「宮崎駿」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''宮﨑 駿'''(みやざき はやお、1941年1月5日 - ) アニメーション作家,映画監督,プロデューサー。1963年学習院大学政…」で置換)
(タグ: Replaced)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|映画監督|野球選手|宮崎駿 (野球)}}
 
{{記事名の制約|title=宮﨑駿}}
 
{{JIS2004}}
 
{{ActorActress
 
| 芸名 = 宮﨑 駿
 
| ふりがな = みやざき はやお
 
| 画像ファイル = Hayao Miyazaki.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像コメント = [[2008年]]、[[ヴェネツィア国際映画祭]]にて
 
| 別名義 = 秋津 三朗(あきつ さぶろう)<br />照樹 務(てるき つとむ 又は てれこむ)
 
| 出生地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]]
 
| 死没地 =
 
| 国籍 = {{JPN}}
 
| 民族 =
 
| 身長 =
 
| 血液型 = O型<ref>{{Cite web |url=http://www.d-aiba.com/top-page/%E6%96%87%E5%8C%96%E4%BA%BA%E7%B3%BB/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E9%A7%BF/ |title=宮﨑駿 |publisher=タレントデータベース deta house aiba |accessdate=2014-10-04 }}</ref>
 
| 生年 = 1941
 
| 生月 = 1
 
| 生日 = 5
 
| 没年 =
 
| 没月 =
 
| 没日 =
 
| 職業 = [[映画監督]]<br>[[アニメーション]][[作家]]<br>[[漫画家]]
 
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビアニメ]]
 
| 活動期間 = [[1963年]] -
 
| 活動内容 =
 
| 配偶者 = [[大田朱美|宮﨑朱美]]([[妻]])
 
| 著名な家族 = [[大田耕士]](義父)<br />[[宮崎吾朗|宮﨑吾朗]]([[長男]])<br />[[宮崎敬介|宮﨑敬介]]([[二男]])<br />[[堤大介]]([[義甥]])
 
| 事務所 = [[スタジオジブリ]]
 
| 公式サイト = [http://www.ghibli.jp/ スタジオジブリ]
 
| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力-->
 
'''アニメーション映画'''
 
* 『[[パンダコパンダ]]』([[原案]]・[[脚本]])
 
* 『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』(脚本・[[監督]])
 
* 『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』([[原作]]・脚本・監督)
 
* 『[[天空の城ラピュタ]]』(原作・脚本・監督)
 
* 『[[となりのトトロ]]』(原作・脚本・監督)
 
* 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(脚本・[[プロデュース]]・監督)
 
* 『[[紅の豚]]』(原作・脚本・監督)
 
* 『[[もののけ姫]]』(原作・脚本・監督)
 
* 『[[千と千尋の神隠し]]』(原作・脚本・監督)
 
* 『[[ハウルの動く城]]』(脚本・監督)
 
* 『[[崖の上のポニョ]]』(原作・脚本・監督)
 
* 『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』(原作・脚本・監督)
 
----
 
'''実写映画'''
 
* 『[[柳川堀割物語]]』([[製作]])
 
----
 
'''テレビアニメ'''
 
* 『[[未来少年コナン]]』([[演出]])
 
----
 
'''漫画'''
 
* 『[[風の谷のナウシカ]]』(作)
 
* 『[[宮崎駿の雑想ノート]]』(作)
 
* 『[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)|風立ちぬ]]』(作)
 
----
 
'''絵物語'''
 
* 『[[シュナの旅]]』(作)
 
* 『[[もののけ姫]]』(作)
 
----
 
'''小説'''
 
* 『[[天空の城ラピュタ]]』(原作・[[絵]])
 
----
 
'''音楽'''
 
* 『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』([[作詞]])
 
* 『[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]』(作詞)
 
* 『[[もののけ姫 (曲)|もののけ姫]]』(作詞)
 
* 『[[崖の上のポニョ (曲)|崖の上のポニョ]]』(補作詞)
 
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメ映画賞]]'''<br />[[第75回アカデミー賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref><br /> [[第87回アカデミー賞|2014年]]
 
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金オゼッラ賞]]'''<br />[[第61回ヴェネツィア国際映画祭|2004年]]『[[ハウルの動く城]]』<br />'''ミンモ・ロテッラ財団賞'''<br />[[第65回ヴェネツィア国際映画祭|2008年]]『[[崖の上のポニョ]]』<br />'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br />[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|2005年]]
 
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br />[[第52回ベルリン国際映画祭|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』
 
| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第68回ニューヨーク映画批評家協会賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />[[第71回ニューヨーク映画批評家協会賞|2005年]]『[[ハウルの動く城]]』<br />[[第79回ニューヨーク映画批評家協会賞|2013年]]『[[風立ちぬ]]』
 
| 英国アカデミー賞 =
 
| セザール賞 =
 
| ロサンゼルス映画批評家協会賞 = '''[[ロサンゼルス映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第28回ロサンゼルス映画批評家協会賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』
 
| 放送映画批評家協会賞 = '''[[放送映画批評家協会賞 アニメ映画賞|アニメ映画賞]]'''<br />[[第8回放送映画批評家協会賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』
 
| ゴールデングローブ賞 =
 
| ゴールデンラズベリー賞 =
 
| ゴヤ賞 =
 
| グラミー賞 =
 
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
 
| 全米映画俳優組合賞 =
 
| ブルーリボン賞 = '''特別賞'''<br />[[1988年]]『[[となりのトトロ]]』<br />[[1997年]]『[[もののけ姫]]』<br />'''作品賞'''<br />[[2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』
 
| 日本アカデミー賞 = '''話題賞'''<br />[[第13回日本アカデミー賞|1989年]] 『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』<br />'''最優秀作品賞'''<br />[[第21回日本アカデミー賞|1997年]]『[[もののけ姫]]』<br />[[第25回日本アカデミー賞|2002年]]『[[千と千尋の神隠し]]』<br />'''最優秀アニメーション作品賞'''<br />[[第32回日本アカデミー賞|2008年]]『[[崖の上のポニョ]]』<br />[[第37回日本アカデミー賞|2013年]]『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』<br />'''会長功労賞'''<br />[[第25回日本アカデミー賞|2002年]]
 
|その他の賞 = '''[[アニー賞]]'''<br />'''{{仮リンク|ウィンザー・マッケイ賞|en|Winsor McCay Award}}'''(生涯功労賞)<br />[[1998年]]<br />'''長編アニメ作品賞 監督賞 脚本賞'''<br />[[2002年]]「[[千と千尋の神隠し]]」<br />'''長編アニメ脚本賞'''<br />[[2013年]]「[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]」<ref name="Annie2013">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0060188|title=『風立ちぬ』宮崎駿監督、アニー賞脚本賞を受賞!も…授賞式には誰も現れず|newspaper=シネマトゥデイ|date=2014-02-02|accessdate=2017-10-10}}</ref><br />
 
----第34・39・41・43・56・63回[[毎日映画コンクール]][[大藤信郎賞]]<br />第43・52・56回[[毎日映画コンクール]]日本映画大賞<br />第44・47・52・56回毎日映画コンクールアニメーション映画賞<br />第52・56・59回毎日映画コンクール日本映画ファン賞<br />第56回毎日映画コンクール監督賞<br />第2・6回[[日本アニメ大賞]]作品賞<br />第4回日本アニメ大賞特別賞<br />第6回日本アニメ大賞脚本賞<br />第6回日本アニメ大賞主題歌賞<br />第16・20回[[星雲賞]]メディア部門<br />第26回星雲賞コミック部門<br />第23回[[日本漫画家協会賞]]大賞<br />第12回[[山路ふみ子映画賞]]<br />第13・26回[[報知映画賞]]監督賞<br />第22回報知映画賞特別賞<br />第39回[[芸術選奨]]文部大臣賞<br />第39回芸術選奨芸術作品賞<br />第5・10回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|日刊スポーツ映画大賞]][[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞|石原裕次郎賞]]<br />第14回日刊スポーツ映画大賞作品賞<br />1993年[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]長編作品部門[[グランプリ]]<br />第1・5回[[文化庁メディア芸術祭]]アニメーション部門大賞<br />第5回文化庁メディア芸術祭特別賞<br />第37回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]]観客賞<br />2007年[[ネビュラ賞]]スクリプト部門賞<br />第2回[[バークレー日本賞]]
 
| 備考 =
 
}}
 
'''宮﨑 駿'''(みやざき はやお、[[1941年]][[1月5日]] - )は、[[日本]]の[[映画監督]]、[[アニメーター]]、[[漫画家]]。別名として'''秋津 三朗'''(あきつ さぶろう)、'''照樹 務'''(てれこむ)がある。映画などの[[クレジットタイトル]]では'''宮崎 駿'''(みやざき はやお)と表記されることもある。
 
  
[[株式会社]][[スタジオジブリ]][[取締役]]、[[公益財団法人]][[徳間記念アニメーション文化財団]][[理事長]]、[[三鷹市立アニメーション美術館]]([[三鷹の森ジブリ美術館]])館主。
+
'''宮﨑 駿'''(みやざき はやお、[[1941年]][[1月5日]] - )
  
== 概要 ==
+
アニメーション作家,映画監督,プロデューサー。1963年学習院大学政治経済学部を卒業。同 1963年東映動画に入社,1971年に退社し,Aプロ,ズイヨー映像を経て 1979年東京ムービー新社に移る。その間,テレビ用アニメーションの演出などを手がけ,1978年から[[日本放送協会]] NHK初の国産アニメーション『未来少年コナン』(全 26話)の演出を担当した。東京ムービー新社で劇場用アニメーションの監督第一作『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)を制作。1982年フリーランサーとなり,徳間書店のアニメーション雑誌にまんが『風の谷のナウシカ』を連載開始,1984年に同作品が劇場用アニメーションとして制作・公開されて大ヒットし,名声を確立した。1985年に東映動画時代からの同志高畑勲とともにスタジオジブリを設立。以後,『天空の城ラピュタ』(1986),『となりのトトロ』(1988。1989芸術選奨文部大臣賞),『魔女の宅急便』(1989),『紅の豚』(1992),『もののけ姫』(1997),『千と千尋の神隠し』(2001),『崖の上のポニョ』(2008)など次々とヒット作を制作した。『千と千尋の神隠し』は 2002年に[[ベルリン国際映画祭]]最高賞の金熊賞,2003年に[[アカデミー賞]]長編アニメーション賞を受賞した。2005年日本人として初めて[[ベネチア国際映画祭]]で栄誉金獅子賞を受賞した。2001年に東京都三鷹市に三鷹の森ジブリ美術館を開館し,初代館主に就任。2001年フランス国家功労勲章を受章,2012年文化功労者に選ばれた。
[[東京府]][[東京市]]出身({{要出典範囲|出生地は現在の[[墨田区]][[文京区]]という説もある|date=2017年5月}})。[[学習院大学]][[政経学部]]<ref>「政治経済学部」としている場合が多い。</ref>卒業。[[東京都]][[小金井市]]<ref>[https://www.city.koganei.lg.jp/smph/shisei/gaiyou/meiyoshimin.html 名誉市民]</ref>、[[三鷹市]]名誉市民。アニメーション制作会社[[スタジオジブリ]]に映画監督として所属し、[[2005年]]4月より取締役。また、自身が企画開発した[[三鷹市立アニメーション美術館]]([[三鷹の森ジブリ美術館]])の館主である。個人の事務所は株式会社[[二馬力]]で、主に宮﨑の[[著作権]]関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていた。[[愛煙家]]としても知られている。
 
  
== 来歴 ==
+
----
===生い立ち===
+
{{テンプレート:20180815sk}}
数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の[[役員]]を務める一家の4人[[兄弟]]の二男として、[[東京市]]で生まれる。幼児期に[[宇都宮市|宇都宮]]に疎開、小学校3年生まで暮らしていた<ref>会社が[[中島飛行機]]の下請けとして軍用機の部品を生産していたことが、軍事用[[兵器]]に対する相矛盾する感情を生むことになった。宮崎が回想した戦争体験としては、宇都宮が[[空襲]]を受け、親類の運転する[[貨物自動車|トラック]]で4歳の駿を含む宮崎一家が避難した際、子供を抱えた近所の男性が「助けてください」と駆け寄ってきた。しかし、トラックは既に宮崎の家族でいっぱい。車はそのまま走り出した。その時に「乗せてあげて」と叫べなかった事が重い負い目となって、後々の人生や作品に大きく影響を与えた、と語っている。(宮崎駿「アニメーション罷り通る」(大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』潮出版社、2002年、pp.24-28))</ref>。1950年、小学校4年に進級時に東京都[[杉並区]][[永福|永福町]]に転居。
 
 
 
幼少時は身体が弱かった<ref>医者からは20歳まで生きられないと言われ、これは後の創作に影響を与えた、と言う。(『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]』2008年8月5日)</ref>ので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、[[手塚治虫]]や[[杉浦茂]]の漫画、特に[[福島鉄次]]の[[絵物語]]『[[沙漠の魔王]]』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である[[東京都立豊多摩高等学校]]在学中の3年生の時に観た[[東映アニメーション|東映動画]]製作『[[白蛇伝 (1958年の映画)|白蛇伝]]』に感動し<ref>宮崎駿「日本のアニメーションについて」『日本映画の現在』岩波書店、1988年。宮崎駿『出発点 1979〜1996』徳間書店、1996年にも所収</ref>、[[アニメーション]]にも関心を持つようになる。学生時代にデッサンを独学で学び、[[ポール・セザンヌ]]のような印象派に影響されている<ref>『復刻版 ロマンアルバム 天空の城ラピュタ ガイドブック』p.142</ref>。
 
