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'''明治維新'''(めいじいしん、{{lang-en-short|Meiji Restoration, Meiji Revolution}}{{refnest|name="Calvin1995"|[http://www.calvinwlew.com/issuepapers/meijirevolution.htm Calvin W. Lew “The Meiji Restoration”]}}
  
[[ファイル:MeijiJoukyou.jpg|thumb|250px|[[明治天皇]]の東京行幸<br />[[フランス]]の{{仮リンク|新聞雑誌|en|News magazine}}『{{仮リンク|ル・モンド・イリュストレ|fr|Le Monde illustré}}』1869年2月20日刊行号内の[[挿絵]]。]]
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日本史における政治的革命。徳川将軍家が没落し,国の支配権は明治帝のもと天皇親政に戻り,明治時代として知られる政治的,経済的,社会的大変革の時代が始まった。この革命は日本に[[近代化]]と西洋化をもたらした。江戸幕府に歴史的敵意をもつ諸藩の若い武士を主体とする維新の指導者は,深刻化する国内問題と外国による侵略の脅威をバネにして活動した。「[[富国強兵]]」というスローガンを採用することで,彼らは西洋列強と肩を並べられる国民国家をつくろうとした。慶応4 (1868) 年の[[五箇条の御誓文]]に述べられているように,東京に移転した新政府の第一目標は幕藩体制の解体であった。これは明治4 (1871) 年,各藩が公式に廃止され,県制度に置き換わったことでおおむね達成された。すべての領主的特権も廃止された。同じ年に国軍が創設され,1873年の徴兵令によって一層の強化がはかられた。新政府はまた,金融と税制の一本化をはかる諸政策を実施し,1873年の[[地租改正]]により,主要収入源が確保された。
  
'''明治維新'''(めいじいしん、{{lang-en-short|Meiji Restoration, Meiji Revolution}}{{refnest|name="Calvin1995"|[http://www.calvinwlew.com/issuepapers/meijirevolution.htm Calvin W. Lew “The Meiji Restoration”]}})とは、[[明治]]時代初期の[[日本]]が行った大々的な一連の[[維新]]をいう。[[江戸幕府]]に対する[[倒幕運動]]から[[明治政府]]による[[天皇親政]]体制への転換と、それに伴う一連の[[改革]]を指す。その範囲は、中央[[官制]]・[[法制]]・[[宮廷]]・[[身分制]]・[[地方行政]]・[[金融]]・[[流通]]・[[産業]]・[[経済]]・[[文化]]・[[教育]]・[[外交]]・[[宗教]]・[[思想]]政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。{{要出典|date= 2017年1月15日 (日) 13:31 (UTC)}}
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維新指導者が天皇の名のもとに進めた革命的な変化は,1870年代半ばに反対論の高まりに直面した。新政府を相手にした各地の反乱には不平士族が参加しており,その最大のものはかつての維新の英雄,西郷隆盛が率いた反乱 ([[西南戦争]] ) であった。これらの武装蜂起は大きな困難を伴いつつも,新たに創設された軍隊の手で鎮圧された。新政権に不信をいだき,その農業政策に不満をもつ貧農たちも反乱に参加,こうした運動は 1880年代に頂点を迎える。同じ時期,自由な西洋思想の導入によって勢いづいた[[自由民権運動]]は,立憲政府の創設と国会を通じたより広範な政治参加を要求した。こうした圧力に対応して,1881年,政府は 1890年までに憲法を起草することを公約した。 1885年に内閣制度が整い,1886年には憲法起草作業が開始された。最終的に 1889年,天皇から国民に下しおかれる形で憲法が公式に発布された。これをもとに,二院制の議会が設けられ,参政権に制限はあったものの,選挙によって議員が選ばれた。翌 1890年,第1回帝国議会が開かれた。
  
== 改革までの経緯 ==
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明治時代には政治的変化と並行して,経済的,社会的変化も進行した。経済は依然として農業に依存していたが,工業化が政府の第一目標であり,政府は戦略的産業や交通,通信分野の発展を指導した。日本初の鉄道は明治5 (1872) 年に建設され,1890年までに線路の総延長は2250kmに達した。すべての主要都市が 1880年までに電信で結ばれた。民間企業も政府の財政支援によって奨励を受けるとともに,これを支援するため 1882年にはヨーロッパの銀行制度を模した金融機関も創設された。こうした近代化への努力には西洋の科学技術が必要であり,「[[文明開化]]」の旗印のもと,西洋文化は知的流行から衣服や建築にいたるまで,盛んにもてはやされた。しかし,無分別な西洋化は 1880年代にいくぶん抑制され,伝統的な日本的価値観を新たに称揚する動きが現れた。たとえば,近代的教育制度を発展させる場合,西洋の理論と実践の影響を受けながらも,武士の忠誠心や社会的調和といった伝統的価値観が強調された。同じ傾向は芸術や文化にもみられ,当初は西洋スタイルが模倣されたが,その後西洋的趣味と日本的趣味のより選択的な混交が実現された。
[[画像:Satsuma-samurai-during-boshin-war-period.jpg|200px|right|thumb|[[戊辰戦争]]中の[[薩摩藩]]の[[藩士]]([[着色写真]])。[[フェリーチェ・ベアト]]撮影]]
 
[[画像:BattleOfShimonoseki.jpg|thumb|200px|四国連合艦隊による下関砲撃([[下関戦争|馬関戦争]])]]
 
明治維新は、[[黒船来航]]に象徴される[[欧米]][[列強]]の経済的・軍事的進出に対する抵抗運動([[攘夷運動]])に起源を持つ。[[阿片戦争]]以後、[[東アジア]]で欧米による[[帝国主義]]の波が強まる中で、長年の[[国是]]であった[[鎖国体制]]を極力維持し、旧来の体制を維持しようとする思想が現れた。しかし[[江戸幕府]]は、[[朝廷]]の意に反する形で[[開国]]・通商路線を選択したため、攘夷運動は[[尊王論]]と結びつき、朝廷の権威のもと幕政改革と攘夷の実行を求める[[尊王攘夷]]運動として広く展開されることとなった。
 
