「姶良市」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「{{日本の市 |画像=ファイル:Big Japanese cinnamon Kamo hachiman shrine.jpg |画像の説明=蒲生のクス |市章 = ファイル:Flag of Aira Kagoshima.svg…」で置換)
(タグ: Replaced)
 
14行目: 14行目:
 
|鳥など=
 
|鳥など=
 
|郵便番号=899-5432
 
|郵便番号=899-5432
|所在地=姶良市宮島町25番地<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|31|43|41.6|N|130|37|40.1|E|region:JP-46_type:adm3rd|display=inline,title}}</small><br/>[[ファイル:Aira City Hall.JPG|250px|姶良市役所本庁舎(旧姶良町役場)]]
+
|所在地=姶良市宮島町25番地<br /><small>{{ウィキ座標度分秒|31|43|41.6|N|130|37|40.1|E|region:JP-46_type:adm3rd|display=inline,title}}</small>
 
|外部リンク=[http://www.city.aira.lg.jp/ 公式サイト]
 
|外部リンク=[http://www.city.aira.lg.jp/ 公式サイト]
 
|位置画像={{基礎自治体位置図|46|225}}
 
|位置画像={{基礎自治体位置図|46|225}}
 
|特記事項=
 
|特記事項=
 
}}
 
}}
'''姶良市'''(あいらし)は、[[鹿児島県]]中央部に位置する人口約7万5000人の[[市]]。[[鹿児島市]]の[[ベッドタウン]]として発展している。
+
'''姶良市'''(あいらし)
  
== 地理 ==
+
[[鹿児島県]]中部,[[鹿児島湾]]の北西岸に臨む市。[[薩摩半島]][[大隅半島]]の分岐点に位置する。1955年帖佐町,重富村および山田村の一部が合体して姶良町が成立。2010年[[加治木]]町,[[蒲生]]町の 2町と合体して姶良市となった。北西部は[[シラス]]台地で,大部分は山林。別府川,思川などが鹿児島湾に注ぐ南部の低地に市街地が形成される。米作やムギ,サツマイモ,チャ(茶)などの栽培,養鶏,畜産が行なわれ,早掘りタケノコを特産。鹿児島湾岸ではハマチ,ワカメ,ノリなどの養殖や小型定置網漁が行なわれる。デンプン,焼酎の製造業も発達。[[薩摩焼]]の一種である龍門司焼(小山田焼),蒲生和紙などの伝統工芸がある。[[鹿児島市]]との間の交通が便利なため,鹿児島市の郊外住宅地となっている。推定樹齢 1500年,高さ約 30mの蒲生のクスは国指定特別天然記念物。宮田ヶ岡瓦窯跡,南浦文之墓([[文之]]),白銀坂,龍門司坂はいずれも国の史跡に指定されている。加治木地区で毎年 6月に行なわれるクモ合戦([[コガネグモ]])は有名。約 600mに及ぶ白砂青松の干潟がある重富海岸は[[霧島錦江湾国立公園]]に属する。住吉池は釣り,ハイキングなどでにぎわい,周辺一帯は[[藺牟田池県立自然公園]]に属する。JR日豊本線,九州自動車道,国道10号線が通る。
[[File:Aira Plain.jpg|thumb|250px|[[姶良平野]]]]
 
姶良市は、鹿児島県中部の南北約25 [[キロメートル|km]]、東西約24 kmの範囲に広がる。南東側の一部を[[鹿児島湾]]に面している。鹿児島湾に面した地域では、西側から[[思川 (鹿児島県)|思川]][[別府川 (鹿児島県)|別府川]][[網掛川]][[日木山川]]の4つの河川が流れており、これらの川の[[沖積平野]]が一体となって[[姶良平野]]を形成し、この平野部に中心市街地が発達している。西側の[[鹿児島市]]へと通じる海岸や、東側の[[霧島市]]との境界付近の海岸は自然海岸が残されているが、他は[[埋立地|埋め立て]]で形成された人工海岸となっている。別府川は旧蒲生町の中心部であった地域まで標高の低い平坦な土地を形成しており、この流域に整備された[[水田]]地帯が広がっている。市の北部は[[北薩火山群]]に属する山が並ぶ地形で、北西側の[[薩摩川内市]]との境界がほぼ[[川内川]]流域との[[分水界]]をなしている。こうした山の間には別府川の支流が流れており、これに沿っていくつかの集落が発達している。一方北東側の霧島市との間は[[十三塚原]]と呼ばれる台地が続く地形で、網掛川や日木山川の支流が霧島市側から流れ込んでいる。南西側の鹿児島市との境界は、標高が500 [[メートル|m]]前後の牟礼ヶ丘連山となっており、姶良市の平野部および海岸線へ急激に落ち込んでいる。牟礼ヶ丘連山の北側で、思川が鹿児島市側から流れ込み、比較的標高の低い土地が鹿児島市に合併した旧[[吉田町_(鹿児島県)|吉田町]]の中心部へつながっている。市内で標高が500 mを超える山として烏帽子岳(702.9 m)・長尾山(680 m)・佛石(679 m)・矢止岳(670 m)・赤崩(579 m)・惣林嶽(506 m)などがある。
 
 
 
鹿児島湾北部にかつて存在していた[[火山]]が約2万5000年前に姶良大噴火と呼ばれる[[噴火]]を起こし、[[姶良カルデラ]]を形成した。姶良市はこのカルデラの北西側の外輪山に相当する位置にあり、大噴火で流れ出た[[火砕流]]が起源とされる[[シラス (地質)|シラス]]と呼ばれる地層が広がっている。火山活動に由来する市内の地形としては他に、[[マール (火山)|マール]]であるとされる[[米丸]]や[[住吉池]]がある。
 
 
 
南部平野地帯は鹿児島市のベッドタウンとして発達し、駅や国道の周辺に住宅地が広がり、[[国道10号]]姶良バイパス・加治木バイパスの周辺には郊外型の大型店舗が立ち並んでいる。国道10号と[[九州旅客鉄道]](JR九州)[[日豊本線]]はおおむね市南部を東西方向に横切っており、鹿児島市への連絡は姶良カルデラ外輪山の急斜面が海に落ち込む狭い土地を通っている。これらの交通路はがけ崩れに弱く、[[平成5年8月豪雨]]など道路および鉄道の連絡が遮断されることがある。[[九州自動車道]]はこれらより北側を通っており、旧吉田町を経由して鹿児島方面へ通じている。北部山間地帯へは県道[[鹿児島県道40号伊集院蒲生溝辺線|40号]]・[[鹿児島県道42号川内加治木線|42号]]・[[鹿児島県道55号栗野加治木線|55号]]・[[鹿児島県道56号隼人加治木線|56号]]などが通じているが、南部平野地帯に比べると交通が不便で、[[過疎]]が進展している状況にある。
 
 
 
市の面積の約65 パーセントを山林が占めている。中部平野地帯は整備された水田となっており、また北東側の霧島市と境界を接する台地の上は畑作地帯となっている<ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/mati/mati_org.pdf 新市まちづくり計画(原案)]}} p.7 姶良西部合併協議会</ref>。
 
 
 
=== 隣接している市町村 ===
 
* [[鹿児島市]]
 
* [[霧島市]]
 
* [[薩摩川内市]]
 
 
 
== 市内の地名 ==
 
姶良市で住所として用いられている地名は、姶良市が成立した合併に際して、旧姶良町内の地名はそのまま引き継がれ(「姶良町」は冠しない)、旧加治木町内・旧蒲生町内の地名は「加治木町」「蒲生町」をそれぞれ頭に冠することになっている<ref>[http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=16542 町・字の名称一部修正/姶良西部合併協第4回会合] 南日本新聞2009年4月24日</ref>。旧姶良町に関してはそれ以前の[[山田村 (鹿児島県)|山田村]]、[[帖佐町]]、[[重富村]]に分けて示す。
 
 
 
姶良町という町名は、1955年(昭和30年)の合併での成立時に郡名から採用されたものであった。姶良郡という地名は、古代に[[大隅国]]が設置された際の姶羅郡に由来している。しかしこの姶羅郡は現在の[[鹿屋市]]周辺の地名で、現代の姶良郡は[[桑原郡]]などと呼ばれていた。[[江戸時代]]頃から桑原郡の西部を始羅郡(しらぐん)と呼ぶようになり、これがかつての姶羅郡と混同されたことから、明治時代初期に姶良郡が正式な名前として採用されることになった<ref>『姶良町郷土誌』pp.24 - 25</ref>。
 
 
 
=== 蒲生町 ===
 
畳の原料として使用した[[ガマ|蒲草]]が繁茂していたことから「蒲生」という地名が付いたとされている<ref>『蒲生郷土誌』(1969) p.8</ref>。[[滋賀県]]の[[蒲生町 (滋賀県)|蒲生]]は「がもう」と読むが、こちらは「かもう」と濁らずに読む。
 
; 蒲生町漆(かもうちょううるし)
 
: 蒲生町の最北端にあり、農業地域である。[[姶良市立漆小学校|漆小学校]]が所在する。かつては多くの[[金鉱山|金山]]が存在していた。面積は16.29 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19">『蒲生郷土誌』(1969) p.19</ref>、2010年10月1日現在166世帯301人が住む<ref name = "2010stat">{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/shisei/tokei-03.pdf | format = PDF | title = 姶良市の統計 | accessdate = 2011-10-22}}</ref>。
 
; 蒲生町西浦(かもうちょうにしうら)
 
: 北西部、薩摩川内市との境界に広がる地域で、山間部の低地に集落がある。[[養蚕業]]を中心産業としていた地域であった。[[姶良市立西浦小学校|西浦小学校]]がある。面積は11.76 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在160世帯347人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 蒲生町白男(かもうちょうしらお)
 
: 薩摩川内市や鹿児島市に挟まれた姶良市最西端にある地域で、前郷川に沿って集落と田が広がっている。2つの小学校があるがいずれも休校中。面積は22.41 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在234世帯501人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 蒲生町久末(かもうちょうひさすえ)
 
: 蒲生町南部の鹿児島市(旧吉田町)との境界に広がる地域で農業地帯である。[[蒲生城]]はこの地域に所在していた。江戸初期にはこの地区の蒲生城と前郷川の間の辺りに地頭仮屋がおかれていたが、[[享保]]頃に上久徳に移転した。面積は9.66 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在73世帯161人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 蒲生町北(かもうちょうきた)
 
: 上久徳の北西側に細長く広がっている地域で、上久徳に接するあたりは住宅が多い。[[姶良市立蒲生中学校|蒲生中学校]]などがある。面積は3.82 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在240世帯573人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 蒲生町米丸(かもうちょうよねまる)
 
: 火山活動により形成されたマールであると考えられる[[米丸]]という盆地になっている。この盆地は深田になっていたが、明治中頃の耕地整理で広大な乾田に生まれ変わり、米の生産量が大幅に増加した。蒲生カントリークラブが所在している。面積は8.25 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在287世帯633人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 蒲生町上久徳(かもうちょうかみぎゅうとく)
 
: 蒲生町の中心部で、整然とした区画の住宅地や商店街が広がりかつての武家屋敷の名残を留めている。[[蒲生八幡神社 (姶良市)|蒲生八幡神社]]が所在している。面積は3.62 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在1,012世帯2,326人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 蒲生町下久徳(かもうちょうしもぎゅうとく)
 
: 蒲生川より南側にある地域で上久徳に比べると人口はずっと少なく田園地帯となる。[[鹿児島県立蒲生高等学校|蒲生高校]]が所在している。古代の[[駅伝制]]における蒲生駅はこの辺りに所在していたと考えられている。面積は3.66 平方キロメートル<ref name = "kamo_town_history_1969_p19" />、2010年10月1日現在799世帯2,164人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
 
 
=== 姶良町 ===
 
 
 
==== 旧山田村 ====
 
山間の田んぼという意味で山田となったと考えられているが、古い時代の文書には記録がなく、1555年([[天文 (元号)|天文]]24年)頃の文書に初めて「山田」という地名が現れている。しかし当時は帖佐郷の一部であり、1580年([[天正]]8年)の文書で山田郷という独立した郷になっている。いつ頃に分割されたかははっきりしない<ref name = "aira_p25">『姶良町郷土誌』p.25</ref>。
 
; 北山(きたやま)
 
: 町北部の広い範囲を占めるが山間地であり、人口は少ない。[[姶良市立北山小学校|北山小学校]]・[[スターランドAIRA]]・[[鹿児島県県民の森|県民の森]]・[[梅北神社]]などがある。山田の北という意味で北山田ということが由来の地名<ref name = "aira_p25" />。2010年10月1日現在179世帯323人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 木津志(きづし)
 
: 重富郷成立の際に蒲生郷から山田郷に編入された、北山の西側に位置する地区であるが、[[城野神社]]とそれに関連する郷士のみは明治になるまで蒲生郷に属していた<ref>『蒲生郷土誌』(1991) p.359</ref>。また、柊野(くきの)地区は1955年(昭和30年)に蒲生町に編入されている。[[切通し]]がなまって木津志になったとされる<ref name = "aira_p25" />。2010年10月1日現在64世帯118人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 上名(かみみょう)
 
: 北山の東側に位置する。目木金(めきがね)に危険物処理場がある。[[奈良時代]]に創建されたとされる[[黒島神社 (姶良市)|黒島神社]]が所在する。元は山田村の一部。山田は開拓者である鈴木政氏・宮牟礼政良兄弟の名田であったことから、そのうちの上手を上名と呼んだことからついた地名である<ref name = "aira_p25" />。2010年10月1日現在194世帯390人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 下名(しもみょう)
 
: 山田の中心部で、かつての山田村役場が所在し、今も[[姶良市立山田中学校|山田中学校]]・[[姶良市立山田小学校|山田小学校]]などがある。山田の凱旋門はここに所在している。元は山田村の一部。上名に対して下手にあることから下名と呼ばれる<ref name = "aira_p25" />。2010年10月1日現在251世帯573人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 大山(おおやま)
 
: 下名の東側に位置する地域で、日枝神社がある。2010年10月1日現在90世帯342人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
 
 
==== 旧帖佐町 ====
 
大隅国府の税を収納する役職を帖佐職と呼んだことが起源であるとする説と、古代のこの地方の地名答西(たふせ)がなまったものであるという説がある<ref name = "aira_p29">『姶良町郷土誌』p.29</ref>。
 
; 寺師(てらし)
 
: [[菅原道真]]の伝説がある臥龍梅がある。旧山田郷から編入。鈴木兄弟が奈良時代にこの地へやって来た時に、勧請した住吉大明神の神輿を増田のあたりに仮安置したところ、にわかに空が明るくなってあたりを照らし出したので、「てらし」という名前が付けられた。古くは「寺子」とも書いていた<ref name = "aira_p29" />。2010年10月1日現在164世帯369人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 住吉(すみよし)
 
: [[摂津国]]の[[住吉大社]]から勧請したことから付いた地名で、北側に[[住吉池]]がある。2010年10月1日現在96世帯237人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 永瀬(ながせ)
 
: 住吉の南側、蒲生町と隣接する地帯で水田が広がる。[[姶良市立三船小学校|三船小学校]]が所在する。2010年10月1日現在57世帯152人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 増田(ますだ)
 
: 永瀬と中津野の間にあり、水田地帯。住吉明神の勧請の際に、仮安置した神輿の前に臼や枡が出現し米が降ってきたことから、これを神の啓治として、枡田と名づけた。益田などともかつては書かれていた<ref name = "aira_p29" />。2010年10月1日現在204世帯508人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 中津野(なかつの)
 
: 蒲生川と山田川が合流して別府川となる地点にあり、[[中津野用水路]]によって水田が開かれた。老神(おいかみ)神社がある。2010年10月1日現在70世帯183人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 深水(ふかみず)
 
: 山田川の左岸、山との間にある集落。2010年10月1日現在22世帯43人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 豊留(とよどめ)
 
: 別府川の氾濫原に耕地整理された広大な水田地帯が広がっている。[[和銅]]年間に[[豊前国]]から移住してきた住民がここに住んだと言われている。2010年10月1日現在74世帯164人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 三拾町(さんじゅうちょう)
 
: [[平山了清]]が下ってきた時に、このあたりは幅が三十[[町 (単位)|町]]にもおよぶ広い池になっていたとされることから付けられた地名である。西側は水田が広がるが、南側は[[外城制|麓集落]]になっている。2010年10月1日現在227世帯552人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 鍋倉(なべくら)
 
: 旧帖佐町の役場があった地域で、古くからの帖佐の中心であった。[[平山城 (大隅国)|平山城]]跡や[[米山薬師 (姶良市)|米山薬師]]、[[島津義弘]]の館であった宇都御屋地跡、古帖佐焼窯跡などがある。[[姶良市立帖佐小学校|帖佐小学校]]や姶良郵便局などを中心に集落がある。2010年10月1日現在367世帯948人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 東餅田(ひがしもちだ)
 
: 姶良町の南東側の別府川沿いに広い地域を占めており、大半が新しく開発された住宅地となっている。[[帖佐駅]]や[[鹿児島県総合運転免許試験場]]がある。海岸側の通称地名は松原と呼ばれていたが、2011年10月8日付で住居表示が設定され独立した町となった。2010年10月1日現在4,373世帯10,680人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 松原町(まつばらまち)
 
: 東餅田における区画整理事業の進展に伴って、2011年10月8日付でその一部が分離されて松原町一丁目 - 松原町三丁目として発足した町<ref>{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/kurashi/house_road_water/landreadjustment/post_53.html | title = 帖佐第一地区土地区画整理事業換地処分に伴う住所表示変更 | accessdate = 2011-10-22}}</ref>。
 
; 西餅田(にしもちだ)
 
: 東餅田との間には宮島町と西宮島町が挟まっている。[[姶良市立帖佐中学校|帖佐中学校]]や[[姶良駅]]などがある広い地域で、国道10号バイパスなどを中心に郊外型の店舗なども発達している。海岸側は古くから住宅があるが、北側は新興の団地が多い。2010年10月1日現在4,646世帯11,796人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 宮島町(みやじままち)
 
: 合併で姶良町が成立した後、1968年(昭和43年)に東餅田と西餅田の一部を分割して設置した新たな町である<ref name = "kadokawa_p793">『角川日本地名大辞典 鹿児島県』p.793</ref>。姶良町成立後に新たに姶良町役場が建設されて姶良町の中心部として発展し、都市計画に沿って発達した商業地域が広がっている。姶良市役所の本庁はそのまま姶良町役場に置かれている。2010年10月1日現在510世帯1,051人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 西宮島町(にしみやじままち)
 
: 宮島町の西側で同じく合併後に新たに設置された。2010年10月1日現在260世帯576人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
 
 
==== 旧重富村 ====
 
1739年([[元文]]4年)にそれまでの帖佐郷から分割されて重富郷が設置された地域で、[[越前家 (島津氏)|越前島津氏]]を再興してその領地としたことから、越前島津氏初代の所領であった[[越前国]]の地名から採られて重富と名づけられた<ref name = "aira_p33">『姶良町郷土誌』p.33</ref>。
 
 
 
; 船津(ふなつ)
 
