「寡頭制」の版間の差分

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{{統治体制}}
 
'''寡頭制'''または'''寡頭政'''(かとうせい、{{lang-el-short| ὀλῐγ-αρχία}})は、全部または大半の[[権力|政治権力]]を、特定の少数の人々が握っている[[政体]]。少数者支配の体制であり、対比語は[[ポリアーキー|多頭制]](多数支配)である。寡頭制は[[君主制]]や[[独裁政治|独裁制]]のほか[[共和制]]や[[民主主義|民主制]]でも存在する。なお権力者が2名の場合は[[二頭政治]]、3名の場合は[[三頭政治]]、4名の場合は[[テトラルキア]]ともいう。
 
  
== 語源 ==
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'''寡頭制'''または'''寡頭政'''(かとうせい、{{lang-el-short| ὀλῐγ-αρχία}})
権力を握っている少数の人々は財産、家系、軍事力、冷酷さ、あるいは政治的影響力の面で優越していることが多い。
 
  
「oligarchy(寡頭制)」という言葉はもともと[[ギリシア語]]で、「oligo(少数)」と「arkhos(支配)」から成る。
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一人の人間が支配する君主制や多数の人間が支配する民主制に対して,少数の人間が支配する政治形態をさす。古典古代の政治思想では貴族制の逸脱形態をさしていた。 [[R.ミヘルス]]は『政党社会学』 (1911) で,いかなる民主的組織であれ大規模化するにつれて必然的に少数支配へと変質することをドイツやイタリアの社会民主党の分析から明らかにした。これを「寡頭支配の鉄則」という。ミへルスによれば現代の寡頭制は組織の効率的経営や大衆の政治的無関心から合理化される。彼の議論はその後の[[エリート理論]]の基礎とされた。
 
 
寡頭制は支配者の数に関係した概念で、統治形態の如何には関係しておらず、[[政治学]]者や[[社会学]]者の中には、すべての政権は(その政体が[[独裁政治|独裁制]]であれ[[民主主義|民主制]]であれ)不可避的に寡頭制となると主張している者もいる。
 
 
 
少数の力のある家系が政権を支配し、その子供たちが政権の後継者になるよう育てられ訓練される、ということが寡頭制ではよく見られる。[[貴族制]](語源的には「最上の者による支配」)とは異なり、こうした権力は公開的には行使されず、支配者は「影の権力」にとどまることを好み、経済的手段で支配を行う。[[アリストテレス]]はこの用語を、「豊かな者による支配」と同義語として使用したが、寡頭制は富裕な者の支配による必要はなく、単に特権を持った集団による支配であればよい(正確には、豊かな者による支配は、「[[金権政治]] (plutocracy)」の用語が使用される)。
 
 
 
== 寡頭制の発生 ==
 
寡頭制による国家制度は、[[王政ローマ]]や[[共和政ローマ]]における[[元老院 (ローマ)|元老院]]が有名である。
 
 
 
互いに戦う部族の族長たちが次第に連合を組むことで、社会は自然と寡頭制的になってゆく。またあらゆる政体の政府はその成長の過程で寡頭制に変化してゆくことがある。もっともありうる寡頭制への変化のメカニズムは、外部からのチェックを受けない経済的な力が次第に集積してゆくことによるものだろう。[[ポリュビオス]]ほか多くの[[古代ギリシア|ギリシア]]の思想家は、貴族制が堕落することで寡頭制になると考えていた。寡頭制は、少数支配する家系のうちの一家が他の家族に対して優越的な力をもつ結果、より古典的な権威主義的政体へと変化してゆくこともある。[[ヨーロッパ]]の[[中世後期]]に成立した君主の多くはこのように成立した。
 
 
 
「[[黄金の自由]]」と呼ばれる貴族共和制が成立した[[ポーランド・リトアニア共和国]]は、貴族のみが[[国王自由選挙|国王選挙]]などの政治に関与できる寡頭制でもあったが、貴族の数は総人口の1割にも達した。[[フィレンツェ共和国]]のような中世の都市では市民による共和制が成り立っていたが、その中から有力な家族による寡頭政治が発生し、やがて[[メディチ家]]の支配が確立するに至った。
 
 
 
寡頭制は時には、君主や独裁者に対して社会の他の階層が、門戸を開いて権力を分け与えるように主張して、過渡期的に成立することにより、変化の手段になることもある。この例の一つは、[[1215年]]に[[イングランド王国|イングランド]]の貴族ら名家が結集して、権力譲渡に気の進まない国王[[ジョン (イングランド王)|ジョン]]に[[マグナ・カルタ]](大憲章)への署名を強い、ジョン王の政治力の衰退と初期の寡頭制の存在を暗黙のうちに了解させたことである。イングランド社会の成長に伴い、マグナ・カルタは1216年、1217年、1225年と何度も改正され、より多くの人々により大きな権利を認めさせ、イングランドの[[立憲君主制]]への変化を用意した。
 
 
 
== 近代の寡頭制 ==
 
[[20世紀]]には、[[アジア]]、[[ラテン・アメリカ]]をはじめとした世界中の多くの国では、政治家の一家や親族による[[縁故主義]]や、権力は世襲されないが特定の政党だけが主権を持ち、政治家が国民によって選出されない寡頭共和制(例:[[ソビエト連邦]]や[[中華人民共和国]]などの[[社会主義国]]、[[中国国民党|国民党]]一党独裁下の[[台湾]]や[[シンガポール]]などの「[[開発独裁]]」型国家)が見られる。また、縁故主義や寡頭共和制のあるなしに関係なく、官僚や軍部、大資本家も含めた限られたエリート達による支配も寡頭制といえる。
 
 
 
[[20世紀]]の[[南アフリカ共和国]]にも、近代における寡頭制の一種が見られる。南アフリカの寡頭制は[[人種]]に基づいていた。第2次[[ボーア戦争]]のあと、[[イギリス人]]と[[アフリカーンス語]]を話す[[ボーア人]]という2種類の[[白人]]は暗黙の同意に達した。彼らは合わせて総人口の20%を占める程度だったが、少数派ながら教育や交易の機会のほとんどを占有し、多数派の[[黒人]]にはこれらを認めないようになった。こうした人種隔離は18世紀半ばからあったが、[[1948年]]には公式な政府の政策となって「[[アパルトヘイト]]」として知られるようになり、[[1994年]]まで続いた。
 
 
 
なお、名目上は民主的共和制であっても、選挙制度や法制度、不正選挙等の要因により実質的には寡頭制の性格を帯びることもある。全国民に投票権がありながらも、特定の者への投票を事実上強制されるなど不正選挙が横行している国や、選挙制度が極端に歪んだ国などは、事実上の寡頭共和制といえる。
 
 
 
== 政党制と寡頭制 ==
 
{{main|寡頭制の鉄則}}
 
[[ヴィルフレド・パレート]]、[[ガエターノ・モスカ]]、[[ロベルト・ミヒェルス]]といった学者は、'''すべての政治体制は寡頭制に変化する'''としている(ミヒェルスは[[政党制]]の批判的研究を通じ「[[寡頭制の鉄則]]」を提唱した)。これらの考えによれば、近代的民主制は選挙で選ばれた寡頭制と見るべきである。この制度のもとで登場する政治的ライバル同士の差は実際的にはほとんど小さく、受け入れやすく立派であるとされる政治的意見を構成する基本的なアイデアは、党上層部などの寡頭的支配者によって厳しい制約が課せられる。さらに、政治家の経歴は、選挙で選ばれない経済界やマスメディアのエリートが決定することになるのである。
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[縁故資本主義]] (Crony capitalism)
 
* [[寡占]]
 
* [[独裁制]]
 
* [[一党独裁制]]
 
* [[一党優位政党制]]
 
* [[党の指導性]]
 
* [[ソ連型社会主義]]
 
* [[貴族制]]
 
* [[間接民主制]]
 
* [[ポリアーキー]](多数支配)
 
* [[メリトクラシー]]
 
* [[神政政治]]
 
* [[ロシアの新興財閥]](オリガルヒ)
 
* [[最高会議幹部会議長]]
 
* [[老中]]
 
* [[八大元老]]
 
 
 
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2018/12/29/ (土) 19:42時点における最新版

寡頭制または寡頭政(かとうせい、: ὀλῐγ-αρχία

一人の人間が支配する君主制や多数の人間が支配する民主制に対して,少数の人間が支配する政治形態をさす。古典古代の政治思想では貴族制の逸脱形態をさしていた。 R.ミヘルスは『政党社会学』 (1911) で,いかなる民主的組織であれ大規模化するにつれて必然的に少数支配へと変質することをドイツやイタリアの社会民主党の分析から明らかにした。これを「寡頭支配の鉄則」という。ミへルスによれば現代の寡頭制は組織の効率的経営や大衆の政治的無関心から合理化される。彼の議論はその後のエリート理論の基礎とされた。



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