  
一方、開国・通商路線を是認する諸藩の中にも、いわゆる[[雄藩]]を中心に、幕府による対外貿易の独占に反対し、あるいは欧米列強に対抗すべく旧来の幕藩体制の変革を訴える勢力が現れた。これらの勢力もまた朝廷を奉じてその要求を実現させようとしたため、[[幕末]]は京都を舞台に朝廷を巡る複雑な政争が展開されることとなった。尊王攘夷運動は、[[薩英戦争]]や[[下関戦争]]などにおいて欧米列強との軍事力の差が改めて認識されたことで、観念的な攘夷論を克服し、国内統一・体制改革([[近代化]])を優先して、外国との交易によって[[富国強兵]]を図り、欧米に対抗できる力をつけるべきだとする「大攘夷」論が台頭し、尊王攘夷運動の盟主的存在だった[[長州藩]]も開国論へと転向していくことになった。
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20世紀の初めまでに,明治維新のさまざまな目標はおおむね達成され,日本は近代工業国になる道を着実に歩んでいた。[[治外法権]]を通じて外国列強に司法面と経済面の特権を許していた不平等条約は 1894年に改定され,さらに 1902年の[[日英同盟]]締結と,二つの戦争の勝利 (1895年の[[日清戦争]]と 1905年の[[日露戦争]] ) により,日本は西側世界から敬意をもって見られるようになり,史上初めて国際舞台に主要な世界的勢力として台頭した。 1912年の[[明治天皇]]の崩御は,こうした時代の終わりを画するものであった。
 
 
幕府は、[[公武合体]]政策の下朝廷の攘夷要求と妥協しつつ旧体制の存続を志向したため、次第に雄藩らの離反を招いた。また、黒船来航以来の威信の凋落もあって国内の統合力を著しく低下させ、幕末は[[農民一揆]]が多発するようになった。このような情勢の中、諸侯連合政権を志向する[[土佐藩]]・[[越前藩]]らの主張([[公議政体論]])や、より寡頭的な政権を志向する薩摩藩の主張など、幕府を廃し、朝廷の下に権力を一元化する国内改革構想が現れてくることとなる。また、それは旧弊な朝廷の抜本的な改革を伴う必要があった。結果として、この両者の協力により[[王政復古]]が行われ、[[戊辰戦争]]による旧幕府勢力の排除を経て権力を確立した新政府は、薩摩・長州両藩出身の官僚層を中心に急進的な近代化政策を推進していくこととなった。
 
 
 
== 改革の時期 ==
 
[[画像:Meiji tenno1.jpg|thumb|200px|[[明治天皇]]御真影。[[エドアルド・キヨッソーネ|キヨッソーネ]]によって描かれた[[:en:Conte|コンテ]]画を[[丸木利陽]]が写真撮影したもの([[明治21年]]1月)]]
 
開始時期については諸説あるが、狭義では[[明治]][[改元]]に当たる明治元年[[9月8日 (旧暦)|旧9月8日]]([[1868年]][[10月23日]])となる。しかし、一般的にはその前年にあたる[[慶応]]3年([[1867年]])の[[大政奉還]]、[[王政復古]]以降の改革を指すことが多い(維新体制が整う以前の政治状況については'''[[幕末]]'''の項で扱うものとする)。終了時期についても、[[廃藩置県]]の断行(明治4年、[[1872年]])、[[西南戦争]]の終結(明治10年、[[1877年]])、[[内閣制度]]の発足(明治18年、[[1885年]])、立憲体制の確立(明治22年、[[1889年]])までとするなど諸説ある。
 
 
 
この期間の政府(一般的には慶応3年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年[[1月3日]])の王政復古以後に成立した政権<ref>『歴史学事典 12{{small|王と国家}}』(弘文堂、2005年 ISBN 4335210434)「維新政権」(松尾正人)より。</ref>)を特に'''明治政府'''(めいじせいふ)、'''新政府'''(しんせいふ)、'''維新政府'''(いしんせいふ)などと呼称することが多い。「[[藩閥]]政府」と揶揄されることもあるが、中級官僚以上でも旧[[親藩]]・旧[[幕臣]]などから採用された者も少なくなく、一概に一部雄藩のみが主導したともいえない。当時の人々からは主に大政奉還と廃藩置県を指して'''御一新'''と呼ばれていた。
 
 
 
== 改革の理念 ==
 
=== 五箇条の御誓文 ===
 
{{main|五箇条の御誓文}}
 
[[画像:Goseimon_by_takahito.jpg|thumb|left|[[有栖川宮幟仁親王|幟仁親王]]が揮毫した御誓文の原本]]
 
[[画像:Taisehokan.jpg|thumb|「大政奉還図」 [[邨田丹陵]] 筆]]
 
[[江戸幕府]]による大政奉還を受け、[[王政復古 (日本)|王政復古]]によって発足した明治新政府の方針は、[[天皇]][[親政]](旧来の幕府・摂関などの廃止)を基本とし、諸外国(主に欧米列強国を指す)に追いつくための改革を模索することであった。その方針は、翌慶応4年([[1868年]])3月14日に公布された[[五箇条の御誓文]]で具体的に明文化されることになる。合議体制、官民一体での国家形成、旧習の打破、世界列国と伍する実力の涵養などである。なお、この『'''五箇条の御誓文'''』の起草者・監修者は「'''旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ'''」を全く新たに入れた[[総裁]]局顧問・[[木戸孝允]]([[長州藩]])であるが、その前段階の『'''会盟'''』五箇条の起草者は参与・[[福岡孝弟]]([[土佐藩]])であり、更にその前段階の『'''議事之体大意'''』五箇条の起草者は参与・[[由利公正]]([[越前藩]])である。
 
 
 
その当時はまだ[[戊辰戦争]]のさなかであり、新政府は日本統一後の国是を内外に呈示する必要があった。そのため、御誓文が、諸大名や、諸外国を意識して[[明治天皇]]が百官を率いて、皇祖神に誓いを立てるという形式で出されたのである。さらに国民に対しては、同日に天皇の御名で「[[億兆安撫国威宣揚の御宸翰]]」が告示され、天皇自身が今後善政をしき、大いに国威を輝かすので、国民も旧来の陋習から捨てるように説かれている。
 
 
 
これらの内容は、新政府の内政や外交に反映されて具体化されていくとともに、思想的には[[自由民権運動]]の理想とされていく。
 
 
 
また、この目的を達するための具体的なスローガンとして「[[富国強兵]]」「[[殖産興業]]」が頻用された。
 
 
 
=== 五榜の掲示 ===
 
五箇条の御誓文を公布した翌日、幕府の[[高札]]が撤去され、辻々には暫定的に江戸幕府の統治政策を踏襲する「[[五榜の掲示]]」が立てられた。儒教道徳の遵守、徒党や強訴の禁止、キリスト教の禁止、国外逃亡の禁止などを引き継いだ内容が掲示された。これら条項は、その後の政策のなかで撤廃されたり、自然消滅して効力を失うに至る。
 
