「悪」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''悪'''(あく) 原義は人間にとって有害な諸事象,あるいはそれらの原因をいう。広範な概念であり,天災や疾病などの自然…」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{redirect|凶悪|2013年の日本映画|凶悪 (映画)}}
 
'''悪'''(あく)とは、[[文化]]や[[宗教]]によって定義が異なるものの、概ね人道に外れた行いや、それに関連する有害なものを指す概念である。
 
  
== 日本語における「悪」 ==
+
'''悪'''(あく)
  
日本語における「悪」という言葉は、もともと剽悍さや力強さを表す言葉としても使われ、否定的な意味しかないわけではない。例えば、[[源義朝]]の長男・[[源義平|義平]]はその勇猛さから「悪源太」と、左大臣[[藤原頼長]]はその妥協を知らない性格から「悪左府」と呼ばれた。{{独自研究範囲|鎌倉時代末期における[[悪党]]もその典型例であり、力の強い勢力という意味である。|date=2018年3月}}
+
原義は人間にとって有害な諸事象,あるいはそれらの原因をいう。広範な概念であり,天災や疾病などの自然的悪,人倫に反する道徳的悪,制度的悪,さらにそれらの根源とみられる形而上学的悪など便宜的に区分されるが,これらは視点の相違によるとも考えられる。古代においては悪を起すものを超人間的存在として考え,[[悪魔]],魔神など擬人化の傾向が神話や宗教にみられる。多くの宗教は人間存在に悪が内在するとして,対照的に神の正義を立証しようとする (キリスト教の原罪,プラトンやプロチノスの悪としての肉体,ライプニッツの形而上学的悪など) 。これら悪の起源を人間的存在そのものや超越者に求めるのとは反対に,人間経験やその結果としての体制に悪の起源を認める傾向もある。その代表的なものはマルクス主義。古代中国思想における[[性善説]][[性悪説]]も悪の起源を超越とするか内在とするかの対立である。[[善]]ときには美が悪の反対概念とされる。人間を有限的存在としてみるかぎり,悪の問題は常に哲学,心理学,社会学などの中心問題の一つであり続ける。
 
+
本来「悪」は「突出した」という意味合をもつ。突出して平均から外れた人間は、広範囲かつ支配的な統治、あるいは徴兵した軍隊における連携的な行動の妨げになり、これゆえ古代中国における「悪」概念は、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価となった。一方「善」概念は、「皇帝の命令・政治的規則に従うもの」に対する価値評価である。
+
{{テンプレート:20180815sk}}  
 
 
『[[古事記]]』において、「悪事」は「マカゴト」と読ませる(古代の解釈では、悪の訓読みは「マカ・マガ」となる)。対して、「善事」は「ヨゴト」と読む。現代では、マガゴトの漢字は「禍事」を当て、ヨゴトは「吉事」の字を当てている<!-- 参考・『広辞苑 第六版』 岩波書店 -->ことからも、古代の感性では、禍(か)=災い=悪という図式ということになる。
 
 
 
なお現在の日本での悪概念は、西欧の価値観に近いものとはなっているが、依然として相違を含んでいる。
 
 
 
==善と悪==
 
 
 
悪は[[善]]と対比される。
 
 
 
人間が善悪を意識、判断する場面は様々だが、家庭での躾から、[[教育]]、[[スポーツ]]、[[法律]]など、秩序を必要とするあらゆる場面で見出せる。生活に即したものとして[[宗教]]で、娯楽や伝承として[[物語]]の上で取り上げられることも多い。その際は、善をすすめ悪を除外すること('''[[勧善懲悪]]''')、善と悪との対決などがしばしば注目される。
 
 
 
善と悪は解釈や判断によって入れ替わる場合もあるため、規範という形で存在するものは、このような混乱を避けるためによく用いられる手段なのだ。
 
 
 
==中国の倫理哲学==
 
後述する[[仏教]]と同様に、[[儒教]]と[[道教]]には西洋思想にみられるような善悪の対立構造がないが、中国の民間信仰では何か悪い物の影響についてよく言及される。儒教の主要な関心事は知識人や貴人にふさわしい正しい社会的関係・行動にあった。それゆえ「悪」という概念は悪い行動ということになる。道教では、[[二元論]]がその中心に据えられているにもかかわらず、道教の中心的な徳に対立する思いやり、節度、謙虚は道教において悪の相似物だと推測できる<ref>[http://www.the-philosopher.co.uk/good&evil.htm ''Good and Evil in Chinese Philosophy''] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060529010501/http://www.the-philosopher.co.uk/good%26evil.htm |date=2006年5月29日 }} C.W. Chan </ref><ref>''History of Chinese Philosophy'' Feng Youlan, Volume II The Period of Classical Learning (from the Second Century B.C. to the Twentieth Century A.D). Trans. Derk Bodde. Ch. XIV Liu Chiu-Yuan, Wang Shou-jen, and Ming Idealism. part 6 § 6 ''Origin of Evil''. Uses strikingly similar language to that in the etymology section of this article, in the context of Chinese Idealism.</ref>。
 
 
 
==西洋哲学==
 
===ニーチェ===
 
[[フリードリヒ・ニーチェ]]はユダヤ-キリスト教的道徳を否定し、『[[善悪の彼岸]]』・『[[道徳の系譜]]』の中で、非-善の本来の機能は弱者の[[奴隷道徳]]によって宗教的な悪の概念へと社会的に変容され、主人(強者)に反感を抱く大衆を抑圧した、といったことを主張した。
 
 
 
===アイン・ランド===
 
[[アイン・ランド]]は『利己主義という気概---エゴイズムを積極的に肯定する』で、「理性は人間の基本的な生存手段だから、理性的存在が生きるのに適したものが善い物である。逆に理性的存在が生きるのを否定・妨害・破壊するものが悪いものである」と書いている。この考えは『肩をすくめるアトラス』の中でさらに練り上げられており、「考えることは人間の唯一の基本的な美徳である。他の全ての徳は考えることから生まれてくる。そして、人間の持つ基本的な悪徳、つまり全ての悪の根源は人が皆実際にはやっているのにやっているとけっして認めようとしない名もなき行為、つまり自分の意識を故意に停止すること、考えるまでもなく盲目であることは否定するが実際には見ようとしないことだ。つまり、単純に無知なのではなく知ることを拒んでいるのだ。これは自分の心に焦点を当てるのを避け、自分があるものを認識するのを拒んでいる限りそれは存在しないとか、自分が『それは悪い』という評決を下さない限りAはAでないといった暗黙の前提に基づいた判断を避ける心の中の霧を引き起こす行為だ。」とある<!--{{fix|text=what page?}}-->。
 
 
 
===スピノザ===
 
[[バールーフ・デ・スピノザ]]はこう言った:
 
{{cquote|1. 善によって、人々にとって有用であると人々が当然知っているものを私が理解できるようになる。<br/> 2. 反対に悪によって、人々が善いものを持とうとするのを妨げると人々が当然知っているものを私は理解する<ref name="ebgb">Benedict de Spinoza, ''Ethics'', Part IV ''Of Human Bondage or of the Strength of the Affects'' Definitions translated by W. H. White, Revised by A. H. Stirling, Great Books vol 31, Encyclopædia Britannica 1952 p. 424</ref>。|20px|20px}}
 
スピノザは半ば数学的な文体を使い、『[[エチカ (スピノザ)|エチカ]]』第4部で述べた定義から証明・説明できると自分が主張しているさらなる命題について述べている<ref name="ebgb"/>:
 
* 命題8 「善や悪の知識は私たちが意識する限りでの喜びあるいは悲しみの気持ちでしかない。」
 
* 命題30 「私たちの本性において共有されているものを持つことを通じて悪であるものはあり得ないが、あるものが私たちにとって悪である限りではそのあるものは私たちと相いれない。」
 
* 命題64 「悪の知識は不適切な知識である。」
 
** 推論「それゆえに人の心の中に適切な知識しかなければ、悪い考えが形成されることはないであろう。」
 
* 命題65 「理性の導きに従えば、二つの善い物のうちより善い物を選ぶことになるし、二つの悪いもののうちより悪くない方を選ぶ。」
 
* 命題68 「人間が自由に生まれたら、自由である限りその人間はよい考えも悪い考えも持たない。」
 
 
 
以上のニーチェ、ランド、スピノザのような哲学的考察は後述する神学的考察と比較でき、対照をなすが、ニーチェとランドは[[無神論]]者でありスピノザはそうではないことが指摘される。
 
 
 
== 心理学 ==
 
===カール・ユング===
 
[[カール・グスタフ・ユング]]は『ヨブへの答え』やその他の著作で、悪を「悪魔の暗黒面」だと言っている。人は他者へ寄り添う影を思い描くので、悪は自分の外部にあるものだと信じがちである。ユングはイエスの物語を自らの影に直面する神の話として解釈した<ref>[[Stephen Palmquist]], [http://www.hkbu.edu.hk/~ppp/dow/ Dreams of Wholeness]: A course of introductory lectures on religion, psychology and personal growth (Hong Kong: Philopsychy Press, 1997/2008), see especially Chapter XI.</ref>。
 