: 重富の中心部からは台地を越えて北にある地域。かつて船津小学校があったが旧帖佐町立の三叉小学校と合併して三船小学校となった。両地区を結ぶ橋も三船橋である。平山了清の下ってきた時に、[[別府川 (鹿児島県)|別府川]]を遡上してこの付近にあった石に括りつけて繋留したという伝説があることから船津という名前が付いたという説があるが、実際にはこれより前から船津の名前は記録に残されており、単に別府川の船着き場という意味では無いかとされる<ref name = "aira_p33" />。2010年10月1日現在364世帯821人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 西姶良(にしあいら)
 
: 新興住宅団地[[姶良ニュータウン]]に新たに設置された地名(旧名は平松)。西姶良1丁目から4丁目に分かれている。2010年10月1日現在1,345世帯3,743人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 池島町(いけじままち)
 
: 思川の屈曲している部分にある町で、国道10号姶良バイパスが開通したことによって発展しつつある。かつては平松と脇元の一部であったが、1975年(昭和50年)1月7日に分割されて成立した<ref name = "kadokawa_p793" />。2010年10月1日現在545世帯1,286人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 永池町(ながいけまち)
 
: 池島町の西側にあり、同じく合併後の設定地名。2010年10月1日現在379世帯953人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 平松(ひらまつ)
 
: 重富の大半を占めている地区で、重富の中心部から鹿児島市との境界まで広がっている。[[姶良市立重富小学校|重富小学校]]や[[姶良市立重富中学校|重富中学校]]、町の重富出張所などがあり、都市化が進展している。2010年10月1日現在3,185世帯8,009人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
; 脇元(わきもと)
 
: [[重富駅]]や重富漁港がある重富の海岸側の地名で、崖下を鹿児島市との境界までつながっている。2010年10月1日現在749世帯1,652人が住む<ref name = "2010stat" />。
 
 
 
=== 加治木町 ===
 
加治木という地名は、船の[[舵]]を置いておいたら、そこから芽が出て木が生えたという「柁の木伝説」に由来する。ここから「柁木」「柁城」と呼ばれるようになり、やがて「加治木」になったとされている。加治木町仮屋町にはこの伝説の木に由来するとされる[[クスノキ]]があり、その向かいには[[姶良市立柁城小学校|柁城小学校]](だじょうしょうがっこう)がある。また加治木町の町の木はクスノキであった<ref>『加治木郷土誌』pp.15 - 16</ref>。
 
 
 
; 加治木町西別府(かじきちょうにしべっぷ)
 
: 加治木町の北西部、姶良町との境界付近にあり、また北側は霧島市に面している。加治木町の中では面積が最大であったが、人口は少なく山間に小さな集落が点在するのみである。[[姶良市立永原小学校|永原小学校]]や高岡公園、さえずりの森、姶良市のごみ焼却場などがある。2010年10月1日現在293世帯635人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は13.89 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata">『加治木郷土誌』の正誤表より</ref>。
 
; 加治木町辺川(かじきちょうへがわ)
 
: 西別府と小山田の間にあり、もともと旧山田村の[[飛地]]であった地域で、飛地の不便を解消するために1957年(昭和27年)10月10日に加治木町へ編入された。山間部に小さな集落がある。2010年10月1日現在87世帯195人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は2.92 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町小山田(かじきちょうこやまだ)
 
: 加治木町北東部の霧島市との境界付近に広がる[[十三塚原]]と呼ばれる台地の地域で、道路沿いに集落がいくつかある。龍門司焼(りゅうもんじやき)の生産が行われる地域で、陶夢ランドがある。2010年10月1日現在620世帯1,421人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は11.70 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町日木山(かじきちょうひきやま)
 
: 日木山川より東側にある地域で霧島市との境界に当たっている。霧島市に食い込むように東に延びている。南部は海岸に面し霧島市との境界が黒川岬となっている。また加治木のシンボル的な存在である蔵王岳がある。[[精矛神社]]がある。2010年10月1日現在292世帯711人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は5.21 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町木田(かじきちょうきだ)
 
: [[網掛川]]より西側にあり、隣接する姶良町と[[別府川 (鹿児島県)|別府川]]で境界を接している。国道10号が通っており、これを中心にレストランや大型店舗などが立ち並んでいる。人口も多く、[[国立病院機構南九州病院]]・姶良市消防本部・[[姶良市立加治木小学校|加治木小学校]]・[[龍桜高等学校|龍桜高]]・加治木町文化会館「加音ホール」などがある。2010年10月1日現在3,079世帯8,520人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は5.36 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町新生町(かじきちょうしんせいまち)
 
: JR日豊本線と国道10号バイパスの間にある団地の広がる地域。[[錦江駅]]のすぐ北側にある。2010年10月1日現在773世帯1,985人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.20 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町錦江町(かじきちょうきんこうまち)
 
: 1957年(昭和32年)に木田から分割されて設置された。町名は鹿児島湾の別名である錦江湾にちなむ。[[姶良市立錦江小学校|錦江小学校]](にしきえしょうがっこう)があり、商店と住宅が混在している。2010年10月1日現在304世帯663人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.14 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町反土(かじきちょうたんど)
 
: 日木山川と網掛川の間の市街地の大半にあたる広い地域を占めていたが、1957年(昭和32年)2月に仮屋町・新富町・本町・諏訪町・港町・朝日町を分割しており、残った反土はこれらを取り囲むようにひらがなの「つ」の字のような形になっている。大半は住宅地であり、[[姶良市立加治木中学校|加治木中学校]]が所在する。[[九州自動車道]]の[[加治木ジャンクション]]もあり、[[加治木インターチェンジ]]もかつてはこの地域であったが、[[隼人道路]]との接続の関係で東隣の日木山地区に移転している。2010年10月1日現在2,202世帯5,311人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は1.43 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町仮屋町(かじきちょうかりやまち)
 
: JR日豊本線より北側の市街地北部の地域で、[[鹿児島県立加治木高等学校|加治木高校]]や[[姶良市立柁城小学校|柁城小学校]]、家庭裁判所の加治木支部などがある官公庁の中心地帯である。島津義弘が一時期館を構えていた。また加治木島津氏の子孫や家臣団が住んでいる地区で、数多くの文化財があり、古くからの住宅などが多い。2010年10月1日現在262世帯599人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.17 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町新富町(かじきちょうしんとみまち)
 
: 仮屋町の東側、日豊本線の北側にある小さな地域で、[[鹿児島県立加治木工業高等学校|加治木工業高校]]がある。2010年10月1日現在176世帯413人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.10 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町諏訪町(かじきちょうすわまち)
 
: 新富町の南側、朝日町の北側にあり、北側に[[加治木駅]]がある。官公庁と住宅が混在した地域となっている。加治木電話局、加治木労働基準監督署、県合同庁舎、加治木税務署などが所在する。2010年10月1日現在227世帯425人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.10 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町本町(かじきちょうもとまち)
 
: 加治木町の市街地中心部にあり、加治木町役場もこの地域にあった。商店街があり地域の商業の中心的な地域でもある。2010年10月1日現在270世帯558人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.13 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町朝日町(かじきちょうあさひまち)
 
: 市街地の南東側にあり、住宅が広がっている。国道10号が東西に通り、[[浄土真宗]]の[[性応寺]]がある。2010年10月1日現在272世帯583人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.10 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
; 加治木町港町(かじきちょうみなとまち)
 
: 加治木町市街地南西側にあり、名前の通り[[加治木港]]がある。この港の周辺は工業地域となっている。また[[姶良警察署|加治木警察署]]が所在していた。2010年10月1日現在166世帯323人が住む<ref name = "2010stat" />。面積は0.16 平方キロメートル<ref name = "kajiki_town_errata" />。
 
 
 
== 気候 ==
 
年間平均気温は約17度、年間降水量は約2,200 mm程度で、降水量の大半が6月から9月に集中している<ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/mati/mati_org.pdf 新市まちづくり計画(原案)]}} p.5 姶良西部合併協議会</ref>。夏から秋に掛けて[[台風]]が襲来することが多い。また、市の南20 kmほどのところに[[桜島]]があり、火山活動時に北向きの風が吹くと[[火山灰]]が降ることがある。鹿児島県本土の他の市町村と同様に、天気予報で報じられる桜島上空の風向き予測は大きな関心事である。
 
 
 
{| class = "wikitable" style = "text-align: right"
 
|+ 鹿児島県森林技術総合センター(蒲生町上久徳)で2008年に観測した気象データ<ref>[http://www.kpfes.ecnet.jp/info/KISYOU/kisyou.htm 気象観測]</ref>
 
! 月 !! 1月 !! 2月 !! 3月 !! 4月 !! 5月 !! 6月 !! 7月 !! 8月 !! 9月 !! 10月 !! 11月 !! 12月
 
|-
 
! 平均気温(℃)
 
| 5.7 || 8.1 || 9.0 || 14.0 || 19.4 || 24.4 || 29.0 || 29.1 || 25.7 || 21.2 || 13.7 || 8.3
 
|-
 
! 降水量(mm)
 
| 115.0 || 183.5 || 145.5 || 263.5 || 209.0 || 427.0 || 460.0 || 222.5 || 133.5 || - || 107.5 || 58.5
 
|}
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 先史時代 ===
 
姶良市では、[[旧石器時代 (日本)|旧石器時代]]の[[遺跡]]は蒲生町内に大原遺跡や竹牟礼遺跡などが見られるが、姶良町や加治木町内では確認されていない。[[縄文時代]]の遺跡は、[[縄文海進]]により低地の大部分は海の中であったため台地の上や微高地に集中している。三代寺遺跡・日木山遺跡・干迫遺跡・鍋谷遺跡・鍋倉遺跡・宮下遺跡などがある。[[弥生時代]]以降になると低地にも遺跡が出現する<ref>『鹿児島県の地名』pp.581, 587, 603 - 604</ref>。
 
 
 
=== 律令制度の確立と崩壊 ===
 
713年([[和銅]]6年)4月、[[日向国]]の一部を割いて[[大隅国]]が設置された。[[朝廷]]による支配に対して[[隼人]]族は抵抗したため、[[豊前国]]から住民を移住させ、[[桑原郡]]を建てた。これが現在の姶良郡にほぼ相当する。[[和名類聚抄]]によれば、移住させた先として大分(おほきた)・豊国(とよくに)・答西(てふさ)という地名があったとされ、このうち大分は北山、豊国は豊留、答西は帖佐に比定する説がある<ref name = "kagoshima_name_p587">『鹿児島県の地名』p.587</ref><ref name = "kadokawa_p791">『角川日本地名大辞典 鹿児島県』p.791</ref>。一方、大分を蒲生町北とする説もある<ref>『角川日本地名大辞典 鹿児島県』p.799</ref>。
 
 
 
和銅年間には、福岡[[志賀島]]から鈴木三郎政氏、四郎政良の兄弟が[[摂津国]]の住吉明神([[住吉大社]])を勧請してこの地にやってきて、住吉地区に神社を築いた。現在でもその子孫とされる人が居住しており、また[[住吉池]]という名前の由来でもある。弟の政良は山田地区の開拓を行い、[[黒島神社 (姶良市)|黒島神社]]を築いている。
 
 
 
大隅国の[[国分寺]]に使われた[[瓦]]は、船津にある宮田ヶ岡遺跡の窯跡のものと特徴が一致しており、ここで焼かれたものであると考えられている<ref name = "kagoshima_name_p587" />。
 
 
 
[[日本後紀]]によれば、古代の[[駅伝制]]において大隅国蒲生駅と[[薩摩国]]田尻駅の間が長すぎるために804年([[延暦]]23年)3月に薩摩国櫟野村に新たな駅を設けたという記述があり、これが「蒲生」という言葉が文献に現れる最初である。この蒲生駅は、現在の蒲生町下久徳付近にあったと比定されている。大隅国の国府があった[[国分市|国分]]付近と薩摩国の国府があった[[川内市|川内]]付近を結ぶ経路上の拠点であったと見られている<ref>『蒲生郷土誌』(1969) p.581</ref>。
 
 
 
薩摩国・大隅国はもともと人口が少なく、田畑も少なかったことから開墾を奨励するために[[班田収授法]]の適用が遅れていたが、800年(延暦19年)になってようやく施行された<ref>『加治木郷土誌』p.54</ref>。しかし次第に[[律令制]]は崩壊に向かい、貴族や寺社による私有地化が進んでいった。
 
 
 
=== 豪族の割拠 ===
 
この頃、加治木地方を[[郡司]]として支配していたのは、[[後漢]]の[[霊帝 (漢)|霊帝]]が先祖だとされる[[大蔵氏]]一族であった。[[魏 (三国)|魏]]に追われて[[朝鮮半島]]に逃れた霊帝の孫孝延王の子孫が来日して帰化し、[[播磨国]]大蔵谷を領地としたことから大蔵氏を名乗るようになったとされる。大蔵氏の一族は940年([[天慶]]3年)頃、[[藤原純友]]の乱([[承平天慶の乱]])の鎮圧に関連して九州地方各地に下向したとされている。加治木の大蔵氏もこのときに下向したのではないかと考えられているが、確実な資料は残されていない。後に[[加治木氏]]を名乗るようになり長期に渡って加治木を支配した。当初は日木山(古代の地名では肥喜山)付近を拠点としていたが、後に[[加治木城]]を築いて本拠とした<ref>『加治木郷土誌』pp.55 - 61</ref>。
 
 
 
もともと、国 - 郡 - 郷の三層構造の郡郷制を採っていたが、平安末期になるとこれに改変が行われ、郡・郷・院がそれぞれ対等な形で国に属するようになっていた。姶良市にあたる地域では、蒲生院・帖佐郡・加治木郷となっていたとされている。このうち帖佐郡が後の姶良町にほぼ相当する<ref>『鹿児島県の歴史』pp.84 - 87</ref>。
 
 
 
[[宇佐八幡宮]]の留守職であった[[藤原教清]]が宇佐八幡大宮司の娘との間に儲けた息子[[蒲生舜清|藤原舜清]]は、1120年([[保安 (元号)|保安]]元年)に大隅国の[[垂水市|垂水]]へ下ってきて、続いて1123年(保安4年)正月に蒲生院に入ってこの地域の総領職となった。そして宇佐八幡宮を勧請して[[蒲生八幡神社 (姶良市)|蒲生八幡神社]]を創建した。以後、舜清とその子孫は[[蒲生氏#薩摩蒲生氏|蒲生氏]]と称して、[[蒲生城]]を中心としてこの地域を支配するようになった<ref>『蒲生郷土誌』(1969) p.8</ref>。
 
 
 
1135年([[保延]]元年)2月1日の「宮永社役支配状」に「加治木郷」の名前が出たのが加治木という地名の初見とされる<ref>『鹿児島県の地名』p.603</ref>。この頃帖佐郡は[[藤原忠実]]により1136年([[保延]]2年)、大隅正八幡宮([[鹿児島神宮]])へ寄進された。大隅国府でこうした税を収納する職を帖佐職と呼んだことが、帖佐という地名のおこりという説がある<ref name = "kadokawa_p791" />。しかし、古代の答西(たふせ)という名前がなまったという説もある<ref name = "aira_p29" />。
 
 
 
この地域の土地は、平安末期になると次々に大隅正八幡宮へ寄進された。大隅国においては、[[島津荘]]に代表されるように[[免田|半不輸地]]であるが領主の権限が強く、[[国衙]]の支配が及ばない寄郡(よせごおり)と呼ばれる[[荘園]]が広がっていたため、宗教的な権威に頼ってでも支配地を確保するために大隅正八幡宮への寄進が進められたものと考えられている<ref>『鹿児島県の歴史』pp.91 - 92</ref>。正八幡宮領では、[[官物]]は国衙へ、[[雑役]]は正八幡宮へ納められた。
 
 
 
[[鎌倉幕府]]は、[[文永の役]]を受けて[[博多湾]]周辺などに防備のための[[元寇防塁]]を整備した。この際に各地に防塁建造作業の割当を行っており、このうち大隅国に対して割り当てられた分については1276年([[建治]]2年)の「大隅国在庁石築地役配符」という文書に詳しい記録が残されており、その当時の大隅国の様子を知る手がかりとなっている。この文書によれば、現在の姶良市のあたりは蒲生院・帖佐郷・加治木郷に分かれていたものとされる。帖佐郷は姶良町に相当するが、鍋倉地区は加治木郷に、脇元地区は蒲生院に属していたとされる<ref name = "kadokawa_p791" />。
 
 
 
1282年([[弘安]]5年)、[[山城国]][[石清水八幡宮]]から[[平山了清]]が下ってきて、大隅正八幡宮領の帖佐郷を治めることになった。了清は、姶良町の海岸部である松原地区(現在の大字では東餅田)に一旦上陸し、その後[[別府川 (鹿児島県)|別府川]]を遡って船津で船を係留して一晩を明かし、翌朝東側の三拾町に上陸したという故事がある。大隅正八幡に対して新正八幡と称する神社を山の上に作り、また[[平山城 (大隅国)|平山城]]を造営して居城とした。この新正八幡宮は現在も存在しており(現[[八幡神社 (姶良市)|八幡神社]])、社殿の前には了清が植えたといわれる樹齢700年あまりの大銀杏がある。平山氏はその後帖佐郷各所に城を築いて一族で支配を行った<ref>『姶良町郷土誌』pp.84 - 89</ref>。こうして、蒲生院は蒲生氏、帖佐郷は平山氏、加治木郷は加治木氏という豪族がそれぞれ治める土地となった。
 
 
 
=== 南北朝の争乱と豪族の勢力争い ===
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]にかけては、この地域の各豪族の間で争いが繰り返された。[[足利尊氏]]は[[多々良浜の戦い]]に勝利すると、九州に押さえを残して上京し中央で[[北朝 (日本)|北朝]]を樹立した。多々良浜の戦い後、足利尊氏は南九州方面の制圧を進めるために、[[畠山直顕]]や[[島津貞久]]を南九州へ派遣した。そして南朝方の勢力と戦ったが、1341年(北朝: [[暦応]]4年/南朝: [[興国]]2年、以下併記の際は北朝年号を先に記す)頃には南朝方の[[懐良親王]]が薩摩に入るなどして南朝の勢力が依然として強かった。さらに[[観応の擾乱]]で足利尊氏の弟[[足利直義]]と執事[[高師直]]が対立し、直義派の[[足利直冬]]が九州へ下向したために九州は北朝方(武家方)・南朝方(宮方)・直冬方の三つ巴の争いとなった。薩摩・大隅では多くの地元豪族は南朝方であり、島津貞久は北朝方、畠山直顕は直冬方であった<ref>『加治木郷土誌』pp.79 - 81</ref>。また、蒲生氏は当初畠山直顕の配下であったが、後に南朝方となった<ref>『蒲生郷土誌』(1969) pp.44 - 45</ref>。平山氏はこの時期の動静がはっきりしていないが、北朝元号を用いた文書を残していることなどから北朝方であったと推測されている<ref>『姶良町郷土誌』p.94</ref>。
 
 
 