 
 
== 改革の組織 ==
 
=== 中央政府 ===
 
==== 首都の位置 ====
 
[[首都]]については、当初京都では旧弊(京都の歴史上のしがらみ)が多いとして、[[大阪市|大阪]]遷都論が[[大久保利通]]を中心として唱えられた。しかし、大阪遷都論には反対が多く、江戸城明け渡しもあり、江戸を東京とすることで落ちついた(→[[東京奠都]]の項目を参照)。遷都についての正式な布告があったわけではなく、[[明治天皇]]の2度の[[東京行幸]]により太政官も東京に移され、東京が事実上の首都と見なされるようになった。
 
 
 
==== 行政 ====
 
形式的には、明治維新は[[律令制]]の復活劇でもあった。幕藩体制の崩壊に伴い、[[中央集権]]国家の確立を急ぐ必要があった新政府は、律令制を範とした名称を復活させた<ref group="*">例:[[太政官]]、[[大蔵省]]など。ただし、当然のことながら実態は律令制のそれとはかなり異なる。</ref>。
 
 
 
[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]において、[[幕府]]や[[摂政]]・[[関白]]の廃止と天皇親政が定められ、天皇の下に'''総裁'''・'''議定'''・'''参与'''の三職からなる官制が施行された。[[総裁]]には有栖川宮親王、[[議定]]には[[皇族]]・[[公卿]]と薩摩・長州・土佐・越前などの[[藩主]]が、[[参与]]には[[公家]]と議定についた藩主の家臣が就任した。しかし、[[明治天皇]]はまだ年少であるため<ref group="*">当年16歳。天皇親政は建前であった。</ref>、それを補佐する体制がすぐに必要となった。
 
 
 
そこで、慶応4年[[4月21日 (旧暦)|閏4月21日]]、[[日本の官制|政体書]]の[[公布]]により、太政官を中心に[[三権分立制]]をとる[[太政官制]]([[七官制]]、[[政体書]]体制)が採られ<ref group="*">政体書で三権分立など民主的な政治制度が採られたのは、[[ホイットニー]]の『[[万国公法]]』や[[ブリジメン]]の『連邦史略』などアメリカ人の著書が参考にされ、[[アメリカ合衆国憲法]]の影響を強く受けているため。</ref>、さらに翌年(明治2年)7月には、[[版籍奉還]]により律令制の二官八省を模した[[二官六省制]]が発足した。なお、明治2年の主な組織(一部のみ)と役職者は次の通りである<ref>板垣退助 監修『自由党史(上)』遠山茂樹、佐藤誠朗 校訂、岩波書店(岩波文庫)1992年、48頁
 
</ref>。
 
# [[輔相]]([[三条実美]])
 
# [[議定]]([[岩倉具視]]、[[徳大寺実則]]、[[鍋島直正]])
 
# [[参与]]([[東久世通禧]]、[[木戸孝允]]、[[大久保利通]]、[[後藤象二郎]]、[[副島種臣]]、[[板垣退助]])
 
そして、明治4年7月の[[廃藩置県]]の後には[[正院]]・[[左院]]・[[右院]]による[[三院制]]が採られた。
 
 
 
具体的な行政機構としては、[[太政官]]と[[神祇官]]を置き、太政官の下に各省を置く律令制が模写されたものの、その後も[[民部省]]から[[工部省]]が分離したり、[[刑部省]]から[[司法省]]への改組など幾多の改変を必要とし、安定しなかった。また立法府である左院(のち元老院)・右院や地方官会議なども設置・廃止が繰り返された。明治中央官制の改革は明治18年([[1885年]])の[[内閣制度]]発足をもってようやく安定する。
 
 
 
==== 立法 ====
 
[[画像:Kenpohapu-chikanobu.jpg|300px|thumb|憲法発布略図 明治22年 橋本(楊洲)周延画]]
 
また、立法府に関しては[[木戸孝允]]らが明治初年から[[議会]]開設を唱えていたが、議会制度を発足させるためには、官制改革・民度・国民教育などが未成熟であり、時期尚早であったため、[[大久保利通]]を中心に「'''[[有司専制]]'''」と呼ばれる薩長[[藩閥]]による官僚を中心とした改革体制が維持された。しかし、[[自由民権運動]]の高まりや、諸制度の整備による改革の成熟などもあり、明治14年([[1881年]])に「国会開設の詔」が出され、同時に議会制度の前提として[[伊藤博文]]らによる[[憲法]]制定の動きが本格化し、憲法審議のため[[枢密院 (日本)|枢密院]]が設置された。明治22年([[1889年]])に[[大日本帝国憲法]]が[[公布]]、翌年[[帝国議会]]が発足し、アジアでは初の本格的な[[立憲君主制]]・議会制国家が完成した<ref group="*">正確には[[オスマン帝国]]の[[タンジマート]]改革における[[1876年]][[ミドハト憲法]]公布がアジア初の立憲制ではあるが、同国は直後に君主専制に回帰している。</ref>。
 
 
 
==== 司法 ====
 
* [[1868年]] - [[政体書]]に基づき、[[太政官]]の下に[[刑法官]]が置かれた。
 
* [[1869年]] - [[太政官制]]が発足し、同年、[[刑部省]]が設置された。
 
* [[1871年]] - 刑部省と[[弾正台]]が合併し、[[司法省]]となり、[[法治国家]]の基礎が整備された。
 
* [[1875年]] - 司法省裁判所に代わる[[大審院]]が新たに設置され、司法行政を行う司法省と司法権を行使する大審院が区分された。
 
 
 
=== 宮中 ===
 
[[廃藩置県]]と太政官制の改革を経て中央集権体制が整ったことで、ようやく旧幕府時代の制度を改革する準備が整った。ほぼ同時に宮中の改革も行われ、旧来の宮中職や女官は廃され、[[士族]]を中心とした[[侍従]]らが[[明治天皇]]を武断的な改革君主にふさわしい天皇に養育することとなった。幕末期には病弱であった明治天皇も、士族による養育のためか健康も回復し、西洋的立憲君主としての心得も学び、「明治国家」の元首としてふさわしい存在になっていく。特に憲法制定過程における枢密院審議においては、そのすべてに臨御し、また国会開設前後の立憲政治未成熟期に首相が頻繁に辞任・交代した際も、政局の調停者として重要な役割を担った。
 
 
 
