「岡田啓介」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''岡田 啓介'''(おかだ けいすけ、1868年2月14日慶応4年旧暦1月21日) - 1952年昭和27年)10...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{混同|岡田圭右|x1=お笑いタレントの}}
 
{{政治家
 
|人名 = 岡田 啓介
 
|各国語表記 = おかだ けいすけ
 
|画像 = Keisuke Okada 2.jpg
 
|画像サイズ = 250px
 
|画像説明 = 岡田啓介(『(近世名士写真 其1』より)
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1868年]][[2月14日]]<br />([[慶応 (元号)|慶応]]4年[[1月21日 (旧暦)|旧暦1月21日]])
 
|出生地 = {{JPN}} [[越前国]][[福井市|福井]]
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1868|2|14|1952|10|17}}
 
|出身校 = [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業
 
|前職 = [[横須賀鎮守府]][[司令長官]]
 
|称号・勲章 = [[ファイル:OF-8 - Kaigun Taisho.gif|30px]] [[海軍大将]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[功三級金鵄勲章]]
 
|親族(政治家) = [[迫水久常]](女婿)<br />[[松尾伝蔵]](妹婿)
 
|配偶者 = 岡田ふさ(先妻)<br />岡田郁(後妻)
 
|子女 = [[岡田貞外茂]](長男)<br />岡田貞寛(次男)<br />迫水萬亀(次女)<br />鈴木喜美子(三女)
 
|サイン = OkadaK kao.png
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第31代 [[内閣総理大臣]]
 
|内閣 = [[岡田内閣]]
 
|就任日 = [[1934年]][[7月8日]]
 
|退任日 = [[1936年]][[3月9日]]
 
|元首職 = [[天皇]]
 
|元首 = [[昭和天皇]]
 
<!-- ↓省略可↓ -->
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第37代 [[逓信省|逓信大臣]](首相兼任)
 
|内閣2 = 岡田内閣
 
|就任日2 = [[1935年]][[9月9日]]
 
|退任日2 = 1935年[[9月12日]]
 
|国旗3 = JPN
 
|職名3 = 第7代 [[拓務省|拓務大臣]](首相兼任)
 
|内閣3 = 岡田内閣
 
|就任日3 = 1934年7月8日
 
|退任日3 = 1934年[[10月25日]]
 
|国旗4 = JPN
 
|職名4 = 第35代 [[海軍大臣]]
 
|内閣4 = [[斎藤内閣]]
 
|就任日4 = [[1932年]][[5月26日]]
 
|退任日4 = 1934年7月8日
 
|国旗5 = JPN
 
|職名5 = 第30代 海軍大臣
 
|内閣5 = [[田中義一内閣]]
 
|就任日5 = [[1927年]][[4月20日]]
 
|退任日5 = [[1929年]][[7月2日]]
 
<!-- ↑省略可↑ -->
 
}}
 
'''岡田 啓介'''(おかだ けいすけ、[[1868年]][[2月14日]]([[慶応]]4年[[1月21日 (旧暦)|旧暦1月21日]]<ref group="注釈">当時の時刻では2月13日(旧暦1月20日)深夜。旧暦では、夜明けを以て1日の始まりとしたため。</ref>) - [[1952年]]([[昭和]]27年)[[10月17日]])は、[[日本]]の[[軍人]]、[[政治家]]。最終[[階級]]は[[海軍大将]]。[[栄典]]は[[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[金鵄勲章|功三級]]。
 
  
[[田中義一内閣]][[海軍大臣]]をつとめたのち、[[斎藤内閣]]でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して[[五・一五事件]]後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと[[大命降下]]を受けて[[内閣総理大臣]]に就任、[[岡田内閣]]では一時[[拓務大臣]][[逓信大臣]]を兼任している。[[二・二六事件]]で[[総理大臣官邸|総理官邸]]を青年将校に襲撃されたが奇跡的に難を逃れた。
+
'''岡田 啓介'''(おかだ けいすけ、[[1868年]][[2月14日]][[慶応]]4年[[1月21日 (旧暦)|旧暦1月21日]]) - [[1952年]][[昭和]]27年)[[10月17日]]
  
総理退任後も[[重臣]]として度々枢機に預かったが、[[第二次世界大戦]]中は[[東条内閣]]打倒を自らの責務ととらえ[[倒閣運動]]を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。
+
海軍軍人,政治家。父は福井藩士。[[二・二六事件]]時の首相。 1889年海軍兵学校,93年海軍大学校卒業。 1924年大将となり,海軍軍事参議官,第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官を経て,27年[[田中義一]]内閣および 32年斎藤内閣の海軍大臣となった。 34年元老[[西園寺公望]]の奏推により総理大臣。この間,30年[[ロンドン海軍軍備制限条約]]廃棄,35年の[[天皇機関説]]事件,そして 36年のロンドン条約脱退に際会し,岡田は西園寺を頂点とする重臣と軍部の間の意思疎通の役割を果した。また天皇機関説事件では消極的立場をとったが,これが二・二六事件に際し岡田襲撃の一因となった。同事件では反乱将校が義弟を本人と誤認して射殺,官邸の一隅に隠れ難を逃れた。この事件後総辞職。以後前首相として重臣の列に加えられ,東条内閣打倒に始る終戦工作には和平派についた。
  
== 生涯 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}} __NOINDEX__
=== 海軍時代 ===
 
[[1868年]]([[慶応]]4年)、[[福井藩]]士・岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。[[1884年]]([[明治]]17年)9月、旧制福井中学(のち[[福井県立藤島高等学校|藤島高校]])を卒業。翌年1月に上京し、一時上級学校進学のために須田学舎や共立学校(のち[[開成中学校・高等学校|開成高校]])などの受験予備校に在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しく感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]受験に志望変更した。受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入校した。
 
 
 
[[1889年]](明治22年)、海軍兵学校([[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#15期|第15期]])を卒業。同期には[[小栗孝三郎]]、[[竹下勇]]、[[財部彪]]、[[広瀬武夫]]らがいた。[[日清戦争]]に防護巡洋艦「[[浪速 (防護巡洋艦)|浪速]]」分隊長として[[豊島沖海戦]]、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]、[[日露戦争]]では装甲巡洋艦「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」副長として[[日本海海戦]]、[[第一次世界大戦]]では[[第二水雷戦隊]]司令官として[[青島の戦い]]に従軍した。
 
 
 
[[1923年]]([[大正]]12年)に[[海軍次官]]、[[1924年]](大正13年)に[[連合艦隊司令長官]]、[[1927年]]([[昭和]]2年)に[[海軍大臣]]となり、[[1932年]](昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、[[軍事参議院|軍事参議官]]として[[ロンドン海軍軍縮会議]]を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。
 
 
 
=== 首相就任 ===
 
[[ファイル:Okada family inaugural celebration.jpg|thumb|left|250px|1934年(昭和9年)7月13日、総理就任を祝う家族と]]
 
[[File:Prime Minister Keisuke Okada cropped.jpg|thumb|left|150px]]
 
[[1934年]](昭和9年)、元老・[[西園寺公望]]の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、[[拓務大臣]]、[[逓信大臣]]も兼務した。[[斎藤実]]の後継として[[挙国一致内閣|中間内閣]]を組織するが、[[立憲政友会]]は入閣した[[高橋是清]]・[[床次竹二郎]]などを除名<ref group="注釈">但し、高橋に就いては総裁経験者でもあったことから、党内の混乱を避けるため「離別」としている。</REF>し、対決姿勢に回ったため、[[立憲民政党]]が与党格となる。在任中に[[天皇機関説]]をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の[[皇道派]]や、[[蓑田胸喜]]など[[平沼騏一郎]]周辺の[[国家主義]]勢力からも攻撃されることになった。
 
 
 
岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身でしかも生活はきわめて貧しかった。岡田は妹婿・[[松尾伝蔵]]大佐と2人で[[首相官邸]]に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。
 
 
 
岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる[[水雷艇]]乗りだった。[[海軍水雷学校]]校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとに揺さぶりをかけ、岡田内閣は苦境にたたされる。
 
 
 
[[ファイル:Okada Matsuo.jpg|thumb|200px|義弟・松尾伝蔵(右)と]]
 
粘りが信条の斎藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。天皇機関説を問題視した右派は、議会で岡田を攻撃した。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、そのしたたかさから「[[タヌキ|狸]]」とあだ名された。[[吉田茂]]は岡田を「国を想う大狸」と評している。
 
 
 
[[1936年]](昭和11年)1月21日に野党・政友会が内閣不信任案を提出、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた[[第19回衆議院議員総選挙|第19回総選挙]]において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首[[鈴木喜三郎]]が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は[[二・二六事件]]で襲撃を受ける。
 
 
 
=== 二・二六事件 ===
 
[[ファイル:Keisuke Okada extra.jpg|thumb|left|200px|二・二六事件を報道する新聞各社の[[号外]]]]
 
二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。岡田は女中部屋の押入に隠れ、難を免れた。身代わりに[[内閣総理大臣秘書官|首相秘書官]]で義弟の[[松尾伝蔵]]が殺害された。岡田と松尾は血のつながりはなかったが、額から下の顔つきが似ていた。また、反乱軍の襲撃に対し、松尾自身が「いかにも私が岡田です」と応えたという証言もある。そのため反乱軍も、首相の殺害に成功したと誤認したとみられ、一時的に岡田首相死亡説が流れた。岡田の生存を察知した秘書官の福田耕、迫水久常は憲兵曹長の小坂慶助らと提携し、反乱兵士の監視の下、弔問客の首相官邸入邸が許可された際、多人数の弔問客団の出入りに紛れる作戦をたて、これが成功し岡田は脱出し難を逃れた。
 
 
 
二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・[[高橋是清]]、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、[[昭和天皇]]に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。1936年(昭和11年)3月9日、[[岡田内閣]]は総辞職した。
 
 
 
=== 終戦工作 ===
 
[[ファイル:Keisuke okada.jpg|thumb|150px|重臣時代の岡田]]
 
その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である[[伏見宮博恭王]]の威光もあって思うように行かなかった。1940年(昭和15年)以降は[[重臣会議]]のメンバーとして首相奏薦に当たっている。
 
 
 
開戦後の岡田は軍令部作戦課員の長男・[[岡田貞外茂|貞外茂]]、[[大蔵省]]総務局長で女婿の[[迫水久常]]、[[参謀本部]]作戦課員で松尾伝蔵の女婿の[[瀬島龍三]]と連絡を保ち、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。[[1943年]](昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退と[[ガダルカナルの戦い]]の消耗戦での兵力のすり潰しで最早[[太平洋戦争]]に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の[[東條内閣]]打倒の運動を行う。[[若槻禮次郎]]、[[近衛文麿]]、[[米内光政]]、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
 
 
 
東條内閣倒閣の流れは[[マリアナ沖海戦]]の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・[[嶋田繁太郎]]の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。[[東條英機]]は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなく[[サイパン]]も陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し[[小磯内閣]]の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で[[1944年]](昭和19年)12月26日には息子の貞外茂が[[マニラの戦い (1945年)|マニラの戦い]]で戦死している。
 
 
 
[[1945年]](昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『[[昭和天皇独白録]]』の中で岡田と元[[内大臣府|内大臣]]・[[牧野伸顕]]の意見が最も穏当だったとの中で回想している。
 
 
 
小磯内閣退陣ののちは[[鈴木貫太郎]]を首班に推挙、迫水久常を[[内閣書記官長]]の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。岡田は[[ポツダム宣言]]受諾決定の[[御前会議]]の模様を迫水から聞いて、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木だから陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった」と涙をこぼし、迫水に「私たち軍人が降伏を決意する気持ちは、お前のような軍人でない人間には決してわからないことなのだぞ」と叱るような口調で諭したという。
 
 
 
戦後、[[極東国際軍事裁判]]で主席検察官を務めた[[ジョセフ・キーナン]]は岡田と米内光政、若槻禮次郎、[[宇垣一成]]の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。
 
 
 
[[公職追放]]を経て<ref>{{citation
 
| 和書
 
| title = 公職追放に関する覚書該当者名簿
 
| editor = 総理庁官房監査課
 
| publisher = 日比谷政経会
 
| year = 1949
 
| id = {{NDLJP|1276156}}
 
| page = [{{NDLDC|1276156/169}} 61]
 
| ref = harv
 
}}</ref>、[[1952年]](昭和27年)3月4日追放解除<ref>『朝日新聞』1952年3月4日夕刊一面</ref>。同年4月28日、[[日本国との平和条約|サンフランシスコ平和条約]]が発効し[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]による占領が終わった。岡田は日本の主権回復を見届け、同年10月17日、自身の85年の生涯に幕を閉じた。
 
 
 
== 人物 ==
 
* 岡田には軍人らしい英雄譚が皆無であり、晩年に口述した『岡田啓介回顧録』にも軍人の伝記にありがちな豪快なエピソードはない<!-- 編者の苦労が感じられる--><!-- ??? 編者は次男の岡田貞寛 -->。しかしこのことは岡田が豪傑を気取ったりすることのない常識人であったことを強く示唆している。
 
* 人情肌なところもあり、戦後[[二・二六事件]]を巡る座談会に出席した際には、自身を襲撃した青年将校たちの心情に同情的な発言もしている。
 
* 従軍した青島の戦いでは、麾下の巡洋艦「[[高千穂 (防護巡洋艦)|高千穂]]」を撃沈される被害があった。岡田は後に沈没場所に赴き、戦死者の追悼法要を行っている。
 
* 私腹を肥やすようなことは全く無く、生涯を清貧で通した。総理大臣就任の日に組閣費用が底を尽いてしまい、官邸に集まった番記者たちに振舞う恒例の酒が買えず「これで君たちの好きな酒を冷やしてくれ」と氷だけを配ったという逸話がある。親任式の際に着用していたシルクハットも借り物で、晴れ着や余所行きの洋服もほとんど持っていないほどの貧乏だった。実際、今日に残る岡田の写真はそのほとんどが海軍の軍服か日常の着物を着たもので、洋服を着たものはほとんどない。<--帝国海軍士官の軍装品は自弁であり、自分のお金で購入します。-->
 
* 岡田は海軍の大物の例に洩れず、無類の酒好きで有名だった。自宅を訪問する客にも金が許す限りいつも酒でもてなしていた。
 
 
 
== 家族 ==
 
* 先妻:ふさ - 旧姓・川住。[[旗本]]の家の次女。1男2女を生んだ後、1910年(明治43年)に死別。夏目漱石の妻鏡子とは従姉妹。
 
* 後妻:郁 - 薩摩藩士・迫水久仲の三女で、[[迫水久常]]の叔母。1男2女を生む。
 
* 長男:[[岡田貞外茂|貞外茂]] - 海軍中佐(戦死後に大佐)。
 
* 次男:貞寛 - 終戦時は海軍主計少佐。『父と私の二・二六事件』(講談社、1989年)を記す。
 
* 次女:萬亀 - 迫水久常夫人。
 
* 三女:喜美子 - [[鈴木英]]夫人。
 
* 妹婿:[[松尾伝蔵]]
 
 
 
== 人脈 ==
 
[[迫水久常]]は女婿。二・二六事件では首相秘書官として岡田の救出にあたった。終戦時には[[鈴木貫太郎内閣]]の[[内閣書記官長]]を務め、後に[[参議院議員]]となり、[[経済企画庁長官]]や[[郵政大臣]]を歴任、回想記『機関銃下の首相官邸』([[ちくま学芸文庫]](新版)、2011年)がある。
 
 
 
[[丹生誠忠]]は迫水久常の従弟。歩兵中尉。二・二六事件での指導的役割が軍法会議で問われ刑死した。
 
 
 
松尾新一は松尾伝蔵の長男。二・二六事件の前年まで二・二六事件に加わった麻布第三連隊の中隊長だった。その妻は迫水久常の妹である。
 
 
 
