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{{基礎情報 過去の国
 
|略名 = 李氏朝鮮
 
|日本語国名 = {{lang|jp|李氏朝鮮}}
 
|公式国名 = '''{{lang|ko|大朝鮮國}}'''
 
|建国時期 = [[1392年]]
 
|亡国時期 = [[1897年]]<ref>朝鮮国として。李氏朝鮮は[[大韓帝国]]として[[1910年]]まで存続。</ref>
 
|先代1 = 高麗
 
|先旗1 = Royal flag of Goryeo (Bong-gi) (Fringeless).svg
 
|先代2 = 耽羅
 
|先旗2 =
 
|先旗2縁 = no
 
|次代1 = 大韓帝国
 
|次旗1 = Flag of Korea 1882.svg
 
|国旗画像 = Flag of the king of Joseon.svg
 
|国旗リンク = [[太極旗|朝鮮国王旗]]
 
|国旗幅 =
 
|国旗縁 = no
 
|国章画像 = Coat of Arms of Joseon Korea.svg
 
|国章リンク = 朝鮮国王章
 
|国章幅 =
 
|標語 = [[:zh:大明天地|大明天地]]
 
|標語追記 =
 
|国歌 = [[大韓帝国愛国歌|愛国歌]]
 
|国歌追記 =
 
|位置画像 = Korea (orthographic projection).svg
 
|位置画像説明 =
 
|位置画像幅 =
 
|公用語 = [[朝鮮語]]
 
|首都 = [[漢城府]]
 
|元首等肩書 = [[朝鮮の君主一覧|国王]]
 
|元首等年代始1 = [[1393年]]
 
|元首等年代終1 = [[1398年]]
 
|元首等氏名1 = [[李成桂]]
 
|元首等年代始2 = [[1863年]]
 
|元首等年代終2 = [[1897年]]
 
|元首等氏名2 = [[高宗 (朝鮮王)|高宗]]
 
|首相等肩書 =
 
|首相等年代始1 =
 
|首相等年代終1 =
 
|首相等氏名1 =
 
|面積測定時期1 =
 
|面積値1 =
 
|人口測定時期1 = 1864年([[高宗 (朝鮮王)|高宗]]1年)<ref>[http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=795387&cid=46634&categoryId=46634 人口]</ref>
 
|人口値1 = 6,828,520
 
|変遷1 = 建国
 
|変遷年月日1 = [[1392年]]
 
|変遷2 = [[大韓帝国]]に改称
 
|変遷年月日2 = [[1897年]][[10月12日]]
 
|変遷3 = [[韓国併合]]により消滅
 
|変遷年月日3 = [[1910年]][[8月29日]]
 
|通貨 = [[ウォン#大韓帝国ウォン|圓]]
 
|通貨追記 =
 
|時間帯 =
 
|夏時間 =
 
|時間帯追記 =
 
|ccTLD =
 
|ccTLD追記 =
 
|国際電話番号 =
 
|国際電話番号追記 =
 
|現在 = {{KOR}}<br>{{PRK}}
 
|注記 = <references />
 
}}
 
{| class="infobox"
 
|-
 
! colspan="2" style="background-color:#ace1af; text-align:center;" | 李氏朝鮮/李朝/朝鮮(王朝)
 
|-
 
! colspan="2" | [[朝鮮語]]表記
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[ハングル]]:
 
| {{lang|ko|조선(왕조)시대}}/{{lang|ko|이씨조선}}/{{lang|ko|리조(봉건)시대}}
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[韓国における漢字|朝鮮の漢字]]:
 
| {{lang|ko|朝鮮(王朝)時代}}/{{lang|ko|李氏朝鮮}}/{{lang|ko|李朝(封建)時代}}
 
|-
 
| style="text-align:right;" | 日本語読み:
 
| ちょうせん(おうちょう)/<br />りちょう(ほうけん)じだい
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[片仮名]]転写:
 
| チョソン(ワンジョ)/<br />リジョ(ボンゴン)シデ
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[ラテン文字]]転写:
 
| [[文化観光部2000年式|RR]]:Joseon wangjo<br />[[マッキューン=ライシャワー式|MR]]:Chosŏn wangjo
 
|-
 
! colspan="2" | [[中国語]]表記
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[繁体字]]:
 
| {{lang|zh-hant|李氏朝鮮}}/{{lang|zh-hant|李朝}}/{{lang|zh-hans|朝鮮王朝}}
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[簡体字]]:
 
| {{lang|zh-hans|李氏朝鲜}}/{{lang|zh-hans|李朝}}/{{lang|zh-hans|朝鲜王朝}}
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[ピンイン]]:
 
| Lǐshì Cháoxiǎn/Lǐcháo/Cháoxiǎn Wángcháo
 
|-
 
! colspan="2" | [[英語]]表記
 
|-
 
| style="text-align:right;" | [[アルファベット]]:
 
| Joseon Dynasty/Joseon/Chosŏn/Choson/Chosun
 
|}
 
{{朝鮮の歴史}}
 
  
'''李氏朝鮮'''(りしちょうせん、[[朝鮮語]][[ハングル]]表記:{{lang|ko|리씨조선}})は、[[1392年]]から[[1910年]]にかけて[[朝鮮半島]]に存在した[[国家]]。'''朝鮮王朝'''、'''朝鮮封建王朝'''とも呼ばれる。[[朝鮮民族]]国家の最後の[[王朝]]で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。'''李朝'''(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。[[高麗]]の次の王朝にあたる。
+
'''李氏朝鮮'''(りしちょうせん、[[朝鮮語]][[ハングル]]表記:{{lang|ko|리씨조선}}
  
1392年に高麗の武将[[李成桂]]太祖([[女真族]]ともいわれる<ref>
+
朝鮮,太祖([[李成桂]])の建国(1392)から[[日韓併合]](1910)まで続いた封建王朝。
*[[池内宏]]『満鮮史研究 近世編』 中央公論美術出版
 
*[[山内弘一]]「朝鮮王朝の成立と両班支配体制」 [[武田幸男]]編集『朝鮮史』山川出版社
 
*[[室谷克実]]『日韓がタブーにする半島の歴史』[[新潮新書]]
 
*[[宮家邦彦]]『哀しき半島国家韓国の結末』、[[PHP研究所]]、160頁「李氏朝鮮は[[1392年]]、元が衰退したのちに親『[[明]]』であった女真族の李成桂が建国し、コリア半島をほぼ制圧したあと、[[1402年]]に明に[[朝貢]]・[[冊封]]した。」
 
*[[豊田隆雄]]『本当は怖ろしい韓国の歴史』、[[彩図社]]、70頁「倭寇の撃退に功績をあげた李成桂は[[1392年]]、高麗を倒して朝鮮を建国。[[漢城]](現[[ソウル]])に都をおいた。出身については、女真族だったと主張する研究者も多い。出身地が女真居住地域だったこと、李成桂がモンゴル名を持っていたこと、[[幕下]]に女真の[[首領]]を加えたことなど、数々の傍証がある。」
 
*[[岸本美緒]]/[[宮嶋博史]]「明清と李朝の時代」『世界の歴史 12』、[[中央公論社]]、17頁「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した。」
 
*[[倉山満]]『嘘だらけの日韓近現代史』、[[扶桑社]]、34頁「[[1392年]]、李成桂という謎の人物が高麗を倒し、新王朝を建国します。謎というのは、どこの誰だかよくわからないからです。韓国は当然ながら[[朝鮮人]]だと言いますし、[[中国人]]のなかには[[漢民族]]だとか、モンゴル軍閥の一人だと言う人もいます。最も信憑性が高いのは、[[女真人]]([[満州人]])でしょう。」
 
*[[岡田英弘]][[宮脇淳子]]研究室『[http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/liseikei.html 論証:李氏朝鮮の太祖李成桂は女直人(女真人)出身である]』</ref>)が[[恭譲王]]を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌[[1393年]]に[[中国]]の[[明]]から[[権知朝鮮国事]](朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という[[国号]]は李成桂が明の皇帝[[朱元璋]]から[[下賜]]されたものであり、明から正式に朝鮮国王として[[冊封]]を受けたのは[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の治世の[[1401年]]であった。中国の王朝が明から[[清]]に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の[[冊封]]体制下にあった。[[東人派]]や[[西人派]]、[[老論派]]、[[南人派]]など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった<ref>[https://archive.li/0TZYs]【萬物相】21世紀韓国の「戊戌獄事」</ref>。1894年の[[日清戦争]]後に日本と清国との間で結ばれた[[下関条約]]は李氏朝鮮に清王朝を中心とした[[冊封|冊封体制]]からの離脱と[[近代国家]]としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は[[1897年]]に国号を'''[[大韓帝国]]'''(だいかんていこく)、[[君主]]の号を[[皇帝]]と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家[[主権]]は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の[[第一次日韓協約]]で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年[[第二次日韓協約]]によって日本の[[保護国]]となり、1907年の[[第三次日韓協約]]によって内政権を移管した。こうした過程を経て[[1910年]]8月の「[[韓国併合ニ関スル条約]]」調印によって大韓帝国は[[韓国併合|日本に併合]]され、朝鮮民族の国家は消滅した。
 
 
 
== 国名 ==
 
{{see also|朝鮮}}
 
高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖[[李成桂]]は即位するとすぐに[[明]]に使節を送り、[[権知高麗国事]]としての地位を認められたが、[[洪武帝]]は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「'''朝鮮'''」と「'''和寧'''」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=43}}</ref>。「和寧」は李成桂の出身地の名<ref>当時は和寧府と呼称されていた。高麗時代の和州、後の[[永興府]]、現在は[[金野郡]]</ref>であったが<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=43}}</ref>、[[北元]]の本拠地[[カラコルム]]の別名でもあったので、洪武帝は、むかし[[前漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]にほろぼされた王朝([[衛氏朝鮮]])の名前であり、[[平壌]]付近の古名である「'''朝鮮'''」を選んだ。そして李成桂を[[権知朝鮮国事]]に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての[[衛氏朝鮮]]・[[箕子朝鮮]]・[[檀君朝鮮]]の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=44}}</ref>。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の[[冊封体制]]に、新王朝の君主が[[臣下|外臣]]として参加して、一文字の国号を持つ[[内臣]]より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=40}}</ref>。
 
 
 
国号を洪武帝に選んでもらったことは、[[事大主義]]を象徴していると揶揄されるが<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=43}}</ref>、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=45}}</ref>、首都が[[漢城府|漢陽]]に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人[[箕子]]が、[[周]]の[[武王 (周)|武王]]によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=41}}</ref>、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=44}}</ref>。従って、中国への事大主義を国是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する朝鮮の国号を奏請したことは適切であった<ref>{{Harvnb|矢木毅|2008|p=49}}</ref>。
 
 
 
日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した[[朝鮮]]を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつある<ref>文部科学省は[[2002年]]の教科書検定において「李氏朝鮮」という呼称について「表記が不適切」という意見をつけた。意見をつけた理由を、日本における学術研究の成果を反映したため説明し、特に朝鮮史学界での呼び方にならったことを強調した。『[[日本経済新聞]]』2002年4月10日朝刊。[[朝鮮#脚注]]参照。</ref>が、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。
 
 
 
[[大韓民国]]では、「李氏朝鮮」「李朝」と言う名称は[[植民地史観]]に基づくものとされるため、国内では一般的に使用されていない。通常、李氏朝鮮が統治していた国は「'''朝鮮'''」、李氏朝鮮の王室は「'''朝鮮王朝'''」と呼ぶ。古代に存在した朝鮮の国号を持つ国は[[古朝鮮]]と呼び区別している。[[北朝鮮]]では今日の朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)および[[古朝鮮]]と区別するために「'''朝鮮封建王朝'''」<ref>[http://www.dprktoday.com/index.php?type=103&g=1&no=261 조선봉건왕조] - 조선의 오늘</ref>、「'''李朝朝鮮'''」あるいは「'''李氏朝鮮'''」と呼び、略称として「'''李朝'''」を用いる<ref>『백과전서(2)』과학, 백과사전출판사、1983、547頁</ref>。中国においては日本と同様「李朝」という用例が見られる。
 
 
 