=== 地方行政 ===
 
[[画像:King Sho Tai.jpg|thumb|200px|[[琉球王国]]最後の国王・[[尚泰王]]]]
 
明治新政府は、幕府から受け継いだ[[天領]]と「朝敵」となった諸藩からの没収地に行政官を派遣して直轄地とした。つまり、地方行政としては、徳川家を[[駿府藩]]に移封し、[[京都府|京都]]・[[長崎県|長崎]]・[[函館市|函館]]を政府直轄の「府」とした以外は、原則として以前の藩体制が維持されていた。しかし、富国強兵を目的とする近代国家建設を推進するためには、中央集権化による政府の地方支配強化は是非とも必要なことであった。
 
 
 
まず、[[明治元年]]に[[姫路藩]]主[[酒井忠邦]]が[[版籍奉還]]の[[建白書]]を提出。続いて明治2年1月20日に薩摩・長州・土佐・肥前の藩主らが、版籍奉還の上表文を新政府に提出した。これに各藩の藩主たちが続き、6月に返上申請が一段落迎えると、全藩に版籍奉還を命じた。この'''版籍奉還'''により旧藩主たちが自発的に版(土地)・籍(人民)を天皇に返上し、改めて[[知藩事]]に任命されることで、藩地と領主の分離が図られ、重要地や旧幕府直轄地に置かれた府・県とともに「府藩県体制」となる。
 
 
 
しかし、中央集権化を進め、改革を全国的に網羅する必要があることから、藩の存在は邪魔となり、また藩側でも財政の逼迫が続いたことから自発的に廃藩を申し出る藩が相次いだ。明治4年[[7月14日 (旧暦)|旧7月14日]](1871年[[8月29日]])に、薩摩・長州藩出身の指導者である大久保利通と[[木戸孝允]]らにより'''[[廃藩置県]]'''が実施され、[[都道府県|府県]]制度となり(当初は3府302県、直後に整理され3府72県)、中央政府から[[都道府県知事|知事]]を派遣する制度が実施された。このとき、知藩事たちは東京への居住を義務付けられた。なお、令制国の地名を用いなかったために、都市名が府県名となった所も少なくない。
 
 
 
[[薩摩藩]]の[[島津久光]]が不満を述べた以外は目立った反撥はなく(すでに中央軍制が整い、個別の藩が対抗しにくくなっていたこと、藩財政が危機的状況に陥り、知藩事の手に負えなくなったこと、旧藩主が[[華族]]として身分・財産が保証されること、などが理由とされる)、国家の支配体制がこのように電撃的、かつ画期的に改変されたのは明治維新における奇蹟ともいえる。
 
 
 
なお、旧幕府時代、名目上は独立国でありながら実質上薩摩藩の支配下にあった[[琉球王国]]に関しては、廃藩置県の際に「琉球藩」が設置されて日本国家内に取り込まれることとなり、明治12年([[1879年]])に[[沖縄県]]として正式に県に編入された(この間の経緯は一般に'''[[沖縄県の歴史#琉球処分|琉球処分]]'''と称される。旧琉球国王の[[尚氏]]も旧藩主と同様、[[華族]]となった)。(→ [[沖縄県の歴史]])
 
 
 
== 改革の内容 ==
 
=== 岩倉使節団の影響 ===
 
[[画像:Iwakura mission.jpg|thumb|200px|左から[[木戸孝允]]、[[山口尚芳]]、[[岩倉具視]]、[[伊藤博文]]、[[大久保利通]]]]
 
[[1871年]][[12月23日]]から[[1873年]][[9月13日]]にかけて<ref>「岩倉使節団という冒険」p220 泉三郎 文藝春秋 平成16年7月20日第1刷</ref>維新[[政府]]は不平等条約改正ならびに西洋の諸制度を研究するため[[岩倉具視]]を正使、[[大久保利通]]・[[木戸孝允]]・[[伊藤博文]]らを副使とする[[岩倉使節団]]を欧米へ派遣した。使節団は[[条約]]改正には失敗するものの、西洋の諸制度の研究・吸収には成功し、この後の[[維新]]の動きに大きな影響を与えた。一方、日本国内においては「[[留守政府]]」と呼ばれた日本残留組の[[西郷隆盛]]・[[井上馨]]・[[大隈重信]]・[[板垣退助]]・[[江藤新平]]・[[大木喬任]]らの手によって、次々と改革は進んでいった。このような改革には積極的に西洋文明の先進制度が取り入れられ、その過程で、「[[お雇い外国人]]」と呼ばれる外国人が、技術指導、教育分野、官制・軍制整備など様々な分野で雇用され、[[近代国家]]建設を助けた。
 
 
 
=== 改革された諸制度 ===
 
留守政府が行った主な改革としては、[[学制|学制改革]]、[[地租改正]]、[[徴兵令]]、[[太陽暦]]<!--日本におけるグレゴリオ暦の採用は1898年5月であり、留守政府の時期(1871年12月から1873年9月まで)ではないため、「太陽暦」とする。-->の採用、司法制度の整備、[[散髪脱刀令|断髪令]]などがある。ただし、これらの改革は急激に行われたため矛盾も少なくなく、士族や農民の不満を招いたため、後の[[征韓論]]につながったともいわれる。欧米使節から帰国した岩倉や大久保が[[明治六年政変]]によって征韓論を退け、さらに大久保の下に[[内務省 (日本)|内務省]]が設立されたことで諸改革の整理が行われることになる。ただし留守政府の行った改革のほとんどは政変後も存続し、明治維新の根幹の政策となっていった。
 
 
 
==== 軍隊 ====
 
[[画像:Japanese Navy Ministry Building.JPG|thumb|right|1930年代の海軍省]]
 
徴兵令を導入し、近代的な[[常備軍]]を最初に作ろうとしたのは[[大村益次郎]]であったが、彼が暗殺されてしまったため、[[山縣有朋]]に引き継がれた。明治3年、徴兵規則が作られ、翌年の明治4年に廃藩により[[兵部省]]が全国の軍事力を握ることとなり、明治5年には徴兵令が施行され、[[陸軍省]]と[[海軍省]]が設置される。こうして近代的な常備軍が創設された。
 
 
 
==== 身分制度 ====
 
[[画像:Seinansenso snou.jpg|200px|thumb|最大の[[士族反乱]]・[[西南戦争]]を描いた『鹿児島暴徒出陣図』 [[月岡芳年]]画]]
 
