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(系譜)
 
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* [[1847年]]([[弘化]]4年)8月20日、[[出家]]。入道を称する。三玄斎と号する。
 
* [[1847年]]([[弘化]]4年)8月20日、[[出家]]。入道を称する。三玄斎と号する。
 
* [[1848年]]([[嘉永]]元年)6月8日、薨去。法名は惇宗院戒徳巖明。
 
* [[1848年]]([[嘉永]]元年)6月8日、薨去。法名は惇宗院戒徳巖明。
 
== 系譜 ==
 
* 父:[[徳川治済]](1751年 - 1827年)
 
* 母:丸山氏
 
* 正室:裕宮[[貞子女王]](1787年 - 1825年) - [[閑院宮美仁親王]]娘
 
** 長女:近姫(1800年 - 1830年) - [[徳川斉礼]]正室
 
** 三女:静姫(1803年)
 
** 次男:[[徳川匡時|匡時]](1805年 - 1839年)
 
** 七女:[[貞慎院|猶姫]](1807年 - 1872年) - [[徳川斉荘]]正室
 
* 側室:筧氏
 
** 長男:[[徳川剛之丞|剛之丞]](1799年 - 1800年)
 
** 次女:包姫(1800年 - 1801年)
 
* 側室:八木氏
 
** 四女:鑅姫(1805年 - 1860年) - 久松[[松平定通]]正室
 
** 八女:[[鐐姫]](1808年 - 1890年) - [[酒井忠発]]正室
 
** 十四女:愛姫(1818年 - 1832年) - [[徳川斉温]]正室
 
** 五男:[[徳川慶壽|慶壽]](1823年 - 1847年) - [[一橋徳川家]]7代
 
** 六男:聰之助(1824年 - 1825年)
 
* 側室:河合氏
 
** 五女:理照院(1807年)
 
** 三男:謙三郎(1814年 - 1817年)
 
* 側室:斎藤氏
 
** 六女:鋭姫(1807年 - 1820年) - [[津軽信順]]婚約者
 
** 九女:欽姫(1809年 - 1851年) - [[津軽信順]]正室
 
* 側室:篠崎氏(1794年 - 1858年) - 奥医師[[篠崎三伯]]養女、実[[武藤三益]]女、実名「りを」、唯心院
 
** 十女:猗姫(1811年 - 1817年) - [[松平定和]]婚約者
 
** 十三女:三千姫(1818年 - 1820年)
 
** 十五女:千重姫(1821年 - 1860年) - 越智[[松平武成]]正室
 
** 九男:[[徳川慶頼|慶頼]](1828年 - 1876年) - 田安徳川家5・8代
 
* 側室:高月氏
 
** 十一女:恒姫(1815年 - 1819年)
 
** 十二女:歳姫(1816年 - 1818)
 
** 四男:[[徳川斉位|斉位]](1818年 - 1837年) - [[一橋徳川家]]5代
 
** 十六女:純姫(1821年 - 1906年) - [[立花鑑寛]]正室
 
** 十七女:弥姫(1823年 - 1826年)
 
** 七男:郁之助(1825年 - 1826年)
 
* 側室:[[青松院|木村氏(お連以の方)]](1796年 - 1871年)
 
** 十八女:至姫(1824年 - 1826年)
 
** 八男:[[松平春嶽|松平慶永]](1828年 - 1890年) - [[福井藩]]主
 
** 十九女:筆姫(1830年 - 1886年) - [[鍋島直正]]継室
 
** 十男:[[徳川慶臧|慶臧]](1836年 - 1849年) - 尾張藩主
 
  
 
==出典==
 
==出典==

2018/10/5/ (金) 12:03時点における最新版

徳川斉匡
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 安永8年4月19日1779年6月3日
死没 嘉永元年6月8日1848年7月8日
幕府 江戸幕府
氏族 徳川氏一橋徳川家田安徳川家

徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)は、徳川御三卿の一つ田安徳川家第3代当主。

一橋徳川家2代当主徳川治済の五男。母は丸山氏。江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる。

生涯

安永8年(1779年)4月19日に生まれる。天明7年(1787年)6月13日、第2代当主徳川治察の死亡以来長く「明屋敷」となっていた田安徳川家の屋敷と領地を相続した。これに対し、御三家徳川宗睦(尾張家)や徳川治保(水戸家)は強く反発した。御三卿の創立者である徳川吉宗の意向に背き、将軍の庶子ではなく御三卿の庶子が相続したからである。老中松平定信(治察の実弟)は、養母・宝蓮院(徳川宗武正室)の遺志であるなどとして説得した。

文化10年(1813年)12月25日、第11代将軍徳川家斉の子の斉荘を養子に迎える。

天保8年(1837年)10月には、従一位に昇叙する。父、治済と同様に生前に従一位に叙されるのは異例。 (将軍家斉にとって異母弟ではあるが、当時唯一生存していた兄弟だったためだろうと思われる。)

斉匡は兄家斉と同様に子女に恵まれ、縁組と財政について幕閣を悩ませた。正室裕宮貞子の子で嫡子であった匡時のほか、5代当主となる慶頼(側室篠﨑氏の子)、斉位慶壽松平慶永慶臧など数多くの子女がいたが、天保7年(1836年)8月に匡時が病弱であることを理由として幕命により廃嫡となり、斉匡は隠居させられた。第4代当主となったのは養子の斉荘で、斉荘が尾張藩主に転出した後、実子の慶頼が5代当主に就任し、先々代当主で実父の斉匡がその後見に当たることとなった。

嘉永元年(1848年)6月8日に死去した。享年70(満69歳没)。

官歴

※日付=旧暦

出典

  • 『徳川諸家系譜3』