 
 
===アニメ業界での活躍===
 
[[学習院大学]]に進学し、[[児童文学]]サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの[[人形劇]]を企画しつつ、[[漫画家]]を志し漫画を描き続けていたが<ref>この時期、何本かの社会主義革命の漫画を執筆して持込みをした事もあったが、「ウチは時代劇扱ってないんですけど」と編集者に門前払いされている。『風の帰り道』(pp.251)</ref>、アニメーションの世界へ進む事を決断する<ref>「劇画の世界と、アニメーションの世界と、どちらが表現方法として優れているかというので、ずいぶん自分でも悩み続けて、結局、アニメーションの方が優れているという結論を、自分なりに出してしまったんです」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)</ref>。[[学習院大学]]を卒業し、[[アニメーター]]として[[東映アニメーション|東映動画]]に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観た[[ソビエト連邦|ソ連]]製作長編アニメーション映画『[[雪の女王]]』に強い感銘を受け<ref>「これほどのことがアニメーションでできるなら、いつか自分もやってみたい、アニメーターになっていてよかったと思って、はっきりと腰が座った」(『THIS IS ANIMATION 1』小学館、1982年)なお、実線を描かずに白で目を表現するという手法は、この作品の影響である。</ref>、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。『[[ガリバーの宇宙旅行]]』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。結成間も無い[[東映アニメーション|東映動画]]労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。[[高畑勲]]・[[森康二]]・[[大塚康生]]らと共に3年がかりの大作、『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(1965 - 1968年)を作り上げた。、<!--不遇だったのは監督の高畑で宮崎は後の長靴をはいた猫やどうぶつ宝島でもメインスタッフでした。興行的には不振で、以後は社内で不遇をかこつ。-->
 
 
 
1971年、高畑勲、[[小田部羊一]]と共に東映動画を退社し、新企画『[[長くつ下のピッピ]]』を制作するために[[Aプロダクション]]に移籍したが、原作者の許諾を得られず立ち消えになってしまう。その後、宮崎と高畑は大塚康生に誘われ、視聴率が低調だったTVアニメ『[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]』の演出の仕事を引き受ける。半年間で放送は終了したが、その後の『ルパン』の基礎となる部分を作り上げた(詳しくは[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン]]の項を参照)。「ピッピ」の経験を活かし、大塚、高畑、小田部らと子供向け映画『[[パンダコパンダ]]』(1972年、1973年)を2本作る(脚本、場面設定、美術、原画などを担当)。
 
 
 
高畑、小田部とともに[[ズイヨー映像]](のちの[[日本アニメーション]])に移籍し、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』の準備に入る。1974年TVアニメ、『[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]』で全カットの場面設定・画面構成(レイアウト)を担当。この作品は最高平均[[視聴率]]が26.9%となるなど大ヒットとなり、宮崎としても初の大きな成功であった。
 
 
 
=== 『未来少年コナン』から『ナウシカ』まで ===
 
[[1978年]]、『[[未来少年コナン]]』([[日本放送協会|NHK]])で事実上の初監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はいなかった。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の[[絵コンテ]]、レイアウトを描いた上、スタッフの作った[[脚本]]・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした<ref>NHK-BS『BSアニメ夜話/未来少年コナン』(2005年6月27日放送)での大塚康生の証言。及び大塚康生『作画汗まみれ 増補改訂版』168頁</ref>。持ち前の高度な作家性を発揮して、原作「[[残された人びと]]([[:en:The Incredible Tide|The Incredible Tide]])」の悲壮なイメージを大幅に改変し、オリジナルといってもよい作品を作り上げた。後に宮崎アニメと呼ばれる作品群の原点とも言える。視聴率は低調だったが、この作品に衝撃を受け、後に[[アニメーター]]やアニメ[[演出家]]となった者はかなり多い([[未来少年コナン#本作の影響]]を参照)。
 
 
 
その後、リニューアルされ人気を博していた『[[ルパン三世]]』の映画を一緒にやろうと大塚に持ちかけられ、当初は「もうルパンは古臭い」と宮崎は乗り気ではなかったが最終的に了承。その為[[テレコム・アニメーションフィルム]]([[トムス・エンタテインメント|東京ムービー新社]]内)に移籍し、映画『[[ルパン三世 カリオストロの城]]』([[1979年]])で映画作品の監督デビューをした。宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた<ref>[https://web.archive.org/web/20130907032313/http://mainichi.jp/enta/news/20130906mog00m200014000c6.html 宮崎駿監督:ナウシカ続編「ありません」 2013年09月06日 毎日新聞]</ref><ref>[http://www.peeep.us/aeff9dc3 (「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」 2013年09月06日 産経新聞]</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20130907065017/http://news.mynavi.jp/articles/2013/09/07/miyazaki/007.html 宮崎駿監督引退会見・一問一答、全文書き起こし 2013年09月07日 マイナビニュース]</ref>。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風<!--第一シリーズの後半(水色FIATに乗るルパン)は、宮崎・高畑コンビの影響をモロうけた作品なので、違う作風ってのはちょっとありえないんじゃないかな?-->や、[[サイエンス・フィクション|SF]]アニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には[[ルパン三世 ルパンVS複製人間|前作]]に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。この直後には、『[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『[[風の谷のナウシカ]]』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『[[アニメージュ]]』副編集長で取材に訪れた[[鈴木敏夫]]と出会っている。
 
 
 
『ルパン三世 PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた[[押井守]]が監督を務めることになった。
 
 
 
テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『[[NEMO/ニモ|リトル・ニモ]]』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との間を行き来したが、企画への疑問から降板。この時期、『[[となりのトトロ]]』『[[もののけ姫]]』『[[風の谷のナウシカ]]』『[[天空の城ラピュタ]]』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた[[徳間書店]]の『アニメージュ』誌編集長・[[尾形英夫]]は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『[[風の谷のナウシカ]]』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる<ref>。漫画版『風の谷のナウシカ』は、アニメ公開後も断続的に描き継ぎ、アニメ公開10年後の[[1994年]]に完結。アニメ版の結末の思想を、自ら否定するような内容となった。</ref>。さらに自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった[[徳間書店]]の[[徳間康快]]社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し<ref>尾形英夫「あの旗を撃て!―『アニメージュ』血風録」オークラ出版、2004年</ref>、宮崎の弟が勤務する[[博報堂]]がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、[[1984年]]にアニメーション映画として製作・公開された。映画『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』は、『ルパン三世 カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、[[エコロジー]]・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった<ref>初のオリジナル長編映画だった『風の谷のナウシカ』製作中、宮崎が6歳の時から病気で寝たきりの母が亡くなり、非常に悔やんだと話している。この後、宮崎の作品には自身の母をモチーフにしたキャラクターが頻出するようになる。(『プロフェッショナル 仕事の流儀』2008年8月5日)</ref>。
 
 
 
=== スタジオジブリ設立 ===
 
1985年に徳間書店の出資を得て[[スタジオジブリ]]を設立し、以後の制作の基盤とした。[[1986年]]の『[[天空の城ラピュタ]]』と[[1988年]]の『[[となりのトトロ]]』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。
 
 
 
また1986年頃、宮崎が推薦した[[押井守]]による[[ルパン三世]]劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている<ref>宮崎駿は1987年公開『紅い眼鏡』のパンフレットに自分が脚本で押井が監督するはずだったアニメ映画がつぶれてスケジュールが空いたときに二人で知床まで自動車旅行をした話、「押井さんについて」を寄稿している。</ref>。
 
 
 
『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』(1989年)は、当初は[[片渕須直]]監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。
 
 
 
『[[紅の豚]]』(1992年)は、もともと[[日本航空]]の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。
 
 
 
[[1997年]]に公開された『[[もののけ姫]]』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『[[E.T.]]』が持っていた日本の映画[[興行成績|興行記録]]を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。
 
 
 
[[2001年]]に発表した『[[千と千尋の神隠し]]』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円<ref>{{cite web|url=http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/|accessdate=2016-09-28|title=歴代ランキング - CINEMAランキング通信|date=2016-09-26}}</ref>と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年の[[ベルリン国際映画祭]]では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の[[金熊賞]]を受賞し、[[2003年]]には[[アカデミー賞]]'''[[アカデミー長編アニメ賞|長編アニメ賞]]'''を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。
 
 
 
[[2004年]]公開の『[[ハウルの動く城]]』は、もともと[[細田守]]監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録。さらに[[ヴェネツィア国際映画祭]]のオゼッラ賞、[[ニューヨーク映画批評家協会]]最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米[[アカデミー賞]]の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。[[2005年]]には、[[ヴェネツィア国際映画祭]]において優れた世界的映画人に贈られる[[栄誉金獅子賞]]を受賞。[[2006年]]には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。
 
 
 
[[2008年]][[7月19日]]に、新作『[[崖の上のポニョ]]』を公開。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた<ref>監督のインタビューコメント 『プロフェッショナル 仕事の流儀』 2007年3月28日</ref>。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという<ref>(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年12月10日)</ref><ref>映画公開後、鈴木敏夫に対し「72歳で死ぬことに決めた、あと5年なら一本しか作れない」と発言(東京FM『ジブリ汗まみれ』 2008年8月26日)</ref>。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した<ref>第65回[[ヴェネツィア国際映画祭]] 記者会見時のインタビュー</ref>。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという<ref>「フレデリック・バック展」のトークイベント「話をする二人」での、鈴木敏夫の発言</ref>。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時に[[日本放送協会|NHK]]によって2度、「[[プロフェッショナル 仕事の流儀]]」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の[[日本外国特派員協会]]に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。[[2012年]]には、[[文化功労者]]に選ばれた。
 
 
 
[[2013年]]に、自身の『[[風立ちぬ (宮崎駿の漫画)]]』を原作とした、アニメーション映画『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』を公開。同年[[9月1日]]、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長[[星野康二]]が発表<ref name="mainichi130901">{{cite news|url=http://mainichi.jp/mantan/news/20130901dyo00m200036000c.html|title=宮崎駿:長編映画製作から引退へ 「風立ちぬ」が最後の作品に|newspaper=毎日jp(毎日新聞)|date=2013-09-01|accessdate=2013-09-02}}</ref>。
 
 
 
=== 長編監督引退後 ===
 
2013年、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]を舞台にした漫画を執筆中であると『[[月刊モデルグラフィックス]]』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『[[アーマーモデリング]]』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。
 
 
 
[[2014年]]、『思い出のマーニー』を最後の作品として、スタジオジブリの制作部門が解体される。三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた<ref>「やっぱり宮崎さんはメルヘンが好きなんだ」『AERA』2014年8月11日号、朝日新聞出版、18p。</ref>。同年11月、第87回[[アカデミー名誉賞]]<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>を受賞。日本人としては[[黒澤明]]以来2人目の快挙となる<ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK29H05_Z20C14A8000000/ 宮崎駿監督にアカデミー名誉賞 「クロサワ」以来]時事通信(2014年8月)</ref>。同時受賞となった女優の[[モーリン・オハラ]]は長年のファンで、会えたことに感動した<ref>{{cite news |language  = | author  = | url =http://www.cinematoday.jp/page/N0068020| title =宮崎駿監督にアカデミー名誉賞授与 「やれることをやっていく」笑顔で会見| publisher =| date= 2014-11-09| accessdate =2014-11-23}}</ref>。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。[[京都府]][[八幡市]]の[[石清水八幡宮]]の本殿で奉納された。
 
 
 
[[2015年]]、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『[[毛虫のボロ]]』を制作中であることを明らかにした<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH7B5RS5H7BUCVL01G.html]</ref>。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作は[[スティーブンスティーブン]]が担当している<ref>[http://www.stst.co.jp/?p=791]</ref>。
 
 
 
2015年5月8日、[[沖縄]]・[[在日米軍]]基地再編における[[普天間飛行場]]の[[辺野古]]移転計画に反対する[[辺野古基金]]の共同代表<ref>[[石川文洋]]、[[呉屋守將]]、[[佐藤優 (作家)|佐藤優]]、[[菅原文子]]、[[鳥越俊太郎]]、[[長濱徳松]]、[[宮城篤実]]らとの共同就任</ref>に就任した<ref>[http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/07/miyazaki-hayao-henoko-okinawa_n_7238168.html 「辺野古基金」とは? 宮崎駿氏が共同代表に就任へ]The Huffington Post(2015年5月)</ref>。同年7月13日、[[日本外国特派員協会]]の要請に応じて[[東京都]][[小金井市]]にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて[[鳩山由紀夫内閣]]が提案した県外移設の実現を強く求めた<ref name="blo">[http://blogos.com/article/122316/?p=1 「世界がもっと根元の方でみしみしと悪くなっていくようです」〜宮﨑駿監督が会見][[BLOGOS]]編集部(2015年7月)</ref>。
 
 
 
=== 引退撤回 ===
 
[[2016年]][[11月13日]]午後9時から[[日本放送協会|NHK]]で放送された[[特別番組]]「終わらない人 宮崎駿」の番組内で、宮崎が「長編企画 覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容は[[モザイク処理|モザイク]]で隠されていたが、「[[2019年]]完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。3か月後の[[2017年]][[2月24日]]、鈴木敏夫が「Oscar Week 2017」で、長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった<ref>[https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0224/nlb_170224_0638344981.html 宮崎駿監督が長編復帰へ 鈴木敏夫プロデューサー「一生懸命、東京で作ってます」] - BIGLOBE 2017年2月24日閲覧。</ref><ref>[http://www.sankei.com/entertainments/news/170224/ent1702240022-n1.html 宮崎駿監督が新作長編の準備に 事実上の「引退」撤回] - 産経ニュース 2017年2月24日閲覧。</ref>。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートした<ref>[https://www.cinematoday.jp/news/N0091692 宮崎駿監督の新作、始動!ジブリがスタッフ募集を開始 今度こそ本当に最後の監督作品に…] - シネマトゥデイ 2017年5月19日閲覧。</ref>。10月28日に早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASKBX5T4ZKBXUCLV008.html 宮崎駿監督、新作タイトルは「君たちはどう生きるか」] - 朝日新聞 2017年10月29日閲覧。</ref>。
 
 
 
[[2018年]][[5月15日]]、高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。<ref>[https://news.yahoo.co.jp/pickup/6282575 宮崎監督、号泣・・・高畑勲監督お別れ会] - スポーツ報知、2018/5/15閲覧</ref>
 
 
 
== 略歴 ==
 
[[ファイル:HayaoMiyazakiCCJuly09.jpg|thumb|200px|[[2009年]][[7月28日]]、[[ジョン・ラセター]]との対談にて]]
 
* [[1941年]] - [[1月5日]]、東京府東京市に生まれる。同年生まれのアニメ監督に、[[りんたろう]]、[[芝山努]]、[[富野由悠季]]、[[鳥海永行]]がいる。
 
* [[1945年]] - [[7月12日]]、[[宇都宮空襲]]に遭遇。
 
* [[1950年]] - 杉並区[[永福|永福町]]に転居。[[杉並区立永福小学校]]、[[杉並区立大宮中学校]]、[[東京都立豊多摩高等学校]]卒。
 
* [[1963年]] - [[学習院大学]]政経学部卒業。[[東映アニメーション|東映動画]]入社。なお、同年の政経学部卒業生には、[[麻生太郎]](元[[内閣総理大臣]])、[[高島肇久]]([[東京倶楽部]]理事長、元NHK解説委員長)、[[三枝輝行]]([[阪神百貨店]]元社長)、[[有薗憲一]]([[ベスト電器]]元社長)らがいる。
 
* [[1964年]] - 東映動画[[労働組合]]の第2代[[書記長]]に就任。なお、初代書記長は大塚康生。
 
* [[1965年]] - 同僚の[[太田朱美]]と結婚<ref>なお、妻の朱美には著書『ゴローとケイスケ―お母さんの育児絵日記』がある。</ref>。なお、式の司会は大塚康生。
 
* [[1967年]] - 長男([[宮崎吾朗]]・(財)[[徳間記念アニメーション文化財団]]理事)誕生。
 
* [[1970年]] - [[所沢市]]に自宅を移す。次男([[宮崎敬介]]・木口木版画家)誕生。
 
* [[1971年]] - [[高畑勲]]、[[小田部羊一]]と共に[[Aプロダクション]](現[[シンエイ動画]])に移籍。
 
* [[1973年]] - [[高畑勲]]、[[小田部羊一]]と共に[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|ズイヨー映像]](後に[[日本アニメーション]]に改組)に移籍。
 
* [[1978年]] - 『[[未来少年コナン]]』で演出家に転向。
 
* [[1979年]] - [[東京ムービー]]の子会社[[テレコム・アニメーションフィルム]]に移籍。
 
* [[1982年]] - 1月より『アニメージュ』誌上で『風の谷のナウシカ』連載開始。日米合作劇場アニメーション映画『[[リトル・ニモ]]』の準備に携わったが企画への疑問から製作から降り、[[11月22日]]、[[テレコム・アニメーションフィルム]]を退社。
 
* [[1984年]] - 4月、個人事務所[[二馬力]]を設立。
 
* [[1985年]] - [[スタジオジブリ]]を設立。
 
* [[1990年]] - 東京都民文化栄誉章を受章。
 
* [[1996年]] - [[淵の森]]保全連絡協議会を結成し、会長に就任。
 
* [[1998年]] - スタジオジブリを退社し、「[[豚屋]]」を設立。第26回[[アニー賞]]・生涯功労賞、[[山路ふみ子]]文化賞、[[淀川長治]]賞を受賞。
 
* [[1999年]] - スタジオジブリに所長として復帰。
 
* [[2000年]] - 第3回[[司馬遼太郎賞]]を受賞。
 
* [[2001年]] - [[三鷹の森ジブリ美術館]]を創立し、初代館主に就任。第49回[[菊池寛]]賞を受賞。
 
* [[2002年]] - [[朝日賞]]、[[フランス]]国家功労賞、[[パリ]]市勲章を受章。『Business Week』誌のStar of Asia・イノベーター部門に選出。
 
* [[2003年]] - [[埼玉県]]民栄誉賞を受賞。『[[TIME]]』誌アジア電子版の「アジアの英雄20人」に選出。
 
* [[2004年]] - 12月、[[パリ造幣局美術館]]にて、初の個展となる「MIYAZAKI-MOEBIUS」展を開催。
 
* [[2005年]] - [[徳間書店]]より独立した、株式会社スタジオジブリの取締役に就任。第62回[[ヴェネツィア国際映画祭]]・[[栄誉金獅子賞]]、[[国際交流基金]]賞を受賞。『[[TIME]]』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出。
 
* [[2006年]] - [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]2階・[[マイスタジオ|マイスタ]]外壁に設置される巨大時計のデザインを手掛ける。『TIME』誌アジア版の「60年間のアジアの英雄」に選出。
 
* [[2008年]] - スタジオジブリ社内[[保育園]]『3匹の熊の家』を竣工し、初代園長に就任。東京都[[小金井市]]名誉市民に選出。長男に息子が生まれ、初孫を授かる。
 
* [[2009年]] - 第2回[[バークレー日本賞]]を受賞。『Fast Company Magazine』の「ビジネスシーンで最もクリエイティブな世界の100人」の31位に選出。
 
* [[2010年]] - 東京都[[三鷹市]]の名誉市民に選出。
 
* [[2012年]] - [[文化功労者]]。
 
* [[2013年]] - 9月、長編映画製作から引退すると発表<ref name="mainichi130901" />。
 
* [[2014年]] - 第87回[[アカデミー名誉賞]]<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>を受賞。
 
* [[2015年]] - [[辺野古基金]]共同代表就任。
 
* [[2017年]] - 2月、長編映画制作に復帰すると発表。
 
 
 
== 作風 ==
 
; 子供の視点
 
: 一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている<ref>富沢洋子編『また、会えたね!』[[アニメージュ#アニメージュ文庫|アニメージュ文庫]] 徳間書店、1983年</ref>。[[児童文学]]を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言し、その作品はほぼ一貫して子供の視点に立ち、[[悪役]]を大人にすることが多い。ただし宮崎作品では悪役もまた、多くの場合重層的で複雑なキャラクターであり、どこかしら憎めない存在として描かれる<ref>『天空の城ラピュタ』の[[ムスカ]]は例外。</ref>が、『千と千尋の神隠し』以降の作品ではそうした悪役が登場することもなくなっている。
 
: 宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り<ref>宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、pp.83,88</ref>、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している<ref>「宮崎駿ロングインタビュー この映画が作れて僕は幸せでした」『千尋と不思議の町 千と千尋の神隠し徹底攻略ガイド』ニュータイプ編、角川書店、2001年、p.35</ref>。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた<ref>宮崎駿『出発点 1979〜1996』岩波書店、1996年、p.123</ref>。
 
: 主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからのとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて悲観的な物語にしかならないとも語っている。
 
: 最も本人の趣味が反映された『[[紅の豚]]』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている<ref>CUT誌2009/11/19号</ref>。
 
; 脚本なしでの制作
 
: 制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、[[脚本]]なしで[[絵コンテ]]と同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界の[[ウォルト・ディズニー]]」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。また漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである<ref>宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』岩波書店、2008年、p389。</ref>。
 
; 軍事マニア
 
: [[軍事史|戦史]]・[[兵器]]マニアとして知られ、[[第二次世界大戦]]から前の[[甲冑]]・鎧兜や兵器([[装甲戦闘車両]]、[[軍用機]]など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊[[モデルグラフィックス]]』誌の『[[宮崎駿の雑想ノート]]』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている<ref>一応国ごとに動物が割り当てられており、ドイツ=豚、イギリス=犬(自ら手がけた『名探偵ホームズ』と同じデザイン)、アメリカ=ゴリラとなっている(ソ連にも豚を用いた例あり)。アジア人が登場する作品では動物化はされていない。</ref>。2009年から2010年にかけて『[[モデルグラフィックス]]』誌に[[零式艦上戦闘機]]の開発者である[[堀越二郎]]の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、[[一式戦闘機|一式戦闘機「隼」]]の活躍と[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[エース・パイロット]]の戦果を記録した、戦史家[[梅本弘]](市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている<ref>[http://www.modelkasten.com/book/osprey/230285.html MODELKASTEN 第二次大戦の隼のエース]</ref>。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、[[モールス符号]]での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。
 
; 声優の起用方針
 
:『[[もののけ姫]]』以降の作品では、主要なキャストに[[声優|職業声優]]の起用を避ける傾向がある。
 
:ジブリにおいても、[[斯波重治]]が録音監督を担当した『[[風の谷のナウシカ]]』『[[天空の城ラピュタ]]』『[[となりのトトロ]]』および、斯波の跡を継いだ[[浅梨なおこ]]による『[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]』『[[紅の豚]]』では職業声優を中心に起用していた(『魔女の宅急便』のキャストは同時期に斯波が録音演出を担当していたテレビアニメ『[[らんま1/2]]』とほぼ被っている)。一方で、『[[天空の城ラピュタ]]』の[[寺田農]]や『[[となりのトトロ]]』の[[糸井重里]]のように、俳優、タレント、文化人などを重要な役柄に声優として起用していた。『[[もののけ姫]]』以降は、主役・準主役に声優を本業としない[[俳優]]や[[女優]]を起用することが多い。キャスティングは主にプロデューサーの[[鈴木敏夫]]の管轄であり、『[[ハウルの動く城]]』の[[木村拓哉]]なども鈴木の発案である<ref>一部の報道記事では「木村が自らジブリ側に連絡を入れて出演を志願した」としているものもある。</ref>。
 
: これに関して宮崎は、外国メディアからのインタビューの中で「日本の女性声優は男性を惹きつけるコケティッシュな声を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている<ref>{{cite news|url=http://film.guardian.co.uk/interview/interviewpages/0,6737,1569689,00.html|publisher=guardian.co.uk|title=A god among animators|accessdate=2010-09-03}}</ref>。また[[2008年]]の[[ヴェネツィア国際映画祭]]では、「アニメとかじゃなく、映画を作っていると思ってます。」と語っている。
 
: 宮崎が初期に関わった東映動画作品(『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』等)でも、舞台や映画の俳優が多く出演している事でも分かるように、アニメーション映画の声の配役においては、宣伝効果を狙い知名度の高い俳優を起用することは変わったことではない。とは言え、ジブリにおいても主役以外のキャストはもっぱら職業声優によって占められている。『[[となりのトトロ]]』の続編である「メイとネコバス」を制作する際、サツキとメイのキャストを変更する案もあったが、結局オリジナルの声優を起用している。
 
; 作品名の共通点
 
: 監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋'''の'''神隠し、崖の上'''の'''ポニョなど、平仮名の「[[の]]」が含まれている<ref>[[世界一受けたい授業]]より{{出典無効|date=2015年9月}}。[[「の」の法則]]も参照。</ref>。
 
: ただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』<ref>「𦻙記」の読みは「せっき」。「𦻙」(草冠の旧字体の下に耳を二つ)は宮崎による「正史には残らずに耳から耳へ伝えられた物語」を意味する創作であり日本の漢字には存在しない。これに相当するものが台湾の漢字に存在し、[[Unicode]]ではU+26ED9(CJK統合漢字拡張B)に収録されている。「聶」(耳を三つ)は誤記あるいは代用表記。</ref>を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない<ref>鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』岩波新書、2008年、p.86</ref>。
 
; 作風の変化
 
:作品には常に新しい試みを盛り込み、「昔のような作品を観たいなら、昔のやつを観てればいい。同じものを作って何の意味がある?」という旨の発言を度々行っている。特に『千と千尋の神隠し』以降からは劇的に作風が変化し、ストーリーの一貫性を放棄したとも見える[[プロット (物語)|プロット]]を用いている。彼自身も『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕はもう既成の起承転結のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。
 
 
 
== 高畑勲との関係 ==
 
<p>アニメーション作家・映画監督の[[高畑勲]]は[[東映アニメーション|東映動画]](現・[[東映アニメーション]])時代の先輩であり宮﨑に多大な影響を与えた。東映動画の[[労働組合]]に[[書記長]]として従事した際、高畑は副委員長として宮﨑を支え交流を深めていった。</p>高畑の初監督作品・映画『[[太陽の王子 ホルスの大冒険]]』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが次々とイメージボードを描きアニメーター(兼 [[場面設定]])として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人[[ギルド]]・[[コミューン]]の形成と[[善悪]]の[[彼岸]]を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、[[ベトナム戦争]]が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆な[[レイアウト]]で魅せる高畑の演出も宮﨑にとっては憧れの的だった<ref name=":0">{{Cite web |date=2018-04-08 |url =https://www.oricon.co.jp/special/50964/ |title =「監督・宮崎駿」を生み出した高畑勲の功績 肉親以上の関係だった2人の天才 |work= |publisher =ORICON  |accessdate =2018-05-20  }}</ref>。{{要出典範囲|date=2018年5月|奥行きのあるリアルな世界観を構成したい高畑にとっても天才的な空間把握能力を持つ宮崎の能力はなくてはならないものとなった。}}
 
 
 
[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世第一シリーズ]](共同演出)、[[パンダコパンダ]](高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、[[アルプスの少女ハイジ]]、[[母をたずねて三千里]](高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した<ref name=":0" />。『[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]』・『[[天空の城ラピュタ]]』では高畑は[[プロデューサー]]を務める。宮崎は[[音楽]]には疎いため、音楽的知識が豊富で[[ピアノ]]が弾けて自ら[[作曲]]も行う高畑は献身的にサポートした<ref name=":0" />。{{要出典範囲|date=2018年5月|当時無名だった久石譲をスカウトしてきたのも高畑である}}。
 
 
 
ハイジや三千里で共に仕事をした[[富野由悠季]](絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」 「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」<ref name="oricon51017">{{Cite news|title=富野由悠季が語る『ガンダム』のリアルを生んだ“高畑勲イズム” 「高畑さんは僕にとっても師匠」|url=https://www.oricon.co.jp/special/51017/|accessdate=2018-05-18|language=ja-JP|work=ORICON NEWS}}</ref>。
 
 
 
その後、[[ファンタジー]]や[[リアリティ]]の考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮﨑の畏敬の念は特別だった。『[[千と千尋の神隠し]]』の制作の際、宮﨑は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑さんに教わったためである<ref name=":0" />。
 
 
 
ふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている<ref name=":0" />。
 
 
 
宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある。<ref>{{Cite web|url=http://lite-ra.com/2018/04/post-3937.html|title=高畑勲監督の死に宮崎駿監督は…鈴木敏夫Pは「宮崎駿はただひとりの観客、高畑勲を意識して映画を作っている」と - 本と雑誌のニュースサイト/リテラ|accessdate=2018-05-18|website=本と雑誌のニュースサイト/リテラ|language=ja-JP}}</ref>
 
 
 
== アニメ界への意見 ==
 
 
 
; 日本のアニメ界への危機感
 
: 以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けており、[[1985年]]2月号のアニメ雑誌『[[アニメージュ]]』の[[押井守]]、[[河森正治]]との対談や、[[1986年]]『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見にて<ref>『[[コミックボックス]]』に全録、『[[月刊OUT]]』みのり書房、1986年8月号に抄録で掲載。</ref>「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品はいいかげんやめてほしい」と発言していた。2002年の[[ベルリン映画祭]]金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューでは「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、イギリスの[[英国放送協会|BBC]]など、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず日本国外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった<ref>『アニメージュ』2002年5月号において、宮崎の発言に対する5人のアニメ業界人のコメントを掲載。久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)では宮崎発言が「反響が大きかった」とし、久美自身も8ページをかけて宮崎発言を論じる。</ref>。
 
; 手塚治虫の評価
 
: [[1989年]]、[[手塚治虫]]が亡くなった時、漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した<ref>「手塚治虫に「神の手」をみた時、ぼくは彼と決別した」『[[コミックボックス]]』ふゅーじょん・ぷろだくと、1989年5月号(宮崎駿『出発点 1979〜1996』に所収)</ref>。
 
: それ以降は、手塚について語る事はほとんど無かったが、[[2009年]]に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「[[新宝島]]」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_eventnews_20090414b.htm 宮崎駿さんの手塚体験 「原点だから崇拝しない」](2009年4月)</ref>。
 
:宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた<ref>徳間書店「アニメージュ」1981年8月号</ref>。この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった<ref>徳間書店「The art of Nausica」1984年6月20日</ref>。
 
; ディズニーの評価
 
: 前述の手塚治虫に対する批判の1年程前に[[ディズニー]]に対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」<ref>岩波書店『講座日本映画』第7巻『日本映画の現在』宮崎駿『日本のアニメーションについて』1988年1月</ref>。その一方で配給やスタジオジブリの社長をディズニー日本法人の社長が務めるなどディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている<ref>日本テレビ系『知られざるディズニーの魔法〜ディズニー・アート展を100倍楽しく見る方法〜』2006年7月15日</ref>。
 
 
 
== 政治的・思想的スタンス ==
 
=== 反戦 ===
 
: 著名なミリタリーマニアである一方、現実の[[戦争]]行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『[[未来少年コナン]]』『[[風の谷のナウシカ]]』『[[もののけ姫]]』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛の方丈記私記をイメージしたものだという<ref>『[[NEWS ZERO]]』([[日本テレビ系]])ZERO CULTURE 宮崎アニメの原点(2008年11月24日)</ref>。[[湾岸戦争]]に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、[[小田実]]を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「[[ニューヨーク・タイムズ]]に湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他<ref>「「それでも戦争は正しくない」 文化人ら市民が米紙に意見広告計画」『[[朝日新聞]]』[[1991年]][[3月16日]]朝刊31面</ref>、同時期に製作した『[[紅の豚]]』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという<ref>『CUT』誌2009年11月19日号</ref>。
 
; 第二次世界大戦
 
:『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』製作時には作品テーマもあって、[[第二次世界大戦]]における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として[[堀越二郎|二郎]]を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」<ref>2013年7月16日 朝日新聞</ref>としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」<ref>[http://www.asahi.com/shimen/articles/TKY201307190544.html (インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん 2013年7月20日 朝日新聞DIGITAL]</ref>「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」<ref>2013年8月11日号 しんぶん赤旗</ref>と述べている。
 
:同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている<ref name="n">[http://www.ghibli.jp/shuppan/np/009348/ 小冊子『熱風』2013年7月号の特集は「憲法改正」です。]</ref><ref name="npdf">[http://www.ghibli.jp/docs/0718kenpo.pdf 『熱風』2013年7月号特集「憲法改正」]</ref>。この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって「最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?」と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は「ちょっと待て」っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている<ref name="n"/><ref name="npdf"/>。
 
:こうした姿勢は当事者国の一つである[[東アジア]]諸国で広い賞賛を受けており、中国の「[[人民日報]]」は[[微博]](国営[[SNS]])を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている<ref>[http://www.recordchina.co.jp/a114194.html 戦後70年、中国メディアが選んだ「良識ある日本人」に宮崎監督ら9人](2015年7月16日 [[Record China]])</ref>。韓国でも『[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり<ref>[http://www.recordchina.co.jp/a108450.html 宮崎駿、新作映画に対する韓国での批判を受け記者会見](2014年7月31日 blouinartinfo)</ref>、「日本の生ける良心」と賞賛されている<ref>[http://jp.blouinartinfo.com/news/story/934266/gong-qi-jun-xin-zuo-ying-hua-nidui-suruhan-guo-denopi-pan 宮崎駿さん、辺野古移設に反対する基金の共同代表に=韓国ネット「生ける良心、尊敬する」「日本では反政府的と批判されるんだろうな」](2015年5月10日 [[Record China]])</ref>。
 
; 憲法改正
 
:2013年に[[憲法改正論議]]が加熱した際、スタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「憲法改正」で憲法改正への反対声明を行った。声明の中で宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」という題の寄稿文で宮崎は憲法改正に反対の立場であることを闡明にした<ref name="n"/><ref name="npdf"/>。寄稿文の中で憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている。特に[[日本国憲法第9条|憲法9条]]と[[自衛隊]]については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないからすぐ手玉に取られてしまいます。もし戦争になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている。同寄稿文では現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している。災害時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」とし、イラク戦争で行われた海外派遣については「イラクに行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と戦地でも専守防衛を貫いた自衛隊を高く評価をしている<ref>http://www.ghibli.jp/10info/009354.html 2013年7月18日小冊子『熱風』7月号特集 緊急PDF配信のお知らせ</ref>。
 
:また憲法96条を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「詐欺」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためにはちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている。
 
; 集団的自衛権
 
: 憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に[[憲法解釈]]を用いた[[集団的自衛権]]の整備が[[第2次安倍内閣]]で推進されると、[[日本外国特派員協会]]での[[記者会見]]で[[安倍晋三]]首相を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した<ref name="blo"/>。現行憲法は[[十五年戦争|15年間にわたる戦争]]とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「[[押し付け憲法論]]」であるという批判に対しても、1928年の[[不戦条約]](戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ決して押し付けでもないと述べている<ref name="blo"/>。
 
 
 
=== 生命倫理・反差別 ===
 
: 2016年[[1月28日]]に東京都港区で開かれた「[[ハンセン病]]の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある[[国立療養所多磨全生園|全生園]]を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「[[ハンセン病療養所の特殊通貨|園内通用券]]」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った<ref name="asa20160129">{{Cite news |title=宮崎駿監督、生への思い 「もののけ姫」ハンセン病患者 |newspaper=朝日新聞 |date=2016-01-29 |author=朝日新聞デジタル |authorlink=http://www.asahi.com/ |url=http://www.asahi.com/articles/ASJ1X4TX2J1XUTIL01N.html |accessdate=2017-04-27 |location=東京都 |publisher=株式会社朝日新聞社 |language=日本語 |archiveurl=http://www.jinken.ne.jp/flat_topics/2016/01/post_2764.html |archivedate=2016-01-30 }}</ref><ref name="kinyoubi20160219">{{Cite journal |和書 |author=西川伸一 |title=西川伸一の政治時評 終わらない人権犯罪 ハンセン病家族が提訴 |date=2016-02-19 |publisher=株式会社金曜日 |journal=週刊金曜日 |volume=1076 |page=10 |accessdate=2017-04-27 }}</ref>。
 
 
 
=== 左翼・社会主義 ===
 
: 学習院大学時代に社会主義や共産主義などの[[左翼]]運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。東映動画入社の志望動機書には「米帝[[ディズニー]]に対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと[[岡田斗司夫]]が著書で述べている<ref>「オタク学入門」(太田出版、1996年)後に[[新潮文庫]]</ref>が事実かは不明。実際に[[高畑勲]]らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら[[資本論]]などの理論書は読んでいないと率直に述べている<ref name="kaze1">宮﨑駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]社、[[2013年]])収録、「風が吹き始めた場所([[1990年]][[11月]]収録)」</ref><ref>宮﨑駿『本へのとびら――岩波少年文庫を語る』(岩波新書・2011年)</ref>。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。[[希望]]ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている<ref name="kaze1" />。ただし後年に「[[カール・マルクス|マルクス]]的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や<ref>『CUT』誌2009年11月19日号</ref>、「今は[[プロレタリアート]]がいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている<ref name="kaze3">宮﨑駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]社、[[2013年]])収録、「風の谷から油屋まで([[2001年]][[11月]]収録)」</ref>。
 
; 思想転向があったとする意見
 
:その後も[[左翼]]的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期の[[1989年]]に起きた[[六四天安門事件|天安門事件]]および[[東欧革命]]に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある<ref>これら及び“社会主義への傾倒から照葉樹林文化論への転向”(後述)といった宮崎の精神的変遷に関しては久美薫『宮崎駿の仕事 1979〜2004』(鳥影社、2004年)、井上静著『宮崎駿は左翼なんだろう?』(世論時報社・1998年)、評論集『宮崎駿の着地点をさぐる』(青弓社・1997年)等で詳説されている</ref>。<!--また[[昭和天皇]]の自然観に対して共感を示したこともある{{要出典|date=2009年8月}}-->宮崎の強権的「[[国家]]」に対する批判的姿勢は、宮崎が尊敬崇拝する作家の[[堀田善衛]]や[[司馬遼太郎]]らからの影響から、人間の実相を「もっと長いスタンスで、もっと遠くを見る」ように凝視する、宮崎が"澄んだニヒリズム"と呼ぶところの姿勢に転換していく。例えば漫画版『風の谷のナウシカ』のラストなどに、その人間観・世界観の変化の影響が見受けられる。
 
; 思想転向はしていないという意見
 
:しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的な[[ソ連型社会主義]]には懐疑的で、ソ連や中国の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカも嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している<ref name="kaze1" />。[[ニューヨーク近代美術館]]での会見で中国の[[毛沢東]]の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが<ref>{{cite web
 
| url = http://www.asahi.com/culture/entertainment/dvd/news/TKY200506110162.html | title = 宮崎監督、毛語録引用し若手に助言 MoMAで会見 | publisher = [[朝日新聞]]| accessdate = 2005-06-11}}</ref>、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている<ref>『(インタビュー)零戦設計者の夢 映画監督・宮崎駿さん』朝日新聞2013年7月20日</ref>。冷戦崩壊直前の[[1990年]][[11月]]には[[ソ連]]と対峙する[[ラトビア]]の独立運動で「[[人民戦線]]」という用語が使用されている事に触れながら、「[[社会主義]]が[[自由主義]]っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。[[西ドイツ]]の現状はどうなんですか?[[西ベルリン]]が健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている<ref name="kaze1" />。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている<ref name="kaze1" />。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きた[[ユーゴスラビア紛争]]に触れ、民主化による[[民族主義]]の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の[[共産主義者|赤]]になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している<ref name="kaze2">宮﨑駿『風の帰る場所』([[文藝春秋]]社、[[2013年]])収録、「豚が人間に戻るまで([[1992年]][[7月]]収録)」</ref>。
 
:宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている<ref name="kaze1" />。
 
 
 
===環境主義===
 
; 自然保護運動
 
: 世界観の描き方から、メディアではエコロジーの視点で評価されることが多い。また多くの作品で空を舞うシーンが描かれることが多いが、宮崎もそれを意識している(観客に作品世界の[[空間]]の広がりを意識させるためだという)。私生活で[[環境主義]]や自然保護運動に取り組んでいる事も広く知られており、[[民主党 (日本 1998-2016)|民主党]]の[[鳩山由紀夫内閣]]における在日米軍基地移転構想や[[菅内閣|菅直人内閣]]の[[再生可能エネルギー特別措置法]]などを高く評価している。
 
: ただし宮崎は自身やその作風が環境主義的と定義される事は好ましく思っていないとも述べている。宮崎によれば公的な活動ではなく、早朝のゴミ拾いなど自分の目にする範囲内で環境に気遣う事にしていると述べている。沖縄・[[辺野古]]の自然を守る辺野古基金の共同代表に就任した際にも、自身にその資格があるのか要請を引き受ける直前まで悩んだという。
 
; 反原発
 
: スタジオジブリの小冊子『熱風』2011年8号で、宮崎が「NO! 原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙を飾った。表紙の説明には「6月11日、宮崎駿監督は[[小金井市|東小金井]]で小さなデモをした」と書かれてある。6月11日は同年3月に発生した[[東日本大震災]]の[[福島第一原子力発電所事故]]に関連して全国一斉にデモなどが呼びかけられた「6・11脱原発100万人アクション」の一環として新宿では約2万人が参加した大規模な反原発デモが行われた日であった。この号の特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」には、宮崎駿、[[鈴木敏夫]]、[[河野太郎]]、[[大西健丞]]、[[川上量生]]による特別座談会が掲載され、宮崎は原発をなくすことに賛成と語っている。座談会では他に、1年前の2010年夏ごろ福島原発の施設内(福島県双葉郡富岡町の「エネルギー館」)に知らないうちに[[となりのトトロ|トトロ]]などのキャラクター商品を販売する店が置かれていたことが発覚し撤去させたことや、ジブリとしては原発に反対であることなども語られている<ref>スタジオジブリ『熱風』2011年8号</ref>。また、2011年6月16日からは、東京都小金井市のスタジオジブリの屋上に、宮崎の考案で「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれた横断幕が掲げられている<ref>[http://www.alterna.co.jp/5932 ジブリ屋上に幕「原発抜きで映画を」 - ビジネス情報誌オルタナ]</ref><ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0033141 ジブリ横断幕は宮崎駿監督が考案!「攻撃的な意味はありません」とスタジオジブリがコメント - シネマトゥデイ]</ref>。
 
 
 
=== ナショナリズムへの批判 ===
 
: 閉塞感漂う日本の現状について尋ねられた際、「ナショナリズムからの解放」を主張するなど民族主義への批判を展開しており<ref>「[http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0811/27/news004_2.html 宮崎駿監督、映画哲学を語る]」</ref>、「世界の問題は多民族にある」とも語っている。<!--最近では、問題になった[[新しい歴史教科書をつくる会]]の[[教科書]]を、「[[民族]]の『誇り』は、歴史を歪曲することで得られるものではない」と語ったことがある{{要出典|date=2008年10月}}。一方で司馬遼太郎や堀田善衛との鼎談で日本の被害国にもナショナリズムの行き過ぎが見られると批判しており{{要出典|date=2009年2月}}、コスモポリタン的な立場で各国の偏狭なナショナリズムを批判しているという主張もある{{要出典|date=2009年2月}}。-->
 
 
 
=== 風刺画 ===
 
: [[シャルリー・エブド襲撃事件]]をめぐる[[風刺画]]問題について、「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘。その上で、他の文明が崇拝しているものを対象にすることは「やめた方がいい」と話した<ref>{{cite news |language  = | author  = | url =http://www.huffingtonpost.jp/2015/02/16/hayao-miyazaki-ebudo_n_6694840.html| title=宮崎駿さん「異質文明が崇拝するものを風刺するのは間違い」ラジオで語る | publisher =| date= 2015-02-17| accessdate =2015-02-18}}</ref>。
 
 
 
=== 欧米世界への批判 ===
 
: [[J・R・R・トールキン]]の作品『[[指輪物語]]』が[[ピーター・ジャクソン]]監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った<ref name="フィギュア王">2002年10月号『[[フィギュア王]]』でのインタビュー。</ref>。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「[[アフガニスタン戦争]]での[[誤爆]]と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した<ref name="フィギュア王"/>。
 
 
 
== 影響を受けた作家・作品 ==
 
20世紀のなかで最も影響を受けたものとして、[[ブルース・スプリングスティーン]]、映画『[[イージー・ライダー]]』、そして[[ジョン・フォード]]の監督作品、とりわけ『[[荒野の決闘]]』を挙げている<ref name="cut">{{cite journal|和書|title=さよなら、20世紀|journal=[[Cut (雑誌)|Cut]]|publisher=[[ロッキング・オン]]|month=1|year=2001|page=64-81}}</ref>。そのほかに、[[エーリッヒ・フロム]]の『[[自由からの逃走]]』、[[ノーマン・メイラー]]の『[[裸者と死者]]』、[[デヴィッド・リースマン]]の『[[孤独な群衆]]』、フリッツ・パペンハイムの『''The Alienation of Modern Man''』といった本からも影響を受けたと述べている<ref name="cut"/>。
 
 
 
=== アーシュラ・K・ル=グウィン ===
 
{{see also|アーシュラ・K・ル=グウィン|ゲド戦記}}
 
:ファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『[[指輪物語]]』を厳しく批判する一方、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]の『[[ゲド戦記]]』からの影響をしばしば公言し、「[[シュナの旅]]」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『[[ゲド戦記]]』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『[[ゲド戦記]]』から影響された部分があると語っている<ref>「[http://www.ghibli.jp/20special/000283.html 世界一早い「ゲド戦記」インタビュー(完全版)]」[[スタジオジブリ]]</ref>。
 
 
 
=== サン=テグジュペリ ===
 
{{see also|アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ}}
 
:[[フランス]]の作家、[[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ]]の愛読者であり、とくに『[[人間の土地]]』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『[[世界・わが心の旅]]』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリから[[トゥールーズ]]、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡([[モロッコ]])まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった航空郵便の飛行機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「[[夜間飛行]]」「[[人間の土地]]」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。
 
 
 
=== 中尾佐助 ===
 
{{see also|中尾佐助|照葉樹林文化論}}
 
: 宮崎に深く影響を与えた思想に、[[植物学者]][[中尾佐助]]による「[[照葉樹林文化論]]」がある。[[ヒマラヤ山脈]]南麓から[[中華人民共和国|中国]]南部・[[日本]][[本州]]南半分までを含む地域が、茶・酒・柑橘類などの特色を持つ共通の農耕文化圏に含まれるとするこの学説に、[[国家]]の枠を乗り越える視点を与えられ、「呪縛からの解放」感を味わったという。この影響は特に『もののけ姫』に強く表れており、その後も宮崎はインタビュー・対談など事ある毎に中尾佐助を引き合いに出している。
 
 
 
=== 網野善彦 ===
 
{{see also|網野善彦}}
 
: 『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、[[たたら]](鑪・鈩)製鉄技術者集団、[[馬子]]運送業者、[[ハンセン病]]患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「[[天皇|天朝]]さまとはなんぞや。」とうそぶく女性を登場させるなど、[[網野善彦]]の[[中世]][[史観]]の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する<ref>網野善彦『「忘れられた日本人」を読む』([[岩波書店]]、[[2003年]])p.31 - 34</ref>。{{要出典範囲|date=2017年4月|もっとも、いわゆる「網野[[史観]]」に全面的に依拠しているわけではなく、大規模な定着化した踏鞴場の描写など、技術者集団等の非定着性に注目した網野と対立する観点も散見される。ただし、蒸気機関等の動力が存在しない環境で周囲を禿山にした踏鞴場を維持し続けることは不可能で、資源の採取が困難になれば踏鞴場の移転もありうる。物語の都合上割愛されているわけだが、この点をもって網野の世界と対立するとは言い切れない}}。
 
 
 
== 作品 ==
 
=== 長編映画 ===
 
※監督作のみ太字
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"
 
|-
 
!colspan="2" style="white-space: nowrap;"|公開年
 
!style="white-space: nowrap;"|作品名
 
!style="white-space: nowrap;"|制作(配給)
 
!style="white-space: nowrap;"|役職
 
|-
 
|[[1963年]]
 
|[[12月21日]]
 
|[[わんわん忠臣蔵]]
 
|rowspan="7"|[[東映動画]]<br />([[東映]])
 
|動画
 
|-
 
|[[1965年]]
 
|[[3月20日]]
 
|[[ガリバーの宇宙旅行]]
 
|原画<br />動画<br />ラストの演出
 
|-
 
|[[1968年]]
 
|[[7月21日]]
 
|[[太陽の王子ホルスの大冒険]]
 
|場面設計<br />原画
 
|-
 
|rowspan="2"|[[1969年]]
 
|[[3月18日]]
 
|[[長靴猫シリーズ|長靴をはいた猫]]
 
|原画
 
|-
 
|[[7月20日]]
 
|[[空飛ぶゆうれい船]]
 
|原画
 
|-
 
|rowspan="2"|[[1971年]]
 
|[[3月20日]]
 
|[[どうぶつ宝島]]
 
|アイデア構成<br />原画
 
|-
 
|[[7月18日]]
 
|[[アリババと40匹の盗賊]]
 
|原画
 
|-
 
|[[1972年]]
 
|[[12月17日]]
 
|[[パンダコパンダ]]
 
|rowspan="2"|[[東京ムービー]]<br />([[東宝]])
 
|原案<br />脚本<br />場面設定<br />原画
 
|-
 
|[[1973年]]
 
|[[3月17日]]
 
|[[パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻]]
 
|脚本<br />美術設定<br />画面構成<br />原画
 
|-
 
|[[1979年]]
 
|[[12月15日]]
 
|'''[[ルパン三世 カリオストロの城]]'''
 
|[[東京ムービー新社]]<br />(東宝)
 
|脚本([[山崎晴哉]]と共同)<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[1984年]]
 
|[[3月11日]]
 
|'''[[風の谷のナウシカ (映画)|風の谷のナウシカ]]'''
 
|[[徳間書店]]<br />[[博報堂]]<br />[[トップクラフト]]<br />(東映)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[1986年]]
 
|[[8月2日]]
 
|'''[[天空の城ラピュタ]]'''
 
|徳間書店<br />[[スタジオジブリ]]<br />(東映)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />EDテーマ『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』作詞
 
|-
 
|[[1987年]]
 
|[[8月15日]]
 
|[[柳川堀割物語]]
 
|[[二馬力]]
 
|製作
 
|-
 
|[[1988年]]
 
|[[4月16日]]
 
|'''[[となりのトトロ]]'''
 
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />(東宝)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />EDテーマ『[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]』作詞
 
|-
 
|[[1989年]]
 
|[[7月29日]]
 
|'''[[魔女の宅急便 (1989年の映画)|魔女の宅急便]]'''
 
|徳間書店<br />[[ヤマト運輸]]<br />[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]<br />スタジオジブリ<br />(東映)
 
|プロデューサー<br />脚本<br />絵コンテ([[近藤喜文]]と共同)<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[1991年]]
 
|[[7月20日]]
 
|[[おもひでぽろぽろ]]
 
|徳間書店<br />日本テレビ<br />博報堂<br />スタジオジブリ<br />(東宝)
 
|製作プロデューサー
 
|-
 
|[[1992年]]
 
|[[7月18日]]
 
|'''[[紅の豚]]'''
 
|徳間書店<br />[[日本航空|JAL]]<br />日本テレビ<br />スタジオジブリ<br />(東宝)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[1994年]]
 
|[[7月16日]]
 
|[[平成狸合戦ぽんぽこ]]
 
|rowspan="3"|徳間書店<br />日本テレビ<br />博報堂<br />スタジオジブリ<br />(東宝)
 
|企画
 
|-
 
|rowspan="2"|[[1995年]]
 
|rowspan="2"|[[7月15日]]
 
|[[耳をすませば]]
 
|製作プロデューサー<br />脚本<br />絵コンテ([[近藤喜文]]と共同)<br />EDテーマ『[[カントリー・ロード (本名陽子の曲)|カントリー・ロード]]』補作
 
|-
 
|'''[[On Your Mark]]〜ジブリ実験劇場'''
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[1997年]]
 
|[[7月12日]]
 
|'''[[もののけ姫]]'''
 
|徳間書店<br />日本テレビ<br />[[電通]]<br />スタジオジブリ<br />(東宝)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />主題歌『もののけ姫』作詞
 
|-
 
|[[1999年]]
 
|[[7月17日]]
 
|[[ホーホケキョ となりの山田くん]]
 
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />[[ウォルト・ディズニー・カンパニー]]<br />日本テレビ<br />博報堂<br />([[松竹]])
 
|制作
 
|-
 
|[[2001年]]
 
|7月20日
 
|'''[[千と千尋の神隠し]]'''
 
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />[[東北新社]]<br />[[三菱商事]]<br />(東宝)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[2002年]]
 
|7月20日
 
|[[猫の恩返し]]
 
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />博報堂<br />三菱商事<br />(東宝)
 
|企画
 
|-
 
|[[2004年]]
 
|[[11月20日]]
 
|'''[[ハウルの動く城]]'''
 
|徳間書店<br />スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />三菱商事<br />(東宝)
 
|企画<br />脚本<br />'''監督'''
 
|-
 
|[[2006年]]
 
|[[7月29日]]
 
|[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]
 
|rowspan="2"|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />[[博報堂DYメディアパートナーズ]]<br />三菱商事<br />(東宝)
 
|原案
 
|-
 
|[[2008年]]
 
|[[7月19日]]
 
|'''[[崖の上のポニョ]]'''
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''<br />OPテーマ『海のおかあさん』作詞(共同)<br />EDテーマ『[[崖の上のポニョ (曲)|崖の上のポニョ]]』補作詞
 
|-
 
|rowspan="2"|[[2010年]]
 
|[[6月18日]]
 
|[[トイ・ストーリー3]]
 
|[[ピクサー・アニメーション・スタジオ]]
 
|スペシャルサンクス
 
|-
 
|7月17日
 
|[[借りぐらしのアリエッティ]]
 
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />[[ワイルドバンチ]]<br />(東宝)
 
|企画<br />脚本<br />美術設定
 
|-
 
|[[2011年]]
 
|[[7月16日]]
 
|[[コクリコ坂から]]
 
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />(東宝)
 
|企画<br />脚本
 
|-
 
|[[2013年]]
 
|7月20日
 
|'''[[風立ちぬ (2013年の映画)|風立ちぬ]]'''
 
|スタジオジブリ<br />ウォルト・ディズニー・カンパニー<br />日本テレビ<br />電通<br />博報堂DYメディアパートナーズ<br />三菱商事<br />[[KDDI]]<br />(東宝)
 
|原作<br />脚本<br />'''監督'''
 
|-
 
|}
 
 
 
=== 短編映画 ===
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"
 
|-
 
!colspan="2" style="white-space: nowrap;"|公開年
 
!style="white-space: nowrap;"|作品名
 
!style="white-space: nowrap;"|制作(配給)
 
!style="white-space: nowrap;"|役職
 
|-
 
|[[1977年]]
 
|[[4月23日]]
 
|[[草原の子テングリ]]
 
|[[雪印乳業]]<br />[[桜映画社]]<br />[[シンエイ動画]]
 
|レイアウト
 
|-
 
|rowspan="2"|[[2001年]]
 
|rowspan="2"|[[10月1日]]
 
|[[フィルムぐるぐる]]
 
|rowspan="13"|[[スタジオジブリ]]
 
|絵コンテ<br />監督
 
|-
 
|[[くじらとり]]
 
|脚本<br />監督
 
|-
 
|rowspan="4"|[[2002年]]
 
|[[1月3日]]
 
|[[コロの大さんぽ]]
 
|原作<br />脚本<br />監督
 
|-
 
|[[10月2日]]
 
|[[空想の機械達の中の破壊の発明]]
 
|企画
 
|-
 
|[[9月29日]]
 
|[[めいとこねこバス]]
 
|原作<br />脚本<br />監督<br />トトロ役
 
|-
 
|
 
|[[空想の空飛ぶ機械達]]
 
|原作<br />脚本<br />監督<br />ナレーション
 
|-
 
|rowspan="3"|[[2006年]]
 
|rowspan="3"|1月3日
 
|[[水グモもんもん]]
 
|rowspan="2"|原作<br />脚本<br />監督
 
|-
 
|[[やどさがし]]
 
|-
 
|[[星をかった日]]
 
|脚本<br />監督
 
|-
 
|rowspan="2"|[[2010年]]
 
|1月3日
 
|[[ちゅうずもう]]
 
|企画<br />脚本
 
|-
 
|[[11月20日]]
 
|[[パン種とタマゴ姫]]
 
|原作<br />脚本<br />監督
 
|-
 
|[[2011年]]
 
|[[6月4日]]
 
|[[たからさがし]]
 
|企画<br />構成
 
|-
 
|[[2018年]]
 
|[[3月21日]]
 
|[[毛虫のボロ]]
 
|原作<br />脚本<br />監督
 
|}
 
 
 
=== テレビ ===
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:smaller;"
 
|-
 
!colspan="2"|期間!!番組名!!制作(放送局)!!役職!!放送タイトル
 
|-
 
![[1964年]][[6月7日]]!![[1965年]][[8月31日]]
 
|[[少年忍者風のフジ丸]]||rowspan="3"|[[テレビ朝日|NETテレビ]]<br />[[東映アニメーション]]||rowspan="3"|原画(手伝い)||rowspan="3"|
 
|-
 
![[1966年]][[4月23日]]!![[1967年]][[3月24日]]
 
|[[レインボー戦隊ロビン]]
 
|-
 
![[1969年]][[1月6日]]!![[1970年]][[10月26日]]
 
|[[ひみつのアッコちゃん]]
 
|-
 
!1969年[[10月5日]]!!1970年[[12月27日]]
 
|[[ムーミン]]||[[フジテレビジョン|フジテレビ]]<br />[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹]]<br />[[シンエイ動画]]<br />[[トムス・エンタテインメント]]||原画||第23話「チビのミー大作戦」
 
|-
 
!rowspan="2"|[[1971年]][[10月24日]]!!rowspan="2"|[[1972年]][[3月26日]]
 
|rowspan="2"|[[ルパン三世 (TV第1シリーズ)|ルパン三世]]||rowspan="2"|[[讀賣テレビ放送|よみうりテレビ]]<br />トムス・エンタテインメント||演出([[高畑勲]]と共同)||第4話以降
 
|-
 
|原画||第9話「殺し屋はブルースを歌う」<br />第14話「エメラルドの秘密」<br />第15話「ルパンを捕まえてヨーロッパへ行こう」<br />第16話「宝石横取り作戦」<br />第17話「罠にかかったルパン」<br />第18話「美人コンテストをマークせよ」<br />第19話「どっちが勝つか三代目」<br />第21話「ジャジャ馬娘を助けだせ!」<br />第23話「黄金の大勝負!」
 
|-
 
!1972年[[4月5日]]!![[1973年]][[3月28日]]
 
|[[赤胴鈴之助]]||フジテレビ<br />トムス・エンタテインメント||絵コンテ||第26話「やったぞ!赤胴真空斬り」<br />第27話「大暴れ!真空斬り」<br />第41話「キリシタンの秘宝」
 
|-
 
!1973年[[3月2日]]!!1973年[[9月28日]]
 
|[[ジャングル黒べえ]]||[[MBSテレビ|毎日放送]]<br />トムス・エンタテインメント||キャラクター原案||全話
 
|-
 
!1973年[[10月7日]]!![[1974年]][[9月29日]]
 
|[[侍ジャイアンツ]]||よみうりテレビ<br />トムス・エンタテインメント||原画||第1話「ほえろ!バンババン」
 
|-
 
!1974年[[1月6日]]!!1974年[[12月29日]]
 
|[[アルプスの少女ハイジ (アニメ)|アルプスの少女ハイジ]]||フジテレビ<br />[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹]]||場面設定<br />画面構成||全話
 
|-
 
![[1975年]][[1月5日]]!!1975年[[12月28日]]
 
|[[フランダースの犬 (アニメ)|フランダースの犬]]||フジテレビ<br />[[瑞鷹 (アニメ制作会社)|瑞鷹]]<br />[[日本アニメーション]]||原画||第15話「古い帳簿」
 
|-
 
!rowspan="2"|[[1976年]][[1月4日]]!!rowspan="2"|1976年[[12月26日]]
 
|rowspan="2"|[[母をたずねて三千里]]||rowspan="3"|フジテレビ<br />日本アニメーション||場面設定<br />レイアウト||全話
 
|-
 
|rowspan="2"|原画||第2話「ジェノバの少年マルコ」
 
|-
 
![[1977年]][[1月2日]]!!1977年[[12月25日]]
 
|[[あらいぐまラスカル]]||第4話「ミルウォーキーのお月さま」<br />第5話「オスカーへの贈り物」<br />第6話「さようならスカンクたち」<br />第10話「はじめての探検」<br />第12話「本と1セント銅貨」<br />第13話「夏休みの第一日」<br />第14話「母のない子」<br />第15話「アリスと友達になれたらなあ」<br />第16話「楽しいパーティの夜」<br />第17話「ラスカルの冒険」<br />第18話「森で会った不思議な青年」<br />第19話「ラスカルとトウモロコシ」<br />第20話「スターリングの悲しみ」<br />第21話「あぶないラスカル」<br />第22話「森と湖と動物たち」<br />第24話「走れ走れぼくらのカヌー」<br />第25話「森で見つけた仔鹿」<br />第26話「森と湖の夏まつり」<br />第28話「檻の中」
 
|-
 
!1977年[[10月3日]]!![[1980年]][[10月6日]]
 
|[[ルパン三世 (TV第2シリーズ)|ルパン三世]]||日本テレビ<br />トムス・エンタテインメント||脚本<br />絵コンテ<br />演出||第145話「[[死の翼アルバトロス]]」<br />第155話「[[さらば愛しきルパンよ]]」
 
|-
 
!rowspan="2"|[[1978年]][[4月4日]]!!rowspan="2"|1978年[[10月31日]]
 
|rowspan="2"|[[未来少年コナン]]||rowspan="2"|[[日本放送協会|NHK]]<br />日本アニメーション||キャラクターデザイン<br />メカニックデザイン<br />場面設定<br />演出<br />監督||全話
 
|-
 
|絵コンテ||第1話「のこされ島」<br />第2話「旅立ち」<br />第3話「はじめての仲間」<br />第4話「バラクーダ号」<br />第8話「逃亡」<br />第15話「荒地」<br />第16話「二人の小屋」<br />第17話「戦闘」<br />第18話「ガンボート」<br />第19話「大津波」<br />第22話「救出」<br />第23話「太陽塔」<br />第24話「ギガント」<br />第25話「インダストリアの最期」<br />第26話「大団円」
 
|-
 
![[1979年]][[1月7日]]!!1979年[[12月30日]]
 
|[[赤毛のアン (アニメ)|赤毛のアン]]||フジテレビ<br />日本アニメーション||場面設定<br />画面構成||第1話「マシュウ・カスバート驚く」<br />第2話「マリラ・カスバート驚く」<br />第3話「グリーン・ゲイブルズの朝」<br />第4話「アン・生立ちを語る」<br />第5話「マリラ決心する」<br />第6話「グリーン・ゲイブルズのアン」<br />第7話「レイチェル夫人恐れをなす」<br />第8話「アン日曜学校へ行く」<br />第9話「おごそかな誓い」<br />第10話「アン・心の友と遊ぶ」<br />第11話「マリラ・ブローチをなくす」<br />第12話「アン・告白をする」<br />第13話「アン・学校へ行く」<br />第14話「教室騒動」<br />第15話「秋の訪れ」
 
|-
 
!1980年[[10月3日]]!![[1981年]][[9月25日]]
 
|[[太陽の使者 鉄人28号]]||日本テレビ<br />トムス・エンタテインメント||原画(Aパート担当)||第8話「恐怖の殺人合体ロボ」
 
|-
 
!rowspan="3"|[[1984年]][[11月6日]]!!rowspan="3"|[[1985年]][[5月20日]]
 
|rowspan="3"|[[名探偵ホームズ]]||rowspan="3"|テレビ朝日<br />トムス・エンタテインメント<br />[[RAI]]<br />[[REVER]]||脚本||第3話「小さなマーサの大事件!?」
 
|-
 
|絵コンテ<br />演出||第3話「小さなマーサの大事件!?」<br />第4話「ミセス・ハドソン人質事件」<br />第5話「青い紅玉」<br />第9話「海底の財宝」<br />第10話「[[ドーバー海峡]]の大空中戦!」
 
|-
 
|監督||第3話「小さなマーサの大事件!?」<br />第5話「青い紅玉」<br />第9話「海底の財宝」<br />第11話「ねらわれた巨大貯金箱」
 
|-
 
|}
 
 
 
=== 実写作品 ===
 
*[[2002年]] オーニソプター物語〜飛べ!ひよどり天狗号(出演)
 
*[[2012年]] [[巨神兵東京に現わる]](巨神兵)
 
*[[2013年]] [[夢と狂気の王国]](出演)
 
 
 
== その他の作品 ==
 
=== 漫画・絵物語・イメージボードなど ===
 
*[[長靴猫シリーズ|長靴をはいた猫]]
 
*砂漠の民(秋津三朗名義)
 
*[[どうぶつ宝島]] ※以上は初期作品
 
*妹へ(「宮崎駿・大塚康生の世界」に収む)
 
*[[風の谷のナウシカ]](全7巻)、※第23回[[日本漫画家協会賞]]・大賞作品
 
*[[シュナの旅]] 徳間書店[[アニメージュ]]文庫(原話は、[[君島久子]]の書いた[[チベット]]の民話「[[犬になった王子]]」、[[岩波書店]])
 
*駆けろ二馬力 風より疾く(『[[NAVI]]』1989年12月号、『[[CAR GRAPHIC]]』2010年8月号、各[[二玄社]])
 
*空中でお食事(日本航空のJALWINDS、1994年6月号に収む)
 
*風の谷のナウシカ-宮崎駿水彩画集 徳間書店
 
*もののけ姫 徳間書店
 
*飛行艇時代 「紅の豚」原作 (大日本絵画 1992年、増補改訂版2004年)
 
*[[宮崎駿の雑想ノート]] (大日本絵画 1992年、増補改訂版1997年)
 
**知られざる巨人の末弟
 
**甲鉄の意気地
 
**多砲塔の出番
 
**農夫の眼
 
**竜の甲鉄
 
**九州上空の重轟炸機
 
**高射砲塔
 
**Q.ship
 
**特設空母安松丸物語
 
**ロンドン上空1918年
 
**最貧前線
 
**飛行艇時代
 
**豚の虎
 
*宮崎駿の妄想ノート(大日本絵画 2002年8月)
 
**ハンスの帰還
 
**泥まみれの虎
 
*『[[ブラッカムの爆撃機]]』 [[ロバート・ウェストール]]・作、宮崎駿・編、[[金原瑞人]]訳(児童書、[[岩波書店]]、[[2006年]])
 
**「ブラッカムの爆撃機」「チャス・マッギルの幽霊」「ぼくを作ったもの」の3編を収録に加え、宮崎の描き下ろしで「ウェストール幻想 タインマスへの旅 前・後編」(コマ漫画、カラー24頁分)を併収。
 
*『水深五尋』 ロバート・ウェストール・作、金原瑞人・[[野沢佳織]]訳(岩波書店、[[2009年]]3月)
 
**続篇、チャス・マッギルのもう1つの物語
 
*風立ちぬ 宮崎駿の妄想カムバック(大日本絵画、2015年11月)、『[[モデルグラフィックス]]』に連載
 
 
 
=== デザインワーク ===
 
*TVCM『[[日立マクセル]]・ニューゴールド・ビデオテープ』の「'''ワンダーシップ号'''」
 
*TVCM『日立パソコンH2』の「'''ポシェット竜'''」
 
*実写映画『赤いカラスと幽霊船』の幽霊船
 
*[[日本テレビ放送網]]のシンボルキャラクター「'''なんだろう'''」(TVCMのアニメでは演出も担当)
 
*[[神奈川県]]「[[第53回国民体育大会|かながわ・ゆめ国体]]」のマスコットキャラクター「'''かなべえ'''」
 
*[[三鷹の森ジブリ美術館]]
 
** 「[[幽霊塔]]へようこそ展 通俗文化の王道」 展示漫画描き下ろし<ref>{{cite web|url=http://eiga.com/news/20150405/8/|title=宮崎駿が紐解く江戸川乱歩の世界 新企画「幽霊塔へようこそ展」5月から開催|publisher=映画.com|date=2015-04-05|accessdate=2015-04-08}}</ref>
 
*[[三鷹市]]のみたかモールのマスコットキャラクター「'''POKI'''」
 
*[[江戸東京たてもの園]]のシンボルキャラクター「'''えどまる'''」
 
*[[読売新聞]]のシンボルキャラクター「'''どれどれ'''」
 
*[[中日ドラゴンズ]]公式ファンクラブのマスコットキャラクター「'''ガブリ'''」
 
**[[1991年]]、映画宣伝用に自主的に作ったキャラクターを、球団創設70年にあたる[[2006年]]、ファンクラブ設立にあたり起用したもの。熱心な中日ファンとして知られるスタジオジブリプロデューサー・[[鈴木敏夫]]の橋渡しによって採用されることとなった。
 
*[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]社屋外壁([[マイスタジオ]]上)の大からくり時計「'''日テレ大時計'''」
 
*広島県福山市鞆町の[[坂本龍馬]]のゆかりの宿「'''御舟宿いろは'''」
 
*[[小金井市]]のイメージキャラクター「'''こきんちゃん'''」
 
*[[日本アニメ(ーター)見本市]]のロゴ(題字)
 
 
 
=== 作詞 ===
 
*『[[君をのせて (井上あずみの曲)|君をのせて]]』(『天空の城ラピュタ』主題歌)
 
*『[[となりのトトロ (曲)|となりのトトロ]]』(『となりのトトロ』主題歌)
 
*『風のとおり道』(『となりのトトロ』挿入歌)
 
*『[[カントリー・ロード (本名陽子の曲)|カントリー・ロード]]』(『耳をすませば』主題歌)※補作
 
*『バロンのうた』(『耳をすませば』イメージアルバム より)
 
*『[[もののけ姫 (曲)|もののけ姫]]』 (『もののけ姫』 主題歌)
 
*『タタラ踏む女達』 (『もののけ姫』 挿入歌)
 
*『千と千尋の神隠し』イメージアルバム
 
**『神々さま』
 
**『[[油屋 (千と千尋の神隠し)|油屋]]』
 
**『さみしい さみしい』
 
**『[[白い竜]]』
 
*『崖の上のポニョ』イメージアルバム
 
**『[[崖の上のポニョ (曲)|崖の上のポニョ]]』(『崖の上のポニョ』主題歌)※補作詞
 
**『いもうと達』
 
**『ポニョの子守唄』
 
**『ひまわりの家の輪舞曲』
 
*『お母さんの写真』(CMソング)
 
 
 
=== 著書(対談・インタビュー・共著も含む) ===
 
*『トトロの住む家』 (画文集/写真和田久士) [[朝日新聞社]](1991年)/増補改訂版 [[岩波書店]](2011年1月)
 
*『時には昔の話を』([[加藤登紀子]]との共著、絵本、対談) 徳間書店(1992年)
 
*『時代の風音』([[司馬遼太郎]]、[[堀田善衛]]との鼎談) UPU(1992年)。 [[朝日文庫|朝日文芸文庫]](1997年)
 
*『何が映画か―「[[七人の侍]]」と「[[まあだだよ]]」をめぐって』([[黒澤明]]との対談集) [[スタジオジブリ]](1993年)
 
*『巨樹を見に行く―千年の生命との出会い』(共著) 講談社カルチャーブックス(1994年)
 
*『出発点 1979〜1996』(エッセイ・発言集) 徳間書店(1996年)
 
*『教育について』(共著、インタビュー集) 旬報社(1998年)
 
*『虫眼とアニ眼』([[養老孟司]]との対談) スタジオジブリ(2002年)。[[新潮文庫]](2008年2月)
 
*『風の帰る場所―ナウシカから千尋までの軌跡』([[渋谷陽一]]によるインタビュー集)ロッキング・オン(2002年)。文春ジブリ文庫(2013年11月)
 
*『折り返し点 1997〜2008』(エッセイ・発言集) 岩波書店(2008年)
 
*『本へのとびら―岩波少年文庫を語る』(お薦め本50冊の紹介) [[岩波新書]]カラー版(2011年10月)
 
*『腰ぬけ愛国談義』([[半藤一利]]との対談)、文春ジブリ文庫 (2013年8月)
 
*『続・風の帰る場所―映画監督・宮崎駿はいかに始まり、いかに幕を引いたのか』([[渋谷陽一]]によるインタビュー集)ロッキング・オン(2013年)
 
 
 
=== 表紙イラスト ===
 
*『チェスタトンの1984年/新ナポレオン奇譚』([[ギルバート・ケイス・チェスタートン|ギルバート・チェスタトン]])、[[春秋社]](1984年)
 
*『惑星カレスの魔女』([[ジェイムズ・ヘンリー・シュミッツ]])、[[新潮文庫]](1987年)、[[創元推理文庫]](1996年)
 
*『[[夜間飛行]]』([[アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ|サン=テグジュペリ]])、新潮文庫 (1993年、改版2012年)※新装カバー
 
*『[[人間の土地]]』(サン=テグジュペリ)、新潮文庫(1998年、改版2012年)※新装カバー
 
*『真夜中の電話』([[ロバート・ウェストール]])、徳間書店(2014年)
 
*『遠い日の呼び声』(ロバート・ウェストール)、徳間書店(2014年)
 
*『[[幽霊塔]]』([[江戸川乱歩]])、岩波書店(2015年)
 
 
 
== 絵コンテ集 ==
 
=== 劇場用アニメーション映画 ===
 
*パンダコパンダ/パンダコパンダ雨降りサーカスの巻 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
 
*ルパン三世カリオストロの城 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
 
*風の谷のナウシカ スタジオジブリ絵コンテ全集1(徳間書店)
 
*天空の城ラピュタ スタジオジブリ絵コンテ全集2(徳間書店)
 
*となりのトトロ スタジオジブリ絵コンテ全集3(徳間書店)
 
*魔女の宅急便 スタジオジブリ絵コンテ全集5(徳間書店)
 
*紅の豚 スタジオジブリ絵コンテ全集7(徳間書店)
 
*耳をすませば スタジオジブリ絵コンテ全集10(徳間書店)
 
*もののけ姫 スタジオジブリ絵コンテ全集11(徳間書店)
 
*千と千尋の神隠し スタジオジブリ絵コンテ全集13(徳間書店)
 
*ハウルの動く城 スタジオジブリ絵コンテ全集14(徳間書店)
 
*崖の上のポニョ スタジオジブリ絵コンテ全集16(徳間書店)
 
*風立ちぬ スタジオジブリ絵コンテ全集19(徳間書店)
 
**これら「絵コンテ全集」の出版とは別に、『風の谷のナウシカ』についてはアニメージュ文庫にて、『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『魔女の宅急便』についてはロマンアルバムにて(いずれも徳間書店)、映画公開から程なくして出版されたものの、いずれも現在は絶版である。
 
 
 
=== テレビアニメーション ===
 
*ルパン三世 死の翼アルバトロス/さらば愛しきルパンよ スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
 
*名探偵ホームズ 小さなマーサの大事件!?/ミセス・ハドソン人質事件/青い紅玉 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
 
*名探偵ホームズ 海底の財宝/ドーバー海峡の大空中戦!/ねらわれた巨大貯金箱 スタジオジブリ絵コンテ全集第II期(徳間書店)
 
 
 
== 幻の作品一覧 ==
 
宮崎駿が関与・企画・構想するも諸般の事情で幻に終わった、もしくは実現していない作品のリスト。なお、いくつかのタイトルは便宜上付けられた仮題である。
 
; サイン・コサイン・シータ
 
: 大学時代の子供向け人形劇用の脚本。舞台は精神病院、少年アルファ何号と、少女シータ何号による物語。上演は実現しなかった<ref>『映画天空のラピュタGUIDEBOOK』徳間書店、1986年、p.79)</ref>。
 
; [[長くつ下のピッピ]]
 
: 1971年頃、[[アストリッド・リンドグレーン]]原作の児童文学作品、宮崎らAプロダクションのスタッフたちはスウェーデンまでロケハンに行ったが原作者から映画化の承諾を得られなかった。そのイメージは後に『[[パンダコパンダ]]』や『[[魔女の宅急便]]』で活かされている。『幻の「長くつ下のピッピ」』がある(岩波書店、2014年10月。高畑勲・小田部羊一共著、宮崎によるイメージとストーリーボードを収録)。
 
; ユキの太陽
 
: [[ちばてつや]]の漫画。パイロットフィルムのみ製作された。(2013年12月から全国のイオンシネマで期間限定で上映)
 
; もののけ姫
 
: 1980年頃、『[[美女と野獣]]』&戦国時代をモチーフとしているが、1997年に映画化された『[[もののけ姫]]』とは題名が共通なだけで、物語もデザインも全く異なる作品である。イメージボードは1993年に[[スタジオジブリ]](後に徳間書店)から大型絵本として出版されている。
 
; ルパンの娘
 
: 1981年頃、アニメ評論家の岡田英美子との対談で語ったもの。主人公であるルパン三世の娘が、頭の弱い不二子の姪とコンビを組む学園物。
 
; ロルフ
 
: 1981年頃、リチャード・コーベン原作のアングラコミック。イメージボードが作成されている。舞台設定やデザインは『[[風の谷のナウシカ]]』の原型とも言える作品。
 
; 戦国魔城
 
: 1981年頃、日本の戦国時代を舞台にしたSFオリジナル作品。イメージボードが作成されている。ここで『ナウシカ』や『ラピュタ』へ繋がる設定が多く生み出された。
 
; [[NEMO/ニモ|NEMO]]
 
: 1981-1982年、[[ウィンザー・マッケイ]]原作の『[[リトル・ニモ]]』の企画に[[テレコム・アニメーションフィルム]]のスタッフとして当初から関わって大量のイメージボードを作成していたが、制作発表前に降板して退社。フリーになっている。映画自体は1989年に公開されている。
 
; 風の谷の一日
 
: 1983年頃、ナウシカの幼年時代を、風の谷の日常を通して描くというもの。徳間書店の「アニメグランプリ」イベント用に宮崎が提案した。
 
; アンカー
 
: 1980年代半ば、[[夢枕獏]]との対談で宮崎が提案した。『ラピュタ』完成後、原作夢枕、脚本宮崎、監督[[押井守]]、プロデューサー[[高畑勲]]で検討されるが、企画段階で中止される。宮崎の構想によると舞台は当時の東京、お姫様のような不思議な女の子が何者かに追われて、偶然に出会った男の子がその子を逃がすためにある場所まで送り届けると、また違う人間が別の場所まで送り届けるという恋愛要素を含んだ冒険ものであるという。しかし、美少女を出そうとする宮崎と、鼻垂れ小僧のような汚い少女を出そうとする押井の間で企画は消滅した<ref>ラジオ「押井守の世界 2008年2月16日」、これは押井の説明であるが、以前から宮崎は美少女ではいけないと語っているので矛盾がある。</ref>。この話は、若き日の[[庵野秀明]]にも製作依頼しているが、「未来少年コナンを実写でやろうとしている」として、庵野も辞退している<ref>岡田斗司夫『遺言』(p.62)</ref>。
 
; 突撃!アイアンポーク
 
: 1985年頃、「[[宮崎駿の雑想ノート]]」から派生したOVA作品の企画で、これも監督に押井守が予定されていた。
 
; 大東京物語
 
: [[ふくやまけいこ]]の漫画。後に現代には合わないと判断している。
 
; [[墨攻]]
 
: 古代中国が舞台の[[酒見賢一]]原作の歴史小説。構想では、敵に包囲された都市を1人の墨者が防衛するというもの。押井守の監督で検討されたが宮崎と話が食い違い、消滅する。
 
; 東京汚穢合戦
 
: 宮崎が1997年、NHK番組『[[トップランナー]]』に出演した時に語ったもの。
 
; ゴチャガチャ通りのリナ
 
: [[柏葉幸子]]原作の児童文学『霧のむこうのふしぎな町』
 
; 煙突描きのリン
 
: 架空の震災後の東京を舞台に、大阪からやってきたリンが風呂屋に住み込み、煙突に絵を描くという話。[[三鷹の森ジブリ美術館]]でそのプロットが見られる。かなり具体的に構想され、約1年間の検討の末にボツとなった。この物語のために作られた[[木村弓]]の『[[いつも何度でも]]』が、後に『[[千と千尋の神隠し]]』の主題歌となり、主人公の「リン」の名は同映画の登場人物に再使用されている。
 
; 毛虫のボロ
 
: 長年宮崎が温めてきた「虫の視点から世界を描く」という企画。長編化困難として『もののけ姫』の前に一旦ボツになったが、ジブリ美術館用の短編として完成した。
 
; [[旅のラゴス]]
 
: [[筒井康隆]]原作のSFファンタジー小説
 
; ジョナサンと宇宙クジラ
 
: [[ロバート・F・ヤング]]のSF小説
 
; 名探偵[[芥川龍之介]]対[[夏目漱石]]
 
: 明治の文豪が出てくる探偵モノ。
 
; ポルコ・ロッソ 最後の出撃
 
: [[紅の豚]]の続編
 
; 宮﨑駿版[[ゲド戦記]]
 
: 宮崎は本作の古くからのファンであり、1980〜90年代に出版社および原作者に対し、二度映画化の打診を行い断られている。その後2000年代に入り宮崎の映画が原作者にも知られることとなり、「もし「ゲド戦記」を映像化するとしたら、OKを出せるのはあの人だけ」と言わしめるが当の宮崎は既に本作に対する当時の情熱を失っており、紆余曲折の末宮崎の息子の吾朗により[[ゲド戦記 (映画)|映画化]]された。
 
 
 
== 受賞歴 ==
 
*[[アカデミー賞]]
 
**[[第75回アカデミー賞|第75回]] [[アカデミー長編アニメ映画賞|長編アニメーション映画賞]]
 
**第87回 [[アカデミー名誉賞]]<ref name="movie">[[宮崎駿#外部リンク|外部リンクに映像]]</ref>
 
*[[ヴェネツィア国際映画祭]]
 
**[[第61回ヴェネツィア国際映画祭|第61回]] 金のオゼッラ賞
 
**[[第62回ヴェネツィア国際映画祭|第62回]] [[栄誉金獅子賞]]
 
*[[第52回ベルリン国際映画祭]] [[金熊賞]]
 
*[[アニー賞]]
 
**第26回 ウィンザー・マッケイ賞(功労賞)
 
**第30回 長編アニメ映画賞 監督賞 脚本賞 音楽賞
 
**第41回 長編アニメ部門脚本賞<ref>2014年2月3日中日新聞朝刊27面</ref><ref name="Annie2013">{{cite news|url=https://www.cinematoday.jp/news/N0060188|title=『風立ちぬ』宮崎駿監督、アニー賞脚本賞を受賞!も…授賞式には誰も現れず|newspaper=シネマトゥデイ|date=2014-02-02|accessdate=2017-10-10}}</ref>
 
*[[日本アカデミー賞]]
 
**[[第21回日本アカデミー賞|第21回]]、[[第25回日本アカデミー賞|第25回]] 最優秀作品賞
 
**[[第32回日本アカデミー賞|第32回]] 最優秀アニメーション作品賞
 
**[[第25回日本アカデミー賞|第25回]] 会長功労賞
 
*[[毎日映画コンクール]]
 
**第43回、第52回、第56回 日本映画大賞
 
**第52回、第56回、第59回 日本映画ファン賞
 
**第34回、第39回、第41回、第43回、第56回、第63回 [[大藤信郎賞]]、
 
**第44回、第47回、第52回、第56回 アニメーション映画賞
 
**第56回 監督賞
 
*第13回、第26回[[報知映画賞]] 監督賞
 
*第7回、第10回、第19回、第26回[[ゴールデングロス賞]] 日本映画部門 マネーメイキング監督賞
 
*[[日刊スポーツ映画大賞]]
 
**第5回、第10回 [[石原裕次郎賞]]
 
**第10回 監督賞
 
**第14回 作品賞
 
*第39回[[芸術選奨]] 芸術作品賞 文部大臣賞
 
*第12回[[山路ふみ子映画賞]]
 
*[[アヌシー国際アニメーション映画祭]]| 長編部門賞
 
*[[アニメーション神戸]]
 
**第2回部門賞 演出部門
 
**第7回部門賞 作品部門
 
*第1回、第5回[[文化庁メディア芸術祭]] アニメーション部門大賞
 
*第68回、第71回[[ニューヨーク]]映画批評家協会 最優秀アニメ賞
 
*[[ボストン]]映画批評家協会 特別賞
 
*第37回[[シッチェス・カタロニア国際映画祭]] 観客賞
 
*第16回[[ザグレブ]]国際アニメーションフェスティバル 功労賞
 
*第9回[[ハリウッド]]映画祭・ベストアニメーション賞
 
*アメリカSFファンタジー作家協会 (SFWA) [[ネビュラ賞]](脚本部門)
 
*第8回ミンモ・ロテッラ財団賞
 
*フューチャー・フィルム・フェスティバル・デジタル・アワード特別表彰
 
*[[東京国際アニメフェア]]2009 第8回東京アニメアワード・アニメーションオブザイヤー・国内劇場部門優秀作品賞・原作賞・監督賞
 
*[[アイズナー賞]] 漫画家の殿堂<ref>[http://www.cinematoday.jp/page/N0065375 「宮崎駿「漫画のアカデミー賞」で殿堂入り!日本人5人目」]シネマトゥデイ(2014年8月)</ref>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
=== 関連書籍 ===
 
*[[高畑勲]]
 
**『映画を作りながら考えたこと』([[徳間書店]]、1991年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2014年)、ISBN 4-16-812203-4
 
**『映画を作りながら考えたことII 1991~1999』([[徳間書店]]、1999年)、ISBN 4-19-861047-9
 
*[[大塚康生]]
 
**『作画汗まみれ』(徳間書店(増補版)、2001年/文春ジブリ文庫(改訂版)、2013年)、ISBN 4-16-812200-X
 
**『リトル・ニモの野望』([[徳間書店]]、2004年)、ISBN 4-19-861890-9
 
*[[大泉実成]]『宮崎駿の原点 母と子の物語』([[潮出版社]]、2002年)、ISBN 4-267-01653-4
 
*[[尾形英夫]]『あの旗を撃て! 「アニメージュ」血風録』([[オークラ出版]]、2004年)、ISBN 4-7755-0480-0
 
*[[鈴木敏夫]]
 
**『映画道楽』([[ぴあ]]、2005年/角川文庫、2012年)、ISBN 4041005663
 
**『仕事道楽 スタジオジブリの現場』([[岩波新書]]、2008年、新版2014年)、ISBN 4004314860
 
**『ジブリの仲間たち』([[新潮新書]]、2016年)、ISBN 4106106744
 
*[[叶精二]]『宮崎駿全書』(フィルムアート社、2006年)、ISBN 4845906872
 
*久美薫『宮崎駿の時代 1941〜2008』([[鳥影社]]、2008年)、ISBN 4862651542
 
 
 
=== 関連DVD ===
 
*『「もののけ姫」はこうして生まれた。』([[ウォルト・ディズニー・スタジオ|ブエナビスタ]]ホームエンターテイメント、2001年)
 
*『[[柳川堀割物語]]』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
 
*『[[ジョン・ラセター|ラセター]]さんありがとう』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2003年)
 
*『世界・わが心の旅(2巻セット)』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
 
*『宮崎駿プロデュースの1枚のCDは、こうして生まれた。』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2004年)
 
*『宮崎駿とジブリ美術館』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2005年)
 
*『ポニョはこうして生まれた。 〜宮崎駿の思考過程〜』(ブエナビスタホームエンターテイメント、2009年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Hayao Miyazaki}}
 
{{ウィキプロジェクト アニメ}}
 
*[[久石譲]]
 
*[[スタジオジブリ]]
 
*[[男鹿和雄]]
 
*[[山本二三]]
 
*[[押井守]]
 
*[[トトロの森]]
 
*[[世界名作劇場]]
 
*[[東京ムービー]]
 
*[[「の」の法則]]
 
*[[宇都宮空襲]]
 
<!--[[WP:ALSO]] 「わずかでも関連のありそうな事柄を手当たり次第に列挙するものではありません。」-->
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{jmdb name|0081660}}
 
* {{allcinema name|128132}}
 
* {{kinejun name|91156}}
 
* {{imdb name|id=0594503|name=Hayao Miyazaki}}
 
* [http://movie.walkerplus.com/person/86034/ 宮崎駿 Movie Walker]
 
* [[ジョン・ラセター]]:{{YouTube|93-gRTUrHa8|プレゼンター映像(宮﨑駿 アカデミー名誉賞)}}([[鈴木敏夫]])
 
* {{YouTube|9ZIG14mxB9w|宮﨑駿 アカデミー名誉賞}} 受賞スピーチ映像
 
* [http://www.ghibli.jp/ スタジオジブリ]
 
 
 
{{Start box}}
 
{{S-bus}}
 
{{Succession box
 
|title = [[二馬力|二馬力社長]]
 
|years = [[1984年]] -
 
|before = (新設)
 
|after = (現職)
 
}}
 
{{S-culture}}
 
{{Succession box
 
|title = [[徳間記念アニメーション文化財団|徳間記念アニメーション文化財団理事長]]
 
|years = [[2011年]] -
 
|before = [[氏家齊一郎]]
 
|after = (現職)
 
}}
 
{{Succession box
 
|title = [[三鷹市立アニメーション美術館|三鷹市立アニメーション美術館館主]]
 
|years = [[2001年]] -
 
|before = (新設)
 
|after = (現職)
 
}}
 
{{End box}}
 
{{宮崎駿}}
 
{{スタジオジブリ}}
 
{{Fantasy fiction}}
 
{{毎日映画コンクール監督賞}}
 
{{日刊スポーツ映画大賞監督賞}}
 
{{毎日芸術賞}}
 
{{アカデミー名誉賞}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{DEFAULTSORT:みやさき はやお}}
 
{{DEFAULTSORT:みやさき はやお}}
922行目: 13行目:
 
[[Category:日本の脚本家]]
 
[[Category:日本の脚本家]]
 
[[Category:日本の漫画家]]
 
[[Category:日本の漫画家]]
[[Category:日本の作詞家]]
 
[[Category:日本の実業家]]
 
 
[[Category:日本のアニメーション監督]]
 
[[Category:日本のアニメーション監督]]
[[Category:SF漫画家]]
 
[[Category:キャラクターデザイナー]]
 
[[Category:アニメ音楽の作詞家]]
 
 
[[Category:日本の映画プロデューサー]]
 
[[Category:日本の映画プロデューサー]]
[[Category:東映アニメーションの人物]]
 
[[Category:シンエイ動画の人物]]
 
[[Category:日本アニメーションの人物]]
 
 
[[Category:スタジオジブリの人物]]
 
[[Category:スタジオジブリの人物]]
[[Category:徳間記念アニメーション文化財団の人物]]
 
 
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
 
[[Category:アカデミー賞受賞者]]
 
[[Category:アニー賞受賞者]]
 
[[Category:アニー賞受賞者]]
939行目: 21行目:
 
[[Category:朝日賞受賞者]]
 
[[Category:朝日賞受賞者]]
 
[[Category:文化功労者]]
 
[[Category:文化功労者]]
[[Category:日本の反原発活動家]]
 
 
[[Category:学習院大学出身の人物]]
 
[[Category:学習院大学出身の人物]]
 
[[Category:東京都区部出身の人物]]
 
[[Category:東京都区部出身の人物]]
 
[[Category:1941年生]]
 
[[Category:1941年生]]
 
[[Category:存命人物]]
 
[[Category:存命人物]]

2018/9/29/ (土) 23:24時点における版

宮﨑 駿(みやざき はやお、1941年1月5日 - )

アニメーション作家,映画監督,プロデューサー。1963年学習院大学政治経済学部を卒業。同 1963年東映動画に入社,1971年に退社し,Aプロ,ズイヨー映像を経て 1979年東京ムービー新社に移る。その間,テレビ用アニメーションの演出などを手がけ,1978年から日本放送協会 NHK初の国産アニメーション『未来少年コナン』(全 26話)の演出を担当した。東京ムービー新社で劇場用アニメーションの監督第一作『ルパン三世 カリオストロの城』(1979)を制作。1982年フリーランサーとなり,徳間書店のアニメーション雑誌にまんが『風の谷のナウシカ』を連載開始,1984年に同作品が劇場用アニメーションとして制作・公開されて大ヒットし,名声を確立した。1985年に東映動画時代からの同志高畑勲とともにスタジオジブリを設立。以後,『天空の城ラピュタ』(1986),『となりのトトロ』(1988。1989芸術選奨文部大臣賞),『魔女の宅急便』(1989),『紅の豚』(1992),『もののけ姫』(1997),『千と千尋の神隠し』(2001),『崖の上のポニョ』(2008)など次々とヒット作を制作した。『千と千尋の神隠し』は 2002年にベルリン国際映画祭最高賞の金熊賞,2003年にアカデミー賞長編アニメーション賞を受賞した。2005年日本人として初めてベネチア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞した。2001年に東京都三鷹市に三鷹の森ジブリ美術館を開館し,初代館主に就任。2001年フランス国家功労勲章を受章,2012年文化功労者に選ばれた。


{{テンプレート:20180815sk}}