江戸幕府下の[[武士]]・[[百姓]]・[[町人]](いわゆる[[士農工商]])の別を廃止し、「四民平等」を謳った。しかし、明治4年に制定された[[戸籍法]]に基づき翌年に編纂された[[壬申戸籍]]では、旧武士階級を[[士族]]、それ以外を[[平民]]とし、旧[[公家]]・[[大名]]や一部僧侶などを新たに[[華族]]として特権的階級とすると同時に、[[宮内省]]の支配の下に置くことになった。
 
 
 
華族と士族には政府から[[家禄]]が与えられ、明治9年の[[秩禄処分]]まで支給された。同年、[[廃刀令]]が出され、これにより士族の特権はなくなり、のちの不平士族の反乱([[佐賀の乱]]、[[萩の乱]]、[[秋月の乱]]、[[神風連の乱]])につながる。しかしこれらの反乱はいずれもほどなくして鎮圧され、1877年に維新の元勲の一人である西郷隆盛が率いた最大の[[士族反乱]]であった[[西南戦争]]が鎮圧されると、士族による反乱は後を絶った。
 
 
 
==== 経済産業 ====
 
[[画像:Yokohama kaigan tetsudo jokisha no zu.jpg|thumb|right|浮世絵に描かれた横浜の鉄道と船]]
 
維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの[[年貢]]は収量を基本とする[[物納]]が基本であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には[[田畑永代売買禁止令]]が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に[[地租改正条例]]が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に[[地券]]が発行されることとなって、所有する土地に対し[[地租]]が課せられることとなった。これにより、土地の[[所有権]]が初めて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有[[財産権]]が完全に確立することで[[資本主義]]の発展の基礎条件が成立した。
 
 
 
[[富国強兵]]・[[殖産興業]]のスローガンの下、[[工部省]](のちに内務省)が中心となり、政府主導の産業育成が始まる。[[富岡製糸場]]をはじめとする[[官営模範工場]]が作られるなど、西洋式工業技術が導入された。しかし西南戦争後の財政難のため、[[1880年]]には「官営工場払下概則」が制定され、[[造幣局]]や通信、軍事関係を除く官営工場や鉱山が民間に払い下げられていった。これによって民間の工業は大きく発展することとなり、1890年ごろから[[産業革命]]が進行し、[[工業化]]が進展していくこととなった。
 
 
 
金融制度でも旧幕府時代の[[貨幣制度]]を改めて、[[通貨単位]]として「[[円 (通貨)|円]]」を導入(明治4年(1871年)。[[新貨条例]]を参照)、また[[国立銀行条例]]による[[国立銀行 (日本)|国立銀行]](ナショナルバンク)を経て、通貨発行権を独占する[[中央銀行]]としての[[日本銀行]]設立(明治15年、[[1882年]])など、資本主義的金融制度の整備も行われた。
 
 
 
流通分野では、[[1871年]]には[[前島密]]によって[[郵便]]制度が創設され、1872年には[[新橋駅]]から[[横浜駅]]間において[[日本の鉄道開業|日本初の鉄道が開通]]し、電信網の整備や船舶運輸(民間の[[三菱財閥|郵便汽船三菱会社]]と国策会社の[[共同運輸会社]]の競合を経て[[日本郵船]]会社)などの整備も行われた。これらの資本活動には、職を失った代わりに秩禄を得た[[華族]]の資産による投資活動も背景にあった。
 
 
 
==== 思想 ====
 
[[幕末]]から活発になっていた[[佐久間象山]]などの「[[倫理]]を中核とする[[実学]]」から「[[物理]]を中核とする実学」への転回が行われ<ref>[[源了円]] 『近世初期実学思想の研究』 [[創文社]] [[1980年]] [page,634]</ref>、[[横井小楠]]の実学から[[物理]]を中核とする[[福澤諭吉]]の[[文明]]論への転回といった思想史の転換が行われた。これに民間の知識人やジャーナリズムが連動し、[[文明開化]]の動きが加速する。
 
 
 
明治新政府は国民生活と思想の近代化も進め、具体的には、福澤諭吉・[[森有礼]]・[[西周 (啓蒙家)|西周]]・[[西村茂樹]]・[[加藤弘之]]らによる[[明六社]]の結成と『[[明六雑誌]]』、福沢諭吉の『[[学問のすすめ]]』や[[中村正直]]の『[[西国立志編]]』『[[自由之理]]』が刊行され、啓蒙活動が活発になった。また[[土佐藩]]の自由民権運動の動きと連動して[[中江兆民]]や[[植木枝盛]]、[[馬場辰猪]]といった革新的な勢力と、[[佐々木高行]]、[[元田永孚]]、[[井上毅]]、[[品川弥二郎]]といった官吏の保守的な勢力との対立が鮮明になってきた。
 
 
 
教育機関の整備では始めは[[大学寮]]をモデルにした「学舎制」案を[[玉松操]]・[[平田鐵胤]]・[[矢野玄道]]・[[渡辺重石丸]]らの神道学者に命じて起草させたが、大久保利通や木戸孝允の意向の下、明治中期からは方針を変えて近代的な教育機関の整備が行われるようになり、幕末以来の[[蘭学塾]]や[[漢学塾]]、それに幕府自身が造った洋学教育機関である[[開成所]]や[[蕃書調所]]が直接の誘因となって、明治期の高等教育が出発した。
 
 
 
維新まで[[松前藩]]による支配下にあり開発の進んでいなかった北海道の開発にも明治政府は着手し、1869年にはそれまでの[[蝦夷地]]から北海道と改名し、同年[[開拓使]]が置かれて、積極的な開発が進められた。北海道の[[札幌農学校]]や、[[三田育種所]]など、各種の学校や研究所が相次いで設置された。このように、ありとあらゆるインフラが整備されていった。
 
 
 
==== 宗教 ====
 
[[画像:Lelelenokeee.JPG|right|200px|thumb|[[廃仏毀釈]]により破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。]]
 
宗教的には、[[祭政一致]]の古代に復す改革であったから、[[慶応]]3年([[1867年]])旧暦[[1月17日 (旧暦)|正月17日]]に制定された職制には[[神祇]]を七科の筆頭に置き、[[3月 (旧暦)]]には[[神仏習合]]を廃する[[神仏分離|神仏分離令]]が布かれた。そして当時の復古的機運や特権的階級であった寺院から搾取を受けていると感じていた民衆によって、[[日本の仏教|仏教]]も外来の宗教として激しく排斥する[[廃仏毀釈]]へと向かった。
 
 
 