島津と畠山の間では、当初は直冬方の畠山直顕の勢力が強く、島津貞久の跡を継いだ[[島津氏久]]は苦戦していた。中央からの来援を請うていたが、幕府の余裕がなく、やむを得ず島津氏は1356年([[延文]]元年/[[正平 (日本)|正平]]11年)10月に南朝方の[[三条泰季]]に降り地元の南朝勢力の支援を受けて畠山直顕に対抗することにした。この年10月25日に畠山方の加治木[[岩屋城 (大隅国)|岩屋城]]攻撃が行われ、翌年1月21日・25日にも戦いが行われた<ref>『蒲生郷土誌』(1969) p.46</ref><ref>『姶良町郷土誌』p.96</ref>。さらに1357年([[延文]]2年/正平12年)2月には島津氏久が帖佐[[萩峰城]]で[[野元秀安]]を攻撃し、南朝方の三条泰季もまた3月20日には加治木浜の戦いで畠山直顕配下と交戦した<ref>『蒲生郷土誌』(1969) p.47</ref>。また[[肥後国]]の南朝勢力である[[菊池氏]]が日向国にいた畠山直顕を攻撃したこともあって畠山直顕の勢力は衰退した。その後、再度島津氏久は北朝方に戻った<ref>『加治木郷土誌』pp.82 - 84</ref>。
 
 
 
1411年([[応永]]18年)8月にこの頃の島津の当主、[[島津元久]]が死去すると、一族の[[伊集院頼久]]は自分の子供を次の当主にしようとたくらみ、元久の弟[[島津久豊]]と争いになった。蒲生氏は島津氏に従ったが、平山氏と加治木氏は伊集院氏を支持し、一時的に島津氏と争うようになった。しかし伊集院氏が打ち破られるとともに平山氏・加治木氏も島津氏と和解し、再度島津氏の配下となった。その後、伊集院氏の残党が1436年([[永享]]8年)に平山城に攻め込んできたが、平山氏はこれを打ち破った<ref>『姶良町郷土誌』pp.100 - 102</ref>。
 
 
 
その後島津氏と平山氏の関係は、理由は不明ながら再度悪化し、1458年([[長禄]]2年)、[[島津季久]]が平山氏に代わって帖佐郷を支配するようになり、瓜生野城(後に[[建昌城]]と呼ばれるようになる)を築いた。1459年(長禄3年)には平山氏は[[島津忠国]]に敗れて[[指宿市|指宿]]に移されている<ref>『姶良町郷土誌』pp.103 - 105</ref>。
 
 
 
島津季久は、1459年(長禄3年)に蒲生を攻撃し、まだ若かった蒲生氏15代当主[[蒲生宣清]]はこれに対抗することができずに、島津忠国の指示を受けて[[給黎郡|給黎]]に移ることになった。その後は島津季久の子[[島津忠廉]]が蒲生を支配していた。蒲生宣清は終始[[島津忠昌]]の配下として行動し、島津季久が島津忠昌と対立するようになると季久方の[[揖宿城]]を攻撃するなどし、ついに1495年([[明応]]4年)閏2月に旧領の蒲生を与えられて復帰することができた<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.169 - 171</ref>。
 
 
 
季久の子[[島津守興]](起宗和尚)は、[[薬師如来]]を信奉し、この頃[[越後国]][[米山薬師]]を参詣した時に得た薬師如来像を持ち帰り、平山城南端の山が米山に似ていることからこの地に堂を建てて安置した。これが帖佐の[[米山薬師 (姶良市)|米山薬師]]の由来である<ref>『姶良町郷土誌』pp.110 - 111</ref>。
 
 
 
1495年(明応4年)加治木の[[加治木久平]]が平山城を襲うが、島津方の守備が堅く撃退された。この時に守備していた川上忠直は戦功により帖佐の地頭を任じられ、領地の名から[[辺川忠直]]と改名した。翌1496年(明応5年)島津忠昌は加治木久平を平定し、加治木氏は[[阿多郡|阿多]]に移されて加治木氏の加治木支配が終焉した。加治木氏の没落後、島津忠昌は家臣の[[伊地知重貞]]を加治木地頭に任じた<ref>『姶良町郷土誌』p.152</ref><ref>『加治木郷土誌』pp.60 - 61</ref>。
 
 
 
=== 島津氏の支配の確立 ===
 
その後、島津氏第14代当主島津忠兼(後の[[島津勝久]])の時代には領内が混乱し、[[島津実久]]が後継を狙うなどしたため、忠兼は智将とされた[[島津忠良]](日新)に領地を与えて力を借りることにした。そして忠良の子を忠兼が養子に迎えて第15代当主[[島津貴久]]とした。1526年([[大永]]6年)、先に島津宗家に協力して加治木氏の叛を収めることに貢献した[[辺川忠直]]が今度は島津実久に協力して忠兼に対して反旗を翻した。忠良はこの年の12月7日に帖佐の平山城を攻撃し、辺川忠直を平定した。この時に実久側から辺川氏に援軍として派遣されていた[[島津安久]]は戦死した。後の[[参議院議員]][[迫水久常]]はこの安久の直系の子孫に当たる。平定後、平山城には[[島津昌久]]が配置され帖佐地頭となった<ref>『姶良町郷土誌』pp.151 - 152</ref>。
 
 
 
しかし翌1527年([[大永]]7年)5月、加治木地頭の[[伊地知重貞]]と帖佐地頭島津昌久は共に島津実久側について島津忠良・貴久に背いた。島津忠良の軍勢がこれを討伐したために、[[伊地知氏]]の加治木支配も終焉した。その後、帖佐には[[伊地知重辰]]を、また[[山田城 (大隅国)|山田城]]には[[川越重博]]を配した<ref>『姶良町郷土誌』p.154</ref>。
 
 
 
一旦島津貴久に守護職を譲った島津勝久が再び国政を執ろうとしたことなどから混乱が生じ、この隙に乗じて1529年([[享禄]]2年)1月22日、[[祁答院氏]]2代の[[祁答院重武]]は帖佐に攻め入り平山城と山田城を陥落させた。この後しばらく帖佐は祁答院氏の領地となった<ref>『姶良町郷土誌』pp.155 - 156</ref>。
 
 
 
また加治木では伊地知重貞の反乱後の混乱に乗じて、[[溝辺町|溝辺郷]]の[[肝付兼演]]が加治木を入手し、1534年([[天文 (元号)|天文]]3年)にここを支配した。これに対して島津忠良と貴久は1542年(天文11年)に加治木を再度攻撃したが、この時は蒲生・帖佐からの兵が[[肝付氏]]を支援したため攻略できなかった。一度は和解したものの、1549年(天文18年)になり帖佐の[[祁答院良重]]、蒲生の[[蒲生範清]]らと謀って再度叛旗を翻し、島津方の[[吉田城 (大隅国)|吉田城]]を攻撃しようとした。島津貴久は[[伊集院忠朗]]に命じて肝付氏を攻撃させ、11月に降伏させた。翌年4月に改めて加治木は肝付氏に与えられ、以後1595年([[文禄]]4年)10月26日に喜入に移るまで、4代68年に渡り肝付氏が加治木を治め、一貫して島津氏の配下として行動した<ref>『加治木郷土誌』pp.61 - 66, 97</ref>。
 
 
 
1554年(天文23年)、島津方となった肝付氏と蒲生氏の対立から、祁答院良重、[[入来重嗣]]、蒲生範清が島津氏に対して背いた。蒲生氏は援軍の[[菱刈氏]]・[[渋谷氏]]などとともに加治木の肝付氏を攻撃し、これに対して島津貴久が救援を送った。蒲生から加治木に掛けての各地で戦いが繰り広げられた後、9月になって[[岩剣城]]の戦いが起こった。島津氏が日本で初めて[[鉄砲]]を実戦で使用したと言われる(異説もある)。堅城であるため苦戦したが、10月3日になり陥落した<ref name = "kajiki_pp98-99">『加治木郷土誌』pp.98 - 99</ref><ref name = "aira_pp156-163">『姶良町郷土誌』pp.156 - 163</ref>。
 
 
 
さらに1555年(天文24年)肝付氏と共に帖佐平山城の祁答院良重を攻撃して4月2日祁答院へ敗走させた。その後[[鎌田政年]]が帖佐地頭として配され、同年7月27日に祁答院氏が帖佐を奪還しようとして来襲した際には援軍を得ながら祁答院氏を大破した。1556年([[弘治 (日本)|弘治]]2年)には[[松坂城 (大隅国)|松坂城]]を3月と10月の2回に渡る攻撃で陥落させて、祁答院氏からの蒲生氏への救援をほぼ絶った。そして蒲生氏の援軍に来ていた菱刈氏を1557年(弘治3年)2月から3月に掛けての戦闘で撃破し、菱刈陣を陥落させたことで蒲生城の包囲を完成させた。援護の得られなくなった蒲生範清は、同年4月20日ついに降伏し、祁答院方面へ退去していった。こうして蒲生氏は平安以来の領地を失い、この地域の島津氏の支配がほぼ確立した<ref name = "kajiki_pp98-99" /><ref name = "aira_pp156-163" /><ref>『蒲生郷土誌』(1991)pp.186 - 195</ref>。
 
 
 
[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]の結果、島津氏は[[豊臣氏]]に従うことになった。この際加治木郷約1万石は秀吉の[[蔵入地]]とされ、[[石田三成]]がその代官となった。ただしこの頃の加治木郷には後の隼人町や溝辺町(いずれも霧島市の一部)となる嘉例川(当時は佳例川)、竹子、溝辺、崎森などが含まれている。これにより肝付氏は喜入に移った<ref>『加治木郷土誌』p.103</ref>。[[太閤検地]]においては帖佐郷は7864石あまりの土地が記録されている<ref>『姶良町郷土誌』p.192</ref>。
 
 
 
蒲生氏の平定後、帖佐郷の山田地区などを治めていた[[梅北国兼]]は、[[梅北一揆]]を起こして豊臣秀吉に対して背いた。これはまもなく鎮圧され、国兼は殺された。この件を7人の家来が山田地区にいた家族に急報し、その後木津志と北山の間の七ツ島と呼ばれる場所で主人に殉じて切腹したという伝説が残されている。ただし、梅北一揆の時期には国兼は既に湯之尾の地頭へ転出していたため、この話は事実ではないとする見方もある<ref>『姶良町郷土誌』pp.170 - 171</ref>。
 
 
 
[[文禄・慶長の役|文禄の役]]から帰国した[[島津義弘]]は、1595年(文禄4年)、鍋倉地区に新築した御屋地(おやち)と呼ばれる館に入り居住した。これ以来この地域は帖佐郷の中心として発展した。義弘が[[朝鮮半島]]から連れ帰った陶工により、古帖佐焼などの窯が開かれている<ref>『姶良町郷土誌』p.184</ref>。後に加治木に移り、現代に伝わる龍門司焼の元祖ともなった。また出兵の功績により1599年([[慶長]]4年)1月9日、豊臣氏の直轄領が島津氏に返還され、加治木郷もまた島津の領土に復した<ref>『姶良町郷土誌』p.184</ref><ref>『加治木郷土誌』p.107</ref>。
 
 
 
=== 薩摩藩による統治 ===
 
1600年(慶長5年)、[[関ヶ原の戦い]]において島津義弘は敵中突破の退却を行い、帖佐郷に引き上げてきた。その後しばらくの間、[[徳川氏]]に対する抗戦のため建昌城や蒲生城などの修築が行われている。義弘は[[桜島]]にて一時謹慎するが、隠居して再び帖佐に住んだ。1606年(慶長11年)、義弘は平松館(現在の[[姶良市立重富小学校|重富小学校]]の位置)に館を移し、さらに1607年(慶長12年)、加治木館(現在の[[鹿児島県立加治木高等学校|加治木高校]]の位置)に館を移した。その後は義弘は領内の産業と人材の育成に努めた。天正年間から寛永年間までは現在の加治木町本町にあった銭屋町で加治木銭を鋳造させて広く流通させた。また朝鮮出兵時に連れ帰ってきた職人により製陶業や[[養蜂|養蜂業]]などを興した。網掛川の上流の滝から分水して加治木館に水を引き、これを周辺の田畑にも分けるなどして農業の振興にも努めた。網掛川に堤防を築いて治水にも努めている。また、[[加治木くも合戦]]は義弘にまつわる故事が残されている。義弘は1619年([[元和 (日本)|元和]]5年)7月21日に加治木館で亡くなった<ref>『姶良町郷土誌』pp.224 - 225</ref><ref>『加治木郷土誌』pp.124 - 131</ref>。
 
 
 
[[江戸時代]]の[[薩摩藩]]では、[[外城制]]と呼ばれる領内支配体制が敷かれ、加治木、重富、帖佐、山田、蒲生の外城(1784年([[天明]]4年)4月以降は郷)が置かれた。このうち加治木と重富が一門家の私領で、他は直轄の地頭所が置かれていた。それぞれに麓と呼ばれる支配階層の武士が住む集落が作られ、そこから領民の過酷な支配が行われた。これらの郷の下にさらに村が置かれて、各村には[[庄屋]]が配置され、さらに[[名主]]がこれを助けていた<ref>『加治木郷土誌』pp.148 - 151</ref>。
 
 
 
加治木郷は高井田・日木山・小山田・反土・木田・西別府の6村で構成されており、後に高井田は木田に統合された<ref>『加治木郷土誌』p.151</ref>。帖佐郷は深水・三十町・永瀬・中津野・鍋倉・豊留・増田・住吉・西餅田・東餅田・寺師の11村で、山田郷は木津志・上名・下名・大山・北山・辺川の6村で、重富郷は平松・脇元・船津・春花・触田の5村で構成されていた。ただし触田村については吉田郷から編入した経緯から[[薩摩国]][[鹿児島郡]]の一部とも分類されている<ref>『姶良町郷土誌』p.255</ref>。蒲生では、当初軍事的に重要とされた北村と松坂にも独立した地頭が置かれたが、初代のみで2代以降は置かれなかった<ref>『蒲生郷土誌』(1991) p.261</ref>。蒲生郷は久末・西浦・白男・米丸・上久徳・下久徳・漆・北の8村で構成されていた<ref>『蒲生郷土誌』(1991) p.287</ref>。
 
 
 
また薩摩藩では、麓の周辺などで商業を行う集落ができているところを当初岡町、後に野町と呼び、また漁業を担う集落を浦浜、半農半漁の集落を半浦と称していた。山田郷の野町は西田野町で下名の集落から山田川を渡って南側にあった。帖佐郷の野町は納屋町で、鍋倉地区の別府川沿いにあった<ref name = "aira_pp292-298">『姶良町郷土誌』pp.292 - 298</ref>。帖佐の野町は薩摩藩では国分の野町に続いて2番目の規模であったとされ、蒲生の野町は8番目とされている。蒲生の野町は蒲生麓の外れにあった<ref name = "kamo_pp340-343">『蒲生郷土誌』(1991) pp.340 - 343</ref>。浦浜としては、帖佐郷の松原浦(東餅田の海岸付近)、重富郷の脇元浦、半浦としては納屋町と十日町(東餅田の別府川沿い)があった<ref name = "aira_pp292-298" />。
 
 
 
1625年([[寛永]]2年)7月15日、[[島津忠恒|島津家久]](義弘の子、第18代太守)の第3子、[[島津忠朗]]は加治木に入り、島津氏の一族中最も家格の高い一門家である[[加治木島津家]]の初代となった<ref>『加治木郷土誌』p.140</ref>。1645年([[正保]]2年)、[[宮之城町|宮之城]]領主で薩摩藩の家老を兼任した[[島津久通]]が殖産興業政策を進め、蒲生地区で蒲生杉と蒲生和紙の生産を進めさせた<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.353 - 357</ref>。1664年([[寛文]]4年)、触田に井堰が造られて、現在も使用されている[[用水路]]、中溝が建設されている。この当時の触田はまだ吉田郷であった。
 
 
 
1737年([[元文]]2年)3月27日、[[島津忠紀]]が[[越前家 (島津氏)|越前島津氏]]を再興し、その領地とするために1739年(元文4年)帖佐郷より分割して重富郷が成立した。重富郷成立以前の時期に、帖佐郷から既に山田郷が分割されていたが、いつ頃どのような経緯で分割されたかははっきりしていない。帖佐郷のうち平松村、脇元村、船津村、春花(はるげ)村、吉田郷のうち東佐多浦村の一部(触田村として分離)が重富郷となった。また帖佐郷を補うために山田郷から寺師村が編入され、これを補うために蒲生郷から木津志村が山田郷に編入されて、姶良町合併前の帖佐・重富・山田の町村の形がほぼ成立した。重富の名は、越前島津氏初代の[[島津忠綱]]の領地であった越前国重留に由来し、後に重富に改めたとされるが、現在の[[福井県]]にはそのような地名はないとされる。この重富島津家も一門家とされた<ref>『姶良町郷土誌』pp.243 - 247</ref>。
 
 
 
1752年([[宝暦]]2年)、水口ゆきえが[[中津野用水路]]を完成させたが、その知恵を恐れて暗殺された<ref>『姶良町郷土誌』pp.279 - 280</ref>。加治木島津家第6代の[[島津久徴]]は、1775年([[安永 (元号)|安永]]4年)長崎から学者の伊藤世粛を招聘し、1784年([[天明]]4年)に加治木に郷黌毓英館(いくえいかん)という学校を設立した<ref>『加治木郷土誌』p.167</ref>。1810年([[文化 (元号)|文化]]7年)と1812年(文化9年)の2回にわたり、[[伊能忠敬]]によりこの地域の測量が行われている<ref>『姶良町郷土誌』pp.306 - 307</ref>。
 
 
 
=== 近代化の進展 ===
 
明治になると、それまでの各郷村を治めていた統治形態が変更となり、しばらくの間はめまぐるしく制度が変わっていくことになった。1869年(明治2年)6月に軍制が敷かれ、各村に[[常備隊]]が置かれることになった。この際に各郷に小隊が置かれた<ref>『姶良町郷土誌』pp.317 - 318</ref>。1870年(明治3年)加治木に郡治所が置かれ、姶羅・桑原・[[西囎唹郡|西囎唹]]の三郡を統括することになった。これは現在の加治木簡易裁判所・加治木区検察庁の建っている場所に置かれた<ref>『加治木郷土誌』p.182</ref>。
 
 
 
1871年(明治4年)7月14日、[[廃藩置県]]が行われ、加治木・帖佐・山田・重富・蒲生の5郷は一旦鹿児島県に属したが、11月14日に領域が分割されて、これらの地域は[[都城県]]となった<ref>『姶良町郷土誌』p.318</ref>。1872年(明治5年)には[[大区小区制|大区・小区]]が置かれて、大区には区長、小区には[[戸長]]を置いた。[[戸長役場]]がそれぞれに置かれて、[[壬申戸籍]]の作成や[[地租改正]]などの作業に当たった。1873年(明治6年)1月15日、都城県が廃止され鹿児島県に戻っている<ref>『加治木郷土誌』pp.182 - 183</ref>。同年、鹿児島県内6箇所に支庁が配置され、加治木は第一支庁となった。姶良・[[曽於郡|曽於]]・[[伊佐郡|伊佐]]の各郡と[[薩摩郡]]のうち黒木・大村・藺牟田、大島の[[十島村]]・[[三島村]]を範囲としていた<ref>『加治木郷土誌』pp.194 - 195</ref>。
 
 
 
1877年(明治10年)には大小区制となり、加治木は第59大区とされ、51区重富、52区帖佐、53区蒲生、54区山田、58区溝辺を含めて管轄することになった<ref>『加治木郷土誌』pp.196 - 197</ref>。またこの年、[[西南戦争]]により鹿児島県庁が焼失したため、一時的に加治木に県庁が置かれている<ref>『加治木郷土誌』p.197</ref>。1878年(明治11年)7月22日、大小区制が廃止されて郡・町村制に戻された。
 
 
 