当初より中国王朝の冊封国として建国された朝鮮だが、近代に入ると冊封体制からの離脱を指向する動きから'''大朝鮮国'''の国号も用いられた。また、[[李鴻章]]が編纂させた『通商章程成案彙編』には、古い[[大韓民国の国旗|太極旗]]が収録されているが、それには「大清国属'''高麗'''国旗」と書かれている<ref name=chosun20040126/><ref>[http://books.google.co.jp/books?id=UKMsAAAAYAAJ&pg=RA9-PA55&hl=ja&source=gbs_selected_pages#v=onepage&q&f=false 通商約章成案彙編] -[[Google ブックス]]</ref>。[[1897年]]、国号を'''[[大韓帝国]]'''(だいかんていこく)と改称し、国王号を皇帝号に改めた。
 
 
 
== 歴史 ==
 
=== 時代区分 ===
 
====国内政治における区分====
 
朝鮮の歴史は、国内政治的には、建国から[[端宗 (朝鮮王)|端宗]]までの王道政治の時代([[1393年]] - [[1455年]])、[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]の[[勲旧派|王権簒奪から戚臣・勲臣が高官をしめる]]時代([[1455年]] - [[1567年]])、[[士林派]]による朋党政治([[1567年]] - [[1804年]])、[[洪国栄|洪氏]]・[[安東金氏]]・[[驪興閔氏|閔氏]]などの外戚による[[勢道政治]]([[1804年]] - [[1910年]])の区分に分けられる。
 
 
 
====対外関係における区分====
 
一方、対外関係を主体にみると、約500年に及ぶが[[明]]の[[朝貢]]国であった時代([[1393年]] - [[1637年]])と、[[清]]の朝貢国であった時代([[1637年]] - [[1894年]])、清と欧米の列強および日本が朝鮮に対する影響力をめぐって対立した末期(19世紀後半 - [[1910年]])という3つの時代区分に大きく分けられる。
 
 
 
第1の区分の末期には、[[文禄・慶長の役]]と胡乱([[後金]](のちの清)による侵攻)という大きな[[戦争]]が朝鮮半島内で発生し、この影響で国土が焦土化し、社会形体が大きく様変わりしている。第2の区分の時代には、[[清]]の支配を反映して、中国が夷狄の国である清に支配されている以上、自国が中華文明の正統な継承者であると言う考え([[小中華思想]])や、逆に現実には武力と国力で清に太刀打ちすることは難しいことから臣下の国として礼を尽くすべきとする思想([[事大主義]])や、中国から離れている日本を野蛮であると蔑視する[[中華思想]]などが保守的な儒学者を中心として広く根付き、朝鮮[[朱子学]]の発達が進んだ。その後は[[儒教]]内部で改革的な実学思想が生じ、又洋学などが発生した。これらは支配層からたびたび強い攻撃を受けたが、開港後の改革運動の母体ともなった。
 
 
 
19世紀末期になると、清以外にも[[欧米]][[列強]]や[[日本|日本(大日本帝国)]]の介入が起こる。1894年の[[日清戦争]]で日本と清朝が戦って日本が勝ち、清朝との冊封関係も消滅したことで日本の強い影響下に置かれ、朝鮮は第3の区分に入った。しかしこの時代は、国内的には[[ロシア]]と日本の対立に巻き込まれ、派閥の対立も絡んで深刻な政治状況に陥った。親日路線派は、親[[ロシア帝国|ロシア]]派や攘夷派などの妨害を受けた。近代化論者の中にも[[親日派]]や親露派、攘夷派が混在しており、それが混乱に拍車をかけた。[[日露戦争]]後は日本の影響力の向上に伴い宮廷内では親日派の力が大きく伸張した。日本と韓国内部の[[李完用]]などは日本が大韓帝国を[[保護国]]化・併合する方針を採り、[[一進会]]は「韓日合邦」を主張した。[[日露戦争]]後の[[第二次日韓協約]]で日本は大韓帝国を保護国化し、実質的な支配権を確立した。[[1910年]]に日本と大韓帝国は[[韓国併合ニ関スル条約]]を結び、大韓帝国は日本に併合された。李王家や貴族は[[李王家]]・[[朝鮮貴族]]として華族制度に統合された。
 
 
 
[[ファイル:Seoul Gyeongbokgung Throne.jpg|thumb|250px|景福宮の玉座と[[日月五峰図]]]]
 
 
 
=== 李成桂による建国 ===
 
{{see also|李成桂#朝鮮王朝建国までの道程}}
 
[[13世紀]]以来、[[元 (王朝)|元]]の属国となっていた[[高麗]]は、元の衰退に乗じて独立を図るが、[[北元]]と[[明]]の南北対立や[[倭寇]]の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、[[中国]][[遼東]]の[[ナガチュ|納哈出]]征討と元の干渉からの脱却、[[遼陽]]制圧、[[女真]]や[[倭寇]]討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、[[李成桂]]は[[1388年]]、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ[[鴨緑江]]に布陣したが、突如軍を翻して[[クーデター]]を起こし([[威化島回軍]])、高麗の首都[[開城]](開京)を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王([[王ウ (高麗王)|{{lang|ko|禑}}王]]({{lang|ko|禑}}は示禺))に対してその不当性を主張し、これを廃して[[王昌 (高麗王)|昌王]]を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、[[事大主義]]だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。
 
 
 
李成桂を支持した[[両班]]たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、[[漢民族]]の明こそ正統な[[天子]]であり明に歯向かうことは天子の国を犯すことになるから、軍を翻した行為こそ、君臣父子の名分をわきまえたものであり、朝鮮を統治した聖人[[箕子]]の正統をつぐ資格があると正当化した<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p138</ref>。
 
 
 
====親明政策====
 
高麗の政権を掌握した李成桂は、親明政策をとり明の元号を使用、元の胡服を禁止し、明の官服を導入するなど政治制度の改革を始めた。だが、昌王の即位に対しては李成桂の同志でライバルでもあった曺敏修との対立があり、李成桂は昌王を廃位し、[[1389年]]に最後の王恭譲王を即位させた。その際、先々代と先代の{{lang|ko|禑}}王と昌王は殺された。家臣の中には李成桂を王位に就けようという動きが有ったが、李成桂はこの時は辞退している。だが、やがて李成桂を王にしようとの勢力は次第に大きくなり、この勢力に押されて、[[1392年]]に恭譲王を廃位し、自らが高麗王になった。高麗王家一族は都を追放され、2年後の[[1394年]]に李成桂の命令で処刑された。このとき李成桂は王姓を持つものを皆殺しにしようとしていたため、多くの者が改姓をしたと言われている<ref>全氏や玉氏、田氏などは姓を変えて難を逃れた王氏の一族であると言われていた。</ref>。
 
 
 
[[Image:King Taejo Yi 02.jpg|240px|thumb|太祖李成桂]]
 
李は高麗王として即位後、明へ[[権知高麗国事]]と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。[[権知高麗国事]]を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の[[権大納言]]・[[権中納言]]と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である<ref>[[小島毅]]『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』[[亜紀書房]]、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p129</ref>。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々中国との[[朝貢]]により、王(という称号)が与えられたため、高麗が[[宋 (王朝)|宋]]と[[元 (王朝)|元]]から王に認めてもらったように、李成桂も[[明]]から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとする。[[小島毅]]は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している<ref>[[小島毅]]『歴史を動かす―東アジアのなかの日本史』[[亜紀書房]]、2011/8/2、ISBN 978-4750511153、p130</ref>。明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の{{lang|ko|禑}}王、昌王を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の[[1393年]]2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を[[権知朝鮮国事]]([[朝鮮王代理]])に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、[[権知朝鮮国事]]のみが認められた。
 
 
 
明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国と自称して、事大とは君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って中国と事大外交を繰り広げた。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないとする<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p138</ref>。この関係を[[陸奥宗光]]は、朝鮮との折衝で、中国と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だと、嘆いている<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p139</ref>。
 
 
 
====仏教弾圧====
 
[[画像:Statue_Sejong_le_Grand.jpg|サムネイル|240px|世宗(ソウルの石像)]]
 
'''朝鮮'''に国号を改称した李成桂は新たな法制の整備を急ぎ、また漢陽(今の[[ソウル特別市|ソウル]])への遷都を進めた。崇儒廃仏(儒教を崇拝し、仏教を排斥する)政策をとり、儒教の新興と共に仏教の抑圧を開始した。しかし、この政策は李成桂が晩年仏門に帰依したため一時中断され、本格的になるのは李成桂の亡くなった後の第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代になる。仏教弾圧の理由には、前王朝高麗の国教が仏教であったということが大きな理由の一つとして挙げられる。
 
 
 
李成桂は新王朝の基盤を固めるため、八男・李芳碩を跡継ぎにしようと考えていたが、他の王子達がそれを不満とし、王子同士の殺し合いまでに発展した。[[1398年]]に起きた[[第一次王子の乱]]により跡継ぎ候補であった李芳碩が五男・李芳遠(後の[[太宗 (朝鮮王)|太宗]])により殺害され、このとき病床にあった李成桂は、そのショックで次男の李芳果に譲位した。これが第2代[[定宗 (朝鮮王)|定宗]]である。しかし定宗は実際は李芳遠の傀儡に過ぎず、また他の王子達の不満も解消しないことから[[1400年]]には四男・李芳幹により[[第二次王子の乱]]が引き起こされる。李成桂はこれによって完全に打ちのめされ、仏門に帰依する事になる。
 
 
 
一方、第二次王子の乱で反対勢力を完全に滅ぼした李芳遠は、定宗より譲位を受け、第3代[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]として即位する。太宗は、内乱の原因となる王子達の私兵を廃止すると共に軍政を整備し直し、政務と軍政を完全に切り分ける政策を執った。また、この時代は朝鮮の[[科挙]]制度、身分制度、政治制度、貨幣制度などが整備された。明に対しては徹底的な親明政策を執り、[[1401年]]には明から正式に朝鮮王の地位に冊封される。太宗は、[[1418年]]に世宗に王位を譲り[[太上王|上王]]になったが、軍権はそのまま維持し、[[1419年]]の[[応永の外寇]]と呼ばれる[[対馬]]への侵攻を指示した<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wda_10108005_003 朝鮮王朝実録世宗5卷1年(1419年)8月5日]</ref>が、[[対馬国]][[守護大名]]の[[宗貞盛]]の奮戦により大損害を被り、撤退した。
 
 
 
次代の[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]、いわゆる世宗大王の時代が、朝鮮の中で政権が最も安定していた時代とされる。王権は強固であり、また王の権威も行き届いていた。一方で[[1422年]]まで太宗が上王として実質的な権力を保持していた。世宗は、まず政治制度を王の一極集中型から[[議政府]]を中心にした官僚主導の政治に切り替えた。これには世宗の健康問題もあったと言われている。また、明との関係を良好に保つための人材育成にも力を入れた。その中の作業の一環として、現在の[[ハングル]]の元になる[[訓民正音]]の編纂作業が行われた。世宗の時代は31年に及び、軍事的安定と政治的安定のバランスが取れていた時代である。またこの時代に[[貨幣]]経済の浸透が進んでいった。対外的には侵攻戦争をたびたび行い、[[1437年]]には[[豆満江]]以南の[[女真]]地域を侵攻し制圧、六鎮を設置して支配した。その後も女真とは対立を続け、幾度も侵攻に乗り出している。
 
 
 
=== 世祖の中央集権 ===
 
第6代の[[端宗 (朝鮮王)|端宗]](第5代[[文宗 (朝鮮王)|文宗]]の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが頻発する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、[[1455年]]に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった([[世祖 (朝鮮王)|世祖]])。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に[[職田法]]を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に[[勲旧派]]と呼ばれる様になる。また、[[儒者]]の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。[[1467年]]の[[李施愛の乱]]では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君{{仮リンク|李浚|ko|귀성군}}([[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の四男[[李ク (朝鮮)|臨瀛大君]]の次男)ら王族が台頭した。
 
 
 
=== 勲旧派と士林派の対立と士禍 ===
 
世祖の死後、[[睿宗 (朝鮮王)|睿宗]]が即位したが19歳で逝去。[[1469年]]に13歳の幼い王[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]が即位し、[[貞熹王后|貞熹大妃]]が[[垂簾聴政]]を行なったが国政は不安定になった。[[1470年]]、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、[[成宗 (朝鮮王)|成宗]]の親政時代になると[[士林派]]勢力を取り入れるようになり、これに脅威を感じた勲旧派や外戚と士林派勢力の対立を産むが、成宗の治世([[1469年]] - [[1494年]])では政治的には一応の安定を見た。成宗の母[[仁粋大妃]]と2番目の王妃[[廃妃尹氏|斉献王后]](廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。
 
 
 
成宗が亡くなり[[燕山君]]が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、[[1567年]]まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、それと勲旧勢力による諫言などもあり、それが[[1498年]]の最初の[[士禍]]、'''[[戊午士禍]]'''と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・{{仮リンク|金宗直|ko|김종직}}([[1431年]] - [[1492年]])の弟子を始め多数の士林派が王宮から追放された。その後も燕山君は、生母[[廃妃尹氏]]の死の経緯を知り、[[1504年]]の'''[[甲子士禍]]'''で士林勢力と勲旧勢力の無差別大量殺戮を行い、この勢力を殺ぐ事につとめていたが、[[1506年]]、[[朴元宗]]・{{仮リンク|成希顔|ko|성희안}}・{{仮リンク|柳順汀|ko|유순정}}らのクーデター[[中宗反正]]([[:ko:중종반정|ko]])により廃位、追放された。同年、朴元宗の姪にあたる[[章敬王后]]が中宗の後宮に入り、大尹派が形成されていく。
 
 
 
次代[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]の時代も勲旧派と士林派の対立は止まらず、政局の混乱が続いていた。その中で、朝鮮居住の対馬の民などによる[[三浦の乱]]が、[[1510年]]に起きている。中宗は最初、士林派を積極的に登用していたが、士林勢力の首魁であった[[趙光祖]]の改革があまりに性急であるため、中宗はかえって不安を感じ、勲旧勢力の巻き返しもあって、[[1519年]]に趙光祖一派は投獄、追放、死刑などにされ('''[[己卯士禍]]''')、士林派の勢力は大きく後退してしまう。その後も勲旧勢力と士林勢力は繰り返し衝突し、政局は混乱を続けていた。[[1545年]]に[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]が12歳で即位すると、[[文定王后]]が[[垂簾聴政]]を行なったが、同じ尹氏の[[仁宗 (朝鮮王)|仁宗]]の伯父・{{仮リンク|尹任|ko|윤임}}の率いる大尹派から批判を受けると、同年に文定王后の次弟・[[尹元衡]]の率いる小尹派による'''[[乙巳士禍]]'''で粛正された。この時代に起きた、戊午士禍、甲子士禍、己卯士禍、乙巳士禍の事を「四大士禍」と呼ぶ。
 
 
 
=== 朋党政治:西人と東人 ===
 
[[File:Injeongjeon (exterior), Changdeokgung - Seoul, Korea.JPG|thumb|250px|[[昌徳宮]]]]
 
[[1567年]]の[[宣祖]]の即位により、士林勢力が最終的に勝利を収め士林派が中心となって政治を行う時代が始まったが、士林勢力は[[1575年]]には[[西人]]と[[東人]]と呼ばれる2つの勢力に分裂し、主導権争いを続けるようになった。この時代に見られる派閥に別れて論争を繰り広げる政治体制の事を[[朋党政治]]と呼ぶ。党派の分裂は再度の政局混乱を呼び、各王はその安定を求めて様々な施策を試みなければならなくなった。
 
 
 
東西に別れた士林派は互いを牽制していたが、[[李珥]](李栗谷)がこの対立を抑えている間は両党派とも目立った動きは起こさなかった。[[1584年]]に李珥が亡くなると両党派ともに政治の主導権を抑える為に活発な動きに出る。当初は東人有利に進んでいたが、朝廷をほとんど掌握しかけたところで、[[鄭汝立]]の謀反事件が起こり、西人が主導権を握るようになる。しかし[[1591年]]に世子冊立の問題で西人が失脚すると東人が勢いを盛り返し、以後30年に渡って政権を掌握した。東人は西勢力の処罰の件で、死刑などを主張した強硬派の{{仮リンク|李山海|ko|이산해}}を中心とした[[北人]]と穏健派の{{仮リンク|禹性伝|ko|우성전}}を中心にした[[南人]]の2つの派閥に分裂した。
 
 
 
=== 秀吉による朝鮮侵攻 ===
 
[[File:Dong Rae Bu Sun Jaul Do.jpg|250px|thumb|right|東莱城の戦い]]
 
その頃、日本を統一([[天下統一]])した[[豊臣秀吉]]は大陸への進出のために[[1589年]]、対馬を通じて、日本に服属し明征討の為の道を貸すべしとする外交を取り始めた。朝鮮側では日本の真意をはかりかね、日本の本意を探るため[[1590年]]3月、[[西人]]の[[黄允吉]]を正使、[[東人]]の[[金誠一]]を副使とし、通信使を送ることにした。この使節が日本に滞在している間に、朝鮮内の勢力は西人優勢から東人優勢に変化しており、そのことがその後の判断に影響を与えた。
 
 
 
[[1591年]]3月に通信使が帰朝すると正使・黄允吉は、「日本は多くの軍船を用意して侵攻の準備をしている」と報告したのに対し、副使・金誠一は正反対の「秀吉は恐れる必要は無い」と報告をした。相反する報告を受け取った為、西人・東人ともに自派の意見を擁護し論戦になったが、このとき既に東人が朝廷を掌握していたことと王自身が戦争を心理的に忌避していたことなどから「侵攻説をむやみに流布することで民心を乱す行為は良くない」と言う結論に達し、一切の防衛準備を放棄し、またそれに準じる行為も禁止した。しかし[[1592年]]になり、朝鮮の倭館に居た[[日本人]]が次々に本国に帰っていくのを見ると、遅まきながら秀吉の朝鮮出兵は本気であることに気が付き、防衛準備を始めるが、時既に遅しであった。
 
 
 
[[1592年]][[4月13日 (旧暦)|4月13日]]の[[文禄の役]]では態勢の整わない朝鮮軍は各地で敗北を重ね、豊臣軍に国土を制圧された。豊臣軍は開戦半月で首都[[漢城府|漢城]]を攻略し、数ヶ月で朝鮮の[[咸鏡道]]北辺まで進出した。当時腐敗が進んでいた朝鮮政府は有効な手立てを打てず治安悪化により全土で国土は疲弊した。それに対して危機感と、日本への反感を持った民衆が抵抗を開始した。
 
 
 
民衆の中には朝鮮の圧政や腐敗に不満を持っているものも多く、豊臣軍に味方した者も相当数に上った。明の援軍が進出すると豊臣軍は交渉解決へ移行して戦線が膠着し、翌年、日本と明は和議交渉の過程で朝鮮南部の沿岸へ一旦兵を引き上げた。
 
 
 
しかし、和議は失敗に終わり、[[1597年]][[1月15日 (旧暦)|1月15日]]、秀吉は再び朝鮮半島へ侵攻する([[慶長の役]])が、2回目の侵攻では全羅道と忠清道への掃討作戦を行い、明軍が漢城を放棄しないと見ると越冬と恒久占領の為に休戦期の3倍ほどの地域へ布陣した。翌年から本土で指揮を執っていた秀吉の健康が損なわれて消極的になり、泥沼状態になった戦争は秀吉の死去によって終結し、豊臣軍は引き上げた。この7年に及ぶ戦乱により、腐敗が進んでいた朝鮮の政治・社会は崩壊寸前まで追いやられ、経済的にも破綻寸前の状態に陥った。朝鮮は増収案として「納粟策」を提案したが、これは穀物や金を朝廷に供出した平民・賤民などに恩恵を与える政策である。賤民も一定の額を払えば平民になれ、平民も一定の額を出せば[[両班]]になれることとなった。この制度によって朝鮮の身分制度は大きく流動し、その構成比率は大幅に変化した。新しい体制が生まれ、腐敗は一時的に刷新された。政治には一時的に再び活気が蘇った。
 
 
 
一方、この戦争に[[明]]は多大な出費を余儀なくされ、国力の弱体化をもたらした。これは周辺異民族への明の抑えが利かなくなるという事でもあり、[[女真]]族の勢力伸張をもたらし、後の[[胡乱]]や明滅亡の遠因になった。
 
 
 
[[北島万次]]は「藩属国朝鮮にたいし、宗主国明」がどの様な態度で交渉したかについて、救援の決定から講和まで終始明が導いており、「宗主国とはいっても、結局みずからの利害を優先させる大国の[[ご都合主義]]」を指摘している<ref>{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅴ}}</ref>。
 
 
 
=== 光海君 ===
 
朝鮮では戦争終結後、政権の腐敗などで改善があったものの政争は続いていた。特に問題になっていたのが宣祖の世子(跡継ぎ)問題である。世子問題は文禄の役直前の[[1591年]]から激しくなっていたが、戦争の最中も続いていた。長男の[[臨海君]]は世子に相応しくないと言う理由で排除され、[[光海君]]を世子とすることに決まったが、[[1594年]]に明から世子冊封の要請を拒絶されたため、再び世子問題は宙に浮いたままになった。[[1606年]]、正妃の[[仁穆王后]]が[[永昌大君]]を産むとまた世子問題が再発し、光海君派と永昌大君派に別れての派閥争いが起こった。北人の中の小北と呼ばれる一派は、永昌大君派は正妃の嫡子であるからこれが正統であるとし、いま一方の大北は、光海君を世子として擁立するよう働きかけた。[[1608年]]、宣祖が重病に陥ると周囲は慌ただしくなり、後継王を決めないまま宣祖が亡くなった為、現実的な選択肢として光海君が王位につくことになった。
 
 
 
光海君は即位すると破綻した財政の再建と現実的な外交施策を展開した。既に[[江戸時代]]に移行していた日本とは[[1609年]]に和約し、日本との外交関係の修復にも力を入れた([[朝鮮通信使]])。また党争の終結に力を入れようとしていたが、党争終結の為に王権を強化するには大規模な粛清を行わざるをえなかった。その範囲が反対派閥、兄弟にまで及んだ[[1615年]]まで続く粛清によって、大北派と光海君は一応の政権の安定を確保する事になる。また、民政では[[大同法]]を導入するなどの改革を行った。一方、弱体化した明とそれに乗じて伸張してきた[[後金]](清)の間に挟まれ([[サルフの戦い]]、[[1618年]] - [[1619年]])、二極外交を展開することになる。
 
 
 
しかし光海君によるこれらの政策は、民衆や大北以外の西人や他の派閥、他の王族や二極外交に反対する保守的[[事大主義]]者などの恨みを買うことになった。[[1623年]][[2月12日 (旧暦)|2月12日]]、光海君は自身の甥にあたる綾陽君と西人を中心とした勢力によって、宮廷を追放され廃位に追い込まれた。西人勢力は大北勢力を宮廷から追放し、綾陽君を擁立、[[仁祖]]として即位させた。この事件を{{仮リンク|仁祖反正|ko|인조반정}}と言う。
 
 
 
=== 清への服属 ===
 
[[File:Bifyu 8.jpg|thumb|220px|[[華城]]]]
 
仁祖と西人派はクーデターの後、大北派の粛清を行い、これによって北人の勢力は小北派の一部を除いてほぼ消滅する。そして、西人を主とし南人を副とする党派体制を確立する。しかし仁祖即位直後の[[1624年]]には、李适による反乱事件({{仮リンク|李适の乱|ko|이괄의 난}})が起こり、仁祖が一時期漢城から避難、北方の正規軍を乱の平定のために投入しなければならなかった。外交政策は、明と後金の二極外交から、親明背金の親明外交を展開したが、この政策は裏目に出た。二極外交を破棄された[[後金]]は、[[1627年]]、3万の兵力で朝鮮に侵入した([[丁卯胡乱]])。朝鮮側は、破竹の勢いを続ける後金軍を相手に敗北を重ね、仁祖は一時[[江華島]]へ避難することになった。その後、朝鮮側の抵抗により戦局が膠着し始めると、打開の策を持たない朝鮮側と、朝鮮を通じて明との交易を維持したい後金側は講和に応じた。だが後金の提示した条件に対し、主戦派の斥和論と講和派の主和論を巡って論争が繰り広げられた。既に後金と戦う余力が無い朝鮮側は結局講和を呑むことになり、後金を兄、朝鮮を弟とする条件を呑んで、以後一切朝鮮は後金には敵対しないとして講和した(丁卯約条)。講和が成立すると、一旦後金軍は撤収する。のち仁祖は国防対策を見直し、北方と沿岸地域の防衛力を強化し、[[1628年]]に漂着した[[オランダ]]人[[ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー|ペルテブレ]]より大砲を導入するなど軍事力を強化した。
 