 
 
=== ジンバルドー ===
 
2007年に[[フィリップ・ジンバルドー]]は、人々は集合的アイデンティティーの結果として邪悪な行動をとり得ると主張した。この仮説は、彼が以前にスタンフォード監獄実験を経験したことに基づいていて、著書『The Lucifer Effect: Understanding How Good People Turn Evil』で発表された<ref>[http://www.lucifereffect.com/ Book website]</ref>。
 
 
 
== 宗教 ==
 
{{Main|悪の問題}}
 
[[宗教]]はしばしば[[戒律]]で悪を規定する。それに基づいて禁止されている事柄(タブー)は、その始祖や開祖に関するものや、それが発達した文化圏における生活規範をモチーフにしたものなどがある。中東の[[ゾロアスター教]]は光(善)と闇(悪)で世界を捉えており、のちの[[一神教]]における[[神]]と[[悪魔]]の対立という概念に影響を与えたとされる。一神教では[[ユダヤ教]]の[[十戒]]やキリスト教の[[七つの大罪]]などが有名である。
 
 
 
===仏教===
 
 
 
[[仏教]]の二元性は第一に苦と[[悟り]]の間にある、というのは仏教の内部には善と悪の対立に似たものは直接的に言及されていないからである。しかし[[ブッダ]]の一般的な教えをもとに、[[仏教哲学]]の体系内の苦は「悪」に相当すると推測されうる"<ref>[http://books.google.com/books?id=HyPnrDiBM7cC&pg=PA424&lpg=PA424&dq=%22evil+in+buddhism%22&source=bl&ots=kHZYyEgJD4&sig=TcIIU6_3EYWvgsQZp3OWFRR_zaI&hl=en&sa=X&ei=wZUNT_mgGpH1ggeL_8mjBw&ved=0CNECEOgBMCs#v=onepage&q=%22evil%20in%20buddhism%22&f=false ''Philosophy of Religion''] Charles Taliaferro, Paul J. Griffiths, eds. Ch. 35, ''Buddhism and Evil'' Martin Southwold p 424</ref><ref>[http://www.livingdharma.org/Living.Dharma.Articles/LayOutreachAndMeaningOfEvilPerson-Unno.html ''Lay Outreach and the Meaning of “Evil Person'' Taitetsu Unno] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20121018093156/http://www.livingdharma.org/Living.Dharma.Articles/LayOutreachAndMeaningOfEvilPerson-Unno.html |date=2012年10月18日 }} </ref>。
 
 
 
実際にはこれは1)三つの利己的な感情-欲望、憎悪、虚偽;や2)肉体的・言語的行動におけるそれらの現れ、について言及することができる。[[十戒 (仏教)]]を参照。とりわけ「悪」は、現世における幸福、より良い生まれ変わり、輪廻からの解脱、ブッダの真正にして完全な悟り(三藐三菩提)を妨害するものを指す。無知は全ての悪の根源であるとされる<ref>The Jewel Ornament of Liberation. Gampopa. ISBN 978-1559390927{{page needed|date=January 2012}}</ref><!--{{fix|text=ungrammatical/illogical}}-->。
 
 
 
===ヒンドゥー教===
 
[[ヒンドゥー教]]において[[ダルマ]]、つまり秩序や正義の順守を表す概念は世界を善と悪にはっきり二分し、ダルマを打ち立て護持するためには時々戦争がなされる必要があると説明する。この戦争はダルマユッダと呼ばれる。この善悪の区別はヒンドゥー教の叙事詩[[ラーマーヤナ]]と[[マハーバーラタ]]の両方で非常に重要である。
 
 
 
===イスラーム===
 
[[イスラーム]]では、二元論的な意味で善から独立にして善と対等な基本的・普遍的原理としての絶対的な悪は存在しない。イスラームにおいては個々の人によって善いと感じられようが悪いと感じられようが全ての物は[[アッラー]]に由来すると信じることが本質的だとされている。そして、「悪」だと感じられるものは自然に起こること(自然災害や病気)であるかアッラーの命令に背く人間の[[自由意思]]によって起こるかのどちらかだとされる。イスラームの考え方では、悪は原因ではなく結果なのである{{Citation needed|date=June 2011}}。
 
 
 
「アッラーに背いて悪や悪行がなされると、大カリマー(すなわち[[シャハーダ]])を唱える者は悪人が悪行を成すのを止めることはできなくなる。」 {{citation needed|date=September 2011}}
 
 
 
===ユダヤ-キリスト教思想===
 
悪は善ではないものである。[[聖書]]では悪は一人でいる状態だと定義される([[wikisource:ja:創世記#2:18|創世記2:18]])。この意味では、悪とは価値観や行動に関して社会に背いて、社会の外部にいることだとみなされうる。
 
 
 
[[File:Ary Scheffer - The Temptation of Christ (1854).jpg|thumb|left|悪を擬人化したものである悪魔が善を擬人化したものであるキリストを誘惑している。[[アリ・シェフェール]]、1854年]]
 
 
 
キリスト教[[弁証者]][[ウィリアム・レーン・クレイグ]]のように、悪を、道徳的悪つまり誰かによって行われる害と、自然悪つまり自然災害や病、その他誰かが意図したものではない原因の結果として起こる害とに分けて考える者もいる。自然悪は[[弁神論]]で特に重要な概念である、というのも自然悪は誰かの自由意思によって起こったというように単純に説明することができないからである。
 
 
 
====キリスト教====
 
[[キリスト教神学]]では悪の概念は[[旧約聖書]]および[[新約聖書]]から説明される。旧約聖書では、[[堕天使]]の長[[サタン]]のような不適切で劣ったものと同じだけ神に反抗するものが悪だと理解される<ref>Hans Schwarz, ''Evil: A Historical and Theological Perspective'' (Lima, Ohio: Academic Renewal Press, 2001): 42–43.</ref>。新約聖書では[[ギリシア語]]単語「ポネロス」が不適切さを表すのに使われ、「カコス」が人間の領分内での神に対する反抗に言及するのに使われる<ref>Schwarz, ''Evil'', 75.</ref>。公式には、[[カトリック教会]]では悪の理解は[[ドミニコ会]]の[[神学者]][[トマス・アクィナス]]に依拠する。彼は著書『[[神学大全]]』で、悪を善の欠如・欠乏であると定義している<ref>Thomas Aquinas, SUMMA THEOLOGICA, translated by the Fathers of the English Dominician Province (New York: Benziger Brothers, 1947) Volume 3, q. 72, a. 1, p. 902.</ref>。[[フランス系アメリカ人]]の神学者[[アンリ・ブロシェ]]は、神学的概念としては悪は「不当な実在。俗な言い回しでは、悪は『起こるべきではない』が経験上起きる『なにか』である」と述べている<ref>Henri Blocher, ''Evil and the Cross'' (Downers Grove: [[InterVarsity Press]], 1994): 10.</ref>。
 
 
 
====ユダヤ教====
 
[[ユダヤ教]]では、悪とは神を見捨てた結果である([[申命記]] 28:20)。ユダヤ教では[[トーラー]]([[タナハ]]を参照)に記されたような神の法と[[ミシュナー]]や[[タルムード]]に示された法や儀式に従うことが強調される。
 
 
 
ユダヤ教では教派によっては、悪をサタンのような形で擬人化しない。代わりに、人間の心は生来欺瞞へと向かいやすいものであるが人間は自分の選択に関して判断を任されている、と考えられている。別の教派では、人間は生まれた時点では善へも悪へも方向づけられていないとされる。ユダヤ教では、サタンは神に反逆しているのではなくむしろ神の命によって人間を試しているのだとみなされ、悪は上記のキリスト教の教派のように選択の原因であるとみなされる。
 
{{rquote|right|光を作り出し闇を創造し<br />平和を作り災いを想像する者;<br />私はこれら全てを行う主である。|イザヤ書 45:7|[[新アメリカ標準訳聖書|NASB]]}}
 
 
 
いくつかの文化や哲学では、悪は意味や理由がなくとも生まれてくると信じられている([[ネオプラトニズム]]では、これは不条理な悪と呼ばれる)。一般的にキリスト教ではこうしたことを信じないが、預言者[[イザヤ]]は神が全ての原因であることを示している(Isa.45:7){{dubious|date=December 2011}}。
 
 
 
====非三位一体派====
 
[[モルモン教]]神学では、人生とは信仰を試すものであって、人性のうちで人間の選択が救済計画の中心をなすとされる。悪とは人間が神の本性を発見するのを妨げるものであるという。人間は悪に染まらず神に帰還するように選択するべきだと信じられている。
 
 
 
[[クリスチャン・サイエンス]]では、自然の善に対する無理解から生じると信じられている。自然の善は正しい(魂の)観点から見たときに本性上完全なものであると理解されている。神の実在に対する誤解によって間違った選択が生じ、それが即ち悪となる。このため、悪の源となる種々の力や悪の源であるような神は否定される。代わりに、悪の出現は善の概念を誤解した結果であるとされる。最も「悪」である人でも悪それ自体を追求しているのではなく、間違った考えから何らかの善を実現しようとして、結果として悪事を働いてしまうのだとクリスチャン・サイエンティスト達は主張している。
 
 
 
===ゾロアスター教===
 
[[ペルシア人]]の本来の宗教である[[ゾロアスター教]]では、世界は神[[アフラ・マズダ]](オフルマズドとも呼ばれる)と悪霊[[アンラ・マンユ]](アーリマンとも呼ばれる)との戦いの場であるとされる。善と悪の争いの最終決着は審判の日に起こり、そのときに生きている者は全て炎の橋に導かれ、邪悪な者たちは打ち倒されて永久に復活しないという。ペルシア人たちの信仰するところによれば、[[天使]]や[[聖人]]は人々が善への道を歩むのを助ける存在である。
 
 
 
==悪に関する哲学的問題==
 
===悪は普遍的か?===
 
 
 
根本的な問題は、悪の普遍的・超越論的な定義が存在するか否か、つまり、悪は人の社会的・文化的背景によって決定されているにすぎないのではないかというものである{{Citation needed|date=October 2010}}。[[強姦|レイプ]]や[[殺人]]のように、悪であると普遍的に考えられている行動が存在すると[[C・S・ルイス]]が『人間廃絶』で述べている。しかしながら、レイプや殺人が社会的文脈によって好んで用いられる場合が多々あるため、C・S・ルイスの主張には疑問が投げかけられる。それでも、レイプという語は定義上悪しき行いを指すのに使われることを必要としている、というのはこの概念は他者に対して性的暴力をふるうことを指しているからだ、と主張する者もいる。19世紀中頃までは、[[アメリカ合衆国]]―および多くの国々―では[[奴隷制]]が行われていた。よくあることではあるが、こういった倫理的境界の侵犯はそこから利益を得るために行われた。おそらく、奴隷制は常に同じだけ、そして客観的に悪であるが、奴隷制を行おうとする人々はそれを正当化しようとする。
 
 
 
第二次世界大戦期の[[ナチズム|ナチス]]は[[ジェノサイド]]を正当化したが<ref name="evil">Gaymon Bennett, Ted Peters, Martinez J. Hewlett, Robert John Russell (2008). "''The evolution of evil''". Vandenhoeck & Ruprecht. p.318. ISBN 3525569793</ref>、[[ルワンダ虐殺]]の際、[[フツ]]の[[インテラハムウェ]]も同じことをした<ref name = "Gourevitch, 1999">{{cite book |last=Gourevitch |first=Phillip |title=We Wish to Inform You That Tomorrow We Will be Killed With our Families |publisher=Picador |isbn=0-31224-335-9 |year=1999}}</ref><ref name = "PBS">{{cite web |title=Frontline: the triumph of evil. |url=http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/evil/ |accessdate=2007-04-09}}</ref>。しかしこういった残虐行為の実行犯は自らの行為をジェノサイドと呼ぶことを避けた、というのはジェノサイドという語によって精確に示される行為の客観的な意味は特定の人間集団を不当に殺すことだからであるが、少なくとも不当に苦しめられた人々はこの行為を悪だと理解する。悪は文化から独立であり、行動やその意図と関連に連動していると普遍主義者たちは考えている。そのため、ナチズムやフツのインテラハムウェのイデオロギー的な主導者はジェノサイドの実行を許容(したり、それは道徳的に認められると考えたり)するが、ジェノサイドは「根本的に」あるいは「普遍的に」悪だという信念に基づけばジェノサイドを扇動する人々は本当は悪いということになる{{Syn|date=November 2010}}。悪事を働くことは常に悪いが悪事を働く者は完全には悪なる存在でも善なる存在でもない、と主張する普遍主義者もいるようだ。例えば棒付き飴を盗んだ人が完全に悪くなるということはむしろ支持できない立場だということになる。しかし、普遍主義者は、人間は明らかに善である人生や明らかに悪である人生を選択することができ、大量虐殺を行うような[[独裁]]はもちろん後者であるとも主張している。
 
 
 
