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(内容を「 '''天理教'''(てんりきょう) 大和国山辺郡三昧田村 (奈良県天理市) の庄屋前川半七,きぬの長女として生れ,のちに中山善…」で置換)
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{{Otheruses|日本の天理教|中国で19世紀に発祥した天理教|天理教 (中国)}}
 
{{Infobox 組織
 
| 名称 = 天理教
 
|画像 = Tenrikyo emblem.svg
 
|画像サイズ = 100px
 
|画像説明 = 天理教の紋(中山家の家紋、梅鉢を象ったもの)
 
|画像2 = Tenrikyo Headquarter improved.jpg
 
|画像サイズ2 = 250px
 
|画像説明2 = 教会本部。正面が南礼拝場、右手が東礼拝場、左手が西礼拝場
 
|画像3 =
 
|画像サイズ3 =
 
|画像説明3 =
 
| 略称 =
 
| 前身 =
 
| 後継 =
 
| 設立 = [[1838年]]
 
| 廃止 =
 
| 種類 = [[宗教法人]]
 
| 地位 =
 
| 目的 =
 
| 本部 = {{JPN}} [[奈良県]][[天理市]]三島町1-1<ref>{{Cite web |date=2015-10-04 |url=http://www.tenrikyo.or.jp/yoboku/information/2015/10/04/20614/ |title=宗教法人天理教および宗教法人天理教教会本部 地番表示変更 |publisher=天理教公式ホームページ |accessdate=2016-06-08}}</ref><ref group="注">[[2015年]]10月4日までの地番表示は「三島町271」であった。</ref>
 
| 位置 =
 
| 貢献 =
 
| メンバー =
 
| 言語 = [[日本語]]
 
| リーダー =
 
| 人物 =
 
| 機関 =
 
| 設立者 = [[中山みき]]
 
| 関連組織 =
 
| スタッフ =
 
| ボランティア =
 
| 予算 =
 
| ウェブサイト = [http://www.tenrikyo.or.jp/ TENRIKYO]
 
| 補足 =
 
}}
 
'''天理教'''(てんりきょう)は、[[日本]]で[[江戸時代]]末に成立した[[新宗教]]の一つ。[[中山みき]]を[[教祖]]<ref group="注">天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。</ref>とする[[宗教団体]]である。狭義には[[奈良県]][[天理市]]に本拠地を置く[[宗教法人|包括宗教法人]](宗教法人天理教)およびその傘下の被包括宗教法人(教会本部及び一般教会)を指すが、広義には中山みきが伝えた教義そのものを指す場合があり、信仰する単立の宗教法人もある。本稿では、狭義の天理教を中心に述べる。
 
  
== 概要 ==
+
'''天理教'''(てんりきょう)
{{出典の明記|section=1|date=2010年4月}}
 
[[File:Yokoso-Okaeri Tenri-e sign.JPG|thumb|250px|「ようこそおかえり」の標示]]
 
[[File:Tenrikyo Happi used as uniforms for Tenrikyo followers.jpg|thumb|200px|1950年代に撮影された「天理教」のハッピ]]
 
「宗教法人天理教」及びその被包括法人である「宗教法人天理教教会本部(略して教会本部)」は奈良県天理市にあり、またその傘下にある一般教会は各地に点在する。
 
 
 
神名(かみな)は天理王命(てんりおうのみこと)で「親神」、「親神様」とも呼称される<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 579 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref><ref name="jiba1">{{Cite journal |author = 森進 |date = 2009-03 |title =「おぢば帰りの行為と意味」(上)―天理教の聖地「ぢば」― |journal = 天理大学学報 |volume = 60 |page = 69-102 |publisher = 天理大学 |issn = 03874311 |url = https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2293/GKH022006.pdf |format = PDF |accessdate = 2016-02-01}}</ref>。教会本部、各地の一般教会では、天理王命とともに教祖と御霊の社を置き礼拝しているが、一神教(一つの神のみを信仰する宗教)である。「陽気ぐらし」という世界の実現を目指している。教祖は[[中山みき]]<ref group="注">中山美伎、美支とも</ref>。天理教では「教祖」と書いて「おやさま」と呼称している。明治20年([[1887年]])に、教祖・みきは90歳で死去したが、天理教では目に見える存在の「現身(うつしみ)を隠した」のであり、その魂は今でも「元の屋敷(現在の教会本部)」に留まっており、人々の暮らしを見守り守護しているとしている「教祖存命の理」が、天理教信仰の根本的な精神的支柱となっている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 159 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref><ref name="jiba1" /><ref name="syoya">{{Cite journal |author = 池田士郎 |date = 2006-03 |title = 庄屋善兵衞とその妻 : 天理教立教当時の精神史点描 |journal = Journal of Research Office for Human Rights |volume = 9 |page = 1 |publisher = 天理大学人権問題研究室 |issn = 1344-0802 |url = https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2466/JNK000901.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}</ref>。
 
現在の統理者は[[真柱]](しんばしら)・中山善司。
 
 
 
天理教では、人間の[[命]]の発祥地の中心を「ぢば」(地場)と称し、[[明治8年]](1875年)[[6月29日]](陰暦5月26日)に教祖の「ぢばさだめ」という啓示でその場所を定めている。二代真柱の[[中山正善]]によれば「ぢば」という言葉には特別に意味は無く、教祖はあくまで「場所」という日本語のニュアンスで使用していたとさし、その後の教勢の発達と時間的な経過とともに「ぢば」は天理教義的な観点から「人間の宿し込みの地点」と意味が明示され、場所な視座ではその証拠として据えられている「かんろだい」のある特定の地点と定義されるようになったとされる<ref>{{Cite book |author = 中山正善 |authorlink = |coauthors = |date = 1999年4月1日 |title =第十六回教義講習会第一次講習録抜粋|publisher = 天理教道友社 |page = 241-242 |isbn = }}</ref><ref name="jiba1" />。この「ぢば」は「元なるぢば」「かんろだいのぢば」の意味もあり、天理教の信仰の対象であり、中心であるとされている<ref group="注">この他にも「ちば」は「よろづたすけ」の源泉や、天理王命の神名が授かったところであるという意味もあるとされている。({{Cite journal |author = 森進 |date = 2009-03 |title =「おぢば帰りの行為と意味」(上)
 
―天理教の聖地「ぢば」― |journal = 天理大学学報 |volume = 60 |page = 69-102 |publisher = 天理大学 |issn = 03874311 |url = https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2293/GKH022006.pdf |format = PDF |accessdate = 2016-02-01}})</ref>。このようなぢばの意義は「ぢばの理」と呼ばれている。現在の天理教教会本部は、この「ぢば」を中心に建られており、神殿の四方に建てられたすべての建物を「かんろだい」の礼拝所とし、全国の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている<ref name="kazi">{{Cite web |date=2008 |url=http://www2.kokugakuin.ac.jp/frontier/publication/bulletin1_10.pdf |title=民俗宗教における柱の信仰と儀礼 |format= PDF |publisher=宮家 準 |accessdate=2015-08-10}}</ref>。通常は、丁寧語の「お」をつけて「おぢば」と呼び、人がこの地を訪れることは、故郷に帰ることであるから、「おぢばがえり」と呼んでいる。そのため天理駅や天理市内の関係者の宿泊施設である信者詰所などには「お帰りなさい」や「ようこそおかえり」などという看板が見られる。
 
 
 
[[File:Tenrikyo kyokaihonbu rouka.jpg|thumb|天理教教会本部南礼拝場と教祖殿をつなぐ回廊]]
 
「ぢば」の中心には、人間創造のあらわす六角形の「かんろだい」(甘露台)<ref>[http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/shiryou/images/yokozu.gif 横から見た図] hiryou/images/uezu.gif 上から見た図][http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/shiryou/images/hozo.gif ホゾの図] 天理と刻限サイトより</ref>が置かれた「神殿」が建てられ<ref name="kazi" />、四方から囲むように信者等が礼拝する四つの「礼拝場」(らいはいじょう)がある。そのほか教会本部には、教祖が存命のまま暮らしているとされる「教祖殿」(きょうそでん)、[[御霊]]を祀る「祖霊殿」(それいでん)などがあり、信仰に関係なく誰もが自由に出入りすることができ、南礼拝場は24時間開かれている<ref>[http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/visiting/worship/ 参拝のご案内 | 天理教・はじめてのかたへ – 天理教公式サイト]</ref>。「神殿」では、毎日朝晩に「おつとめ」という定時定例の礼拝が行われており、また毎月26日は、「月次祭」(つきなみさい)という礼拝が行われる。傘下にある一般教会などにおいても、その例に倣い、「親神」「教祖」「御霊」を祀る御社を設置し、「おつとめ」や「月次祭」の礼拝が行われている<ref group="注">傘下の一般教会での「おつとめ」の時間や「月次祭」の日付はそれぞれ教会ごとで異なる。</ref>。
 
 
 
「おつとめ」の「お」は丁寧語としてつけられたもので、天理教での公式な呼称は「つとめ」であり、その定義や種類は複数存在する。特にこの朝晩におこなう「つとめ」は「朝勤・夕勤」「朝夕のつとめ」などと呼ばれ、礼拝する際には、信者は「あしきをはろうてたすけたまえてんりおうのみこと」などと唱え、そこに定まった手振りを加え、主神の親神天理王命に感謝したり祈りをささげている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 557 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref><ref group="注">「朝夕のつとめ」は「かぐらづとめ」の「座りづとめ」の部分と同様であり、実際には、「あしきをはろうてたすけたまえ」で始まる詞句を21回、「ちょいとはなし」で始まる詞句を1回、「あしきをはろうてたすけせきこむ」で始まる詞句を3回ずつ3度に分けて唱えている。</ref>。
 
 
 
かつて[[教派神道]]の一派として公認され活動していた(詳細は後述)ため、[[神葬祭|葬儀式]]などに見られるように神道の影響を大きく受けており、現在も「神道系宗教」とみなされることが多いが、教団側では新宗教諸派と称しており、宗教法人としての届けは「諸教」としてなされている。[[文化庁]]の宗教年鑑では「諸教の諸教団」として分類されている<ref>{{Cite web |url= http://www.bunka.go.jp/shukyouhoujin/nenkan/ |title= 宗教法人と宗務行政 宗教年鑑 |accessdate= 2014-04-29 |publisher= 文化庁 |archiveurl= https://web.archive.org/web/20140422230013/http://www.bunka.go.jp/shukyouhoujin/nenkan/ |archivedate= 2014年4月22日 |deadlinkdate= 2017年10月 }}</ref>。
 
 
 
天理教は「かなの教え」とも説かれる{{要出典|date=2016-02-15}}。教祖である中山みきが、民衆にも分かりやすく説きたいとの意思から、『[[おふでさき]]』『みかぐらうた』が仮名で書かれている。教義などに使われる言葉の多くが「かな表記」にされている<ref group="注">「ぢば」は「地場」、「いんねん」は「因縁」、「おふでさき」は「御筆先」、「みかぐらうた」は「神楽歌」と言った語源があるものの、現在では教団内では全てかなで表記される。</ref>。
 
 
 
