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{{Otheruses|日本の鉄道計画|一般の弾丸列車|高速鉄道}}
  
'''弾丸列車'''(だんがんれっしゃ)は、[[日本]]で[[1939年]](昭和14年)に始まった、通称「'''弾丸列車計画'''」で計画されていた列車である。
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'''弾丸列車'''(だんがんれっしゃ)
  
== 計画の背景 ==
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弾丸のように速い列車の意。昭和13年(1938)東京・下関間を結ぶ広軌幹線鉄道の計画中に用いられた語。
[[1932年]](昭和7年)ごろ、日本から[[朝鮮半島]]・[[中国大陸]]へ向かう輸送需要は年々急増していた。その前年([[1931年]]:昭和6年)には[[関東軍]]が[[満州事変]]に遭遇しはじめており、その1932年(昭和7年)には[[満州国]]も成立したためであった。[[東京府|東京]]・[[大阪]]からそれらの地方へ向かう当時の最速ルートは、まず[[東海道本線]]・[[山陽本線]]で[[下関市|下関]]まで行き、[[関釜連絡船]]で[[玄界灘]]を渡って[[釜山広域市|釜山]]に上陸後、さらに[[朝鮮総督府鉄道]](鮮鉄)・[[南満州鉄道]](満鉄)を利用するというルートであった(→[[連絡運輸#国際連絡運輸|国際連絡運輸]]も参照)。ところが、その当時すでに東海道本線と山陽本線は重要幹線であるが故に輸送力が逼迫した状態であった。例えば、東海道本線と山陽本線の総延長は当時の国鉄線([[鉄道省|省線]])の7%に過ぎなかったものの、輸送量は全体の30%を占めていた。特に[[1937年]](昭和12年)[[7月7日]]に[[盧溝橋事件]]が起こり[[日中戦争]]が勃発すると、そのままでは輸送量の増加に対処しきれなくなると危惧されるようになった。
 
  
== 立案から具体化 ==
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{{日本の新幹線}}
そこで[[1938年]](昭和13年)[[12月2日]]に当時の国有鉄道を運営していた[[鉄道省]]内部に「'''鉄道幹線調査分科会'''」が設立され、両幹線の輸送力強化に関する調査研究が開始された。さらに翌[[1939年]](昭和14年)[[7月12日]]には「'''鉄道幹線調査会'''」が[[勅令]]をもって設立され、輸送力拡大のための方策が具体的に検討されるようになり、11月に結論として早期に同区間に別線の高規格鉄道を敷くことが必要であるということになった。鉄道省の用語では、広軌による幹線として「'''広軌幹線'''」という言葉でこの計画を呼んでいたが、[[新聞]]など世間一般では[[弾丸]]のように速い列車であるという形容として「'''弾丸列車'''」という語が使われた。戦後の'''[[新幹線]]'''計画への影響は大きいが直接の関係は無いものの、新しい幹線という意味で「新幹線」という語の使用も当時の公式資料中に見られる。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
また、関係者には初の本格国産蒸気機関車である[[国鉄8620形蒸気機関車|8620形]]や[[国鉄9600形蒸気機関車|9600形]]を開発した[[関西鉄道]]出身の鉄道技術者[[島安次郎]]<ref group="†">よく、島安次郎は「満鉄の「[[あじあ号]]」を開発した」との誤解が広まっているが、これは満鉄理事の任務を誤解したことが原因であり、開発に携わった痕跡は全くない。もとよりドイツ流の設計手法を身に付けてはいても、「あじあ」の[[機関車]]・[[客車]]に用いられた[[アメリカ合衆国|米国]]流の設計手法は身に付けてはいない。</ref>や、その息子で戦後東海道新幹線計画を推し進めることになった[[島秀雄]]もいた。島安次郎は、かつて[[日本の改軌論争|国鉄の標準軌化]]を目論んで計画を立てていたが、[[立憲政友会]]の[[原敬]]が横槍を入れて実現せぬまま終わったという経緯があり、独自に標準軌新線を敷くというこの案に乗ったのである。
 
 
 
当初は他の路線と直通できることから[[狭軌]](1067mm)新線を敷く案が有力であったが、大陸の鉄道である満鉄や鮮鉄が[[標準軌]](1435mm)を採用していたので、それとの貨客直通を図れる方が軍事輸送の面などからしても有利なこと、広軌を使用すれば高速運転ができるなどの理由で計画変更となった。
 
 
 
== 建設と挫折 ==
 
[[1940年]](昭和15年)9月に鉄道省が「'''東京・下関間新幹線建設基準'''」を制定し、同年に[[帝国議会]]で「'''広軌幹線鉄道計画'''」が承認され、国家が[[1954年]](昭和29年)までに開通させることを目標とした「十五ヶ年計画」に基いて総予算5億5600万円をかけて建設を行うことが決定した。これに基き用地買収・工事が開始されることとなる。
 
 
 
なお構想として、将来は[[対馬海峡]]に[[トンネル|海底トンネル]]を掘削し、満州国の[[首都]][[新京]](現:[[長春市|長春]])や[[中華民国の歴史|中華民国]]の[[北京市|北京]]までの直通列車を走らせるというものもあった([[日韓トンネル]]の項目も参照)。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])によって[[日本軍]]が[[シンガポール]](昭南)を獲得すると、そこまでの延長も画策されたという。「[[大東亜共栄圏]]」構想に基いて日本が[[東アジア]]・[[東南アジア]]での覇権を確立し、日本を中心として東アジア・東南アジアの[[植民地]]を解放した新しい体制を創ろうとしたことからこれらの計画は生まれたといわれ、他にも[[インド]]・[[ラオス]]等への鉄道敷設が構想としては存在し、[[シベリア鉄道]]に代わるアジアから[[ヨーロッパ]]までの鉄道敷設を目指した「[[大東亜縦貫鉄道#中央アジア横断鉄道|中央アジア横断鉄道計画]]」(新規建設区間は[[包頭市|包頭]]・[[西安]] - 甘州(現、[[張掖市|張掖]]) - [[クムル市|哈密]] - [[カシュガル市|カシュガル]] - [[カーブル]] - [[テヘラン]] - [[バグダード]]、他の区間は既設線活用)なるものも立案された。[[大東亜縦貫鉄道]]も参照のこと。
 
 
 
しかしながら同戦争の戦局が悪化したため、[[1943年]](昭和18年)度をもって工事は中断されてしまった。だが[[日本坂トンネル#東海道新幹線日本坂トンネル|日本坂トンネル]]については工事が継続され、完成後は東海道本線のトンネルとして転用された(後に東海道新幹線のトンネルとして転用される)。また、[[丹那トンネル#新丹那トンネル|新丹那トンネル]]・[[逢坂山トンネル#東山トンネル・新逢坂山トンネル|東山トンネル]]の工事は進んでおり、用地買収も東海道区間については戦時体制による半ば強制的な形で多くが完了していたため、戦後の東海道新幹線建設計画においてそれらは活用されることになる。
 
 
 
なお終戦直後の[[1946年]](昭和21年)6月には、[[外国資本|外資]]を取り入れた民間主導でこの計画を実現させようという計画もあがった。「日本鉄道株式会社」(仮称。[[東北本線]]などを敷設した明治時代の[[日本鉄道]]とは無関係)として立案されたこの計画は、[[東京都|東京]]から[[福岡市|福岡]]の間に標準軌の新線を敷設し、[[寝台列車]]・[[貨物列車]]などは機関車牽引、その他の列車は電車列車で運行、東京 - 大阪間を4時間、東京 - 福岡間を10時間で結ぶことを目標とした。しかし、日本の主要幹線は[[鉄道国有法]]により国家が運営することが定められていたことと、国の復興予算と資材は国鉄に優先的に投与することになっていたため、認可には至らなかった。
 
 
 
また新丹那トンネル開削のため、作業員宿舎が置かれた場所である[[静岡県]][[田方郡]][[函南町]]には、戦中よりこの弾丸列車計画にちなんで、[[新幹線#地名における「新幹線」|「新幹線」という地名]]が今に至るまで存在している。
 
 
 
== 計画の概要 ==
 
* 東京 - 下関間984.4kmに、[[在来線]]とは別の[[複線]]新線を敷設する(計画立案当時の同区間在来線[[営業キロ]]は1097.1km)。
 
* 現在線と必ずしも並行せず、できるだけ直線ルートを取る。
 
* 長距離高速列車を集中運転する。
 
** 旅客列車は[[東京駅|東京]] - [[大阪駅|大阪]]間を4時間30分、東京 - [[下関駅|下関]]間を9時間で結ぶことを目標とした<ref name="tetsu-tech">『鉄道技術発達史』第一編(総説) 日本国有鉄道編</ref>(当時、東京 - 大阪は最速列車で8時間、東京 - 下関間は18時間半を要した)。
 
** 当初、東京 - 大阪間には片道42本、大阪 - 下関間に31本の旅客列車を設定する予定であった(戦後の新幹線開業当初は東京 - [[新大阪駅|新大阪]]間に30本、翌年には51本。また当時の東京 - 大阪間直通定期旅客列車は24本、大阪 - 下関間は18本)。
 
** [[貨物列車]]は東京 - 大阪間12本、大阪 - 下関間10本の設定を予定した。
 
* 最高速度は200[[キロメートル毎時|km/h]]とする(蒸気機関車牽引区間では150km/h。なお戦後の新幹線は210km/h、当時の在来線最高は95km/h)。
 
* 旅客駅数は18に限る。
 
** [[鉄道駅#旅客駅|旅客駅]]は、東京、横浜、小田原、熱海、沼津、静岡、浜松、豊橋、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、尾道、広島、徳山、小郡、下関<ref name="tetsu-tech"/>。
 
** また貨物列車の[[操車場 (鉄道)|操車場]]として、新鶴見、浜松、名古屋、吹田、岡山、広島、幡生<ref name="tetsu-tech"/>。
 
** ただし尾道に代わって福山に駅を設置する案や、沼津に代わって三島に駅を設置する案もあった。また、最速列車の停車駅は東京、横浜、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、姫路、岡山、広島、下関の11箇所とし、将来的には東京、名古屋、大阪、広島、下関の5駅のみ停車する速達列車を運転する構想もあった。
 
* [[軌間]]は<!--在来線同様の1067mm([[狭軌]])とせず、-->鮮鉄や満鉄同様の1435mm([[標準軌]])とする。
 
* [[鉄道の電化|電化]]区間は東京 - 静岡間および名古屋 - 姫路間とする<ref name="tetsu-tech"/>。
 
* 電化方式は[[直流電化|直流]]3000[[ボルト (単位)|V]](部分電化時)とする(戦後の新幹線では[[交流電化|交流]]25,000V)。
 
* 幹線道路とは[[立体交差]]、その他の道路ともできるだけ立体交差とする。
 
* [[鉄道信号機|信号]]の見通し距離は長く取る(戦後の新幹線では[[自動列車制御装置]](ATC)を採用して信号機は設けないことになったが、この計画時にも[[車内信号]]方式は検討されていた)。
 
* 部分開業を前提に、当面は標準軌基盤で狭軌鉄道を敷設し、全通時に標準軌へ改軌する(戦後の新幹線計画でも構造物は新幹線規格で建設するも当面狭軌鉄道を敷設する[[新幹線鉄道規格新線]]として整備されていた区間がある)。
 
* 最大[[勾配]]は、上り10[[パーミル|‰(パーミル)]]、下り12‰とする<ref name="tetsu-tech"/>。
 
* 車体限界は高さ4800mm、幅3400mm、長さ25m<ref name="tetsu-tech"/>(戦後の新幹線は4500mm、3400mm、25m)。
 
* 建築限界は高さ5150mm、幅4400mm(同じく5700mm、4400mm)。
 
* 最小曲線半径は2500m<ref name="tetsu-tech"/>(東海道新幹線は2500m、以後の新幹線は4000m・実際にはそれ以下のカーブが速達列車の停車駅を中心に多く存在)。
 
* 軌道中心間隔4200mm(東海道新幹線は4200mm、以後4300mm)<ref name="Shinkansen 20 239">『東海道 山陽新幹線二十年史』日本国有鉄道新幹線総局、1985年、p.239。</ref>。
 
* 使用レールは60kg以上(東海道新幹線は当初53.54kg、その後及びその他60.8kg)。
 
* [[バラスト軌道]]道床厚は300mm(東海道新幹線は300mm、以後の多くは[[スラブ軌道]])。
 
* 施工基面幅は10.2m以上(東海道新幹線は10.7m、[[山陽新幹線]]の岡山以東は11.6m、以西は11.4m)。
 
 
 
なお戦後、ほぼ同じ区間に同じく輸送力の増強を目的として建設された東海道新幹線・山陽新幹線とは、ルートや規格以外では以下の様な相違点が存在する。
 
 
 
=== 戦後の新幹線との相違点 ===
 
; [[機関車]]牽引方式であること。
 
: 関係者である島秀雄などからは[[電車]]運転([[動力分散方式]])の案もあったが、基本的には当時の風潮(米国流の設計手法や、基本的に[[非電化]]とすることなど)から機関車牽引方式([[動力集中方式]])となった。
 
; 静岡 - 名古屋間と姫路以西は非電化で[[蒸気機関車]]牽引になっていること<ref name="tetsu-tech"/>。
 
: 東京 - 静岡間は長大な新丹那トンネルを有することから保安上の問題で電化となったが、[[大日本帝国陸軍|陸軍]]などが有事の際[[変電所]]などの送電施設を攻撃されると運行が不能になることを理由に、基本的には非電化とすることを主張していたため。
 
; 貨物列車の運行を予定していたこと。
 
: 旅客駅とは別に、いくつか[[貨物駅]]も設ける予定であった。[[東海道新幹線]]の建設計画が出された際にも貨物列車の運行案があったが、実現しないまま現在に至っている。
 
 
 
=== 用地買収と新幹線計画 ===
 
用地買収は前述のように、半ば強制的な形で東海道区間については多くが終了していた。その方法は、突然関係者が土地保有者の元へやってきて、話し合いなど一切せず代わりに杭を打って帰っていき、買収価格の交渉などは無かったというもので、[[地主]]は相当安い価格で買い叩かれたという。しかし応じなければ「[[非国民]]」扱いされるため、言われるがまま従わざるを得なかったとされる<ref group="†">関係者が土地をもっている一軒一軒を訪ねて交渉するというのではなく、まとめて、この付近一帯の線路に当たる土地を買い取りたいと告げ、測量の関係者が来ていきなり「『くぎを打たしゃい』といってくぎ(原文ママ)を打っていった」というような例もあったらしい。</ref><ref name = "弾丸列車365">前間孝則一著 『弾丸列車 幻の東京発北京行き超特急』 実業之日本社 1994年12月15日発行 ISBN 4-408-34054-5, 365頁</ref>。時局柄、空襲が土地の買収の契機となったことさえあったようである<ref group="†">例えば当時鉄道省に所属していた関係者の弁として、「[[B-29 (航空機)|B29]]の爆撃を受けて、至る所が焼けてから、ずいぶんたくさんの用地を買った。特に駅の構内なんか一番高いところだから、『この際買っちゃえ、買っちゃえ』となって、[[豊橋市|豊橋]]でも、焼かれたところを全部買っちゃえとなった。市価よりもかなり安かった。ああいうときですから、中には強引な買い方もあっただろうと思います。」との証言が残っている。</ref><ref name = "弾丸列車385">前間孝則一著 『弾丸列車 幻の東京発北京行き超特急』 実業之日本社 1994年12月15日発行 ISBN 4-408-34054-5, 385頁</ref>。
 
 
 
戦後、元の土地の所有者から「国鉄に売却した土地が使用される見込みがないのなら返還せよ」という内容の[[訴訟]]が起こされた。これは[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]まで行き、[[日本国有鉄道]]の[[敗訴]]はほぼ確実となった。東海道区間については東海道新幹線の建設が訴訟中に決定したため返還しないことになったが、山陽区間については山陽新幹線計画が具体化していなかったために多くが返還された。そのため山陽新幹線の建設が決定した際は、返還した土地を再び買収するわけには行かないので、多くのルートが変更されることになったという。同新幹線で[[トンネル]]が多くなった要因には、このような背景もあったとされる。
 
 
 
== 予定ルートと駅設置場所 ==
 
; 東京駅
 
: [[市ケ谷駅]]、[[東京駅]]、[[新宿駅]]、[[荻窪駅]]又は[[高井戸駅]]<ref group="†">出典により地点は異なっている。</ref>の4箇所が候補にあった。旅客の利便、旅客流動(新宿駅と東京駅のほぼ中間にあることも理由)、防空の観点、都市計画、建設費などを考慮して市ケ谷が最有力候補であったが、利便性では東京駅併設、建設費では荻窪又は高井戸が有利とされ、最終的な結論には至らなかった。
 
; 東京 - 横浜間
 
: 現行新幹線にほぼ一致。途中機関区・客車操車場を品川または新鶴見に設け、貨車操車場は新鶴見に設置(後に在来線の[[新鶴見機関区]]と[[新鶴見信号場|新鶴見操車場]]に転用)。
 
; 横浜駅
 
: [[横浜線]]との交点に「新横浜駅」を設けるとされていたが、[[東急東横線]]とも連絡が可能な[[菊名駅]]付近が最有力とされた(現在の[[新横浜駅]]よりやや南寄り)。
 
; 横浜 - 小田原間
 
: 現行新幹線にほぼ一致。なおこの区間は用地買収が進んでおり、戦後に新幹線のテストコースとなった「[[モデル線|鴨宮モデル線区]]」となって現在の東海道新幹線となっている。
 
; 小田原駅
 
: 在来線[[小田原駅]]に併設。
 
; 小田原 - 三島間
 
: [[熱海駅]]付近までは現行よりやや海より。そこから先、新丹那トンネルを抜けて三島までは現行ルートとほぼ同じ。
 
; 三島駅
 
: 在来線[[三島駅]]に併設。当初は[[沼津駅]]を通す計画であったが、線形の都合で三島に変更となった。
 
; 三島 - 静岡間
 
: 現在の新幹線と異なり、由比辺りまでは海岸線ルートを通る。由比以西は現在よりやや山寄り。
 
; 静岡駅
 
: 在来線[[静岡駅]]に併設。また、駅東方3.5km(現、[[東静岡駅]]付近)の所に電気機関車と蒸気機関車の付け替えのための機関区と操車場を設置予定。
 
; 静岡 - 浜松間
 
: [[掛川駅]]付近までは現行新幹線とほぼ同じで、そこから先は現在より北側のルートを通る。
 
; 浜松駅
 
: 用地買収の問題から当初は[[浜松駅]]南方へ「新浜松駅」を設ける予定であったが、後に[[遠州鉄道]]との連絡ができる島ノ郷駅(現、[[曳馬駅]])付近に設ける予定へ変更された。
 
; 浜松 - 豊橋間
 
: [[新居町駅]]付近まで南下し、東海道本線に沿って[[二川駅]]付近で完全に並行する形で豊橋に至る。
 
; 豊橋駅
 
: 在来線[[豊橋駅]]に併設。ただし現行新幹線が地上駅なのに対し、高架駅の予定であった。
 
; 豊橋 - 名古屋間
 
: 現行新幹線とほぼ同じ。
 
; 名古屋駅
 
: 在来線[[名古屋駅]]に高架で併設。機関区・客車操車場・貨車操車場は近くの日比津に設けるとされ、戦後の新幹線計画では電車の留置線とされた。貨物駅は笹島を予定した。
 
; 名古屋 - 京都間
 
: [[米原駅]]などに迂回する現行に近い案もあったが<ref>{{Cite news|title=東京下関間弾丸列車 新幹線、全工程の七割決まる|date=1941-11-24|publisher=日本工業新聞}}</ref>、[[鈴鹿山脈]]を越え[[野洲駅]]を通る計画(以前の[[名古屋急行電鉄]]の計画に近い)となり<ref>{{Cite news|title=決戦下悠々たり世紀の大事業 東京←九時間→下関 京阪神を僅々三十分 実現するか“弾丸列車”国鉄が打樹てる技術陣|date=1942-6-2|publisher=報知新聞}}</ref>、[[東山トンネル|新東山トンネル]]が作られた<ref>{{Cite journal|author=松本嘉司|title=東海道新幹線|year=2002|publisher=日本コンクリート工学会|journal=コンクリート工学|volume=40|number=1|pages=141-145}}</ref>。
 
; 京都駅
 
: 在来線[[京都駅]]の市内側(現在の京都駅ビル付近)に併設し、貨物駅は[[西大路駅]]近くに設ける予定だった。[[琵琶湖]]の横断線上にある京都市西北や<ref>{{Cite news|title=弾丸列車 琵琶湖に日本一の大鉄橋 比叡山の横腹潜って洛北へ|date=1941-5-6|publisher=報知新聞}}</ref>、[[東山 (京都府)|東山]]の南にある[[伏見区]]に置く案もあった<ref>{{Cite news|title=三階式の高架も登場 快適、踏切は一ヶ所もなし 各駅の構内は半里以上に 弾丸列車 高槻−姫路間決る|date=1941-8-19|publisher=大阪毎日新聞}}</ref>。
 
; 京都 - 新大阪間
 
: 現行新幹線にほぼ一致。鳥飼に機関区と客車操車場を、現在の[[大阪府道2号大阪中央環状線]]をくぐった味生付近に貨物操車場を設ける。
 
; 大阪駅
 
: [[1940年]](昭和15年)に開設された[[東淀川駅]]を「新大阪駅」とする予定であった(現在の[[新大阪駅]]よりやや北寄り。戦後の新幹線計画で変更された理由については、[[新大阪駅#歴史]]を参照)。
 
; 大阪 - 神戸間
 
: 現在の新幹線と異なりほぼ直線ルートで抜け、[[西宮北口駅]]付近を通って[[芦屋市]]付近でトンネルに入る。尼崎市内に確保された用地は戦後、名神高速道路に転用された。
 
; 神戸駅
 
: 在来線[[神戸駅 (兵庫県)|神戸駅]]北方2kmの平野付近に「新神戸駅」を設置(現在の[[新神戸駅]]より西寄り)。
 
; 神戸 - 姫路間
 
: 現在の山陽新幹線より山よりの、山陽本線の北側を進むルート。正確な位置は不明ながら、戦時中に[[高取山 (兵庫県) |高取山]]へ登山した際に測量用の杭を見たという証言があり、高取山の下を東西方向へ抜けるルートであったと推測される。なお、買収済みの建設予定地の一部は現在[[第二神明道路]]、[[加古川バイパス]]などに転用されている。
 
; 姫路駅
 
: [[播但線]]の[[亀山駅 (国鉄)|亀山駅]](現在は廃止。「飾磨港線」と俗称された区間にあった)と[[山陽電気鉄道]][[山陽電気鉄道本線|本線]]の電鉄亀山駅(現、[[亀山駅 (兵庫県)|亀山駅]])にまたがって交差するように、「新姫路駅」を設ける予定であった。
 
; 姫路 - 岡山間
 
: [[相生駅 (兵庫県)|相生駅]]付近までは山陽本線に並行するルートで、そこから先は弾丸列車と同時に山陽本線[[船坂峠]]の勾配区間を避ける新線として建設を行うことになった[[赤穂線]]と並行する。
 
; 岡山駅
 
: [[宇野線]][[大元駅]]付近に「新岡山駅」を設ける予定であった。
 
; 岡山 - 尾道間
 
: 山陽本線と並行するルートで、玉島駅(現、[[新倉敷駅]])付近まではその南側を進み、そこから先は北側を進んで[[福山駅]]手前からは現行の山陽新幹線と並行し、尾道付近で在来線と接続するためにカーブを設ける。
 
; 尾道駅
 
: [[尾道市]]の西端、[[尾道駅]] - [[糸崎駅]]間に「新尾道駅」を設ける予定であった(現在の[[新尾道駅]]の南西寄り)。なお既存設備が活用可能な玉島や福山・三原でなく、わざわざ新しく尾道に駅を設けることになったのは、当時はここが岡山と広島の中間にあって最も栄えていたからだとされる。
 
; 尾道 - 広島間
 
: 現在の山陽新幹線がトンネルを多用しているのに対し、蒸気機関車牽引なのでトンネルを避けるために山陽本線と並行し、[[瀬野八]]付近で同線と交差した後に[[芸備線]]の[[安芸矢口駅]]付近へ抜け、[[可部線]]の[[下祇園駅]]付近に機関区を設ける予定であった。なお[[西条駅 (広島県)|西条駅]]付近を通過するため、将来的には弾丸列車にも駅を設けられるようにする予定であったと言われる。
 
; 広島駅
 
: 山陽本線の己斐駅(現、[[西広島駅]])を「新広島駅」とする予定であった。
 
; 広島 - 徳山間
 
: 山陽新幹線・[[岩徳線]]とほぼ同一のルートだが、トンネル区間はできるだけ減らそうとした。廿日市駅裏の曹洞宗の寺「洞雲寺」の門前の田圃には測量の際に打たれた、枕木を転用したと思われる杭がある。しかし、近年宅地開発により更地となり、痕跡は残っていない。
 
; 徳山駅
 
: 市街地を避けて[[徳山駅]]の北方に「新徳山駅」を設ける予定であった。
 
; 徳山 - 小郡間
 
: 現在の山陽新幹線がトンネルによってほぼ一直線に抜けているのに対し、曲線を多用してそのやや南側を抜ける予定であった。
 
; 小郡駅
 
: 山陽本線の[[嘉川駅]]付近に駅を設ける予定であった。
 
; 小郡 - 下関間
 
: [[小月駅]]付近までは山陽新幹線とほぼ同じルートを通り、そこから先は山陽本線と並行、幡生に貨物操車場を設ける予定であった。
 
; 下関駅
 
: [[下関駅]](なお[[1942年]]に現在地へ移転するまでは、700m東の海岸寄りにあった)併設を予定したが、九州方面への延伸を考慮してトンネルが掘りやすいよう別の場所への設置も考えられていた。
 
; 大陸へのルート
 
: 当初は下関駅で関釜連絡船に接続するとしていたが、同航路を[[鉄道連絡船#車両航送|車両航送]]ができる様に改造して客車を載せて釜山・北京へ直通することや、前述のように海底トンネルを掘ることも考えられた。海底トンネルを掘る際は、[[佐賀県]]の[[東松浦半島]]付近から海底に潜って[[壱岐島]]・[[対馬]]を経て行くのが建設費等の面から有力とされ、実際に海底調査もなされた。また対馬と[[朝鮮半島]]の間([[朝鮮海峡]])は海底が深いため、海底に橋脚を建ててその上に載せたチューブの中を列車が走るなどといった案や、[[吊り橋]]にする案も出されたが、結局は軍部が[[魚雷]]攻撃に遭ったら運行不能になるということで反対したために、通常の海底トンネルで建設を行うこととされた。なお現在、[[日韓トンネル]]としてこの区間にトンネルを掘る構想が一部で存在する。
 
 
 
== 運行計画 ==
 
[[特別急行列車]](特急列車)・[[急行列車|普通急行列車]](急行列車)の2種類の列車を運行する予定で、特急列車の編成は機関車の牽引力と目標速度を考慮して[[一等車]]・[[二等車]]・[[普通車 (鉄道車両)|三等車]]をすべて連結した10両編成とされ、全車両冷暖房完備とし、満鉄の「あじあ」号同様密閉型の[[展望車]]も設ける予定であったという。そして急行列車は[[夜行列車|夜行]]のみとし、両都市の有効時間帯を考慮して東京 - 大阪間を9時間運転で走り、各等[[座席車]]・[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]による15両編成を予定したとされる。また旅客列車・貨物列車のほか、[[郵便列車]]・[[荷物列車]]の運転も計画されていた。
 
 
 
当初の最速列車の運行計画は、大体以下のようなものであった。
 
  
東京620→(特急)→下関1520・1610→(連絡船)→釜山2340・030→(特急)→[[京城府|京城]](現:[[ソウル特別市|ソウル]])620・630→奉天(現:[[瀋陽市|瀋陽]])1800(列車分割)・1810→新京(現:長春)2140、北京730
 
 
* 東京から新京まで39時間20分、北京まで49時間10分の予定。それまでの最速が下記のように([[1940年]](昭和15年)10月改正時)それぞれ55時間12分、69時間50分であったことから、約1日の短縮となる。
 
 
東京1500→(特急「[[富士 (列車)|富士]]」)→下関925・1030→(連絡船1便)→釜山1800・1850→(急行「[[ひかり (列車)|ひかり]]」)→京城247・254→奉天1737・1745→新京2212、釜山1920→(急行「[[華北交通#優等列車|興亜]]」)→京城330・337→奉天1922・1945→北京1250
 
 
== 牽引機関車 ==
 
下記の機関車が設計されていた。
 
* 電気機関車 - 旅客用HEH50(最高速度210km/h)、HEF50(同170km/h)、貨物用HEF10(同95km/h)。
 
* 蒸気機関車 - 旅客用HD53、HC51、貨物用HD60。
 
: 旅客用のHEH50形は、2車体(後の[[国鉄EH10形電気機関車|EH10形]]等と同形態)を併結した形の動輪8、補助輪5、[[集電装置|パンタグラフ]]4基、全長32.5mという大型電気機関車で、世界最速の実用運転を目指したものであった。
 
: これらの機関車は、当時世界最先端の鉄道先進国の一つであった[[ドイツ]]の蒸気機関車・電気機関車を基に設計されていた。例えば、HC51型は[[ドイツ国鉄05形蒸気機関車|05型蒸気機関車]]に、HD53型は[[ドイツ国鉄06形蒸気機関車|06形蒸気機関車]]に酷似していた。
 
: いずれの機関車も[[空気抵抗]]を考慮し、[[流線型]]の採用を予定した。
 
: ただし、これらの機関車の製作については、当時の日本の鉄道技術力・工業技術力・国力をもってして実現可能であったかどうかは、疑問の声もある。
 
 
== 出典 ==
 
<references/>
 
 
== 注釈 ==
 
<references group="†"/>
 
 
== 参考文献 ==
 
{{参照方法|section=1|date=2012年2月}}
 
*『東海道新幹線』(須田寛、[[JTBパブリッシング]]) ISBN 4533035639
 
*『弾丸列車』([[前間孝則]]、実業之日本社) ISBN 4408340545
 
**(改題、文庫化)『亜細亜新幹線』(前間孝則、[[講談社]]) ISBN 4062637022
 
*『鉄道「歴史・地理」なるほど探検ガイド―大都市圏・新幹線版』([[川島令三]]・岡田直、[[PHP研究所]]) ISBN 4569619886
 
*『日本の鉄道名所100を歩く』(川島令三、講談社) ISBN 406272278X
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[日本の改軌論争]]
 
* [[日本電気鉄道]]
 
* [[東海道物流新幹線構想]]
 
* [[鉄道と政治]]
 
* [[未成線]]
 
* [[日本坂トンネル]]
 
* [[東淀川駅]]
 
* [[あじあ (列車)]]
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://nhk.jp/chronicle/?B10001200998201230130042 幻の弾丸列車 東京発北京行 昭和15年] - NHKアーカイブス 歴史への招待
 
* [http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html 新聞記事文庫] - 神戸大学附属図書館(弾丸列車に関わる記事が検索できる)
 
 
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弾丸列車(だんがんれっしゃ)

弾丸のように速い列車の意。昭和13年(1938)東京・下関間を結ぶ広軌幹線鉄道の計画中に用いられた語。




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