 
 
[[1636年]]、後金は[[清]]と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた。この時の朝鮮は斥和論が伸張しており、この要求を拒むと、同年、清は太宗([[ホンタイジ]])自ら12万の兵力を率いて再度朝鮮に侵入した([[丙子胡乱]])。朝鮮側は[[南漢山城]]に籠城したものの、城内の食料は50日分ほどしかなく、その中で主戦派と主和派に別れての論戦が繰り広げられていた。しかし、江華島が攻め落とされたと言う報告が届くと45日で降伏し、清軍との間で和議が行われた。この和議の内容は清に服従すること、明との断交、朝鮮王子を人質として送ること、莫大な賠償金を支払うなど11項目に及ぶ屈辱的内容であり、三田渡で仁祖はホンタイジに対し[[三跪九叩頭の礼]](三度跪き、九度頭を地にこすりつける)をし、清皇帝を公認する誓いをさせられる恥辱を味わった([[大清皇帝功徳碑]])。清に対する服属関係は[[日清戦争]]の[[下関条約]]が締結され、朝鮮が清王を中心とした冊封体制から離脱する[[1895年]]まで続くことになる。三田渡の屈辱により仁祖は逆に「反清親明」路線を強く出し、滅亡寸前の明へ一層事大していった。
 
 
 
政治・経済・外交とも混乱の極みの時代ではあったが、この時代には、[[宋時烈]]・[[宋浚吉]]などの学者を輩出し、朝鮮朱子学である[[性理学]]の大きな発展が見られた。一方でこれらの朱子学は党争をかき立てた。
 
仁祖は[[貨幣経済]]の立て直しを図った。朝鮮では貨幣の材料である[[銅]]を[[日本]]に依存していた為、慶長の役以降はまともな貨幣が造れない状態が続いていた。仁祖は貨幣としての価値を失った「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を流通させ、貨幣経済の流通を促そうとしたが、後の2つの胡乱などにより、思うように進まなかった。再び充分な量の貨幣が流通し出すのは[[1678年]]の[[粛宗 (朝鮮王)|粛宗]]の時代に入ってからになる。
 
 
 
次代の[[孝宗 (朝鮮王)|孝宗]]の時代に入ると反清論はさらに高まり、{{仮リンク|北伐計劃|ko|효종의 북벌|label=北伐論}}が持ち上がり、軍備の増強が進められた。しかし、征清の機会は訪れないまま北伐は沙汰止みに終わった。この時期、[[ロシア・ツァーリ国]]が満州北部の黒竜江まで勢力を広げており、清の要請に応じ、征伐のための援軍を派遣(1654年と1658年の{{仮リンク|羅禅征伐|ko|나선정벌}})している。
 
 
 
清の中国での覇権が確立した第18代[[顕宗 (朝鮮王)|顕宗]]の時代に入ると、社会的には平穏な時代が続く。しかし発達した朝鮮朱子学が禍となり、西人と南人により礼論と呼ばれる朝廷儀礼に関する論争を原因とする政争が政局の混乱をもたらした。その中でも服喪期間に対する論争で、西人派が勝利し、南人派は勢力を殺がれた([[礼訟#第1次礼訟(己亥礼訟)|己亥礼訟]]) 。顕宗は終わり無きこの論争を止めさせるため、[[1666年]]に服喪期間に関する取り決めを行い、これ以上論争を起こした場合は厳罰に処すと取り決めた。だが[[1674年]]に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると再び服喪期間の論争が巻き起こり、今度は逆に西人派が失脚し南人派が朝廷を掌握する様になる([[礼訟#第2次礼訟(甲寅礼訟)|甲寅礼訟]])。
 
 
 
==== 粛宗による換局政治 ====
 
次代、粛宗の時代に入ると党派政争はさらに激しくなり、その対策として粛宗は礼論を逆手にとり、わざと政権交代を繰り返す換局政治を行う事で、党派勢力の弱体化と王権の拡大を試みた。[[1680年]]の[[庚申換局]](キョンシンファングク)で西人に権力を掌握させると、[[1689年]]には、{{仮リンク|己巳換局|ko|기사환국}}(キサファングク)で今度は[[南人]]の手に政権が移った。[[1694年]]の{{仮リンク|甲戌換局|ko|갑술환국}}(カプスルファングク)で再度[[西人]]に権力が移るという具合であった。その後西人は[[老論派|老論]]と[[少論派|少論]]に分裂する。
 
 
 
粛宗は胡乱以来続いていた民政の安定を図り大同法の適用を拡大し、社会の安定に力を入れた。また常平通宝の鋳造・流通を行うなど経済政策にも力を入れた。この時代には清との間での領土問題や日本との間に[[鬱陵島]]とその周辺の島々をめぐる帰属問題が起きた。[[江戸幕府]]は鬱陵島を朝鮮領土として承認し、同島への日本人の立ち入りを禁止するという協約を結んだ。{{要出典|date=2010年2月}}猶現在日韓で問題となっている竹島=独島の帰属問題で、韓国側はこの交渉の際竹島=独島は鬱陵島と同様に朝鮮領土と合意されたと主張しており、対して日本側はこの交渉に竹島=独島は含まれていないと主張している。
 
 
 
[[1720年]]に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。[[景宗 (朝鮮王)|景宗]]が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は[[1721年]]から[[1722年]]に渡って、老論の粛清を行った({{仮リンク|辛壬士禍|ko|신임옥사}})。
 
 
 
==== 蕩平策による王権強化 ====
 
景宗は短命で亡くなり、[[1724年]]に第21代王として即位した[[英祖 (朝鮮王)|英祖]]は熾烈な党争を抑えるために、{{仮リンク|蕩平策|ko|탕평책|label=蕩平政治}}を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、[[1728年]]には朝廷から追放された少論、南人派による'''{{仮リンク|李麟佐|ko|이인좌}}の乱'''が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用する事で政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。
 
 
 
その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが[[荘献世子事件]]である。[[1762年]]英祖が、健康上の理由で[[荘献世子]]に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の[[貞純王后]]や王女の{{仮リンク|和緩翁主|ko|화완옹주}}などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした{{仮リンク|僻派|ko|벽파}}(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした{{仮リンク|時派|ko|시파}}に別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。
 
 
 
なお、この時代の[[1763年]]には日本へ赴いた朝鮮通信使が[[サツマイモ]]を持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。
 
 
 
英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の[[正祖]]の時代に入ると新たな局面を迎える。謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、[[1776年]]、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が[[洪国栄]]であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。しかし[[1780年]]王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。
 
 
 
==== キリスト教カトリックの伝来と弾圧 ====
 
この頃に中国を経由して[[カトリック教会|カトリック]]が流入してきており、そのカトリックの儀式が[[儒教]]の儀式と相反する事から、このことが党争の争点となってくる。僻派はカトリック葬礼などの儀式は儒教の礼儀に反するものだと攻撃し、攻西派を形成した。一方、時派勢力はカトリックを黙認したり、受容するなどの動きを見せ信西派の勢力を形成した。この問題は朝廷でも問題になってきており、[[1791年]]に最初のカトリック弾圧事件({{仮リンク|辛亥邪獄|ko|신해박해}})が起きた。攻西の僻派は徐々に勢いを取り戻してくる。[[1795年]]に中国人神父の密入国事件が起きると、更に僻派は勢いを増し、{{仮リンク|蕩平策|ko|탕평책|label=蕩平政治}}は崩壊する。信西派の多い南人勢力はほとんど追放され、老論僻派のみが朝廷に残っているという状態であった。この時代は英祖の50年以上にわたる文化政治と清からの西洋文明の流入も相俟って、文化的発展を見た時代でもあった。しかし党争の激しい朋党政治は行き詰まりを見せ、既に崩壊寸前であった。
 
 
 
[[1800年]]、[[純祖]]は10歳で即位したため、英祖の継妃であった貞純王后が代わりに執政を行った。貞純王后は蕩平政治を完全にやめ、僻派の利権を優先する政策を採った。そのために{{仮リンク|蕩平策|ko|탕평책|label=蕩平}}支持派の勢力を大量殺戮し、僻派の要人を大量登用して僻派政権を樹立させる。一方で、[[1801年]]、王朝を守るためとの理由でカトリックの弾圧を強化した({{仮リンク|辛酉教獄|ko|신유박해}})。この弾圧でカトリック信者、巻き込まれた者もあわせて数万人が犠牲になったと言われている。カトリックへの弾圧はこの後も[[1815年]]、[[1827年]]、[[1838年]]、[[1839年]]({{仮リンク|己亥教獄|ko|기해박해}})、[[1846年]]({{仮リンク|丙午教獄|ko|병오박해}})、[[1866年]]([[丙寅教獄]])など、断続的に行われた。
 
 
 
=== 安東金氏の勢道政治から大院君へ ===
 
[[1802年]]、{{仮リンク|金祖淳|ko|김조순}}の娘が王妃[[純元王后]]になる。[[1804年]]、14歳になった純祖による親政が始まった。金祖淳は時派に属していたが、党派色を表に出さない事で貞純王后の士禍から逃れることが出来た。[[1805年]]貞純王后が亡くなると、金祖淳は王の外戚として政治の補佐を行うようになり、貞純王后によって登用された僻派の要人を大量追放する。その一方で、王の政治を補佐するとの名目で、自分の[[本貫]]である安東金氏の一族から大量に人材を登用する。このことで士林派による政治は終焉を迎え、金祖淳を筆頭にした安東金氏が政治を壟断する[[勢道政治]]の時代が始まる。安東金氏による政治の専横が始まると、官職から追放された[[両班]]があぶれ、また政治綱紀が乱れ汚職・収奪などの横行が頻繁に起こるようになり([[三政の紊乱]])、農民反乱が頻発した([[朝鮮後期の農民反乱]])。[[1811年]]に起きた[[洪景来の乱]]は農民だけでなく、西北地方への地域差別に対する反発や没落両班、新興地主などを巻き込んだ大規模な反乱となったが、[[1812年]]に鎮圧された。安東金氏は次代、わずか7歳で即位して22歳で崩御した[[憲宗 (朝鮮王)|憲宗]]、次々代王[[哲宗 (朝鮮王)|哲宗]]にも王后を送り込み、外戚として権勢を振るった。勢道政治は、哲宗の時代に絶頂を迎え、59年にわたって朝鮮の政治を牛耳っていた。
 
 
 
[[ファイル:Questionning of Simeon Berneux.jpg|thumb|[[丙寅教獄]]における[[フランス人]][[宣教師]]への拷問([[1863年]])。このとき殺害された宣教師とキリスト教徒達のための報復として[[丙寅洋擾|フランスによる朝鮮遠征]]が行われた]]
 
[[ファイル:Interior of Fort McKee., 06-1871 - NARA - 559259.tif|thumb|アメリカ軍によって占領された[[江華島]]の要塞(1871年)]]
 
[[file:Flight of Japanese Legation 1882.jpg|thumb|[[壬午事変]]で焼き討ちされた日本公使館から脱出する公使館員([[1882年]])]]
 
[[ファイル:Jeon Bong-jun.JPG|thumb|[[甲午農民戦争]]の首謀者として逮捕された[[全琫準]]([[1894年]])]]
 
[[画像:Coree.jpg|thumb|[[ジョルジュ・ビゴー]]による当時の風刺画(1887年)<br />日本、中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている]]
 
[[File:일본과 러시아에 압사당하는 한국.png|thumb|日露戦争の風刺画]]
 
[[1845年]]には[[イギリス]]の軍艦が[[済州島]]付近の海域に侵入。[[1846年]]には、[[フランス]]海軍によるカトリック弾圧に対する抗議など、西洋列強の干渉が始まる。
 
 
 
安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなかったために手をこまねいているしかなかったが権力奪取の動きが出てくる。[[1863年]]に第26代王[[高宗 (朝鮮王)|高宗]]が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と[[興宣大院君|{{lang|ko|李昰}}応]]({{lang|ko|昰}}は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。{{lang|ko|李昰}}応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を[[孝明世子]](翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ([[興宣大院君]])、[[摂政]]の地位に就いた。このとき高宗は11歳であった。
 
