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|島名 = 対馬
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'''対馬'''(つしま)は、[[日本]]の[[九州]]の北方の[[玄界灘]]にある、[[長崎県]]に属する[[島]]である。面積は日本第10位である<ref name="rika">[[国立天文台]]編『平成19年 [[理科年表]]』p.565 ISBN 4621077635</ref>。島内人口は3万1105人である(2018年4月現在)。
+
'''対馬'''(つしま)
 
 
== 概説 ==
 
[[ファイル:The Famous Scenes of the Sixty States 69 Tsushima.jpg|thumb|220px|[[歌川広重]]『[[六十余州名所図会]] 対馬 海岸 夕晴』/[[安政]]2年([[1856年]])の作。<!--※判る方は描き込まれている要素について解説をお願いします。該当項目ですから、それに相応しくある程度詳しい記述があってよいかと思います。-->]]
 
主島は'''対馬島'''(つしまじま、つしまとう)で、このほか属島として6つの有人島([[海栗島]]、泊島、赤島、沖ノ島、島山島)と102の無人島がある<ref>[https://www.pref.nagasaki.jp/shared/uploads/2013/09/1378117552.pdf 長崎県離島振興計画] 長崎県、2018年7月22日閲覧。</ref>。この対馬島と属島をまとめて「対馬列島」「対馬諸島」とすることがある。古くは[[対馬国]](つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『[[日本書紀]]』において、対馬島(つしま。3文字合わせてこう読むのが書紀古訓での伝統)と記述されていた。旧字体では對馬。
 
 
 
地理的に[[朝鮮半島]]に近いため、古くから[[ユーラシア大陸]]と[[日本列島]]の文物が往来し、日本にとっては大陸との[[文化]]的・[[経済]]的交流の窓口の役割を果たしてきた。現在は[[大韓民国]]からの観光客が増加しており、島内の至る所に[[ハングル]]が併記された標識や案内を見ることができる。日本の海釣りの名所として知られている。
 
 
 
対[[ロシア帝国]]、対[[ソビエト連邦]]の防衛上の重要拠点であり、冷戦時代はソ連軍の軍用機や潜水艦が頻繁に出没していた。
 
 
 
地政学的には[[チョークポイント]]にあたるところから、古代より国境の島として国防上重視され、[[明治]]時代から、[[大日本帝国陸軍]]は[[対馬警備隊 (日本軍)|対馬警備隊]]・[[対馬要塞]]を置き、戦後は[[1956年]]より[[航空自衛隊]]の[[海栗島#海栗島分屯基地|海栗島分屯基地]]が設けられ、[[1961年]]より[[陸上自衛隊]]の[[対馬駐屯地]]も置かれ、[[対馬警備隊 (陸上自衛隊)|対馬警備隊]]へと発展している。また、明治時代には[[大日本帝国海軍]]の施設が置かれたこともあり、現在は[[海上自衛隊]]の[[対馬防備隊]]も所在している。
 
 
 
== 地理概況 ==
 
[[ファイル:Tsushima-sat.jpg|right|thumb|対馬の位置と衛星画像]]
 
[[ファイル:BusanKorea2TsushimaJapan20100515.JPG|right|thumb|釜山の冬柏から望む対馬]]
 
[[日本海]]の西の入り口に位置する対馬島は、[[九州]]本土より[[玄界灘]]と[[対馬海峡]]東水道(狭義の対馬海峡)をはさんで約132キロメートル、[[朝鮮半島]]へは対馬海峡西水道([[朝鮮海峡]])をはさんで約49.5キロメートルの[[距離]]にある。形状は、南北に82キロメートル、東西に18キロメートルと細長く、[[面積]]は約700km<sup>2</sup>で、日本の[[島]]では第10位の広さである。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center"
 
! !! 島名 !! 面積(km<sup>2</sup>)
 
|-
 
!1
 
| [[本州]] || 22万7963
 
|-
 
! 2
 
| [[北海道]] || {{0}}7万7984
 
|-
 
! 3
 
| [[九州]] || {{0}}3万6738
 
|-
 
! 4
 
| [[四国]] || {{0}}1万8299
 
|-
 
! 5
 
| [[択捉島]] || {{0|00万}}3183
 
|-
 
! 6
 
| [[国後島]] || {{0|00万}}1499
 
|-
 
! 7
 
| [[沖縄本島|沖縄島]] || {{0|00万}}1207
 
|-
 
! 8
 
| [[佐渡島]] || {{0|00万0}}854
 
|-
 
! 9
 
| [[奄美大島]] || {{0|00万0}}712
 
|-
 
! 10
 
| '''対馬''' || {{0|00万0}}696
 
|-
 
! 11
 
| [[淡路島]] || {{0|00万0}}592
 
|-
 
! 12
 
| [[天草下島]] || {{0|00万0}}574
 
|}
 
対馬全島の人口は、1960年の6万9556人をピークとして減少し、1980年には5万0810人、2016年には3万1963人まで減少した。世帯数は1万5166世帯で、1980年からあまり減少していない。島に若者が働ける仕事先が少なく核家族化と高齢化が進んでいる。
 
 
 
行政は長崎県に属しているが、人びとの日常生活のうえでは航空機やフェリーの直行便数が多い[[福岡県]]との結びつきが深い<ref name=minryoku>『民力 2004』p.159</ref>。
 
 
 
対馬は、南北に細長い形状の対馬島と、100を超える小島から形成される。主島の面積は696.29km<sup>2</sup>であり<ref name=rika/>、すべての島を合わせた面積は、708.61km<sup>2</sup>である。有人島は、主島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島、[[海栗島]]の6島である。このうち海栗島を除く5島は橋梁または埋め立てにより結ばれている。
 
 
 
=== 地形・地勢 ===
 
[[画像:Aso-bay.jpg|thumb|right|烏帽子岳から望む[[浅茅湾]]]]
 
[[ファイル:Asou-Bay ria coast aerial photograph.JPG|right|thumb|浅茅湾、大千切島付近の空中写真。(1977年撮影)<br />[[谷]]が[[隆起と沈降|沈降]]してできた[[入り江]]である'''溺れ谷'''の様子が分かる。<br />{{国土航空写真}}]]
 
[[画像:manzekisto.jpg|thumb|right|[[1900年]]に[[大日本帝国海軍|海軍]]によって開削された万関瀬戸]]
 
東海岸の一部と下島の西海岸の一部を除くほぼ全域で[[リアス式海岸]]が発達し、海岸線の総延長は915キロメートルにもおよぶ。特に主島の中央には西から大きく切り込んだ[[浅茅湾]](あそうわん)があり、東からも[[三浦湾]]、大漁湾(おろしかわん)などが切れ込んで、[[多島海]]を形成している。また、浅茅湾の自然海岸線の延長は日本一の長さとして知られる<ref name=minryoku/>。その他、各地に小さな湾があり、多くは[[漁港]]として利用される。断崖絶壁もしばしば見られ、なかには、標高差が100メートルにおよぶものもある。
 
 
 
主島はかつて1つの島だったが、[[地峡]]となっていた部分が、[[1672年]]([[寛文]]12年)に[[大船越瀬戸]]が、[[1900年]]([[明治]]33年)に[[万関瀬戸]]が人工的に開削され、細長い主島は南北3島に分離された。過去には南部を上島、北部を下島と呼んだこともあったが、現在は万関瀬戸より北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)と呼ぶ。
 
 
 
全体的に山がちで険しいが、下島の方が標高が高い。下島中央部には最高峰の[[矢立山]](標高648.40m{{refnest|group="*"|平成28年三角点標高成果の改定に伴う標高変更で649mから648mと1m低くなった。<ref>{{Cite web|url=http://www.gsi.go.jp/KOKUJYOHO/MOUNTAIN/koshin_naiyo.pdf|format=PDF|title=日本の主な山岳標高〔更新内容(平成21年度以降)はこちらをご覧下さい。〕|publisher=[[国土地理院]]|date=|accessdate=2016-05-11}}</ref>尚、山頂にある三等水準点の標高は648.40m<ref name="kijun">{{Cite web |url=http://sokuseikagis1.gsi.go.jp/ |title=基準点成果等閲覧サービス |publisher=[[国土地理院]] |accessdate=2016-05-11|quote=基準点コード TR35129211801}}</ref>。}})があり、舞石ノ壇山(めいしのだんやま、標高536.32m<ref group="*">三等三角点 基準点名:真石、基準点コード: TR35129129001</ref>)・龍良山(標高558.38m<ref group="*">二等三角点 基準点名:男竜良、基準点コード:TR25129117701</ref>)などの矢立山系が内山盆地を囲む。その北東に[[有明山 (長崎県)|有明山]](標高558.09m<ref group="*">一等三角点 基準点名:有明山、基準点コード:TR15129224101</ref>)があり、浅茅湾南岸に白嶽(しらたけ、標高518m)がある。上島の最高峰は北部にある[[御嶽 (長崎県)|御嶽]](みたけ、標高479m)である。
 
 
 
島内の[[分水界]]は東に偏っていて、主要6河川のうち[[佐護川]]・[[仁田川]]・[[三根川]]・[[佐須川]]・[[瀬川 (対馬)|瀬川]]の5河川まで西向きに流れる。東へ流れる最大の川は島内流域面積5位の[[舟志川]]である。
 
 
 
各河川の下流部には[[谷底平野]]があるものの、[[耕作]]に適した平地は少なく、陸上交通も概して不便である。このような地形は人々の生活や[[歴史]]に大きな影響を与えてきた。
 
 
 
=== 地質・地史 ===
 
[[地質]]は、大部分が[[新生代]]古[[第三紀]]に形成された泥質の[[堆積層]]で、「対州層」と呼ばれ、北の一部には新第三紀層もみられる。対州層は、主として黒灰色の[[頁岩]]や[[粘板岩]]から成り、これに[[砂岩]]が混じる場合が多く、ところどころに[[石英斑岩]]や[[斑糲岩|はんれい岩]]、[[花崗岩]]が貫入する。上島北部の御岳周辺には[[玄武岩]]、下島東部に[[石英斑岩]]、下島中央部の内山盆地周辺に花崗岩、それを囲む矢立山系には硬い[[ホルンフェルス]]がそれぞれ分布している。[[更新世]]の中頃までは、[[日本列島]]と大陸は陸続きであったが、その終末期に[[海進]]によって九州と[[朝鮮半島]]の間が離れ、対馬は[[壱岐]]とともに[[地塁|地塁島]](飛び石のようになった島)として取り残された。
 
 
 
[[海岸地形]]と[[海底地形]]より判断して[[隆起]]と[[沈降]]とを繰り返して今日にいたったと考えられる。陸地の大部分が低山で占められ、平地は少ないものの、山頂部には平坦面もみられる。山地は[[隆起準平原]]によるものと考えられる<ref name=heibon>平凡社『世界大百科事典18』(1988)p.564</ref>。北部の御嶽や香ノ木山(標高307m)は準平原上に突出した[[残丘]]であり、南部の内山盆地は貫入した花崗岩が[[浸食]]を受け窪地になったものと考えられている。
 
 
 
== 気候 ==
 
対馬海峡には[[暖流]]の[[対馬海流]]が流れているため、その影響で年間通して比較的温暖で雨が多いという典型的な[[海洋性気候]]である。
 
 
 
[[春]]は西の[[アジア大陸]]から吹いてくる[[季節風]]が原因で、[[ゴビ砂漠]]などの[[黄砂]]の影響を受ける。[[夏]]は30℃を超える日は滅多になく、比較的涼しく過ごしやすい。[[秋]]は比較的雨が少なく、[[冬]]は大陸から吹く季節風の影響で寒さが厳しくなる。
 
 
 
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|source 1 = [[気象庁]]<ref>{{cite web
 
| url = http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_ym.php?prec_no=84&prec_ch=%92%B7%8D%E8%8C%A7&block_no=47800&block_ch=%8C%B5%8C%B4&year=&month=&day=&elm=normal&view=
 
| title = 厳原 1981-2010年 | accessdate = 2012-01-21 | publisher = 気象庁
 
}}</ref>
 
|date=January 2012
 
}}
 
 
 
== 生物相 ==
 
島の面積の約88%を[[照葉樹]]などの山林が占める。[[原始林]]や[[スギ]]、大[[ソテツ]]などが国や県によって[[天然記念物]]に指定されており、豊かな自然にめぐまれている。本来の植生は[[広葉樹林]]であるが、[[林業]]によって生まれた[[針葉樹林]]も多い。[[植生]]は全般的に九州本土に類似するが、九州では山地に多い夏緑樹が低地にも見られる。
 
 
 
動植物とも、大陸系種、対馬固有種、対馬固有亜種、および日本本土系種が混在する。九州本土に多くて対馬に全くいない[[種 (分類学)|種]]や、対馬に多く九州本土では少ないという種もあり、独特の[[生物相]]を形成している。
 
 
 
[[2017年]](平成29年)2月には[[カワウソ]]の姿が対馬に設置された[[琉球大学]]のカメラにとらえられ、同年8月に発表された。日本国内で1979年(昭和54年)に[[高知県]]で最後に二ホンカワウソが目撃されてから38年ぶりとなる。カワウソの種類(二ホンカワウソかユーラシアカワウソか)などの詳細はこれから調査・研究される予定。
 
 
 
対馬の沿岸部には、所々に小規模な[[サンゴ礁]]が分布している。[[2007年]](平成19年)には、対馬のサンゴ礁でも[[白化現象]]が確認された<ref>[http://www.kbc.co.jp/event/watergreen2007/genkai/08.shtml 水と緑のキャンペーン2007 | KBC九州朝日放送]</ref>。
 
 
 
=== 主な固有種・固有亜種 ===
 
[[ファイル:Lilium lancifolium var flaviflorum1.jpg|right|thumb|対馬にのみ自生する[[オウゴンオニユリ]]]]
 
[[ファイル:Tsushima Cat 001.jpg|160px|right|thumb|対馬を象徴する野生動物[[ツシマヤマネコ]]]]
 
*哺乳類 - [[ツシマジカ]]、[[ツシマテン]]、[[クチバテングコウモリ]]、[[対州馬]](家畜種)
 
*鳥類 - [[エナガ|チョウセンエナガ]]、[[ハシブトガラス|チョウセンハシブトガラス]]、[[コゲラ|ツシマコゲラ]](隠岐にも分布)
 
*爬虫類 - [[ツシマスベトカゲ]]、[[ツシママムシ]]
 
*両生類 - [[ツシマアカガエル]]、[[ツシマサンショウウオ]]
 
*昆虫類 - [[ツシマヒメボタル]]、[[ツシマメクラチビゴミムシ]]
 
*軟体動物 - [[ツシマナメクジ]]
 
*植物 - [[オウゴンオニユリ]]、[[ツシマギボウシ]]、[[ツシマトウヒレン]]、[[ツシマニオイシュンラン]]、[[ツシマラン]](絶滅?)
 
 
 
=== 主な大陸系種 ===
 
*哺乳類 - [[コジネズミ]]、[[クロアカコウモリ|ツシマクロアカコウモリ]]、[[ツシマヤマネコ]]
 
*鳥類 - [[キタタキ]](絶滅)、[[ミヤマホオジロ]](繁殖)、[[シロハラ]](繁殖)
 
*爬虫類 - [[アムールカナヘビ]]、[[アカマダラ (ヘビ)|アカマダラ]]
 
*両生類 - [[チョウセンヤマアカガエル]]
 
*昆虫類 - [[ツシマカブリモドキ]]、[[アキマドボタル]]、[[オニクワガタ|キンオニクワガタ]]、[[ヒラタクワガタ|チョウセンヒラタクワガタ]]、[[ツシママダラテントウ]]、[[ハラアカコブカミキリ]]、[[チョウセンケナガニイニイ]]、[[モンシロチョウ|タイワンモンシロチョウ]]、[[ツシマウラボシシジミ]]
 
*植物 - [[チョウセンキハギ]]、[[チョウセンヤマツツジ]]、[[ムジナノカミソリ]]
 
 
 
=== 自然保護と環境行政 ===
 
{{See also|#環境問題}}
 
対馬は、日本では対馬にしか生息しないユーラシア大陸との共通種が数多く生息しており、これらはかつて大陸と陸続きであったことを物語る貴重な動植物である。また、南方系の動物も生息し、対馬固有の動植物も多い。このため、各地に[[自然保護区]]が指定され、自然環境の保護がはかられている。
 
 
 
透明度の高い海は浅茅湾や神崎などで[[海中公園]]となっており、昭和43年[[7月22日]]には、対馬全島は壱岐島とともに[[壱岐対馬国定公園]]に指定された。
 
 
 
ツシマヤマネコなど希少種の保護のため、平成元年[[11月1日]]に主島北部の伊奈地区が国指定伊奈[[鳥獣保護区]]に指定された。また、洲藻白岳原始林、龍良山原始林、御岳鳥類繁殖地、鰐浦[[ヒトツバタゴ]]自生地が、国の[[天然記念物]]としてそれぞれ地域指定されている。とりわけ龍良山原始林は、日本有数の原生林<ref name=minryoku/>として知られる。島の北西には[[環境省]][[対馬野生生物保護センター]]が設けられた。
 
 
 
[[2013年]][[8月29日]]、絶滅危惧種である「[[ツシマヤマネコ]]」が唯一生息する広大な森林地が競売入札に付されていたが、市や裁判所に環境保護団体など全国から購入の申し出が相次ぎ、対馬市は反響の大きさなども含め購入に踏み切った<ref name="sankei20130829">{{cite news
 
|title = 対馬の森 市が購入 ツシマヤマネコ生息地 競売中止へ
 
|url = http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130829/dst13082923430017-n1.htm
 
|publisher = [[産経新聞]]
 
|date = 2013-08-29
 
| accessdate = 2013-08-31}}</ref>。森林の大きさは東京ドーム55個分に相当し、対馬でこのような広大な森林地が売りに出されるのは初めてで、韓国の業者も関心を示していた<ref name="sankei20130829"/>。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 先史 ===
 
{{Main|対馬国#先史時代|対馬国#古代|防人}}
 
[[旧石器時代]]に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。現在までに確認された最古の遺跡は、[[新石器時代]]に属する[[縄文文化]]のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。大陸からの[[ナウマンゾウ]]等の哺乳類の化石も見つかっていない。<ref group="*">峰町歴史民俗資料館の展示物</ref>
 
 
 
[[縄文時代]]の峰町佐賀貝塚や上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の[[魚]]の骨が出土し、峰町では多くの[[貝輪]](腕に付ける装飾品)の材料が、[[沖縄]]の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と[[北海道]]産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。また、[[石器]]の材料は、[[佐賀県]][[伊万里市]]腰岳産の[[黒曜石]]である。さらに、峰町吉田貝塚からは[[縄文時代]]晩期の夜臼式土器、[[弥生時代]]前期の板付I式土器などが出土し、[[九州地方]]北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。これらの石器・貝輪、土器は、[[峰町歴史民俗資料館]]や[[豊玉町郷土館]]等で収蔵・展示されている。
 
 
 
[[北部九州]]ではこの頃から水稲耕作が始まり、[[平野]]が開発されてゆくが、対馬では[[河川]]や低平な沖積地に恵まれず、[[水田]]を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても[[狩猟]]や[[採集]]・[[漁労]]などの[[生業]]が依然として大きな比重を占めたものと推定され、[[イネ]]の収穫具であった[[石包丁]]はあまり出土していない。ただし、大陸系[[磨製石器]]や[[青銅器]]・[[鉄器]]などの[[金属器]]などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広[[銅矛]]・広形銅矛も多く出土している<ref name=gishi>岡崎(2003)</ref>。
 
 
 
==== 神話 ====
 
[[画像:Kobayashi Izanami and Izanagi.jpg|thumb|right|160px|[[国産み]](「天瓊を以て滄海を探るの図」、[[小林永濯]])<br />淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされた([[大八島|大八洲]])]]
 
 
 
『[[古事記]]』の建国神話には、最初に生まれた島々(「[[大八島|大八洲]]」)の1つとして「津島」と記されている。『[[日本書紀]]』の[[国産み|国産み神話]]のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。
 
 
 
=== 古代 ===
 
古くから大陸との交流があり、歴史的には[[朝鮮半島]]と[[倭国]]・[[倭人]]・[[ヤマト王権|ヤマト]]をむすぶ交通の要衝であった。
 
 
 
[[魏志倭人伝|『魏志』倭人伝]]<ref group="*">正確には『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書・東夷伝・[[倭人]]条</ref>では、「対馬国」は[[倭]]の一国として登場する。[[帯方郡]]から[[邪馬台国]]への経路の途上、「[[狗邪韓国]]」(韓国[[慶尚南道]][[金海]])の記述につづいて「一海を渡ること一千余里」の南に位置するとしており、[[邪馬台国]]に服属した30余国のなかの一国であった。そこには、対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣の径(みち)のようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので[[海産物]]を採集して自活し、船による南北の交易によって生活していたと記されている。また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」(ヒコ)と呼ばれる大官と「卑奴母離」(ヒナモリ)と呼ばれる副官による統治がなされていたとする。
 
 
 
[[古墳時代]]初期に築かれた[[出居塚古墳]]は[[前方後円墳]]で、有茎柳葉式[[銅鏃]]、[[鉄剣]](部分)、[[管玉]]等が出土している。前方後円墳は、3世紀代に[[大和|ヤマト]]で生まれた古墳形態であり、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長は[[ヤマト王権]]と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。首長墓のうち比較的大規模なものは、対馬市美津島町高浜曽根の海岸に集中して分布している。[[えべすのくま古墳]]は前方後円墳とみられているが、[[前方後方墳]]の可能性もあり、墳丘の全長は約40メートルである。箱式棺で銅鏃12点、管玉1点、鉄剣を出土しており、銅鏃は[[京都府]]の[[妙見山古墳]]や[[福岡県]]の[[石塚山古墳]]のものと類似し、古墳時代前期([[4世紀]]ころ)の築造と推定される。美津島町の鶏知(けち)ネソ1号墳は全長30メートルで箱式棺をともない管玉・[[鉄鏃]]・刀を出土している。鶏知ネソ2号墳は全長36メートルで、主室は箱式棺をともなって[[須恵器]]や鉄刀が出土しており、副室は箱式棺より[[土師器]]と鉄剣が出土している。ネソ1号墳、2号墳はともに[[積石塚]]である<ref name=gishi/>。
 
 
 
島の首長について、『[[先代旧事本紀]]』の「国造本紀」では「津島県[[直 (姓)|直]]」と伝える。古墳時代はヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、こうした状況は『[[日本書紀]]』、『[[好太王碑|広開土王碑文]]』、『[[宋書]]』倭国伝、『[[三国史記]]』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』において、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の上対馬町[[鰐浦]])から出航した[[神功皇后]]率いる大軍が[[新羅]]を攻め、服属させたうえ、[[屯倉]]を設置したという記述である。皇后が[[三韓征伐]]の帰途、旗八流を納めたとされるのが和多都美神社(現[[海神神社]])であり、この神社が対馬国の[[一宮]]である。また、朝鮮側の記録としては、[[12世紀]]に編纂された朝鮮最古の歴史書『[[三国史記]]』に、第18代新羅王[[実聖尼師今]]の治世7年([[408年]])に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。このように、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていたことが知られる。
 
[[ファイル:Grave of Onono Imoko1.jpg|thumb|right|[[607年]]に[[隋]]にわたった[[小野妹子]]の墓([[大阪府]][[南河内郡]][[太子町 (大阪府)|太子町]])]]
 
[[大化の改新]]ののち[[律令制]]が施行されると、対馬は[[西海道]]に属する[[令制国]]すなわち[[対馬国]]として現在の[[厳原]](いづはら)に[[国府]]が置かれ、[[大宰府]]の管轄下に入った。[[推古天皇]]における[[600年]](推古8年)と[[607年]](推古15年)の[[遣隋使]]も、また[[630年]]([[舒明天皇|舒明]]2年)の[[犬上御田鍬]]よりはじまる初期の[[遣唐使]]もすべて航海は[[壱岐]]と対馬を航路の寄港地としている。
 
 
 
====白村江の戦い====
 
[[663年]]([[天智天皇|天智]]2年)の[[白村江の戦い]]以後、[[倭国]]は、[[唐]]・[[新羅]]の侵攻に備え、[[664年]]には対馬には[[防人]](さきもり)が置かれ、[[烽火]](とぶひ)が8か所に設置された。防人はおもに[[東国]]から徴発され、『[[万葉集]]』には数多くの[[防人歌]]がのこっている。[[667年]](天智6年)には浅茅湾南岸に[[金田城]]を築いて国境要塞とし、[[674年]]([[天武天皇|天武]]3年、[[白鳳]]2年)には厳原が正式な[[国府]]の地に定まり、同年、対馬[[国司]]守[[忍海造大国]](おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した[[銀]]を[[ヤマト王権#大和朝廷|朝廷]]に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。この[[対馬銀山]]は含銀[[方鉛鉱]]の[[鉱床]]であり、鉱石を山上に運び数日間焼き続けることにより残った銀を採取したものであるという。この金属精錬法は[[灰吹法]]に類似している。
 
 
 
[[701年]]([[文武天皇|文武]]5年)、対馬で産出したと称する[[金]]を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「[[大宝 (日本)|大宝]]」の[[元号]]が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。
 
 
 
対馬国には伊奈、久須など5郷からなる[[上県郡]]と豆酘、鶏知など5郷からなる[[下県郡]]が置かれた。[[741年]]([[天平]]13年)、「[[鎮護国家]]」をめざした[[聖武天皇]]の[[国分寺建立の詔]]により対馬にも厳原の地に[[国分寺]]が建立されている。
 
 
 
防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、[[737年]](天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、[[757年]]([[天平宝字]]元年)にはそれも廃して西海道のうち7国([[筑前国]]・[[筑後国]]・[[肥前国]]・[[肥後国]]・[[豊前国]]・[[豊後国]]・[[日向国]])の兵1,000人をもってこれに代えることとした<ref name=kenshi43>新川(1998)pp.43–44</ref>。
 
 
 
神護景雲2年([[768年]]) 波自采女が[[続日本紀]]に「対馬島上県郡の人高橋連波自采女、夫を亡くして後誓って志を改めず。その父もまた死す。盧を墓の側に結んで、毎日斎食す。孝義の至り。路行く人を感ぜしむることあり。よってこれを其の門閭(里の入口)に表彰し、租(年貢)を免じて一生を終わらしむ。」と記されており、対馬市[[豊玉町]]に墓がある。
 
 
 
[[8世紀]]中葉の成立と思われる[[和歌集]]『[[万葉集]]』には、
 
{{quotation|
 
百船(ももふな)の泊(は)つる対馬の浅茅山 時雨(しぐれ)の雨にもみだひにけり
 
}}
 
の[[短歌]]が収載されているが、『万葉集』には、他にも「浅茅浦」「竹敷の浦」などの地名がみえ、また、「玉槻」という対馬在住とみられる[[女性]]<ref group="*">阿連(あれ。[[厳原町]])の[[采女]]、玉調(たまつき。[[美津島町]])の生まれ、[[遊女]]など、諸説あって定かでない。</ref>による、
 
{{quotation|
 
竹敷の玉藻なびかしこぎ出なむ 君が御船をいつとか待たむ
 
}}
 
の歌も収められている。
 
 
 
古代において、新羅から日本には[[540年]]([[欽明天皇]]元年)から[[929年]]([[延長 (元号)|延長]]7年)まで89回におよび入朝しており、日本から新羅へは[[571年]](欽明天皇32年)から[[882年]]([[元慶]]6年)まで45回にわたり使節([[遣新羅使]])を派遣している。これらは、すべて対馬を経由した。
 
 
 
[[平安時代]]に入って[[桓武天皇]]の時代には防人制は広く廃止され、[[軍団制]]に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した<ref name=kenshi43/>。
 
 
 
4度にわたる[[新羅の入寇]]では、[[813年]]([[弘仁]]4年)の[[新羅の入寇#弘仁の韓寇|弘仁の韓寇]]は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。
 
 
 
承和4年([[837年]])[[和多都美神社]]が神位を拝受した。
 
 
 
[[894年]]([[寛平]]6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が[[佐須浦]](さすうら)に襲来したが撃退している。
 
 
 
====刀伊の入寇====
 
[[1019年]]([[寛仁]]3年)、正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な[[対馬銀山|対馬銀鉱]]も焼損した。これは、[[奴隷]]にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。現在では賊(日本側に捕らわれた捕虜3名はすべて高麗人)の主体は刀伊(一部は高麗に朝貢していたと言われる[[女真]]族)であったとされており、この事件は「[[刀伊の入寇]]」と呼ばれる。女真族は、このとき対馬の判官代[[長嶺諸近]]とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録が残っている<ref name=tbs>田中健夫(1974)</ref>。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[治承・寿永の乱]]の際、当時の対馬国司[[藤原親光]]は[[源頼朝]]の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、[[1183年]]([[寿永]]2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。[[平知盛]]は、大宰少弐[[原田種直]]を通して西海道の武士に[[屋島]]への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は[[高麗]]国に逃亡したのち、[[1185年]]([[文治]]元年)6月に対馬に戻った<ref>佐伯(1998)p.77</ref>。
 
 
 
[[中世]]の対馬では、[[荘園]]制度の発展はみられなかった<ref name=miyamoto>宮本常一(1978)pp.162–164</ref>が、[[鎌倉幕府]]は国ごとに[[守護]]を置き、対馬国守護職は[[少弐氏]](武藤氏)にあたえられた。
 
 
 
[[12世紀]]には、のちの[[宗氏]]の始祖となる[[惟宗氏|惟宗(これむね)氏]]が対馬に入部している。惟宗氏は、もと[[大宰府]]の官人であったが、[[筑前国]]の[[宗像郡]]から対馬へ向かったとされる。[[史料]]で惟宗氏の名が対馬の[[在庁官人]]として確認される初見は、建久7年([[1196年]])である。惟宗氏(宗氏)は、少弐氏の守護代として次第に対馬で勢力をのばし、[[武士]]化していった。従来対馬で勢力を保っていた[[阿比留氏|阿比留(あびる)氏]]は、当時国交を結んでいな[[高麗]]との交易をおこなっていた。大宰府はこれを詰問したが、阿比留氏が従わなかったため、[[1246年]]([[寛元]]4年)、大宰府の命により[[惟宗重尚]](これむねしげひさ)が、鶏知を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討して対馬の支配権を確立した。
 
 
 
なお、[[鎌倉時代]]では、[[1265年]]([[文永]]2年)成立の『[[続古今和歌集]]』に寄せられた大納言俊光の女の、
 
{{quotation|
 
雨晴るる夕影山に鳴く蝉の 声よりおつる木々の下露
 
}}
 
の歌が、上対馬の網代村の「夕影山の伝説」にちなみものだといわれている<ref name=minwa>吉松・浜名編『日本の民話 21』(1978)pp.223–232</ref>。
 
 
 
====元寇====
 
[[ファイル:Mōko Shūrai Ekotoba.jpg|350px|right|thumb|文永の役における[[元寇#鳥飼潟の戦い|鳥飼潟の戦い]]。元軍に突撃する[[竹崎季長]]と応戦、敗走する元兵。(『[[蒙古襲来絵詞]]』前巻・絵7・第23紙)]]
 
鎌倉時代の日本は、2度にわたる[[元 (王朝)|元]]([[モンゴル帝国]])とその属国[[高麗]]による侵略([[元寇]])を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。[[1274年]](文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日[[佐須浦]]・小茂田浜に殺到した。この大軍に対し[[宗助国]]は一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した。この受難を[[小茂田浜神社]]で伝えられている。『[[日蓮聖人註画讃]]』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における[[文永の役]]である。
 
 
 
[[1281年]]([[弘安]]4年)に2度目の日本への侵略[[弘安の役]]が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の[[馬山市]])より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、[[寧波]]より侵攻した旧[[南宋]]・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。弘安の役において『八幡愚童記』正応本には、
 
 
 
{{quotation|其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。}}
 
 
 
と記されている。
 
 
 
====康応の外寇====
 
元寇終結後[[倭寇]]の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する防衛や報復の意味があったといわれている<ref name=rekishi>[http://www.tsushima-net.org/history/index.php 対馬の歴史] - 対馬観光物産協会</ref>。[[1366年]]([[正平 (日本)|正平]]21年、[[貞治]]5年)、高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると[[宗経茂]]はこれに応え、高麗との通交が始まるが、[[1389年]]([[元中]]6年、[[康応]]元年)、[[慶尚道]]元帥[[朴イ|朴葳]]に率いられた高麗軍が激化していた倭寇討伐のために対馬を襲撃した。朴は、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出したといわれる([[高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻#1389年の侵攻|康応の外寇]])。倭寇の活動は高麗王朝滅亡の一因ともいわれており、[[李氏朝鮮]]王朝の祖である[[李成桂]]も倭寇討伐で功名をなした人物であった。
 
 
 
====応永の外寇====
 
対馬では倭寇の禁止や[[日朝貿易]]の進展に積極的であった[[宗貞茂]]が死去すると倭寇の活動が活発化し、朝鮮王朝第3代の[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]は[[1419年]]([[応永]]26年)6月、倭寇討伐を[[大義名分]]とした掃討戦を決意した。朝鮮軍は、兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、つづいて小船越を襲撃し、さらには仁位浦に進んで如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの[[伏兵]]などによる反撃などにより損害が大きく、戦況が膠着状態に陥ったところ暴風雨も近づいたため、対馬側の和平提案を受け入れて、7月3日に[[巨済島]]へ全面撤退した。これが[[応永の外寇]]であり、朝鮮では乙亥東征と呼んでいる。
 
 
 
[[1433年]]([[永享]]5年)、宗氏の主君[[少弐嘉頼]]は[[周防国|周防]]の[[大内氏]]に敗れて対馬に逃れ、三根の中村に居を構えた。これにより少弐氏と宗氏はともに[[筑前国]]での勢力基盤を失った。
 
 
 
太宗の死後、第4代の[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]は日本との善隣政策をとり、3度にわたって[[朝鮮通信使#室町時代の朝鮮通信使|通信使]]を送って通交の制度を整備した。[[1438年]]([[永享]]10年)ころには[[文引制]]を採用し、[[1443年]]([[嘉吉]]3年)には癸亥約定([[嘉吉条約]])を結んで、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとした。日本から朝鮮へ渡航する者は宗氏の統制下に置かれることとなり、朝鮮南部海域の漁業特権も宗氏にあたえられた(このころの対馬島の状況は1471年刊行の「[[海東諸国紀]](申叔舟 著)」に詳しく記されている<ref>申叔舟『海東諸国紀 朝鮮人の見た中世の日本と琉球』田中健夫訳注、岩波文庫、1991年、194〜223頁、ISBN 4-00-334581-9</ref>)。こうして朝鮮との通交に関係のある諸権益は宗氏に集中したが、この過程は同時に対馬島内における宗氏の領国支配が確立していく過程でもあった<ref name=tbs/>。島内の諸豪族も、経済的基盤は土地による収入よりも交易に依存する度合いが大きかったので、宗氏が朝鮮より優遇されることは、彼らにとっても好ましいことであった。宗氏の握る貿易権・漁業権は、みずからの家臣団編成などにおいて重要な役割をになったのである<ref name=tbs/>。
 
 
 
[[1510年]]([[永正]]7年)、朝鮮王朝の貿易抑制政策や[[恒居倭]](朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は[[倭館#富山浦倭館|富山浦]]、[[倭館#乃而浦倭館|乃而浦]]、[[倭館#塩浦倭館|塩浦]]において兵乱を起こしたが、対馬島主の子息[[宗盛弘]]を大将とする4,000名から5,000名にのぼる軍勢は数に勝る朝鮮の官憲に大敗し、盛弘は[[鎮海区 (昌原市)|熊川]]で戦死した。これが「[[三浦の乱]]」である。これ以後、[[中国人]]を主体とする[[後期倭寇]]が[[東シナ海]]や[[黄海]]の広い海域で活動し日朝貿易は衰えた。また、宗氏は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には壱岐に進出した[[松浦氏]]との対立がはじまった。
 
 
 
=== 近世 ===
 
[[ファイル:Sō Yoshitoshi.jpg|160px|right|thumb|対馬初代藩主[[宗義智]]]]
 
[[ファイル:1838-TenpōTsushima Province.jpg|160px|right|thumb|[[1838年]]に完成した『天保国絵図』「対馬国」]]
 
 
 
{{main|対馬府中藩}}
 
[[1587年]]([[天正]]15年)[[豊臣秀吉]]の[[九州平定]]に際して、宗氏は事前に[[豊臣政権]]への臣従を決め、[[本領安堵]]された。[[1590年]](天正18年)には、[[宗義智]]が従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後、宗氏の当主にあたえられる官位の慣例となった。
 
 
 
秀吉の朝鮮出兵([[文禄・慶長の役]])では、出兵に先立つ[[1591年]](天正19年)、厳原には古代の[[金石城]]の背後に[[清水山城]]が、上対馬の大浦には[[撃方山城]]が築かれて中継基地となった。対馬からは宗義智が5,000人を動員した。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる[[小西行長]]の一番隊に配属された。[[1592年]](文禄元年)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し、朝鮮軍や[[明]]軍と戦い、[[釜山広域市|釜山]]、[[ソウル特別市|漢城]](現[[大韓民国|韓国]]首都[[ソウル特別市|ソウル]])、[[平壌]](現[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]首都)を次々と攻略した。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交を担当する役割も担っており、行長とともに常に[[講和]]を画策していた<ref name=tbs/>。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち[[食糧]]が底をつき、駐留する兵士が鶏・犬・猫などを住民から奪う禁令が出されたという<ref name=cho96>長(1981)p.96</ref>。なお、対馬には小西行長着用の兜が伝えられている。
 
 
 
義智は、[[1600年]]([[慶長]]5年)の[[関ヶ原の戦い]]では西軍に加わって、みずからは[[伏見城]]攻撃に参加し、[[大津城]]攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣した。西軍敗北後は[[徳川家康]]から許され、以後代々[[徳川氏]]に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなる。
 
 
 
こうして[[江戸時代]]を通じて宗氏が[[対馬府中藩]](通称対馬藩)の藩主を務め、[[城下町]]は対馬府中(厳原)につくられた。[[1609年]](慶長14年)には[[己酉約条]](慶長条約)が締結され、釜山には[[倭館]]が再建された。倭館は、長崎[[出島]]の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。
 
 
 
2代藩主[[宗義成]]の代には、[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)に[[大坂の役]]に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩[[家老]][[柳川調興]]とのあいだに[[柳川一件]]が起こっているが、[[1635年]]([[寛永]]12年)、3代将軍[[徳川家光]]によって裁可され、調興敗訴となった。[[1637年]](寛永14年)から翌年にかけては[[島原の乱]]に幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。
 
 
 
対馬藩は、[[参勤交代]]制度に基づき、3年に1度、[[江戸]]の[[征夷大将軍]]に出仕することとされ、江戸に[[藩邸]]を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な[[大名行列]]を仕立てて往来した。外交面では[[鎖国]]体制のなか、[[朝鮮通信使]]を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において[[出貿易]]を許されていた。現在の[[釜山市]]は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。
 
 
 
柳川一件以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵(いていあん)に[[京都五山]]の[[禅僧]]が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化された。[[1663年]](寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、現在「お船江跡」という[[遺構]]として当時のつくりのまま保存されている。
 
寛文元年 [[1661年]] 仁位郡検地が実施された。
 
対馬藩は10万[[石 (単位)|石]]の格付けであるが、山がちで平野の少ない対馬では米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭(こば)」とよばれる[[焼畑]]であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。また、石高制に代わって[[間高制]]という特別の生産単位が採用された<ref name=tbs/>。
 
 
 
17世紀後半は、日朝貿易と[[銀山]]の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、[[雨森芳洲]]や[[陶山鈍翁]](訥庵)、[[松浦霞沼]]などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多都美神社の壮麗さが今日に伝えている<ref>『ランドジャポニカ』(1996)p.747</ref>。1685年(貞享2年)には、藩主[[宗義真]]が府中に「小学校」と名づけた[[学校]]を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名のつく施設の最初であるという<ref name=shinbun>[http://www.tsushimanews.com/ 対馬ポータルサイト]{{リンク切れ|date=2017年10月 |bot=InternetArchiveBot }}(対馬新聞社)</ref>。
 
 
 
18世紀初めには陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰(いじかおいつめ)」がおこなわれた。それにより、当時は焼畑耕作の害獣であった[[イノシシ]]は絶滅している<ref name=cho94>長(1981)p.94</ref>。
 
 
 
以後、宗氏は[[改易]]もなく[[明治維新]]まで断絶することなく続き、[[明治維新]]後は[[伯爵]]となり[[華族]]に列した。[[14世紀]]後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に服属してきたが、中世の一時期には朝鮮王朝から官職を与えられ、特殊な役割を果たしてきたことも事実である。[[高橋公明]]は、これを「対馬の境界性」と表現している<ref>高橋(2001)</ref>。
 
 
 
=== 幕末・明治初期 ===
 
[[ファイル:Izuhara.pref.jpg|right|thumb|『旧厳原県歳入ニ関スル内願書』(1872年、厳原県[[士族]]寺崎正常・森川正邦)]]
 
[[ファイル:Izuhara1871.jpg|160px|right|thumb|『大日本海岸実測図』より「対馬国厳原及阿須港」(1874年測量、1875年発行)<br />[[兵部省]]海軍部水路局]]
 
江戸時代後期の[[1861年]]([[万延]]2年)には[[ロシア]]の軍艦[[ポサードニク (コルベット)|ポサドニック]]号が[[浅茅湾]]に投錨し、対抗した[[イギリス]]軍艦も[[測量]]を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する[[ロシア軍艦対馬占領事件]]が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して藩主[[宗義和]]に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、5月には[[江戸幕府|幕府]][[外国奉行]]の[[小栗忠順]]が派遣され、7月にイギリス公使[[オールコック]]の干渉もあってロシア軍艦が退去した。芋崎には、現在もロシア人の掘った[[井戸]]がのこっている<ref name=cho96/>。
 
 
 
こののち対馬藩は[[1862年]]([[文久]]2年)、[[長州藩]]とのあいだに同盟が成立した。[[1863年]](文久3年)には[[孝明天皇]]より対馬藩に対して[[攘夷]]の[[勅許]]と御沙汰書が下っている。
 
 
 
[[1864年]]([[元治]]元年)、[[佐幕派]]で藩主[[宗義達]]の叔父にあたる[[勝井員周]](勝井五八郎)が藩内で主導権を握り、家老[[大浦教之助]]をはじめとする[[勤皇派]]100余名を粛清するという大事件が起こっている。勤皇派の[[平田大江]]は、これに対し、尽義隊を結成して抵抗運動を繰り広げた。藩主義達は翌[[1865年]]([[慶応]]元年)、まずは勝井五八郎を、続いて平田大江を殺害して、ようやく事件を終息させた。この一連のできごとを[[勝井騒動]](甲子の変)といい、対馬全体では200名以上が犠牲になった。
 
 
 
義達は、[[1868年]]([[明治]]元年)には[[戊辰戦争]]に参加し、藩兵を率いて東上して[[大坂]]まで軍を進めた。[[1869年]]([[明治]]2年)、宗義達は[[版籍奉還]]をおこない、新藩制により厳原藩と改称されて、厳原藩知事となった。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。[[1871年]](明治4年)[[7月 (旧暦)|7月]]の[[廃藩置県]]により[[厳原県]]となり、その後9月に[[伊万里県]]へ編入された。[[1872年]](明治5年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに[[1876年]](明治9年)4月[[三潴県]]に合併され、8月には[[長崎県]]の管轄にうつされた。最後の藩主となった義達は、名を重正と改め、[[華族令]]の施行された[[1884年]](明治17年)には[[伯爵]]を授けられた。
 
 
 
[[明治維新]]後も対馬は国防や交易の最前線として重視された。[[1874年]](明治7年)には、[[兵部省]][[水路部 (日本海軍)|海軍部水路局]]によって[[厳原港]]の測量がなされている。[[1883年]](明治16年)12月、[[門司税関]]厳原出張所(現厳原税関支署)が開設され、翌年の2月には「朝鮮貿易港」に指定されている。
 
 
 
=== 町村制の施行 ===
 
長崎県管轄になったあとの対馬には厳原支庁が置かれたが、[[1886年]](明治19年)には対馬島庁と改められた<ref name=suisan>{{PDFlink|[http://nrifs.fra.affrc.go.jp/book/hist-docs/gaiyou/g04095.pdf 対馬島庁文書]}}(独立行政法人[[水産総合研究センター]][[中央水産研究所]])</ref>。[[1889年]](明治22年)の[[市制]]・[[町村制]]施行の際には[[上県郡]]に峰、仁田、佐須奈、豊崎、琴の5村、[[下県郡]]には厳原、久田、豆酘、佐須、鶏知、竹敷、船越、仁位、奴加岳の9村が発足した。対馬では、現在の[[東京都]][[伊豆諸島]]([[青ヶ島村]]を除く)、[[島根県]][[隠岐諸島]]、[[鹿児島県]][[三島村]]・[[トカラ列島]]及び[[奄美群島]]、[[沖縄県]]と同様、[[島嶼町村制]]が適用された。[[1919年]]([[大正]]8年)には厳原村が町制施行し、[[厳原町]]となった。対馬島庁は、1926年(大正15年)には対馬支庁に改称されている<ref name=suisan/>。なお、[[1905年]](明治38年)には上下県郡総町村立の対馬中学校(現在の[[長崎県立対馬高等学校]])が島内初の中学校として創立された。
 
 
 
=== 対馬要塞の建設 ===
 
[[ファイル:TsushimaKirun.jpg|right|thumb|対馬・基隆及澎湖島砲台増築等新計昼ニ係ル諸費概算一覧表(1898年、[[陸軍省]])]]
 
[[ファイル:Tsushima obelisk (Saint Petersburg).jpg|160px|right|thumb|[[サンクトペテルブルク]]に建てられた「ツシマ・オベリスク」]]
 
{{Main|対馬要塞}}
 
ロシアやイギリスをはじめとする[[列強]]の対馬接近に脅威を感じた[[日本政府]]は、国境最前線であった対馬島の[[要塞]]化を図った。[[大日本帝国陸軍]]は、[[1878年]](明治11年)には[[鎮台|熊本鎮台]]から対馬分遣隊を対馬に派遣していたが、1886年には陸軍[[対馬警備隊 (日本軍)|対馬警備隊]]が置かれた。[[対馬要塞]]の建設工事は、浅茅湾防備のため[[1887年]](明治20年)より着工した。この工事は[[東京湾]]に次いで日本で2番目のものであった。[[1888年]](明治21年)10月まで温江・大平・芋崎・大石浦の4[[砲台]]が完成し、[[日清戦争]]を迎えた。
 
 
 
[[大日本帝国海軍]]は、[[1896年]](明治29年)、対馬周辺海域を防衛する[[要港部]]として浅茅湾に[[竹敷要港部]]を置いた。これは、日本海軍初の要港部であった。[[1898年]](明治31年)以降[[1903年]](明治36年)まで、四十八谷・大平高・姫神山・城山・折瀬ヶ鼻には砲台が、城山・根緒・上見坂には[[堡塁]]が築かれた。
 
 
 
====日本海海戦====
 
[[1904年]](明治37年)には、[[日露戦争]]に備え[[対馬海峡]]の重要性から要港部司令官が[[親任官|親補職]]となり、幕僚として、[[参謀]]長、参謀、[[副官]]、機関長、[[軍医]]長、主計長が配置された。また、[[バルチック艦隊]]から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した(廻砲台の工事はのちに中止となった)[[日露戦争]]における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる[[日本海海戦]]は、海外では"[[:en:Battle of Tsushima|Battle of Tsushima]]"(対馬の戦い)の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊の水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ<ref name=cho96/>、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている<ref name=rekishi/>。
 
 
 
[[1920年]](大正9年)には対馬警備隊司令部を改編し対馬要塞司令部を設置している。こうした対馬全島の要塞化により[[昭和]]前期には対馬海峡全体の防衛が可能なほどであった。特に豊砲台には、[[1922年]](大正11年)の[[ワシントン海軍軍縮条約]]により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「[[赤城 (空母)|赤城]]」の40センチメートル連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「[[摂津 (戦艦)|摂津]]」の30センチメートル連装砲塔が設置された。
 
 
 
太平洋戦争後期には豆酸にレーダー基地が設けられ九州と朝鮮半島の間を監視した。また、対馬と九州の呼子と平戸、対馬と沖島、対馬と本州浜田の間に電波警戒機甲がもうけられ、通過する飛行機の警戒にあたった。なお、豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。
 
 
 
=== 連合軍占領下 ===
 
[[太平洋戦争]]後は連合国軍が進駐した。[[1945年]](昭和20年)10月14日、戦争中の[[機雷]]による事故や銃爆撃を奇跡的に逃れていた[[九州郵船]]の旅客船「珠丸」が触雷の結果沈没し、545名を超える人命が失われる大事故があった([[珠丸事件]])。この日は、[[連合国軍総司令部]]による渡航差し止めが解除された日であり、珠丸は対馬経由で[[釜山港]]と[[博多港]]のあいだを航行中、旧日本軍の敷設した機雷に触れたものである。[[1946年]](昭和21年)、戦時中の言論統制により離島新聞は廃刊を余儀なくされていたが、[[斉藤隼人]]によって[[タブロイド]]版の「[[対馬新聞]]」が創刊された<ref name=tokyo>[http://sympathy.blog.ocn.ne.jp/tsushima/2006/10/index.html 『対馬新聞』に思う] - 東京対馬館2006.10</ref>。
 
 
 
対馬は現在も長崎県に属しているが、経済的にはかねてより福岡県との交流が密であり、戦後すぐに転県運動が起こっている<ref name=tokyo/>。1946年には転県期成会が結成され、長崎県から福岡県への転県を国に働きかけた。福岡県議会では転県提案が可決されたものの、同年9月の長崎県議会では転県提案が否決された。それ以降も転県運動がつづいた。[[1949年]](昭和24年)には、「対馬開発5ヵ年計画」が策定され、対馬町村会では、それを受けて対馬開発計画の実現のため転県運動中止を発表した<ref name=chronicle>[http://www.tsushima-net.org/history/chronicle.php 歴史年表] - 対馬観光物産協会</ref>。
 
 
 
[[1947年]](昭和22年)9月には[[九州海運局]]厳原支局が、翌[[1948年]](昭和23年)には[[厳原海上保安部]]が設置された。この年、[[済州島]]では韓国政府を承認しない島民が蜂起し、対馬では、それに対する韓国軍の鎮圧([[済州島四・三事件|済州島4・3事件]])によって惨殺された済州島民の漂流遺体が多数収容された<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=32628&servcode=400&sectcode=400 4・3事件犠牲者の遺体、日本から済州送還を本格推進] 中央日報 2002.10.01</ref>。
 
 
 
[[1950年]](昭和25年)の[[朝鮮戦争]]、[[1952年]](昭和27年)の[[李承晩]]による一方的な海洋主権宣言(いわゆる「[[李承晩ライン]]の設定」)など、極東情勢の緊迫化は国境の島対馬に甚大な影響をあたえた。
 
 
 
=== 宮本常一と離島振興法 ===
 
軍事要塞であった対馬は長い間開発が抑制されたため、本土より数十年遅れているといわれていた。戦後、[[民俗学]]的調査のため対馬を踏査した[[宮本常一]]は、厖大な民俗記録を記すいっぽう、あまりの開発の遅れに胸を痛め、[[離島振興法]]を制定するために奔走した<ref name=rekishi/>。[[1953年]](昭和28年)、長崎県知事の呼びかけにより[[東京都]]、[[新潟県]]、[[島根県]]、[[鹿児島県]]の知事が共同して「離島振興法制定に関する趣意書」を作成するなどの運動を展開し、同年7月、離島振興法が[[時限立法]]として成立した。
 
 
 
=== 戦後の繁栄と衰退 ===
 
{{Main|厳原町#歴史|美津島町#歴史|豊玉町#歴史|峰町#歴史|上県町#歴史|上対馬町#歴史|対馬市#歴史}}
 
[[ファイル:view from shimizuyama.jpg|thumb|right|現代の厳原の市街地]]
 
厳原港では、1952年ごろから「片道貿易」と呼ばれる日韓輸出入が始まり、小型船が連日港を賑わわせていた。『つしま百科』(長崎県対馬支庁発行)によれば、最盛期の[[1960年]]には輸出額約9億8,200万円、輸入額約2億2,500万円を記録、町には20軒を超える貿易商社が立ち並び<ref>[http://www.nagasaki-np.co.jp/kankou/tanhou/minato/iki/90.html 「厳原港」(文化百選みなと編)](長崎新聞ふるさと探訪)</ref>、遊興業も進出した。この日韓片道貿易は[[1961年]](昭和36年)の[[朴正煕]]による[[5・16軍事クーデター]]によって終息した。
 
 
 
島内14町村は、[[1955年]](昭和30年)から1956年にかけての[[昭和の大合併]]によって上県郡に[[峰町|峰]]、[[上県町|上県]]、[[上対馬町|上対馬]]、下県郡に厳原、[[美津島町|美津島]]、[[豊玉町|豊玉]]の6町村に再編された。
 
 
 
昭和20年代から30年代にかけては、対馬がもっとも賑わった時代であった。西日本屈指の漁場をかかえる対馬近海には[[サバ|サバ漁]]や[[イカ|イカ漁]]などのため遠方からも多くの漁船がおとずれ、各漁港や厳原の町も賑わった。さらに、山林にのこされた豊富な木材は製紙会社によって[[パルプ|パルプ材]]として大量に買い上げられたため、[[林業]]収入も多かった<ref name=rekishi/>。人口も6万5,000人を越えていた<ref name=tokyo/>。
 
 
 
しかし、片道貿易も終息し、[[食生活]]の洋風化や[[排他的経済水域|200海里問題]]などによる[[水産業]]の不振、森林資源の枯渇、交通における[[航空機]]時代の到来などによって、1960年代後半以降の経済は衰退し、人口流出が顕著となって[[過疎化]]に悩むこととなった。生活道路などの整備が充分になされないなか、[[公共事業]]も削減されて苦境に立たされている。[[2004年]]([[平成]]16年)[[3月1日]]には、対馬の6町すべてが合併して市制施行し、[[対馬市]]の1市体制となった。
 
 
 
== 産業 ==
 
[[ファイル:Tsushima1WP.jpg|right|thumb|対馬の漁港]]
 
{{main|対馬市#経済}}
 
 
 
=== 農林業 ===
 
全島が山林におおわれ平地は少なく、農業は全般的にふるわない。明治時代まで山地の焼畑による[[アワ]]、[[ヒエ]]、ソバ、[[ダイズ]]がつくられたが、現在はコメのほか、普通畑による[[麦]]、[[サツマイモ]]、[[ジャガイモ]]が主である。林業は、かつては薪炭材やパルプ材として利用されてきたが、今日ではスギや[[ヒノキ]]が重要性を増しており、ヒノキは「対馬ひのき」としてブランド展開されている。豊富な[[コナラ]]の資源を利用した[[シイタケ]]栽培もさかんで、とくに[[シイタケ#干し椎茸|ドンコ]]の品質には定評がある<ref name=heibon/>。
 
 
 
=== 水産業 ===
 
[[漁業]]は対馬の基幹産業のひとつで、伝統的に対馬近海や[[日本海]]での[[イカ]]の[[一本釣]]漁がさかんで、[[スルメ]]が特産であった。[[鯛|タイ]]や[[ブリ]]などの一本釣漁、沿岸での[[定置網漁]]もおこなわれている。[[日韓漁業協定]]による共同規制水域の設定により出漁隻数の制限を受け、漁獲高は年々減少しており、[[アワビ]]は密漁による被害を受けている<ref name=heibon/><ref>2003年度、{{PDFlink|[http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/live/images/youran/shiryo.pdf 対馬市市勢要覧 DATA(資料編)]}}56p下段 主な魚種別漁獲量の推移</ref><ref name=tvasahi>[http://www.tv-asahi.co.jp/hst_2006/contents/special2/061018.html 密漁の海・対馬海峡-繰り返されていた領海侵犯] - [[テレビ朝日]]「報道ステーション」2006年10月18日放送</ref>。また、浅茅湾を中心に[[真珠]]の養殖がさかんであり、これは大正時代より始まったものである。
 
 
 
== 民俗 ==
 
朝鮮動乱のなか対馬を踏査した民俗学者[[宮本常一]]は、[[鎌倉時代]]の[[宗家]]来島以来の[[古文書]]をもっている旧家が幾つかあることに注目し<ref name=miyamoto/>、全く同じ土地で600年もの間、人びとが生活し續け、しかも、中世の[[宛行状]]や[[安堵状]]にみえた田畑を今日まで作続けていることについて「世の中にこういう世界もあるのか」「中世がそのままといいたいほど残っている」と驚嘆している<ref name=miyamoto/>。しかし、宮本の言う中世とは厳格な史料批判に基づいたものではなく、歴史学の観点からは批判が多い。ただし、『忘れられた日本人』(1960)に収録された対馬に関する聞き書きは<ref>[[宮本常一]]『忘れられた日本人』[[未来社]](1960)。岩波文庫、1984年</ref>、村の意志決定過程や身分制度、女性の在り方などに関する貴重な記録になっている。
 
 
 
=== 九学会連合対馬調査 ===
 
対馬における本格的な民俗学調査は1950年から1951年におこなわれた[[九学会連合]]対馬調査にはじまる<ref name=heibon/><ref name=miyamoto/>。調査報告書である『対馬の自然と文化』(1954)はその後の研究の基礎となった<ref>[[九學會連合對馬共同調査委員會]]編『対馬の自然と文化』[[古今書院]](1954)</ref>。その結果、対馬は、[[身分制度]]の本戸と寄留、聖地と村落の独自の構成、年齢集団や隠居制家族、親分・子分関係、[[天道]](天童)信仰など、多くの重要な文化項目が認められ、民俗学的にきわめて貴重な地域であることが指摘できる<ref name=heibon/>。
 
 
 
=== 対馬の社会構造 ===
 
対馬では旧[[士族]]が[[村落]]に居住し、本戸(山林や海浜の共有権を持ち村落の社会運営にたづさわる家)や寄留(次三男以下、あるいはタビノモンと呼ばれる他から来住した者)などとともにきびしい身分制度があり、新戸(明治になって分家した家)もふくめ、村落のさまざまな[[権利]]関係や[[祭祀]]運営などにおいて特別な秩序があった。この身分制度は、東北日本型村落の親分子分による同族型(家連合)とは異なり、本戸の平等性を維持する。本戸の数が村ごとに一定数に定められていたのは、資源確保の意味があった。そして、隠居制家族や年齢集団などでは西南日本型村落の要素が強くみとめられる。<ref name=heibon/><ref name=miyamoto/>。
 
 
 
=== 生業の特色 ===
 
かつて重要な役割を果たした焼畑は今日では衰退している。また、壱岐・対馬・[[五島列島]]・[[山陰]]・[[北陸]]など広い範囲で活動した[[筑前国]][[鐘崎]]の[[海人]](海士・海女)は、中世前半に宗氏が鐘崎を領有していたところから対馬でも漁業権を得たものであるという。なお、江戸時代には、採集した[[アワビ]]を乾燥させ、[[俵物]]などとして[[中国]]へ輸出することも多かった。
 
 
 
=== 対馬方言 ===
 
[[対馬方言]]は、[[九州方言]]に属し、かつては[[朝鮮語]]との関係を期待されて、その観点から多くの[[日本語]]との[[比較言語学]]的研究がなされた一時期もあったが、今日では[[語彙]]における[[借用語]]以上の共通性は見られないことが判明している。
 
 
 
=== 対馬の民話 ===
 
古くから対馬で言い伝えられてきた民話としては、「狐の仇うち」「夕影山の主」「美女塚」「京のさかづき」などがある<ref name=minwa/>。
 
 
 
=== わらべ唄 ===
 
{{Quotation|
 
{{Indent|'''手毬つき唄'''<ref>吉松・浜名編『日本の民話 21』(1978)p.247</ref>}}
 
 
 
:さてもみごとな 万松院のさくら
 
:宵につぼんで 夜中にひらく
 
:朝の六つから ちらほらと ちらほらと
 
}}
 
{{Quotation|
 
{{Indent|'''お手玉唄'''<ref>吉松・浜名編『日本の民話 21』(1978)p.248</ref>}}
 
 
 
一(ひと) 二(ふた) ちょうろくさん
 
:なんぼが豆腐
 
:豆腐がにんじん
 
:にんじんが山椒
 
:山椒が椎茸
 
:椎茸がごぼう
 
:ごぼうがローソク
 
:ローソクが七輪
 
:七輪が羽釜
 
:羽釜が鯨
 
:鯨が百匁
 
}}
 
 
 
=== 石屋根 ===
 
対馬特有の[[景観]]として、板状の粘板岩や頁岩で[[屋根]]を葺く「[[石屋根]]」と呼ばれる建物がある。おもに[[高床倉庫]]などに用いられる。
 
 
 
=== 天道信仰 ===
 
対馬の[[山岳信仰]]と[[太陽崇拝]]、[[母子神]]信仰、[[真言宗]]が習合して神仏混淆の[[天道]]信仰が展開した。根拠地は南の豆酘と北部の佐護湊である。『天道縁起』(元禄3年・1690。豆酘・主藤家蔵)によれば、ある女が[[太陽]]に感精して孕んで[[天道]]を生んだ。長じて霊験を表わし空中を飛んで朝廷に至り病気を治し、帰国後に山中の[[龍良山]]に祀られたと説く。山上に[[御子神]]、山麓の水辺に[[母神]]を祀る。[[観音]]信仰や[[八幡神|八幡]]信仰と結びつく。遥拝所は浅藻に[[八丁角]]という塔が積まれた聖地がある。『[[津島紀事]]』(文化6年・1809)には、ウツロ船に乗った女御が内院に流れ着き、朝日の光で感精して天道を生んで霊験を表し山に祀られたと説く。[[豆酘]]では天道信仰は供僧(くぞう)と呼ばれる人々が、神前読経で神仏混淆で[[多久頭魂神社]](たくつたま。旧[[観音]]堂)に奉仕し、旧暦正月10日に天道法師がもたらしたとされる[[赤米]]の頭渡し行事を行う<ref>[[鈴木棠三]]『対馬の神道』三一書房(1972)</ref>。『対州神社誌』(貞享3年・1686)には、島内各地で男女の法者(ほさ)と[[命婦]](みょうぶ)が神仏混淆の祭祀を行う実態が描かれている。元禄15年(1702年)に藤氏が総宮司職に就任して[[復古神道]]を取り込み、社名や祭神を古代の神話にあてはめて以来、対馬神道と呼ばれる独自の祭祀が展開した。対馬の神社を[[式内社]]に比定する動きが高まり29社の考証が行われた<ref>[[永留久恵]]『[[海神]]と[[天神]]ー対馬の風土と神々』[[白水社]](1988)。『対馬国志』私家版(2009)</ref>。
 
 
 
=== 祭祀と葬制 ===
 
木坂と青海には海辺の石を積み上げて「[[ヤクマの塔]]」を造り、[[6月 (旧暦)|旧暦6月]]の[[初午]]の日に神饌を供えるヤクマ祭りの祭祀がのこっている。麦の収穫を感謝し天道を祀る行事である<ref>[[鈴木正崇]]「対馬・木坂の祭祀と村落空間」「対馬・青海の祭祀と村落空間」『祭祀と空間のコスモロジー』春秋社(2004)</ref>。対馬の各所で行われた習俗であったが、現代では両地区にのみに継承されている<ref>[http://www1.ocn.ne.jp/~kurose/fcevent4.htm ヤクマの塔] - 対馬の民俗&伝統行事</ref>。また、木坂と青海には「埋め墓」と「詣り墓」を別に設ける[[両墓制]]という独特の[[葬制]]がある。木坂は[[海神神社]](旧木坂八幡宮)に奉仕する社人の集落であったという要因が大きい。両墓制は佐護湊や豆酘でも行われていた<ref>[http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/tushima/kisaka/kisaka.htm 木坂地区(長崎県対馬市峰町木坂)] - 写真満載九州観光</ref>。
 
 
 
=== 行事 ===
 
*[[1月3日 (旧暦)|旧暦正月3日]] - 豆酘・雷神社の[[亀卜]]行事(亀の甲を焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う神事。豆酘の岩佐家の世襲行事。藩政時代には[[仁位]]で亀卜、[[佐護]]では鹿の骨の占いがおこなわれていたという記録がある)。
 
*[[1月10日 (旧暦)|旧暦正月10日]] - 豆酘の赤米頭受行事
 
*旧暦6月初午の日 - 木坂・青海のヤクマ祭り
 
*8月第1土・日曜日 - 対馬厳原港まつり
 
*[[11月12日]]・[[11月13日|13日]] - 小茂田浜神社大祭(神官が元軍を想定して海に向かって弓を射る神事がある)。
 
 
 
=== 豆酘集落 ===
 
[[2009年]](平成21年)、[[豆酘]](つつ)集落が、「[[海士]]による潜水漁や[[赤米]]の栽培・神事など、古い文化を残す。供僧が天道の祭りに奉仕する形態が残る<ref>[[鈴木正崇]]「対馬・[[豆酘]]の祭祀と村落空間」『祭祀と空間のコスモロジー』春秋社(2004)</ref>。[[里山]]を利用した[[養蜂]]や在来種ソバの栽培も盛ん」として「[[にほんの里]]100選」([[朝日新聞]]創刊130周年・[[森林文化協会]]創立30周年記念事業)に選ばれた<ref>[http://www.sato100.com/news/100/089.html にほんの里100選「豆酘」]</ref>。
 
 
 
== 韓国との交流 ==
 
=== 対馬の韓国での呼称 ===
 
韓国では長らく、「対馬島({{lang|ko|對馬島}})」の[[朝鮮語]]読みである「{{lang|ko|대마도}}(テマド/Daemado)」という呼称を使用していた。現在{{いつ|title=いつから|date=2013年8月}}、韓国政府の公式に出版する資料では、[[外来語表記法 (大韓民国)|外来語表記法]]に基づき「{{lang|ko|쓰시마 섬}}(スシマソム/Sseusima-seom、つしま+島)」と表記されるが、従来通り「{{lang|ko|대마도}}」と呼ぶ場合もある。
 
 
 
=== 交流の概況 ===
 
対馬は1990年代頃から、日韓交流の拠点となるべくイベントの開催等さまざまな活動を行っており、なかでも[[厳原港#名所など|対馬アリラン祭]]は島最大のイベントとなっている。他にも[[国境マラソンin対馬]]、[[対馬ちんぐ音楽祭]]などがある。
 
 
 
さらに島内のほとんどの道路標識に朝鮮語を併記するなど、観光客の誘致に力を入れている。また、対馬島内の複数の中学校が韓国内の中学校と姉妹校縁組を締結しており[[ホームステイ]]などの交流を行なっている。対馬市は釜山広域市の[[影島区]]と姉妹都市提携を結んでおり、釜山市内に市の事務所を構えている。長崎県が推定した2007年度の韓国人観光客による経済効果は21億6,000万円としている<ref>{{cite news
 
| url = http://qnet.nishinippon.co.jp/travel/busan/news/20090429/20090429_0001.shtml
 
| title = 韓国人観光客の対馬市来訪 経済効果21億6000万円 07年、長崎県推計
 
| newspaper = [[西日本新聞]]
 
| date = 2009-04-29
 
| accessdate = 2009-12-06
 
}}</ref>。
 
 
 
対馬では流れ着いた漂着ゴミを減らすため、毎年、日韓合同で対馬北部の海岸の清掃(ゴミ拾い)を実行している。毎年夏に開かれている「厳原港まつり」では韓国人が参加者の半数を占めるようになり「対馬[[アリラン]]祭」と呼称されていた<ref name="soumoutsushimakojima">{{Cite web |author = 小島健一 |date = 2009-11-09 |url = http://www.soumou.net/cgi-bin/blog/diary.cgi?no=5 |title = 対馬が危ない! 小島健一 (神奈川県議) |publisher = 草莽全国地方議員の会 |accessdate = 2009-12-12 }}</ref>。
 
 
 
しかし、[[対馬仏像盗難事件]]などの影響もあり、2013年には韓国との種々の交流行事がストップした。また2014年11月には新たな窃盗団による仏像盗難事件が起こった<ref>[http://www.news24.jp/articles/2014/11/25/07264023.html 寺から仏像盗む 韓国人窃盗団逮捕 対馬市] - 日テレNEWS24(2014年11月25日)</ref>。
 
 
 
=== しま交流人口拡大特区 ===
 
長崎県は、対馬全域を「しま交流人口拡大特区」として[[構造改革特別区域]]提案・申請し、[[2003年]](平成15年)11月28日に認定された<ref>[http://www.pref.nagasaki.jp/tokku/ 構造改革特区について](長崎県)</ref>。この認定により、以下の事業が可能になった<ref name="tokku"/>。
 
*韓国人団体旅行者などが短期滞在型[[査証]]の発給を受ける場合、その手続きが簡素化される。
 
*長崎県立対馬高等学校国際文化交流コースにおいて、学校設定単位として、韓国との関係を重視した教科・科目を25単位設置する。
 
 
 
== 社会問題 ==
 
=== 環境問題 ===
 
==== 生態系保全 ====
 
希少動物が多く生息してはいるが、その生息状況は芳しいとはいえない状態である。森林の伐採により[[ツシマヤマネコ]]が住処を失い、[[1920年]]には日本で対馬にしか生息していなかった[[キタタキ]]が[[絶滅]]している。また過疎による耕作地の荒廃が餌の小鳥やネズミを減らし、野猫対策の罠や[[農薬]]、道路開発による自動車事故もまたツシマヤマネコを危機に追い込んでいる([[ツシマヤマネコ#絶滅に瀕するツシマヤマネコ]]も参照)。
 
 
 
壱岐対馬国定公園内に韓国の[[国花]]である[[ムクゲ]]を無許可で植栽する者がおり、[[生態系]]の保全の観点から問題視されている。
 
  
==== ゴミ問題 ====
+
[[長崎県]]北西端,九州島と朝鮮半島とのほぼ中間にある国境の島。六つの有人島と約 70の無人島からなり,全島で[[対馬市]]を形成する。南北約 82km,東西約 18km。おもに砂岩からなるゆるやかな起伏の山地で,中央部に[[浅茅湾]]がある。中世以降,[[宗氏]]の支配地で厳原はその城下町,朝鮮貿易の開港場であった。日本海の出入口にあって,大陸との交通上,軍事上の要地にあたり,外寇の悲史が多い。また,浅茅湾は[[倭寇]]の根拠地であった。第2次世界大戦終戦までは全島が要塞地帯であり,日露戦争時の対馬沖海戦は有名。中心集落は厳原と比田勝 (上対馬町) で国道 382号線で結ばれ,博多,小倉との間にそれぞれ定期船が就航している。美津島町には空港があり,福岡,長崎と結ばれている。鉛,亜鉛,銅などを産出していた厳原の[[対州鉱山]]は,付近一帯がカドミウム汚染要観察地域に指定され,1975年閉山した。浅茅湾沿岸,北部海岸などは[[壱岐対馬国定公園]]に属し,特に浅茅湾沿岸は景勝地が多い。天然記念物の[[ツシマヤマネコ]],ツシマテン,[[ヒトツバタゴ]]など貴重な動植物がみられる。
対馬島の沿岸には、[[対馬海流]]にのって外国からのゴミが漂着する。[[中華人民共和国]]や[[中華民国]]([[台湾]])、[[ロシア]]からのものもあるが、その大半は[[大韓民国]]のゴミである。漂着ゴミは、[[プラスチック]]製の各種容器・生活廃棄物・漁具類のほか、テレビや[[冷蔵庫]]等の大型ゴミもある。また、[[2000年]]以降は毎年、韓国の[[養殖業]]で使用されたと見られる[[薬品]]用[[ポリタンク]]が大量に漂着する。これらのポリタンクには、[[塩酸]]や[[過酸化水素]]等と[[ハングル]]表記されている。実際に薬品が残っていた例もあった。これらの廃棄物は、1年間で約4400トンが漂着し、その量は対馬市が処理する一般廃棄物の3分の1に当たり、その費用として2001年(平成13年)からの7年間で2800万円を要する<ref>「対馬にごみ襲来 ドラム缶や注射器、韓国などから」-2009年2月27日[[読売新聞]]</ref>。なお、韓国からゴミを回収する[[対馬#交流|ボランティアが来島]]したこともあった。
 
 
 
=== 過疎問題 ===
 
{{人口統計|code=42209|name=対馬市}}
 
[[1960年]](昭和35年)には6万9,556人<ref>[http://www1.odn.ne.jp/muraoka/uma.htm 対州馬](原出典は国勢調査)</ref>であった人口も[[2010年]](平成22年)には34,116人<ref group="*">4月1日段階の推計。</ref>に減少しており、50年間で人口は半減し、年間400人から500人もの人口が減少している。特に旧[[峰町]]の減少率が著しい<ref name=city>{{PDFlink|[http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/tsushimakoutuhp/2kaigi/2/2siryou.pdf 対馬市地域公共交通総合連携計画]}}</ref>。島内には[[大学]]や[[短期大学]]もなく、若者の人口流出が著しく、[[少子高齢化]]が進んでいる。[[2009年]](平成21年)における全人口に対する65歳以上の人の割合は28.7%であり、少子高齢化の速度は全国平均および[[長崎県]]平均よりも速い<ref name=city/>。[[小学校]]の閉校も相次いでいる。対馬市によれば、[[2030年]]の推計人口は、2万3,000人程度である<ref name=city/>。
 
 
 
かつての主産業であった[[水産業]]・[[林業]]・[[鉱業]]はいずれも不振であり、[[生活道路]]などの整備も不充分ななか、[[公共事業]]も削減されて大きな痛手となっており、豊かな自然と長い歴史、独自の民俗文化等にめぐまれていることから、近年は[[観光]]に力を入れている。
 
 
 
[[2009年]]、長崎県議会は国([[内閣総理大臣]]、[[国家戦略担当大臣]]、[[総務大臣]]、[[財務大臣]]、[[内閣官房長官]]、[[衆議院議長]]、[[参議院議長]])に対し、「[[新過疎法]]」の制定促進を求める意見書を提出している<ref>{{cite press release
 
| title = 「新過疎法」の制定促進を求める意見書
 
| publisher = 長崎県議会
 
| date = 2009-12-17
 
| url = h
 
| accessdate = 2010-05-29
 
}}
 
</ref>。
 
 
 
=== 韓国人旅行客のマナー問題 ===
 
[[1999年]]に[[厳原港]]・[[比田勝港]]-釜山港間の定期船航路開設以降、多くの韓国人観光客が対馬を訪れるようになったが、同時に一部の韓国人観光客のマナーの悪さが島内のみならず本土でも問題が取り上がられるようになった。
 
* 一部の韓国人観光客は、外国人には禁止されている[[撒き餌漁]]を行ったり、飲食店では[[無銭飲食|食い逃げ]]や、食料品を持ち込んで注文をせずに居座るなどの行為が問題となっており、飲食店の中には「韓国人観光客お断り」の店も増えてきている。[[100円ショップ]]やスーパーなどでの[[万引き]]も横行しており、島民は困惑している<ref>『週刊SPA!』12/23・1/6号 28-29P</ref>。また、壱岐対馬国定公園内に大韓民国の国花である[[ムクゲ]]を無許可で植栽し、逮捕者を出すなどの問題も発生している。なお、韓国には対馬にムクゲを植える運動を広げる旅行社がある<ref>{{cite news
 
| url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=71565&servcode=400&sectcode=400
 
| title = 対馬は今「小さな韓国」
 
| newspaper = [[中央日報]]
 
| date = 2006-01-10
 
| accessdate = 2009-12-06
 
}}</ref>。
 
* [[和多都美神社]]では、[[絵馬]]に「対馬は確実に韓国の領土」「日本の[[天皇]]は韓国の子孫」などの書き込みがなされるようになってきている<ref name="soumoutsushimakojima"/>。
 
 
 
=== 韓国人ブローカーによる文化財の窃盗問題 ===
 
2012年の[[対馬仏像盗難事件]]をはじめ、韓国人による文化財の窃盗事件が頻発している。対馬は防犯意識が低く、朝鮮渡来品が多いため、盗品ブローカーたちからは「宝の島」と呼ばれている。<ref>長崎新聞 2012年11月9日 【地域】「宝の島」対馬で文化財が次々に窃盗被害…韓国に流出、闇取引される可能性も 防犯体勢整わず</ref>
 
 
 
=== 領海侵犯・密漁問題 ===
 
対馬に対しては、韓国漁船による[[領海侵犯]]が日常的におこなわれており、その主たる目的は[[アワビ]]の[[密漁]]である。密漁船の多くは釜山港を拠点としており、組織ぐるみで密漁している。韓国人密漁者には1年間で2億5,000万円を稼ぎ出す者がいるいっぽう、地元漁師のなかには、以前にくらべアワビ漁による収入が10分の1に激減した者がいる<ref name=tvasahi/>。
 
 
 
== 外交問題 ==
 
=== 韓国の対馬領有権主張 ===
 
; 李承晩時代
 
: [[1949年]](昭和24年)[[1月17日]]、[[李承晩]]は対馬は韓国領として日本に「返還」を要求した<ref>{{cite news
 
| url = http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2009/01/07/0200000000AJP20081222003300882.HTML
 
| title = 今日の歴史(1月7日)
 
| newspaper = [[聯合ニュース]]
 
| date = 2009-01-07
 
| accessdate = 2010-01-02
 
}}</ref>。また、[[第二次世界大戦]]後に日本を占領した連合軍[[連合国軍最高司令官総司令部|総司令部]] (GHQ) に対し、[[大韓民国|韓国]]の李承晩政権は[[竹島 (島根県)|竹島]]だけでなく対馬についても「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と述べ<ref>{{cite news
 
| url = http://www.chosunonline.com/article/20050410000024
 
| title = 韓国、サンフランシスコ講和条約で対馬領有権を要求
 
| newspaper = [[朝鮮日報]]
 
| date = 2005-04-10
 
| accessdate = 2010-01-02
 
}}</ref>、日本からの割譲を要求したが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]からは「根拠がない」として拒否された。
 
;「對馬島の日」
 
: [[2005年]](平成17年)[[3月18日]]、韓国[[慶尚南道]][[馬山市]]議会は、[[島根県]]議会の「[[竹島の日]]」に対抗すると称して[[対馬島の日|「對馬島の日」({{lang|ko|대마도의 날}})条例]]を在籍議員30人のうち出席議員29人全員の賛成で可決した。条例は「対馬島が韓国領土であることを内外に知らしめ、領有権確立を目的とする」と規定している<ref>{{cite news
 
| url = http://www.chosunonline.com/article/20050318000076
 
| title = 馬山市議会が「対馬島の日」条例を可決
 
| newspaper = 朝鮮日報
 
| date = 2005-03-18
 
| accessdate = 2010-01-02
 
}}</ref>。これに対して韓国政府は馬山市に条例の撤回を要請した。また、対馬市議会の波田政和議長は[[2006年]](平成18年)10月6日、馬山市議会に『對馬島の日』条例の廃止措置を要請したが、これに対して馬山市議会は「対応する価値がない」として条例を廃止しないことを明らかにした<ref>{{cite news
 
| url = http://news.naver.com/news/read.php?mode=LSD&office_id=082&article_id=0000112326
 
| title = "'대마도의 날' 폐지 못해"
 
| newspaper = 釜山日報
 
| date = 2006-11-02
 
| accessdate = 2010-01-02
 
| language = 韓国語
 
}}</ref>。
 
;「対馬の領土を要求する韓国議員連盟」
 
: 現在の韓国政府は李承晩時代のように対馬の領有を主張しているわけではないが、[[2008年]](平成20年)[[7月21日]]、韓国の[[ハンナラ党]]の[[:ko:허태열|ホ・テヨル]]、[[:ko:정갑윤|チョン・カビュン]]議員ら50人余の国会議員が「対馬は韓国の領土であり、日本は対馬を韓国政府に即時返還すること」を求める『対馬の大韓民国領土確認および返還要求決議案』を提出し、韓国国会の外交通商統一委員会に付託された<ref>{{cite news
 
| url = http://news.hankooki.com/lpage/politics/200807/h2008072119143721060.htm
 
| title = 한국일보 : "대마도는 한국땅, 즉각 반환" 국회 결의안 발의(国会決議 『対馬は韓国の地 すぐに返還を』)
 
| newspaper = [[韓国日報]]
 
| date = 2008-07-21
 
| accessdate = 2010-01-02
 
| language = 韓国語
 
}}</ref>。
 
: 同案に対して世論調査機関リアルミーターが2008年7月に実施した19歳以上の男女700人を対象にした世論調査によると「日本に対馬返還要求すべき」との主張に賛成する人は50.6%、反対意見は33.5%である<ref name="joinscom20080727">{{cite news
 
| url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=102897&servcode=400&sectcode=400
 
| title = 「日本に対馬返還要求すべき」賛成50.6%
 
| newspaper = [[中央日報]]
 
| date = 2008-07-27
 
| accessdate = 2010-01-02
 
}}</ref>。2010年9月、「対馬は歴史的、文化的、人種的に私たちの領土であることが明らかであるにも関わらず、対馬に対する私たちの関心は初代制憲国会での領有権主張とサンフランシスコ講和会議での返還要求以後、事実上一度もない状態で現在に至った」と主張する韓国議員37名が、日本が不法に強制占領している対馬を早く返還させるための議員連盟を結成した<ref>アジア経済(韓国語) "対馬は私たちの土地"与野党の議員37人対馬フォーラム創立 [http://www.asiae.co.kr/news/view.htm?idxno=2010092813020004100]</ref>。
 
; 領有権主張の歴史的根拠
 
: [[李氏朝鮮]]が応永の外寇の最中、朝鮮国王[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]が[[宗貞盛]]に宛てた書簡に「対馬の島たる、慶尚道の鶏林に隷す。本是れ我が国の地なり。載せて文籍に在り。昭然考うべし」と記し、2年後、対馬から朝鮮に派遣された使者は「本島(対馬)は本大国の牧馬の地なり」との返事を送った記録がある(『朝鮮世宗実録』元年7月庚申条及び3年4月己亥条)。この返答は[[偽使]]によるものと考えられ、15世紀の対馬の人びとに朝鮮への帰属意識があった証拠とはならないが、朝鮮側のこうした対馬観を当時の倭寇鎮圧にみられる強硬策の背景として考えることはできる<ref>田中健夫(1997)p.15</ref>。[[ファイル:Tsushima 1471.jpg|right|thumb|[[申叔舟]]『[[海東諸国紀]]』([[1471年]])の「日本国対馬嶋図」]]
 
: その後、朝鮮の[[領議政]]([[宰相]])であった[[申叔舟]]が[[1471年]]に編纂した『[[海東諸国紀]]』は日本国対馬島の図<ref>[http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/eastasia/kaitou.htm 九州大学デジタルアーカイブ・海東諸国紀]</ref>を掲載し、本文では対馬島を「日本国西海道に属す」として島内の事情を詳述している。[[16世紀]]に刊行された朝鮮の地理書『[[新増東国輿地勝覧]]』の「八道総図」には対馬が明確に朝鮮領として記述はしていないものの、地図には朝鮮に隣接する領土外地域もともに描かれており、北方国境である[[鴨緑江]]・[[豆満江]]北側の[[明]]の領土が地図内に描かれているとともに対馬も描かれている。この「領土外地域」を、現代の韓国では「八道総図」で対馬が朝鮮領として描かれていると解釈して、これを根拠に対馬は韓国領だとする主張がある。
 
; 対馬市長の声明
 
:2008年7月、これらの韓国側の主張に[[財部能成]]対馬市長は「主張は自由だが、対馬は先史時代以降ずっと日本。『[[魏志倭人伝]]』にも[[倭国]]の中に入っている。対馬が韓国領土というのはあり得ない」との声明を発表した<ref name="nagasakisinbun20080722">[[長崎新聞]]2008年7月22日</ref><ref name="nagasakisinbun20080724">{{cite news
 
|url          = http://www.nagasaki-np.co.jp/douga/20080723/03.shtml
 
|title        = 【動画】竹島問題で韓国退役軍人が抗議 対馬市民反発で現場騒然
 
|newspaper    = [[長崎新聞]]
 
|date        = 2008-07-24
 
|accessdate  = 2010-05-31
 
|archiveurl  = https://archive.is/20120904174551/http://www.nagasaki-np.co.jp/douga/20080723/03.shtml
 
|archivedate  = 2012年9月4日
 
|deadlinkdate = 2017年10月
 
}}</ref>。
 
: [[2008年]](平成20年)[[7月23日]]、韓国の退役軍人らで構成する抗議団21人が対馬市役所前で「独島は韓国領土、対馬も韓国領土」と主張する横断幕を掲げ抗議活動を展開、一部の市民と道路を挟んで対峙し、怒号が飛び交うなど騒然とした雰囲気に包まれた<ref name="nagasakisinbun20080724" />。[[2009年]][[3月26日]]には、[[ソウル特別市|ソウル]]にある日本文化センターに[[火炎瓶]]のようなものをもった3人組の男が侵入し、「対馬は韓国領土」などと書いたビラを持って立てこもった<ref>{{cite news
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090326/kor0903262348004-n1.htm
 
| title = 男3人がソウル日本文化センターの図書閲覧室を一時占拠 「対馬は韓国領土」
 
| newspaper = [[産経新聞]]
 
| date = 2009-03-26
 
| accessdate = 2010-01-10
 
}}</ref>。同年[[11月4日]]には、「対馬は韓国領」と記載された文書や刃物などを持ちこんで、日本大使館に[[放火]]し、大使館員を人質にしようとした男が逮捕された<ref>{{cite news
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/world/korea/091105/kor0911051250002-n1.htm
 
| title = 「対馬は韓国領」 韓国人の男、日本大使館放火未遂で拘束
 
| newspaper = [[産経新聞]]
 
| date = 2009-11-05
 
| accessdate = 2010-01-02
 
}}</ref>。このほか[[市民団体]]の[[活貧団]](ファルビンダン)なども「対馬は韓国領土」と継続して主張し、活動している。
 
; 歴史教科書への領有権記載運動
 
: 2010年4月1日、韓国の政府[[与党]]である[[ハンナラ党]]は韓国の歴史教科書(国定国史教科書)に対馬の領有権についての記述を推進することを決定した<ref>{{cite news
 
| url = http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=127828&servcode=200&sectcode=200
 
| title = ハンナラ党「韓国の教科書に対馬領有権を記述しよう」
 
| newspaper = [[産経新聞]]
 
| date = 2010-04-02
 
| accessdate = 2010-04-07
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 防衛問題 ===
 
==== 日本側の防衛体制 ====
 
対馬には[[陸上自衛隊]][[対馬警備隊 (陸上自衛隊)|対馬警備隊]]、[[海上自衛隊]][[対馬防備隊]]、および[[航空自衛隊]][[第19警戒隊]]が置かれているが、超党派の議員連盟[[日本の領土を守るため行動する議員連盟]]と[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[真・保守政策研究会]]が2008年12月に現地で行った調査では、必要な艦船・航空機の欠如、少数の要員(全体で700人)、実弾の供給不足に起因する隊員の訓練不足が指摘され、防衛機能を果たすには不十分な状況にあることが明らかにされている<ref name="sankei20090115">{{cite news | url = http://megalodon.jp/2008-1222-1351-08/sankei.jp.msn.com/politics/policy/081220/plc0812202227008-n2.htm | title = 【対馬が危ない!】防人新法、作業着手へ 議連、政府に早急調査求める | newspaper = NSN産経ニュース | publisher = [[産業経済新聞社|産経新聞社]] | date = 2009-01-15 | accessdate = 2009-12-12 }}</ref>。また、現地における[[自衛隊]]の国防意識が希薄になっている現状も指摘され、防衛上の新法作成が必要との提言がなされている<ref name="sankei20090115"/><ref name="soumoutsushimakojima"/>([[#韓国資本の土地買収問題|後述]])。
 
 
 
==== 韓国側の動き ====
 
前[[韓国軍#海軍|韓国海軍]]作戦司令官の[[金成萬]]は[[2007年]](平成19年)に対馬への軍事侵攻計画を作成するよう韓国政府に進言している<ref>{{cite web
 
| author = 金成萬
 
| authorlink = 金成萬
 
| url = http://www.konas.net/article/article.asp?idx=11906
 
| title = 우리 땅 '독도'를 지키자
 
| publisher = Korean National Security Net
 
| language = 韓国語
 
| date = 2007-07-13
 
| accessdate = 2009-12-05
 
}}</ref>。
 
 
 
2008年には、[[韓国軍]]退役軍人の団体が対馬市役所前で指を噛み切り、[[大韓民国の国旗|韓国国旗]]に血書で「[[独島]]は韓国領土」などと書きこむ事件が起きた<ref name="soumoutsushimakojima"/>。2009年には、[[在日本大韓民国民団]](民団)対馬島地方本部事務局長の妻を持つ、日本に帰化した元韓国人男性が20年間にわたって自衛隊員との親密な交流を深めながら、基地を訪れては自衛隊の演習や人員配置などを書き写していることが報じられている<ref>{{cite news
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/090609/plc0906090121000-n1.htm
 
| title = 【対馬が危ない!】日本に帰化韓国人男性 海自施設で不可解行動
 
| newspaper = MSN産経ニュース
 
| publisher = 産経新聞社
 
| date = 2009-06-09
 
| accessdate = 2009-12-05
 
}}</ref>。2013年には[[観光客]]として対馬に潜入した数千人の工作員と韓国系[[自衛官]]などが韓国・北朝鮮政府に協力して対馬を征伐奪回するとした書籍が韓国でベストセラーとなる<ref>[http://www.j-cast.com/2013/09/27184876.html?p=all 韓国が北朝鮮と組んで「対馬奪回」作戦 ベストセラー『千年恨 対馬島』の荒唐無稽] Jcast news 2013/9/27</ref>。
 
 
 
==== 対馬島民による自衛隊増強要請 ====
 
2009年[[1月29日]]、財部能成対馬市長、[[作元義文]]対馬市議会議長をはじめとする対馬市民が[[防衛省]]を訪れて対馬市議会作成の自衛隊増強の嘆願書を提出している<ref name=asagumo20090129>[http://www.asagumo-news.com/news/200901/090129/09012908.html 「対馬の自衛隊増強を」市長と市議会1個連隊常駐など要望] 朝雲ニュース 2009年1月29日</ref>。要望書の概要は以下の通り
 
 
 
; 陸上自衛隊: 現在の部隊規模では侵攻に対する抑止力が不十分であり、実効的対応は極めて困難であるため、1個連隊規模の常駐部隊の配置、ヘリ部隊の配置、演習場の確保、装備弾薬の集積地の確保など<ref name=asagumo20090129/>。
 
; 海上自衛隊: [[イージス艦]]を始めとする[[護衛艦]]専用岸壁の整備、[[哨戒ヘリ]]、[[ミサイル艇]]の常備配備、それらを支援する部隊の常駐など<ref name=asagumo20090129/>。
 
; 航空自衛隊: 大型輸送機による離着陸を可能とする空港、訓練場の整備など<ref name=asagumo20090129/>。
 
 
 
自衛隊増強要望書提出に際しては、島民は、対馬が古来より現在まで変わることなく国境の最前線であるという認識を持ち続けていることを理由として掲げている<ref name=asagumo20090129/>。
 
 
 
=== 韓国資本の土地買収問題 ===
 
2008年頃から韓国資本が対馬で土地の買い占めを行っているとの報道がなされるようになり、[[浜田靖一]]防衛大臣は「政府で検討すべき問題」、[[中曽根弘文]]外務大臣は「わが国の領土を守るのは国家の最重要課題」と国会で答弁した。
 
 
 
また、海上自衛隊対馬防備隊本部の隣接地で旧日本海軍の施設のあった土地の所有者が自衛隊への売却を希望したが、自衛隊側が買収予算計上に時間をかけている間に、韓国資本が日本人名義で土地を買収し、リゾート施設を建設したことも明らかになった<ref name="soumoutsushimakojima"/>。2008年[[12月20日]]に超党派の国会議員グループ11人が対馬を公式視察した際、視察団長の[[平沼赳夫]]はこの件に触れ、海上自衛隊が危機意識を感じていないとして「領土意識が希薄になっていることを象徴している」と危機感を表明し、[[国境対馬振興特別措置法案|国境対馬振興特別措置法]](防人の島新法)制定の必要性を訴えた<ref name=sankei20090115/><ref>{{cite news | author = [[宮本雅史 (ジャーナリスト)|宮本雅史]] | url = http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/081220/plc0812202227008-n2.htm = 【対馬が危ない!】議員団、現地視察で驚いた! 韓国資本の買収地は旧日本軍港だった| newspaper = [[産経新聞]] | date = 2008-12-20 | accessdate = 2009-12-12 }}</ref><ref>{{cite news | author = 宮本雅史、池田証志 | url = http://s04.megalodon.jp/2009-0107-0911-35/www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/199784/ | title = 【対馬が危ない!!】防衛相、外相ともに危機感表明 「政府で検討」対応前進 | newspaper = iza! | publisher = 産経新聞社 | date = 2008-12-28 | accessdate = 2009-12-12 }}</ref>。
 
 
 
2008年11月12日の合同会議では、韓国資本による不動産買い占めは5500坪(島全体の0.26%)におよぶことが報告された。新法では、国防機関の設置や領土保全に対する特別措置などを盛り込むよう求めた。ただし、韓国人が日本人名義で不動産の買収を行うケースもあるため、実際の買収状況を把握することは困難という指摘がある<ref>{{cite news
 
| author = 宮本雅史
 
| url = http://sankei.jp.msn.com/life/trend/081021/trd0810210907005-n1.htm
 
| title = 【対馬が危ない】(上)韓国、不動産相次ぎ買収
 
| newspaper = MSN産経ニュース
 
| publisher = 産経新聞社
 
| date = 2008-10-21
 
| accessdate = 2009-12-05
 
}}</ref>。
 
 
 
=== 外国人参政権問題 ===
 
[[長崎県議会]]からは、外国人参政権について日韓両国は相互主義の成り立つ条件にないことを指摘したうえで、「長崎県は、対馬の問題を抱えている。対馬は韓国領だと主張する韓国人がいて、実際に韓国資本により対馬の土地の多くが買われ、韓国人が移住しているという現在、もし、在日韓国人に地方参政権が与えられたとしたら、韓国政府の意向を受けた地方公共団体の長や議員が誕生し、実質的に対馬を韓国領とされてしまうという悪夢が実現するのではないかという大きな懸念を持っている」として、[[外国人参政権]]付与に反対する意見書が[[鳩山由紀夫]]内閣総理大臣、[[平野博文]]官房長官、[[横路孝弘]]衆議院議長、[[江田五月]]参議院議長などに提出されている<ref>{{cite press release
 
| title = 永住外国人への地方参政権付与の法制化に反対する意見書
 
| publisher = 長崎県議会
 
| date = 2009-12-17
 
| url = http://www.pref.nagasaki.jp/gikai/2111teirei/tayori2111_ikensyo.html
 
| accessdate = 2010-01-16
 
}}</ref>。
 
 
 
[[東京都]][[江戸川区]]議会議員の[[田中健 (江戸川区議会議員)|田中健]]は、「[[日本における外国人参政権|外国人参政権]]が付与されれば数万人の韓国人が移住して行政に影響力を持ち、[[住民投票]]によって分離独立宣言がなされた後に韓国に併合される恐れがある」と指摘している<ref>{{Cite web
 
|author = [[田中健 (江戸川区議会議員)|田中健]]
 
|date = 2009-04-29
 
|url = http://www.t-ken.jp/diary/20090427
 
|title = 定住外国人に対する地方参政権について
 
|publisher = 田中けんWeb事務所
 
|accessdate = 2009-12-06
 
}}</ref>。
 
 
 
== 観光 ==
 
観光客は年間およそ68万人である<ref name=minryoku/>。
 
 
 
=== 観光地 ===
 
[[ファイル:Ohunae.jpg|thumb|right|[[対馬府中藩]]によって[[1663年]]に造成された[[お船江跡]]]]
 
[[ファイル:Someiyoshino.jpg|right|thumb|[[ソメイヨシノ]]]]
 
[[ファイル:Chionanthus retusus flower.jpg|right|thumb|[[ヒトツバタゴ]]]]
 
[[ファイル:Hitotsubatago.jpg|right|thumb|鰐浦のヒトツバタゴ]]
 
[[ファイル:Watatsumi shrine.JPG|right|thumb|和多都美神社の鳥居]]
 
[[ファイル:TsusimaBukeyashiki.JPG|thumb|right|厳原の武家屋敷跡]]
 
 
 
==== 名所 ====
 
*[[砥石渕公園]]:厳原中心部から徒歩15分のところに所在する[[ソメイヨシノ]]の名所。
 
*[[立亀岩]]:旅客ターミナルなどがある厳原地区の東側ふ頭と厳原の市街地の間にある、巨大な一枚岩。名前の由来は亀が立っているように見えることから。
 
*[[浅茅山]]:大山ともいう。古代には防人に親しまれた山であった。
 
 
 
==== 旧跡・史跡 ====
 
*[[お船江跡]]:厳原の[[久田川]]河口に所在する。[[寛文]]3年([[1663年]])に造成された5基の船着き場。[[厳原港]]からさらに深まった[[入り江]]に立地する良港で、朝鮮貿易や[[参勤交代]]に用いられた。築堤の石積みは当時の原形を保っており、長崎県の県指定史跡となっている。
 
*[[金田城|金田城跡]]:[[667年]]に[[天智天皇]]によってつくられた山城の跡。黒瀬の城山(じょうやま)に比定される。国の[[特別史跡]]。
 
*[[金石城|金石城跡]]:[[文禄・慶長の役]]の際に築かれた平城で、藩政期にも使用された。国の史跡。
 
*[[桟原屋形]](桟原城):1678年(延宝6年)に金石城の大修築に併せて桟原の丘に造られた城郭<ref>[http://www.kyuhaku-db.jp/souke/yukari/index_02.html 対馬宗家文書の世界「桟原屋形」]九州国立博物館</ref>。
 
*[[清水山城 (対馬国)|清水山城跡]]:文禄・慶長の役の際に築かれた山城で[[毛利高政]]築城によるといわれる。国の史跡。
 
*[[小茂田古戦場]]跡:1274年、900隻の軍船に分乗した元・高麗の大軍が侵攻、守護代[[宗助国]]ら80数名は勇敢に応戦して全員戦死した。浜には記念碑が立ち、[[小茂田浜神社]]には偉霊がまつられている。
 
*[[厳原町]][[武家屋敷]]跡:城下町厳原の武家町に位置し、宮谷一帯などに古びた石垣がつづいている。
 
 
 
==== 社寺 ====
 
*[[万松院]]:宗家10万石の[[菩提寺]]で高い格式をほこる。[[桃山式]]の朱色の[[山門]]で有名。壮大な[[花崗岩]]の石塔群は日本3大墓地の1つとなっている。国の[[史跡]]。
 
*[[海神神社]]:対馬の[[一宮]]で上島に所在する。かつては[[八幡宮]]であった。海の女神[[豊玉姫命]]を主神とし、[[彦火火出見尊]]、[[宗像神社|宗像神]]、[[道主貴神]]、[[ウガヤフキアエズ|鵜茅草葺不合命]]をまつる。
 
*[[和多都美神社]]:下島にある。鳥居は[[潮汐|満潮]]時には海中に沈む。[[海幸彦]]・[[山幸彦]]の[[伝承]]と[[龍宮]][[伝説]]で知られる。海神にまつわる玉の井伝説の跡や満珠瀬、干珠瀬、磯良恵比須の磐座などの旧跡も多い。豊玉姫と彦火火出見尊をまつる。
 
*[[小茂田浜神社]]:元寇の上陸場所付近のである厳原、西南海岸にある。[[宗助国]]を主祭神としてまつる。
 
 
 
==== 交通景観 ====
 
*[[万関橋]]:上島と下島をむすぶアーチ型の橋。万関瀬戸に架かる。
 
*[[大船越橋]]:朝鮮海峡から対馬海峡に通じる瀬戸として、[[宗義真]]が1671年に開削した大船越瀬戸に架かる橋。それ以前は船を引いて丘を越えていたといわれる<ref>[http://www.yado.co.jp/kankou/nagasaki/tushima/oofunakosi/oofunakosi.htm 大船越瀬戸と大船越橋(長崎県対馬市美津島町大船越)] - 写真満載九州観光</ref>
 
 
 
====歴史民俗資料館====
 
*対馬は歴史の宝庫であり島内に4か所の歴史民俗資料館が存在するのをはじめ、他にも歴史上重要な遺跡や施設がある。
 
*[[長崎県立対馬歴史民俗資料館]]:宗家文庫史料をはじめとする古文書が多数
 
*[[峰町歴史民俗資料館]]:考古資料としては全国に2例しかない「鹿笛」や、琉球や蝦夷でしか獲れない貝を使用した腕輪など
 
*[[豊玉町郷土館]]:対馬の縄文時代からの資料や青銅器を展示
 
*[[上対馬町歴史民俗資料館]]:国の[[史跡]]「塔の首遺跡」から出土した広鋒銅矛(ひろさきどうほこ)などを展示
 
 
 
==== 家屋景観 ====
 
家々が密集する対馬の集落ではひとたび火災がおこると、その被害は甚大であったため、防火・防風兼用の石積みの塀がつくられた<ref name=cho94/>。
 
*[[石屋根]]:対馬産の分厚い頁岩の一枚板で葺いた屋根。強風に小屋を飛ばされないための工夫である。椎根地区の石屋根が著名。
 
*俵物小屋:「ひょうもつこや」「ひょうもんこや」と読む。対馬各地に見られる穀物を保存していた小屋で高床式。衣類や家財道具も収納されることがあった。火気を用いる居住空間とは離して建設し、万一に備えた<ref name=cho94/>。
 
*厳原の防火壁:[[1844年]]([[天保]]15年)につくられた防火用の壁。
 
 
 
==== 景勝地等 ====
 
*[[浅茅湾]]:美しい[[リアス式海岸]]。近年は[[シーカヤック]]がさかんである。
 
*[[目保呂ダム馬事公園]]:対馬に30頭ほどしか残っていない[[対州馬]]を8頭飼育、公開している。乗馬体験もできる。
 
*[[異国の見える丘展望台]]:近くに[[海栗島]]が見え、[[天候]]によってはその後方に韓国の釜山市街をみることができる。
 
*韓国展望所:あじさいロード沿いにある。付近に棹崎公園がある。
 
*鰐浦の[[ヒトツバタゴ]]:日本最大の群生地で国の[[天然記念物]]に指定されている。
 
*環境省対馬野生生物保護センター:上県町棹崎公園に位置している。ツシマヤマネコの観察も可能である<ref>[http://twcc.cool.ne.jp/ 対馬野生生物保護センター]</ref>。
 
*舟志川:渓流美で知られ、[[紅葉]]の美しさは九州随一といわれる。
 
*[[豆酘崎]]:玄海に突き出した海岸で点々と[[岩礁]]が頭を出している。美女塚伝承地でも知られる。
 
 
 
==== 温泉 ====
 
*[[上対馬温泉]](上対馬町):日帰り入浴施設「渚の湯」がある。[[弱アルカリ性]]泉。眺望のよい[[露天風呂]]があり[[秋篠宮文仁親王]]が入浴されたこともある。
 
*峰温泉(峰町):保健福祉センターや高齢者福祉施設の並ぶ一角に温浴施設「ほたるの湯」がある。源泉掛け流しの[[温泉]]で、泉質は無臭の単純泉。
 
*[[真珠の湯温泉]](美津島町):アルカリ性単純泉。[[神経痛]]や[[冷え性]]に効果がある。
 
 
 
=== 郷土料理 ===
 
代表的郷土料理として知られるのが「石焼き」で、対馬産の[[石英斑岩]]を[[コンロ]]にかけて熱し、油をひいて新鮮な[[魚貝類]]や[[野菜]]を焼き、[[タレ]]で食べるというものである。「いりやき」は地鶏に魚介や椎茸を加えた鍋料理であり、「[[六兵衛|ろくべえ]]」はサツマイモを細かく砕いて[[発酵]]させ、水にさらして、[[でんぷん質]]と[[植物繊維]]だけを抽出した[[せん (食品)|せん]]から作った麺に、すまし汁をかけた料理である<ref name=shinbun/>。また、日本の[[蕎麦]]は、対馬を経由して中国から伝えられたといわれており、対州蕎麦は対馬の特産の1つとなっている。
 
 
 
なお、[[B級グルメ]]としては「対馬とんちゃん」が知られる。
 
 
 
=== 特産物 ===
 
シイタケ(ドンコ)、イカの一夜干し、[[ウニ]]、[[日本酒]]、[[焼酎]]、銘菓「かすまき」、対州そば、[[蜂蜜]](ツシマハチミツ)、[[真珠]]、[[若田石硯]]、[[対馬焼]]が名産として知られる。かつては、[[鉛]]や[[青砥]](粘板岩製の[[砥石]])、[[木炭]]も名産品として知られていた。なお、ツシマハチミツの巣箱「蜂洞」は、[[国土交通省]]「島の宝100景」に選ばれている<ref>[http://www.mlit.go.jp/crd/chirit/image/100kei-tushima1.pdf 島の宝100景「ツシマハチミツ・蜂洞」]</ref>。
 
 
 
=== 釣り場 ===
 
おもな釣りポイントとしては、[[舟志湾]]、[[大浦湾]]、[[佐須奈湾]]、[[三根湾]]、[[佐賀湾]]、[[長崎鼻 (長崎県対馬市)|長崎鼻]]、[[浅茅湾]]、[[神崎灯台]]下、[[大梶鼻]]、[[小茂田波止]]、[[豆酘崎]]がある。
 
 
 
魚種は豊富で、年間を通して[[マダイ|タイ]]や[[クロダイ|チヌ]]、冬季から早春にかけてクロ([[メジナ]])、春から夏にかけて[[アラカブ]]、[[メバル]]、[[イシダイ]]、[[サヨリ]]、夏から秋にかけては[[キス (魚)|キス]]、[[イサキ]]、[[ベラ]]、[[ヒラス]]、夏の夜釣は[[アジ]]、[[サバ]]、[[タチ]]、[[イサキ]]、[[イカ]]などが釣れる<ref>[http://www.tsushimanews.com/index.php?%C2%D0%C7%CF%A4%CE%C4%E0%A4%EA%BE%F0%CA%F3 対馬の釣り情報](対馬新聞社)</ref>。
 
 
 
=== 海水浴場 ===
 
上島に三宇田海水浴場、井口浜海水浴場、湊浜海水浴場、茂木海水浴場、下島に美津島海水浴場、小茂田浜海水浴場、尾浦海水浴場、安神海水浴場、豆酘板形海水浴場の各[[海水浴場]]がある。
 
 
 
== 交通 ==
 
[[画像:Tsushimaairport.jpg|right|thumb|[[1975年]]に開港した[[対馬空港]]]]
 
[[画像:New Tsushima JAPAN.jpg|thumb|right|[[九州郵船]]の[[フェリー]]「ニューつしま」]]
 
 
 
=== 島内交通 ===
 
道路は、比田勝(上島北東岸)から上島西部、下島北部東岸を経て厳原に至る[[国道382号]]が整備され、厳原から下島を時計回りにほぼ一周して鷄知(下島東岸中部)に至る[[長崎県道24号厳原豆酘美津島線]]と上島東岸沿いを走る[[長崎県道39号豊玉上対馬線]]ともに縦貫道路として南北をむすぶ動脈となっている。[[主要地方道]]はこの2路線の他に4路線、[[都道府県道|一般県道]]は9路線がある。
 
 
 
公共交通機関は、[[バス (交通機関)|バス]]([[対馬交通]]・[[対馬市営バス]])、[[タクシー]]、浅茅湾内を運航する市営渡船がある。
 
 
 
坂道の多い対馬では、かつては小型で足腰の強い対州馬が農耕用のみならず、人々の移動手段として重要な役割を果たしていた<ref>[http://www1.odn.ne.jp/muraoka/uma.htm 対州馬]</ref>。また、島内には、[[岬]]を一つへだてただけの隣村でも陸上の道がなく、船以外では行けない箇所がいくつもあったという<ref>長(1981)pp.92–93</ref>。
 
 
 
=== 島外への交通 ===
 
==== 航空 ====
 
[[対馬空港]]が設置されており、[[福岡空港]]([[全日本空輸|ANA]]便([[ANAウイングス]]による運航))、[[長崎空港]]([[オリエンタルエアブリッジ|ORC]]便(ANAとコードシェア))への航路が就航している。
 
 
 
対馬空港は[[1975年]](昭和50年)、旧[[美津島町]]の白蓮江山の山頂を切り開いて建設された。
 
 
 
==== 航路 ====
 
特記を除き、旅客営業を行っている航路を記載している。
 
 
 
===== 国内航路 =====
 
*[[厳原港]]
 
**[[フェリー]]:[[壱岐市]]経由、[[博多港]]([[福岡市]]) 行き(直行便もあり。旅客航路は[[九州郵船]]が、貨物専業は[[対州海運]]、[[壱岐・対馬フェリー]]が運航)
 
**[[高速船]]:壱岐市経由、博多港 行き(直行便もあり。九州郵船が[[ボーイング929|ジェットフォイル]]で運航)
 
*[[比田勝港]]
 
**フェリー:博多港 行き(九州郵船が運航)
 
**ジェットフォイル:博多港行き([[JR九州高速船]]による国際線との混乗)
 
**かつては九州郵船が[[ジェットフォイル]]を運航していた。
 
 
 
===== 国際航路 =====
 
いずれの航路も、韓国の[[釜山広域市]]にある[[釜山港]]との間を高速船で運航している。
 
*厳原港・比田勝港 : [[大亜高速海運]]「[[大亜高速海運#船舶|オーシャンフラワー]]」
 
*厳原港 : 未来高速「[[コビー (高速船)|コビー]]」
 
*比田勝港 : [[JR九州高速船]]「[[ビートル (高速船)|ビートル]]」
 
*比田勝港 : [[韓日国際海運]] 「オーロラ」
 
 
 
このほか巨済から対馬経由で壱岐を結ぶフェリーが計画されている<ref>http://japan.busan.com/jp/news/sub2.asp?num=678</ref>。
 
 
 
== メディア ==
 
=== 放送・通信 ===
 
島内をサービスエリアとして[[対馬市CATV]]が運営されている。実際の運営は指定管理業者が行っており、2008年[[11月1日]]からは[[コミュニティメディア]](本社は[[長崎市]]に所在)が指定管理業者となっている<ref>[http://www.tcctv.ne.jp/ 会社概要] - 対馬市CATV</ref>。
 
 
 
=== 新聞 ===
 
* 対馬新聞社(週刊)
 
* [[長崎新聞社]]対馬支局
 
  
 
== 脚注 ==
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
+
{{Reflist}}
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group=*|2}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|3}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|date=2013年7月}}
 
*[[朝日新聞社]]編『民力 2004年版』朝日新聞社、2004年7月。ISBN 4-02-224604-9
 
*[[岡崎敬]]『魏志倭人伝の考古学(壱岐・対馬編)』[[第一書房]]、2003年5月。ISBN 4804207465
 
*[[長正統]]「大陸への懸け橋・対馬の道」『日本の街道8 日燃ゆる九州』[[集英社]]、1981年6月。
 
*[[九學會連合]]對馬共同調査委員會編『対馬の自然と文化』[[古今書院]]、1954年。
 
*[[佐伯弘次]]「3章 荘園公領と武士団」児玉幸多監修『県史42 長崎県の歴史』山川出版社、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2
 
*[[新川登亀男]]「2章 東アジアのなかの古代統一国家」[[児玉幸多]]監修『県史42 長崎県の歴史』[[山川出版社]]、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2
 
*[[小学館]]編『ランドジャポニカ』小学館、1996年11月。ISBN 4-09-523101-7
 
*[[鈴木正崇]]『祭祀と空間のコスモロジーー対馬と沖縄』春秋社、2004年2月。ISBN 4-393-29904-3
 
*[[田代和生]]『近世日朝通交貿易史の研究』創文社、1981年。
 
*[[田代和生]]『書き替えられた国書―徳川・朝鮮外交の舞台裏』中央公論社、1983年。
 
*[[竹内清文]]・[[上野和男]]「対馬」『世界大百科事典18』[[平凡社]]、1988年4月。
 
*[[高橋公明]]「第3部 海域世界の交流と境界人 第1章 境界としての対馬島と喜界ヶ島」『日本の歴史14、周縁から見た中世日本』[[講談社]]、2001年12月。ISBN 4062689146
 
*[[田中健夫]]「対馬」『ブリタニカ国際大百科事典』[[ティビーエス・ブリタニカ]]、1974年6月。
 
*田中健夫『東アジア通交圏と国際認識』[[吉川弘文館]]、1997年。ISBN 4642013008
 
*[[永留久恵]]『対馬国志』私家版、2009年
 
*長崎県環境部自然環境課編『ながさきの希少な野生動植物』(該当部執筆者 : 鎌田泰彦・邑上益朗・浦田明夫・谷口秀樹・池崎善博)[[長崎県]]、2001年。
 
*[[宮本常一]]『忘れられた日本人』[[未来社]]、1960年。岩波文庫、1984年。
 
*[[宮本常一]]『民俗学の旅』[[文藝春秋]]、1978年。
 
*[[吉松祐一]]・[[浜名志松]]編『日本の民話21 長崎・天草編』[[未来社]]、1978年3月。
 
 
 
== 関連ページ ==
 
*韓国語版ウィキソース [[s:ko:대마도의 날 조례안|{{lang|ko|대마도의 날 조례안}}(對馬島の日条例 内容)]]
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[島嶼]]
 
*[[ロシア軍艦対馬占領事件]]
 
*[[対馬取り戻し運動本部]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
{{commons&cat|Tsushima|Tsushima Island}}
 
{{ウィキポータルリンク|日本の地理|[[ファイル:Gnome-globe.svg|34px|Portal:日本の地理]]}}
 
 
*[http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/ 対馬市]
 
*[http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/ 対馬市]
 
*[http://www.tsushima-net.org/ 対馬観光物産協会]
 
*[http://www.tsushima-net.org/ 対馬観光物産協会]
861行目: 25行目:
 
*[http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/ 対馬海上保安部] - 海上保安庁
 
*[http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/ 対馬海上保安部] - 海上保安庁
 
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[[Category:長崎県の島]]
 
[[Category:長崎県の島]]

2018/10/5/ (金) 21:22時点における最新版

対馬
座標 東経129度20分北緯34.417度 東経129.333度34.417; 129.333 (対馬)
北端:北緯34度42分
南端:北緯34度5分
東端:東経129度30分
西端:東経129度10分
面積 696.10(属島を含まない)[1]
708.5(属島を含む)[2] km²
海岸線長 915(属島を含む)[3] km
最高標高 648.5 m
所在海域 日本海[4]
対馬海峡朝鮮海峡
所属諸島 日本列島
所属国・地域 日本の旗 日本 長崎県対馬市
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対馬(つしま)

長崎県北西端,九州島と朝鮮半島とのほぼ中間にある国境の島。六つの有人島と約 70の無人島からなり,全島で対馬市を形成する。南北約 82km,東西約 18km。おもに砂岩からなるゆるやかな起伏の山地で,中央部に浅茅湾がある。中世以降,宗氏の支配地で厳原はその城下町,朝鮮貿易の開港場であった。日本海の出入口にあって,大陸との交通上,軍事上の要地にあたり,外寇の悲史が多い。また,浅茅湾は倭寇の根拠地であった。第2次世界大戦終戦までは全島が要塞地帯であり,日露戦争時の対馬沖海戦は有名。中心集落は厳原と比田勝 (上対馬町) で国道 382号線で結ばれ,博多,小倉との間にそれぞれ定期船が就航している。美津島町には空港があり,福岡,長崎と結ばれている。鉛,亜鉛,銅などを産出していた厳原の対州鉱山は,付近一帯がカドミウム汚染要観察地域に指定され,1975年閉山した。浅茅湾沿岸,北部海岸などは壱岐対馬国定公園に属し,特に浅茅湾沿岸は景勝地が多い。天然記念物のツシマヤマネコ,ツシマテン,ヒトツバタゴなど貴重な動植物がみられる。

脚注

外部リンク




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