基本的に信者達は、[[法被|ハッピ]]を平服の上から着用する。明治22年([[1889年]])に、奈良県[[秋津村]](現・[[御所市]])の新道開削のために地元の信者数百人が揃いの法被を着用したのがはじまりとされている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 745 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。その後に「ハッピ」と表記されるようになり、昭和2年([[1927年]])にその表記が統一され、基本的に黒地で、背中には「天理教」「TENRIKYO」の文字が、襟表には所属団体名などが白字で記載されている<ref group="注">通常、表側(右側)の襟に所属の本部直属教会名を、下側(左側)の襟に所属分教会・布教所名などを入れる。ただし修養科生が着るハッピについては、表側の襟に「修養科生」、下側の襟に大教会名を書く。</ref>。現在では、祭典などの公的行事のほかひのきしんやにをいがけなどの活動時などにも着用し、天理教のトレードマーク、象徴となっている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 746 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
=== 教義・教理 ===
 
天理教の教典の一つである『天理教教典』の第三章「元の理」には、天理教の根本教義が示されており、「この世の元初まりは、どろ海であった。月日親神は、この混沌たる様を味気なく思召し、人間を造り、その陽気ぐらしをするのを見て、ともに楽しもうと思いつかれた。」と書かれている<ref name="youki">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 928 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。親神が人間を造ったのは、泥海と表現されるような[[カオス|混沌]]と化した状態であった世界を面白くなく感じて、人間が明るく勇んで暮らす「陽気ぐらし」を見て、人間とともに「よろこび」「たのしみ」たいと思ったからであり、親神の守護と恵みにより、人間は生かされており、天然自然が存在すると説かれている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 894 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。人間の役割は、親神が見たいと説く陽気ぐらしの実現にほかならず、親神によって生かされているという謙虚な気持ちを持ち、欲を捨て、嘘をつかず、平和で豊かな世界を目指すことが重要であるとされる<ref name="youki" />。
 
 
 
改訂天理教事典によれば、天理教には「'''この世は神のからだ'''」、「'''いちれつ兄弟姉妹'''」、「'''身の内のかしもの・かりもの'''」、「'''ほこり'''」、「'''いんねん'''」の主に5つの教理が存在する<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 204 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
このうち「この世の中は神のからだ」「身の内のかしもの・かりもの」「ほこり」は中心的な教説であり、この世の中は親神の守護の世界であり、人間の身体的生命(身上)をはじめとして、一切の物事は親神の「かしもの」であり親神からの「かりもの」であるという天理教独自の教理が存在し、心だけが自分のものとして自由に使うことが許されているとされる<ref name="youki" />。親神の教えに反する心遣いを埃(ほこり)にたとえて「ほこり」と呼称し、心の使い方次第でこれがたまると説き、自己中心的な心遣いを慎むよう、また親神の思いにそって身体を使うことが重要であり、常日頃から「ほこり」を払う(掃除)ように説いている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 203 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
「いちれつ兄弟姉妹」の教えでは、人間はすべて親神天理王命を親とする同一兄弟姉妹であるとされ、互いに助け合い信心和楽の陽気世界の実現を目指し、弛むことなく努力を続けるべきだとされる<ref name="yutatu">『諭達』第三号(2012年10月26日発行、天理教教会本部)</ref>。天理教のこの教えは、[[キリスト教]]の「[[隣人愛]]」や「兄弟愛」に類似する点があるが、天理教では単に同信、同宗のみならず、他宗教や敵対する人々も兄弟姉妹とみなしており、その点では異なる<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 41 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
「いんねん」([[因縁]])は元は[[仏教]]用語であり、天理教での教理としては現在の事象が過去の事象に基づいて存在するという考えや、現在の事象のもととなる過去の事象をさす一般的な用法に近いとされる<ref name="innen">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 63 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。天理教ではうまれかわりが教義として存在するため、因縁は一代かぎりではなく、前世のもの、あるいは末代の理とされ、陽気暮らし世界実現のために人間を創造した親神の「元のいんねん」を自覚し、懺悔し、その悪しき心遣いといんねんを納消しなければならないととかれている<ref name="innen" />。
 
 
 
また、天理教では人間社会の根本的な基盤として親子・夫婦関係が重要視されている<ref name="fufu">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 783 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。人間創造の経緯を示した「元初まりの話」や<ref group="注">「どろうみ」の中に混じっていた「うを」(魚)が男の雛形(原型)、「み」(蛇)が女の雛形とされ、夫婦の雛形とし、男雛形には「しやち」(鯱)を仕込み、女雛形には「かめ」(亀)を仕込んでそれぞれ男女を創造したという教え。</ref>、教典のひとつでもある『みかぐらうた』の中にも夫婦について言及した部分は多い。
 
結婚観については基本的に男女の両性が愛し合うことが前提とされており、2015年度に発行された信仰の指導文書である『諭達』でもその保守的な立場を堅持している<ref name="yutatu" /><ref name="fufu" />。離婚についての否定は存在せず、教典『おさしづ』には夫婦の縁は切れても、「いちれつ兄弟姉妹の理」は忘れてはならないとの記述がある<ref name="fufu" />。
 
 
 
天理教の教理には「かしもの・かりものの理」があるため、誕生は親神から体を借りることであり、死は借りた体を返すだけであるという死生観が存在する。教義では、死ぬことは終わりではなく最初から新しく「出直す」のであり、死は「出直し」と呼称される<ref name="shi">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 395 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。体を借りる主体者は「魂」(心)であり、その実在の場は「この世」以外にないとし、主体者である自己の同一性は魂によって存続すると説かれている<ref name="shi" />。
 
 
 
「人たすけたらわがみたすかる」という教祖の言葉が重んじられるように、天理教では「人助け<ref group="注">天理教では『人だすけ』と表記</ref>」が基本理念にあり、それは「自らが真にたすかる道」とされている<ref name="yutatu" />。
 
 
 
信者の積極的な神恩報謝の行為をすべて「ひのきしん(日の寄進)」と呼ぶ。「ひのきしん」は天理教信仰を具現化、行為化、した姿そのものであると説かれている<ref name="hino">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 767 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。日々健康に生きられることを親神に感謝し、その感謝の意味を込めて、親神のために働くことをいう。歴史的には天理教草創期から存在し、元治元年([[1864年]])の「つとめ場所」の棟上げからはじまり、その後の神殿や教祖殿、「おやさとやかた」など教団関係施設の建設の普請につながっている。現在では、教会本部や傘下の一般教会での清掃活動をはじめ、地域における奉仕活動、災害時における「災害救援ひのきしん隊」の派遣などが行われている<ref name="hino" />。
 
 
 
天理教の祭典の中心の行事となるのが「つとめ」であり、幾つかの種類が見受けられる。教義上で最も重要とされるものは親神天理王命に「たすけ」(救済)の実現を祈る「つとめ」であり、その中でも「神楽面」を被り「元初まりの理」や親神の守護の様子を表現する「かぐらづとめ」は特別視され、現在では教会本部でしか行われておらず、一般教会で面をつけることは禁止されている<ref name="tutome">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 557 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref><ref group="注">これに関しては教団内でも教典や教祖・みきのことばの解釈の問題から異論が存在し、また同時にタブー視されている面もある({{Cite journal |author = 福島ひとみ, 金子珠理ほか |date = 1998-09 |title = 天理教とフェミニズム |journal = Womansprit |volume = 26 |publisher = フェミニズム・宗教・平和の会 |url = https://nwec.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16190&file_id=22&file_no=1 |format=PDF |accessdate=2015-09-01}})実際に宗教法人天理教の傘下から離れ、活動している団体もある。</ref>。一般教会でも執り行われるのが「てをどり」と呼ばれる「つとめ」であり、『みかぐらうた』の「十二下り」をつとめる。これは親神への感謝を捧げ、世の中が陽気世界への建て替わっていくことを祈ることを意味している。「かぐらづとめ」は12通りあるものの、現在ではほとんどの場合そのうちの一種類が行われ、これと「てをどり」をあわせて「よろづたすけのつとめ」と称している<ref name="tutome" /><ref group="注">普段から朝夕に定時定例に行われる「おつとめ」はこの「てをどり」の「座りづとめ」の部分である。</ref>。
 
 
 
=== 教勢 ===
 
天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、最も多かった時期である昭和初期の昭和13年([[1938年]])の『[[時事年鑑]]』には信者数4,559,000人の記述があり<ref name="kyozei">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 276 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>、多いときには300万人から500万人以上にのぼったといわれている。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している([[#宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体|分派については後述]])。また、当時の日本であった朝鮮半島や台湾においても布教が進み、現地人の信者が増加した([[#海外布教|海外布教については後述]])。戦前においては[[新宗教]]の中で最も大きな教団に成長した。終戦後は、戦後復興期には増加の傾向が見られたものの、その後は減少の一途を辿り、平成4年末での公称では185万人程度としている<ref name="kyozei" />。この中には、他宗教に帰依した状態で天理教の信仰を行なっている者の数も含まれている。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘によれば、統計を比較した場合に、ようぼく(天理教の布教伝道者、後述)の誕生数が、信者の増加を目指した「1・3・3運動」が展開された教祖80年祭([[1966年]])の最盛期(年間3万7681 人)と比べて、2014年度のようぼくの誕生数(5850 人)は85%減少しており、実際には多く見積もっても50~100万人程度ではないかと指摘している<ref>{{Cite web |date=2008 |url= http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/blomaga/rekishi-genjitu.pdf |title= 天理教の歴史と現実=信仰の自立にめざめよう |format=PDF |publisher= 植田義弘 |accessdate=2015-08-10}}</ref>。文化庁の『宗教年鑑 平成29年版』では119万9955人となっている<ref>文化庁『宗教年鑑 平成29年版』p. 87</ref>。
 
教会数は2015年末の教内統計で16677とされている<ref name="mititomo">『みちのとも』2016年2月号、天理教道友社、2016年2月1日発行</ref>。
 
 
 
=== 沿革 ===
 
==== 教祖在世時代 ====
 
[[天保]]9年[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]([[1838年]][[12月9日]])の夜四ッ刻(午後十時)、長男・秀司の足の病の原因究明と回復のために、[[修験道]][[当山派]][[内山永久寺]]の配下の山伏、中野市兵衛に祈祷を依頼した<ref group="注">中野市兵衛の天理教との関わりは、秀司の足の病の祈祷のために天保8年(1837年)10月に寄加持を行ったのがはじめてで、その後は秀司の症状が悪化するたびに中山家で寄加持が行われていた。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所
 
|authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 39,146,147,690-695,810 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。その時市兵衛が災因を明らかにするためにする憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となる。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入った<ref name="kazi" />。このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいる<ref group="注">「月日」とは天理教主神・天理王命をあらわすことばであり、天理教では人間にとって身近な存在である月日のように親しみを感じやすくさせるために「月日」と呼ぶとされる。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所
 
|authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 549 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。このときに憑依を悟った市兵衛が「あなたは何神様でありますか」と問うたところ、みきは「'''我は天の将軍なり'''」あるいは「大神宮」とこたえた<ref name="syoya">{{Cite journal |author = 池田士郎 |date = 2006-03 |title = 庄屋善兵衞とその妻 : 天理教立教当時の精神史点描 |journal = Journal of Research Office for Human Rights |volume = 9 |page = 1 |publisher = 天理大学人権問題研究室 |issn = 1344-0802 |url = https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2466/JNK000901.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}</ref><ref name="tenri">{{Cite news | title = 天理教 | newspaper = [[国民新聞]]『月曜静観』 | date = 1935-06-03 |author = [[五来欣造]] |url = http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10067494&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1}}</ref>とされる。市兵衛があらためて「天の将軍とは何神様でありますか」というと「'''我は元の神・実の神である。この屋敷にいんねんあり。このたび、世界一れつをたすけるために天降った。みきを神のやしろに貰い受けたい。'''<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所
 
|authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 147 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>」あるいは「我はみきの体を神の社とし、親子諸共神が貰い受けたい。<ref name="tenri" />」と語り、親神(おやがみ)・天理王命(てんりおうのみこと)がみきに[[憑依]]し[[天啓]]を受けたとされている。中山家は古くから村の庄屋や年寄といった村役人をつとめる家であり<ref name="syoya" />、同時に質屋業を営んでおり、みきの伝記である稿本天理教教祖伝には「子供は小さい、今が所帯盛りであるのに神のやしろに差上げては、後はどうしてやって行けるか善兵衞としても、元の神の思召の激しさに一抹の懸念は残るが、さりとて、家庭の現状を思えば、どうしてもお受けしようという気にはなれないので、又しても、一同揃うて重ねてお断り申し、早々にお昇り下さい。」とあるように、再三辞退を続けたが、みきが「元の神の思わく通りするのや、神の言う事承知せよ。聞き入れくれた事ならば、世界一列救けさそ。もし不承知とあらば、この家、粉も無いようにする。」と申し出を受け入れるならば、世の人々を救済するが、拒めば中山家を滅ぼすとこたえ、最終的にみきの家族の反対を振り切る形で、[[10月26日 (旧暦)|10月26日]](同年[[12月12日]])になって、夫の善兵衛がみきを「月日(神)のやしろ」となることを承諾した<ref name="kazi" /><ref name="syoya" /><ref name="tenri" />。そのときのみきは「満足、満足」とこたえて、憑依が終わったとされている<ref name="syoya" />。みきの三男で後の初代[[真柱]]・[[中山眞之亮]]の手記に「御持なされる幣を振り上げて紙は散々に破れ御身は畳に御擦り付けなされて遂に御手より流血の淋漓たる」と書かれているように、この間のみきは衰弱していた<ref name="syoya" /><ref>『教祖様御伝』(中山新治郎『復元』33号、天理教教義及史料集成部、1958年4月)</ref>。天理教では、この日を「立教の元一日」と称し、ここから天理教の歴史が始まったとされる。
 
こうして天理教が立教されたが、みきはしばらくすると屋敷内の内蔵にこもりがちになり、遂には終日出てこずに内蔵に籠った教祖が誰もいないはずの蔵の中で誰かと話をするかのように眩く声が蔵の外まで漏れて聞こえてくることもあった<ref name="syoya" />。次第に中山家の評判は悪化し、史実でも庄屋中山善兵衞の名前は[[天保10年]](1838年)3月晦日付「宗旨御改帳」を奉行所へ提出したのを最後に地方文書から消えている<ref name="syoya" />。
 
 
 
その後、みきは天理王命の神命に従い、例えば、近隣の[[貧民]]に惜しみなく財を分け与え、自らの財産をことごとく失うことがあっても、その神命に従う信念は変わらなかったとされる。
 
 
 
41歳で「月日のやしろ」に定まったみきの精神状態は不安定で、幾度か池や井戸などに身を投げようとしたこともあった<ref name="nen">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所
 
|authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 971-984 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>みきだが、その後、内蔵に篭ることもなくなり、精神状態は回復したものの、家財や道具を貧民に施したり、屋敷を取り払い、母屋や田畑を売り払えといったみきの言動は家族や親戚のみならず、村人や役人までもが不信感を抱くようになり、天保13年([[1842年]])には夫・善兵衛をはじめ多くの親族が、みきの行為を気の狂いか憑きものとして、元に戻るように手を尽くしている<ref name="nen" />。
 
 
 
この後、長らく具体的な布教は行われず、嘉永6年([[1853年]])に夫・善兵衛が死去すると、当時17歳であった五女のこかんに[[浪速]](現在の[[大阪]])・[[道頓堀]]へ神名を流させに行かせたとされている<ref name="nen" />が、これについては後に教団が信者から献金を受けるために事実が歪曲化、脚色されたという説が存在して<ref name="his" /><ref group="注">現在の天理教ではこのことを布教活動である「にを(お)いがけ」の開始としているが、天理教の講師であった八島秀雄ほか、フリーライターの早川和広、宗教学者の[[村上重良]]らも史実的根拠が乏しいとして、こかんが浪速へ向かったのは長男・秀司の米相場失敗による借金返済のためであるという説を採用している。</ref>。翌年、三女・はる懐妊の際にみき自ら安産祈願の儀式的行為である「をびや(おびや)許し」をはじめて施した。これが従来の[[毒忌み]]や凭れ物、腹帯といった慣習に従わなくても、容易に安産できるとして次第に評判を呼び、これをきっかけとして近隣の住民の信仰を集め、また人々の病気を治すなどの奇跡を起こし、みきの評判や教えは広がっていた<ref name="nen" />。
 
 
 
[[元治]]元年([[1864年]])ごろにはみきを慕うものも増え、旧暦10月26日に専用に「つとめ場所」を建築。またこの年春ごろより、天理教の救済手段とされる「さづ(ず)け」のはじめとして、みきが信者に授けた扇によって神意をはかることができるとする「扇のさずけ」と「肥のさずけ」を開始<ref group="注">「扇のさずけ」はみき死後に飯降伊蔵による「御指図」で禁じられている。</ref>、この頃には辻忠作、仲田儀三郎、山中忠七ら古参として教団形成に影響を与えた人物や、みきから唯一、「言上の許し」を与えられて神意を取り次いだ後の本席である[[飯降伊蔵]]夫妻が入信している。しかし信者らは、天理教への信仰さえあれば、みきから「をびや許し」や「たすけ」を受けられ、医者から治療を受ける必要はないと説いたために[[大和神社]]の神官や地元の僧侶、村医者などが論難にくるようになり、これは明治7年([[1874年]])に[[教部省]]から出された「禁厭祈疇ヲ以テ医薬ヲ妨クル者取締ノ件」という布達に違反、また明治13年([[1880年]])に制定され、翌年から施行された当時の[[大阪府]]の違警罪の一項「官許を得ずして神仏を開帳し人を群衆せしもの」にも違反し、警察からの取り締まりを受けるなど権力との対立が表面化していった<ref name="his">{{Cite journal |author = 島田裕巳 |date = 2008-09 |title = Historical Changes in the Criticism of New Religions(<Special Issue>Criticism of Religion) |journal = 宗教研究/日本宗教学会編 |publisher = 日本宗教学会 |issn = 03873293 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110006937277.pdf?id=ART0008841983&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1442107588&cp= |format=PDF |accessdate=2015-09-01}}</ref><ref name="femi">{{Cite journal |author = 福島ひとみ, 金子珠理ほか |date = 1998-09 |title = 天理教とフェミニズム |journal = Womansprit |volume = 26 |publisher = フェミニズム・宗教・平和の会 |url = https://nwec.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=16190&file_id=22&file_no=1 |format=PDF |accessdate=2015-09-01}}</ref>。こうしたなかで、信者らは各地に出向き布教を行いはじめ、みきも[[慶応]]2年([[1866年]])、『あしきはらひ たすけたまへ てんりん(てんり)おうのみこと』の歌と手振りを教示、翌年には『御神楽歌(みかぐらうた)』の製作を開始し、手振りのほかにも鳴り物の稽古もはじめた。地元住民からも苦情が相次ぐ中で、側近達は、教団としての認可活動を得ることを試みたが、親神は教会の認可活動を認めず、幾度と無く反対の意思を示している<ref name="his" />。同年に長男・秀司が[[神祇管領長上|京都神祇管領]][[吉田家]]に願い出て、7月23日に布教認可を得て公認となり迫害は収まった<ref group="注">認可は明治維新後に無効となっている。</ref>。その間にみきは神命に従い、明治元年([[1868年]])には、『みかぐらづとめ』を完成、翌明治2年([[1869年]])正月から『[[おふでさき]]』を書き始め、第一号(正月)と第二号(3月)を執筆、翌年には『ちよとはなし』『よろづよ八首』の教授、同6年には飯降伊蔵に命じての「甘露台(かんろだい)」の雛形(模型)製作、同8年6月29日(旧暦5月26日)の「ぢば定め」など、天理教の基を築いていった。
 
 
 
しかしながら、このころより官憲の取締りが再び活発化、神具の没収に続いて信仰差し止めの誓約書の署名を強いられた。この中でもみきは天命を貫き通し、[[1875年]](明治8年)には[[奈良県庁]]より呼び出しがあり、秀司らとともに留置される。そして明治15年には「かんろだい石」の没収、および『みかぐらうた』の一部改変が断行される<ref name="nen" />。取締りが厳しくなった[[1880年]]にはみきの長男・秀司が既成宗教に傘下に入ることを試み、[[高野山真言宗]]へ願い出て、光台院末寺の金剛山地福寺のもとに「転輪王講社」を結成したが、翌年に活動の中心を担っていた秀司は死去している。眞之亮は[[神道]]の一派として講社を立ち上げることを試み、[[1885年]](明治18年)5月23日に、[[神道本局]]傘下の六等教会「神道天理教会」として認可されたが、大阪地方局の認可が下りず、6月18日に教会設置が却下されている<ref name="dokuritu">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所
 
|authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 319 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。その後もみきだけではなく、信者や家族も度々留置、拘留を受け、[[1886年]](明治19年)には「最後の御苦労」と呼ばれるみき最後の12日間の拘留を受ける<ref name="nen" />。こうした動きを止めようと眞之亮らをはじめ、古参信者らが教会設置公認運動を展開する中、その認可を見ることなく翌年2月18日(旧暦1月26日)午後二時ごろに90歳で死去した。
 
[[ファイル:Oyasama's Residence.jpg|thumbnail|250px|教祖殿(きょうそでん)。天理教では、現在もこの場所で人間の暮らしを見守っているとされる。]]
 
 
 
==== 教団の組織化・国家統制時代・戦後 ====
 
[[File:Tenrikyo raihaizyo20160313.jpg|thumb|教祖殿から見る北礼拝場]]
 
教祖死亡後は、教祖の生前中からの側近であり、本席に定められた[[飯降伊蔵]]と後に初代真柱となる教祖の[[孫]]、[[中山眞之亮]]が教団運営の中心となった。
 
 
 
みき死去の翌年[[1888年]](明治21年)4月10日に東京府より神道の一派として「神道天理教会」として公認されたが、引き続き神道本局のもとに置かれていたため、教団としては独立が悲願であった<ref name="dokuritu" />。[[1900年]](明治33年)8月から5回に及んだ請願と政府の意向に配慮した「明治教典」などの編纂を行うなど各方面で努力をした結果、[[1908年]](明治41年)11月27日に神道本局から別派として独立し<ref group="注">教団ではこの一連の活動を「一派独立運動」と呼称している</ref>、[[教派神道]]となった。眞之亮は天理教[[管長]]<ref group="注">上部団体の包括下にある教会にあっては代表者は教長や会長を称することはできたが、管長は独立した神道教派・仏教宗派でなければ置くことはできなかった。[[太政官布告・太政官達|太政官布達]][http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994271/159?tocOpened=1 第十九号「神仏教導職ヲ廃シ住職ヲ任免シ教師ノ等級進退ハ各管長ニ委任等ノ儀」(159)][http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994271/160?tocOpened=1 同(160)]『明治十七年 太政官布達』([[国立国会図書館]]デジタルコレクション)参照。また教派神道の管長は[[勅任官]]であり、[[官吏]]であった。</ref>に就任し、天理教教庁を設置した。しかし、悲願であった別派への独立を果たしたものの、昭和期に入っていくにつれて官憲による、いわゆる[[国家神道]]以外の宗教に対する弾圧が表面化<ref>{{Cite news |title =戦前の宗教弾圧とは? |newspaper =しんぶん赤旗  |publisher =日本共産党中央委員会 |date =2006-04-05 |url =http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-05/20060405faq.html  |accessdate = 2016-06-25}}</ref><ref>{{Cite journal |author = 篠原 巌  |date = 1999-03 |title = 国家神道体制と信教の自由・政教分離原則 : 諸宗教の上下二重構造の分析を媒介として |journal = 富山大学紀要,富大経済論集 |publisher = [[富山大学]]経済学部  |issn = 02863642 |url = https://toyama.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1669&file_id=18&file_no=1 |format = PDF |accessdate = 2016-06-25}}</ref><ref>村上重良『天皇制国家と宗教』11頁-122頁(日
 
本評論社, 1986年)</ref>、[[日中戦争]]勃発後は、文科省が国家非常時体制を期し、全宗教団体に対して、全面協力を依頼、天理教でも[[中山正善]]二代真柱が招請され、遂に内務省や文部省宗教局の指示により教団運営に関してさまざまな制限、改変が加えられた。主なものに、三原典の内『おふでさき』と『おさしづ』の使用を禁止(各教会から回収)し、天理教教典(明治36年編集の明治教典)のみを教義とすることや『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除すること。泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、[[南方作戦]]の軍事物資と軍隊の輸送協力など指示された。教団側はこれらの内、特に『みかぐらうた』の改変や泥海古記の禁止などに難色を示したが、これより前に宗教界では[[大本事件]]に対する危機感から主立った宗教は諸手を上げて国家へ協力さぜるを得ない空気が流れ込んでおり、天理教でも二代真柱の中山正善が諭達第7号、第8号を相次いで公布<ref group="注">特に第7号には「身を軍籍に奉じて、国家の為に赴く者にありては、挺身武人の亀鑑を垂れ、銃後にありては、身を持すること険素に、勇躍以て奉公の事に従い、率先ひのきしんに参じて、邦家の緩急に応え、教祖様垂示の大精神を発揮して、敢然時艱を克服する為、一手一つに、感奮興起すべき至旬なりと確信す」と、かなり強い語調で各信者への翼賛的協力が指示されている。</ref>、全教一丸となって軍部、国家へと協力するようにという指示はその後、『諭達』第14号まで出されている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 925 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
諭達第8号公布日の昭和13年12月26日、教団では13名の委員からなる「革新委員会」が設置され、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定が為された。この決断を天理教内では「'''革新'''」と呼称している。
 
 
 
以降、教団内ではかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。『みかぐらうた』から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した『新修御神楽歌』の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」の発表、『おふでさき』、『おさしづ』の引用自粛と冊子自体の回収。青年会や婦人会、教師会などを統合した天理教[[八紘一宇|一宇]]会の結成、天理市内の「詰所」の名称使用を中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざ・ひのきしん隊」の結成を奨励(老若男女を問わず各地で炭坑掘りひのきしんが行われた)など、強制、自発問わずあらゆる形で戦争へ突き進む国家への協力が終戦まで続けられた。
 
 
 
[[1945年]](昭和20年)8月に第二次世界大戦が終戦、即日、二代真柱は終戦の詔書に関する『諭達』第15号を発布、同年10月の秋季大祭で「かぐらづとめ」「十二下り」が復元され、終戦によって政府からの干渉から完全に解放され、教祖・中山みきの教えに基づく、本来の天理教の姿に戻る宣言が二代真柱よりなされた(この動きを天理教内では「'''復元'''」と呼称している)<ref>[http://www.geocities.jp/atutakai/tosyositu_/hukugen_/_hukugen_mokuji.html#jo 復元(創刊号)] 天理教熱田分教会サイト</ref>。昭和45年([[1970年]])4月には、教派神道から脱退している。現在では特定政党に関与はしていない。
 
 
 
==== 歴史 ====
 
* [[1798年]](寛政10年)4月18日、前川みき、[[大和国]][[山辺郡]][[西三昧田村]]に生誕。
 
* [[1810年]](文化7年)10月13日(陰暦9月15日)、前川みき(13歳)が山辺郡庄屋敷村・中山善兵衛に嫁し、[[中山みき]]となる<ref>[http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/shiryou/images/oyashiki01.gif 当時の家] 天理刻限サイトより</ref>。
 
* [[1838年]](天保9年)12月12日(陰暦10月26日)、森神社(現在の三島神社)にて[[中山みき]](40歳)に「天理王命」が憑依し、'''天理教が発祥'''。親神の月日の社(月日のやしろ)に定まり、その口を通して親神の意志が伝えられることになる。
 
* [[1864年]](元治元年)11月26日(陰暦10月26日)、つとめ場所建築<ref>[http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/shiryou/images/oyoshiki02.gif 当時の中山家] 天理刻限サイトより</ref>。
 
* [[1866年]](慶応2年)、中山みき、「あしきはらいたすけたまへてんりわうのみこと」の歌と手振りを教える。
 
* [[1867年]](慶応3年)、中山みき、みかぐらうた「十二下り」の歌と手振りを教える。京都[[吉田神道|吉田神祇管領]]に公認出願、陰暦7月23日に認可。
 
* [[1869年]](明治2年)、中山みき、正月から『おふでさき』を執筆開始。[[1882年]](明治12年)まで書き続ける。
 
* [[1870年]](明治3年)、中山みき、「ちよとはなし」と「よろづよ八首」のつとめの詞と手ぶりを教える。
 
* [[1873年]](明治6年)、中山みき、[[飯降伊蔵]]に[[かんろだい]]の雛型(木製)を造るよう命じる。
 
* [[1875年]](明治8年)6月29日(陰暦5月26日)、中山みきにより、人類発祥の場所「ぢば」が示される。「ぢば定め」と呼ばれる<ref group="注">当時、中山みき・78歳。示された場所は、立教の元一日に初めて教祖に神がお下がりになった場所と一致したと言われている。</ref><ref>[http://www.geocities.jp/tenri_kokugen/shiryou/images/oyoshiki03.gif 当時の家] 天理刻限サイトより</ref>。
 
* [[1885年]](明治18年)5月23日、[[神道本局]]から神道直轄六等教会設立認可。「[[神道天理教会]]」として布教が公認される。
 
* [[1887年]](明治20年)2月18日(陰暦1月26日)午後2時ごろ、'''教祖・中山みき死去(90歳)'''<ref group="注">天理教では「現身をかくされる」と称する。</ref>。3月25日(陰暦3月2日)、飯降伊蔵が本席と定まり以後、本席が親神の意志を伝える。本席により『おさしづ』口述筆録を始める。([[1907年]](明治40年)まで)
 
* [[1888年]](明治21年)4月10日、[[東京府]]知事から神道直轄天理教会本部設立認可。7月23日、現在の教会本部所在地(現在の奈良県天理市)へ移転。この年立教50周年。
 
* [[1896年]](明治29年)4月6日、内務省訓令第12号発令(秘密訓令・甲第12号)。当局の取り締まりが苛烈となる。
 
* [[1903年]](明治36年)5月29日、『天理教教典』(明治教典)が編纂される。
 
* [[1907年]](明治40年)6月9日、本席・飯降伊蔵死去(75歳)。
 
* [[1908年]](明治41年)、明治政府より一派独立認可。この年、立教70年。
 
* [[1910年]](明治43年)1月26日、祭典日を陽暦に変更。
 
* [[1914年]](大正3年)12月31日、初代真柱・中山眞之亮死去(49歳)。
 
* [[1927年]](昭和3年)4月26日、『おふでさき』公刊。
 
* [[1933年]](昭和9年)4月18日、教祖誕生祭開始<ref group="注">この祭典から、参拝者のみかぐらうた唱和が許されている</ref>。10月25日、神殿改築、[[南礼拝殿]]完成。
 
* [[1938年]](昭和13年) - 文部省宗教局の指示により、当時の軍部へ迎合する形で教内刷新を目的とした革新委員会を設置。二代真柱が諭達第8号を公布。「[[革新]]」と呼ばれる。この年が、天理教成立より丁度一世紀目となる立教100周年であった(教団としての100周年活動は前年に行っている)。
 
* [[1939年]](昭和16年)2月1日、天理教校別科を廃止し、天理教校修養科新設。
 
* [[1945年]](昭和20年)10月26日、本来の天理の道の姿に戻る宣言を二代真柱・[[中山正善]]が行う。真座のかぐら、十二下りのてをどりを「[[復元]]」。
 
* [[1949年]](昭和24年)4月1日、[[天理大学]]開学。10月26日、『天理教教典』公刊。
 
* [[1956年]](昭和31年)3月8日、午後2時のサイレンが開始<ref group="注">午後2時は教祖・中山みきが死去した時刻で、サイレンがなると信者・参拝者たちは手を止めて黙祷する。なお、同年7月7日からサイレンが現在使用されている「みかぐらうた」のメロディーとなっている。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 1028 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。10月26日、『稿本天理教教祖伝』出版。
 
* [[1966年]](昭和41年)1月、教祖80年祭にあわせて、『おさしづ』全7巻が新たに公刊、全教会に配布。
 
* [[1967年]](昭和42年)11月14日、2代真柱・中山正善死去(63歳)。これに伴い2代真柱の長男[[中山善衞]]が3代真柱となる。
 
* [[1986年]](昭和61年)1月26日~2月18日、教祖100年祭執行。
 
* [[1998年]](平成10年)4月18日~4月26日、教祖生誕200年祭執行。その最終日の4月26日には「真柱継承式」が行われ、3代真柱の長男中山善司が4代真柱となる。先代真柱が健在なうちの真柱継承は初のケース。
 
* [[2013年]](平成25年)10月24日、5代真柱予定者に4代真柱中山善司の甥で、養子となった中山大亮が選ばれる。
 
* [[2014年]](平成26年)6月24日、3代真柱中山善衛死去。
 
 
 
== 文献 ==
 
=== 原典 ===
 
教義の基礎は、『'''[[おふでさき]]'''』(御筆先)、『'''みかぐらうた'''』(神楽歌)、『'''おさしづ'''』(御指図)の3種類の啓示書で示されている。天理教では教理と信仰を表明した『天理教教典』の編纂の原(もと)となった書物という意味で「原典」と称している<ref name="genten">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 306 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
* 『おふでさき』は、「原典(一)」と通称されている。教祖が1869年(明治2年)から82年(同15年)までの13年間を掛けて執筆した、1711首の歌による書物。親神の教えを[[和歌]]の形で記してあり、「大和言葉」が特色とされる。教会本部内教義及史料集成室に直筆のものが現存する。教祖の直筆で複写されたもので当時の信者に渡されたものを「外冊」といい、昭和43年に二代真柱が上梓した『外冊「おふでさき」の研究』にて見ることができる。現在刊行されている「おふでさき」の原本は「正冊」と呼ばれ様々な形で目にすることが出来る。「外冊」にて「正冊」に対応しない和歌が11首あり、特別に「号外おふでさき」と呼ばれている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 301 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
* 『みかぐらうた』は「かぐら」と「てをどり」の地歌を合わせた、つとめの地歌の書きもの。「原典(二)」と称される。「陽気ぐらし」を目指す天理教の教えを誰でもわかりやすく記したもので、最初に作られた時期とそれぞれの内容から五つの部分(節)に分けられる。教祖によって1866年(慶應2年)から1882年までの間に断続的に形作られ書かれたものとされるが、未だに原本が見つかっておらず、草創期の迫害干渉の時期に紛失したと考えられている。現存する数種類の筆写本を考証し、教祖から教えられたとするものが確認されている<ref name="genten" />。
 
* 『おさしづ』は教祖、または本席と呼ばれ、教祖によって神意の取次ぎを認められていた[[飯降伊蔵]]の口を通して、神の指図を側にいた書取人が速記したものを編集して成立した書物(そのため、[[同音異義語]]の問題がある)。通称、「原典(三)」。日常生活における現実的な心構えや具体的な解決方法、指導の弁を記したもの。明治20年から同40年に至る20年間の世界と道の事情に対する刻限のお言葉および個人の身上・事情に対する伺いさしづの筆録でもあり、当時筆録されたものが現存する<ref name="genten" />。現在、公刊使用されているものは、教祖80年祭(1966年)の記念出版として、[[1963年]](昭和38年)10月から翌年4月までに公刊されたものであり、「改修版」、その冊数から「7巻本」などと呼ばれている。それまでは、[[1936年]](昭和11年)に教祖50年祭と立教百年祭を記念して刊行された「8冊本」が使用され、それ以前は「33冊本」が使用されていた<ref name="genten" />。
 
 
 
3つの原典を呼ぶ順番は天理教内では『おふでさき』『みかぐらうた』『おさしづ』の順である。原典の内容に優劣があるわけではないが成り立ちから優先順位があり、教祖直筆であることから、天理教内で使われる言葉のつづりは『おふでさき』が最優先である。例としては、天理教の布教活動の事を「にをいがけ」とつづる。『おふでさき』では「にをいがけ」、『みかぐらうた』では「にほいかけ」となっているが、優先順位にもとづき、この様に定まっている。
 
 
 
教祖には神が入り込んでいたと考えられており、また本席・飯降伊蔵は「言上の許し」と言われる神の言葉を取り次ぐ許しが与えられていた。そのため、この3つの原典は全て「神意をあらわしているもの」であり、「人間の考えが混じっていない」、と考えられている点で、天理教内の他の書物とは全く異なるものであると考えられている。
 
 
 
=== 天理教教典 ===
 
天理教の書物の一つ。天理教教典は、3つの原典を基に教会本部が編述した教義の大綱を示す文書である。一派独立請願運動の中で形成された「旧教典(明治教典)」と、現在は使用されている「教典」の二種類がある。現在の教典は第二次大戦後に二代真柱・正善が唱えた「復元」の際に新しく編纂され、[[1949年]](昭和24年)10月26日に裁定されたもの。3つの原典の中に示された親神の救済意思と、救済実現の筋道を体系的に説明したもので、前篇5章、後篇5章の全10章で構成されている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 284 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
=== 泥海古記 ===
 
天理教の書物「こふき本」に書かれた教説全体を指す言葉で「元初まりの話」を指している。また教祖がくりかえし口授した話を「こふき話」と言い、文として書き表したものを「こふき本」または「こふき話写本」と言い、それに書かれている教説全体を指す言葉として昭和10年代までは広く用いられていた。戦時中の体制に協力した「革新」の際にはその使用と、泥海古記、「元初まりの話」に関する教説配布が禁止された。こふき本は長い間出版されずにいたが戦後に二代真柱の「こふき本の研究」(昭和32年初版、道友社)が刊行されている。
 
 
 
=== 稿本天理教教祖伝 ===
 
天理教の書物の一つであり、[[中山みき]]の[[伝記]]。大正期に教祖50年祭を記念して完成した『御教祖伝史実校訂本』が基となっている。教祖70年祭を記念し、二代真柱の指導の下で、編集され改訂されたものが『稿本天理教教祖伝』として[[1956年]](昭和31年)10月26日に教会本部より発刊された。その後、[[1981年]](昭和56年)、[[1986年]](昭和61年)、[[2016年]](平成28年)に三度の改訂が加えられている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 323 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
== 組織 ==
 
=== 教団組織 ===
 
* 統理者は「[[真柱]]」と呼ばれる。真柱は「教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」とされており<ref>『天理教教規』第8条({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 456 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>、代々、教祖中山みきの子孫が就任している。初代には中山みきの孫にあたる[[中山眞之亮]]、2代目には[[中山正善]]、3代目には[[中山善衞]]が就任した。現真柱は[[中山善司]]であり、4代目となる。2013年10月24日、天理教教会本部員会議は、第4代真柱の[[養子]]である中山大亮<ref group="注">善司の実弟・中田善亮の長男であり、2013年4月に中山善司夫妻と養子縁組している</ref>を真柱継承者に選ぶことを[[全会一致]]で決定した<ref>『読売新聞』(2013年11月5日)「[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20131105-OYT1T00546.htm 天理教の真柱継承者、中山大亮氏に]」</ref>。大亮は現在、天理教青年会長を務めている。
 
* 宗教法人天理教の主たる事務所組織を「教庁」という。布教部、海外部、教義及史料集成部、教化育成部、輸送部などは教庁の組織である。宗教法人天理教の代表役員は[[教務総長|表統領]]といい、主に教団の事務関係を司り、真柱以外の者が就任している。また、宗教法人天理教の意思決定機関は「集会」と呼び、集会員が選出されている。
 
* 宗教法人教会本部の組織には、境内掛、修養科、別席場等が含まれる。宗教法人教会本部の代表役員は内統領と称し、真柱以外の者が就任している。また、意思決定機関を本部員会議と呼ぶ。
 
* 教会本部がある敷地内にはかつて三島神社があった。
 
* 天理市内には「[[天理市#天理教関連の施設|おやさとやかた]]」とよばれる独自の建設物が林立している。
 
 
 
=== 教会 ===
 
[[ファイル:Tenrikyo Higashichuodaikyokai Shibuya Tokyo.JPG|thumb|right|180px|東中央大教会(東京・[[表参道]])]]
 
天理教の教会は、教会本部及び一般教会からなる。一般教会は、主に中山みきの生前に信者により結成された講社をその端緒とするものであり、布教の系統にしたがって設置され、その規模に応じ大教会及び分教会と呼称される<ref group="注">かつては「支教会」・「宣教所」・「出張所」なども存在した。</ref>。大教会はすべて本部直属教会であり、分教会は本部直属か他の一般教会傘下のいずれかである。分教会は布教実績に応じて大教会への昇格も可能である。そのほか、教会を経由して教会本部に届け出ることにより布教所を設けることができる。教会及び布教所においては、つとめ及び祭典が行われる。
 
教会数は2015年末の教内統計で16677とされている<ref name="mititomo" />。2015年度の教内統計によれば、韓国、台湾、ブラジルをはじめとして海外には323ヶ所の教会や伝道庁が存在する<ref name="mititomo" />。
 
ただし、諸事情により運営実態を欠いたまま正式に廃止もされず名目上存続する一般教会もあり事情教会と呼ばれる。
 
 
 
==== 信者詰所 ====
 
正式な名称は「信者修行所」<ref name="tume">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 446 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。通常では「信者詰所」「詰所」などと呼ばれる。信者の宿泊や休憩に供するほか、信者の教義の習得とその実践修行を目的とした施設で、その多くは教会本部周辺に位置している。[[1895年]](明治28年)に教会本部周辺に兵神分教会事務所が設立されたのがはじまりで、教勢の拡大とともに最盛期の昭和初期には80ヶ所余り設置されている。戦時中の体制に協力した「革新」断行の際には「詰所寮」と名称を改め、[[1943年]](昭和18年)10月には[[旧日本海軍]][[予科練]]の兵舎として徴用されている。終戦後、詰所は海軍より返還され、各直属教会が個別に運営していたが、教祖80年祭を迎えるに当たり、一元化を図るために[[1965年]](昭和40年)、全ての詰所が宗教法人天理教信者部運営課の所管となっている。教祖80年祭を機に、教会本部が宿泊施設を設置し、「母屋」と呼称している。現在では各信者詰所も「第○○母屋」という通し番号で呼ばれるようになり、2015年末現在、第153母屋を数えている。信者詰所には教会の個別の建物であるものや、教会本部の施設に入居しているものもあり、教会本部への参拝者の宿泊のほか、修養科生の宿舎としても使用されている。そのほか、信仰に関わりなく野球やラグビーなどの各種大会や遠征などで利用する学校や団体も多い<ref name="tume" />。
 
また、各大教会の所在地に、部下教会信者が大教会の祭典の参拝のため、信者詰所を設置している場合が多い。
 
 
 
=== 教区・教務支庁 ===
 
教務支庁とは、各都道府県を教区として設けられる宗教法人天理教の地方事務所である。一般教会が布教の系統にしたがって(地域性とは関係なく)設置されるのに対して、教務支庁は各都道府県を教区として置かれている。また、教区はさらに支部に分割(市・郡単位を原則として設置)されている。
 
 
 
== 信仰生活 ==
 
=== おつとめ ===
 
天理教の儀式のひとつ。正式には「つとめ」と言い、一般的な「てをどり」と「かぐらづとめ」に分けられる。おつとめは天理教の祭儀の中心であり、特に祭典ではおつとめをつとめることが主要行事である。つとめは親神が人間を救済する手段であり、人間側からすれば、親神の守護を受けるための祈念とされている。つとめは信仰生活の基本であり、昔から天理教に入信した人々は、教理を学ぶと共に、つとめができるよう練習する。
 
 
 
「つとめ」の一つである「かぐらづとめ」は、10人の「つとめ人衆」がそれぞれ面をつけ、特別な服装をして、かんろだいを囲んでつとめる。また、その時に行われる手振りは親神の守護の理を表現し、このかぐらづとめ全体で人間創造のときの様子を表している。歌は、第一節を21偏、第二節を1偏、第三節を7偏ずつ3回である。このかぐらつどめは「ぢば」(教会本部)でしか行われない。また、[[天理教豊文教会|天理教豊文分教会(現・天理教豊文教会)]]はこのかぐらづとめがきっかけで独立した。
 
 
 
「かぐらづとめ」が終わると、「てをどり」がはじまる。人衆も交代し、男女各3名ずつが一列にならんでつとめる。服装はおつとめ衣と呼ばれる黒い[[紋付]]である。みかぐらうたの第4・5節(一般には十二下りと呼ばれる)をつとめ、前半と後半で人衆を交代する。また「ぢば」以外で面をつけることが禁止されているのでかぐらづとめの代わりに「座りづとめ」が行われる。人衆はてをどりと同じ人数。お歌は第一節を21偏、第二節を1偏、第三節を3回ずつである。座りづとめはおつとめの最初に行われる。
 
 
 
====朝づとめ・夕づとめ====
 
一般教会で行われるおつとめ。「朝夕のつとめ」とも呼ばれ、朝夕とは「朝な夕な」に親神様に感謝の礼を言い世界の人々がたすかることを願って行われる。朝夕のつとめの手振り、歌は、座りづとめと同じであるが、5人の人衆が一列に並び鳴り物を使う。鳴り物は神床に向かって右から[[太鼓]]・数取・[[拍子木]]・ちゃんぽん・すりがねである。教服または法被を着て行う。
 
信者家庭や不特定の場所、また親神の目標が祀ってある場所でつとめをする場合には普通手振りのみまたは拍子木によるつとめが行われる。この場合は法被を着て行う。人が集まってする場合や講社まつりなどでは数取も使われることが多い。また、教会や「ぢば」などで個人の病気などのお願いをする「お願いづとめ」は特別な形式で行われる。
 
