす」とあり、謀反直前の天文20年(1551年)正月に、謀反に備えて毛利の来援を求めたものとされていたが<ref name=saigoku />、近年の研究では天文5~6年([[1536年|1536]]〜[[1537年]])頃の書状であり大寧寺の変とは無関係とする説(毛利家臣団で反抗的な井上一族の誅殺を考え始めた元就が、義隆に承諾を求めた件での返書)もある<ref name=mouaku />。
 
 
 
=== 反逆への評価 ===
 
*謀反について、隆房自身は「我が運も義隆の御運も、[[天道]]のはからい」として正当化した(大内義隆記)<ref name=senki />。なお、主君への反逆が悪であるという概念が普及する[[江戸時代]]と異なり、不適切な主君を家臣が追い落として新たな主君を迎えるというのは、ある種の自浄作用とする意見もある<ref name=senki />。
 
*天文21年(1552年)、[[幕府]]に使者を送って謀反の正当性を認めて貰っている。また、天文22年([[1553年]])の[[蜷川氏|蜷川家]]文書には、大内晴英の[[偏諱]]や、[[家督]]を継承した晴英への礼物に感謝して[[太刀]]を下賜した記録が残っている(逆に、前述の通り明は、大内義長を簒奪者としている)。
 
*厳島の戦いで陶晴賢を倒した元就は、「義隆父子を討って[[八虐]]を犯した者は、[[天誅]]を逃れられない」として非難し、晴賢の陰謀は「弑逆の悪」([[新裁軍記]])と表現している<ref name=mouaku />。しかし、前述の通り隆房の謀反と同調して行動を起こしていることから、これらは陶と戦った毛利の大義名分を記したものと考えられる。
 
*大友氏重臣の戸次鑑連([[立花道雪]])が後年に事変を振り返り、「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」としている(立花家文書)<ref name=saigoku />。
 
 
 
== 大寧寺の変関与人物の動向 ==
 
<div style="width: 50%; float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
;大内義隆側
 
*'''大内氏'''
 
**[[大内義隆]] - 大寧寺にて自害
 
**[[珠光|大内珠光]] - 大寧寺にて自害
 
**[[大内義尊]] - 陶軍に捕らえられ殺害
 
**[[大内歓寿丸]] - 翌年に陶軍に捕らえられ殺害
 
**[[大内義胤]] - 大寧寺の変の後に生まれ、吉見に逃れる
 
*'''大内氏家臣(重臣・近習等)'''
 
**[[冷泉隆豊]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[右田隆次]] - 大内氏一族、義隆を守って大寧寺討死
 
**[[陶隆康]] - 陶氏一族、義隆を守って法泉寺で討死
 
**[[陶隆弘]] - 陶氏一族、義隆を守って法泉寺で討死
 
**[[貫隆仲]] - 義隆を守って法泉寺で討死
 
**[[天野隆良]] - 安芸国人、天野隆重弟。義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[宗像氏男|黒川隆像]] - 別名宗像氏男、義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[大田隆通]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[岡部隆景]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[岡屋隆秀]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[祢宜右延]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[藤嶋実直]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[伊佐隆光]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[伊佐景久]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[深野隆弘]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[蔵田教信]] - 義隆を守って大寧寺で討死
 
**[[小幡義実]] - 義尊を守って逃亡するが陶軍に捕らえられ殺害
 
**[[佐波隆連]] - 吉見氏への使者となるも帰途討死
 
*'''筑前国'''
 
**[[杉興運]] - 筑前国守護代、筑前糟屋浜で討死
 
**[[杉隆景]] - 筑前国糟屋浜で討死
 
**[[相良武任]] - 逃亡先の花尾城にて自害
 
*'''安芸国'''
 
**[[平賀隆保]] - 頭崎城で毛利の襲撃を受けて逃亡後に自害
 
**[[菅田宣眞]] - 槌山城で毛利に攻められて降伏
 
*'''石見国'''
 
**[[吉見正頼]] - 石見国三本松在城
 
*'''公家'''
 
**[[三条公頼]] - 武田晴信正室父、巻き込まれ殺害
 
**[[持明院基規]] - 正三位権中納言、巻き込まれ殺害
 
**[[大宮伊治|小槻伊治]] - 正四位、大内義隆室父、巻き込まれ殺害
 
**[[二条尹房]] - 関白、左大臣、巻き込まれ殺害
 
**[[二条良豊]] - 巻き込まれ自害
 
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<div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap;">
 
;陶隆房側
 
*'''陶氏'''
 
**[[陶晴賢|陶隆房]] - 反乱軍大将
 
**[[陶隆満]] - 陶氏一族
 
*'''陶氏家臣'''
 
**[[江良房栄]]
 
**[[野上房忠]]
 
**[[宮川房長]]
 
*'''大内氏家臣'''
 
**[[内藤興盛]]
 
**[[内藤隆世]]
 
**[[杉重矩]]
 
**[[杉隆泰]] - [[鞍掛山城|鞍掛]]在城
 
**[[青景隆著]]
 
**[[飯田興秀]]
 
**[[仁保隆慰]]
 
**[[問田隆盛]] - 騒乱中の動静は不明だが、変後に隆房に協力
 
**[[弘中隆包]] - 騒乱中の動静は不明だが、変後に隆房に協力
 
*'''安芸国'''
 
**[[毛利元就]] - 隆房と同調して安芸の義隆側勢力を駆逐
 
**[[天野隆綱]] - 隆房と同調して安芸の義隆側勢力を駆逐
 
*'''石見国'''
 
**[[益田藤兼]] - 隆房と同調して吉見氏攻め
 
 
 
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== 脚注 ==
 
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== 外部リンク ==
 
* [http://oouchibunka.jp/ouchishi/outline/07.html 大内氏の滅亡] - 大内文化まちづくり(山口市文化政策課)
 
* [http://www.taineiji.jp/guide/mainsights.htm 境内散策(大内義隆公墓所)] - 大寧寺公式サイト
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[下克上]]
 
* [[クーデター]]
 
* [[お家騒動]]
 
* [[二階崩れの変]] - 大寧寺の変の前年に大友氏で発生した政変。
 
* [[武田信虎]] - 武田晴信と家臣らによって領国から追放された。
 
* [[吉田郡山城の戦い]] - [[月山富田城の戦い#第一次月山富田城の戦い|第一次月山富田城の戦い]] - '''大寧寺の変''' - [[防芸引分]] - [[折敷畑の戦い]] - [[厳島の戦い]] - [[防長経略]]
 
 
 
{{デフォルトソート:たいねいしのへん}}
 
[[Category:山口県の歴史]]
 
[[Category:日本の戦国時代の戦い]]
 
[[Category:日本の戦国時代の事件]]
 
[[Category:大内氏|戦たいねいし]]
 
[[Category:陶氏|戦たいねいし]]
 
[[Category:1551年の日本]]
 
[[Category:1551年の戦闘]]
 

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