[[瀬島龍三]]は松尾伝蔵の女婿。1941年(昭和16年)7月から1945年(昭和20年)7月まで、[[太平洋戦争]]のほとんどの期間を、大本営陸軍部参謀(参謀本部作戦課員)として勤務した。
 
 
 
高橋是清は、かつて共立学校の英語教員を務めており、岡田の恩師でもあった。
 
 
 
== 年譜 ==
 
[[ファイル:Matsuo and Okada in kimono.jpg|thumb|200px|松尾伝蔵(左)と]]
 
* 1889年(明治22年)- 4月20日 [[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]卒業(15期)
 
* 1890年(明治23年)- 7月9日 [[海軍少尉]]任官
 
* 1892年(明治25年)-  12月21日 [[海軍大学校]]丙号学生
 
* 1894年(明治27年)- 12月9日 [[海軍大尉]]進級
 
* 1898年(明治31年)- 4月29日 海大乙種学生
 
* 1899年(明治32年)- 3月22日 海大甲種学生、9月29日 [[海軍少佐]]進級
 
* 1901年(明治35年)- 6月7日 海軍大学校教官
 
* 1904年(明治38年)- 7月13日 [[海軍中佐]]進級
 
* 1906年(明治40年)- 5月11日 [[海軍水雷学校]]教官
 
* 1908年(明治42年)- 9月25日 [[海軍大佐]]進級、海軍水雷学校校長
 
* 1910年(明治44年)- 7月25日 [[装甲巡洋艦]]「[[春日 (装甲巡洋艦)|春日]]」艦長
 
* 1912年(大正元年)- 12月1日 [[戦艦]]「[[鹿島 (戦艦)|鹿島]]」艦長
 
* 1913年(大正2年)- 12月1日 [[海軍少将]]進級
 
* 1915年(大正4年)- 12月13日 [[海軍省]]人事局長
 
* 1917年(大正6年)- 12月1日 [[海軍中将]]進級
 
* 1920年(大正9年)- 10月1日 [[艦政本部]]長
 
* 1923年(大正12年)- 5月25日 海軍次官
 
* 1924年(大正13年)- 6月11日 [[海軍大将]]進級、[[軍事参議院|軍事参議官]]、12月1日 [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]司令長官兼[[連合艦隊司令長官]]
 
* 1926年(大正15年)- 12月10日 [[横須賀鎮守府]]司令長官
 
* 1927年(昭和2年)- 4月20日 [[海軍大臣]]
 
* 1929年(昭和4年)- 7月2日 軍事参議官
 
* 1932年(昭和7年)- 5月26日 海軍大臣
 
* 1933年(昭和8年)- 1月21日 後備役編入
 
* 1934年(昭和9年)- 7月8日 [[内閣総理大臣]]、[[拓務大臣]]を兼務(〜10月24日)
 
* 1935年(昭和10年)- 9月9日 [[逓信大臣]]を兼務(〜9月12日)
 
* 1936年(昭和11年)- 3月9日 [[内閣総辞職]]
 
* 1938年(昭和12年)- 1月21日 退役
 
 
 
== 栄典ほか ==
 
===栄典===
 
;叙位
 
* [[1891年]](明治24年)[[12月14日]] - [[正八位]]<ref>『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日</ref>
 
* [[1894年]](明治27年)[[12月28日]] - [[従七位]]<ref>『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。</ref>
 
* [[1898年]](明治31年)[[3月8日]] - [[正七位]]<ref>『官報』第4402号「叙任及辞令」明治31年3月9日</ref>
 
* [[1899年]](明治32年)[[11月2日]] - [[従六位]]<ref>『官報』第4904号「叙任及辞令」1899年11月4日。</ref>
 
* [[1904年]](明治37年)[[8月30日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第6355号「敍任及辞令」1904年9月3日。</ref>
 
* [[1908年]](明治41年)[[12月11日]] - [[従五位]]<ref>『官報』第7640号「叙任及辞令」明治41年12月12日</ref>
 
* [[1914年]](大正3年)[[1月30日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第451号「叙任及辞令」1914年1月31日。</ref>
 
* [[1917年]](大正6年)[[12月28日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第1624号「叙任及辞令」1917年12月29日。</ref>
 
* [[1923年]](大正12年)[[2月10日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第3158号「叙任及辞令」1923年2月12日。</ref>
 
* [[1925年]](大正14年)[[2月28日]] - [[従三位]]<ref>『官報』第3790号「叙任及辞令」大正14年4月14日</ref>
 
* [[1927年]](昭和2年)[[12月15日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。</ref>
 
;叙勲
 
* [[1895年]](明治28年)
 
** [[11月18日]] - [[瑞宝章|勲六等瑞宝章]]・[[金鵄勲章|功五級金鵄勲章]]<ref>『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日</ref>
 
** [[11月18日]] - [[従軍記章#発行された従軍記章|明治二十七八年従軍記章]]<ref>『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。</ref>
 
* [[1905年]](明治38年)[[5月30日]] - [[瑞宝章|勲四等瑞宝章]]<ref>『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。</ref>
 
* [[1915年]](大正4年)日付不明 - [[金鵄勲章|功三級金鵄勲章]]
 
** [[11月1日]] - [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]<ref>『官報』第979号「叙任及辞令」大正4年11月4日</ref>
 
* [[1920年]](大正9年)[[11月1日]] - [[勲一等旭日大綬章]]
 
* [[1933年]](昭和8年)[[1月21日]] - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]
 
<!-- 折角なところ申し訳ありませんが、こうしたところに勲章の略記号を不規則に入れられましても、余人にはかえって何のことだかわからず無用な混乱を招きかねませんので省きました。なにとぞこ了承くださいませ。-->
 
 
 
===記念===
 
;記念章
 
* [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和6年12月28日</ref>
 
 
 
===栄誉===
 
;外国勲章佩用允許
 
* [[1928年]](昭和3年)[[5月29日]] - [[ポーランド]] ヴィルッチミリタリー勲章シュヴァリエ<ref>『官報』第427号「叙任及辞令」昭和3年6月1日</ref>
 
* [[1930年]](昭和5年)
 
** [[1月28日]] - [[イギリス帝国]] [[ロイヤル・ヴィクトリア勲章|ヴィクトリア勲章ナイトグランドクロス]]<ref>『官報』第924号「叙任及辞令」昭和5年1月30日</ref>
 
** [[3月4日]] - [[スペイン|スペイン王国]] 海軍有功白色第四級勲章<ref>『官報』第953号「叙任及辞令」昭和5年3月6日</ref>
 
* [[1933年]](昭和8年)[[5月30日]] - [[フランス|フランス共和国]] [[レジオンドヌール勲章|レジオンドヌール勲章グラントフィシエ]]
 
 
 
== 著作 ==
 
* 『岡田啓介回顧録』(岡田貞寛編、[[毎日新聞社]]、1950年12月、新版1977年)
 
** (中公文庫、1987年4月、新版2001年、改版2015年) ISBN 4122038995
 
 
 
== 伝記 ==
 
* [[豊田穣]]『最後の重臣 岡田啓介 <small>終戦和平に尽瘁した影の仕掛人の生涯</small>』(光人社、1994年) ISBN 4769806744
 
* 仙石進『巨木は揺れた <small>岡田啓介の生涯</small>』(近代文芸社、1994年) ISBN 4773332557
 
* 上坂紀夫『宰相岡田啓介の生涯 <small>2・26事件から終戦工作</small>』(東京新聞出版局、2001年) ISBN 4808307308
 
* 岡田貞寛『父と私の二・二六事件 <small>昭和史最大のクーデターの真相</small>』(講談社、1989年、光人社NF文庫、1998年)
 
 
 
== 脚注 ==
 
=== 注釈 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
<references group="注釈" />
 
=== 出典 ===
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|Keisuke Okada}}
 
* [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/41.html 岡田啓介 | 近代日本人の肖像]
 
* [http://www.fcci.or.jp/komati/map_025.html 岡田啓介像]
 
{{-}}
 
{{Start box}}
 
{{S-off}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[内閣総理大臣]]
 
| before = [[斎藤実]]
 
| years  = 第31代:1934年7月8日 - 1936年3月9日
 
| after  = [[広田弘毅]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[海軍大臣]]
 
| before = [[財部彪]]<br />[[大角岑生]]
 
| years  = 第30代:1927年4月20日 - 1929年7月2日<br/>第35代:1932年5月26日 - 1933年7月8日
 
| after  = [[財部彪]]<br />[[大角岑生]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[拓務大臣]]
 
| before = [[永井柳太郎]]
 
| years  = 第7代:1934年7月8日 - 同12月5日(兼任)
 
| after  = [[児玉秀雄]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[逓信大臣]]
 
| before = [[床次竹二郎]]
 
| years  = 第37代:1935年9月9日 - 同9月12日(兼任)
 
| after  = [[望月圭介]]
 
}}
 
{{S-mil}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[横須賀鎮守府|横須賀鎮守府司令長官]]
 
| before = [[加藤寛治]]
 
| years  = 第23代 : 1926年12月10日 - 1927年4月20日
 
| after  = [[安保清種]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[連合艦隊司令長官]]
 
| before = [[鈴木貫太郎]]
 
| years  = 第16代:1924年12月1日 - 1926年12月10日
 
| after  = [[加藤寛治]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[海軍次官]]
 
| before = [[井出謙治]]
 
| years  = 第7代:1920年5月25日 - 1924年6月11日
 
| after  = [[安保清種]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[艦政本部|艦政本部長]]
 
| before = 岡田啓介(艦政局長)<br />[[伊藤乙次郎]](技術本部長)
 
| years  = 初代:1920年10月1日 - 1923年5月25日
 
| after  = [[安保清種]]
 
}}
 
{{Succession box
 
| title  = {{Flagicon|日本}} [[海軍水雷学校|海軍水雷学校校長]]
 
| before = 北古賀竹一郎
 
| years  = 第3代:1908年9月25日 - 1910年7月25日
 
| after  = [[鈴木貫太郎]]
 
}}
 
{{End box}}
 
 
 
{{日本国歴代内閣総理大臣
 
|当代=[[岡田内閣|31]]
 
|在任期間=1934年7月8日 - 1936年3月9日
 
|前代=[[齋藤内閣|30]]
 
|前首相名=斎藤実
 
|次代=[[廣田内閣|32]]
 
|次首相名=広田弘毅}}
 
{{海軍大臣}}
 
{{拓務大臣}}
 
{{逓信大臣}}
 
{{226}}
 
{{Normdaten}}
 
 
{{DEFAULTSORT:おかた けいすけ}}
 
{{DEFAULTSORT:おかた けいすけ}}
 
[[Category:昭和時代戦前の内閣総理大臣]]
 
[[Category:昭和時代戦前の内閣総理大臣]]

2019/6/11/ (火) 09:11時点における最新版

岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日慶応4年旧暦1月21日) - 1952年昭和27年)10月17日

海軍軍人,政治家。父は福井藩士。二・二六事件時の首相。 1889年海軍兵学校,93年海軍大学校卒業。 1924年大将となり,海軍軍事参議官,第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官を経て,27年田中義一内閣および 32年斎藤内閣の海軍大臣となった。 34年元老西園寺公望の奏推により総理大臣。この間,30年ロンドン海軍軍備制限条約廃棄,35年の天皇機関説事件,そして 36年のロンドン条約脱退に際会し,岡田は西園寺を頂点とする重臣と軍部の間の意思疎通の役割を果した。また天皇機関説事件では消極的立場をとったが,これが二・二六事件に際し岡田襲撃の一因となった。同事件では反乱将校が義弟を本人と誤認して射殺,官邸の一隅に隠れ難を逃れた。この事件後総辞職。以後前首相として重臣の列に加えられ,東条内閣打倒に始る終戦工作には和平派についた。



楽天市場検索: