「戸田城聖」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
19行目: 19行目:
 
|ウェブサイト =  
 
|ウェブサイト =  
 
|サイトタイトル =  
 
|サイトタイトル =  
|職名 = [[ファイル:Sanshokuki2.svg|25px]] 第2代 [[創価学会#名誉会長と歴代会長|創価学会会長]]
+
|職名 =  
|内閣 =
 
|選挙区 =
 
|当選回数 =
 
|就任日 = [[1951年]][[5月3日]]
 
|退任日 = [[1958年]][[4月2日]]
 
|退任理由 = 在職のまま死去
 
|所属委員会 =
 
|議員会館 =
 
|元首職 =
 
|元首 =
 
|職名2 = [[ファイル:Sanshokuki2.svg|25px]] 初代 [[創価教育学会|創価学会理事長]]
 
|内閣2 =
 
|選挙区2 =
 
|当選回数2 =
 
|就任日2 = [[1940年]][[10月20日]]
 
|退任日2 = [[1950年]][[11月12日]]
 
|退任理由2 = [[東京建設信用組合]]の破綻に伴う引責
 
|元首職2 =  
 
 
|元首2 =}}
 
|元首2 =}}
'''戸田 城聖'''(とだ じょうせい、[[1900年]]〈[[明治]]33年〉[[2月11日]] - [[1958年]]〈[[昭和]]33年〉[[4月2日]])は、[[日本]]の[[宗教家]]、[[教育関係人物一覧|教育家]]、[[実業家]]。
+
'''戸田 城聖'''(とだ じょうせい、[[1900年]]〈[[明治]]33年〉[[2月11日]] - [[1958年]]〈[[昭和]]33年〉[[4月2日]]
  
[[創価教育学会]]理事長(初代)、[[創価学会]]会長(第2代)、[[日蓮正宗#日蓮正宗の信徒団体|法華講]]総講頭などを歴任した。
+
[[創価学会]]第2代会長。 19歳で上京し,牧口常三郎が校長をしていた小学校に教師として採用され,以後彼を師と仰いだ。相次ぐ妻子の死を経て,真宗,キリスト教を遍歴したのち,1928年牧口とともに日蓮正宗に入信した。 30年,牧口を会長に創価教育学会を設立,出版業をはじめ多角的事業経営へ乗出すが,反国家的とみなされて 43年,牧口とともに投獄された。第2次世界大戦後,獄死した牧口の志を継ぎ,学会を創価学会として再建,理事長に就任する。 51年に会長となり,折伏 (しゃくぶく) による布教活動のかたわら,反核・平和運動を唱えた。著書に『生命論』 (1949) ,『王仏冥合論』 (56) など。
  
出生名、'''戸田 甚一'''(とだ じんいち)。数度の改名を経て「'''城聖'''(じょうせい)」と名乗る。戒名は、大宣院法護日城大居士。
 
  
== 略歴 ==
 
[[File:Toda Josei's Residence.jpg|thumb|厚田公園内の戸田城聖生家]]
 
* [[1900年]]([[明治]]33年)[[2月11日]] - [[石川県]][[加賀市]]塩屋に、[[北前船]]の仲買商の父「甚七」と母「すえ」の七男「甚一」として誕生。
 
* [[1902年]](明治35年) - 一家で[[北海道]][[厚田村]]へ移住。
 
* [[1908年]](明治41年) - 厚田尋常小学校に入学する。
 
* [[1917年]]([[大正]]6年)
 
** 小学校の准教員資格試験に合格する。
 
** [[2月22日]] - 「桜桃」と改名。それ以前には「桜心」と改名している。
 
** [[11月20日]] - 「清通」と改名。
 
* [[1918年]](大正7年)
 
** [[5月3日]] - 「雅晧」と改名。
 
** 夕張の真谷地尋常小学校の[[代用教員]]として採用される。
 
** 12月 - 夕張の真谷地尋常小学校の正教員試験に合格する。
 
* [[1920年]](大正9年) - 上京、[[牧口常三郎]]を訪ねる<ref>小説『人間革命』より</ref>。[[開成中学校・高等学校|開成中学]]夜間部(のちの[[昌平高等学校 (1948-1969)|昌平高校]])に入学する。
 
* [[1921年]](大正10年) - 「博方」と改名。入所前に「城外」と改名。戦前は「城外」で通す。戦後「城聖」と改名。
 
* [[1925年]](大正14年) - [[中央大学]][[予科]]入学。
 
* [[1928年]]([[昭和]]3年) - 牧口が[[日蓮正宗]]の法華講員三谷六郎(素啓)に折伏されると、戸田も牧口とともに日蓮正宗に入信した。[[中央大学]][[経済学部]]入学。
 
* [[1930年]](昭和5年) - 牧口が[[創価教育学体系]]を著す。
 
* [[1931年]](昭和6年) - 中央大学経済学部卒業。
 
* [[1943年]](昭和18年)
 
** 6月 - 日蓮正宗総本山[[大石寺]]に呼ばれた牧口と戸田らは、軍部から強制された神札受け取りを拒絶する(「[[神札問題]]」)<ref>[[池田大作]]著『人間革命』第11巻 204-205頁</ref>。その後、創価教育学会は大石寺から登山停止を言い渡される。
 
** 7月 - [[治安維持法]]違反・明治神宮に対する[[不敬罪]]の容疑で、牧口とともに逮捕される。
 
* [[1945年]](昭和20年)[[7月]] - 豊多摩刑務所(後の[[中野刑務所]])から出所する。
 
* [[1946年]](昭和21年)[[5月3日]] - [[創価教育学会]]の名を[[創価学会]]に改称。
 
* [[1949年]](昭和24年) - [[東京建設信用組合]]を設立。
 
* [[1950年]](昭和25年) - 東京建設信用組合が多額の[[負債]]を抱えたため、大蔵省から業務停止を命じられる。
 
* [[1951年]](昭和26年) - 創価学会第2代会長に就任する。
 
* [[1952年]](昭和27年)[[9月8日]] - 創価学会が[[宗教法人]]化される。
 
* [[1953年]](昭和28年) - [[東京都]][[新宿区]][[信濃町 (新宿区)|信濃町]]にあった元[[イタリア]][[大使館]]武官邸を購入し、創価学会本部とする。
 
* [[1958年]](昭和33年)[[4月2日]] - 午後6時30分、[[駿河台日本大学病院]]で死去。享年58。
 
 
== 来歴 ==
 
=== 教員として ===
 
教職者として戸田は現場教育に必要なものをまとめ上げ、[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]に建白書を提出する。20歳の時に上京。[[牧口常三郎]]に出会い、東京市立西町[[尋常小学校]]の代用教員として採用された。その後、一時期は教職を退き職を転々とする傍ら、[[院外団]]に身を投じ、[[犬養毅]]の側近であった[[立憲政友会]]所属の[[国会議員|衆議院議員]][[古島一雄]]の知遇を得る。
 
 
=== 入信と事業経営 ===
 
妻子を病気で失い、自らも[[結核|肺結核]]を患う中、[[日蓮正宗]]信徒になった[[牧口常三郎]]の[[折伏]]によって戸田も入信。前後して、現在の[[学習塾]]の先駆けである「'''時習学館'''」を主宰し、[[学習参考書]]の走りともいえる『推理式指導算術』を出版する。『推理式指導算術』は評判を呼び、100万部を超える[[ベストセラー]]となった。当時の受験生からは「受験の神様」と呼ばれる。
 
 
これをきっかけにして本格的に[[出版]]事業に乗り出し、「'''日本正学館'''」を設立。牧口の教育理論である『創価教育学体系』や、同郷の[[作家]][[子母澤寛]]の[[小説]]などの出版を手がける。この『創価教育学体系』の初版が発刊された[[1930年]](昭和5年)[[11月18日]]を[[創価教育学会]]の設立日としている。なお、牧口の著作は「創価教育学会」が出版した。戸田は出版業以外に[[金融機関|金融業]]や[[金融商品取引業|証券業]]にも乗り出し、事業家として一定の成功を収める。[[1940年]](昭和15年)の第2回総会で正式に創価教育学会理事長に就任し、学会の活動を主に財政面で支えた。
 
 
[[1943年]]6月、牧口とともに日蓮正宗総本山[[大石寺]]に呼ばれた戸田らは、第62世管長・鈴木[[日恭]]と堀[[日亨 (日蓮正宗)|日亨]]同席の下、庶務部長から「学会も一応、神札を受取けるようにしてはどうか」と申し渡されたがこれを拒絶する(「[[神札問題]]」)<ref>池田大作著『人間革命』第11巻 204-205頁</ref>。その後、創価教育学会は登山を禁止され、牧口とともに逮捕される。
 
 
[[画像:Tsunesaburo Makiguchi and Josei Toda.jpg|thumb|250px|戸田城聖(左)と[[牧口常三郎]](右)]]
 
[[File:戸田記念国際会館.jpg|250px|right|thumb|創価学会戸田記念国際会館<br>([[東京都]][[新宿区]][[左門町]])<br>[[創価学会インタナショナル]](SGI)の本部が置かれている。]]
 
 
=== 創価学会会長に就任 ===
 
終戦後、戸田は日本正学館の通信教育と出版事業に取り組む傍ら、創価教育学会を「'''[[創価学会]]'''」に改め、組織整備を開始する。前身の創価教育学会は牧口の[[創価教育学説|創価教育学]]を中心とした教職員による集まりであったのに対し、創価学会は[[日蓮正宗]]の信仰を中心に据え広く一般人を受け入れたため、会員数は増大した。
 
 
しかし、事業経営における戦前の主力だった算術書が[[学習指導要領]]の全面改正で無意味なものになり、事態打開のために参入した雑誌も売れ行きが低迷するなど、経営は悪化。[[1949年]](昭和24年)10月、日本正学館は[[倒産]]する。戸田は[[東京建設信用組合]]を設立し営業を始めるが、多額の負債があるために今度は[[大蔵省]]から営業停止の命令を受け、破綻。[[1950年]](昭和25年)8月24日、戸田は、創価学会理事長を辞任する。同年10月、大蔵商事(現:[[日章]])を設立し、顧問に就任。
 
 
[[1951年]](昭和26年)[[5月3日]]、東京・[[向島 (墨田区)|向島]]の[[常泉寺 (墨田区)|常泉寺]]で式典を開き、後の大石寺65世法主[[日淳|堀米日淳]]臨席の下、第2代創価学会会長に就任する。
 
 
=== 創価学会会長として ===
 
戸田は、事業家としての経験をもとに創価学会の運営を行った。戸田は就任演説において、7年間で75万世帯を[[折伏]]することを目標に掲げ、大規模な布教運動を行った<ref>[[島田裕巳]]著『神サマのつごう 終末のフィールドワーク』([[1992年]]、[[法藏館]]) ISBN 978-4831871992 </ref>。しかし、強引な勧誘方法は各地で社会問題化した。
 
 
戸田会長時代に婦人部、男子部、女子部、学生部、その他人材グループなど現在の創価学会の主要な組織の編成がなされたほか、雑誌『[[大白蓮華]]』や機関紙『[[聖教新聞]]』が創刊された。[[1954年]](昭和29年)には[[国会議員|国会]]や[[日本の地方議会議員|地方議会]]の選挙に学会員を出馬させ、政治進出を果たし、後の[[公明党]]結成の布石となる。また、[[日蓮正宗]]の外護という[[創価学会]]本来の目的を果たすべく、大石寺への[[大講堂 (大石寺)|大講堂]]の建立・寄贈などを行った。宗門とは、第59世管長堀日亨、第63世管長秋山日満、第64世管長水谷日昇、第65世管長堀米日淳、第66世管長細井日達(会長在任当時は庶務部長・総監、戸田の没後に登座)らと良好な関係を築き、とりわけ第65世日淳とは縁が深かった。
 
 
その一方で、牧口が[[法 (仏教)|仏法]]思想にある原因結果の法則と自らの[[価値論]]を絡めた「罰論の[[利益|功徳]]論」を展開したのに対し、戸田は戦後の荒廃した時宜に沿う形での「[[生命論]]」を提唱する。「生命論」は戸田が獄中で得た悟りをもとに月刊誌『[[大白蓮華]]』に発表したもので、創価学会が現代に即した[[法華経]]を展開するための核心的な理論となった。
 
 
=== 大阪事件 ===
 
{{Main|大阪事件 (創価学会)}}
 
[[1957年]](昭和32年)、[[参議院]][[大阪府選挙区]]の補欠選挙をめぐって、青年部参謀室長池田大作と一部の学会員が[[選挙違反]]事件を起こす([[大阪事件 (創価学会)|大阪事件]])。個別訪問と買収の容疑で、青年部参謀室長[[池田大作]]、理事長[[小泉隆]]の最高幹部を含め、数十人が逮捕・起訴された。公判では創価学会最高幹部による指示の有無、証拠採用された自白の信用性が争われた。池田と小泉は無罪判決を得たが、2人以外の会員には有罪判決が下され、池田も拘留段階で個別訪問と買収容疑を認め自白し署名したことから無罪判決を得るまで5年近い年月がかかっている。戸田は両幹部の無実を信じ擁護したものの、違反を犯した会員に対しては起訴後、即[[創価学会|除名]]などの厳しい処分を下した<ref>池田大作著『人間革命』第11巻</ref>。
 
 
=== 原水爆禁止宣言 ===
 
1957年(昭和32年)[[9月8日]]、[[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]]の[[三ツ沢公園球技場|三ツ沢競技場]]において[[原水爆禁止宣言]]を発表する。創価学会第4回東日本青年部体育大会「若人の祭典」([[横浜市]]・三ツ沢グラウンド)で発表。この宣言がマスコミなどで報道されることはなかったが、戸田はこの宣言を遺訓として会員たちに託し、以後、創価学会が行っている、戦争体験者の証言を集めて出版する「反戦出版」や、パネル展の巡回などの平和運動活動の淵源となる{{要出典|date=2017年9月}}。
 
 
=== 大講堂竣工と突然の死 ===
 
[[1958年]](昭和33年)に入ると、寄進していた大講堂が竣工するのを受けて学会員に[[大石寺]]へ参詣するよう指示。[[3月16日]]には、大講堂で「[[広宣流布]]の模擬試験」を行う。青年部員6,000人が参加<ref>当初は[[内閣総理大臣]][[岸信介]]の参列も予定されたが、名代として[[安倍晋太郎]]が出席した。</ref>、学会では「記念式典」と呼ばれている。戸田は広宣流布の一切の後事を青年部全体に託した。しかし、この式典をもって戸田の後継となる学会会長候補者を完全に指名していない。しかし、側近の弟子らに学会会長候補者は誰かを伝え、次期会長を守り抜くよう遺言を残している。
 
 
同年[[4月1日]]、[[急性心不全]]を起こし大石寺を離れたが、[[日本国有鉄道|国鉄]][[東京駅]]に着くころには、戸田の体調は悪化の一途を辿っていた<ref>池田大作筆「随筆・人間世紀の光 128 桜花の『4・2』に恩師を思う」(聖教新聞 2007年4月1日付)</ref>。東京駅からそのまま[[駿河台日本大学病院]]に直行し緊急入院するも、翌[[4月2日]]の夕方、死去。学会では死因を「急性心衰弱」と発表した。戸田の遺言通り、戸田の遺体は一週間何もされないままだったが、遺体は腐ることはなかった。{{没年齢|1900|2|11|1958|4|2}}。[[4月8日]]、東京・[[池袋]]の[[常在寺 (豊島区)|常在寺]]で営まれた[[告別式]]には、12万人が焼香に訪れた。同年[[4月20日]]、[[青山葬儀所]]で営まれた創価学会葬には25万人が参列した<ref>『[[大白蓮華]]』 2010年4月号 28頁 「会長就任50周年記念企画 永遠に師と勝利を共に」</ref>。
 
 
== 役職歴 ==
 
* [[創価教育学会]]理事長(初代)
 
* [[創価学会]]会長(第2代)
 
* [[法華講]]大講頭
 
* [[法華講]]総講頭 ※生前の3月30日付で、4月19日に辞令交付される。
 
 
== 著作・論文 ==
 
* [[生命論]](1949年6月、『[[大白蓮華]]』創刊号)
 
* 日蓮大聖人御書十大部講義 1-4(1953年 - 1955年、[[創価学会]])
 
* [[人間革命]] 上下2巻(1957年7月、[[精文館書店]])
 
* 方便品寿量品精解(1958年、精文館書店、編:日蓮正宗・多田省吾) 
 
* 戸田城聖先生巻頭言集(1960年、創価学会)
 
* 戸田城聖先生論文集(1960年、創価学会) 
 
* 戸田城聖先生講演集(1961年、創価学会)
 
* 戸田城聖先生質問会集(1963年、創価学会)
 
* 戸田城聖全集
 
** 戸田城聖全集 全5巻(1965年 - 1966年、[[和光社]])
 
** 戸田城聖全集 全9巻(1981年 - 1990年、[[聖教新聞社]])
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[池田大作]] 『[[人間革命]]』 全12巻(1965年 - 1993年、聖教新聞社)
 
 
== 戸田城聖を演じた人物 ==
 
* [[丹波哲郎]](俳優):映画『[[人間革命#映画|人間革命]]』
 
* [[小林清志]](声優):[[OVA]]『[[人間革命#アニメ|人間革命]]』
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
== 関連項目 ==
 
* [[創価教育学会]]
 
* [[牧口常三郎]]
 
* [[創価学会]]
 
* [[池田大作]]
 
* [[日蓮正宗]]
 
* [[法華講]]
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commons|Category:Toda Josei}}
 
* [http://www.sokanet.jp/sg/FWIM/sn/soka-info/information/toda_01.html 創価学会公式サイト:第二代会長 戸田城聖]
 
* [https://web.archive.org/web/20071116193806/http://j-footage.vox.com/library/video/6a00d41420c1f0685e00e398b0ad710003.html ある教祖さまの死(昭和33年4月23日)] - [[日本映画新社]]・朝日ニュース昭和映像ブログ、戸田城聖葬儀の様子
 
*[https://www.soka.ac.jp/files/ja/20170520_225341.pdf 戸田城外著『中等學校入學試驗の話と愛兒の優等化』]
 
{{創価学会}}
 
{{公明党}}
 
 
{{DEFAULTSORT:とた しようせい}}
 
{{DEFAULTSORT:とた しようせい}}
{{Normdaten}}
+
{{テンプレート:20180815sk}}
 
[[Category:創価学会の人物]]
 
[[Category:創価学会の人物]]
 
[[Category:日本の宗教家]]
 
[[Category:日本の宗教家]]

2018/9/28/ (金) 14:14時点における最新版

戸田 城聖(とだ じょうせい、1900年明治33年〉2月11日 - 1958年昭和33年〉4月2日

創価学会第2代会長。 19歳で上京し,牧口常三郎が校長をしていた小学校に教師として採用され,以後彼を師と仰いだ。相次ぐ妻子の死を経て,真宗,キリスト教を遍歴したのち,1928年牧口とともに日蓮正宗に入信した。 30年,牧口を会長に創価教育学会を設立,出版業をはじめ多角的事業経営へ乗出すが,反国家的とみなされて 43年,牧口とともに投獄された。第2次世界大戦後,獄死した牧口の志を継ぎ,学会を創価学会として再建,理事長に就任する。 51年に会長となり,折伏 (しゃくぶく) による布教活動のかたわら,反核・平和運動を唱えた。著書に『生命論』 (1949) ,『王仏冥合論』 (56) など。




楽天市場検索: