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[[Image:Seikanron2.jpg|thumb|350px|征韓議論図。[[西郷隆盛]]は中央に着席。明治10年(1877年)[[鈴木年基]]作。]]
 
'''征韓論'''(せいかんろん)は、[[日本]]の<!--[[幕末]]から-->[[明治]]初期において、当時[[留守政府]]の首脳であった[[西郷隆盛]]・[[板垣退助]]・[[江藤新平]]・[[後藤象二郎]]・[[副島種臣]]らによってなされた、[[武力]]をもって[[朝鮮]]を[[開国]]しようとする主張である(但し、史実として、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は、板垣らの主張する即時の朝鮮出兵に反対し、開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と呼ばれるものであり、事実、遣韓中止が決まる直前では西郷の使節派遣でまとまっていた。)<ref>[[#毛利1979|毛利(1979)]]による。「征」は本来「ゆく、旅立つ、伐(う)つ、上が下を伐つ、利益や儲けを取り上げる、税を取り立てる」などの字義。後の歴史の経緯から「征服」「侵略」「植民地化」に傾斜した意に捉えがちだが本来の字義は必ずしもそれのみではない。</ref><ref>[[#板垣1992|板垣(1992)]]、61頁</ref>。
 
  
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁として定着した。
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'''征韓論'''(せいかんろん)
  
== 名称 ==
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明治初期,維新政府内部で唱えられた政策。維新政府は成立以来朝鮮国王に日鮮修好を求めたが,朝鮮政府は鎖国政策をとり続け,交渉拒絶を回答した。これをとらえ,政府内部には国辱にかかわるものであるという意見が強まった。[[板垣退助]]らは強硬出兵論を唱え,[[西郷隆盛]]は,まず自分が使節として朝鮮に渡り,交渉決裂後出兵すべきだとした。 1873年8月 17日に閣議は,いったん西郷派遣を決定したが,同9月 13日欧米視察から急遽帰国した[[岩倉具視]],[[大久保利通]]らは,内治優先などを理由に強硬に反対,閣内対立は決定的なものとなった。両派対立の間に立って[[三条実美]]は病に倒れ,同 10月 24日太政大臣代行についていた岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり,先の閣議決定は無期延期され,同日西郷が参議,近衛都督を辞任,続いて翌 25日板垣,副島種臣,後藤象二郎,江藤新平が下野。[[佐賀の乱]],[[西南戦争]],[[国会開設運動]],自由民権運動にいたる明治前期政治を左右する出来事の発端となった。
日本書紀の神功皇后紀では高句麗・新羅・百済を「[[三韓]]」と呼んでいた。これに対して「[[朝鮮]]」は由来に緒論あるものの[[李氏朝鮮]]が使っていた正式国号である。征韓派は「征'''韓'''」を用いた。
 
  
[[安政五カ国条約]]の勅許の奏請にあたり、[[間部詮勝]]は「(13、4年ののちは)海外諸蛮此方之掌中ニ納候事、三韓掌握之往古ニ復ス」る状況を実現することができると朝廷を説得したとされる<ref>[[#藤村1970|藤村(1970)]]、13頁</ref>。後年[[渋沢栄一]]は「韓国に対する私の考えは、三韓征伐とか朝鮮征伐とか征韓論とかに刺戟せられたものであろうが、兎に角朝鮮は独立せしめて置かねばならぬ、それは日本と同様の国であると考えていたのである」と[[日清戦争]]後の対露強硬路線に同調した経緯を述べた<ref>[[#島田1999|島田(1999)]]、11頁</ref>。
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== 概要 ==
 
日本では[[江戸時代]]後期に、[[国学]]や[[水戸学]]の一部や[[吉田松陰]]らの立場から、古代日本が[[朝鮮半島]]に支配権を持っていたと『[[古事記]]』・『[[日本書紀]]』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、[[尊王攘夷運動]]の政治的主張にも取り入れられた。幕末期には、松陰や[[勝海舟]]、[[橋本左内]]の思想にその萌芽をみることができる。慶応2年(1866年)末には、[[清]]国[[広州]]の新聞に、日本人八戸順叔が「征韓論」の記事を寄稿し、清・朝鮮の疑念を招き、その後の日清・日朝関係が悪化した事件があった([[八戸事件]])。また朝鮮では国王の父の[[興宣大院君|大院君]]が政を摂し、[[鎖国]][[攘夷]]の策をとり、[[丙寅洋擾]]や[[ジェネラル・シャーマン号事件|シャーマン号事件]]の勝利によって、意気おおいにあがっていた。
 
 
 
そのように日朝双方が強気になっている中で[[明治維新]]が起こり、日本は[[対馬府中藩|対馬藩]]を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が[[江戸時代]]の形式と異なることを理由に朝鮮側に拒否された<ref>日本が「皇」という文字を使う事は無礼だ、として朝鮮は受け取りを拒否した。それまでは[[征夷大将軍|将軍]]が「[[日本国大君]]」「[[日本国王]]」として[[朝鮮通信使|朝鮮との外交]]を行っていた。</ref>。[[明治3年]]([[1870年]])2月、明治政府は[[佐田白茅]]、[[森山茂]]を派遣したが、佐田は朝鮮の状況(後述)に憤慨し、帰国後に征韓を建白した<ref>「佐田白茅外二人帰朝後見込建白」(『公文録・明治八年・第三百五巻・朝鮮講信録(一―附交際書類)』、JACAR([[アジア歴史資料センター]])Ref.A01100124300、[[国立公文書館]])9頁に次のように記されている:<blockquote>「朝鮮知守不知攻、知己不知彼、其人深沈狡獰固陋傲頑<br />
 
覺之不覺、激之不激、故断然不以兵力涖焉、則不爲我用<br />
 
也、況朝鮮蔑視皇國、謂文字有不遜、以興耻辱於<br />
 
皇國、君辱臣死、實不戴天之冦也、必不可不伐之、不伐之<br />
 
則<br />
 
皇威不立也、非臣子也」。
 
</blockquote>すなわち、<blockquote>「朝鮮は守るを知りて攻めるを知らず、己を知りて彼を知らず、其の人は深沈・狡獰・固陋・傲頑、<br />
 
之を覺して覺らず、之を激して激せず、故に断然兵力を以って焉(いずく)んぞ涖(のぞ)まざれば、則ち我が用を爲(な)さざる也、<br />
 
況や朝鮮は皇國を蔑視して、文字に不遜(ふそん)有りと謂(い)う、以って耻辱を皇國に與(あた)う、<br />
 
君を辱らるれば臣は死す、實(じつ)に不戴天の冦(あだ)なり、必ず之を伐たざるべからず、之を伐たざれば<br />
 
則ち皇威は立たざる也、臣子に非ざる也」。</blockquote></ref>。9月には、外務権少丞[[吉岡弘毅]]を[[釜山広域市|釜山]]に遣り、[[明治5年]]([[1872年]])1月には、[[宗義達|対馬旧藩主]]を[[外務大丞]]に任じ、9月には、外務大丞[[花房義質]]を派した。朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。
 
 
 
また政権を握った大院君は「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出した。当時外交官として釜山に居た佐田、森山等はこの乱暴な布告をみてすぐさま日本に帰国し、事の次第を政府に報告した。<ref>[{{NDLDC|952871}} 伊藤博文言行録] 秋山悟庵 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:34</ref><ref>[{{NDLDC|777422}} 維新英雄言行録] 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126</ref>
 
 
 
明治6年([[1873年]])6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である[[板垣退助]]は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。[[後藤象二郎]]、[[江藤新平]]らもこれに賛成した。中国から帰国した[[副島種臣]]は西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴く事を主張した。二人の議論の末[[三条実美]]の説得もあり副島が折れることとなった。板垣退助も西郷のために尽力し、[[三条実美]]の承諾を得て西郷を使節として朝鮮に派遣することを上奏した。<ref>[{{NDLDC|777422}} 維新英雄言行録] 吉田笠雨 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号:126-127</ref>
 
 
 
いったんは、同年8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、9月に帰国した[[岩倉使節団]]の[[岩倉具視]]・[[木戸孝允]]・[[大久保利通]]らは時期尚早としてこれに反対、10月には収拾に窮した[[三条実美|太政大臣三条]]は病に倒れた。最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が[[明治天皇]]に容れられ、遣韓中止が決定された。その結果、西郷や板垣らの征韓派は一斉に下野(征韓論政変または[[明治六年政変]])した。
 
 
 
== 政変後の動き ==
 
=== 台湾出兵と江華島事件 ===
 
明治政府はこの政変で西郷らを退けたが、翌年の明治7年([[1874年]])には[[宮古島島民遭難事件]]を発端として、初の海外出兵となる[[台湾出兵]]を行った。(木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、台湾への海外派兵を行うのは矛盾であるとして反対した結果、参議を辞任して下野した。)また、翌々年の明治8年([[1875年]])には[[李氏朝鮮]]に対して軍艦を派遣し、武力衝突となった[[江華島事件]]の末、[[日朝修好条規]]を締結することになる。
 
 
 
=== 士族反乱・自由民権運動 ===
 
明治7年([[1874年]])の[[佐賀の乱]]から明治10年([[1877年]])の[[西南戦争]]に至る[[士族反乱|不平士族の乱]]や[[自由民権運動]]が起こった。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 参考文献 ==
 
*{{Cite journal|和書|author=[[リチャード・アンダーソン]]|year=1996|month=3|title=征韓論と神功皇后絵馬|journal=列島の文化史|volume=10|pages=|publisher=日本エディタースクール出版部|issn=0289-7091|ref=アンダーソン1996}}
 
*{{Cite book|和書|others=[[板垣退助]]監修、[[遠山茂樹 (日本史家)|遠山茂樹]]・[[佐藤誠朗]]校訂|year=1992|origdate=1957-03-25|title=自由党史|volume=(上)|series=岩波文庫 青105-1|publisher=岩波書店|isbn=4-00-331051-9|url=http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/9/3310510.html|ref=板垣1992}}
 
*{{Cite journal|和書|author=[[島田昌和]]|year=1999|month=12|title=第一(国立)銀行の朝鮮進出と渋沢栄一|journal=経営論集|volume=9|issue=1|pages=55-69|publisher=文京学院大学総合研究所|issn=0916-9865|url=http://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/image/SHIMADA_79.pdf|format=PDF|ref=島田1999}}
 
*{{Cite journal|和書|author=[[藤村道生]]|date=1970-03-30|title=萬国対峙論の意義と限界――維新外交の理念をめぐって|journal=九州工業大学学術機関リポジトリ|issue=18|pages=1-16|publisher=九州工業大学|url=http://hdl.handle.net/10228/3356|format=PDF|ref=藤村1970}}
 
*{{Cite book|和書|author=毛利敏彦|authorlink=毛利敏彦|date=1979-12-18|title=明治六年政変|series=中公新書|publisher=中央公論社|isbn=4-12-100561-9|url=http://www.chuko.co.jp/shinsho/1979/12/100561.html|ref=毛利1979}}
 
*{{Cite journal|和書|author=[[諸星秀俊]]|year=2009|month=6|title=明治六年「征韓論」における軍事構想|journal=軍事史学|volume=45|issue=(1) (通号 177)|pages=43-62|publisher=錦正社|ref=諸星2009}}
 
*{{Cite journal|和書|author=[[吉野誠]]|year=1999|month=2|title=明治初期における外務省の朝鮮政策――朝廷直交論のゆくえ|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第72輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195512|ref=吉野1999}}
 
*{{Cite journal|和書|author=吉野誠|year=2000|title=明治6年の征韓論争|journal=東海大学紀要 文学部|issue=第73輯|pages=1-18|publisher=東海大学文学部|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110000195520|ref=吉野2000}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[八戸事件]]
 
* [[留守政府]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*{{Kotobank|征韓論|2=朝日新聞掲載「キーワード」}}
 
{{Authority control}}
 
{{Portal bar|日本|朝鮮|戦争|歴史}}
 
 
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[[Category:明治時代の外交]]
 
[[Category:明治時代の外交]]

2018/12/22/ (土) 21:44時点における最新版

征韓論(せいかんろん)

明治初期,維新政府内部で唱えられた政策。維新政府は成立以来朝鮮国王に日鮮修好を求めたが,朝鮮政府は鎖国政策をとり続け,交渉拒絶を回答した。これをとらえ,政府内部には国辱にかかわるものであるという意見が強まった。板垣退助らは強硬出兵論を唱え,西郷隆盛は,まず自分が使節として朝鮮に渡り,交渉決裂後出兵すべきだとした。 1873年8月 17日に閣議は,いったん西郷派遣を決定したが,同9月 13日欧米視察から急遽帰国した岩倉具視大久保利通らは,内治優先などを理由に強硬に反対,閣内対立は決定的なものとなった。両派対立の間に立って三条実美は病に倒れ,同 10月 24日太政大臣代行についていた岩倉の要請を天皇が勅裁するという体裁をとり,先の閣議決定は無期延期され,同日西郷が参議,近衛都督を辞任,続いて翌 25日板垣,副島種臣,後藤象二郎,江藤新平が下野。佐賀の乱西南戦争国会開設運動,自由民権運動にいたる明治前期政治を左右する出来事の発端となった。



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