 
 
興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。
 
 
 
=== 攘夷と開国 ===
 
大院君政権は、迫り来る西洋列強に対しては強硬な[[鎖国]]・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となった。まずカトリックへの弾圧を強化し、[[1866年]]から[[1872年]]までの間に8千人あまりの信徒を殺害した([[丙寅教獄]])。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、[[1866年]]、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に[[文珠山城]]と[[鼎足山城]]で発生した2つの戦闘で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる([[丙寅洋擾]]<ref>擾は手偏に憂</ref>)。
 
 
 
一方、この事件の2ヶ月前には[[アメリカ合衆国|アメリカ]]商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう([[ジェネラル・シャーマン号事件]])。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、[[1871年]]には軍船5隻を率いて交渉に赴いた([[辛未洋擾]])。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。
 
 
 
====閔妃一派によるクーデター====
 
大院君はこれらの攘夷政策の成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、[[1866年]]になると王宮に入った[[閔妃]]の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。[[1873年]]、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。
 
 
 
閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。[[1875年]]には日本軍が開国を求めて[[江華島]]に侵入してきた([[江華島事件]])。開国派が主流をなした閔氏政権は、[[1876年]]に[[日朝修好条規]](江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ([[米朝修好通商条約]])、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。
 
 
 
=== 攘夷派と揺れ動く閔氏政権 ===
 
また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊への給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、[[興宣大院君|大院君]]・斥邪派(攘夷派)の煽動も有って、[[1882年]]に閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた([[壬午事変]])。この軍乱で新式軍隊の教育を支援していた日本も標的とされ日本公使館が焼き討ちにされ日本人が多数殺害された。一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の[[袁世凱]]に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された<ref name=keio20070510/>。事変後には[[済物浦条約]]が締結され<ref name=keio20070510>{{cite web
 
|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]
 
|accessdate=2011年6月
 
|date=2007年5月10日
 
|title=時事新報史 第15回:朝鮮問題① 壬午事変の出兵論   
 
|url=http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/15.html
 
}}</ref>、日本に謝罪を行うとともに日本人保護のために日本軍の朝鮮駐留が認められた。壬午事変により閔氏政権は、親日開明政策から開明に消極的な親清政策へ大きく転換する事になる。清と結ぶ保守的な[[事大党]]が権力を握り、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした[[開化派]](独立党。[[金玉均]]、[[朴泳孝]]ら)と対立し、親日[[開化派]]は孤立した<ref name=keio20070510/>。また混乱から国内では反乱が生じる。[[1884年]]12月、[[開化派]]がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、[[袁世凱]]率いる清軍の介入により3日間で頓挫し、清国軍と朝鮮人によって日本公使館は焼き払われ日本人数十人が殺害され<ref name=keio20070621>{{cite web
 
|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]
 
|accessdate=2011年6月
 
|date=2007年6月21日
 
|title=時事新報史 第16回:朝鮮問題② 「脱亜論」の周辺   
 
|url=http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/jijisinpou/16.html
 
}}</ref>、金玉均らは日本に亡命した([[甲申政変]])。事件後には守旧派によって開化派への処刑が徹底的に行われ、開化勢力は消滅し、清国の影響力が増大した<ref name=keio20070621/>。[[1885年]]にはイギリス軍によって[[巨文島]]が占領された([[ポート・ハミルトン事件]])<ref name=porthamilton>{{cite book |last=  |first= |title= The Russo-Japanese war in global perspective: World War Zero |publisher= Brill Academic Pub |ISBN= 9004142843 |page= 448|url=http://books.google.com/books?id=xlg0lM8f9Y4C&pg=PA448&dq=%22Port+Hamilton+Incident%22&hl=en#v=onepage&q=%22Port%20Hamilton%20Incident%22&f=false}}</ref>。
 
 
 
また[[1894年]]には[[東学党の乱]]([[甲午農民戦争]])が勃発すると親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾に介入し、乱は官軍と農民の和議という形で終結するが、清王軍と日本は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は[[金弘集 (政治家)|金弘集]]が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、[[金玉均]]が[[上海市|上海]]で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。
 
 
 
=== 清からの独立:大韓帝国 ===
 
[[1894年]]、駐留していた清軍と日本軍との間の軋轢から[[日清戦争]]が勃発し、日本軍が勝利すると、[[下関条約]]によって朝鮮と清朝の冊封関係は終わり、朝鮮は清への服属関係を廃棄し、独立国となった。
 
 
 
しかしその後、朝鮮は宗主国をロシアに変える動きを見せ、[[閔妃]]はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより[[1895年]]10月に閔妃が惨殺される([[乙未事変]])。自分の后が暗殺された高宗は[[1896年]]、ロシア領事館に退避する([[露館播遷]])。1年後高宗は王宮に戻るが、これは国としての自主性を放棄するのに等しい行為であり、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。[[1897年]]、朝鮮は[[大韓帝国]]と国号を改称し、[[元号]]を光武とした。
 
 
 
[[糟谷憲一]]は、「開国をもとめる[[欧米列強]]にたいして朝鮮が交渉を宗主国清に委ねたところから、清との宗属関係が強化・再編」、列強との条約も清の強い指導のもとに行われ、そのことに反発した朝鮮が「宗属関係を廃棄、ここに朝鮮の『独立』が実現した」結果、列強が清に気兼ねすることなく朝鮮に進出する契機を与えることになったと指摘している<ref>{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅵ}}</ref>。
 
 
 
=== 日本への併合と朝鮮王朝の滅亡 ===
 
[[File:일진회 대형아치.jpg|thumb|250px|[[一進会]]によって漢城に建立された日本を奉迎する門([[1907年]])]]
 
[[1904年]]になると、[[日露戦争]]が勃発し、日本が勝利する。[[1905年]]には[[第二次日韓協約]]が締結された。日本は朝鮮(大韓帝国)の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは[[伊藤博文]]であった。一方、高宗も[[1907年]]オランダの[[デン・ハーグ|ハーグ]]に密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが([[ハーグ密使事件]])、この主張は国際社会に拒絶された。これらの動きに対し[[李完用]]などの[[親日派]]勢力、及び韓国統監伊藤博文は高宗に譲位するよう迫り、同年退位した。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である[[純宗 (朝鮮王)|純宗]]が即位した。
 
 
 
[[1906年]]、日本は[[韓国統監府]]を置き、[[伊藤博文]]を初代統監とした。日本政府内では併合派と反対派が拮抗しており議論が紛糾していた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は併合派に対して異論を唱え、併合には反対の姿勢をとった。彼が併合に反対する理由として述べたのは、
 
#現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国進出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
 
#加えて財政支出の増大を招くことからも併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。ということであった。
 
 
 
[[1909年]][[10月26日]]に伊藤博文が[[安重根]]によって暗殺されると、[[韓日合邦を要求する声明書]]が朝鮮人によって出されるなど併合派が優勢となり韓国併合および大韓帝国の滅亡は決定的なものとなった。(韓国人が望んでいたのはあくまで、対等合併であり、[[日韓併合]]の実情とは異なる)本政府は韓日合邦を掲げる韓国[[一進会]]や日韓併合派の李完用とともに交渉を進め、[[1910年]][[8月22日]]に[[韓国併合ニ関スル条約]]が締結、ここに大韓帝国は日本の一部となり、朝鮮半島の国家は完全に消滅した。なお、韓国皇族は日本の皇族に準じる地位([[王公族]])に封ぜられ、処刑もしくは追放などの厳罰処置は行われなかった。
 
 
 
日本に併合されて(大韓帝国が滅亡して)まもなく、朝鮮人の一部宗教家や学生らによる[[三・一独立運動]]又は「三・一鮮人暴動」と呼ばれる反日蜂起が起こったが、朝鮮総督府当局の鎮圧により終息した。
 
 
 
== 政治 ==
 
=== 国王 ===
 
[[ファイル:Sejong tomb 1.jpg|thumb|right|250px|[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の[[朝鮮王陵|王陵]]]]
 
{{See also|朝鮮の君主一覧}}
 
朝鮮の国王は、[[全州李氏]]の出自である初代国王李成桂の子孫([[李王家]])によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による[[中国の宰相|宰相]]の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。また、上述のとおり王族の李氏は女真族系の出自であるとする説がある<ref>李子春は吾魯思不花のようにモンゴル人の姓を用いている。李一族のモンゴル名は李朝太祖実録に完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていない。また李成桂は女真族の酋長の[[李之蘭]]と義兄弟の契りを結ぶなど、李一族は女真族の配下を多数抱えていた。</ref>。明や清の皇帝に臣従する立場から、国王・[[王妃 (朝鮮)|王妃]]・[[大妃]]の敬称に[[殿下]]を用いた。王位継承の第一順位の王子も「[[皇太子|太子]]」という称号は使えず[[王世子]]と呼ばれ、王世子・[[世子嬪]]の敬称には[[邸下]]が用いられた。[[1894年]]に独立を宣言してからは王・王妃等の敬称を[[陛下]]に改め、殿下は王太子・王太子妃の敬称となった。
 
 
 
=== 政権 ===
 
[[木村誠]]は「つねに中国の外圧を受けながら民族的成長をとげた朝鮮諸国」を指摘しており<ref>{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅳ}}</ref>、[[義江彰夫]]は、日本の公武二重王権と朝鮮を比較して、双方ほぼ同時期に武人が政権の中枢に登場しながら、朝鮮では武人が独自政権を構築することなく、中央政権内部において実権を掌握するにとどまったことを「不断の外圧の存在の有無がこの分岐の決定的な要因であった」と指摘している<ref>{{Harvnb|アジアのなかの日本史|1992|p=ⅴ}}</ref>。
 
 
 
=== 官制 ===
 
官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服(〜従三品:赤官服、正四品〜従六品:青官服、正七品〜:緑官服)・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『[[経国大典]]』による。
 
 
 
官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、[[宦官]]が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。
 
 
 
王朝に仕える諸官は科挙を通じて、[[文官]]は文科、[[武官]]は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に地位が低く置かれていた。また中人階級が就ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。
 
 
 
王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。最も上の官職は君と呼ばれ、正一〜従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。
 
 
 
行政の最高機関は[[議政府]]であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。
 
 
 
[[議政府]]の次に位置するのが正二品の判書であり[[曹#李氏朝鮮における六曹|六曹]]の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。
 
 
 
また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けなくても官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。
 
 
 
=== 地方行政 ===
 
[[File:Administrative divisions of Late Joseon.png|thumb|right|200px|[[朝鮮八道]]]]
 
 
 
[[朝鮮八道]]という、大きく8つの道に分けて行政を行った。
 
 
 
* [[朝鮮八道]]
 
** [[咸鏡道]] ([[咸鏡北道]]・[[咸鏡南道]]・[[両江道]]の一部・[[羅先直轄市]] 北朝鮮)
 
** [[平安道]] ([[慈江道]]・[[平安北道]]・[[平安南道]]・両江道の一部・[[平壌|平壌直轄市]]・[[新義州特別行政区]] 北朝鮮)
 
** [[黄海道]] ([[黄海南道]]・[[黄海北道]] 北朝鮮)
 
** [[江原道 (朝鮮八道)|江原道]] ([[江原道 (南)|江原道]] 韓国 / [[江原道 (北)|江原道]]・[[金剛山観光地区]] 北朝鮮)
 
** [[京畿道 (朝鮮八道)|京畿道]] ([[京畿道]]・[[ソウル特別市]]・[[仁川広域市]] 韓国 / [[開城|開城直轄市]]・[[開城工業地区]] 北朝鮮)
 
** [[忠清道]] ([[忠清北道]]・[[忠清南道]]・[[大田広域市]] 韓国)
 
** [[慶尚道]] ([[慶尚北道]]・[[慶尚南道]]・[[釜山広域市]]・[[大邱広域市]]・[[蔚山広域市]] 韓国)
 
** [[全羅道]] ([[全羅北道]]・[[全羅南道]]・[[光州広域市]]・[[済州特別自治道]] 韓国)
 
 
 
現代の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]・[[大韓民国|韓国]]の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都[[漢城府|漢城]]と[[開城]]・[[江華郡|江華]]・[[水原市|水原]]・[[広州市 (京畿道)|広州]]の4都は直轄地とされ京官府に属し、漢城は漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。
 
 
 
=== 統治の特徴 ===
 
{{Main|李氏朝鮮の身分制度}}
 
朝鮮時代の特徴は500年の長きにわたって続いた[[儒教]]道徳、その中でも朱子学に基づく統治である。これは身分制度を強固なものとし、差別意識を助長したり、数多くの派閥抗争を引き起こし、かつ対抗派閥への攻撃の[[大義名分]]などの手段として使われ、さらに技術・労働階級の蔑視による技術発展の阻害、軍事の弱体、愚民化や現実に沿わない外交、内政を支配者に行わせる原因となった。その一方で儒教は高麗末期の腐敗仏教を打破し、また王朝後期には革新思想が生まれてきたように知識人が政治や社会の変革を考える要因ともなった。儒教の影響力がかなりの程度減じた現在の韓国・北朝鮮でも、このような儒教の二面性は形を変えつつ存続しているとされている。
 
 
 
日本の統治下で育った韓国の[[朴正煕]]元[[大統領]]は自著『国家、民族、私』で、朝鮮について次の言葉を遺している。
 
 
 
「四色党争、[[事大主義]]、[[両班]]の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
 
 
 
「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
 
 
 
「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」
 
 
 
現在の韓国では、この考え方は当時の大日本帝国の教育体制の影響を受けた「植民地史観」であり。つまり当時の日本は自分の支配を正当化するため「宗主国の日本こそ、朝鮮半島の人々を苦痛や悲しみや奴隷状態から解放させた恩人だ」という思考を植民地人である朝鮮人に教えたとされ、歴史教科書等では「朝鮮時代は素晴らしかったが、それを日本が奪った」と記述されている。
 
 
 
== 都市 ==
 
[[File:1894 seoul.png|right|thumb|1894年の漢城]]
 
[[File:1902 seoul.png|right|thumb|1903年の鍾路]]
 
当初は高麗を踏襲して[[開城]]を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在の[[ソウル特別市|ソウル]])へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]以降は漢陽に落ち着く。
 
 
 
李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。[[風水]]思想と[[オンドル]]の効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。
 
 
 
首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。
 
 
 
=== 衛生環境 ===
 
{{要出典範囲|汚水処理の施設や対策は1905年の第二次日韓協約の直前の10月までに行われず|date=2018年5月}}、韓国政府と[[大正天皇|皇太子(後の大正天皇)]]の寄付をもって、ようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物に汚れるに任せていた。開国後の李氏朝鮮を複数回にわたって訪れた[[イザベラ・バード]]は、漢陽(現在のソウル)を「世界でも指折りの不衛生な都市」と評した<ref name="Isabella">[[イザベラ・バード]]『[[朝鮮紀行]]』</ref>。これは公衆衛生という概念が無く汚水の処理などが殆ど行われていなかったためである。しかし、李氏朝鮮の後に成立した大韓帝国では、都市部の衛生環境の改善に一定の対策を講じており、1897年にイザベラ・バード氏が再び漢陽を訪れた際には、「不潔さで並ぶもののなかったソウルは、いまや極東でいちばん清潔な都市に変わろうとしている!」と評している。<ref name="Isabella" />同氏によれば、一連の衛生環境の改善は、市長である李采淵氏と税関長マクレヴィ・ブラウン氏の尽力によるものが大きいとしている。<ref name="Isabella" />{{要出典範囲|朝鮮は20世紀初頭からの日本に併合されるまで、糞尿を道端ですることがごく当たり前に行われていた。|date=2018年5月}}
 
 
 
=== 植生環境 ===
 
かつては緑で覆われていた朝鮮の国土であったが、冬の寒さの厳しさから[[オンドル]]に使う薪にすることや、伝統的な焼畑農業のために大量の樹木を伐採した。朝鮮の大地は岩盤でできているため、木を切ると表土が流れ出してしまい、また植林をほとんど行わなかったため、李氏朝鮮末期には多くの山が禿げ上がっていたといわれる。このため農業生産が壊滅し、農民は肥沃な[[満州]]に移民した([[間島]])。そのため国家的に松の伐採を禁止したりした(禁松令)。なお、日本による統治時代に多くの山で総督府による植林が行われ、現大韓民国においても計画的な植林事業が行われた結果、少なくとも韓国側では植生は大幅に回復している。
 
 
 
== 対外関係 ==
 
=== 清との関係 ===
 
[[File:Korea Goryeo ensign.jpg|thumb|150px|清国の支配が強化されることとなった[[壬午事変]]直後に制定された朝鮮国旗には「大清国属'''高麗'''国旗」と明記されている([[1882年]])([[:commons:File:Flag of old Korea.jpg|実物]])<ref name=chosun20040126>{{cite web|publisher=[[朝鮮日報]]|accessdate=2007年07月05日|date=2004年1月26日|title=最古の太極旗の絵が発見|url=http://www.chosunonline.com/article/20040126000072|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070705102805/http://www.chosunonline.com/article/20040126000072|archivedate=2007年7月5日}}</ref>]]
 
 
 
半島の北の[[満洲]](マンチュリア)に住んでいた[[女真]]人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「[[胡]]」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた[[後金]](のち[[清]])に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、'''小中華思想'''となって表れた。
 
 
 
その後、[[日清戦争]]に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の[[冊封体制]]の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の[[天子]]として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして[[儒教]]が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。
 
 
 
秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させられている清よりも恩のある明を敬うべきとする議論がなされる。事実、明から下賜された[[諡号]]は公式記録に残しているが、清に恭順した16代の仁祖以降は清から下賜された諡号を外交文書を除き、[[朝鮮王朝実録]]を始めとする全ての公文書から抹消し国内では隠していた<ref>[https://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち] 朝鮮日報 2007/09/16</ref>。
 
 
 
[[事大主義]]をとっていた李氏朝鮮では、中華王朝の人間はたとえ犯罪者でも裁くことができず、本国へ丁寧に輸送すべきものとされていた<ref name=book>村井章介『中世倭人伝』</ref>。そのため[[倭寇#後期倭寇|後期倭寇]]最盛期には明人倭寇を討ち取ってしまい処罰される者が出るほどであった<ref>[http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wma_12107002_001&tabid=w 朝鮮王朝実録明宗 33卷, 21年(1566 丙寅 / 명 가정(嘉靖) 45年) 7月 2日(辛卯) 1번째기사](漢文)[[国史編纂委員会]]</ref>。
 
 
 
朝鮮が朝貢していた明や清の皇帝からはしばしば使節が派遣されるが、このとき朝鮮王みずからが皇帝の勅使に対して[[三跪九叩頭の礼]]を行い、皇帝に臣従する意を確認する儀礼が行われた。この儀礼のために漢城の郊外に作られたのが[[慕華館]]・[[迎恩門]]であり、国王は使節が漢城に至ると[[慕華館]]で出迎えて礼を尽くす慣わしであった。後に李氏朝鮮と清の冊封関係が終わると、慕華館は独立館となり、迎恩門は破壊された(後述)。
 
 
 
=== 日本との関係 ===
 
[[ファイル:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg|thumb|300px|[[朝鮮通信使]]]]
 
中国以外の国や民族に対しては、自身を[[中華世界]]の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると[[中原]]の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる[[小中華思想]]である。そこで李氏朝鮮は、周辺国の[[女真]]・[[琉球]]・日本とは交隣外交を繰り広げた。それは、女真・琉球・日本の野蛮国は獣の類だから人間付き合いはできないが、放っておいたら噛みつくため適当にあしらうという外交である<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p139</ref>。
 
 
 
南の日本人に対しては、[[倭寇]]を防ぐために、交易を認めた者も[[倭館]]と呼ばれる居留地への居住を義務付け、厳しく取り締まった。倭館ははじめ富山浦([[釜山広域市|釜山]])、乃而浦([[昌原市|昌原]])、塩浦([[蔚山広域市|蔚山]])の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、[[1509年]]に起こった[[三浦の乱]]やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また[[1592年]]に勃発した[[文禄・慶長の役]]によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた[[対馬藩]]は国書を偽造するなどして([[柳川一件]])、[[1609年]]には日朝が[[己酉約条]]を結び、釜山に[[倭館]]新設も認められた。日本使節の漢城上京は認められなかったが、[[征夷大将軍]]の代替わりを祝賀する[[朝鮮通信使]]が[[江戸]]を訪問し、対馬藩による釜山貿易も[[江戸時代]]を通じて続いた。朝鮮国王と日本の将軍の関係は、[[室町時代]]に[[足利氏]]が明から日本国王として冊封されたこともありおおむね対等として扱われた
 
 
 
{{Main|日朝関係史}}
 
 
 
=== 西欧との関係 ===
 
西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに[[琉球王国]]などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった<ref name="Isabella"/>。18世紀後半には、さまざまな分野で[[西欧]]の影響を受けて新たな試みが見られた。19世紀初頭に[[キリスト教]]と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。
 
 
 
=== 近代の外圧 ===
 
19世紀末期になると、朝鮮は西洋諸国や日本からの介入を受けるようになるが、とりわけ日本の干渉は日清戦争・日露戦争を通じて随一のものとなり、最終的に朝鮮を日本領土化するに至る。朝鮮は、西洋化を推し進めた日本人のことを「禽獣の服を着、禽獣の声を真似する」とまで侮蔑するようになった。
 
 
 
日清戦争において日本が清を朝鮮から駆逐すると、日本と清の間で締結された[[下関条約]]によって朝鮮と清との伝統的宗属関係は終りを告げた。その象徴としての[[迎恩門]]も破壊され、代わりに[[独立門]]が建てられた。朝鮮は日本の強い影響下に置かれるが、自ら皇帝を称する大韓帝国に国号を改めるなど自主独立の道を探る努力も続けられた。しかしその後も日本の強い干渉や日露間の対立などに巻き込まれ、最終的に[[1910年]]に朝鮮は日本に併合された。
 
 
 
== 社会階層 ==
 
[[File:Middle Class in Joseon.jpg|thumb|300px|[[貴族|貴族階級]]である両班]]
 
朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。少数の特権階級(閔氏一族など)は互いに婚姻関係を持ち、それらが地主となり、要職に就くための科挙制度も支配することによって、富と権力を握っている社会であった<ref>カーター・J・エッカート『日本帝国の申し子 高敞の金一族と韓国資本主義の植民地起源』(草思社) ISBN 4794212755  </ref>。
 
[[File:1910년대 조선 기생.jpg|thumb|right|妓生(1910)]]
 
戸籍上の身分は、当初は良民と賤民([[奴婢]]・[[白丁]]、[[妓生]]など)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は[[両班]](貴族および科挙官僚を輩出する階層)・[[中人_(朝鮮)|中人]](技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・[[常人]](一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。
 
 
 
儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。さらにその下層にある賤民階層は、李氏朝鮮初期の比率で人口の30%程度ほどを占めた。
 
 
 
社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば科挙合格により中人から[[両班]]に上昇する一族もあったことが分かっている。しかし、李朝後期には身分制に対する社会統制自体が緩くなり、近代に近づくほど賤民層は激減し、両班層は激増している。これは身分の詐称や族譜の売買、朝鮮政府が富裕な農民や賤民に官位や官職を販売しそれが固定化されていったこと、また奴婢が良民の身分をあがなったり逃亡や両班の雇用人となることで身分転化が起こったものと考えられている<ref>[[四方博]]「李朝人口に関する身分階級別的観察」/『朝鮮社会経済史研究(中)』所載</ref>。両班人口は17世紀の終わりには10%内外であったが、19世紀半ばには両班の占める割合が70%に達した地域もあった。
 
 
 
== 民族構成 ==
 
民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の[[女真人]]が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。
 
 
 
朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは[[華僑]]のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしば[[ナショナリズム]]高揚のため、「[[単一民族国家]]」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる<ref>[http://news.nate.com/view/20070821n11817 初等教科書、高麗時「23万帰化」言及もしない: Nate News]</ref>。
 
 
 
== 経済 ==
 
{{See also|李氏朝鮮の経済}}
 
[[File:Korea ginsen field.jpg|thumb|250px|開城オタネニンジン]]
 
朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーでは、商人に対する風当たりが強かったためである。そのため本格的な[[貨幣]]制度がなかなか定着せず、物々交換か麻布・綿布・米などの現物貨幣で取引された。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。
 
 
 
第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉や清の侵攻でそれまでも構築できていたとは言い難い国内の産業基盤が崩壊し、意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通はあまりにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった<ref>[[シャルル・ダレ]]編 朝鮮事情 東洋文庫</ref>。
 
 
 
このような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また両班が一般民衆に対して常に過酷な財産徴収を行っており[[資本蓄積]]や資本による[[投資]]が不可能な状態であったことや19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。
 
 
 
李氏朝鮮末期に至っても物々交換が中心であり、貨幣の流通は都市部に限られていた<ref name="Isabella"/>。開国後には西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、対外交易を行う釜山などを中心とした港湾部で高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100ドル([[本位銀貨]]で100枚)に相当する貨幣が朝鮮の銅貨では320,000枚となり、運搬するのに馬1頭を使わなければならない<ref name="Isabella"/>こともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。
 
 
 
また、李朝末期まで商店はわずかな両班の使うものであり、一般民衆が使うことのできるまともな商店は存在していなかったか、あったとしても商店にある品を全て集めても当時の10ドル程度にしかならないものであった<ref name="Isabella"/>。そのため多くの民衆は露天市で買い物をしなければならなかった<ref>アジア時報 2009年4月号 [[古田博司]] 「韓国『正しい歴史認識』の虚構と戦略」</ref>。
 
 
 
李氏朝鮮時代の交易は、中国との[[朝貢貿易]]、[[対馬]]を介した日本との交易、[[琉球]]との交易が中心であった。中国の朝貢貿易の主力は[[朝鮮人参]]、[[貂]]皮、[[海獺]]皮、[[コンブ|昆布]]、日本から輸入した[[銀]]などであり、代わりに[[塩]]・[[生糸]]・絹織物などを輸入していた。対馬との交易は、中国から輸入した生糸や絹織物、[[木綿]]、[[朝鮮人参]]、穀類などを輸出し、代わりに[[銀]]や[[銅]]を大量に輸入していた。対馬との貿易のピークは18世紀中頃であり、金額ベースで日清・日蘭貿易をしのいでいたと言われる。しかし、日本銀の生産量が激減すると江戸幕府は中国への銀輸出を規制すると共に自給自足政策を奨励したため、17世紀後半には木綿は自給できるようになり、また生糸、朝鮮人参に関しては18世紀後半に自給体制を整えたために朝鮮から日本への輸出品目から外れた。また、1750年には朝鮮への銀輸出禁止令が江戸幕府から発布され、対馬との間の交易は以後限定的なものとなった。
 
 
 
== 文化 ==
 
=== 廃仏崇儒 ===
 
李氏朝鮮は儒教王国の実現に邁進した結果儒教文化が栄えたが、「しかしそれは、すべて[[中国文化]]の縮小版」であった<ref>[[三田村泰助]]「明帝国と倭寇」『東洋の歴史8』[[人物往来社]]、[[1967年]]、p139</ref>。
 
 
 
李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば[[儒教]]の一派である[[朱子学]]を尊重し、[[仏教]]を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代[[世宗 (朝鮮王)|世宗]]の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や[[奴婢]]の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。
 
 
 
ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代[[世祖 (朝鮮王)|世祖]]は、儒臣との対立から仏教を保護し、漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代[[燕山君]]の時代に破壊され、[[妓生]]を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は[[仏教]]を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代[[明宗 (朝鮮王)|明宗]]の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代[[仁祖]]の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。
 
 
 
=== 印刷事業の発展 ===
 
各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には[[活字]]を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、[[高麗]]時代に中国から伝わった金属活版を改良して高い印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴い、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。
 
 
 
李氏朝鮮は[[朱子学]]を社会的理念として採択しながら[[儒教]]的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。[[16世紀]]には[[士林派]]が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の[[校書館]]が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった。そのため当時個人の所有していた書籍は王から賜り先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。
 
 
 
=== ハングルの発明 ===
 
[[File:Hunminjeongum.jpg|thumb|250px|[[訓民正音]]]]
 
 
 
公的な文化の中心となるのは[[中国語]]の[[文語]]である[[漢文]]であり、[[朱子学]]を中心として[[陽明学]]などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。[[漢字]]のみでは[[朝鮮語]]をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために[[1443年]]に[[ハングル]]の起源になる[[訓民正音]]が作成された。ハングルは朝鮮語の表記に適した合理的な文字体系であったが、中華思想に支配された両班ら男性知識人はこれを[[諺文]](オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。
 
 
 
しかし李朝を通して民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まった。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使う者が現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも呼ばれる『[[春香伝]]』などが書かれた。ハングルを使用した文学には、漢字ハングル混用、ハングル専用の2種類があり、前者は主に革新的な両班、中人階級用。後者は庶民のための文学だった。
 
 
 
[[Image:Korean celestial globe.jpg|thumb|right|荘英実によって制作された渾天儀]]
 
 
 
=== 教育 ===
 
李氏朝鮮は漢城に国立教育機関である「成均館」を設置、現在の大学のような役目を果たした。そして現在の中学校及び高等学校の役目をする教育機関として、漢城には「四学」、地方には「郷校」を置いた。また小学校に該当する「[[書堂]]」もあった。一方地域ごとには偉い[[ソンビ]]や功臣の業績を称頌と崇拜するための学院である「書院」が設立され、儒生らは自分が属した書院に集まって勉強と討論をしながら自分たちが仕える英霊に祭祀をして地域住民らを教化する仕事をした。李氏朝鮮末期には王朝が独自の教科書を作るなどした。しかし、これらは「西洋人は中国人とは異なり禽獣の如き存在である」「ありとあらゆる文物は中国の伝統にかなわない」とする類の[[事大主義]]的な内容であった<ref name="Isabella"/>。
 
 
 
=== 絵画 ===
 
李朝における[[絵画]]は、儒者達の中国文化への傾倒から前半期には[[中国]]山水画の模倣であり、宮廷においても中国の画院の制度を真似た図画署という機関を置き、中国絵画を模した肖像画や儀式の記録画の制作に当たらせた。後半期には、18世紀後半に至り[[金弘道]]と[[申潤福]]が出てようやく中国絵画の模倣から脱し、朝鮮の風景に基づいた山水画、朝鮮の民衆の生活に基づいた風俗画が描かれるようになり、朝鮮独自の絵画が成立した。金弘道は風俗山水画、申潤福は風俗画や美人画を得意とした。また、朝鮮の民衆の中からは素朴ながら力強い[[朝鮮民画|民画]]が生まれた。
 
 
 
=== 磁器 ===
 
[[陶磁器]]では、前代の[[高麗青磁]]に比して、華麗さでは見劣りするが優美さをもつ[[李朝白磁]]と呼ばれる[[磁器]]が知られるが、それに至る過渡期のものとして14世紀後半に誕生した[[粉青沙器]]がある。李朝時代に[[白磁]]が尊ばれたのは[[朱子学]]で白が高貴な気高い色とされているためであるが、その白を求める過程で[[粉引]]([[粉吹]])が生み出された。粉引とは、赤土で成形された素地に化粧土という泥を塗って白化粧を施し、その上に透明の[[釉薬]]をかけ焼成する陶磁器である。李朝の粉引は日本では[[三島]]として知られる。この粉青沙器は16世紀末には廃れ、その後の李朝磁器の主流は15世紀前半から生産が軌道に乗り始めた白磁へと移った。白磁は17世紀後半から18世紀にかけて[[青花]]の全盛期を迎える。
 
 
 
他に、絵画同様、鉄絵の具で力強い文様が描かれた民窯の[[鉄砂]]の焼き物や、釜山の[[倭館]]窯で日本からの注文で焼かれた[[高麗茶碗]]がある。李朝の陶磁器はコバルト顔料と[[辰砂釉]]、鉄絵の具での彩色にとどまり、明や日本のような[[錦手]]、{{ill2|金襴手|en|Kinrande}}と呼ばれる豪奢な[[色絵磁器]]が生み出されることはなかった。これは、儒教道徳を名目とした職人階級に対する非常に厳しい差別があったためだが、白磁は職人達の手を通じ堅実な発展をみせ、日本の陶磁器にも大きな影響を与えた。
 
 
 
=== 芸能 ===
 
朝鮮における芸能は儒教の賤商思想ゆえに都市文化が抑制されたため、芸能は農村部で展開された。[[広大]](クワンデ)や[[キーセン]]などによる[[パンソリ]]といった民話に題材を得た音楽と歌唱を伴う芸能が成立した。当初は農民の芸能として[[両班]]など知識人である支配者階層に賤しまれたが、その内容が文学的に洗練されるにつれ両班の間でも楽しまれるようになり、現在では韓国を代表する伝統芸能として保護されている。
 
 
 
歴史的に朝鮮では、[[タルチュム]]と呼ばれる仮面芝居のようなものはあったが、野外の広場や仮設舞台で行われたので、[[演劇]]のための劇場は20世紀になるまで全く存在しなかった。朝鮮史上初の劇場は1902年に建てられた協律社([[:ko:협률사]])である。
 
 
 
=== 医学 ===
 
[[医学]]分野では高麗の医学の伝統をそのまま受け継いだが、徐々に医療制度の改革、医学教育、専門医学書編纂を通じて東洋医学の集大成を成した。漢城には王族の疾病治療を担当する「内医院」、医学教育と医学取才を総括する「典医監」、一般民を無料で治療する「[[恵民署]]」を設置し、地方には「医院」、「医学教授」、「医学教諭」、「医学院」、「医学丞」などの医療機関を配置した。男性の医師は女性を診察できず、女性を診察する[[医女]]という制度が作られたが、[[妓生]]との区別があいまいだった。李氏朝鮮で刊行になった医学書は1433年に完成された『郷薬集成方』、1445年に完成された医学百科事典『医方類聚』、1610年に完成された[[許浚]]の『[[東医宝鑑]]』などがある。[[1894年]]に李済馬<ref>[[:ko:이제마]]</ref>は「四象医学」([[:ko:사상의학]])を主張した<ref>著書に『東医寿世保元』([[:ko:동의수세보원]])</ref>。四象医学は人間の体質を太陽人、太陰人、少陽人、少陰人で区分して治療する体質医学理論で、現在でも[[韓医学]]界では通用している。
 
 
 
== 年表 ==
 
* [[1392年]]、[[李成桂]]が、高麗・恭譲王の王位を簒奪し、高麗王に即位。
 
=== 朝鮮国 1393年-1897年 ===
 
* [[1393年]]、明国の皇帝に次の国号として「朝鮮」と「和寧」の2つから選んでもらい、国号を朝鮮国に変更する。
 
* [[1398年]]、第一次王子の乱
 
* [[1400年]]、第二次王子の乱
 
* [[1401年]]、明より王を名乗る事を正式に認められる。
 
* [[1404年]]、[[室町幕府]]と国交回復、日朝貿易盛んとなる。
 
* [[1419年]]、[[応永の外寇]] 李氏朝鮮軍による[[対馬国]]侵攻。
 
* [[1443年]]、[[訓民正音]]の制定([[1446年]]公布)。
 
* [[1498年]]、[[士林派]]に対する弾圧[[士禍]]が始まる([[戊午士禍]])。
 
* [[1504年]]、[[甲子士禍]]。
 
* [[1506年]]、[[中宗 (朝鮮王)|中宗]]により[[正音庁]]([[諺文庁]])閉鎖。
 
* [[1510年]]、[[三浦の乱]]。[[対馬]]の日本人による反乱。対馬との通行が一時途絶える。
 
* [[1512年]]、[[壬申約条]]。対馬との通行再開。
 
* [[1519年]]、[[己卯士禍]]。
 
* [[1545年]]、[[乙巳士禍]]。
 
* [[1555年]]、備辺司設置。
 
* [[1559年]] - [[1562年]]、黄海道で民衆反乱(林巨正の乱)。
 
* [[1567年]]、士禍が終わる。以後、士林派同士の対立が続く。
 
* [[1575年]]、士林派の[[東人]]と[[西人]]の対立始まる。
 
* [[1592年]] - [[1593年]]および[[1597年]] - [[1598年]]、[[豊臣秀吉]]の2度の朝鮮侵攻([[文禄・慶長の役]] - 韓国では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼ぶ)を受ける。
 
* [[1607年]]、[[江戸幕府]]と日朝国交回復交渉始まる。
 
* [[1608年]]、[[北人]](東人の分派)の大北、[[光海君]]を擁立。北人政権が始まる。
 
* [[1609年]]、[[日朝通商条約]]。日本との通行回復。幕府との[[朝鮮通信使]]による交流。
 
* [[1619年]]、[[サルフの戦い]]で明との連合軍が[[後金]]軍に大敗。
 
* [[1623年]]、[[仁祖]]のクーデター。[[光海君]]廃される。大北粛清される。
 
* [[1627年]]、[[後金]]軍、朝鮮に侵攻([[丁卯胡乱]])。
 
* [[1636年]]、[[清]]の皇帝[[ホンタイジ]]が朝鮮に親征([[丙子胡乱]])。仁祖、南漢山城に篭城。
 
* [[1637年]]、仁祖降伏し、清に服属する。
 
* [[1654年]]、[[1658年]]、{{仮リンク|羅禅征伐|ko|나선정벌}}。
 
* [[1660年]]、礼論(服喪期間に関する対立)により、[[西人]]と[[南人]](旧東人の分派)が対立する。
 
* [[1683年]]、西人、[[老論派|老論]]と[[少論派|少論]]に分裂する。
 
* [[1721年]] - [[1722年]]、辛壬士禍([[:ko:신임옥사]])。
 
* [[1728年]]、李麟佐の乱。
 
* [[1784年]]、[[キリスト教]]の伝来。
 
* [[1791年]]、キリスト教の弾圧始まる。
 
* [[1796年]]、[[水原城]](華城)建設
 
* [[1801年]]、キリスト教への大規模な弾圧が続く。
 
* [[1804年]]、 士林派による政治の終焉。安東金氏による権勢政治 ( - [[1863年]])。
 
* [[1811年]]、[[洪景来の乱]](地方差別に反発した一揆、平安道農民戦争とも言う)。
 
* [[1811年]]、第12回の朝鮮通信使が家斉襲封祝賀のために出立するが、対馬に差し止められる。朝鮮側はこれを不服として以降断交。
 
* [[1861年]]、[[金正浩]]による朝鮮全図、[[大東輿地図]]の完成。
 
* [[1862年]]、[[壬戌民乱]](慶尚道晋州を中心にした大規模な民衆反乱)
 
* [[1863年]]、[[興宣大院君|大院君]]政権の成立。
 
* [[1866年]]、[[丙寅教獄|丙寅邪獄]]。[[ジェネラル・シャーマン号事件]]。[[丙寅洋擾]]。
 
* [[1871年]]、[[辛未洋擾]]
 
* [[1872年]]、朝鮮大飢饉
 
* [[1873年]]、大院君追放、閔氏政権の成立。
 
* [[1875年]]、[[江華島事件]]勃発。
 
* [[1876年]]、日本の明治政府と[[日朝修好条規]]締結。
 
* [[1882年]]、[[壬午事変]]おこる<ref name=keio20070510/>。[[済物浦条約]]締結<ref name=keio20070510/>。[[米朝修好通商条約]]締結。
 
* [[1883年]]、財政危機を補正し乱れた通貨政策を整備する目的から、造幣機関[[典圜局]]が設置される。
 
* [[1884年]]、[[甲申政変]]、開化派・[[金玉均]]のクーデターは失敗に終わる。
 
* [[1885年]]、[[ポート・ハミルトン事件]]<ref name=porthamilton/>、[[巨文島]]がイギリスに占領される。
 
* [[1888年]]、[[露朝陸路通商条約]]
 
* [[1894年]]、東学党の乱([[甲午農民戦争]])、大院君の政局復帰。大院君派と閔妃派の対立が深まる。[[金玉均]]、[[上海市|上海]]で暗殺される。反乱軍と政府が和解し、反乱平定の名目で駐留していた日清両軍の撤兵を求めるも両軍とも拒否し、[[日清戦争]]勃発。
 
* [[1895年]]、ロシアの支援を受け閔妃復権するも暗殺される。[[日清戦争]]終結。[[下関条約]]により[[清]]から独立。
 
 
 
=== 大韓帝国 1897年-1910年 ===
 
* [[1897年]]、[[大韓帝国]]に改称する。
 
* [[1904年]]、第一次日韓協約
 
* [[1905年]]、[[ポーツマス条約]]によりロシアが日本による大韓帝国保護を認める。米英もフィリピン・インド領承認と交換に日本の韓国保護を承認。[[第二次日韓協約]](日韓保護条約)。
 
* [[1906年]]、[[韓国統監府]]設置
 
* [[1907年]]、[[ハーグ密使事件]]。[[第三次日韓協約]]。[[大韓帝国軍|韓国軍]]、一部を残し解散。
 
* [[1909年]]、韓国統監府初代統監[[伊藤博文]]が[[安重根]]により暗殺される。
 
* [[1910年]]、[[韓国併合ニ関スル条約]]に基づき日本に併合され消滅([[韓国併合]])。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Citebook|和書|author=海野福寿|authorlink=海野福寿|date=1995-05|title=韓国併合|series=岩波新書|publisher=岩波書店|isbn=4-00-430388-5}}
 
*[[梶村秀樹]]「朝鮮史の意味」、{{Citebook|和書|editor=梶村秀樹著作集刊行委員会・編集委員会編|date=1992-11|title=梶村秀樹著作集|volume=第1巻|publisher=明石書店|isbn=4-7503-0467-0}}
 
*{{Citebook|和書|author=金泰俊|authorlink=金泰俊|date=1988-05|title=虚学から実学へ――十八世紀朝鮮知識人洪大容の北京旅行|publisher=東京大学出版会|isbn=4-13-016013-3}}
 
*{{Citebook|和書|author=旗田巍|authorlink=旗田巍|date=2008-02|title=朝鮮史|series=岩波全書セレクション|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-021901-3}}
 
*[[旗田巍]]「朝鮮の歴史」、{{Citebook|和書|author=旗田巍|year=1955|title=世界史講座|volume=第1巻|publisher=東洋経済新報社|isbn=}}
 
*{{Citebook|和書|author=原田武夫|authorlink=原田武夫|date=2007-03|title=「日本封じ込め」の時代――日韓併合から読み解く日米同盟|series=PHP新書|publisher=PHP研究所|isbn=978-4-569-69004-9}}
 
*[[藤永壯]]「「植民地支配は絶対悪」という真理」、{{Citebook|和書|author=太田修|authorlink=太田修|coauthors=[[朴一]]ほか|date=2006-05|title=マンガ嫌韓流のここがデタラメ|publisher=コモンズ|isbn=4-86187-023-2}}
 
*{{Citebook|和書|author=ブルース・カミングス|authorlink=ブルース・カミングス|others=[[横田安司]]・[[小林知子]]訳|date=2003-10|title=現代朝鮮の歴史 世界のなかの朝鮮|publisher=明石書店|isbn=4-7503-1794-2}}
 
*{{Citebook|和書|author=宮嶋博史|authorlink=宮嶋博史|date=1995-08|title=両班――李朝社会の特権階層|publisher=中央公論社|isbn=4-12-101258-5}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[矢木毅]]|date=2008-12|title=近世朝鮮時代の古朝鮮認識|publisher=[[東洋史研究]]67(3)|url=http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152116/1/JOR_67_3_402.pdf|
 
ref={{Harvid|矢木毅|2008}}}}
 
*{{Cite book|和書|author=[[荒野泰典]]・[[村井章介]]・[[石井正敏]]編集|date=1992-07|title=アジアのなかの日本史 2 外交と戦争|publisher=[[東京大学出版会]]|url=|isbn=978-4130241229|
 
ref={{Harvid|アジアのなかの日本史|1992}}}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[朝鮮の君主一覧#李氏朝鮮]]
 
* [[朝鮮国王の廟号と諡号の一覧]]
 
* [[李氏朝鮮の身分制度]]
 
* [[李氏朝鮮の経済]]
 
* [[李氏朝鮮の科挙制度]]
 
* [[李氏朝鮮の家族制度]]
 
* [[朝鮮の民間療法]]
 
* [[朝鮮王室儀軌]]
 
* [[朝鮮燕行使]]
 
* [[明史]]
 
* [[清史稿]]
 
* [[大長今]]
 
* [[イザベラ・バード]]
 
* [[シャルル・ダレ]]
 
* [[ヘンドリック・ハメル]]
 
* [[朝鮮の文化]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Joseon Dynasty}}
 
* [http://wwwsoc.nii.ac.jp/chosenshi/ 朝鮮史研究会]
 
* [http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp 朝鮮王朝実録] 韓国国史編纂委員会
 
  
 +
別称「李朝」は古朝鮮の箕子朝鮮([[箕子東来説]]),[[衛氏朝鮮]]に対し,朝鮮王朝を李氏朝鮮と俗称したものをさらに略称した俗称である。朝鮮半島では 15世紀にいたって農業・商業・手工業が発展,中央集権体制も確立した。この時期を過ぎると封建体制の内部矛盾が現れ,16世紀後半から 19世紀まで[[党争]]が激しく展開された。朝鮮王朝は指導原理を儒教に求め([[朝鮮の儒教]]),明には「事大」,日本その他の国には「交隣」の外交政策をとった。その間,日本の侵略(1592~98。[[文禄・慶長の役]]),満州族の侵略(1627。[[丁卯胡乱]],1636~37)を受け,国土は荒廃し,農業生産は低下した。18世紀頃から商品貨幣経済の発展とともに資本主義経済が芽生え,封建体制はゆるみはじめた。19世紀になると諸制度は乱れ,天災,悪疫,飢饉,流亡などが相次ぐなかで,農民反乱が頻発した。一方,欧米列国の開国要求も強く,高宗13(1876)年には日本の強圧により開国。開国後の半植民地状況下に,軍人によるクーデター,反封建反侵略のスローガンのもとに農民戦争が起こった([[京城事変]],[[甲午農民戦争]])。建陽2(1897)年国号を[[大韓帝国]]と改め,近代国家体制建設に努めたが,日清戦争,日露戦争に勝利を得た日本に光武9(1905)年保護条約([[日韓協約]])を強要され,隆煕4(1910)年8月日本に併合された。この時代の歴代王族の墓である朝鮮王陵は,首都であった漢城([[ソウル特別市]])を中心とした大韓民国(韓国)国内 18ヵ所に点在する。儒教や風水([[陰陽地理説]])をもとに設計された景観をもつ 40基におよぶ墓全体が,2009年[[世界遺産]]の文化遺産に登録された。
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2018/11/1/ (木) 00:03時点における最新版

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:리씨조선

朝鮮,太祖(李成桂)の建国(1392)から日韓併合(1910)まで続いた封建王朝。

別称「李朝」は古朝鮮の箕子朝鮮(箕子東来説),衛氏朝鮮に対し,朝鮮王朝を李氏朝鮮と俗称したものをさらに略称した俗称である。朝鮮半島では 15世紀にいたって農業・商業・手工業が発展,中央集権体制も確立した。この時期を過ぎると封建体制の内部矛盾が現れ,16世紀後半から 19世紀まで党争が激しく展開された。朝鮮王朝は指導原理を儒教に求め(朝鮮の儒教),明には「事大」,日本その他の国には「交隣」の外交政策をとった。その間,日本の侵略(1592~98。文禄・慶長の役),満州族の侵略(1627。丁卯胡乱,1636~37)を受け,国土は荒廃し,農業生産は低下した。18世紀頃から商品貨幣経済の発展とともに資本主義経済が芽生え,封建体制はゆるみはじめた。19世紀になると諸制度は乱れ,天災,悪疫,飢饉,流亡などが相次ぐなかで,農民反乱が頻発した。一方,欧米列国の開国要求も強く,高宗13(1876)年には日本の強圧により開国。開国後の半植民地状況下に,軍人によるクーデター,反封建反侵略のスローガンのもとに農民戦争が起こった(京城事変甲午農民戦争)。建陽2(1897)年国号を大韓帝国と改め,近代国家体制建設に努めたが,日清戦争,日露戦争に勝利を得た日本に光武9(1905)年保護条約(日韓協約)を強要され,隆煕4(1910)年8月日本に併合された。この時代の歴代王族の墓である朝鮮王陵は,首都であった漢城(ソウル特別市)を中心とした大韓民国(韓国)国内 18ヵ所に点在する。儒教や風水(陰陽地理説)をもとに設計された景観をもつ 40基におよぶ墓全体が,2009年世界遺産の文化遺産に登録された。

先代:
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1392年 - 1897年
次代:
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