また、[[キリスト教]](耶蘇教)は、新政府によって引き続き厳禁された。キリスト教の指導者の総数140人は、[[萩市|萩]](66人)、[[津和野町|津和野]](28人)、[[福山市|福山]](20人)に分けて強制的に移住させた。
 
 
 
慶応4年4月21日、勅命により[[湊川神社]]に[[楠木正成]]を祭ったのをはじめとして、それまでは賊軍とされ、顧みられることが少なかった[[新田義貞]]、[[菊池武時]]、[[名和長年]]、[[北畠親房]]、[[北畠顕家]]ら南朝の忠臣を次々と祭っていった。
 
 
 
明治2年([[1869年]])[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]には、キリスト教信者約3,000人を、[[加賀藩|金沢]]以下10藩に分散移住させた。しかし、明治4年([[1871年]])旧11月、[[岩倉具視]]特命全権大使一行が欧米各国を歴訪した折、耶蘇教禁止令、殊に[[浦上四番崩れ]]を初めとする弾圧が、当時の[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ユリシーズ・S・グラント]]、イギリス女王[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]、[[デンマーク]]王[[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]ら欧州各国から激しい非難を浴び、条約改正の交渉上障碍になるとの報告により、明治5年([[1872年]])に大蔵大輔の職にあった[[井上馨]]は、[[長崎府]]庁在任時に関わったことから、明治5年正月に教徒赦免の建議をした。
 
 
 
しかし、神道国教化政策との絡みや、キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じないとする懐疑的な姿勢から来る、政府内の保守派の反対のみばかりでなく、主にキリシタン弾圧を利用して、神道との関係を改善させる思惑があった仏教を初めとした宗教界や一般民衆からも「[[邪宗門]]」解禁に反対する声が強く紛糾したものの、明治6年([[1873年]])[[2月24日]]禁制の[[高札]]を除去し、その旨を各国に通告した。各藩に移住させられた教徒は帰村させ、ようやく終結した。
 
 
 
==== 法律 ====
 
[[法の支配]]実現のため、初代[[法務大臣]][[江藤新平]]が推進した司法制度整備により、いち早く、1872年に[[証書人]]、[[代書人]]、[[代言人]]が創設された。明治初期の日本は、[[不平等条約]]撤廃という外交上の目的もあり、[[民法]]、[[刑法]]、[[商法]]などの基本法典を整備し、近代国家としての体裁を整えることが急務であったことから、法学研究目的での海外留学を積極的に推し進めたほか、いわゆる[[お雇い外国人]]としてフランスの法学者[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード]]を起用するなどし、[[フランス法]]および[[ドイツ法]]を基礎に、日本特有の慣習や国情にも配慮しつつ、法典の整備を進めた。[[刑法 (日本)|刑法]]は1880年(明治13年)に制定、2年後に施行され、[[民法 (日本)|民法]]は1896年(明治29年)に制定、1898年(明治31年)に施行された。日本は、[[アジア]]で初めて近代法の整備に成功した国となり、[[不平等条約]]の撤廃も実現したが、近年グローバル化の進展の中で、[[アジア]]各国が日本に[[法整備支援]]を求めていることには、このような歴史的背景があるともいわれている<ref>三ヵ月章『司法評論III』有斐閣 (2005)、11-22頁</ref>。
 
 
 
==== 文化 ====
 
[[画像:Chōya Journal 1879.jpg|thumb|150px|right|[[1879年]][[6月7日]]の紙面([[朝野新聞]])]]
 
新時代「'''明治'''」の雰囲気が醸成されていき、[[人力車]]や馬車の普及、[[鉄道]]の開通、[[シルクハット]]・[[燕尾服]]・[[革靴]]・[[こうもり傘]]などの[[洋装]]や[[散切物|ザンギリ頭]]、[[パン]]・[[牛乳]]・[[牛鍋]]・[[ビール]]など[[洋食]]の流行、[[ガス灯]]の設置や煉瓦造りの西洋建築などである。
 
 
 
開国後に大量に入ってきた海外のモノ、概念を取り入れるために様々な[[和製漢語]]が作られていくことになる。
 
 
 
[[自由民権運動]]が次第に活発となり、[[徳富蘇峰]]が[[平民主義]]と欧化主義を唱え、[[民友社]]の設立し、『[[国民之友]]』を創刊し、それに対して[[三宅雪嶺]]は国粋保存主義を唱えて[[政教社]]を設立し『[[日本人 (雑誌)|日本人]]』を発刊、[[志賀重昂]]らが参加した。[[陸羯南]]は[[日刊新聞]]『[[日本 (新聞)|日本]]』で[[国民主義]]を唱え、近代俳句の祖である[[正岡子規]]らが記者を務めた。
 
 
 
この『日本』のような新聞が、徐々に様々な人々によって発刊されていくことになる。民間新聞の始めは幕末に創刊された[[浜田彦蔵]]の『[[海外新聞]]』であり、[[沼間守一]]の『[[横浜毎日新聞]]』、[[福地源一郎]]の『[[東京日日新聞]]』、[[栗本鋤雲]]の『[[郵便報知新聞]]』、[[末広重恭]]の『[[朝野新聞]]』などが続く。
 
 
 
==== 教育 ====
 
[[画像:First female study-abroad students.jpg|thumb|200px|岩倉使節団の米国留学女学生。左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字はかぞえ歳]]
 
それまでは各藩ごとに独自の教育制度があったが、地域差が大きく、与えられる教育も異なっていた。それまでの教育では身分等で分けられており、学校教育の偏りが一部存在していた。明治になり、政府は日本を強国にするためには、西洋のような一般国民にまで広く門戸を開いた、全国一律の教育制度が必要との認識に立ち、[[義務教育]]が開始された。
 
 
 
[[1872年]]([[明治]]5年)に学制が公布され、[[1886年]](明治19年)には[[小学校令]]や[[帝国大学令]]が発布された結果、全国に[[尋常小学校]]や[[高等小学校]]、大学が設立され、徐々に一般民衆も高度な教育を受けられる環境が整った。
 
 
 
また、明治になると[[女子教育]]の必要性も叫ばれるようになった。特に海外渡航の経験があって、欧米の女子教育を目の当たりにした[[渋沢栄一]]や[[伊藤博文]]たちは、その必要性を痛感しており、彼らによって[[女子教育奨励会]]が設立された。同じく女子教育に理解のあった[[黒田清隆]]は、欧米に10年単位の長期間、留学生を海外に派遣する[[岩倉使節団]]に、女子留学生も加えさせた。この時の留学生、[[瓜生繁子|永井しげ]]、[[津田梅子|津田うめ]](後に津田塾大学の関係者となる)、[[大山捨松]]は、日本の女子教育に大きな功績を残すこととなる。
 
 
 
[[1874年]](明治7年)に[[女子師範学校]]が設立された。女子への教育は、老若男女を問わず、学問に対する批評が根強かったため、男子への教育に比べるとその歩みは遅々としていた。しかし、徐々に[[女性]]への教育の必要性は広く浸透していき、女子も義務教育、高等教育を受けられるようになっていった。
 
 
 
==== 外交政策 ====
 
[[画像:Munemitsu Mutsu 2.jpg|200px|thumb|第 8代[[外務大臣 (日本)|外務大臣]][[陸奥宗光]]]]
 
[[画像:GanghwaTreaty.jpg|200px|thumb|日朝修好条規締結の情景]]
 
新政府にとって、最大の目標は欧米列強に追いつくことであり、そのためにも旧幕府時代に締結された'''不平等条約'''の改正が急務とされた。上記の岩倉使節団は西欧諸制度の調査も目的であったが、条約改正のための下準備という面もあり、実際交渉も準備されたが、日本を近代国家と見なしていない欧米諸国からは相手にされず、まだ時期尚早であった。そのため、[[欧化政策]]など日本が西洋と対等たらんとする様々な政策が行われたが、条約改正自体は半世紀に及ぶ不断の努力を必要とした(→[[条約改正]])。
 
 
 
一方、不平等条約の失敗を鑑とした政府は、アジア諸国に対しては、平等以上の立場を確保することを旨とした。[[清]]との間には明治4年(1871年)対等条約である[[日清修好条規]]が締結される。明治7年([[1874年]])には台湾における[[宮古島島民遭難事件|宮古島民殺害事件]]をきっかけに[[台湾出兵]]が行われ、両国の間で台湾・沖縄の帰属が決定されることになった。
 
 
 
[[李氏朝鮮]]との間では国書受け入れを巡って紛争が起こり、明治6年([[1873年]])には政府を二分する論争(いわゆる[[征韓論]])となったが、明治8年([[1875年]])に起きた[[江華島事件]]を契機として[[日朝修好条規]](江華島条約)を締結し、朝鮮を自主国として認め、開国させるに至る。
 
 
 
[[琉球]]に対しては、明治5年に[[琉球藩]]を設置し、明治12年には[[琉球処分]]が行われる。
 
 
 
また、[[ロシア帝国]]との間では明治8年([[1875年]])に、[[樺太・千島交換条約|千島樺太交換条約]]が締結され、それまで日露雑居地とされた[[樺太]]および[[千島列島]]における日露国境が確定した。
 
 
 
== 改革の結果 ==
 
=== 列強に座した日本、それを先鞭としたアジア ===
 
明治維新の諸改革は、新たな制度で生じた矛盾をいくらか孕みながらも、おおむね成功を収め、短期間で立憲制度を達成し、富国強兵が推進された。その評価は[[日清戦争]]・[[日露戦争]]における勝利により飛躍的に高まり、諸外国からも感嘆・驚異の目で見られるようになった。特にアジア諸国では明治維新を模範として改革や独立運動を行おうとする動きが盛んになる。[[孫文]]も日本亡命時には『明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である』との言葉を[[犬養毅]]へ送っている<ref>『孫文選集(第三巻)』社会思想社、1989、ISBN 4390602802</ref>。
 
 
 
ロシアを含むアジアでの近代化革命としては、朝鮮における[[壬午事変]]・[[甲申政変]]や清における[[戊戌の変法]]や[[オスマン帝国]]における[[タンジマート]]の失敗、長続きしなかった[[イラン]]の[[イラン立憲革命]]や[[ロシア帝国]]の[[セルゲイ・ヴィッテ|ヴィッテ改革]]・[[ピョートル・ストルイピン#ストルイピン改革|ストルイピン改革]]などが典型である(朝鮮の改革運動については[[金玉均]]など、清の改革については[[光緒帝]]、[[黄遵憲]]なども参照)。しかしいずれも確実な成功を収めたものとまではいえなかった。
 
 
 
一定の成功を収めた例としては、[[パラグアイ]]の[[カルロス・アントニオ・ロペス]]大統領による改革、[[タイ王国|タイ]]の[[チャクリー改革]]、[[トルコ]]の[[ケマル・アタテュルク#アタテュルク主義|アタテュルク主義]]、[[エジプト]]の[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]、[[メキシコ]]の[[ベニート・フアレス|ベニート・フアレス改革]]が挙げられる。
 
 
 
日本は明治維新によって[[列強]]と化したことにより、アジア諸国では数少ない[[植民地]]にならなかった国となった。明治維新は欧米列強に抑圧されたアジア諸国にとって近代化革命の模範ともなった。やがて日本自身が列強側の国家として、[[帝国主義]]的な領土・権益獲得を行う立場となったが、それが行使されたのは台湾や朝鮮、中国の一部という限られたものに終わり、イギリスやアメリカ、[[オランダ]]などのように本土から遠く離れた地を植民地支配下に置くようなことはなかった。
 
 
 
一方、ほとんどのアジア諸国で挫折ないし不可能だった近代化革命が、なぜ日本においてのみ成功したのかについても近年研究が盛んとなっている。孫文や[[スカルノ]]、[[マハティール・ビン・モハマド]]や[[毛沢東]]をはじめ、その他アジアの指導者はほぼ例外なく明治維新に何らかの関心を持っており、その歴史的価値についての問い直しが盛んとなっている。
 
 
 
=== エジプトとの比較論 ===
 
中東社会学者の[[山口直彦 (社会学者)|山口直彦]]は、[[エジプト]]史での比較を論じている。
 
 
 
エジプトの初代大統領[[ナセル]]は『アラブ連合共和国国民憲章』の中で「エジプトがその眠りから醒めた時、近代日本は進歩に向かって歩み始めた。日本が着実な歩みを続けることに成功したのと対照的に、個人的な冒険によってエジプトの覚醒は妨げられ、悲しむべき弊害を伴った挫折がもたらされた」と記している<ref name="山口(2011)169">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.169</ref>。
 
 
 
エジプトで失敗した近代化が日本で成功した理由について、明治の日本は教育制度が整っていた上に、「有司専制」などという批判もありつつも、議会や民権政党、マスコミなど政府批判勢力が常に存在して行政のチェック機能が働いていたのに対し、エジプトにはこれがなかったため、君主が個人的な私情や私欲に突き進みやすかったことがあるという。明治政府は外債に慎重で返済能力を越えない現実的な範囲に留めてきたが、エジプトは君主の独走で計算もなく法外な利息の外債に頼り続け、その結果、財政破たんと植民地化を招いたことが指摘されている<ref name="山口(2011)169">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.169</ref>。
 
 
 
一方[[エジプト革命 (1919年)|エジプト革命]]から半世紀以上前に[[ウラービー革命|オラービー革命]]を起こした[[アフマド・オラービー]]は、近代化改革が日本で成功した理由について、日本の地理的条件の良さが背景にあると分析していたという。具体的には幕末から明治初期の日本は[[生糸]]しか主要産業がなく、イギリスやフランスにとっての日本の価値は大市場である[[清]]の付属品、あるいは[[太平洋]]進出のための薪炭・水の補給地でしかなく、[[スエズ運河]]を有するエジプトに比べて重要度が低かったことがあるという<ref name="山口(2011)170">[[#山口(2011)|山口(2011)]] p.170</ref>。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="*"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[坂井洋子]]『幕末維新史辞典』
 
* [[桑原武夫]]『明治維新と近代化』
 
* [[竹越与三郎]]『新日本史』
 
* [[徳富蘇峰]]『近世日本国民史』
 
* [[原田供彦]]『改革と維新』
 
*{{Cite book|和書|author=[[山口直彦 (社会学者)|山口直彦]] |date=2011年(平成23年)|title=新版 エジプト近現代史 ムハンマド・アリー朝成立からムバーラク政権崩壊まで|series=[[世界歴史叢書]]|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-4750334707|ref=山口(2011)}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[近代における世界の一体化]]
 
* [[明治六年政変]]
 
* [[グレゴリオ暦#日本におけるグレゴリオ暦導入]]
 
* [[脱亜入欧]]
 
* [[維新]]
 
* [[昭和維新]]
 
* [[維新の三傑]]
 
* [[維新の十傑]]
 
* [[維新ふるさと館]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.lib.kagawa-u.ac.jp/www1/kambara/tenji4/tenji4-1.html 幕末・明治初頭の新聞・雑誌] {{ja icon}}
 
* [http://cgi2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010721_00000 ハイビジョン特集 世界から見たニッポン - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス] {{ja icon}}
 
* [http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/52776/1/tcr012002.pdf 土着的革命としての明治維新ーメーチュコフの日本観の先駆性] {{ja icon}} - [[渡辺雅司]]、[[東京外国語大学]]総合文化研究所、[[2008年]]
 
 
 
{{戦前日本の経済史}}
 
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明治維新(めいじいしん、: Meiji Restoration, Meiji Revolution[1]

日本史における政治的革命。徳川将軍家が没落し,国の支配権は明治帝のもと天皇親政に戻り,明治時代として知られる政治的,経済的,社会的大変革の時代が始まった。この革命は日本に近代化と西洋化をもたらした。江戸幕府に歴史的敵意をもつ諸藩の若い武士を主体とする維新の指導者は,深刻化する国内問題と外国による侵略の脅威をバネにして活動した。「富国強兵」というスローガンを採用することで,彼らは西洋列強と肩を並べられる国民国家をつくろうとした。慶応4 (1868) 年の五箇条の御誓文に述べられているように,東京に移転した新政府の第一目標は幕藩体制の解体であった。これは明治4 (1871) 年,各藩が公式に廃止され,県制度に置き換わったことでおおむね達成された。すべての領主的特権も廃止された。同じ年に国軍が創設され,1873年の徴兵令によって一層の強化がはかられた。新政府はまた,金融と税制の一本化をはかる諸政策を実施し,1873年の地租改正により,主要収入源が確保された。

維新指導者が天皇の名のもとに進めた革命的な変化は,1870年代半ばに反対論の高まりに直面した。新政府を相手にした各地の反乱には不平士族が参加しており,その最大のものはかつての維新の英雄,西郷隆盛が率いた反乱 (西南戦争 ) であった。これらの武装蜂起は大きな困難を伴いつつも,新たに創設された軍隊の手で鎮圧された。新政権に不信をいだき,その農業政策に不満をもつ貧農たちも反乱に参加,こうした運動は 1880年代に頂点を迎える。同じ時期,自由な西洋思想の導入によって勢いづいた自由民権運動は,立憲政府の創設と国会を通じたより広範な政治参加を要求した。こうした圧力に対応して,1881年,政府は 1890年までに憲法を起草することを公約した。 1885年に内閣制度が整い,1886年には憲法起草作業が開始された。最終的に 1889年,天皇から国民に下しおかれる形で憲法が公式に発布された。これをもとに,二院制の議会が設けられ,参政権に制限はあったものの,選挙によって議員が選ばれた。翌 1890年,第1回帝国議会が開かれた。

明治時代には政治的変化と並行して,経済的,社会的変化も進行した。経済は依然として農業に依存していたが,工業化が政府の第一目標であり,政府は戦略的産業や交通,通信分野の発展を指導した。日本初の鉄道は明治5 (1872) 年に建設され,1890年までに線路の総延長は2250kmに達した。すべての主要都市が 1880年までに電信で結ばれた。民間企業も政府の財政支援によって奨励を受けるとともに,これを支援するため 1882年にはヨーロッパの銀行制度を模した金融機関も創設された。こうした近代化への努力には西洋の科学技術が必要であり,「文明開化」の旗印のもと,西洋文化は知的流行から衣服や建築にいたるまで,盛んにもてはやされた。しかし,無分別な西洋化は 1880年代にいくぶん抑制され,伝統的な日本的価値観を新たに称揚する動きが現れた。たとえば,近代的教育制度を発展させる場合,西洋の理論と実践の影響を受けながらも,武士の忠誠心や社会的調和といった伝統的価値観が強調された。同じ傾向は芸術や文化にもみられ,当初は西洋スタイルが模倣されたが,その後西洋的趣味と日本的趣味のより選択的な混交が実現された。

20世紀の初めまでに,明治維新のさまざまな目標はおおむね達成され,日本は近代工業国になる道を着実に歩んでいた。治外法権を通じて外国列強に司法面と経済面の特権を許していた不平等条約は 1894年に改定され,さらに 1902年の日英同盟締結と,二つの戦争の勝利 (1895年の日清戦争と 1905年の日露戦争 ) により,日本は西側世界から敬意をもって見られるようになり,史上初めて国際舞台に主要な世界的勢力として台頭した。 1912年の明治天皇の崩御は,こうした時代の終わりを画するものであった。



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