1877年(明治10年)の西南戦争に際してはこの地域も戦場となり、西郷軍が北部で戦っている間に本拠地鹿児島を攻撃しようとした政府軍が[[西南戦争#鹿児島方面の戦い|鹿児島方面の戦い]]を起こし、5月22日[[西南戦争#城山・重富・紫原の戦い|重富に政府軍が上陸]]した。その後鹿児島の城山方面で西郷軍が敗れると、次に西郷軍が集結すると予想された都城方面を挟撃するためにこの地域に政府軍が派遣された。これを迎撃するために西郷軍の鉄砲隊が帖佐の松原付近で戦闘を繰り広げた。後にこの部隊は撤収し、蒲生と吉田の境にある佐山越を守備した。6月29日に政府軍との間で激しい戦闘が行われ、西郷軍は退却した。その後、西郷軍主力は宮崎県北部での[[西南戦争#可愛岳突囲|可愛岳の包囲]]を突破して[[西南戦争#山岳部踏破と帰薩|鹿児島への帰還]]を行った。この際、8月30日に山田に、8月31日に蒲生に宿泊して、翌9月1日に鹿児島へ入っている<ref>『姶良町郷土誌』p.682</ref><ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.462 - 468</ref>。
 
 
 
なお、桑原郡の西部は中世始めに帖佐郡として独立したが、近世始め頃から始羅(しら)郡の呼称が使われるようになり、これが律令の昔に設置された姶羅(あいら)郡(現在の[[鹿屋市]]付近)と混同されてこの地域が姶良郡と称されるようになった。鹿屋市の合併前の町に[[吾平町]](あいらちょう)という同じ読みの町があったのはこのためである。1871年(明治4年)11月4日の鹿児島県庁布告により正式に姶良郡となり、1896年(明治29年)に残りの桑原郡と西囎唹郡を合併して今の姶良郡が成立した。1889年(明治22年)4月1日には[[町村制]]施行により、現在の市域に姶良郡加治木村・帖佐村・重富村・山田村・蒲生村が発足している。
 
 
 
1901年(明治34年)、加治木村・帖佐村・重富村を通って鉄道が開通し、[[加治木駅]]と[[重富駅]]が設置されるが、当初は駅間が短すぎるとの理由で[[帖佐駅]]は設置されなかった。帖佐村・山田村・蒲生村の住民からの請願により、1926年(大正15年)になって帖佐駅が開設された。鉄道が開通すると、蒲生から重富駅や帖佐駅へ向かう道路が整備されるなど、陸上交通網の整備が進んだ。一方でそれまで重富と鹿児島の間の難所[[白銀坂]]のために、姶良郡と鹿児島方面の交通は主に鹿児島湾上の船に頼っており、その港として繁栄していた加治木は鉄道開通により打撃を受けることになった<ref name = "kajiki_p283">『加治木郷土誌』p.283</ref>。
 
 
 
加治木では養蚕と製糸業の奨励が行われ、1897年(明治30年)には現在の加治木中学校の位置に鹿児島授産場の分場が設置され、1906年(明治39年)には蒸気製糸場の「桜島館」ができた。1931年(昭和6年)には郡是製糸工場が発足したが、大戦に際して軍需用に転用された<ref>『加治木郷土誌』p.284</ref>。また藩政末期頃から加治木・帖佐において[[塩田]]を建設する計画があり、実際に建設されたが加治木では台風の影響などにより短期間で放棄され、帖佐のものが[[松原塩田]]として発展し、帖佐村の財政を支えた<ref name = "aira_pp562-568">『姶良町郷土誌』pp.562 - 568</ref>。また帖佐村では[[木炭]]やかます(わらを編んで作った袋)が生産されて鹿児島県において大きなシェアを占めていた<ref>『姶良町郷土誌』pp.551 - 552</ref>。蒲生においては、新しい時代の殖産興業や教育の促進、公共事業などに役立てるための財政基盤を固める目的で、[[士族]]が官有林などの払い下げを受けて資産の共有組織「士族共有」を結成していたが、1920年(大正9年)6月30日に法人化して社団法人蒲生士族共有社となった。蒲生士族共有社では蒲生出身者の教育費の支援を行うほか、蒲生での道路工事など公共事業への支援を行った<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.574 - 577</ref>。
 
 
 
1912年(明治45年)6月1日加治木村が鹿児島県内で最初の町制を施行して加治木町となった<ref>『加治木郷土誌』p.209</ref>。続いて1928年(昭和3年)11月1日に蒲生村が町制を施行して蒲生町となった<ref>『蒲生郷土誌』(1991) p.419</ref>。1942年(昭和17年)4月1日帖佐村が町制を施行して帖佐町となった。
 
 
 
=== 第二次世界大戦の被害と復旧 ===
 
[[第二次世界大戦]]に際しては、加治木町が[[空襲]]で大きな被害を受けた。加治木町への空襲は2回あり、1945年(昭和20年)4月26日の1回目の空襲では延べ5万坪(約16.5 ヘクタール)が焼失し、死者17人を出した。8月11日の2回目の空襲では、18機の航空機により[[焼夷弾]]の投下と機銃掃射が行われ、延べ19万7000坪(約65 ヘクタール)が焼失し死者26人を出した。この中には旧制加治木中学校(現[[鹿児島県立加治木高等学校]])の生徒14人が含まれている。これらの空襲により、加治木市街地の広い面積が焼失し、主要な官公庁もほぼ焼失した。加治木町役場も焼失したことから、大戦前の加治木町の公的記録はかなりの欠損がある<ref>『加治木郷土誌』pp.255 - 256</ref>。このほか姶良町方面では7月27日山田橋付近、8月5日松原、8月6日脇元と相次いで[[アメリカ海軍]][[艦載機]]に空襲を受けて多数の建物が焼失、死傷者が出た<ref>『姶良町郷土誌』p.693</ref>。
 
 
 
戦争が終結すると、加治木では1945年(昭和20年)の10月から12月頃まで、外地からの[[引揚者]]の受け入れを行った。これは当初受け入れ地として想定された鹿児島がより酷く戦災を受けていて受け入れ能力がないと判断されたため、代替地として用いられたものである。約2万6700人が加治木港に上陸した<ref>『鹿児島県の地名』p.603</ref>。また空襲で大きな被害を受けた加治木は[[戦災復興都市計画|戦災都市]]に指定され、焼け跡の整理と市街地の整備が進められて、こんにちに見られるような街区がおおむねこの時期に形成された。蒲生においては蒲生士族共有社が米軍により実情を調査されるなどし、既に士族でこのような事業を独占している時代ではないとの判断もあって、1946年(昭和21年)6月12日の総会で解散を決議し、共有社の資産をもとに新たに12月25日に[[蒲生殖産興業]]株式会社の設立総会が行われた。[[農地改革]]の関係から耕地についてはおおむね小作人に対して譲渡されたが、山林については引き続き所有し、これから上がる収益で配当を行うとともに公共事業への貢献を行っている<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.578 - 581</ref>。
 
 
 
=== 大戦後の発展 ===
 
第二次世界大戦後まもなく、[[行政改革]]のための町村合併の動きが始まった。加治木・帖佐・重富・山田・蒲生の3町2村合併での姶良郡西部市の構想があったが実現しなかった。1947年(昭和22年)8月1日にまず溝辺村(後に[[溝辺町]]を経て霧島市の一部)崎森の長谷集落が加治木町に編入された。また同年、加治木町内に存在する山田村の[[飛地]]であった辺川地区から、不便を解消するために加治木町へ編入して欲しいという要望が出され、両町村の協議を経て1952年(昭和27年)10月10日に実施された。このとき同時に溝辺村崎森の迫集落も加治木町へ編入された。山田村の一部であった木津志の柊野(くきの)地区は、歴史的に蒲生町とのつながりが深かったため蒲生町への編入希望が出され、1955年(昭和30年)1月1日の姶良町成立と同時に蒲生町に編入された。重富村は鹿児島市との合併を考えていたが、財政問題などを理由に鹿児島市に断られ、1955年1月1日に帖佐町・重富村・山田村の1町2村による対等合併をすることになった。新町名としては錦江町・若草町・姶良町・西姶良町・別府川町などが提案され、姶良町が選択されている。加治木町では、溝辺村と隼人町の小浜集落を編入合併することで市制を施行し、さらに周辺町村の合併を進めていこうとする運動を行ったが実現しなかった<ref>『加治木郷土誌』pp.216 - 218</ref><ref>『姶良町郷土誌』pp.324 - 329</ref>。
 
 
 
姶良町の成立後しばらくの間は財政が苦しく、議会定員を法定より減らし、町職員の退職不補充などにより財政再建に努めた。当初は旧帖佐町役場を庁舎としていたが、国道や帖佐駅に近い南部平野地帯に新しい庁舎を建設することになり、1960年(昭和35年)10月20日に着工、翌1961年(昭和36年)10月21日から事務が開始され、12月9日に新庁舎落成式典を開催したが、式典では参加していた[[海上自衛隊]]の[[航空機]]が墜落事故を起こしている。総工費は2851万円であった<ref>『姶良町郷土誌』pp.330 - 332</ref>。
 
 
 
蒲生町においては、大戦後しばらくの間は物不足であったこともあって、伝統の蒲生和紙の生産が引揚者などを中心に盛んとなった。しかし機械で生産された洋紙が普及するにつれて打撃を受け、一部の特殊用紙の生産に特化していくことになった<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.534 - 537</ref>。また姶良町では従来の特産であった木炭、かますが、ガスの普及やビニール袋の登場などにより廃れてきたため、新しく産業を振興すべく1960年(昭和35年)から「20万羽集団養鶏運動」が開始され、鶏卵を出荷するようになった。一時期はかなり広く実施されたものの、零細農家は競争に負けて撤退し、現在は少数の大規模業者が集中して養鶏を行っている<ref>『姶良町郷土誌』p.333</ref>。また旧帖佐町の財政を支えていた帖佐松原塩田は、1951年(昭和26年)に[[ルース台風]]の直撃を受けて破壊され、放棄された。
 
 
 
1973年(昭和48年)12月13日[[九州自動車道]]が開通。1984年(昭和59年)5月19日第35回[[全国植樹祭]]が開かれ[[昭和天皇]]を迎えてお手まき行事が行われ、その敷地は[[鹿児島県県民の森|県民の森]]という公園施設になった。1986年(昭和61年)に[[錦江駅]]が、1988年(昭和63年)[[姶良駅]]が相次いで開業し、また1988年には大規模ショッピングセンターのサンシティ・リブレ(現在の[[イオン姶良ショッピングセンター|イオン姶良店]])も開業した。1993年(平成5年)には鹿児島県内全体が[[平成5年8月豪雨]]に見舞われ、[[国道10号]]や九州自動車道がしばらく不通になるなどの大きな被害を受けた。
 
 
 
蒲生町では、主力産業であった農業や林業の不振や交通網の問題などから、大戦後は人口の減少が続いており、1950年(昭和25年)に15,887人であったのが1965年(昭和40年)には11,089人、1985年(昭和60年)には8,288人、2000年(平成12年)には7,339人とほぼ半減するに至った<ref>『蒲生郷土誌』(1991) p.22</ref><ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/main-f/this-is-kamou/jinko-tokei/tokei-frame.htm 蒲生町の人口統計]</ref>。一方、加治木町では1950年に20,277人、1965年に19,133人、1985年に23,264人、2000年に23,332人とあまり大きな変化をしていない<ref>{{PDFlink|[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/info/kajiki_sugata2009/kajiki_sugata2009.pdf かじきの姿 平成20年版]}} p.2(PDFとしてのページ数はp.6)</ref>。これに対して姶良町は、1950年に29,088人であったのが1965年に22,669人と一旦減少したが、その後南部平野地帯を中心に鹿児島市のベッドタウンとしての発展が始まり、1985年には35,278人、2000年には42,969人と急速な増加を続けている。その姶良町も、北部山間地帯では過疎が進展しており、姶良市の総体としては山間部の農林業が衰退して、平野部の住宅地としての発展が進んでいる状況にある<ref>[http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/KIKAKU/toukei_2008.3.4.htm 姶良町の統計情報] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20110709120941/http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/KIKAKU/toukei_2008.3.4.htm |date=2011年7月9日 }}</ref><ref>『姶良町郷土誌』pp.18 - 20</ref>。
 
 
 
=== 姶良市の成立 ===
 
{{Wikisource|市町の廃置分合 (平成21年総務省告示第518号)|加治木町・姶良町・蒲生町を廃し、姶良市を置く件}}
 
[[平成の大合併]]に際しては、加治木町・姶良町・蒲生町の3町合併が検討された。2003年4月に当初の合併協議会が設置されたが、住民投票の不成立などにより2005年に一旦合併協議会が解散された<ref>「[http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=5842 姶良西部任意合併協が発足 10年3月目指し協議へ]」南日本新聞2007年8月2日</ref>。その後2007年になり再度合併協議が始まり、新市名を姶良市とすることや新庁舎を現行の姶良町役場に置くことなどでは合意が成立したが、市議会の定員の問題などで合意ができず、2008年10月に再度決裂した<ref>「[http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=13469 姶良西部再び決裂 任意協解散「3町間に不信感」]」 南日本新聞2008年10月30日</ref>。その後も合併を目指す住民からの要望が継続され、2009年に3度目となる協議でようやく合意に達し、2010年3月に3町で合併し新市名を'''姶良市'''とすることが内定した<ref>「[http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=15984 姶良西部第2回会合 「姶良市」に名称決定]」 南日本新聞2009年3月25日</ref>。
 
 
 
新市の名称については、旧3町の名前をいずれも使わないという観点から、当初は錦江市や南九州市なども検討された。しかし、鹿児島県内の他の合併例で郡の名前を採用したところが多いこと([[日置市]]・[[伊佐市]]・[[曽於市]])、姶良カルデラが火山学上世界的に有名であること、姶良郡の設置以来120年あまりに渡ってこの地域の名称として使われてきたことなどから、姶良市とすることが選択された<ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/gijiroku/kaigiroku2.pdf 姶良西部合併協議会第2回合併協議会 会議録]}} pp.12 - 13 笹山副会長の発言</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol1.pdf 協議会だより創刊号]}} p.8</ref>。2009年(平成21年)6月6日に[[伊藤祐一郎]]鹿児島県知事の立会の下で、姶良町中央公民館において3町の町長が合併協定書に署名し、また、6月23日に3町の町議会において合併関連議案が可決されて、正式に姶良市の発足が決定した<ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol4_all.pdf 協議会だより第4号]}} pp.2 - 3</ref>。
 
 
 
== 行政 ==
 
合併もとの3町の役場それぞれに総合的な機能を持たせる[[総合支所方式]]を採用し、宮島町に位置する旧姶良町役場に本庁を置いている。また旧加治木町の域内に[[教育委員会]]を、旧蒲生町の域内に[[農業委員会]]を置いている。農業委員会は定数20で合併後1年間の在任特例を適用して、選挙では各町ごとに選挙区を設置して、定数は姶良8、加治木・蒲生6となる<ref name = "minaminihon20090410">「[http://373news.com/modules/pickup/article.php?storyid=16280 姶良西部協15項目承認 新市議会定数は30]」 南日本新聞2009年4月10日</ref>。
 
 
 
=== 市長 ===
 
*市長: [[湯元敏浩]](2018年4月25日就任、1期目)
 
 
 
;歴代市長
 
{| class="wikitable"
 
!代!!氏名!!就任日!!退任日!!備考
 
|-
 
| 初代 || [[笹山義弘]] || 2010年4月25日 || 2018年4月24日 || 旧[[加治木町]]長
 
|-
 
| 2代 || [[湯元敏浩]] || 2018年4月25日 ||  || 元[[日本テレビ]]職員
 
|}
 
 
 
=== 議会 ===
 
合併から4年が経過して2014年(平成26年)4月20日に行われた2回目の姶良市議会議員選挙では、定数24に対して27人が立候補し、当選者の党派の内訳は公明党2人、共産党2人、無所属20人であった<ref>{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/shisei/sigisen.pdf | format = PDF | title = 姶良市議会議員選挙 開票結果 (確定) | accessdate = 2014-07-19}}</ref>。1回目の市議会議員選挙に比べて定数は6削減された<ref>{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/shisei/20140531gikaidayori.pdf | format = PDF | title = かごしま あいら 市議会だより 臨時号 | date = 2014-05-31 | accessdate = 2014-07-19}}</ref>。
 
 
 
合併後最初の市議会の時点では定数30で、合併後最初の選挙のみ旧町別の選挙区を設置した。各町の定数は、旧姶良町が16、旧加治木町が9、旧蒲生町が5で、この比率は有権者数の比率に対して人口の少ない自治体に厚く配分されたものとなっている<ref name = "minaminihon20090410" />。議会の選挙も市長選挙に合わせて、2010年4月18日告示、25日投票で実施された<ref name = "minaminihon20100129">「[合併刻々]4月18日に告示/「姶良」市長・市議選、25日投開票」 南日本新聞2010年1月29日朝刊5面</ref>。合計30人の定員に対して35人が立候補し、多くは旧町議であった。当選者の党派は無所属25人、公明2人、共産2人、社民1人であった<ref name = "minaminihon20100426">「姶良市長に笹山氏」南日本新聞2010年4月26日朝刊1面</ref>。
 
 
 
=== 国や県の機関 ===
 
加治木町は古くから姶良郡の中心地であり、姶良市内にある国や県の機関は加治木町の中心部に集中している。加治木町諏訪町に鹿児島県[[姶良・伊佐地域振興局]](総務企画部・農林水産部・建設部)・加治木税務署・加治木年金事務所、加治木町仮屋町に[[鹿児島地方裁判所]]加治木支部・[[鹿児島家庭裁判所]]加治木支部・[[鹿児島簡易裁判所#鹿児島県内の簡易裁判所|加治木簡易裁判所]]・[[鹿児島地方検察庁]]加治木支部・加治木区検察庁・鹿児島地方法務局加治木支局、加治木町新富町に加治木労働基準監督署、加治木町木田に姶良家畜保健衛生所、加治木町日木山に国土交通省鹿児島国道工事事務所加治木維持出張所が所在している。
 
 
 
かつては加治木町諏訪町に加治木保健所が所在していたが、2005年(平成17年)4月1日から隼人保健所と統合され姶良保健所として霧島市隼人町松永に所在している<ref>{{PDFlink|[http://www.kirishimacho.com/jp/kouhou/kirishima/05-02/07.pdf 国民年金からのお知らせ]}}</ref>。
 
 
 
蒲生町上久徳には鹿児島県森林技術総合センターが所在する。[http://www.kpfes.ecnet.jp/ 鹿児島県森林技術総合センターウェブサイト]。平松には、1992年(平成4年)4月に鹿児島県立埋蔵文化財センターが開所され、鹿児島県内の考古資料の展示や発掘された文化財の整理・復元などの作業が行われていた<ref>『姶良町郷土誌』pp.470 - 471</ref>が、2002年(平成14年)10月に国分市(後の霧島市)上之段の上野原遺跡付近に移転した<ref>「県埋蔵文化財センター、引っ越し第1弾開始/姶良から上野原へ」南日本新聞2002年4月10日朝刊25面</ref>。平松の埋蔵文化財センターの建物はその後改修工事が行われて、2004年(平成16年)4月27日に鹿児島県防災研修センターとして開所している<ref>「防災情報の拠点に/鹿県研修センターが開所=姶良」南日本新聞2004年4月28日朝刊27面</ref>
 
