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{{基礎情報 武士
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'''新見 正興'''(しんみ まさおき)
| 氏名 = 新見正興
 
| 画像 = JapaneseEmbassy1860.jpg
 
| 画像サイズ =250px
 
| 画像説明 = 新見正興(中央)1860年
 
| 時代 =
 
| 生誕 =[[文政]]5年([[1822年]])5月
 
| 死没 =[[明治]]2年[[10月18日 (旧暦)|10月18日]]([[1869年]][[11月21日]])
 
| 改名 =
 
| 別名 =新見豊前守
 
| 諡号 =
 
| 神号 =
 
| 戒名 = 正興院殿釈閑水遊翁大居士
 
| 墓所 = 中野区願正寺
 
| 官位 = 豊前守 → 伊勢守
 
| 幕府 = [[江戸幕府]] [[外国奉行]]
 
| 主君 =
 
| 藩  =
 
| 氏族 = 三浦氏 → [[新見氏]]
 
| 父母 = 父:[[三浦義韶]]、養父:''[[新見正路]]''
 
| 兄弟 =
 
| 妻  = [[水野忠啓]]女(忠啓兄・[[水野忠央]]養女)
 
| 子  = 長女・某、次女・ゑつ、三女・りょう
 
| 特記事項 =
 
}}
 
  
[[File:JapaneseMissionInWashington.jpg|thumb|250px|ワシントン海軍工廠を視察する遣米使節:前列左から、外国奉行支配両番格調役・[[塚原昌義|塚原但馬守]]、外国奉行頭支配組頭・[[成瀬正典|成瀬善四郎]]、副使・[[村垣範正|村垣淡路守]]、正使・新見豊前守、監察・[[小栗忠順|小栗豊後守]]、勘定方組頭・[[森田清行|森田岡太郎]]]]
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江戸時代末期の幕臣,外国奉行,遣米使節正使。豊前守。日米修好通商条約 ([[安政五ヵ国条約]] ) 批准書交換のため万延1 (1860) 年渡米。[[村垣範正]]を副使とし,アメリカ軍艦に搭乗して太平洋を横断し,ハワイに寄港のあと,5月サンフランシスコからワシントン D.C.におもむき任務を果した。帰途は大西洋経由で帰朝したが,当時幕府は攘夷運動対策に狂奔していたために重用されることなく,不遇のうちに元治1 (64) 年致仕した。歌集『亜行詠』がある。
  
'''新見 正興'''(しんみ まさおき)は、<!--[[江戸時代]]末期・--><!--重複-->[[幕末]]の<!--[[江戸幕府]]--><!--重複-->[[幕臣]]。[[外国奉行]]として[[日米修好通商条約]]の[[批准書]]を交換する正使の大役を帯びて渡米した。その当時の[[武家官位|名乗り]]から、'''新見 豊前守'''(しんみ ぶぜんのかみ)としても知られる。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
== 来歴 ==
 
西御丸小納戸役・[[三浦義韶]]の子として生まれたが、[[文政]]12年(1829年)に[[大坂町奉行]]・[[新見正路]]の養子となる。[[天保]]10年(1839年)より小姓、次いで中奥小姓となる。[[嘉永]]元年(1848年)10月に新見家の家督を継ぐ。[[安政]]元年(1854年)8月に小普請組支配、安政3年(1856年)3月には小姓組番頭となり、安政6年(1859年)7月に外国奉行に任じられ、8月より[[神奈川奉行]]を兼帯する。
 
 
 
=== 万延元年遣米使節 ===
 
[[万延]]元年<!--(3月18日に安政より改元)--><!--脱線トリビア-->(1860年)、新見は[[日米修好通商条約]]の[[批准書]]を交換する重責を担った[[万延元年遣米使節]]の正使として、副使・[[村垣範正|村垣淡路守(範正)]]、監察・[[小栗忠順|小栗豊後守(忠順)]]らとともに渡米した。
 
 
 
1月22日に横浜で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]軍艦「[[ポーハタン (フリゲート)|ポーハタン]]」に乗り込み、[[ハワイ王国]]のホノルルを経由して太平洋を横断、[[サンフランシスコ]]にいったん寄港の後、一路[[パナマ]]へと向かい、[[パナマ地峡鉄道]]で大西洋へ抜け、そこから今度はアメリカ軍艦「{{仮リンク|ロアノーク (モニター艦)|label=ロアノーク|en|USS Roanoke (1855)}}」に乗って北上、首都[[ワシントンD.C.]]に到着したのは万延元年閏3月25日(1860年5月15日)のことだった<ref>[[最初の大陸横断鉄道]]が開通するのはこの9年後の1869年のこと、パナマ運河が開通するのはさらに後の1914年のことである。</ref>。
 
 
 
ワシントンでは[[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の[[ジェームズ・ブキャナン]]に謁見し、4月3日(5月23日)に[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]の[[ルイス・カス]]と批准書を交換。一行はその後[[フィラデルフィア]]や[[ニューヨーク]]でも熱烈な歓迎を受けた。5月12日(6月30日)にニューヨークでアメリカ軍艦「[[ナイアガラ (砲艦)|ナイアガラ]]」に乗船し、西回りで大西洋からインド洋に入り、9月27日(11月9日)に横浜に帰着した。新見はこの功績により300石加増され、10月には外国奉行専任となった。<!--しかし、当時の攘夷の世相からその見聞を生かすことができなかった。--><!--???-->
 
 
 
=== 帰国後 ===
 
[[文久]]2年(1862年)6月、[[側衆]]となり、伊勢守に叙されるが、[[元治]]元年(1864年)9月に免職となる。[[慶応]]2年(1866年)12月に隠居し、閑水と号する。明治元年(1868年)、[[武蔵国]]下奥富村(現[[埼玉県]][[狭山市]]下奥富)へ帰農したが、しかし翌明治2年(1869年)4月病気療養のため再び東京へ行き、そこで10月に病没した。享年48。新見家は明治維新後の混乱の中で没落した。
 
 
 
==  正興死後の娘たち ==
 
正妻との間に娘が3人いたが、長女は北海道へ嫁ぎ、次女・ゑつと三女・りょうは奥津家の養女となり、そこから柳橋に芸者として売られた。姉妹は並んで歩くと日頃から美形に見慣れた柳橋界隈の人々も振り返るほどの艶姿であったという。二人とも芸で身を立て、姉のゑつは特に柳橋一の芸達といわれるほどだった。
 
 
 
りょうは16歳の時、[[伊藤博文]]と[[柳原前光]]が落籍を競い、妾として前光に囲われる事になる。柳原本邸近くの家を与えられ、18歳で女児を出産したが、これが後の[[柳原白蓮]]である。女児は前光の正妻・初子に引き取られた。産後病がちになり、明治21年10月7日、21歳で死去。りょうの元で養われていた母は、姉のゑつの元へ引き取られた。
 
 
 
ゑつは吉原の顔役であった飯島三之助に病身の母ごと落籍され、一人息子の房次郎をもうける。房次郎が芸事を嫌ったことから、吉原の芸妓から見込みのある娘・とめを養女として迎え、奥津姓と芸を継がせた。房次郎の妻の思い出によれば、ゑつは武家のように礼儀に厳しい姑だったという。昭和19年、80歳で死去。
 
 
 
柳原家とは身分違いであることから、飯島家から憚って親戚付き合いはなかったが、白蓮は宮崎家の人になってから生母の墓を探し当て、従兄弟の房次郎とも交流している。
 
 
 
== 人物・逸話 ==
 
* 領地は現在の[[横浜市]][[戸塚区]]品濃町と千葉上総にあった。
 
* つぶらな瞳の美男子だったので「[[陰間]]侍」ともあだ名されていた。
 
* 第6代[[駐日アメリカ合衆国大使]]の[[ローランド・モリス]]が1920年(大正9年)に帰国する際、新見の墓に詣て松を植樹している。この松は枯れてしまったが、石碑が現在でも残っている。
 
 
 
== 補注 ==
 
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2019/4/28/ (日) 18:53時点における最新版

新見 正興(しんみ まさおき)

江戸時代末期の幕臣,外国奉行,遣米使節正使。豊前守。日米修好通商条約 (安政五ヵ国条約 ) 批准書交換のため万延1 (1860) 年渡米。村垣範正を副使とし,アメリカ軍艦に搭乗して太平洋を横断し,ハワイに寄港のあと,5月サンフランシスコからワシントン D.C.におもむき任務を果した。帰途は大西洋経由で帰朝したが,当時幕府は攘夷運動対策に狂奔していたために重用されることなく,不遇のうちに元治1 (64) 年致仕した。歌集『亜行詠』がある。



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