朝夕のおつとめの時間はほぼ日の出、日没にあわせて行われている。
 
 
 
=== にをいがけ ===
 
天理教における布教活動のこと。「匂いを掛ける」という意味からきており、花がよい香りを放てば、虫が寄ってくるように、信仰に誘うことを指すと解釈されている。にをいがけを行うことが、何よりも親神への御恩報じの実行であるとされている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 715 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
=== こどもおぢばがえり ===
 
こどもおぢばがえりとは、毎年7月26日頃から8月4日頃にかけて行われる子ども向けの行事で、期間中に25万人から30万人の人々が参加し、現在ではその規模から教内の年間行事の中でも最大の行事となっている。宗教法人天理教布教部こどもおぢばがえり課が中心となって運営している。信仰にかかわりなく参加でき、信者詰所で(日帰り参加者もいる)宿泊し、[[天理市]]内で行われる様々な行事に参加する。子供達が人間としてより一層成長していくとともに、友情の輪を広げていくという趣旨がこめられている行事である。[[1953年]]に開催された「こどもひのきしん」を基盤に、翌[[1954年]]に「おぢばがえりこどもひのきしん」の名称でスタートし、[[1956年]]から現在の呼称となっている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 349 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref><ref>[http://kodomo.tenrikyo.jp/nerai/ayumi1950.html こどもおぢばがえり] こどもおぢばがえり公式サイトより</ref>。
 
 
 
=== お節会 ===
 
お節会(おせち)とは毎年1月5日から7日に教会本部で行われる行事で、期間中、人類の故郷とされる「ぢば」に帰り、参拝した人々に、教会本部の元旦祭に供えられていた[[鏡餅]]を[[雑煮]]にして振る舞う行事であり、教祖が在世中の明治時代から百年以上続く歴史のある伝統行事である。約30トンのお餅が参拝者に振る舞われ、毎年10万人前後の入場者がある<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 123 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
=== 別席・ようぼく・教人 ===
 
==== 別席 ====
 
天理教において救済手段として教えられる「さづけ」(さづけの理)を拝戴する席を「本席」というのに対し、拝載する前に、教会本部の取次人より、親神の話をきくために別に設けられた席という意味から「別席」と呼称されている<ref name="beseki">{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 814 |isbn 4-8073-0412-7}}</ref>。「さづけ」は教祖存命の時期から、信者たちに渡されており、教祖死去後は、本席の飯降伊蔵から「さづけ」が渡されている。現在では「別席順序」に基づき、「別席制度」として運用されている。満17歳以上で別席を運びたいものであれば、あらかじめ申し込めば誰でも聴講することが出来る。聴講の内容は教祖・みきの生涯と教理を端的に示した「別席台本」が読まれる。9度聴講すると「満席」となり、願い出た人に対して「さづけの理」を拝戴することができ、「さづけ」が実行できるようになるとされ、「ようぼく」として認められる。また理を拝頂する際、本部教祖殿において真柱より「おかきさげ」と呼ばれる御神言が書かれた書状が渡される。これはさづけを運ぶ際に守るべきものとして親神が本席を通して指図した神言の要約であり、「ようぼく」が信仰上において守るべき指針や心構えなどが記されている<ref name="beseki" />。現在は、「おやさとやかた」の東棟が別席を取り次ぐ、別席場として使用されている。
 
==== ようぼく ====
 
天理教信者の呼称のひとつ。一般的な宗教における信者に相当する言葉。親神の理想世界である「陽気ぐらし」の世界建設を、建物の建設にたとえ、布教伝道に従事するものを用材としての「用木」に見立てた言い方で、天理教の伝道の場における人材を意味するとされる。漢字では「用木」があてられる。出典は「おふでさき」で、教祖自らその必要性を力説している。「ようぼく」という用語がそのまま教内用語として使用されるようになったのは、終戦後、「復元」が行われ、1949年に『天理教教典』が公布されてからである。[[1959年]](昭和34年)には教規が改定され、信者を表す段階が「信徒・教徒・教師」から変更され、現在では「信者・ようぼく・教人」と呼称されている。別席を9席運び、「さづけの理」を拝戴することで「ようぼく」となる<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 932 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
==== 教人 ====
 
天理教信者で「さづけの理」を取得してようぼくとなり、さらに教会長資格検定に合格し、教会本部に登録されたものを教人(きょうと)という。かつては教師検定があり合格したものを「教師」と呼んだが、1959年に教規の改正により廃止され、教人に変わっている。[[1988年]](昭和63年)以降は、教会長資格検定講習会の前期を修了すれば、教人の資格が与えられているが、講習会への参加には天理大学を卒業したもの、修養科を修了して2ヶ月以上経過したものなど、諸条件がある。さらに教会長になるには後期を満了し、教会長資格検定に合格しなければならない<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 262 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
=== おさづけ ===
 
天理教では、「おさづけ」を取り次いでもらうことによって、病気などの回復を願う。おさづけの理を取得した「ようぼく」であれば、おさづけを取り次ぐことができる。現在のさづけは「てをどりのさづけ」または「あしきはらいのさづけ」と呼ばれるもので、
 
{{Quotation|あしきはらい たすけたまえ てんりわうのみこと}}
 
という言葉を定められた手振りに合わせ、3回唱えて、3回病気の患部等をなで、とこれを3度繰り返す<ref>[http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?page_id=170 天理教ホームページ - おさづけの理]</ref>。
 
 
 
=== 修養科 ===
 
修養科(しゅうようか)は、宗教法人天理教が主催する天理教の教義等を学ぶ場であり、「ようぼく」を目指す講習会である。[[奈良県]][[天理市]]内の天理教の信者詰所で3か月間宿泊しながら、奉仕活動などを通じて教理などを学ぶ。この修養科で教義を学ぶものを修養科生という。満17歳以上の者であれば、誰でも参加することができ、天理教の一般教会などを通じて申し込む<ref group="注">ただし、申し込み先の所属の大教会の独自の募集条件を課す場合があり、例えば、ようぼくになっていることが条件になっている場合や募集月を3か月ごとにする場合もある。</ref>。午前中は天理教の教義を学んだり、おてふり、なりものといった天理教の宗教儀式を練習し、午後は天理教の奉仕活動であるひのきしんを行う。修行は早朝から始まる。修養科は何度でも参加することが出来る。
 
修養科は[[1941年]](昭和16年)4月に開設され、当初は天理教教師の育成を目的とし、天理教校内に設けられた。終戦後の1953年に、修養科は教会本部内に移管され、現在は内統領所管で「天理教教会本部修養科」と称している。現在では、海外の信者のために英語クラスと中国語クラスが設置されている<ref>{{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 415 |isbn = 4-8073-0412-7}}</ref>。
 
 
 
=== 講習会 ===
 
修養科以外の講習会としては、基礎講座、三日講習会、教人資格講習会、教会長資格検定講習会などがある。
 
基礎講座は信仰を問わず天理教の教義をわかりやすく説明するもので、天理市の他、東京、北海道、福岡、新潟の各教務支庁などでも受講することができる。その他は、原則として天理市で受講する。
 
また不定期ではあるが、将来の有為な人材の育成を目指して後継者講習会、教祖の年祭など節目に地方講習会や研修会が天理市の他、各地で開催されている。
 
 
 
=== 立教年・誕生祭・年祭 ===
 
教祖が天啓を受けた1838年を立教元年と位置づけ、以後立教年と呼称している。立教にちなんで10月26日は秋季大祭を執り行い、教祖が誕生した4月18日には毎年誕生祭が行われている。
 
また教祖が現身を隠してから年祭活動が行われている。1888年に教祖1年祭が行われ、現在は10年単位に年祭を行っている。教団の祭典史に於いて最も規模が大きかったと言われる年祭は、信者数増加のピーク時でもあった[[1966年]]に執行された教祖八十年祭で、最も近年に行われた年祭としては[[2016年]][[1月26日]]に行われた教祖百三十年祭がある。
 
 
 
== 海外布教 ==
 
天理教は明治時代から世界各国に進出している。一つは、集団移民した日本人や[[日系人]]の場所へ、信者が布教した場所であり、現在も教会のある国としては[[アメリカ合衆国|アメリカ]]([[ハワイ島]]、西海岸地区)、[[ブラジル]]、[[アルゼンチン]]、[[パラグアイ]]、[[ペルー]]、[[コロンビア]]などがある。
 
 
 
もう一つは、戦前の日本の占領地で移住した信者が布教した場所であり、[[台湾]]、[[大韓民国|韓国]]などがあげられる。[[満州]]では[[ハルビン市|哈爾浜市]]郊外に移民団が入植して'''「天理村」'''を建設、布教かたがた開拓を行い、'''「[[天理鉄道]]」'''(通称'''「天理村鉄道」''')と呼ばれる[[軽便鉄道]]も建設している。敗戦後の引き上げで、これら、日本占領地で布教を担っていた大教会は日本に引き揚げた。そのため、大教会名にその当時の名残がある<ref group="注">例、[[京城]]大教会など</ref>。
 
 
 
戦後進出した国は布教師が布教を目的に入った場所が多いとされ、[[インドネシア]]、[[フィリピン]]、[[ネパール]]、[[タイ王国|タイ]]、[[シンガポール]]などの東南アジアをはじめ、コンゴ、ケニア、ウガンダ、[[オーストラリア]]、[[インド]]、[[フランス]]、[[イギリス]]、[[メキシコ]]、[[チリ]]、[[ニュージーランド]]、[[香港]]など、世界各国・地域に及ぶ。いずれの国にも本部公認の拠点や教会、布教所が存在する。
 
 
 
海外布教に乗り出すため、戦前から外国語の専門学校を設立。のちに[[天理大学]]となった。
 
 
 
== 教団への指摘 ==
 
現在の宗教法人天理教教会本部と中山みきの教えは明らかな違いがあるという指摘は多くあり、明治期の「応法の道」と呼ばれる諸改革、および昭和期、特に第二次世界大戦中の「革新」によってみきの主張は歪曲され権力に迎合したが、それらは戦後の「復元」後も天理教団内に根強く残っているという研究もある<ref name="sano">{{Cite journal |author = 佐野智規 |date = 2009-08 |title = 〈慈悲〉と資本主義(承前):二〇世紀最初期における天理教教祖伝の分析(上)|journal = 早稲田大学大学院文学研究科紀要 : 第3分冊 日本語日本文学・演劇映像学・美術史学・日本語日本文化 |publisher = 早稲田大学大学院文学研究科 |ISSN = 1341-7533 |url = http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32269/1/BungakuKenkyukaKiyo_54_03_Sano.pdf |format=PDF |accessdate=2015-09-01}}</ref>。そもそもみきは教会公認および設置運動に否定的であった、神意ではなかったと宗教学者の[[島田裕巳]]や[[村上重良]]、ライターの早川和広らが批判している<ref name="his" /><ref name="sano" /><ref>{{Cite journal |author = 李元範 |date = 1995-10 |title = 日本の近代化と民衆宗教 -近代天理教運動の社会史的考察 / |journal = 東京大学博士論文 |publisher = 東京大学大学院 |accessdate=2016-06-25}}</ref>。
 
 
 
天理教教会本部が編纂した『稿本天理教教祖伝』においては、立教以後のみきは神性が強調され、人間性は問われず、したがってすべての行動が神的存在として人々を救済する活動のさまざまな現れでしかなかったとする批判があり<ref name="ou">{{Cite journal |author = 黄耀儀 |date = 2009-05 |title = 芹沢光治良の作品に現れた中山みき像を通して彼の宗教観をみる―ニューエイジ運動との接点― |journal = 多元文化. v.9, 2009, p.215-229 |publisher = 名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |issn = 1346-3462 |url = http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/11871/1/%E9%BB%84.pdf |format = pdf|accessdate = 2015-08-23}}</ref>、ジャーナリストの[[青地晨]]は著書『天理教 百三十年目の信仰革命』の中で、神がかりの時点からのみきが既に神だと見られ、苦悩や希望などの人間的感情が伴わないという教義の解釈は、みきは自己判断の能力を失い、神に操られる人形に等しいというふうに述べている<ref name="ou" />。同様の指摘では、[[天理大学]]付属おやさと研究所[[教授]]の幡鎌一弘が、教祖の50年の「ひながた<ref group="注">論文内では『稿本天理教教祖伝』の編纂当初では「ひながた」について、当時の『天理教教典』に準じてみき誕生からの90年と、立教後の50年の二つの「ひながた」の見方があったものの、第五稿以降は後者の意味に限定されていることも指摘している。{{Cite journal |author = 幡鎌一弘 |date = 2010-03 |title = The Formation of the Life of Oyasama(Deconstruction of the Founders' Biographies,Panels,THE PROCEEDINGS OF THE SIXTY-EIGHTH ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES) |journal = 教祖伝の脱構築,パネル,<特集>第六十八回学術大会紀要 |publisher = 日本宗教学会 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110007580239.pdf?id=ART0009404658&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1440833926&cp=.pdf |format = PDF|accessdate = 2015-08-23}}</ref>」と中山みきの現前性(存在証明)の二つに支えられて、教祖死去の明治20年で終わる『稿本天理教教祖伝』の枠組みそのものが、中山みきの物語を狭めているのではないかと述べている<ref>{{Cite journal |author = 幡鎌一弘 |date = 2010-03 |title = The Formation of the Life of Oyasama(Deconstruction of the Founders' Biographies,Panels,THE PROCEEDINGS OF THE SIXTY-EIGHTH ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES) |journal = 教祖伝の脱構築,パネル,<特集>第六十八回学術大会紀要 |publisher = 日本宗教学会 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110007580239.pdf?id=ART0009404658&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1440833926&cp=.pdf |format = PDF|accessdate = 2015-08-23}}</ref>。
 
 
 
[[機関誌#宗教団体等|機関誌]]である「[[天理時報]]」に「国民は采食主義で鳥と魚は食べたが、獣肉(牛、馬、羊、豚)などは賎民以外は決して食べなかった<ref>「天理時報」昭和44年4月27日号の天理健康長寿法(8)</ref>」と差別的内容とも受け止められる内容の記事を載せたところ、[[部落解放同盟]]からの批判を受け、発行翌月に問題の号を回収する事態となった。差別問題に対する理解不足の反省から、天理啓発委員会より「天理ろくぢ」という冊子が発行された。なお「賎民以外は決して食べなかった」は歴史的事実にも反する([[日本の獣肉食の歴史]])。
 
 
 
教団内部からの批判としては、元天理教教会本部修養科講師で元天理教本嬬原分教会会長の八島秀雄が1970年代後半に教団批判を展開しており、1979年には櫟本分署跡保存会を発足させ代表となっている<ref>[http://www.tenri.info/ 櫟本分署跡講座]</ref>。1985年12月に教会の機関紙『ほんあづま』202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し、教祖が教えた通りに「かんろだい」を目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱したため、翌年に教会長職を罷免されている<ref group="注">おなじく櫟本分署跡保存会の事務局長川本しづ子が教会長をつとめる天理教本常一分教会も、審判会も行なわずに罷免して裁判になっている。その後、和解し現在は天理教から独立している。</ref>。その後、八島が教会から立ち退かなかったために、八島と宗教法人天理教との間で裁判が行われている。この裁判の中では[[1991年]][[5月31日]]に[[東京地方裁判所]]にて、元天理教[[表統領]]清水国雄が「'''八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について真柱が、異端とか、異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。また、天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない。'''」という内容の証言を述べている<ref>[http://www.lcv.ne.jp/~toyohumi/top2.html 天理教豊文教会公式サイト - 「元表統領 『ほんあづま』誌の八島教学は異端でも異説でもないと正式に発言」]</ref>。八島教学とは八島の著書『中山みき研究ノート』内でのみきの考察であり、そこでは教祖に関する数々の逸話が否定されている。この八島の異説には天理教青年会ほか教団内部からの反論もあり、天理教青年会本部の機関紙『あらきとうりょう』149号で、唯物論的で教祖の実在からかけ離れていると批判し、史料と合わせて反駁しているほか、『確かな教理理解のために』という反駁本も出版している。みさと原典研究会の代表で天理教御里分教会長をつとめる植田義弘は多数の著書の中で、現在の教団の原典に対する態度を批判している<ref group="注">ただし、植田は八島の考察を「教祖の天啓やひながたを人間的なレベルの思想や行動と受け取り、霊魂や転生を否定し、心身を唯物的に認識していることには同意できない」としている(天理教みさとブログ<原典からの出発>「5/25 月例会報告」)。</ref>。
 
 
 
特に現在の教団の重要な教えであるとされる「月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\『貧に落ち切れ。』と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に至るまで、次々と、困って居る人々に施された。」という『稿本天理教教祖伝』の記述<ref>[http://shikidai24.com/essay_H15/essay_38.html 天理教敷大大教会「湧き立つよろこびを求めて」第38回]</ref>は、八島のみならず、島田も『日本の10大新宗教』の中で、早川も『天理教・その堕落と悲劇』の中で、実際はみきの長男・秀司が米と綿の相場で失敗し、家ごと借金してしまったが、教団は後にその事実を湾曲化して、信者から金を取ろうしたため「貧に落ちきれ」という思想が生まれたと指摘している。
 
また、これに関連して嘉永6年(1853年)、みきの五女・こかんの「[[浪速]](現在の[[大阪]])での神名流し」についても史実的伝承が乏しいとされ<ref name="his" /><ref>[http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/mikiryakuden/mikiryakuden_32kokannonioigakeco.htm 天理教教祖中山みきの研究【こかんの大坂布教】]</ref>、これに関しては『改訂 天理教事典』内で矛盾が生じている<ref group="注">『改訂天理教事典』の「中山こかん」の説明には、嘉永6年(1853年)に「天理王命」の神名を伝えに行った、とあるが、「てんりんおうのみこと」の説明では、32年後の明治18年の公認運動の頃から「天理王命」の字に一定した、との記述がある。({{Cite book |author = [[天理大学]]付属おやさと研究所 |authorlink = |coauthors = |date = 1997年11月24日 |title = 改訂 天理教事典 |publisher = 天理教道友社 |page = 662 |isbn = 4-8073-0412-7}})</ref>。
 
 
 
また天理教との関わりが深かった小説家の[[芹沢光治良]]は著書『教祖伝』<ref group="注">この本は天理教の機関紙『[[天理時報]]』に1950年10月29日から1957年9月8日までの7年間、338 回に渡って連載された長編伝記小説。</ref>にて、教団成立を認めず、真の信仰世界を求めている教祖中山みきと教団を作ろうとする弟子との理念の衝突に関する描写によって、教団批判の立場が見られる<ref name="ou2">{{Cite journal |author = 黄耀儀 |date = 2015-02 |title = 『秘蹟 : 母の肖像』にあらわれた芹沢光治良の信者像 : スピリチュアリティの視点からの分析 |journal = 多元文化 |publisher = 名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻 |issn = 1346-3462 |url = http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/21357/1/%E9%BB%84.pdf |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}</ref>。また「教団というものは、神の教えにも、人間の信仰にも、さして関係がないことだが、教団ができると、信仰がそれに結びつけられて、神の教を曲げることが、しばしば起きる」とも書かれている<ref name="ou" /><ref name="ou2" />。1987年に発表された『神の慈愛』でも、天理教で教祖中山みきの死後、「をや」の言葉を取り次いだ人が本席と呼ばれる[[飯降伊蔵]]のみであることに触れ、飯降の死後、存命の教祖は教祖殿に納まり、教祖の言葉を取り次ぐ者も天啓者も現れないとして、天理教の指導者である真柱が神の代理者となり、真柱が中心となり彼に都合のいいものだけで教理を創って教会に公布した、という内容を述べている<ref name="ou" />。
 
宗教学者の[[弓山達也]]はこのことに関連して著書『啓のゆくえ―宗教が分派するとき』で[[ほんみち]]や[[ほんぶしん]]、[[おうかんみち]]などの宗教団体が天理教から分立したことについて、特に飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生していることに触れ、中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している<ref name="ou" />。
 
===学者による考察===
 
天理教を研究する宗教学者の中でも、[[村上重良]]は著書『近代民衆宗教史の研究』の中で、このみきの立教に至る「神がかり」を準備したものは、夫婦の不和や子女の夭折、長男の重病、出産後の生理的不調など家族の問題からくる精神的苦悩・生理的苦痛にあるとして、みきにとって「月日のやしろ」となることは、病、息子の難病、家の道具、夫婦の不和、重労働からの解放を意味したと論じている。この考察は後に[[島薗進]]の「突発説」の否定や、[[笠原一男]]、[[小栗純子]]らに受け継がれている。島薗はこの村上の考察について『天理教研究史試論』の中で「教団内外のそれまでの教祖伝研究の成果を結集し、一つの歴史叙述にまとめあげた」功績は大きいと評価している<ref name="sawa">{{Cite journal |author = 澤井治郎 |date = 2015-02 |title = A Short Survey of the Beginning of Tenrikyo(Section 7,THE PROCEEDINGS OF THE SEVENTY-SECOND ANNUAL CONVENTION OF THE JAPANESE ASSOCIATION FOR RELIGIOUS STUDIES) |journal = 宗教研究別冊 |publisher = 日本宗教学会 |issn = 21883858 |url = http://ci.nii.ac.jp/els/110009820838.pdf?id=ART0010327345&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1442107211&cp= |format = PDF |accessdate = 2015-08-23}}</ref>。
 
 
 
== 宗教法人天理教から分立・影響を受けた団体 ==
 
宗教法人天理教は、分立した団体が多数存在する。これについては、宗教学者等は中山みきや飯降伊蔵の死後、親神の意思を伝える天啓者がいなくなったことに起因していると分析している<ref>日本の10大新宗教 島田裕己著より</ref><ref>天啓のゆくえ―宗教が分派するとき 弓山達也</ref>。特に、飯降の死亡後の大正から昭和初期にかけて多く誕生している。
 
 
 
=== 天理教から直接分派した団体 ===
 
 
 
* [[転輪王教会]](1865年、奈良県)
 
* [[天輪王明誠教団]]([[1888年]]、横浜市)明誠講社が教派神道[[神習教]][[天輪王明誠教団]]として独立、[[1940年]]の[[宗教団体法]]施行に際し、神習教から独立するか残留するかをめぐって二派に分裂した
 
* [[大道教]]([[1900年]]、奈良県)飯田岩治郎が教派神道[[神道大成教]]大道教会として独立。戦後大成教から独立している
 
* [[井出国子]]の[[朝日神社]](1907年ごろ、[[兵庫県]][[三木市]])井出クニの神がかりにより独立
 
* [[茨木一派]](1911年、奈良県)茨木基敬の神がかりにより独立、真道会とも
 
* '''[[ほんみち]]'''([[1925年]]、[[大阪府]][[高石市]])大西愛次郎の神がかりにより[[天理研究会]]として独立
 
* [[太道教]]([[1940年]]、東京都杉並区)中村しげの神がかりにより太道教々檀として独立
 
 
 
=== ほんみちから分派した団体 ===
 
 
 
* '''[[天理三輪講]]'''(1931年)勝ひさが天理教から独立
 
* '''[[天理神之口明場所]]'''(1937年)山田梅次郎が[[天理三輪講]]から独立
 
* [[世界心道教]](1940年ごろ、[[愛知県]][[豊川市]])会田ヒデの神がかりにより天理三輪講から独立
 
* [[神一条教]](1942年ごろ、[[大阪府]][[東大阪市]])
 
* [[天理甘露台]](1942年ごろ、[[奈良県]][[大和郡山市]])
 
* '''[[ほんぶしん]]'''(1962年、岡山市)大西玉により[[ほんみち]]から[[天理みろく会]]として独立
 
 
 
=== その他天理教の影響を受けた団体 ===
 
「[[日月教]]([[1942年]])」「[[八楽会教団]]([[1946年]])」「[[大徳寺昭輝]]の[[天命庵]]」「[[天真教真祐殿教会]]([[1958年]])」「[[神光苑]]([[1952年]])」「[[おうかんみち]]」「[[人間甘露台]]」
 
 
 
などの宗教団体がある。直近の事例としては[[櫟本分署保存会]](陽気づくめ教会)、[[天理教豊文教会]]([[2006年]])の例がある。
 
 
 
また天理教の影響を受けた団体として、公益財団法人の「[[モラロジー研究所]]([[1926年]])」などがある。
 
 
 
詳細はそれぞれの項で述べる。
 
 
 
== 宗教番組 ==
 
日本全国のテレビ・ラジオで早朝に放送されている天理教の宗教番組として「[[天理教の時間]]」を放送している。ラジオでは「家族円満」のタイトルで、信者から寄せられたメッセージを元に家族円満の秘訣を紹介する。[[ラジオパーソナリティ|パーソナリティ]]が毎週朗読している。詳細は[[天理教の時間]]を参照。
 
 
 
== 災害救援ひのきしん隊 ==
 
災害救援ひのきしん隊は、教祖の教えに基づいて救援活動や支援活動を行っている。組織機構は、天理教教庁表頭領室内に天理教災害対策委員会が常置されている。ひのきしん隊には現在、おやさと隊と、47教区隊が結成され、約6,000人の隊員が活動している。ひのきしん隊が初出動したのは昭和46年(1976年)9月・[[愛知県]][[蒲郡市]]での台風23号水害であり、その後、2013年までに109回出動している。特に平成7年(1995年)1月17日に起きた[[阪神・淡路大震災]]では2万人を超える隊員が活動を行った。平成23年(2011年)3月11日の[[東日本大震災]]では被災地の救援活動としてひのきしん隊が、震災直後より活動を開始し、のべ18,000名が作業を行った<ref>『東日本大震災 被災地へ 天理教 救援 ・支援活動記録』(天理教道友社、2012年)</ref>。また、教団内の[[アマチュア無線]]クラブも災害救援活動において協力を行っている。
 
 
 
== その他 ==
 
* [[天理市]]は、日本では唯一の宗教名が地方自治体名になっている[[宗教都市]]である<ref group="注">かつては[[金光教]]の名前に由来する[[岡山県]][[金光町]]が存在したが、[[平成の大合併]]により消滅(現:[[浅口市]])している。</ref>。宗教法人天理教では、天理市へ特に使用目的を指図していない形で毎年寄付を行っている。この寄付金は税収入と同様の形で天理市の毎年の当該年度の一般会計予算の中に組み入れられている。平成25年度の天理市予算では寄付金として1,020,003千円計上されており、大半は天理教からの寄付を見込んでいると考えられる。<ref>[http://www.city.tenri.nara.jp/gyomu/zaisei/toshoyosan/25index.html ||| 天理市ホームページ ||| 財政課 平成25年度予算編成方針]</ref>
 
* [[機関誌#宗教団体等|機関誌]]は、「[[天理時報]]」。週に1回のペースで発刊されている。詳細は当該項目を参照。
 
*戦場カメラマンの[[ロバート・キャパ]]が、1954年4月に雑誌『[[カメラ毎日]]』の創刊記念で来日した際に、天理を訪れており、天理教教会本部などを収めたスナップが残されている<ref>{{Cite book|author = Robert Capa |year = 2005 |title = Capa In Color |page=131 |publisher = Magnum Photos Tokyo |location = Chiyoda-ku, Tokyo |isbn = 978-3791353500 |ref=harv}}</ref>。
 
* [[松下幸之助]]の経営理念の一つ[[水道哲学]]は、天理教本部の来訪がきっかけといわれている<ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/1667 松下幸之助 vol.3 水道哲学の原点となった 天理教との出会い - 現代ビジネス]</ref>。
 
* 大きな行事が行われる際に、全国各地から天理駅への臨時列車([[団体専用列車]])が運転され、鉄道趣味界では「天理臨」と呼ばれているが年々本数が減少している。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
<!-- この項の編集に使用した出典文献一覧 -->
 
* 『天理教教典』
 
* 『天理教事典 (改訂版もふくむ)』
 
* 『みかぐらうたの世界をたずねて』 ISBN 4-8073-0412-7
 
* 『おてふり概要』
 
* 小滝透他 『天理・比較宗教論への試み』 ISBN 4-924787-82-5
 
* [[大谷渡]] 『天理教の史的研究』 ISBN 4-88591-500-7
 
** 『教派神道と近代日本 天理教の史的考察』 ISBN 4-88591-292-X の改題新装版
 
* 野田俊男 『天理教人の苦悩』 [[大陸書房]]、1972。
 
* 天理教『天理教修養科案内』、2006。
 
* 集英社編『Imidas2006』、2006。
 
* [[島田裕巳]]『天理教 : 神憑りから新宗教へ』八幡書店、2009。ISBN 9784893507518
 
* [[芹沢光治良]]著『教祖様』角川書店、1959。
 
* 芹沢光治良著『死の扉の前で』新潮社、1978。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[学校法人天理大学]]
 
** [[天理幼稚園]]
 
** [[天理小学校]]
 
** [[天理中学校]]
 
** [[天理高等学校]]
 
** [[天理大学]]
 
** [[天理大学女子短期大学部]]
 
* [[天理医療大学]]
 
* [[天理教校]]
 
* [[天理教校学園高等学校]]
 
* [[天理大学附属天理参考館]]
 
* [[天理大学附属天理図書館]]
 
* [[天理よろづ相談所病院]]
 
* [[天理医学技術学校]]
 
* [[天理教道友社]]
 
* [[天理時報社]]
 
* [[天理時報]]
 
* [[養徳社]]
 
* [[大徳寺昭輝の天の夢|大徳寺昭輝]] - 元天理教布教師
 
* [[井上頼圀]](『天理教教典』)
 
* [[宮地嚴夫]](『天理教教典』)
 
* [[エイヴラム・デイヴィッドスン]] - 海外信者として知られるSF作家
 
* [[中島みゆき]] - 教団機関誌に連載を持っていた事がある
 
* [[角居勝彦]] - [[日本中央競馬会]](JRA)[[調教師]]。2018年1月に祖母の代から続く天理教の教会を引き継ぐとして2021年2月末を持って調教師を引退、厩舎を解散すると表明した<ref>{{Cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2018/01/07/kiji/20180107s00004048014000c.html|date=2018-01-07|title=国内外G1・35勝の名門、角居師が引退へ…21年2月限りで|publisher=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2018-01-15}}</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
<!-- 文献参照ページ -->
 
{{Reflist|2}}
 
  
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大和国山辺郡三昧田村 (奈良県天理市) の庄屋前川半七,きぬの長女として生れ,のちに中山善兵衛にとついだ[[中山みき]]が天保9 (1838) 年 10月 26日 41歳のとき,天啓により開教した。みきは,神意の伝達者である「神のやしろ」となり,以来,家財を貧しい人々に施し,神のいわれた「貧に落ち切れ」を実践。みきの教えによれば,親神は人間の「陽気ぐらし」を楽しみに人間世界を創造したが,人間は神意に反してみずからに苦悩を招いてきた。その人間を救済するために親神が現れ,人間創造の「元の理 (ことわり) 」に戻るために「かぐらづとめ」を教え,「陽気ぐらし」の世の中に立直そうというもの。 1888年神道天理教会として公認されるも,明治政府の国家神道体制下にあって教義や儀礼の整備を余儀なくされ,天理教が一派独立するのは 1908年であった。敗戦後,ようやく信教の自由を得,それまで抑圧されていた教祖本来の教えに戻ろうとする「復元」という動きが現れ,一時期加盟していた教派神道連合会から 1970年に脱会。神道色を払拭した。みきは慶応2 (1866) 年ころから儀礼の形式と内容を次第に整え,『みかぐらうた』をつくり,明治2 (69) 年から同 15年にかけて『おふでさき』を執筆。さらに,みきの晩年の教えと本席の飯降伊蔵の教えを筆録した『おさしづ』を原典としている。 1996年の信者数は約 190万人に達し,その分布は日本全国はもとより東南アジア,アメリカにまで及んでいる。本部は奈良県天理市三島町。
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== 公式サイト ==
 
== 公式サイト ==
 
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* [http://www.tenrikyo.or.jp/ 天理教 Web Site]
 
* [http://www.tenrikyo.or.jp/ 天理教 Web Site]
* [http://tsa.tenrikyo.or.jp/ 天理教学生会 website]
 
* [http://www.tenrikyo.fr/ 天理教ヨーロッパ出張所]
 
* [http://www.kodomo-ojibagaeri.com/ こどもおぢばがえり]
 
  
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2018/10/15/ (月) 23:30時点における最新版

天理教(てんりきょう)

大和国山辺郡三昧田村 (奈良県天理市) の庄屋前川半七,きぬの長女として生れ,のちに中山善兵衛にとついだ中山みきが天保9 (1838) 年 10月 26日 41歳のとき,天啓により開教した。みきは,神意の伝達者である「神のやしろ」となり,以来,家財を貧しい人々に施し,神のいわれた「貧に落ち切れ」を実践。みきの教えによれば,親神は人間の「陽気ぐらし」を楽しみに人間世界を創造したが,人間は神意に反してみずからに苦悩を招いてきた。その人間を救済するために親神が現れ,人間創造の「元の理 (ことわり) 」に戻るために「かぐらづとめ」を教え,「陽気ぐらし」の世の中に立直そうというもの。 1888年神道天理教会として公認されるも,明治政府の国家神道体制下にあって教義や儀礼の整備を余儀なくされ,天理教が一派独立するのは 1908年であった。敗戦後,ようやく信教の自由を得,それまで抑圧されていた教祖本来の教えに戻ろうとする「復元」という動きが現れ,一時期加盟していた教派神道連合会から 1970年に脱会。神道色を払拭した。みきは慶応2 (1866) 年ころから儀礼の形式と内容を次第に整え,『みかぐらうた』をつくり,明治2 (69) 年から同 15年にかけて『おふでさき』を執筆。さらに,みきの晩年の教えと本席の飯降伊蔵の教えを筆録した『おさしづ』を原典としている。 1996年の信者数は約 190万人に達し,その分布は日本全国はもとより東南アジア,アメリカにまで及んでいる。本部は奈良県天理市三島町。

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