 
 
=== 市のシンボル ===
 
[[ファイル:Emblem of Aira, Kagoshima.svg|thumb|120px|姶良市章<br />2010年3月23日制定]]
 
姶良市の市章は市発足前に公募が行われ、合計2,104件の応募の中から[[東京都]][[千代田区]]の男性が応募したものが選ばれた。カタカナの「ア」を羽ばたく鳥のイメージで図案化し、緑色系の2色で塗り分けたものである<ref>「[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=20740 「姶良市」の市章が決定]」 南日本新聞2009年11月27日</ref>。<ref>[http://www.city.aira.lg.jp/shisei/aira_city/summary/symbol.html 市章|姶良市ホームページ]</ref>
 
 
 
市の木、市の花は、合併協議会において新市発足後に決定するとされていた。市木・市花選考委員会で検討した結果、市の木としてくすのき、市の花としてやまざくらとつつじを選定し、姶良市誕生一周年記念式典の会場で発表された<ref name = "mayordiary_201103">{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/shisei/aira_city/cat339/cat360/233.html | title = 平成23年3月 市長の日記 | publisher = 姶良市 | accessdate = 2011-05-31}}</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/shisei/aira_city/cat399/post_35.html | title = 姶良市誕生一周年記念式典 | publisher = 姶良市 | accessdate = 2011-05-31}}</ref><ref>{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/shisei/aira_city/cat397/ | title = 市の木・市の花 | publisher = 姶良市 | accessdate = 2011-05-31}}</ref>。
 
 
 
== 姉妹都市 ==
 
* 鹿児島県[[日置市]] - 日置市を構成した町の1つ[[伊集院町]]と旧加治木町が、島津義弘にまつわる歴史的なつながりなどから教育姉妹町の提携をしていたことから、2010年10月23日に日置市と姶良市の間で再度姉妹都市の盟約が結ばれた<ref>「[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=27526 日置市と姶良市が姉妹都市盟約]」 南日本新聞2010年10月26日</ref>。
 
 
 
== 経済 ==
 
=== 第一次産業 ===
 
2005年時点での統計によれば、農家の戸数は2,562戸、耕地面積は123,529 [[アール (単位)|アール]]であった<ref>鹿児島県企画部統計課『鹿児島県の農林業』2005年農林業センサス結果、旧3町の統計数値の合計</ref>。地域の農業の多くは水田[[稲作]]である。加治木町では[[ウンシュウミカン|温州みかん]]の生産を推進している。また鹿児島市の近郊に位置することを利用して[[野菜]]を供給する事業も行っている。[[タバコ]]の生産も盛んである。かつては[[養蚕]]が広く行われていたが、2005年度までに鹿児島県内の養蚕業は全て終了した<ref>『加治木郷土誌』pp.274 - 278</ref><ref>『姶良町郷土誌』pp.474 - 518</ref><ref>「鹿児島県養蚕、終了へ/稚蚕供給、2005年度まで=化学繊維、輸入生糸台頭受け」南日本新聞2005年6月3日朝刊8面</ref>。
 
 
 
畜産業では、卵の生産を目的とした[[養鶏]]が広く行われている。特に旧姶良町は昭和30年台以降20万羽集団養鶏運動を行い、「姶良鶏卵」の名で出荷が行われていた。しかし卵の価格低迷の影響により、少数の大規模事業者に集約されつつある。加治木や蒲生の山間部の牧場を中心に、古くから馬の生産が盛んに行われてきた地域であったが、農業機械の導入などによって馬の需要は減少し、生産はほとんど見られなくなった。和牛の生産や養豚が行われている<ref>『加治木郷土誌』pp.276 - 277, 289 - 290</ref><ref>『姶良町郷土誌』pp.518 - 528</ref>。
 
 
 
姶良市・霧島市・姶良郡[[湧水町]]などの、元の姶良郡全ての地域はあいら農業協同組合(愛称: JAあいら)の管轄範囲となっている。[http://www.ks-ja.or.jp/aira/index.htm JAあいらウェブサイト]
 
 
 
[[漁業]]では、かつては鹿児島湾内一帯で[[真珠]]養殖の母貝となる[[アコヤガイ|アコヤ貝]]や[[アサクサノリ]]の養殖が行われていた。これらは過剰生産の問題などによりほとんど見られなくなった。代わって増加したのが[[ブリ|ハマチ]]の養殖で、姶良市を含め鹿児島県内では広く行われ、日本では鹿児島県が養殖ハマチの生産量1位となっている。東餅田の海岸沿いの[[松原塩田]]跡地では、[[岩崎産業]]が[[クルマエビ]]の養殖を行っている。網掛川は[[アユ]]の名産地として知られている<ref>『姶良町郷土誌』pp.544 - 547</ref><ref>『加治木郷土誌』pp.290 - 291</ref><ref>{{PDFlink|[http://kagoshima.suigi.jp/ayumi/book/04/a04_05_01.pdf 第5章 とる漁業からつくる漁業へ]}}『鹿児島県水産技術のあゆみ』2000年3月 鹿児島県 pp.834 -836</ref>。姶良市の海面漁業は[[加治木港]]に事務所を置く錦海漁業協同組合がまとめている。また内水面漁業に関しては網掛川漁業協同組合・別府川漁業協同組合・思川漁業協同組合が存在する<ref>{{PDFlink|[http://kagoshima.suigi.jp/youran/08.pdf 平成18年度水産要覧]}} 鹿児島県</ref>。[[漁港]]としては、加治木港の船溜のほかに、脇元に重富漁港がある。
 
 
 
[[林業]]では、蒲生町の蒲生杉が知られている。1645年([[正保]]2年)に、宮之城の領主で薩摩藩の家老を兼任していた[[島津久通]]が殖産興業政策の一環として、蒲生の地質が杉林の育成に適し、また川を利用した木材の輸送が便利なことから造林事業を開始した。樹種は蒲生メアサ杉が多く、木目の緻密さと美しい光沢に定評がある<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.353 - 354</ref>。また[[モウソウチク|孟宗竹]]も植えられており、早掘り[[タケノコ]]が名産である<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.564 - 565</ref>。加治木町では古くから町有林が育成されており、戦災に際してはここから産出した木材が官公庁の復旧に大いに貢献した<ref name = "kajiki_p283" />。姶良市は、霧島市に合併した旧溝辺町を含めて姶良西部森林組合の管轄範囲であるが、姶良東部・姶良北部・伊佐を含めた4組合で合併する協議が進められている<ref>{{PDFlink|[http://www.kamoriren.or.jp/morirendayori/NO360.pdf かごしま森連だより 第360号(2009年9月)]}} 鹿児島県森林組合連合会</ref>。
 
 
 
=== 第二次産業 ===
 
2007年(平成19年)12月末現在の合併元3町の工業は、従業員4人以上の事業所が75箇所、従業員数2,079人、出荷額約354億2976万円であった<ref>{{PDFlink|[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/info/kajiki_sugata2009/kajiki_sugata2009.pdf かじきの姿 平成20年版]}} p.49(PDFとしてのページ数はp.53)</ref>。
 
 
 
姶良市内における伝統的な製造業としては、龍門司焼の生産をする窯業がある。[[島津義弘]]が[[朝鮮半島]]から連れ帰ってきた焼き物の技術者が始めたもので、加治木町小山田に窯元がある。事業者は龍門司焼企業組合を結成している。[http://ryumonjiyaki.jp/ 龍門司焼企業組合]。2007年(平成19年)工業統計調査では、加治木町における工業製品出荷額の21.3 %を窯業が占めている状況にある<ref>{{PDFlink|[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/info/kajiki_sugata2009/kajiki_sugata2009.pdf かじきの姿 平成20年版]}} p.51(PDFとしてのページ数はp.55)</ref>。
 
 
 
蒲生町では、蒲生杉の造林奨励を行ったのと同じく島津久通が郷士の副業として勧奨したことから蒲生和紙の生産が行われている。藩政時代は全て藩に収納することが義務付けられていた<ref name = "kamo_pp354-356">『蒲生郷土誌』(1991) pp.354 - 356</ref>。明治以降は蒲生和紙組合を設立し、1941年(昭和16年)9月から蒲生製紙工業組合、1947年(昭和22年)3月蒲生和紙商工業協同組合となって、原材料の共同購入や資金の調達、技術の継承などを行っている。第二次世界大戦後しばらくの頃までは紙不足で、戦地からの復員者などにとって貴重な収入源となったが、機械製紙の技術が向上するにつれて実用的な紙としての需要は圧迫されるようになった。現代においては数人のみが技術を継承しており、おもに[[障子]]用の紙など特殊な趣味用途の紙の生産が行われている<ref name = "kamo_pp531-540">『蒲生郷土誌』(1991) pp.531 - 540</ref>。[http://www.hcnomura.co.jp/kami/kamouwashi.htm 蒲生和紙工房]。
 
 
 
==== 姶良市内に事業所のある主な製造業 ====
 
* [[イケダパン]]重富工場(平松) - パンの製造、登記上の本社所在地は[[南さつま市]]であるが、実質的な本社機能はこちらにある<ref>[http://www.ikedapan.co.jp/company/index.html イケダパンオフィシャルサイト]</ref>
 
* キユーピータマゴ蒲生工場(蒲生町久末) - 鶏卵加工品の生産・販売
 
* 白金酒造(脇元) - 芋焼酎製造
 
* さつま司酒造(加治木町諏訪町) - 芋焼酎製造
 
* ケトラファイブ協同組合(蒲生町下久徳) - 竹炭ボード製造
 
* 三森産業(蒲生町下久徳) - 農業用ビニール製造
 
* ダイワテック(蒲生町下久徳) - 農業用資材製造
 
* インフラテック姶良工場(平松) - 土木・建築用コンクリート製品製造<ref>[http://www.infratec.co.jp/office/office.html 事業所案内]</ref>
 
* 木村ブロック工業(加治木町木田) - 土木・建築用コンクリート製品製造
 
* 九建殖産(蒲生町下久徳) - 建設資材製造
 
* 南洲石灰工業(加治木町港町) - 石灰製造
 
* 土佐屋生コンクリート加治木工場(加治木町反土) - セメント製造
 
* 大平産業(加治木町反土) - コンクリート製品製造
 
* 堀之内砿業(加治木町木田) - [[砕石]]製造、湯湾岳を切り崩して生産している
 
* 高山産業(蒲生町北) - 電子部品製造
 
* 加治木産業本社(加治木町西別府)および姶良工場(平松) - 電子部品・機械装置製造<ref>[http://kajiki-sangyo.jp/ 加治木産業]</ref>
 
* 熊野製罐鹿児島工場(船津) - 製缶<ref>[http://www.kumanoseikan.co.jp/gaiyou.html 熊野製罐 会社概要]</ref>
 
* 蒲生精工(蒲生町北) - [[金型]]製造
 
* アイラメカトロニクス(三拾町) - 精密機械・金具製造
 
* クイックNETシステム(加治木町木田) - 空気圧縮機・送風機などの製造
 
* 南東洋シヤッターおよび[[東洋シヤッター]]九州工場(蒲生町西浦) - [[シャッター]]製造
 
* ランドアート(平松) - 測量器具・[[カヌー]]製造、元の南日本度器<ref>[http://www.land-art.co.jp/ ランドアート]</ref>
 
* ナノック(平松) - [[シーカヤック]]製造、ランドアートの関連会社<ref>[http://www.land-art.co.jp/nanok/ ナノック]</ref>
 
* シーワイケイ鹿児島工場(蒲生町北) - 婦人用下着類製造
 
 
 
==== かつての産業 ====
 
姶良市内での[[鉱業]]は、蒲生町漆に大良鉱山・漆鉱山・高嶺鉱山・仁田尾鉱山・上漆之鉱山、蒲生町西浦に松野鉱山などがかつて所在し、明治から昭和初期にかけて産金が行われていた。特に大良鉱山と漆鉱山は九州でも上位の金山となった時期がある<ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.551 - 558</ref>。木津志にも江戸時代頃から金山が存在しており、断続的に昭和頃まで生産が行われていたが閉山となった。重富には石川金山が所在していた。山田の飛野や蒲生の真黒・新留では江戸時代に[[砂鉄]]を採掘して製鉄を行っていた<ref>『姶良町郷土誌』pp.303 - 304, 561 - 562</ref><ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.401 - 404</ref>。これらの鉱業は既に行われていない。
 
 
 
鍋倉には江戸末期まで鋼山製鉄所という製鉄所があり、良質の銑鉄を供給していた<ref>『姶良町郷土誌』pp.304 - 306</ref>。
 
 
 
藩政末期頃からこの地域の沿岸部では[[塩田]]の建設が検討され、実際に建設されたもののうち、東餅田の海岸付近にあたる[[松原塩田]]は第二次世界大戦後まで操業していた。当初は地元の郷友会の所有するものや帖佐村の所有するものなどがあったが、1914年(大正3年)1月12日の[[桜島]]の大噴火によって発生した津波により一旦は壊滅した。その後村営事業として復旧工事が行われ、年間3,000 トンの塩の生産を行い、帖佐村(1942年から帖佐町)の財政を大きく支えた。しかし1951年(昭和26年)10月14日に[[ルース台風]]が襲来して塩田が再度壊滅し、町議会によって放棄が決定された。その後跡地には[[鹿児島県総合運転免許試験場]]や[[岩崎産業]]のクルマエビ養殖場などが立地している<ref name = "aira_pp562-568" />。
 
 
 
かつては、[[南日本酪農協同]]が鹿児島工場を1966年(昭和41年)から西餅田で運営して飲料[[牛乳]]の生産を行っていたが、周辺が宅地化して拡張困難などの理由で他の工場へ移転統合され、1991年(平成3年)に閉鎖された<ref>『姶良町郷土誌』p.557</ref>。[[岩崎産業]]は、かつて重富駅南東側で鉄道用の[[枕木]]の製造を行う工場を運営していた。
 
 
 
=== 第三次産業 ===
 
姶良市内において伝統的な商店街のあった場所は、加治木町本町の加治木町役場周辺、鍋倉の旧帖佐町役場周辺、東餅田の帖佐駅周辺、脇元の重富駅周辺、下名の旧山田村役場周辺、蒲生町上久徳の蒲生町役場周辺などである。姶良町の合併後に姶良町役場が新たに宮島町に建設されて、その周辺が帖佐駅周辺と一体となって商店街として新たに発展した。その後の大型店舗の進出の影響などを受けており、姶良市になってもまとまった商店街として残っているのは姶良市役所加治木総合支所(旧加治木町役場)周辺・姶良市役所周辺・姶良市役所蒲生総合支所(旧蒲生町役場)周辺などである。
 
 
 
姶良市内において最大の売り場面積を持つ商店は、1988年(昭和63年)11月25日に東餅田に開業した「サンシティリブレ」である。開業時の床面積は約12,000 平方メートルで、当初は[[マイカル]]と提携した地元のスーパー「ヱビスヤ」が運営していた。同社はその後1993年(平成5年)に[[隼人町]](後の霧島市の一部)に隼人国分サティを開業させ、1997年(平成9年)3月1日にマイカル系の「南九州ファミリーデパート」と合併して「マイカル南九州」となった。リブレは2000年(平成12年)3月16日に約14,550 平方メートルへ増床を行い、また「姶良サティ」と名称変更した。同年、マイカル南九州は[[マイカル九州]]と合併したが、2001年(平成13年)9月に経営破綻した。しかし、旧マイカル南九州の店舗は業績が好調であることから閉鎖対象とはならず営業を継続し、2007年(平成19年)8月21日に[[イオン九州]]に吸収合併されて<ref>「連載[21世紀への戦略-鹿児島の企業群像]54・マイカル南九州」南日本新聞1997年3月17日朝刊7面</ref><ref>「マイカル南九州 3月16日から姶良サティにリニューアル、"生活百貨店"へ16日開店/サンシティリブレ」2000年3月14日朝刊6面</ref>、さらに2011年3月にイオン傘下のスーパーマーケット各店の名称が統一されて「[[イオン姶良ショッピングセンター]]」となって、同社の運営により2012年現在も営業している<ref>「スーパー3社、イオン統合へ/店名統一」南日本新聞2010年10月7日朝刊7面</ref>。さらにこの施設の向かいに姶良市土地開発公社が所有する約3万2680平方メートルの土地をイオンタウンが借り受けて、2015年春に大型ショッピングセンターを開設する計画が進んでいる<ref>「姶良新SC15年春開業」南日本新聞2013年11月29日朝刊5面</ref>。
 
 
 
鹿児島県最大の[[百貨店]]である[[山形屋]]のサテライトショップが西宮島町に、[[山形屋ストア]]が加治木町本町にある。この他に[[タイヨー (鹿児島県)|タイヨー]]・[[だいわ]]・[[エーコープ]]・クッキー・城山ストア・[[ニシムタ]]・[[ナフコ (ホームセンター)|ナフコ]]などの[[スーパーマーケット]]や[[ホームセンター]]がある。
 
 
 
国道10号加治木バイパス・姶良バイパスの周辺は、郊外型の小売店やレストランなどが進出してきており、伝統的な商店街に対して新興の商業地域を形成している。
 
 
 
金融業としては、[[鹿児島銀行]]・[[南日本銀行]]・[[鹿児島信用金庫]]・[[鹿児島相互信用金庫]]・[[鹿児島興業信用組合]]・[[九州労働金庫]]の支店や出張所がある。
 
 
 
流通業としては、コープかごしま姶良商品センターが中津野に、[[ヤマト運輸]]の配送センターが姶良インターチェンジの近くにあり、特にヤマト運輸は合併前の九州ヤマト運輸の本社所在地であった。
 
 
 
== 地域 ==
 
=== 人口 ===
 
{{人口統計|code=46225|name=姶良市}}
 
=== 教育 ===
 
{{Commonscat|Schools in Aira|姶良市の学校}}
 
姶良市内に[[大学]]は所在せず、[[高等学校]]以下の教育機関が所在している。1986年度まで加治木町木田に[[正心女子短期大学]]が所在していた。
 
 
 
==== 高等学校 ====
 
[[ファイル:Kajiki-h.s.jpg|thumb|鹿児島県立加治木高等学校]]
 
姶良市に高等学校は4つ存在し、加治木町仮屋町に[[鹿児島県立加治木高等学校|県立加治木高等学校]]、加治木町新富町に[[鹿児島県立加治木工業高等学校|県立加治木工業高等学校]]、加治木町木田に私立[[龍桜高等学校]](旧加治木女子高等学校)、蒲生町下久徳に[[鹿児島県立蒲生高等学校|県立蒲生高等学校]]がそれぞれ所在する。
 
 
 
鹿児島県では普通科の県立高等学校を13の学区に分類して、学区外からの進学に対しては定員の10 パーセントまでに制限している。姶良市は全域が伊佐・姶良学区に属しており、他に薩摩川内市の東部・霧島市の西部・姶良郡[[湧水町]]・[[伊佐市]]が同じ学区にある。この中で普通科のある学校は加治木・蒲生・[[鹿児島県立大口高等学校|大口]]の3つとなる<ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/kyoiku-bunka/school/koukou/nyushi/zenpan/9-1_540.html 鹿児島県:学区外の公立高校全日制普通科を志願するときは]</ref>。姶良市内からは普通科のある高等学校へ進学する場合、市内の加治木・蒲生のどちらかに進学することが多く、また他にも鹿児島市や霧島市にある普通科のある高等学校へ学区外進学をする生徒もいる。
 