悪の本性に関する考えは以下の四つの相反する立場のうちの一つに落ち着きがちである:
 
* [[絶対主義 (倫理)]]では、善悪とは神、神々、自然、[[道徳律]]、[[コモン・センス]]、その他の根拠によって打ち立てられる不変の概念であると考える<ref>url=http://www.vatican.va/archive/catechism/p3s1c1a6.htm</ref>。
 
* [[虚無主義 (倫理)]]は、善悪というのは無意味な概念で、自然には倫理の構成要素になるものなど存在しないと主張する。
 
* [[相対主義 (倫理)]]では、善悪の基準となるのは地域ごとの文化、慣習、固定観念の産物だけだと考える。
 
* [[普遍主義 (倫理)]]とは絶対主義者の言う道徳律と相対主義的観点との和解点を見出そうとする試みである。普遍主義は、道徳律はある程度可変的であるにすぎず、何が本当に善あるいは悪であるかは全人類を通じて何が悪であるかを調査することで決定することができる、と主張する。[[サムハリス (著述家)|サム・ハリス]]は、普遍的な道徳律は脳生物学が刺激を調べる方法に基づいて物理的にも精神的にも計量可能な幸不幸の単位を用いることで理解することができると述べている<ref name = "Harris, 1999">{{cite book |last=Harris |first=Sam |title=The End of Faith: Religion, Terror and the Future of Reason |publisher=W. W. Norton & Company|isbn=0-393-03515-8 |year=2004}}</ref>。
 
 
 
[[プラトン]]は、善をなす方法は相対的に少なく、悪を成す方法は限りないと書いている。また、そのために悪を成す方法が我々の生活に大きな影響を及ぼし、他の者の生活に苦しみを与えうるという。このため、道徳的規則を策定し、実施する上で重要なのは善を促進することよりもむしろ悪を防止することだと[[バーナード・ガート]]のような哲学者が主張している{{Citation needed|date=April 2009}}。
 
 
 
===悪は有用な概念か?===
 
悪い「人間」など存在せず、「行動」だけが悪だと考え得ると主張する学派が存在する。心理学者・仲裁人の[[マーシャル・ローゼンバーグ]]は、暴力の起源はまさに「悪」「悪さ」といった概念そのものだと主張している。私たちが誰かを悪い、あるいは悪だとレッテル貼りすると、責め苦を与えたいという欲望がレッテル貼りすることによってもたらされるとローゼンバーグは言う。これによって私たちが傷つけている人に対して何かを感じなくなることが容易にもなる。ドイツ人がほかの民族に対して通常はしないことをするうえでカギとなったナチスドイツにおける言語の使用について彼は言及している。彼は悪の概念と、悪いとみなされることに対して罰を与える、罰を与えることを通じた正義―因果応報―を作り出そうとする司法制度とを結びつける<!-- '''[[Reference needed]]''' -->。彼は、このアプローチを、悪の概念が存在しない文化で彼が見出したものと比較する。そういった文化では、人が誰かを傷つけた時、彼らは彼ら自身や彼らの属するコミュニティと相いれなくなったと信じられ、病んでいるとみなされ、彼ら自身や他の人々と相いれるように新しい度量法が持ち出される。
 
 
 
心理学者の[[アルバート・エリス]]は[[論理情動行動療法]]([[英語|英]]:[[:en:Rational Emotive Behavioral Therapy|Rational Emotive Behavioral Therapy]])と呼ばれる彼の学派において同様の主張を行っている。怒りの起源や他者を傷つけたいという欲求はほぼ常に他者に関する黙示的あるいは明示的な種々の哲学的信念に結びついていると彼は言う。さらに、こういった様々な秘密のあるいは公然の信念あるいは憶断を持たなければたいていの場合暴力に訴える傾向は減退すると彼は主張している。
 
 
 
一方、アメリカの重要な[[精神科医]][[モーガン・スコット・ペック]]は悪を「好戦的な無知」とみなしている<ref name="Liemult">Peck, M. Scott. (1983;1988). ''People of the Lie: The hope for healing human evil''. Century Hutchinson.</ref>。ユダヤ―キリスト教における「罪」の概念は本来人間が「遣り損な」って完成に達しないような過程としての罪である。このことに多くの人々は少なくともある程度は気づいているが、実際に悪であり好戦的な人々は自分が気づいていることを認めないとペックは主張している。特に無実の罪を受ける人(しばしば子供や弱い立場の人々)を選んで悪行を成すという結果に至る有害な独善性こそが悪の特徴だとペックは考えている。ペックが悪人と呼ぶような種類の人々は自分の良心から(自己欺瞞を通じて)逃げ隠れしており、この点で[[サイコパス]]において明らかに良心が欠如しているのとは区別されるとペックは考えている。
 
 
 
ペックによれば、悪人は:<ref name="Liemult"/><ref>Peck, M. Scott. (1978;1992), ''The Road Less Travelled''. Arrow.</ref>
 
* 罪から逃れ、自己イメージを完璧なものに保とうという意図をもって自己欺瞞を続けている
 
* 自己欺瞞の結果として他者も欺いている
 
* 自身の罪を非常に狭い範囲の対象に投影し、他者をスケープゴートにする一方で自分を皆とともに正常に見せかける(「彼に対する彼らの不感受性は選択的である」)<ref>Peck, 1983/1988,p105</ref>
 
* 一般に、他者をだますのと同じだけ自己欺瞞のために見せかけの愛によって嫌う
 
* 政治的(感情的)力を悪用する(「人間の意志が公然に、あるいは秘密裏に他者に賦課を負わせること」)<ref>Peck,1978/1992,p298</ref>
 
* 高いレベルの社会的地位を保ち、そのために常に嘘をつく
 
* 自身の罪に関して一貫している。悪人は犯した罪の大きさよりもむしろ(破壊性が)持続することによって特徴づけられる
 
* 自分が起こした悪事の被害者の視点に立って考えることができない
 
* 批判その他のナルシシズムを傷つけるような行為を受けた時にひそかに耐え忍ぶことができない
 
 
 
ある種の制度も悪である可能性があると彼は考えている、というのは[[ソンミ村虐殺事件]]とそれが隠蔽しようとされたことに関する彼の議論に示されているのである。この定義によれば、犯罪的テロリズムと国家テロリズムも悪だと考えられるであろう。
 
 
 
===必要悪===
 
[[マルティン・ルター]]は小さな悪が否定しがたい善となる場合があることを認めた。「あなたの飲み仲間の社会を探し、飲み、遊び、猥談をして楽しみなさい。悪魔が良心的な人に対して何かをする機会を与えないために、悪魔を憎みさげすむのとは別に時には罪を犯しなさい」と彼は書いている<ref>Martin Luther, ''Werke'', XX, p58</ref>。
 
 
 
[[政治哲学]]のある学派では、指導者は善悪に関心を持たず、実用性のみに基づいて行動するべきだと考えられている。政治に対するこのアプローチは[[ニッコロ・マキャヴェッリ]]が唱えたものである。彼は16世紀の[[フィレンツェ]]の著述家で政治家たちに「愛されるよりも恐れられた方がずっと安全である<ref name = "erragh">Niccolo Machiavelli, ''The Prince'', Dante University of America Press, 2003, ISBN 0-937832-38-3 ISBN 978-0-937832-38-7</ref>」と助言した。
 
 
 
レアルポリティーク([[ドイツ語|独]]:[[:de:Realpolitik|Realpolitik]])と呼ばれることもある[[現実主義]]や[[ネオリアリズム|新現実主義]]の国際関係論に基づくと、政治家は国際政治においては絶対的な道徳・倫理があるという考えをはっきりと否定して、個人の関心、政治的生存、武力外交を重視することを好むべきということになる。このことはこういった国際関係論を唱える者たちが明らかに非道徳的で危険だとみなしている世界を説明する上でより的確になると彼らは考えている。政治学における現実主義者達はたいてい、政治的指導者だけに課される「高度な道徳的義務」を主張することで彼らの考え方を正当化している。この主張の下では、最大の悪とは国家が自身やその国民を守れないことである。マキャヴェッリはこう書いている: 「[…]善だと考えられてはいるが実際にそれに従うと滅亡してしまうような特質がある一方で、悪徳とみなされているがそれを実行すると安全が実現され君主にとって幸福であるような特質が存在する<ref name = "erragh"/>。」
 
 
 
==関連項目==
 
{{Multicol}}
 
*[[アクラシア]]
 
*[[善悪の彼岸]]
 
*[[悪魔]]
 
*[[悪の帝国]]
 
*[[道徳]]
 
*[[精神病質]]
 
*[[悪魔崇拝]]
 
{{Multicol-break}}
 
*[[罪]]
 
*[[ジキル博士とハイド氏]]
 
*[[悪役]]
 
*[[善]]
 
*[[良心]]
 
*[[悪の起源]]
 
*[[性悪説]]
 
*[[悪意]]
 
{{Multicol-break}}
 
{{Multicol-end}}
 
 
 
==参考文献==
 
* [[Roy Baumeister|Baumeister, Roy F.]] (1999) ''Evil: Inside Human Violence and Cruelty''. New York: A. W. H. Freeman / Owl Book
 
* Bennett, Gaymon, [[Martinez Hewlett|Hewlett, Martinez J]], [[Ted Peters|Peters, Ted]], [[Robert John Russell|Russell, Robert John]] (2008). ''The Evolution of Evil''. Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht. ISBN 978-3-525-56979-5
 
* Katz, Fred Emil (1993) "Ordinary People and Extraordinary Evil", [SUNY Press], ISBN 0-7914-1442-6;
 
* Katz, Fred Emil (2004) "Confronting Evil", [SUNY Press], ISBN 0-7914-6030-4.
 
* {{cite book |last=Oppenheimer|first=Paul |title=Evil and the Demonic: A New Theory of Monstrous Behavior |year=1996 |publisher=[[New York University Press]] |location=New York |isbn=0-8147-6193-3}}
 
* Shermer, M. (2004). ''The Science of Good & Evil.'' New York: Time Books. ISBN 0-8050-7520-8
 
* {{Cite book| url=http://books.google.com/books?id=OatyHcQmLb4C&printsec=frontcover&dq=Steven+Mintz#v=onepage&q=&f=false| title=The Problem of Evil: Slavery, Freedom, and the Ambiguities of American Reform| editors=Steven Mintz, John Stauffer| publisher=University of Massachusetts Press| year= 2007| isbn= 9781558495708 }}
 
* Stapley, A. B. & Elder Delbert L., "Using Our Free Agency". Ensign May 1975: 21
 
* Vetlesen, Arne Johan (2005) "''Evil and Human Agency - Understanding Collective Evildoing''" New York: [[Cambridge University Press]]. ISBN 978-0-521-85694-2
 
* Wilson, William McF., and Julian N. Hartt. "Farrer's Theodicy." In David Hein and Edward Hugh Henderson (eds), ''Captured by the Crucified: The Practical Theology of [[Austin Farrer]]''. New York and London: T & T Clark / Continuum, 2004. ISBN 0-567-02510-1
 
*魂の殺人 アリス・ミラー
 
*平気でうそをつく人たち M・スコット・ペック
 
*悪について エーリッヒ・フロム
 
 
 
==脚注==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{In Our Time|Evil|p00547g3|Evil}}
 
* [http://www.chabad.org/search/keyword.asp?kid=1229 Good and Evil in (Ultra Orthodox) Judaism]
 
* [http://abcnews.go.com/US/story?id=90617&page=1 ABC News: Looking for Evil in Everyday Life]
 
* [https://web.archive.org/web/20070501114400/http://psychologytoday.com/articles/pto-20020101-000004.html Psychology Today: Indexing Evil]
 
*[http://www.booknotes.org/Watch/178164-1/Lance+Morrow.aspx ''Booknotes'' interview with Lance Morrow on ''Evil: An Investigation'', October 19, 2003.]
 
 
 
{{Philos-stub}}
 
 
{{DEFAULTSORT:あく}}
 
{{DEFAULTSORT:あく}}
 
[[Category:哲学の主題]]
 
[[Category:哲学の主題]]

2018/10/20/ (土) 13:42時点における最新版

(あく)

原義は人間にとって有害な諸事象,あるいはそれらの原因をいう。広範な概念であり,天災や疾病などの自然的悪,人倫に反する道徳的悪,制度的悪,さらにそれらの根源とみられる形而上学的悪など便宜的に区分されるが,これらは視点の相違によるとも考えられる。古代においては悪を起すものを超人間的存在として考え,悪魔,魔神など擬人化の傾向が神話や宗教にみられる。多くの宗教は人間存在に悪が内在するとして,対照的に神の正義を立証しようとする (キリスト教の原罪,プラトンやプロチノスの悪としての肉体,ライプニッツの形而上学的悪など) 。これら悪の起源を人間的存在そのものや超越者に求めるのとは反対に,人間経験やその結果としての体制に悪の起源を認める傾向もある。その代表的なものはマルクス主義。古代中国思想における性善説性悪説も悪の起源を超越とするか内在とするかの対立である。ときには美が悪の反対概念とされる。人間を有限的存在としてみるかぎり,悪の問題は常に哲学,心理学,社会学などの中心問題の一つであり続ける。



楽天市場検索: