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− | {{基礎情報 中国君主
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− | |名 =建文帝 朱允炆
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− | |代数 =第2代
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− | |呼称 =皇帝
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− | |画像 =[[File:Jianwen Emperor2.jpg|200px]]
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− | |説明 =建文帝
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− | |王朝 =明
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− | |在位期間 =[[1398年]][[6月30日]] - [[1402年]][[7月13日]]
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− | |都城 =
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− | |諱 =朱允炆
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− | |字 =
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− | |小字 =
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− | |諡号 =嗣天章道誠懿淵功観文揚武克仁篤孝譲皇帝(南明[[弘光帝]]による)<br/>恭閔恵皇帝(清朝[[乾隆帝]]による)
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− | |廟号 =恵宗(弘光帝による)
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− | |生年 =[[洪武]]10年11月5日([[1377年]][[12月5日]])
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− | |没年 =[[建文]]4年([[1402年]])?
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− | |父 =[[朱標]]
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− | |母 =呂氏
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− | |皇后 =[[孝愍皇后|馬皇后]]
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− | |陵墓 =
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− | |年号 =[[建文]]:[[1398年]] - [[1402年]]
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− | |注釈 =
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− | }}
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− | '''建文帝'''(けんぶんてい)は、[[明|明朝]]の第2代[[皇帝]]。諱は'''允炆'''(いんぶん)。[[靖難の変]]により[[永楽帝]]に帝位を[[簒奪]]されたため、明代には皇帝としての在位が否定されていた。日本ではその在位中の[[元号|年号]]「[[建文]]」から一般的に'''建文帝'''と称される。
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− | == 生涯 ==
| + | '''建文帝'''(けんぶんてい) |
− | [[朱元璋|洪武帝]]の長子で[[皇太子]]であった[[朱標]](懿文太子、興宗)の次男として生まれた。生母は朱標の側室・呂氏。洪武25年([[1392年]])、父・朱標が死去したため、皇太孫に立てられた。洪武31年([[1398年]])、祖父の崩御により第2代皇帝に即位した。即位後、その地位を確固たるものとするため側近の[[方孝孺]]らとともに皇族の力を弱めることを画策し、周王・[[朱シュク|朱{{lang|zh|橚}}]]、斉王・[[朱フ|朱榑]]、代王・[[朱桂]]をそれぞれ庶民に落とし、湘王・[[朱柏]]を焼身自殺させ、岷王・[[朱ヘン|朱楩]]を[[ショウ州市|漳州]]に流した。
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− | 建文帝にとっての最大の政敵は燕王・[[永楽帝|朱棣]]であり、上記の諸王を廃したのは燕王を粛清するための事前準備であった。これに危機感を持った朱棣は、君側の奸である方孝孺らを殺して朝廷を靖めると称し、軍を起こした([[靖難の変]])。兵力では燕王軍の数万に対し、[[南京市|南京]]の官軍は50万超と圧倒的に勝っていた。しかし、燕王軍は漠北で明朝に対峙する[[タタール]]([[北元]])とたびたび戦ってきた実戦経験豊かな朱棣自身が指揮を取ったのに対し、官軍は有能な将軍を欠いていた。これは洪武帝が有力な部下に皇位を簒奪されるのを恐れ、[[藍玉 (明)|藍玉]]ら建国以来の有能な将軍を次々に誅殺していたためである。
| + | 中国,明朝の第2代皇帝 (在位 1398~1402) 。姓名は朱允ぶん (いんぶん) 。諡は恵帝。洪武 25 (1392) 年皇太子であった父が病死したために皇太孫に立てられ,太祖 ([[洪武帝]] ) が没すると 16歳で即位し,建文と改元。当時太祖の諸子が王として各地に分封されていたが,帝は黄子澄,方孝孺らと帝権の発揚をはかる一方,諸王の地を削り,その勢力を圧迫した。そのため建文1 (99) 年燕王朱棣 (てい) は[[靖難の変]]を起し,同4年京師を陥れて帝位を奪い,即位して[[永楽帝]]となった。建文帝はこのとき焚死したと伝えられる。 |
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− | しかし指揮官の質だけでは兵力差を覆すには至らず、内乱は長引いた。建文帝はその元号からもわかるように文治政策を重視し、出陣する将軍に対して叔父殺しの汚名を自身に与えぬようにすることと訓示したり、戦闘中に朱棣が死んだという誤報を信じて将軍を南京に召還したりした。このような状態であり、官軍の軍事的な優位は確立しなかったどころか、逆に離反者を招く始末だったとされる。
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− | [[建文]]5年([[1402年]])、燕王軍は南京を陥落させ、建文帝はその際の混乱により行方不明となった。当時は僧に変装して逃亡したとも言われている(先帝の洪武帝から「身の危険があったときに開けるように」と渡された箱を、このとき開けると'''剃刀と金子'''が入っていたという)。ただし、逃亡説は伝説的なものに近く、殺されたか自殺したと考えるのが通説である。享年24。
| + | {{明の皇帝|1398年 - 1402年||第2代}} |
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− | == 人物・逸話 ==
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− | {{複数の問題|ソートキー=人1402年頃没 | |
− | |section = 1
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− | | 出典の明記 = 2012年4月
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− | | 参照方法 = 2012年4月
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− | | 独自研究 = 2012年4月 | |
− | | 精度 = 2012年4月 | |
− | }} | |
− | * 永楽帝となった朱棣は自らの簒奪を隠蔽するために建文帝の即位の事実を抹消し、建文の年号もなかったことにした。その後、明が終わるまで建文帝の正統議論は消えることが無かったが、結局明代には建文帝の名誉は復活しなかった。年号のみは、[[万暦帝]]によって[[万暦]]23年([[1595年]])に復活された。[[清]]の[[乾隆帝]]の時代に、恭閔恵皇帝と追諡され、ようやく明の正統皇帝として認められた。
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− | * 建文帝の最期に関しては「都城陥るや、宮中より火起り、帝終る所を知らず。(略)或はいう。帝、地道により出亡す」(『[[明史]]』「恭閔帝本紀」)とあり、自殺の場面は確認されていないという。
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− | * 死後38年たった[[正統 (明)|正統]]5年([[1440年]])に雲南から広西にかけて放浪していた僧侶が「我は建文帝なり」と自称した。当時の皇帝である[[英宗 (明)|正統帝]]はこの僧侶を逮捕して調査したが、全く根拠の無い偽者であった。この偽者は獄死したという。
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− | * 雲南・[[貴州]]・[[四川]]にかけて、建文帝が皇位を追われた後に僧侶として往来したとされる旧蹟がいくつも存在しているほど、生存説は根強くある。
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− | * 靖難の変が起こると将軍らに「朕に叔父殺しの不名誉を成さしめないようにせよ」と訓令したり、敗戦の責任者である[[李景隆]]を太子太師の地位を授けたり、側近の[[斉泰]]や[[黄子澄]]らを敗戦に応じて解任したり復帰させたりと政略の能力には欠けていたが、[[拷問]]の廃止や重税の軽減、宦官の重用禁止を実施したため、民からは慕われたという。
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− | * [[幸田露伴]]『[[運命 (幸田露伴)|運命]]』では名君として描かれ、また逃亡説が採られ数十年の余生を過ごしたとされている。
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− | == 宗室 ==
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− | === 后妃 ===
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− | *[[孝愍皇后]]
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− | *40人くらいの妃嬪と宮女 (燕王軍が皇宮に進入すると、彼女らは建文帝の後追い自殺をしたという)
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− | === 男子 ===
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− | *[[朱文奎]](太子)
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− | *[[朱文圭]]
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− | == 参考文献 ==
| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
− | {{Commonscat|Jianwen Emperor}} | |
− | * 『[[明史]]』([[中華書局]])
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− | * 『[[朝鮮王朝実録]]』
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− | {{明の皇帝|1398年 - 1402年||第2代}}
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− | {{Authority control}}
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