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{{Otheruseslist|'''[[五畿七道]]'''の一つである'''[[行政区分]]'''、および同所を通る'''古代から中世の[[街道]]'''|同所を通る'''近世の街道'''|西国街道|'''[[日本の高速道路|高速道路]]'''|山陽自動車道}}
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'''山陽道'''(さんようどう、かげとものみち)
  
'''山陽道'''(さんようどう、かげとものみち)は、[[五畿七道]]の一つである。
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律令制における[[五畿七道]]の一つ。播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8ヵ国を総称する地方名であった。また,西国路,中国路,中国街道ともいわれ,本州西部,瀬戸内海沿岸を通っていた街道。上古には吉備道ともいわれた。大坂から,明石,岡山,尾道,広島,小郡 (おごおり)
[[本州]]西部の[[瀬戸内海]]側の[[行政区分]]、および同所を通る[[幹線道路]]([[古代]]から[[中世]])を指す。
+
など五十余の宿駅を経て下関にいたる。江戸時代には京坂への物資輸送,参勤交代のための主要街道であった。現在はその大部分が国道2号線になっている。
行政区分としては、'''影面道'''、'''光面道'''(かげとものみち)、または'''中国'''(ちゅうごく)とも称された<ref>[http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&dtype=0&dname=0ss&stype=0 Yahoo!辞書 - 大辞林]</ref>。
 
  
街道においては江戸時代を中心に、
+
{{テンプレート:20180815sk}}
*'''[[西国街道]]'''(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)
 
*'''西国道'''(さいごくどう、さいこくどう、せいごくどう、せいこくどう)
 
*'''西国路'''(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)
 
*'''中国街道'''(ちゅうごくかいどう)
 
*'''中国路'''(ちゅうごくじ)
 
*'''山陽路'''(さんようじ)
 
などとも呼ばれた<ref>松村明監修『大辞泉』小学館(1998年)</ref>。
 
 
 
== 行政区画としての山陽道 ==
 
{{Pathnav|令制国一覧|frame=1}}
 
[[File:Sanyodo.svg|thumb|山陽道]]
 
律令に規定された行政区画は、当時「五畿七道」と称されたように、中央の五畿と地方である七道から成っていた。山陽道はその「五畿七道」の一つ、本州の瀬戸内海側を指しており、[[畿内]]の西に位置し、現在の[[兵庫県]]西部から[[山口県]]までに至る瀬戸内海沿岸を総称した。なおこれを統括する役所は原則的には存在しておらず、基本的には区画を示すものであった。
 
 
 
*[[播磨国]](現在の[[兵庫県]]南西部)
 
*[[美作国]](現在の[[岡山県]]東北部)- [[和銅]]6年([[713年]])に備前国より分割された。
 
*[[備前国]](現在の岡山県東南部,[[香川県]][[小豆郡]]と[[直島諸島]],兵庫県[[赤穂市]]の一部)
 
*[[備中国]](現在の岡山県西部)
 
*[[備後国]](現在の[[広島県]]東部)
 
*[[安芸国]](現在の広島県西部)
 
*[[周防国]](現在の[[山口県]]東南部)
 
*[[長門国]](現在の山口県西部)
 
 
 
=== 変遷 ===
 
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|title = 山陽道令制国の変遷
 
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}}
 
; 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。
 
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|+|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[吉備国]]<ref group="注">かつては[[上道国造|上道国]]、[[三野国造|三野国]]、[[大伯国造|大伯国]]、[[下道国造|下道国]]、[[加夜国造|加夜国]]、[[笠臣国造|笠臣国]]、[[吉備穴国造|吉備穴国]]、[[吉備中県国造|吉備中県国]]、
 
[[吉備品治国造|吉備品治国]]があった。</ref>|02='''[[備中国]]'''<br/>([[689年]]-)|03='''[[備中国]]'''|04=岡山県(西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|||||`|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[石見国造|石見国]]|02='''[[備後国]]'''<br/>([[689年]]-)|03='''[[備後国]]'''|04=[[広島県]](東部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[阿岐国造|阿岐国]]|02='''[[安芸国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[安芸国]]'''|04=広島県(西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:||||||||:||||:|||||:| 01=[[沼田国造|沼田国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[周防国造|周防国]]|02='''[[周防国]]'''<br/>(周芳国、[[7世紀]]-)|03='''[[周防国]]'''|04=[[山口県]](南西部)}}
 
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:||||||||:||||:|||||:| 01=[[波久岐国造|波久岐国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[穴門国造|穴門国]]|02='''[[長門国]]'''|03='''[[長門国]]'''|04=山口県(西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:||||||||:||||:|||||:| 01=[[阿武国造|阿武国]]}}
 
{{familytree/end}}
 
{{Reflist|group=注}}
 
{{hidden end}}
 
 
 
{{令制国一覧}}
 
 
 
== 道(みち)としての山陽道 ==
 
{{出典の明記|date=2011年1月|section=1}}
 
山陽道は時代背景により、以下のように区分し称される場合もある。
 
 
 
=== 古代山陽道 ===
 
[[File:Kyuusanyoudou-2017.jpg|thumb|広島県府中市府中町での旧山陽道の発掘作業]]
 
==== 概要 ====
 
古代の山陽道は、大和朝廷と九州の太宰府を結ぶ幹線道として最も重要視され、畿内を起点に放射状に延びる七道駅路(大路、中路、小路)のなかで唯一の大路であった{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。
 
 
 
古代日本では、太陽の出没方向に因んで東西を日縦(ひたて)、それに直行する南北方向を日横(ひよこ)と呼んでいた。そして山稜の南斜面([[中国語#古代漢語|上古]]・[[中国語#中期漢語|中古中国語]]で[[陰陽#陰陽表|「陽」]])を影面(かげとも)、北斜面(上古・中古中国語で「陰」)を背面(そとも)と呼び、共に日縦である本州西部南岸の街道を「影面の道」(漢訳すると「山陽道」)、本州西部北岸の街道を「背面の道」(漢訳すると「[[山陰道]]」)とも呼ぶようになったとされる。
 
 
 
[[大同 (日本)|大同]]2年(807年)の改制までは、播磨以西の山陽道には51の[[駅家]]があり(駅間距離13里程度)、それぞれに25疋の駅馬が置かれていた。この改制以降は、新任国司の赴任も海路を使うようになるなど[[駅路]]の利用は衰微していった。
 
 
 
『[[延喜式]]』(927年に編纂)には、駅路(七道)ごとに各駅名が記載されており、これを元に当時の駅路を大まかに復元することができる。延喜式の兵部省諸国駅伝馬条による、駅家・駅路関係の史料からは、[[山城国]]の山崎駅から[[筑前国]]の久爾駅まで58駅を数えていたことが伺える。なお[[奈良時代]]には、平城京から[[木津川 (京都府)|木津川]]沿いを北上し、河内国交野郡(現、枚方市・交野市)の楠葉駅を経て[[淀川]]対岸の[[摂津国]][[島上郡]](現、高槻市・島本町)の大原駅を経由する路線であった。その後[[平安時代]]には、平安京から南下して山城国乙訓郡(現、大山崎町・長岡京市)の山崎駅から高槻を経て、西へと向かう路線となったようである。
 
 
 
古代の山陽道の場合、原則30里(当時の一里は約540メートルで、30里は約16キロ)ごとに駅家(うまや)を設けていた{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。道幅は約6メートルから9メートルで、その行程は直線的に短絡するよう計画されており、各国の[[国府]]を効率良く結んでいた。本道から外れた[[美作国]]へは、[[播磨国]]草上駅から西北に分岐した道路(美作路)が伸びていた。
 
山陽道が重視されたのは外交使節の入京路に当たっていたからで、駅家は瓦葺きで白壁にしていたので、天平元年(729年)そのための財政措置が行われた。
 
 
 
当初はこの陸上交通路によって地方官である国司が往復し、各地域からの税である[[庸]]・[[調]]を運ぶすることを原則としていた。しかし大量の物資を輸送するのは水運を利用する方が効率的であり、次第に[[瀬戸内海]]を経由する水運の比重が高まっていった。やがて律令制の納税、軍制の形骸化に呼応するかのように、駅伝制は急速な衰退をみせ、10世紀後期または11世紀初頭には、名実共に駅伝制も駅路も廃絶した。
 
 
 
実際の古代山陽道の路線趾が、発掘調査において確認された事例は極めて少なく、[[高槻市]]郡家(ぐんげ)川西遺跡(幅8メートル)、岡山県[[備中国分尼寺]]跡(幅7メートル)、兵庫県[[たつの市]]小犬丸(こいぬまる)遺跡、[[上郡町]]落地(おろち)遺跡など数例に留まる。[[広島県]][[府中市 (広島県)|府中市]]での発掘調査では、市内3カ所で古代山陽道の遺構が出土し、道幅が10メートルであったことや<ref name="bingo20171102">備後ふちゅう かわら版 2017年11月2日 中国新聞備後府中販売所</ref>、600m離れた[[備後国府]]跡への分岐点も確認されている<ref name="kouhou20160701">広報 ふちゅう 2016年7月1日(1214号) 府中市人事課秘書課編集発行</ref>。
 
 
 
==== 駅家一覧 ====
 
以下に駅馬について、'''分国名'''/'''駅名'''('''設置郡名''')・'''備考'''('''駅馬数等''')・'''古代山陽道駅家想定地'''('''推定地関連情報''')の順に列挙する。
 
 
 
*山城(1駅)
 
**山崎([[乙訓郡]]) 駅馬数20疋
 
*摂津(5駅)
 
**大原([[島上郡]]神内・梶原南地区) [[711年]]設置 摂津国島上郡大原駅 [[大阪府]][[三島郡 (大阪府)|三島郡]][[島本町]]桜井一丁目([[桜井駅跡]])
 
**殖村([[島下郡]]) 711年設置
 
**草野(かやの、[[豊島郡 (大阪府)|豊島郡]]) 駅馬数13疋 [[箕面市]]萱野地区
 
**葦屋([[菟原郡]]) 12疋 深江北町遺跡
 
**須磨([[八部郡]]) 13疋
 
*播磨(9駅、廃駅2駅)
 
**明石([[明石郡]]) 駅馬数30疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> [[兵庫県]][[明石市]]
 
**邑美(廃止)
 
**賀古(かこ、[[加古郡|賀古郡]]) 40疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> [[加古川市]]野口町野口駅ケ池(うまやがいけ)
 
**佐突(廃止)
 
**草上([[飾磨郡]]) 30疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> [[姫路市]]今宿
 
**大市([[揖保郡]]) 20疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> 姫路市太市中
 
**布勢(揖保郡) 20疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> [[たつの市]]揖西町小犬丸
 
**高田([[赤穂郡]]) 20疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref>
 
**野磨(やま、赤穂郡) 20疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> 赤穂郡[[上郡町]]落地(おろち)飯坂遺跡
 
**越部(揖保郡) 5疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)
 
**中川([[佐用郡]]) 5疋<ref>『[[延喜式]]』の兵部省の項</ref> (美作路 - 播磨国府と美作国府を結ぶ支路)
 
[[File:Takatsuki-no-umaya-ato, sekihi.jpg|thumb|240px|right|{{center|高月駅家推定地([[岡山県]][[赤磐市]])}}]]
 
*備前(4駅)
 
**坂長([[和気郡]]) 駅馬数20疋 [[岡山県]][[備前市]]吉永町
 
**珂磨([[磐梨郡]]) 20疋 (788年に藤野駅を廃止して置かれた)
 
**高月([[赤坂郡]]) 20疋 [[赤磐市]]馬屋
 
**津高([[津高郡]]) 14疋 [[岡山市]]一宮付近
 
*備中(4駅)
 
**津峴([[都宇郡]]) 駅馬数20疋 [[倉敷市]]矢部
 
**川邊([[下道郡]]) 20疋 倉敷市[[真備町]]川辺
 
**小田([[小田郡]]) 20疋 小田郡[[矢掛町]]小田
 
**後月([[後月郡]]) 20疋 [[井原市]]七日市町
 
*備後(5駅、『延喜式』では安那、品治、葦田の3駅となっている)
 
**安那(やすな、[[安那郡]]) 駅馬数20疋 [[広島県]][[福山市]](旧[[深安郡]][[神辺町]])御領
 
**品治(ほんじ、[[品治郡]]) 20疋 福山市駅家町
 
**葦田(看度?、[[御調郡]]) 20疋
 
*安芸(13駅)
 
**真良(しんら、[[沼田郡]]) 駅馬数20疋 [[三原市]]高坂町真良
 
**梨葉(なしわ、沼田郡) 20疋 三原市[[本郷町 (広島県)|本郷町]]
 
**都宇・津宇(つう、沼田郡) 20疋(『[[倭名類聚抄]]』に「沼田七郷」として今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇)
 
**鹿附(かむつき、沼田郡) 20疋
 
**木綿(ゆう、[[賀茂郡 (広島県)|賀茂郡]]) 20疋 [[東広島市]]西条地区
 
**大山(賀茂郡) 20疋 東広島市八本松地区
 
**荒山([[安芸郡 (広島県)|安芸郡]]) 20疋 [[広島市]][[安芸区]]中野東地区
 
**安芸(安芸郡) 20疋 安芸郡[[府中町]]城ケ丘 下岡田遺跡
 
**伴部([[佐伯郡]]) 20疋 広島市[[安佐南区]]伴地区
 
**大町(佐伯郡) 20疋 広島市[[佐伯区]]利松地区周辺
 
**種篦(へら、佐伯郡) 20疋 [[廿日市市]]下平良地区
 
**濃唹(のお・おおの、佐伯郡) 20疋 廿日市市大野高畑地区(『[[万葉集]]』高庭馬家(たかばのうまや)跡)
 
**遠管(おくだ、佐伯郡) 20疋 [[大竹市]]
 
*周防(8駅、廃駅1駅)
 
**石国(いわくに、[[玖珂郡]]) 駅馬数20疋 [[山口県]][[岩国市]]関戸付近
 
**野口(玖珂郡) 20疋 岩国市[[玖珂町]]野口
 
**周防(光市小周防、[[熊毛郡 (山口県)|熊毛郡]]熊毛町三丘・高水・勝間付近の諸説) 20疋
 
**生屋(いくのや、[[都濃郡]]) 20疋 (現生野屋)生野郷
 
**平野(都濃郡) 20疋 旧[[新南陽市]]西部に平野郷が存在した
 
**大前(おおさき、[[889年]]に廃止) [[防府市]]
 
**勝間(かつま、[[佐波郡 (山口県)|佐波郡]]) 20疋 防府市勝間
 
**八千(やち、[[吉敷郡]]) 20疋 [[山口市]]鋳銭司矢地
 
**賀孕(かがほ、吉敷郡) 20疋 山口市嘉川(賀宝とも)山口市賀川
 
*長門(5駅)
 
**阿潭(あたみ、[[厚狭郡]]) 駅馬数20疋 [[宇部市]]吉見 
 
**厚狭(厚狭郡) 20疋 [[山陽小野田市]]
 
**埴生(はぶ、厚狭郡) 20疋 山陽小野田市埴生
 
**宅賀(たか、[[豊浦郡]]) 20疋(室賀とも)下関市小月
 
**臨門(りんもん、豊浦郡) 20疋(外国の賓客を接待する役割も兼ねており、[[日本書紀]]には[[穴門館]](後に臨海館)と記載あり)下関市前田付近
 
 
 
太宰府路
 
*豊前(2駅)
 
**杜崎(もにさい、[[企救郡]]) 駅馬数20疋 [[福岡県]][[北九州市]][[門司区]]
 
 (比喜(比菩))
 
**到津(いたむつ、企救郡) 15疋 北九州市[[小倉北区]]
 
*筑前(9駅、『延喜式』では8駅となっている)
 
**独見(ひとみ、[[遠賀郡]]) 駅馬数15疋 北九州市[[八幡東区]]
 
**夜久(やく、遠賀郡) 15疋 北九州市[[八幡西区]]上津役
 
**嶋門(遠賀郡) 23疋 遠賀郡[[遠賀町]]
 
**津日([[宗像郡]]) 22疋 [[宗像市]](旧宗像郡[[玄海町 (福岡県)|玄海町]])
 
**席内(宗像郡) 15疋 [[古賀市]]筵内付近(席打とも)
 
**夷守(ひなもり、[[糟屋郡]]) 15疋
 
**美野([[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]) 15疋
 
**久爾([[席田郡 (福岡県)|席田郡]]) 10疋 [[福岡市]][[博多区]]東平尾付近 
 
 
 
=== 中世山陽道 ===
 
{{See also|筑紫大道}}
 
鎌倉時代には、計画的な国家整備道路としての駅路は存在しなくなったものの、陸上の移動交通がまったく廃絶する訳では無く、その後も地域間の連絡路としての機能はある程度保たれることになった。そして駅家に代わるものとして、[[宿駅]]と呼ばれる交通の要地にあって、宿泊のための設備や輸送に携わる人馬を有した集落が発達した。これらは江戸時代にかけての宿場町として発展したものが多い。
 
 
 
山陽道においては、次第に従来の極端な直線的志向は廃れ、より整備の簡便な自然地形を利用する経路へと路線の変更がなされたようである。すなわち災害からの復旧を含めて、峠の迂回、河川渡河地点の変更、有力集落間の連絡重視などが主な理由となり、路線の付け替えは各所で行われた。沖積平野の出現による海岸線の後退も手伝い、全体としては次第に瀬戸内海の海岸沿いの経路が志向されることになった。
 
 
 
この変遷の概略としては、従前から平地部の連絡が多かった摂津、播磨では古代の路の近辺にその路線を見いだす事ができうる。しかいそれでもまったく同一の場所に整備が続けられることはなく、例えば姫路付近でも南側へ断層面を利用する形での小幅な変更がなされている。さらに備前への連絡は、野磨(上郡町)を過ぎて、坂長(備前市吉永町)→和気→珂磨(赤磐市松木)→高月(赤磐市馬屋)の路線であったものが、備前市片上→備前市香登→岡山市一日市→岡山市藤井へと大きく変更され、[[旭川 (岡山県) |旭川]]を渡り備中へと続く。
 
備中では[[小田川 (高梁川水系)|小田川]]沿いの平地が最も妥当な選択であったので、基本的にこの路線は踏襲されている。そして現在の[[国道313号]]([[高梁市]]~井原市:高梁へは美作から、あるいは[[高梁川]]沿いを遡る形で連絡が可能)も、いわゆる宿駅が整備され街道([[備中往来]])として利用されていたようである。
 
しかし備後では、福山市北部(府中~駅家付近)と安芸の三原市北西部(高坂・本郷)の経路から、[[芦田川]]に沿う形をとり[[尾道]]方面を経由する変更が行われている。また安芸では峠は避けられない宿命であるものの、路線の変更が繰り返されており[[府中町|府中]]手前では短絡を緩和し、沿岸部の [[海田町|海田市]]を経由する路線(安芸山陽道)へとなった。ただ国を通過する路線が全く変更されたと言う点では、備前と備後の例が最も大きなものではないかと思われる。<!--周防・長門の詳細は今後の課題で-->
 
 
 
さらに[[室町時代]]後期になると、道路整備が地方領主の手に移り、いわゆる[[城下町]]形成の手段に用いられるなどしているため、いわゆる東西短絡の性格から外れることになる場合もあった([[岡山城]]下など)。
 
 
 
=== 近世山陽道 ===
 
{{main|西国街道}}
 
[[江戸時代]]には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても[[江戸幕府]]の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う[[問屋場]]や、諸[[大名]]の宿舎としての[[本陣]]、[[脇本陣]]、そして[[武士]]や一般庶民などの宿舎であった[[旅籠]]などが整備された。かつては、一級の幹線道として扱われた山陽道も、[[五街道]]と連絡する脇街道へと扱いは格下げされた{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。
 
 
 
=== 明治時代以降 ===
 
明治政府は、国道に番号を付けて管理する制度を採った。江戸時代までの山陽道は、[[明治時代]]には[[東京市|東京]]と[[神戸市|神戸]]を結ぶ国道3号(2号から[[京都市|京都]]で分岐)、および、東京と[[長崎市|長崎]]を結ぶ国道4号の一部になり、大正時代には東京と[[鹿児島市|鹿児島]]を結ぶ国道2号(1号から三重県で分岐)の一部になった。
 
 
 
現在では、山陽道の機能は、[[大阪市|大阪]]と[[北九州市|北九州]]([[門司区|門司]])を結ぶ国道2号に引き継がれている。しかし、律令時代や江戸時代の山陽道とは異なる道筋の部分も多い。一例をあげると岡山県岡山市~広島県福山市にかけての国道2号は、かつての山陽道を踏襲しておらず、大幅に異なるルートである旧[[鴨方往来]](浜街道)を併走する。これは国道整備において、主要都市となっていた岡山と福山との間を、本来の東西短絡の性格で道路敷設したためではないかと推測される。
 
なおこのため岡山県や広島県東部では、かつての山陽道(小田川沿い)やそれに並行する道路は、「旧山陽道」と呼ぶのが一般的となっている。さらに「山陽道」と呼んだ場合には、「山陽自動車道」のことを一般に示している。<!-- 話題的にやや外れているような気はします  -->
 
 
 
鉄道の[[山陽本線]]や[[山陽新幹線]]、高速道路の山陽自動車道も、古来の山陽道をたどるように敷設されている場合もある。現代においても、[[近畿地方]]と[[九州]]を結ぶ機能を律令時代から維持し続けている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{columns-list|2|
 
* [[伝馬制]]
 
*[[日本の古代道路]]
 
*[[山陽本線]]
 
*[[山陽新幹線]]
 
*[[国道2号]]
 
*[[国道171号]]
 
*[[山陽自動車道]]
 
*[[山陽地方]]
 
*[[畿内]]
 
*[[北部九州]]
 
*[[日本の交通]]
 
}}
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.mogurin.or.jp/maibun/kojikodo/ 古路・古道・歴史散歩]公益財団法人広島市文化財団文化科学部文化財課 - 広島県下の旧山陽道、西国街道及び雲石街道他脇街道調査
 
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山陽道(さんようどう、かげとものみち)

律令制における五畿七道の一つ。播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8ヵ国を総称する地方名であった。また,西国路,中国路,中国街道ともいわれ,本州西部,瀬戸内海沿岸を通っていた街道。上古には吉備道ともいわれた。大坂から,明石,岡山,尾道,広島,小郡 (おごおり) など五十余の宿駅を経て下関にいたる。江戸時代には京坂への物資輸送,参勤交代のための主要街道であった。現在はその大部分が国道2号線になっている。



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