 
 
かつての旧姶良町内には高等学校以上の教育機関が1つも所在していなかった。鹿児島県の条例では、市制施行の条件として高等学校以上の教育機関が1つ以上あることを定めており<ref>[http://www3.pref.kagoshima.jp/reiki_int/reiki_honbun/aq70103241.html 都市としての要件に関する条例] 第2条(2)</ref>、単独での市制施行を考えていた旧姶良町は高等学校の誘致を悲願としていた。1988年(昭和63年)に[[東海大学]]が附属高等学校を旧姶良町内に設置する意向を示したが、1991年(平成3年)に県私学審議会により長期的な生徒減少の傾向を理由に却下された。またその後、単位制高等学校の設置が検討された際にも誘致に名乗りを上げたが、生徒の通学上の利便性などの検討から鹿児島市内に[[鹿児島県立開陽高等学校|県立開陽高等学校]]として設置されることが決定された<ref>「単位制高校鹿児島市設置で県教委、誘致立候補の姶良町に説明」南日本新聞1997年2月13日朝刊24面</ref>。
 
 
 
==== 中学校 ====
 
加治木町反土に[[姶良市立加治木中学校|加治木中学校]]、西餅田に[[姶良市立帖佐中学校|帖佐中学校]]、脇元に[[姶良市立重富中学校|重富中学校]]、下名に[[姶良市立山田中学校|山田中学校]]、蒲生町北に[[姶良市立蒲生中学校|蒲生中学校]]の合計5つの中学校が所在する。全て市立の中学校で、合併に際して校区の変更はなくそのまま引き継がれている<ref name = "merger_report_3_pp12-13">{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol3_all.pdf 協議会だより第3号]}} pp.12 - 13</ref>。姶良町内の3つの中学校については、姶良町の合併元になった3つの町村の名前を反映しており、校区もほぼ旧町村域であるが、合併前から越境通学があり合併時にも校区の変更を行っているため、校区は旧町村と厳密な一致はない。鹿児島市や霧島市にある私立の中学校に入学し、電車通学や下宿をする生徒もいる。
 
 
 
==== 小学校 ====
 
姶良市内の小学校は全部で19校(休校中の2校を含む)ある。中学校と同じく全て市立で、合併に際して校区の変更はなくそのまま引き継がれている<ref name = "merger_report_3_pp12-13" />。最近では[[平成27年]]4月に松原なぎさ小学校が開校した。
 
 
 
* [[姶良市立柁城小学校|柁城小学校]](加治木町仮屋町)
 
* [[姶良市立錦江小学校|錦江小学校]](加治木町錦江町)
 
* [[姶良市立加治木小学校|加治木小学校]](加治木町木田)
 
* [[姶良市立竜門小学校|竜門小学校]](加治木町小山田)
 
* [[姶良市立永原小学校|永原小学校]](加治木町西別府)
 
* [[姶良市立建昌小学校|建昌小学校]](東餅田)
 
* [[姶良市立帖佐小学校|帖佐小学校]](鍋倉)
 
* [[姶良市立姶良小学校|姶良小学校]](西餅田)
 
* [[姶良市立松原なぎさ小学校|松原なぎさ小学校]](松原町)
 
* [[姶良市立重富小学校|重富小学校]](平松)
 
* [[姶良市立西姶良小学校|西姶良小学校]](西姶良)
 
* [[姶良市立三船小学校|三船小学校]](永瀬)
 
* [[姶良市立山田小学校|山田小学校]](下名)
 
* [[姶良市立北山小学校|北山小学校]](北山)
 
* [[姶良市立蒲生小学校|蒲生小学校]](蒲生町上久徳)
 
* [[姶良市立大山小学校|大山小学校]](蒲生町白男、休校中)
 
* [[姶良市立新留小学校|新留小学校]](蒲生町白男、休校中)
 
* [[姶良市立西浦小学校|西浦小学校]](蒲生町西浦)
 
* [[姶良市立漆小学校|漆小学校]](蒲生町漆)
 
 
 
=== 警察 ===
 
市全域が東餅田に所在する[[鹿児島県警察]][[姶良警察署]]の管内である。管内の[[交番]]・[[駐在所]]として、加治木中央交番・姶良交番・重富交番・蒲生駐在所・山田駐在所がある。姶良警察署の管轄は姶良市内のみであるが、市町村合併に伴い鹿児島県内の警察署の管轄が全面的に見直された2006年10月までは、霧島市に合併した旧[[溝辺町]]も管轄としていた。旧溝辺町はそれ以降[[霧島警察署]]管轄となっている<ref>「15署管轄区域を変更/市町村合併に対応、2006年10月目指す=鹿児島県警」南日本新聞2005年12月3日29面</ref>。
 
 
 
姶良市内は、鹿児島県内では犯罪が多い傾向にある。鹿児島県警の集計による平成20年(2008年)の人口1万人あたりの刑法犯犯罪率では、市町村別の順位で旧加治木町が県内3位、旧姶良町が4位と上位に入っている<ref>{{PDFlink|[http://www.pref.kagoshima.jp/police/__filemst__/40025/keihouhan.pdf 平成20年中 刑法犯]}}</ref>。
 
 
 
この他に警察関連施設として鹿児島県警察学校が平松に所在する。2009年3月に鹿児島市坂元町から移転してきた。敷地面積4万8000平方メートルで整備費43億5000万円であった<ref>[http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=18089 治安支える学府に 鹿児島県警察学校落成式] 南日本新聞2009年7月14日</ref>。また、1966年(昭和41年)に運用が開始された[[鹿児島県総合運転免許試験場]]が東餅田に所在する。
 
 
 
=== 消防 ===
 
{{Main|姶良市消防本部}}
 
加治木町・姶良町・蒲生町に加えて、後に霧島市に合併した溝辺町の4町で1971年(昭和46年)4月1日に「姶良郡西部消防組合」が発足し、管内の消防・救急業務を担ってきた。1994年(平成6年)10月1日に、後に鹿児島市に合併した吉田町を加えて5町で消防組合を運営してきた。しかし2004年(平成16年)11月1日に鹿児島市への合併で吉田町が離脱し、さらに2005年(平成17年)11月7日に霧島市への合併で溝辺町が離脱した。これにより、後に姶良市を構成することになる3町の面積231.31平方キロメートル、人口約75,000人を管轄する消防・救急組織となった<ref>{{PDFlink|[http://www.aira-fd.jp/chisei.pdf 総括]}} 姶良郡西部消防組合</ref>。加治木町木田に消防本部と中央消防署を併設し、この他に平松に姶良分遣所、蒲生町白男に蒲生分遣所を配置している。2013年(平成25年)4月1日現在で 広報連絡車1台 査察車1台 警棒車1台 指揮車1台 ポンプ車3台 小型ポンプ車4台 救助工作車1台 資機材搬送車1台 救急自動車4台(予備車1台2B型)職員90人を擁している<ref>{{PDFlink|[http://www.aira-fd.jp/keibou.pdf 消防力]}} 姶良郡西部消防組合</ref>。合併に際しては、組合を解消して職員と財産を新市に移管し、[[姶良市消防本部]]として発足した<ref name = "merger_report_3_p6">{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol3_all.pdf 協議会だより第3号]}} p.6</ref>。
 
 
 
この他に[[消防団]]組織が各町別に存在しており、合併に際して統合された<ref name = "merger_report_3_p8">{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol3_all.pdf 協議会だより第3号]}} p.8</ref>。
 
 
 
=== 上水道 ===
 
[[上水道]]は、合併もとの3町でそれぞれ整備されている。
 
 
 
蒲生町では、1963年(昭和38年)4月1日から上水道の給水が行われている。米丸に水源地を持つ<ref>『蒲生郷土誌』(1969) pp.168 - 169</ref>。
 
 
 
旧姶良町では南部平野地帯に上水道があり、山田水源地、中津野水源地、船津浄水場の3箇所から水が供給されている。別府川からの取水も一時検討されたが、水利権の問題などから断念し、現在は全量を地下水によって給水している。白浜地区、成美地区には独立した簡易水道が存在する。1967年(昭和42年)8月から給水が開始されている<ref>『姶良町郷土誌』pp.587 - 589</ref>。
 
 
 
加治木町では、1955年(昭和30年)3月から上水道の給水が開始されている。加治木町内には水源を確保できず、隣接する[[溝辺町]](後の霧島市)崎森に2箇所設けた水源地から取水している。これらは南部平野地帯に給水しているが、このほかに北部台地上に集落ごとに簡易水道設備がある<ref>『加治木郷土誌』pp.303 - 304</ref>。
 
 
 
=== 衛生 ===
 
[[下水道]]は、旧姶良町と旧加治木町が協力して建設する計画があったが、進展していない。[[下水処理場]]の建設位置について1981年(昭和56年)から検討が行われてきたが、人家の近くに建設することが嫌われ、1993年(平成5年)に脇元の干潟を埋め立てて処理場とレクリエーション施設を建設する方針が打ち出された。これに対して環境保護団体などから干潟の浄化能力を低く見積もりすぎていると反対があり、また付近に[[クルマエビ]]の養殖場を持つ[[岩崎産業]]から土地の譲渡の打診が行われるなどして議論が混乱した。その後、建設計画に特に進展は見られない<ref>「[特集]九州発見塾<上>環境分科会/重富海岸の埋め立て問題=81年から論議、計画は事実上ストップ」 南日本新聞2000年7月17日朝刊10面</ref>。[[汲み取り式便所]]がまだ多く見られるが、[[浄化槽]]の設置が進められている。
 
 
 
汲み取り作業、ごみの収集・処理、[[火葬場]]の運営などは、合併まで姶良郡西部衛生処理組合が行っていた。加治木町、姶良町、蒲生町、溝辺町の4町で発足し、後に現在は鹿児島市の一部となっている[[吉田町 (鹿児島県)|吉田町]]が加入して運営されていた。その後平成の大合併の関係により、加治木町、姶良町、蒲生町の3町での組織となっていた。吉田町本城町で[[清掃工場]]を運営してきたが、老朽化により2007年4月に加治木町西別府に総工費25億5000万円で新施設の建設を開始し、2008年12月25日に火入れ式を行った。1日の処理能力37トンの焼却炉2基と処理能力8.5トンの灰溶融炉が設置されている。2009年4月から本運転となっている<ref>「ごみ処理施設に火入れ/姶良町・加治木町・蒲生町の西部組合」 南日本新聞2008年12月27日朝刊17面</ref>。この他、加治木町木田に[[し尿処理施設]]、加治木町西別府にごみ[[最終処分場]]、鍋倉に火葬場が所在する。
 
 
 
合併に際しては、消防組合と同様に組合を解消して職員と財産を新市に移管し、市直轄の組織を発足させている<ref name = "merger_report_3_p6" />。
 
 
 
=== 福祉・医療 ===
 
加治木町木田に[[国立病院機構南九州病院]]が所在する。姶良・伊佐保健医療圏における[[がん診療連携拠点病院|地域がん診療連携拠点病院]]に指定されている<ref>[http://www.skyusyu.jp/gankyoten/index.html 地域がん診療連携拠点病院|鹿児島県加治木の南九州病院]</ref>。呼吸器疾患、結核医療、神経・筋疾患医療、脳性麻痺の早期診断・早期診療、小児慢性疾患の基幹施設としての役割、障害児の療育などの特色がある<ref>[http://www.skyusyu.jp/about/rinen/index.html 院是・基本理念・基本方針|鹿児島県加治木の南九州病院]。</ref>[http://www.skyusyu.jp/index.html 国立病院機構 南九州病院 公式ウェブサイト]
 
 
 
平松に[[県立姶良病院]]<!--条例上の名称。公式サイトでは「鹿児島県立」だが、医療法上の正式名称はこちら-->が所在する。鹿児島県立病院としては唯一の[[精神科]]病院である<ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/hospital/aira/ 鹿児島県立姶良病院]</ref>。1924年(大正13年)に鹿児島市宇宿町に設立された県立病院精神科分院が前身で、1943年(昭和18年)に現在地へ移転してきた<ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/hospital/aira/annnai/gaiyou.html 病院概要]</ref>。また、姶良町北山には姶良町立の診療所があり、これは新市に引き継がれた。<ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol3_all.pdf 協議会だより第3号]}} p.7</ref>。
 
 
 
この他、南部平野地帯には各種診療科目を備えた民間の病院が多数所在する。一方で北部山間地帯にはごく少数で、公立の診療所がこれらの地域の医療を支えている。また蒲生町については歯科を除くと3つしか医療機関がなく、その全てが町役場に近い蒲生町上久徳に所在している<ref>[http://www.kagoshima.med.or.jp/map/list/kamou.htm 蒲生町] 鹿児島県医師会医療機関情報検索</ref>。
 
 
 
加治木町木田に、南九州病院に隣接して鹿児島県立加治木養護学校が所在する。障害のある児童や入院中の児童の教育を行っている。[http://www.edu.pref.kagoshima.jp/ss/Kajiki-H/ 鹿児島県立加治木養護学校]
 
 
 
=== エネルギー・通信 ===
 
姶良市内全域では[[九州電力]]が電力を供給している。市内の[[発電所]]は[[水力発電所]]2箇所のみで、別府川支流の前郷川に前郷川発電所(出力120 kW、1924年(大正13年)8月稼動)<ref>[http://www.jepoc.or.jp/cgi-bin/hydropp/viewdetail_sum.cgi?pp=1&ownerNo=009&areaNo=09&riverSys=9250 水力発電所データベース]</ref>、網掛川支流の宇曽木川に宇曽木発電所(出力220 kW、1924年(大正13年)4月稼動)<ref>[http://www.jepoc.or.jp/cgi-bin/hydropp/viewdetail_sum.cgi?pp=1&ownerNo=009&areaNo=09&riverSys=9240 水力発電所データベース]</ref>がある。
 
 
 
かつては[[加治木電気|加治木電気株式会社]]という電力会社が現在の姶良市一帯で電力事業を行っていた。1911年(明治44年)2月14日付で認可を受けて、2月22日に加治木電気が設立され、1912年(明治45年)1月1日に加治木・帖佐・山田・蒲生を給電範囲として事業を開始した。総工費93万5000円をかけて、ドイツから輸入した発電機とスイスから輸入した水力タービンを設置した春日発電所を網掛川に建設した。その後、1929年(昭和4年)1月に[[鹿児島電気]]によって株式を買収され、1942年(昭和17年)11月1日に九州配電となり、第二次世界大戦後1951年(昭和26年)10月に九州電力となっている。春日発電所はこの年に火災事故に遭って廃止となっている<ref>『加治木郷土誌』pp.309 - 311</ref>。また蒲生町においても、1920年(大正9年)に蒲生水力発電株式会社が設立されて白男に発電所を設置していた。これは後に加治木電気会社に吸収された。
 
 
 
ガスについては、加治木町港町に本社を置く加治木ガスが加治木町・姶良町域で2007年(平成19年)3月現在6,183 戸に[[都市ガス]]を供給している<ref>[http://www3.ocn.ne.jp/~kjk-gas/page2.htm 会社概要・沿革]</ref>。[http://www3.ocn.ne.jp/~kjk-gas/ 加治木ガス公式サイト]。しかし、旧姶良町でも人口の多い平野部の大半から蒲生町域を含む北部山間地帯まではまだプロパンガスを使用している。
 
 
 
[[電話]]に関しては[[西日本電信電話]](NTT西日本)鹿児島支店の管轄である。南部平野地帯においては[[FTTH]]を含む[[ブロードバンドインターネット接続]]が開通しているが、北部山間地帯においては大半の地域でブロードバンドインターネット接続を利用できる状況になく、新市まちづくり計画においても未整備地区の解消が課題に挙げられている<ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/mati/mati_org.pdf 新市まちづくり計画(原案)]}} pp.22 - 25 姶良西部合併協議会</ref>。加治木町諏訪町に加治木電報電話局が1961年(昭和36年)9月10日に落成している<ref name = "kajiki_p309">『加治木郷土誌』p.309</ref>。
 
 
 
郵便は、姶良市域内では加治木に1872年(明治5年)7月1日加治木郵便取扱所として発足したのが最初で、1875年(明治8年)1月1日に[[加治木郵便局]]となった<ref name = "kajiki_p309">『加治木郷土誌』p.309</ref>。続いて、1874年(明治7年)12月6日に蒲生郵便局、同年12月17日に重富郵便局、1903年(明治36年)12月1日に帖佐郵便局、1908年(明治41年)2月1日に山田郵便局と順次開設された。これらは[[郵政民営化]]以前は、加治木郵便局が[[集配郵便局|集配]][[普通郵便局|普通局]]であったほかは集配[[特定郵便局|特定局]]であった。帖佐郵便局は、1971年(昭和46年)4月5日に姶良郵便局と改称したが、元の帖佐町役場の近くに残り、新しい姶良市役所(現在の姶良町役場)に近いのは無集配特定局であった帖佐駅前郵便局である<ref>『姶良町郷土誌』pp.608 - 611</ref><ref>『蒲生郷土誌』(1991) pp.648 - 649</ref>。この他に加治木須崎・高井田簡易・木田簡易・小山田簡易・西別府簡易・三船・平松簡易・帖佐松原簡易・北山簡易・木津志簡易・堂山簡易・薄原簡易・米丸簡易・漆簡易の各郵便局がある。
 
 
 
=== その他の施設 ===
 
; 加音ホール
 
: 加治木町木田にある文化会館で、「カノンホール」と読む。敷地面積約21,500平方メートル、地上3階地下1階の延べ床面積約7,430平方メートル、建設費は約41億6800万円で、1996年(平成8年)10月5日に開館した。大ホールは817席、小ホールは300席あり、他に生涯学習用の視聴覚室や会議室などを備えている<ref>「加治木町の文化会館・加音ホールが5日オープン」南日本新聞1996年10月5日朝刊22面</ref><ref>「加治木町、町文化会館「加音=カノン=ホール」本体が完成」南日本新聞1996年2月16日朝刊23面</ref>。[http://www12.synapse.ne.jp/kanonhall/ 加音ホール公式ウェブサイト]。
 
; 姶良市立中央図書館
 
: 西餅田にある市立の[[図書館]]で、当初は姶良町立図書館として1995年(平成7年)10月22日に起工し、1997年(平成9年)3月25日に開館した。敷地面積約4,280平方メートル、一部2階建て延べ床面積約2,426平方メートルで、総事業費約13億1000万円であった。開館当初の蔵書は開架約55,000冊、閉架約36,000冊で、開館後も蔵書の増強を続けて10万冊級の図書館となっている。鹿児島県内で10万冊を超える蔵書を持つ図書館は、[[鹿児島県立図書館]]・[[鹿児島市立図書館]]に次ぐ3番目のものである<ref>「姶良町立図書館が起工、蔵書10万冊目指す」南日本新聞1995年10月23日朝刊14面</ref><ref>「姶良町立図書館完成、25日オープン前に記念式典」南日本新聞1997年3月24日朝刊19面</ref><ref>[http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1038 姶良市立図書館公式ウェブサイト]</ref>。また、この他に加治木町仮屋町に市立加治木図書館、市内に7つの図書室が有る。<ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/kentosho/link/kennai/sityouson.html 鹿児島県:市町村立図書館]</ref><ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/kentosho/link/kennai/kouminkan.html 鹿児島県:公民館等図書室]</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.airaseibu-gappei.jp/magazine/vol3_all.pdf 協議会だより第3号]}} p.13</ref>。
 
; 椋鳩十文学記念館
 
: 児童文学者の[[椋鳩十]]が長く加治木町に居住していたことを記念して、1990年(平成2年)に加治木町反土に開館した文学記念館である。[[ふるさと創生事業]]の資金を活用して建設されたもので、加治木町開発公社に運営を委託している。2003年11月には第2代館長を務めていた、椋鳩十の長男でもある久保田喬彦が、ずさんな管理などに不満を訴えて館長を辞任するとともに寄託していた資料を引き上げている<ref>「連載[効率か理想か-財政難の鹿児島文化行政]3/観光か教育か=文学館、地域文化拠点の道模索」南日本新聞2005年3月23日朝刊14面</ref>。
 
; 姶良市歴史民俗資料館
 
: 姶良市歴史民俗資料館は、東餅田にある市立の資料館で、常設展示のほかさまざまな企画展示を行っている。市内の文化財の保存や研究の活動も行っている。1986年(昭和61年)8月27日に着工され、1988年(平成元年)1月30日に姶良町歴史民俗資料館として開館した。敷地面積1987.24 平方メートルに鉄筋コンクリート2階建て述べ床面積884.14 平方メートルの建物で、総工費は2億5028万5000円であった<ref>『姶良町郷土誌』pp.466 - 467</ref>。[https://web.archive.org/web/20081006034647/http://www12.synapse.ne.jp/aira-museum/ 姶良市歴史民俗資料館ウェブサイト]。
 
; スターランドAIRA
 
: 北山にある姶良市立の天文台である。{{main|スターランドAIRA}}
 
 
 
== 交通 ==
 
姶良市の最寄り空港は、隣の霧島市[[溝辺町]]に位置する[[鹿児島空港]]である。姶良市役所本庁からは直線距離で約12 kmと近い距離にある。
 
 
 
=== 鉄道 ===
 
市南部を東西方向に、東隣の霧島市、南西方向の鹿児島市とを結んで[[九州旅客鉄道]](JR九州)の[[日豊本線]]が横断している。市内には5つの駅が所在しているが、旧蒲生町域には駅も線路も存在しない。姶良市の市域に相当する地域に鉄道が開通したのは1901年(明治34年)のことで、これは鹿児島市を鹿児島県外の地域と結ぶことを目的とした路線の一部であった。後に海岸沿いの[[川内駅 (鹿児島県)|川内駅]]経由の路線が開通するまで、この路線が[[鹿児島本線]]であった。日豊本線となってからは、九州の東海岸を結ぶ鉄道網の一角を成している。路線の開業当初からあった駅は[[加治木駅]]と[[重富駅]]のみで、帖佐・山田・蒲生の各村からの陳情を受けて1926年(大正15年)に[[帖佐駅]]が開設された。その後、地域の人口増加などを受けて[[国鉄分割民営化]]の前後に相次いで[[錦江駅]]と[[姶良駅]]が開設された。姶良駅は、結果的には市名を名乗っている駅であるが、姶良市の市役所本庁舎の最寄り駅で市の中心駅は帖佐駅である。
 
 
 
[[鹿児島中央駅]]から[[国分駅 (鹿児島県)|国分駅]]までの姶良市と霧島市の沿線は鹿児島市のベッドタウンを形成しており、またそれぞれの地域にある職場や学校などへの通勤・通学での日常の交流も盛んである。
 
 
 
* [[九州旅客鉄道]](JR九州)
 
** [[日豊本線]]
 
*** [[加治木駅]] - [[錦江駅]] - [[帖佐駅]] - [[姶良駅]] - [[重富駅]]
 
 
 
=== バス路線 ===
 
==== 一般路線バス ====
 
1935年(昭和10年)2月21日に[[国鉄バス]]加治木線が開設され、加治木駅 - 帖佐駅 - 蒲生町 - [[入来駅]]を結んでいた。これは国鉄分割民営化以後、[[ジェイアール九州バス]]に引き継がれていたが、次第に縮小され1997年(平成9年)4月7日に全線廃止され、[[南国交通]]へ引き継がれた。
 
 
 
[[三州自動車]]・[[いわさきバスネットワーク]]・[[南国交通]]は国道10号を経由して鹿児島市や霧島市方面とを結ぶ路線を運営している。この他に南国交通はジェイアール九州バスの代替の蒲生方面との路線や、姶良町北部への路線などを運営している。
 
 
 
==== コミュニティバス ====
 
合併元の各町が、一般路線バスの撤退した地域を中心として[[コミュニティバス]]を運行しており、これは新市に引き継がれている。加治木町ではいわさきバスネットワーク(かつての林田バス)に委託しており、姶良町・蒲生町では南国交通に委託して運行を行っている<ref>[http://wwwtb.mlit.go.jp/kyushu/gyoumu/jidousya_k/file02_01.htm 管内におけるニューサービスの事例] 国土交通省九州運輸局</ref>。
 
 
 
旧加治木町では、2002年(平成14年)8月15日から2路線5系統で運行を行っている。2台のバスは地元の伝統行事にちなんで「山っこ号」「太鼓おどり号」と名づけられている<ref>「町内循環バスが運行、交通空白地区を解消/2路線5系統=加治木」南日本新聞2002年8月17日朝刊23面</ref>。日木山や小山田などの郊外部と市街地を結んでいる<ref>[http://www.synapse.ne.jp/~kajiki/info/jyunkan_bus_timetable.html 循環バス時刻表]</ref>。
 
 
 
旧姶良町では、帖佐駅と木津志、北山診療所を結ぶ帖佐木津志線と、帖佐駅から船津・春花を結ぶ帖佐春花線の2路線を運行している。どちらも1日3往復である<ref>[http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1729 ふるさとバス]</ref>。帖佐木津志線は1992年(平成4年)7月から(帖佐駅への延長は1996年)、帖佐春花線は1996年(平成8年)4月8日から運行を開始した。運行は南国交通に委託されているが、当初は地元の事業者である[[あいら交通]]が運行していた<ref>「姶良町の「ふるさとバス」に春花地区と帖佐駅結ぶ新路線」南日本新聞1996年4月11日朝刊16面</ref>。
 
 
 
旧蒲生町では2002年(平成14年)10月1日から、かつてのジェイアール九州バス蒲生町駅跡を拠点として町内を循環する6コースでコミュニティバスを走らせている。どのコースも運行があるのは週に2日で、運行がある日は1日2往復運転される<ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/main-f/kurashi/junkai-bus/junkai-bus-top.htm 蒲生町巡回バス]</ref>。
 
 
 
==== 高速バス ====
 
西餅田に高速[[帖佐バスストップ]]が所在する。空港連絡バス以外はいずれも鹿児島市と他県の都市を結んでいる高速バスであるが、帖佐からは他県の都市との間でのみ利用可能で、鹿児島市との間では利用できない。
 
 
 
* 九州自動車道帖佐バスストップ
 
** 高速「[[はまゆう号]]」: [[宮崎市]] - 帖佐
 
** 高速「[[桜島号]]」: [[福岡市]] - 帖佐
 
** 高速「[[きりしま号]]」: [[熊本市]] - 帖佐
 
** 高速「ランタン号」: [[長崎市]] - 帖佐
 
** [[南国交通]]の鹿児島空港と薩摩川内市を結ぶ空港連絡バス
 
 
 
==== 観光バス ====
 
九州新幹線鹿児島ルート全線開通に合わせて2011年3月12日から試験的に、鹿児島中央駅を発着して姶良市内を周遊する観光バス「あいらびゅー号」を運行している。休日のみ1日1往復で、季節に応じてコースを変えながら姶良市内の各観光名所を循環する。運行開始前日の3月11日にはプレ運行が行われた。運行を受託しているのは[[ジェイティービー|JTB]]鹿児島支店である<ref>{{Cite web | url = http://www.city.aira.lg.jp/oshirase/aira-vyu-panhu.pdf | title = 姶良市周遊観光バスあいらびゅー号 予約受付開始 | format = PDF | publisher = 姶良市 | accessdate = 2011-05-31}}</ref><ref name = "mayordiary_201103" /><ref>「バスで姶良市内の"旬"巡り/あいらびゅー、今日から試験運行」南日本新聞2011年3月12日</ref>。
 
 
 
=== 道路 ===
 
江戸時代まで、この地域を通過する主要な道路としては[[薩摩街道]]のうちの大口筋と高岡筋があった。鹿児島から吉田の山の上を通り、[[白銀坂]]を下って姶良の平野部に入り、加治木の龍門司坂を上って北へ霧島市方面へ抜けるのが大口筋で、このうち加治木から分岐して東の国分・宮崎方面へ抜けるのが高岡筋であった。海岸沿いに鹿児島と重富を結ぶ現在の[[国道10号]]となる道は[[明治天皇]]行幸に際して1872年(明治5年)から開削が始まり、1873年(明治6年)9月に開通したもので、それまでは吉田の山の上を通って難所の白銀坂を下るか、ずっと北の方を迂回する必要があった。このことから鹿児島との間の移動は加治木や帖佐の納屋町、重富の脇元などからの船便を利用するのが一般的であった<ref>『姶良町郷土誌』pp.309 - 311</ref>。
 
 
 
==== 高速道路 ====
 
鉄道と同様に、市南部を横断するように[[九州自動車道]]および[[隼人道路]]が通っている。ただし鉄道と国道10号が東へ宮崎方面へつながっているのに対して、高速道路は加治木から北上して鹿児島空港や熊本・福岡方面へと通じている。また西側では、鉄道と国道10号が山が海に迫る海岸の狭い部分を通過しているのに対して、高速道路は旧吉田町側の台地の上を経由して鹿児島市方面と結んでいる<ref>『姶良町郷土誌』p.573</ref>。
 
 
 
1973年(昭和48年)12月13日に鹿児島県内で最初の高速道路として[[加治木インターチェンジ]]と[[薩摩吉田インターチェンジ]]の間が開通し、さらに1976年(昭和51年)11月29日に北側が[[溝辺鹿児島空港インターチェンジ]]まで伸びたことで、姶良市内の九州自動車道は全通した。また九州の東海岸を結ぶ[[東九州自動車道]]の一部をなす国道10号バイパスの隼人道路が1992年(平成4年)3月25日に開通して、加治木インターチェンジで九州自動車道と連絡した。その後インターチェンジの改造工事が行われて、一般道に出ずに直接九州自動車道と隼人道路を行き来できるようになり、[[加治木ジャンクション]]が開設された。[[平成5年8月豪雨]]に際しては、[[姶良ニュータウン]]南側の崖が崩れ、[[桜島サービスエリア]]の上り線が土砂に埋没して長期間使用不能となるなど大きな影響を受けた。
 
 
 
加治木ICは旧加治木町の中心部近くに所在するのに対して、姶良ICは鹿児島市との境界に近い場所に位置しており、旧姶良町の中心部の多くの地域からも加治木ICの方が近い。旧蒲生町内は高速道路が通っておらず、これらのどちらかのインターチェンジを利用することになる。
 
 
 
* {{Ja Exp Route Sign|E3}} [[九州自動車道]]・{{Ja Exp Route Sign|E78}} [[東九州自動車道]]([[隼人道路]])
 
** [[加治木ジャンクション]](加治木町反土)
 
** [[加治木インターチェンジ]](加治木町日木山)
 
** [[帖佐バスストップ]](西餅田)
 
** [[桜島サービスエリア]](西餅田)
 
** [[姶良インターチェンジ]](平松)
 
 
 
姶良市中心部にインターチェンジが無いことから、姶良市では[[桜島サービスエリア]]に[[スマートインターチェンジ]]を設置する予定であり、[[2018年]]度に供用開始される予定である<ref>{{Cite web|url=http://corp.w-nexco.co.jp/activity/branch/kyushu/#const|title=支社の事業案内(九州支社)建設事業の概要|accessdate=2018-04-27|publisher=西日本高速道路株式会社}}</ref><ref>「姶良市が新IC構想/九州道姶良-加治木間=桜島SA候補」南日本新聞2012年7月3日朝刊23面</ref>。
 
 
 
==== 一般国道 ====
 
国道もまた、九州東海岸を結ぶ[[国道10号]]が南部平野地帯を東西に横断しており、旧加治木町・姶良町を経由するが、旧蒲生町内に国道はない。2009年現在、国道10号加治木バイパスおよび姶良バイパスが開通しており、姶良バイパスに並行する区間の旧国道は県道および町道に格下げされているが、旧国道を含めて説明する。
 
 
 
国道10号は霧島市側から滝口坂と呼ばれる小さな峠を越えて加治木町日木山に入り、日木山川を日木山橋で横断して旧加治木町中心部の加治木町反土・加治木町朝日町・加治木町本町を通過し網掛川を網掛橋で横断する。加治木町錦江町と加治木町木田を通過して姶良橋で別府川を横断する。旧姶良町に入り、東餅田・西餅田・平松を通過して重富橋で思川を渡り、脇元で海岸の崖下を通って鹿児島市方面へ通じている。このうち、加治木町木田の東岩原交差点から姶良橋を横断するところまで部分的に付け替えが行われており、東岩原交差点では国道が交差点を曲がる側に続いている。また加治木団地入口の交差点から十日町交差点までは加治木バイパスの一部としても扱われている。
 
 
 
国道10号加治木バイパスは、加治木町日木山の九州自動車道・隼人道路加治木インターチェンジ出入口付近から、網掛川とその支流を網掛橋・宇曽木川橋・ふれあい橋・馬おどり橋で横断しながら加治木町反土と加治木町木田を通過して、姶良橋で別府川を横断し東餅田の十日町交差点で国道10号旧道となる。隼人道路と一体となって霧島市方面と結ぶ道路である。姶良バイパスは十日町交差点の少し西側の東餅田で旧道から分岐し、宮島町の北側を通って西餅田・西宮島町、しらかね橋で思川を渡って池島町・脇元を経由して脇元高架橋で鉄道と旧道を乗り越して旧道へ合流する<ref name = "aira_pp572-579">『姶良町郷土誌』pp.572 - 573, 577 - 579</ref><ref name = "r10_kajiki">{{PDFlink|[http://www.qsr.mlit.go.jp/kakoku/ir-info/yosan-michi/zigyo-hyoka/18jigohyouka/siryou4-3.pdf 一般国道10号加治木バイパス]}} 国土交通省九州地方整備局鹿児島国道事務所</ref>。姶良市内の国道総延長は12,733 mである<ref name = "road_report_h20">平成20年度道路現況調書 平成20年4月1日現在 鹿児島県土木部道路維持課</ref>。
 
 
 
従来の国道10号線に関しては、加治木バイパスと重複する区間および加治木バイパスと姶良バイパスの間、鹿児島市との境界付近の約125 mなど、わずかな区間が4車線化されているのみで、ほぼ全区間に渡り2車線の道路である。1881年(明治14年)に県道一等として鹿児島と宮崎を結ぶ路線が指定されたのが始まりで、1885年(明治18年)に国道38号と指定された。1919年(大正8年)の道路法により3号国道となり、東京から九州東海岸を経由して鹿児島を結ぶ路線が指定された。1952年(昭和27年)に道路法改正で国道10号となった<ref name = "aira_pp572-579" />。
 
 
 
加治木バイパスは全長4.2 kmで、1981年(昭和56年)度に工事に着手し、0.4 kmのみが暫定2車線で同年10月に開通していたが、その後の工事は大きく遅れた。その後、旧道と共用する区間の4車線化などと並行して工事が進められ、2002年(平成14年)4月19日に暫定2車線区間を含めて加治木ジャンクションまでが開通した。さらに4車線化の工事が進められ、2009年(平成21年)4月29日の0.5 km供用で合計2.9 kmが4車線化され、残る1.3 km部分が2013年3月3日に開通した。<ref>「加治木バイパス反土-木田/きょうから4車線=混雑緩和へ500メートル区間延長」南日本新聞2009年4月29日朝刊5面</ref>
 
<ref>「加治木バイパスの全4車線化完成 国道10号」南日本新聞2013年3月3日、373news.com</ref> <ref>この開通に伴い、一部区間は125cc以下のバイクの通行は禁止になった。</ref>
 
姶良バイパスは全長5.6 kmで、1980年(昭和55年)度から工事に着手した。1985年(昭和60年)8月の脇元高架橋の完成を皮切りに順次建設が進められ、1998年(平成10年)4月25日に残る0.7 kmの区間が開通して全通した。さらに4車線化が進められて2002年(平成14年)9月1日に4.2 kmが4車線化された。しかし脇元高架橋の区間については2車線のままで残されている<ref name = "aira_pp572-579" /><ref>「国道10号姶良バイパス、あすから4車線」南日本新聞2002年8月31日朝刊27面</ref>。
 
 
 
これらのバイパスとも、沿線は郊外型のショッピング施設やレストランなどが立ち並んだ地帯となっている。両バイパスの4車線化に際しては[[中央分離帯]]が設置されることになり、側道や沿線の商業施設への出入りに悪影響を与えるとして住民から強い反発があったが、最終的に交通事故防止などのために不可欠との判断から設置が行われた<ref>「中央分離帯に反発、「利便性損なう」/姶良バイパス住民説明会」南日本新聞2001年6月21日朝刊25面</ref>。
 
 
 
==== 主要地方道 ====
 
* [[鹿児島県道25号鹿児島蒲生線]] - 1954年(昭和29年)4月1日認定<ref name = "pref_route_list">[http://www3.pref.kagoshima.jp/reiki_int/reiki_honbun/aq70107211.html 県道の路線認定一覧表] 鹿児島県令規集</ref>、鹿児島市吉田町から佐山峠を越えて蒲生町久末を通り、蒲生町上久徳の市街地まで、市域内では県道40号と全面的に重複している、市域内路線長1,685 m<ref name = "kamo_p623">『蒲生町郷土誌』(1991) p.623</ref><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道40号伊集院蒲生溝辺線]] - 1994年(平成6年)3月11日認定<ref name = "pref_route_list" />、鹿児島市吉田町から蒲生町上久徳までは県道25号線と重複し、そこから東へ向かい住吉を通り、寺師で県道446号を横断し、下名から上名までは県道391号と重複し、加治木町西別府と加治木町辺川を経由して霧島市溝辺町へ抜ける、市域内路線長11,045 m<ref name = "kamo_p623" /><ref name = "aira_pp573-574">『姶良町郷土誌』pp.573 - 574</ref><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道42号川内加治木線]] - 1972年(昭和47年)3月24日認定<ref name = "pref_route_list" />、薩摩川内市祁答院町から蒲生町西浦に入り、蒲生町北で県道211号と合流し、蒲生町上久徳で県道25号・県道40号・県道463号と交差して蒲生町下久徳を通り、永瀬・増田・中津野・豊留を通り三拾町の山田口交差点で県道391号と合流する、鍋倉の米山交差点で県道391号を分岐し、加治木町木田の国道10号とのみろく交差点まで、通称空港道路、市域内路線長16,261 m<ref name = "kamo_p623" /><ref name = "aira_pp573-574" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道51号宮之城加治木線]] - 1972年(昭和47年)3月24日認定<ref name = "pref_route_list" />、市域内では全面的に県道42号と重複している。
 
* [[鹿児島県道55号栗野加治木線]] - 1965年(昭和40年)12月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、霧島市溝辺町から加治木町小山田に入り、県道56号を合流して加治木町反土を通り加治木ICと加治木バイパスの交差点を通り、加治木町新富町、加治木町本町を通り国道10号との交差点まで。市域内路線長8,366 m<ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道56号隼人加治木線]] - 1982年(昭和57年)12月17日認定<ref name = "pref_route_list" />、霧島市溝辺町から入り、加治木町小山田の県道55号交差点まで。市域内路線長3,286 m<ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道57号麓重富停車場線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、鹿児島市吉田町から思川に沿って平松に入り、姶良バイパスを横断して国道10号旧道に入り、重富駅前まで、市域内路線長4,356 m<ref name = "aira_pp573-574" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
 
 
==== 一般地方道 ====
 
* [[鹿児島県道211号小山田川田蒲生線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、鹿児島市郡山町から蒲生町白男に入り、おおむね前郷川に沿って蒲生町久末も通りながら、蒲生町北にある県道42号との北中三叉路まで、市域内路線長11,211 m<ref name = "kamo_p623" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道391号下手山田帖佐線]] - 1972年(昭和47年)3月24日認定<ref name = "pref_route_list" />、薩摩川内市祁答院町から蒲生町漆に入り、漆浦三叉路を通り木津志を南下、北山と寺師の間で県道446号と短い重複区間があり、上名に入り県道40号に合流、下名で分岐して深水を南下し、三拾町の山田口交差点で県道42号に合流、鍋倉の米山交差点で分岐して帖佐橋で別府川を渡り、西餅田・宮島町を通り姶良バイパスを横断し国道10号旧道との帖佐駅前交差点まで、市域内路線長19,073 m<ref name = "kamo_p623" /><ref name = "aira_pp573-574" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道395号山之口真黒線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、薩摩川内市入来町から入来長野峠を越えて蒲生町白男の県道211号との真黒岳下三叉路まで、市域内路線長1,144 m<ref name = "kamo_p623" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道446号十三谷重富線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、霧島市横川町から北山の堂山集落に入り、北山を南下して寺師との境界付近では県道391号と重複し、さらに南下して増田を通り三船橋で別府川を横断して船津に入り、一部西餅田・平松を通りながら姶良ニュータウンのある西姶良に入り、平松・脇元を通って重富小学校前の県道57号との交差点まで、市域内路線長23,425 m<ref name = "aira_pp573-574" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道462号堂山宮之城線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、北山の堂山地区で県道446号から分岐し、薩摩川内市祁答院町方面へ抜ける、市域内路線長2,968 m<ref name = "aira_pp573-574" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道463号浦蒲生線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、蒲生町漆の漆浦三叉路で県道391号から分岐し、蒲生町西浦をかすめながら蒲生町米丸を南下して蒲生町上久徳の市街地まで、市域内路線長10,097 m<ref name = "kamo_p623" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道465号松原帖佐停車場線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、鹿児島県総合運転免許試験場前から運転試験場前交差点を通り、国道10号旧道を通って帖佐駅前交差点から帖佐駅前まで、通称試験場道路、市域内路線長2,277 m<ref name = "aira_pp573-574" /><ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道466号加治木停車場線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、加治木町諏訪町の県道55号交差点から加治木駅前まで。市域内路線長230 m<ref name = "road_report_h20" />。
 
* [[鹿児島県道467号加治木港線]] - 1958年(昭和33年)11月1日認定<ref name = "pref_route_list" />、加治木町本町の国道10号交差点から加治木町港町の加治木港まで。市域内路線長520 m<ref name = "road_report_h20" />。
 
 
 
=== 港 ===
 
加治木町港町に[[加治木港]]が所在している。しかし定期旅客船は就航しておらず、主に貨物輸送に用いられている。姶良郡内で用いる[[セメント]]などの建設資材や、[[菱刈鉱山]]からの[[金鉱石]]などが扱われている。[[平成5年8月豪雨]]に際しては、道路と鉄道が寸断されたため、鹿児島市との間で鹿児島県のチャーターした旅客船が臨時に運航された<ref>[http://www.pref.kagoshima.jp/infra/port/minato/cruising/index-44760.html 鹿児島県:かごしま港めぐり(加治木港)]</ref>。
 
 
 
== 名所 ==
 
[[ファイル:Ryūmondaki Kagoshima.jpg|thumb|right|龍門滝]]
 
[[ファイル:Yamada memorial arch.jpg|thumb|right|山田の凱旋門]]
 
[[ファイル:Kamo hachiman shrine.jpg|thumb|right|蒲生八幡神社]]
 
; [[龍門滝]]
 
: [[網掛川]]が[[姶良平野]]に流れ出す場所にある高さ46 m、幅43 mの滝で、[[日本の滝百選]]に選ばれている<ref name = "kajiki_spot">[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/play/kankou/siryou1.html 加治木自然名所]</ref>。
 
; 蔵王岳
 
: 加治木町日木山にあり、市街地からよく見えるところに屹立する標高164 mの山である。加治木町のシンボル的な存在で、1984年(昭和59年)から山頂に国旗が掲揚されている<ref name = "kajiki_spot" />。
 
; [[住吉池]]
 
: 約6,000年前の火山活動で形成された池で、蒲生町上久徳側のほとりに公園とキャンプ場が整備されている<ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/head-category/camp/camp.htm 住吉池キャンプ村]</ref>。
 
; 臥龍梅
 
: 寺師地区にある梅の名所。
 
; [[蒲生八幡神社 (姶良市)|蒲生八幡神社]]
 
: 樹齢約1,500年と推定される[[蒲生のクス]]で有名な神社<ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/main-f/this-is-kamou/machi/kusu-frame.htm 蒲生のクスについて]</ref>。
 
; 山田の[[凱旋門]]
 
: 日露戦争を記念して建てられた石造りの凱旋門で、現存するものは珍しい。
 
; [[岩剣城]]跡
 
: 日本で最初に鉄砲が実戦で使用されたと言われている戦国時代の山城である。
 
; 龍門司坂
 
: 江戸時代に幹線道路として使用された石畳の坂道で、「大口筋龍門司坂」として国の[[史跡]]に指定されている<ref>[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/rekishi/siseki-bunkazai.html 史跡・文化財]</ref>。
 
; [[白銀坂]]
 
: 海岸沿いを通る後の国道10号になる道路が明治になって開通するまで、姶良郡方面から鹿児島市へ抜けるために台地の上まで登る街道として利用されていた坂で、石畳の残る道が[[歴史国道]]に選定されている<ref>[http://www12.synapse.ne.jp/aira-museum/sirakanezaka.htm 歴史の道 大口筋 白銀坂]</ref>。
 
; 姶良市総合運動公園
 
: 1984年(昭和59年)から順次整備を開始した、陸上競技場・野球場・体育館・テニスコートなどを備えている総合運動公園である。[[姶良市総合運動公園野球場|野球場]]は両翼95 m、センター120 mの公式戦にも利用できるもので、[[釜山広域市|釜山]][[ロッテ・ジャイアンツ]]のキャンプ地となったことがある<ref>[http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1277 姶良町総合運動公園]</ref><ref>「運動公園に野球場が完成、公式戦も可能/姶良町」 南日本新聞1998年4月2日朝刊16面</ref><ref>「韓国プロ野球・ロッテ球団がキャンプイン/姶良町 南日本新聞1999年2月3日朝刊17面</ref>。
 
; [[重富温泉]]
 
: ナトリウム - 塩化物泉
 
; 陶夢ランド
 
: 陶夢ランド(とむランド)は、加治木町小山田に建設された[[陶芸]]と健康づくりの拠点施設である。2002年(平成14年)4月15日に開園した。敷地面積約2万7000平方メートル、建屋面積894平方メートルで総事業費は13億7900万円であった。陶芸の体験教室などが開かれている。2009年4月から龍門司焼企業組合が指定管理者となって運営している<ref>「「陶夢ランド」が開園/陶工実演や体験室も=加治木」 南日本新聞2002年4月19日朝刊25面</ref><ref>「陶芸を気軽に楽しんで/来月5日に教室・講演会=加治木町・龍門司焼陶夢ランド」 南日本新聞2009年4月27日朝刊12面</ref>。[http://ryumonjiyaki.jp/tomurando/tomurando.html 陶夢ランド公式サイト]。
 
; [[鹿児島県県民の森|県民の森]]
 
: 1984年(昭和59年)5月19日に第35回[[全国植樹祭]]が行われた会場の跡地を利用した森林公園。
 
; さえずりの森
 
: さえずりの森は加治木町西別府にあるバンガローやコテージを備えた施設である。1989年(平成元年)から約13ヘクタールの敷地に整備を開始し、順次施設を開業させて1995年(平成7年)4月にキャンプ場などが完成した。総事業費は約4億円であった<ref>「森林浴楽しむ宿泊施設「さえずりの森」1日オープン-加治木町」南日本新聞1995年4月5日朝刊16面</ref>。2009年(平成21年)4月1日から姶良西部森林組合が指定管理者として運営を行っている。[http://www.saezurinomori.sakura.ne.jp/ さえずりの森公式サイト]。
 
; なぎさ公園
 
: 脇元の海岸沿い、重富漁港と思川河口の間にある公園である。[[潮干狩り]]などができる。桜島にある溶岩なぎさ公園とは異なる。
 
; 城山公園
 
: [[蒲生城]]跡地に開設された公園で、春の桜や秋の紅葉が見られる。また蒲生町の中心部を見渡すことができる展望台がある<ref>[http://kamou.kashoren.or.jp/kanko%20spot/siroyama%20kouen.htm 城山公園]</ref>。
 
; 高岡公園
 
: 加治木町西別府の高台に所在する公園で、春には桜の見所となる<ref>[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/play/kankou/siryou2.html 高岡公園]</ref>。
 
; [[田の神]]
 
: 鹿児島県周辺では石造りの田の神が随所に見られ、[[鹿児島弁]]で「タノカンサア」と呼ばれている。また持ち運べる小さな田の神像を拝む習俗もある<ref>[http://www12.synapse.ne.jp/aira-museum/minkansshinkou.htm 民間信仰 タノカンサア]</ref>。姶良市内では加治木町木田・加治木町日木山<ref>{{PDFlink|[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/play/kankou/kankougaido.pdf 加治木町観光ガイド]}} pp.10 - 11</ref>・触田(平松の一部)・木津志<ref>[http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1264 田の神]</ref>・蒲生町漆<ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/main-f/rekishitanbo/furusato-f/furusato4.htm 漆の田の神]</ref>・蒲生町下久徳<ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/main-f/rekishitanbo/furusato-f/furusato3.htm 下久徳の田の神]</ref>などに所在する田の神がよく知られている。
 
 
 
== 行事 ==
 
; [[加治木くも合戦]]
 
: 毎年6月第3日曜日に開催される、[[コガネグモ]]同士を戦わせる伝統行事である。1996年(平成8年)11月28日に国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」([[選択無形民俗文化財]])として選択されている<ref>{{PDFlink|[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/kouhou/kouhou/200907/200907kouhou.pdf 広報かじき]}} Vol.657 (2009年7月) pp.1 - 3</ref>。
 
; 姶良ジャンボ鬼火焚き
 
: 毎年1月下旬に三拾町で開催される[[鬼火焚き]]である。やぐらの規模が特に大きいもので、2006年(平成18年)1月21日に開催した鬼火焚きでは高さ41 mのやぐらを組んでいる<ref>「21日、姶良ジャンボ鬼火焚き/やぐら41メートル過去最高、10回の節目準備は万端=姶良町・三拾町」 南日本新聞2006年1月19日朝刊20面</ref>。
 
 
 
== 名産 ==
 
; 帖佐人形
 
: 粘土を型に入れて素焼きし、彩色した人形である。昭和の初め頃に一度は途絶えていたが1965年(昭和40年)に復活し、西餅田で生産されており、その素朴さを評価されている<ref>[http://www12.synapse.ne.jp/aira-museum/kindai.htm 近代] 姶良町歴史民俗資料館 姶良町の歴史</ref>。
 
; 蒲生和紙
 
: 1645年(正保2年)から、殖産興業政策を進めた家老の島津久通の命で、地域の郷士に副業として製紙の技術を習得させ、その紙を納付させて藩の専売としたものである<ref name = "kamo_pp354-356" />。
 
; [[加治木饅頭]]
 
: 加治木町の中心部などで複数の店舗が販売している蒸し饅頭である<ref name = "kajikigoods">[http://www.synapse.ne.jp/kajiki/play/kankou/siryou3.html 特産品]</ref>。
 
; 龍門司焼
 
: [[島津義弘]]が[[文禄・慶長の役]](朝鮮出兵)に際して連れ帰った陶工が始めた[[薩摩焼]]の一種<ref name = "kajikigoods" />。
 
; 蒲生紅茶
 
: 蒲生の風土が茶の栽培に適していたことから、[[紅茶]]の栽培が以前から行われていたが、海外からの輸入に押されて昭和40年代には一度衰退していた。これを再興して特産品としたのが蒲生紅茶である。<ref>[http://www.town.kamou.kagoshima.jp/kamou/topics-f/kamou-black-tea/black-tea.htm 蒲生特産「かもう紅茶」]</ref><ref>[http://www3.pref.kagoshima.jp/kankou/cities/464431.html 蒲生町:鹿児島県総合観光サイト]</ref>
 
; 芋焼酎
 
: 姶良市内では脇元の[[白金酒造]]、加治木町諏訪町の[[さつま司酒造]]の2社が[[芋焼酎]]を生産している。かつては帖佐醸造も鍋倉に所在していたが、霧島市へ工場を移転し[[霧島横川酒造]]となっている。白金酒造の石蔵は国の[[登録有形文化財]]に登録されている<ref>[http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC020000&WIT_oid=icityv2::Contents::1266 白金酒造石蔵]</ref>。[http://www.shirakane.jp/ 白金酒造ウェブサイト]。
 
 
 
== 姶良市出身の有名人 ==
 
* [[鶴ヶ嶺昭男]]([[大相撲]][[関脇]]、旧加治木町)
 
* [[笹峯愛]]([[女優]]、旧加治木町)
 
* [[寺尾常史]]([[大相撲]][[関脇]]、旧加治木町)※実際は東京都墨田区生まれ・育ち
 
* [[湯元敏浩]]([[日本テレビ]]元[[プロデューサー]])
 
* [[スマイリー園田]]([[MBCタレント]]・[[ディスクジョッキー]]、旧加治木町)
 
* [[神田橋條治]]([[精神科医]]、旧加治木町)
 
* [[城彰二]] (元プロサッカー選手、旧加治木町)※出生は北海道
 
* [[猪俣睦彦]]([[MBCタレント]]、旧加治木町)
 
* [[川﨑宗則]]([[プロ野球選手]]、旧姶良町)
 
* [[黒江透修]](元[[プロ野球選手]]、旧姶良町)
 
* [[仰山達彦]](ローカルリポーター)
 
* [[西眞一]](元サッカー選手、旧姶良町)
 
* [[飯伏幸太]](プロレスラー、旧姶良町)
 
* [[小山田大]](プロフリークライマー、旧蒲生町)
 
* [[村山喜一]](政治家、旧蒲生町)
 
* [[西田あい]](歌手)
 
* [[鶴留明雄]](競馬調教師、旧姶良町)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book | 和書 | editor=蒲生町 | title=蒲生郷土誌 | edition=初版 | year=1969 | publisher=蒲生町 | language=日本語}}
 
* {{Cite book | 和書 | editor=蒲生町郷土誌編さん委員会 | title=蒲生郷土誌 | edition=初版 | date=1991-07-31 | publisher=蒲生町 | language=日本語}}
 
* {{Cite book | 和書 | editor=姶良町郷土誌改定編さん委員会 | title=姶良町郷土誌 | edition=平成7年10月増補改訂版 | year=1995 | month=10 | publisher=姶良町長 櫟山和實 | language=日本語}}
 
* {{Cite book | 和書 | editor=加治木郷土誌編さん委員会 | title=加治木郷土誌 | edition=平成4年改定版 | year=1991 | month=11 | publisher=加治木町 | language=日本語}}
 
* {{Cite book | 和書 | editor=「角川日本地名大辞典」編纂委員会 | title=鹿児島県 | year=1983 | month=3 | publisher=[[角川書店]] | series=角川日本地名大辞典 | language=日本語 | volume=46}}
 
* {{Cite book | 和書 | editor=下中 弘 | title=鹿児島県の地名 | year=1998 | month=7 | publisher=[[平凡社]] | series=日本歴史地名大系 | language=日本語 | volume=47}}
 
* {{Cite book | 和書 | author=原口 泉・永山 修一・日隈 正守・松尾 千歳・皆村 武一 | title=鹿児島県の歴史 | year=1999 | month=8 | publisher=[[山川出版社]] | series=県史 | language=日本語 | isbn=4-634-32460-1}}
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Aira, Kagoshima}}
 
 
* [http://www.city.aira.lg.jp/ 姶良市公式ウェブページ]
 
* [http://www.city.aira.lg.jp/ 姶良市公式ウェブページ]
* [http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/kamou/default.htm 蒲生町公式ウェブページ]
+
 
* [http://www.town.aira-aira.kagoshima.jp/ 姶良町公式ウェブページ]
 
* [http://www.synapse.ne.jp/kajiki/no-flash-m.html 加治木町公式ウェブページ]
 
* [https://web.archive.org/web/20080922020445/http://www.airaseibu-gappei.jp/ 姶良西部合併協議会]
 
* {{osmrelation-inline|3959624}}
 
 
{{鹿児島県の自治体}}
 
{{鹿児島県の自治体}}
{{Normdaten}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
 
{{デフォルトソート:あいらし}}
 
{{デフォルトソート:あいらし}}
 
[[Category:鹿児島県の市町村]]
 
[[Category:鹿児島県の市町村]]
 
[[Category:姶良市|*]]
 
[[Category:姶良市|*]]

2018/8/25/ (土) 17:36時点における最新版

姶良市(あいらし)

鹿児島県中部,鹿児島湾の北西岸に臨む市。薩摩半島大隅半島の分岐点に位置する。1955年帖佐町,重富村および山田村の一部が合体して姶良町が成立。2010年加治木町,蒲生町の 2町と合体して姶良市となった。北西部はシラス台地で,大部分は山林。別府川,思川などが鹿児島湾に注ぐ南部の低地に市街地が形成される。米作やムギ,サツマイモ,チャ(茶)などの栽培,養鶏,畜産が行なわれ,早掘りタケノコを特産。鹿児島湾岸ではハマチ,ワカメ,ノリなどの養殖や小型定置網漁が行なわれる。デンプン,焼酎の製造業も発達。薩摩焼の一種である龍門司焼(小山田焼),蒲生和紙などの伝統工芸がある。鹿児島市との間の交通が便利なため,鹿児島市の郊外住宅地となっている。推定樹齢 1500年,高さ約 30mの蒲生のクスは国指定特別天然記念物。宮田ヶ岡瓦窯跡,南浦文之墓(文之),白銀坂,龍門司坂はいずれも国の史跡に指定されている。加治木地区で毎年 6月に行なわれるクモ合戦(コガネグモ)は有名。約 600mに及ぶ白砂青松の干潟がある重富海岸は霧島錦江湾国立公園に属する。住吉池は釣り,ハイキングなどでにぎわい,周辺一帯は藺牟田池県立自然公園に属する。JR日豊本線,九州自動車道,国道10号線が通る。

外部リンク




楽天市場検索: