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| 独自研究 = 2017年12月
 
| 脚注の不足 = 2017年12月
 
| 参照方法 = 2017年12月
 
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'''持明院統'''(じみょういんとう)とは、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて皇位に即いた[[日本]]の[[皇室]]の系統で、第88代[[後嵯峨天皇]]の子である第89代[[後深草天皇]]の子孫である。
 
  
== 概要 ==
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'''持明院統'''(じみょういんとう)
持明院統という名称は、[[鎮守府将軍]][[藤原基頼]]が邸内に持仏堂を創設し、これを'''[[持明院]]'''と名づけ、その一家を持明院家と称したことに端を発する。
 
基頼の孫[[持明院基家]]の娘[[持明院陳子|陳子]]が[[守貞親王]]の妃になり、守貞親王はこの邸宅・持明院殿に居住した。承久の乱で三上皇が配流になった為、幕府の沙汰によって、守貞親王の子茂仁親王([[後堀河天皇]])が天皇となった(守貞親王には[[太上天皇]]の尊号がおくられ、後高倉院と称した)。そして、後堀河天皇は譲位後、持明院殿内を[[仙洞御所]]として居住したが、その後、後嵯峨、後深草両上皇もこれに倣って持明院殿内に住んだ。これらにより、後深草天皇から[[後小松天皇]]に至る系統のことを持明院統と称されたと伝えられている。しかし、実際には持明院は後堀河上皇の崩御後はその皇女であった[[室町院]](暉子内親王)が居住し、室町院没後の遺産配分によって後深草上皇の子である[[伏見上皇]]が持明院を相続して正安4年([[1302年]])に仙洞御所としたことにより持明院統と称されたのが由来とされている。
 
 
 
[[院政]]を敷いた後嵯峨上皇が、後深草上皇の弟[[亀山天皇]]の子孫([[大覚寺統]])が皇位を継承するよう遺言して崩御したために、後深草上皇と亀山天皇の間で対立が起こり、[[鎌倉幕府]]により、両者の子孫の間でほぼ十年をめどに交互に皇位を継承([[両統迭立]])し、院政を行うよう裁定された。
 
 
 
[[元弘]]3年([[1333年]])、大覚寺統の傍流から出た[[後醍醐天皇]]による[[建武の新政]]により、一時は皇統が大覚寺統に統一されたかに見えたが、新政は2年半にして崩壊する。吉野に逃れた後醍醐天皇に代えて、[[足利尊氏]]は持明院統([[北朝 (日本)|北朝]])の[[光明天皇]]を擁立する。後醍醐天皇は自己の正統性を主張し([[南朝 (日本)|南朝]])、南北朝時代となる。
 
 
 
後、[[後小松天皇]]の代に[[明徳の和約]]によって皇統は持明院統に統一されることとなる。だが、その系統は次の[[称光天皇]]の代に断絶し、同じ持明院統に属する[[伏見宮]]から皇位継承者が迎えられ、現在の皇室へと続くことになった。
 
 
 
== 持明院統の分裂 ==
 
現在の日本の皇室は、この持明院統の子孫であるが、初期から三分裂([[後二条天皇]]流、[[後醍醐天皇]]流、[[常盤井宮恒明親王|常盤井宮]]流)していた大覚寺統ほどではないものの、持明院統も後半では'''崇光院流'''と'''後光厳院流'''の二つに分裂した。
 
 
 
[[観応の擾乱#正平一統|正平一統]]の際に、当時の[[治天の君]]であった[[光厳天皇|光厳上皇]]、その弟である[[光明天皇|光明上皇]]、当時の北朝の天皇である[[崇光天皇]]、皇太子である[[直仁親王]]ら北朝の皇族のほとんどが南朝軍に連行されてしまった。その際、僧侶になる予定で[[妙法院]]に預けられていた崇光天皇の弟宮を確保した[[足利氏]]は北朝方廷臣と図って、この宮を擁立した。これが[[後光厳天皇]]である。新帝は[[三種の神器]]も当時の皇位継承法(慣習法)において必要であった「治天による伝国の詔宣」を欠いた状態での即位を余儀なくされた上、これに激怒した南朝軍によって[[京都]]を追われ、足利氏とともに[[美濃国|美濃]]や[[近江国|近江]]を転々する経験をした。このため、足利氏は自分達と苦労を共にしてきた後光厳天皇を重んじる姿勢を示した。その後、南朝は光厳法皇(上皇)や崇光上皇らの返還に応じた。その際、治天の君であった光厳法皇によって「持明院統の嫡流」と位置付けられていた崇光上皇に対して、南朝方は自身及び子孫の皇位継承権を放棄するように迫り誓約させた上で京都への帰還を許した(『[[看聞御記]]』[[永享]]5年11月23日条、『[[満済准后日記]]』永享5年10月23日条、『建内記』[[文安]]4年3月22日条)。光厳法皇や崇光上皇にとって本来は僧籍に入る予定であった後光厳天皇の即位は想定外であり、更に直仁親王も出家してしまったため、法皇は[[長講堂領]]など持明院統相伝の所領のほとんどを崇光上皇に与え、皇位継承権は崇光天皇の子孫(=崇光院流)にある姿勢を明確にした。これに対して、室町幕府と後光厳天皇は光厳法皇と崇光上皇へ出仕する公家を処分する(『園太暦』[[延文]]2年2月19日)として光厳法皇らを牽制している。また、後光厳天皇は光厳法皇は正平一統以前は自身と崇光天皇の子を全て出家させて、直仁親王(正平一統による廃太子後に出家)の子孫に皇統に一本化しようとしていた事情を知っており、その可能性が亡くなった現在、従来の皇位継承は白紙になったと捉えていた<ref>家永遵嗣 「光厳上皇の皇位継承戦略と室町幕府」桃崎有一郎・山田邦和 編著『室町政権の首府構想と京都』 文理閣〈平安京・京都叢書4〉、2016年10月、pp.109-112。</ref>。
 
 
 
ところが、光厳法皇が崩御すると、後光厳天皇は自己の子孫に皇位を継承させたいと願い、[[室町幕府]]にその意向を示した。折しも幼少の[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]の時代であり、[[管領]]として義満を庇護していた[[細川頼之]]は幼少の将軍では判断が難しい事を口実として、天皇の聖断に従う意向を示した。これに従って後光厳天皇は実子の[[後円融天皇]]に[[譲位]]、更に11年後に後円融天皇が実子の[[後小松天皇]]に譲位した際にも既に成人していた義満はこれに同意し、後光厳院流が皇位を継承することを支持する態度を示した。これに崇光上皇は激しく反発して実弟や甥と対立したものの、義満の権勢の前には如何ともしがたかった。加えて南朝方と依然交した誓約は後光厳院流に対しても有効であるとみなされ、崇光上皇は失意のうちに崩じた。崇光院流の後継者で本来であれば将来の皇太子に予定されていた[[栄仁親王]]は祖父の光厳法皇から保証されていた持明院統相伝の所領のほとんどを後小松天皇に奪われ、失意のうちに[[出家]]した。親王の子孫はその居所から「[[伏見宮]]」と称された。後小松天皇は足利義満・[[足利義持|義持]]親子の庇護を受けて明徳の和約による皇統統一に成功し、続いて長男の[[称光天皇]]に皇位を譲り院政を開始した。一方、伏見宮は栄仁親王とその長男の[[治仁王]]が相次いで没して衰退の一途をたどっていた。
 
 
 
ところが、称光天皇は病弱の上に子供に恵まれず、儲君とした弟の[[小川宮]]も兄に先だって没した。後小松上皇というより、後光厳院流には他に皇位を継承できる男性皇族が存在しなかったために、その断絶の可能性が高くなった。一方、南朝系の人々([[後南朝]])はこれを見越して皇位継承を求める動きを活発化させていった。苦悩した後小松上皇は伏見宮を継承していた栄仁親王の次男・[[貞成親王|貞成王]]を自己の[[猶子]]として[[親王宣下]]を行い([[応永]]32年4月16日)、万が一の事態に備えようとした。ところが、皇位を奪われるのではないかと不安を抱いた称光天皇が6月28日になって出奔を図った(『[[薩戒記]]』)。これに驚いた後小松上皇は一転して貞成親王に出家を迫り、閏6月3日に親王は出家させられることとなった。ところが、これによって皇位継承問題は振り出しに戻っただけではなく、後小松上皇は称光天皇・貞成親王双方との関係を悪化させた。ところが、[[正長]]元年7月6日になって遂に称光天皇が危篤に陥った。将軍[[足利義教]]は7月13日貞成親王の皇子・彦仁王を秘かに保護した上で後小松上皇に今後の判断を委ねた。上皇は直ちに彦仁王を自己の猶子として皇位を継承させることを決断し、天皇の崩御を経た後の7月28日に彦仁王を自己の猶子として皇位に擁立した。これが[[後花園天皇]]である。貞成親王の時の失敗を繰り返さないため、称光天皇の生前にはこの計画は極秘に進められた。このため、新天皇は親王宣下も[[立太子]]もなく即位することとなった。
 
 
 
新天皇の元でも後小松上皇が[[院政]]を行ったが、貞成親王との確執は収まらなかった。上皇はあくまでも後光厳流の継続を意図して新天皇を崇光院流・伏見宮とは無関係な自分の実子として扱おうとした。これには新天皇の即位によって皇統が崇光院流に復帰したと考えた貞成親王は反発した。後小松上皇は『[[本朝皇胤紹運録]]』を編纂させ、南朝の天皇の記述を排除するとともに後花園天皇を自分の子として系譜に書かせ、伏見宮と切り離して記させた。[[永享]]5年、既に法皇となっていた後小松法皇が崩御した。その際に3ヶ条からなる[[遺詔]]を残したことが『建内記』(文安4年3月6・23日条)及び『満済准后日記』(永享5年10月23日条)から知る事が出来る(ただし、後者は2ヶ条と記されている)。それは、「後光厳院流を断絶させないこと、すなわち貞成親王に[[太上天皇]]の[[尊号]]を贈って後花園天皇との親子関係を認めることは許さない」、「自分の[[仙洞御所]]を伏見宮(貞成親王)の御所にしない」、「自己の[[追号]]を後小松院とすること」であった(『満済准后日記』は尊号と仙洞御所の件を合わせて「後光厳院流を断絶させないこと」の1ヶ条とみなしたために2ヶ条と記されているのである)。後小松法皇の側近たちはこの遺詔に基づいて「実子」である後花園天皇が父である後小松法皇の喪に服する「[[諒闇]]」の儀式を行うべきと主張した。当時の公家政権に大きな影響力を有した前[[摂政]][[一条兼良]]や[[准后]][[満済]]、将軍足利義教らがこれに同意したために諒闇が実施されることとなった。この際満済はかつての崇光天皇が南朝方と誓約した件を持ちだし、崇光院流には皇位継承権がないことをほのめかす主張している(『満済准后日記』永享5年10月23日条)。これに貞成親王は激怒し、兼良や満済の天皇への不忠を詰っている(『[[椿葉記]]』)。
 
 
 
だが、後花園天皇が成長すると、この状況に不満を抱くようになり、父である貞成親王や弟の[[貞常親王|貞常王]]を優遇する方法を模索するようになる。永享8年後小松法皇の仙洞御所の一部が新しい伏見宮邸の敷地として献上された(ただし、先の遺詔に配慮して敷地の全部を明け渡すことは回避された)。続いて嘉吉3年には天皇から貞成親王に対して、まず貞常の[[元服]]と親王宣下を行い、その後に尊号を奉る意向が伝達された。(『看聞日記』嘉吉3年4月26日条)。文安2年([[1445年]])3月16日、[[関白]][[二条持基]]の加冠によって貞常王の元服が行われた。ところが、同時に行われる筈であった親王宣下が中止され、6月7日には「荒説」「云口」(すなわち悪口)を理由として後小松法皇の側近であった[[広橋兼郷]]と[[白川雅兼]]が追放されたのである。その内容は不明であるが、両者が後小松上皇の側近であり貞成親王への尊号と、その前提となる貞常への親王宣下に反対して、貞成親王や貞常王に対する誹謗を行ったとも言われている。この騒動後の6月27日貞常王への親王宣下が行われた。続いて文安4年3月になると、後花園天皇の貞成親王への尊号が提案され、激しい議論が行われた。『建内記』の著者である[[万里小路時房]]が後小松法皇の遺詔を持ちだして天皇を激しく諌めたのもこの時のことであった。だが、天皇の意思を変えることは出来ず、同年11月27日、貞成親王は天皇の実父であることを理由に太上天皇の尊号を贈られて、後に「後崇光院」と称されることとなった。これによって後光厳院流が称光天皇の代で断絶したことと崇光院流によって皇位継承が行われることが確認されたのである。崇光院流が現在の皇室の直接の祖先にあたる。また、後花園天皇の弟である貞常親王は父・貞成親王の崩御後に伏見宮を継承、[[世襲親王家]]としての地位を認められることとなった。もっとも、後小松法皇の没後の法要が後花園天皇によって長く国家的行事として行われたのに対して後崇光院の法要が国家的行事の性格を有していない(伏見宮家の行事の範囲で行われている)ことから、後花園天皇が自身による後光厳院流の継承を否定していた訳ではないとする指摘もある。
 
 
 
== 持明院統の天皇 ==
 
* [[後深草天皇]](89代)
 
* [[伏見天皇]](92代)
 
* [[後伏見天皇]](93代)
 
* [[花園天皇]](95代)
 
* [[光厳天皇]](北朝1代)
 
* [[光明天皇]](北朝2代)
 
* [[崇光天皇]](北朝3代)
 
* [[後光厳天皇]](北朝4代)
 
* [[後円融天皇]](北朝5代)
 
* [[後小松天皇]](100代・北朝6代)
 
* [[称光天皇]](101代)
 
 
 
=== 系図 ===
 
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== 脚注 ==
 
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{{Reflist}}
 
 
 
==参考文献==
 
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* [[今谷明]]『室町の王権 <small>足利義満の王権簒奪計画</small>』([[中公新書]]、1990年) ISBN 4-12-100978-9
 
* 横井清『室町時代の一皇族の生涯 <small>『看聞日記』の世界</small>』([[講談社学術文庫]]、2002年) ISBN 4-06-159572-5
 
* 近藤成一 「内裏と院御所」(初出:五味文彦 編『都市の中世』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9)
 
* [[小川剛生]]「伏見宮家の成立 -貞成親王と貞常親王-」(所収:松岡心平 編『看聞日記と中世文化』(森話社、2009年) ISBN 978-4-916087-94-2)
 
* [[村田正志]]「後小松天皇の御遺詔」(初出:『国史学』47・48号(1944年2月)、所収:『村田正志著作集 第2巻続南北朝史論』(思文閣出版、1983年) ISBN 978-4-7842-0344-4)
 
* 松薗斉『日記の家 <small>中世国家の記録組織</small>』([[吉川弘文館]]、1997年) ISBN 4-642-02757-2
 
: 第七章 持明院統天皇家の分裂 p178~p201
 
* 久水俊和「改元と仏事からみる皇統意識」(初出:『国史学』199号(2009年)、所収:『室町期の朝廷公事と公武関係』(岩田書院、2011年) ISBN 978-4-87294-705-2)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[文保の和談]]
 
* [[明徳の和約]]
 
* [[長講堂領]]
 
  
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後深草天皇系の皇統。鎌倉時代,後嵯峨天皇は寛元4 (1246) 年,第1皇子久仁親王に譲位して後深草天皇としたが,皇太弟の恒仁親王を寵愛して,正元1 (59) 年これに皇位を譲らせて亀山天皇とし,その皇子世仁親王を皇太子とした。文永 11 (74) 年,世仁親王が即位して後宇多天皇となり,亀山上皇が院政を行うことになったため,これに不満をいだく後深草上皇側は持明院を御所としたことから持明院統と称され ([[持明院家]] ) ,亀山上皇の皇統の[[大覚寺統]]と対立し,鎌倉,南北朝時代を通して皇位継承をめぐって争った。そこで幕府の[[両統迭立]]の方針によって両統から交代に皇位につくことが決められた。しかし持明院統の経済的基盤である[[長講堂領]]の伝領問題もからんで両統の対立は激化していった。持明院統は鎌倉幕府とも協調的であり,南北朝時代に入っても足利尊氏の支持によって北朝の皇位を継承した。
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2018/10/25/ (木) 17:29時点における最新版

持明院統(じみょういんとう)

後深草天皇系の皇統。鎌倉時代,後嵯峨天皇は寛元4 (1246) 年,第1皇子久仁親王に譲位して後深草天皇としたが,皇太弟の恒仁親王を寵愛して,正元1 (59) 年これに皇位を譲らせて亀山天皇とし,その皇子世仁親王を皇太子とした。文永 11 (74) 年,世仁親王が即位して後宇多天皇となり,亀山上皇が院政を行うことになったため,これに不満をいだく後深草上皇側は持明院を御所としたことから持明院統と称され (持明院家 ) ,亀山上皇の皇統の大覚寺統と対立し,鎌倉,南北朝時代を通して皇位継承をめぐって争った。そこで幕府の両統迭立の方針によって両統から交代に皇位につくことが決められた。しかし持明院統の経済的基盤である長講堂領の伝領問題もからんで両統の対立は激化していった。持明院統は鎌倉幕府とも協調的であり,南北朝時代に入っても足利尊氏の支持によって北朝の皇位を継承した。



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