応仁の乱

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おうにんのらん

室町時代末期,足利将軍家ならびに管領畠山,斯波両氏の継嗣問題に端を発し,細川,山名両有力守護大名の勢力争いがからみあって,東西両軍に分れ,応仁1 (1467) 年から文明9 (77) 年までの 11年間にわたって京都を中心として争われた大乱。原因としては次の3つが考えられる。 (1) 室町幕府8代将軍足利義政には当初嗣子なく,細川勝元とはかり,寛正5 (64) 年 11月,義政の弟の浄土寺門主義尋を還俗させ,義視と名のらせ,将軍職につけた。ところが,翌6年1月,義政夫人日野富子が義尚を生んだため,日野氏は山名持豊 (宗全) とともに義尚擁立を策した。 (2) 畠山氏に政長,義就兄弟の継嗣争いがあり,将軍義政は政長を助けて義就を追い,勝元もこれに味方した。義就は吉野に走ったが,持豊は彼を京都にいれた。 (3) 斯波氏に子がなく,一族義敏を嗣としたが,家宰らは義敏を廃し義廉を立てるように奏した。一応これは許されたが,義廉は持豊の女婿であるなどの事情から再度義敏擁立の策謀があって混乱し,ここに勝元,持豊の干渉もあって,京都の形勢は騒然となった。これら3つの事情が前提となって応仁1年1月,持豊は畠山政長を退けて斯波義廉を管領とし,細川一族を追放しようとした。その間にまず畠山氏の政長と義就が戦いに突入し,勝元は,政長を助け,室町第警護を名目として,諸国に令して 10万の軍勢を集めた。畠山政長,斯波義敏,京極持清,武田国信,赤松政則らがこれに属した (東軍) 。一方持豊は,斯波義廉,畠山義就,六角高頼,一色義直ら9万の兵をつのって幕府の西に陣した。かくて東西両軍は,京都を中心として,邸宅,寺院の炎上その数を知らぬ戦いを繰広げた。関白以下公卿らがこの乱を避けて地方に下ったのもこの頃である。両軍は数年間抗争を続けたが,文明2年,大内氏をはじめ,帰国する大名や相手軍にくだる大名が出はじめた。同5年3月,持豊が病没し,同年5月に勝元も没した。同年 12月には義政は致仕して義尚が将軍職を継ぎ,畠山政長が管領となったが,戦いはなおやまず,同9年 11月,まず西軍が,次いで東軍も陣を解くにいたって大乱は終結をみた。この大乱によって京都は焼土と化し,幕府の権威は失墜して,在地武士層の勢力が増大し,戦国大名の領国制が大きく展開されることとなった。