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− | {{出典の明記|date=2017年9月10日 (日) 12:19 (UTC)}}
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− | {{Infobox Buddhist
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− | |名前=慧能
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− | |生没年=[[638年]][[2月27日]] - [[713年]][[8月28日]]
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− | |諡号=大鑑禅師
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− | |尊称=禅宗(南宗)第六祖
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− | |生地=[[新州 (広東省)|新州]]
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− | |没地=
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− | |画像=[[File:Huineng.jpg]]
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− | |説明文=慧能の[[即身仏]]([[広東省]][[韶関市]]南華寺)
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− | |宗派=[[禅宗]]
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− | |寺院=
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− | |師=[[弘忍]]
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− | |弟子=
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− | |著作=曹渓宝林寺
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− | }}
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− | '''慧能'''(えのう、[[諡]]は大鑑禅師、[[638年]][[2月27日]]([[貞観_(唐)|貞観]]12年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[713年]][[8月28日]]([[先天 (唐)|先天]]2年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]]))は、[[范陽郡]]涿県([[河北省]][[保定市]][[涿州市]])の盧氏出身の[[禅]][[僧]]で、[[中国]]禅宗([[南宗]])の第六祖である。
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− | == 生涯 ==
| + | '''慧能'''(えのう、[[諡]]は大鑑禅師、[[638年]][[2月27日]]([[貞観_(唐)|貞観]]12年[[2月8日 (旧暦)|2月8日]]) - [[713年]][[8月28日]]([[先天 (唐)|先天]]2年[[8月3日 (旧暦)|8月3日]])) |
− | 本貫は范陽だが、父が[[嶺南 (中国)|嶺南]]の[[新州 (広東省)|新州]]([[広東省]][[雲浮市]][[新興県]])に流されたので、その地で生まれ育つ。父が早くに亡くなり、薪を売って母親を養っていた。ある日、町で『[[般若経|金剛般若波羅蜜経]]』の[[読誦]]を聞いて出家を思い立ち、東山の五祖[[弘忍]]の下に参じたが、文字が読めないため、[[行者]](あんじゃ<!--この場合は"あんじゃ"と読む-->)として寺の米つきに従事した。
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− | その後、弘忍の法を受け継いで広州に帰り、兄弟子の[[印宗]]より[[具足戒]]を受けて正式な僧侶となり、曹渓宝林寺([[広東省]][[韶関市]][[曲江区]])に移って布教を続け、兄弟子の[[神秀]]より朝廷に推挙されるも病と称して断り、以後713年に亡くなるまで布教を続けた。
| + | 中国,唐の僧。禅宗の第6祖。5祖弘忍門下。同じ門下の[[神秀]]が唐朝と関係をもち北方に栄えたのに対し,南方に下って教化。弟子に傑僧が輩出し,後代の禅の発展はほとんどこの系統から出る。遺録として門下の編集に成る『[[六祖壇経]]』が著名。 |
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− | == 伝説 ==
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− | === 壁に書かれた詩について ===
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− | 慧能が弘忍の跡継ぎとして認められた時、次のような伝説がある。弘忍は[[悟り]]の心境をうまく詩に表せた者を後継者と認めようといい、当初、弘忍門下筆頭だった神秀が壁に偈を書いたが、弘忍は認めず、それを聞いた慧能が神秀の詩を否定するような詩を書き、それを弘忍が認めたので六祖となったという。
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− | *神秀の詩
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− | :身是菩提樹 心如明鏡臺(身は是れ菩提樹 心は明鏡台の如し)
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− | :時時勤拂拭 莫使有塵埃(時時に勤めて拂拭し 塵埃を有らしむること莫れ)
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− | *慧能の詩
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− | :菩提本無樹 明鏡亦非臺
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− | :本來無一物 何處惹塵埃<ref>[http://www.buddhistdoor.com/OldWeb/bdoor/0003c/sources/zentalk1.htm 神秀惠能偈頌辨解(一)]</ref><ref>[http://www.buddhistdoor.com/OldWeb/bdoor/0006c/sources/zentalk2.htm 神秀惠能偈頌辨解(二)]</ref><ref>[http://www.buddhistdoor.com/OldWeb/bdoor/0009c/sources/zentalk3.htm 神秀惠能偈頌辨解(三)]</ref>
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− | *慧能の詩(多版本)
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− | :菩提本無樹 明鏡亦無臺(菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
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− | :佛性常清淨 何處有塵埃(仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
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− | :心是菩提樹 身為明鏡臺(心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
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− | :明鏡本清淨 何處染塵埃(明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)
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− | 慧能が弘忍の命令で[[達磨]]から受け継がれた[[袈裟]]を持って[[大臾嶺]]まで逃げたところ、500人の僧が追ってきたが、法論して負けて逆に弟子になった者もいるという。
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− | 現在、慧能のものとされるミイラは広東省韶関市曲江区の南華寺に祀られている。科学的な調査によって[[唐代]]中期に作成されたものと推定され、中国に現存するミイラとしては最古のものと言われる。衣服を含めて[[漆]]で塗り固められているため、外見からミイラの状態を確かめることはできない。[[文化大革命]]時代、[[紅衛兵]]に一部を破壊された。後に修復する際、頭骨を含めた骨格と補強の鉄材を確認することができたという。
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− | == 思想 ==
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− | 慧能は「本来正教無有頓漸(正しい教えに本来は頓も漸もない)」と説いたことは、法話集である『[[六祖壇経]]』から明らかであるが、荷沢神会を始めとした鼓吹派が、神秀の漸修禅([[北宗]])に対して頓悟禅([[南宗]])を説き、それが新興[[士大夫]]階級に受け入れられて爆発的に教線が拡大し、[[青原行思]]([[石頭宗]])、[[南嶽懐譲]]([[洪州宗]])、[[南陽慧忠]]などの優れた弟子を持ち、後の[[禅#五家七宗|五家七宗]]全てがその一門から出た。
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− | == 語録 ==
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− | *[[六祖壇経]]
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− | == 弟子 ==
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− | *[[荷沢神会]]、[[青原行思]]、[[南嶽懐譲]]、[[南陽慧忠]]、[[永嘉玄覚]]、[[司空本浄]]
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− | == 伝記 ==
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− | *『六祖壇経』
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− | *『[[祖堂集]]』巻二
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− | *『[[景徳傳燈録]]』巻五
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− | *『[[宋高僧伝]]』巻八
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− | == 脚注 ==
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− | === 注釈 ===
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− | {{notelist}}
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− | === 出典 ===
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− | == 参考資料 ==
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− | {{脚注ヘルプ}}
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− | {{-}}<center><table border = 1><tr><td width = 40% align = center>師:[[弘忍]]<td width = 20% align = center>[[禅宗]]<td width = 40% align = center>弟子:[[荷沢神会]]、[[青原行思]]、[[南嶽懐譲]]、[[南陽慧忠]]</table></center>
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− | {{禅}}
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− | {{Buddhism2}}
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− | {{Normdaten}}
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| + | {{テンプレート:20180815sk}} |
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| [[Category:唐代の禅僧]] | | [[Category:唐代の禅僧]] |