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{{Otheruses}}
 
{{Otheruses}}
'''東海道'''(とうかいどう、うみつみち)は、[[五畿七道]]の一つ。[[本州]][[太平洋]]側の中部の[[行政区分]]、および同所を通る[[幹線道路]]([[古代]]から[[近世]])を指す。
+
'''東海道'''(とうかいどう、うみつみち)
  
== 行政区画としての東海道 ==
+
古代[[五畿七道]]の一つ。伊賀,伊勢,志摩,尾張,三河,遠江,駿河,甲斐,伊豆,相模,安房,上総,下総,常陸の 14ヵ国,のちに武蔵が加えられた。またこの地域を通る街道の呼称でもある。 30里 (約 120km) ごとに駅を設置し,駅馬を常備した。鎌倉時代には交通量が増加し街道としての重要度が高まり,江戸時代には[[五街道]]の一つに定められた。 53の宿駅がおかれ,軍事的な意味から河川の架橋が禁じられた。また箱根,新居などには関所が設けられ,江戸への出入りがきびしく監視された。 ([[新居関]] , [[箱根関]] )
{{Pathnav|令制国一覧|frame=1}}
 
[[ファイル:Tokaido.svg|thumb|250px|東海道]]
 
  
行政区分の東海道は、[[畿内]]から東に伸びる、[[本州]][[太平洋]]側の中部を指した。これは、現在の[[三重県]]から[[茨城県]]に至る[[太平洋]]沿岸の地方に相当する{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}。当初、武蔵国は[[東山道]]に属しており、771年に加わったものである{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}。
+
{{日本の道100選}}
 
 
* [[伊賀国]](現在の三重県の西部)
 
* [[伊勢国]](現在の三重県の西部と南部及び志摩半島部を除く全域)
 
* [[志摩国]](現在の三重県の志摩半島部と愛知県の渥美半島の間にある一部の島々)
 
* [[尾張国]](現在の愛知県の西部)
 
* [[三河国]](現在の愛知県の中部と東部)
 
* [[遠江国]](現在の静岡県の西部)
 
* [[駿河国]](現在の静岡県の中部及び東部)
 
* [[伊豆国]](現在の伊豆半島及び伊豆諸島)
 
* [[甲斐国]](現在の山梨県)
 
* [[相模国]](現在の神奈川県の中部・西部)
 
* [[武蔵国]](現在の東京都と埼玉県、神奈川県東部の一部。771年までは[[東山道]]{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}})
 
* [[安房国]](現在の千葉県の南部)
 
* [[上総国]](現在の千葉県の中部)
 
* [[下総国]](現在の東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、埼玉県の中川東岸、茨城県の南西部)
 
* [[常陸国]](現在の茨城県)
 
 
 
=== 変遷 ===
 
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|title = 東海道令制国の変遷
 
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|titlestyle = text-align: center; ; background:lightgrey;
 
}}
 
; 名称の変更に限るもので、令制国間の郡・郷の移動に関しては記載していない。
 
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|||:|02||||||||||||:|03|:||04|:|05| 01='''古代国<br/>([[令制国]]前身)'''|02='''[[大宝律令]]制定<br/>([[701年]])'''|03='''[[824年]]-明治'''|04='''[[明治|明治時代]]'''|05='''現在の[[都道府県]]'''}}
 
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{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|.|,|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[伊賀国造|伊賀国]]|02='''[[伊賀国]]'''<br/>([[680年]]-)|03='''[[伊賀国]]'''|04=[[三重県]](西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|+|^|*|02|v|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[伊勢国造|伊勢国]]|02='''[[伊勢国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[伊勢国]]'''|04=三重県(北中部)・[[愛知県]](一部)・[[岐阜県]](一部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:||||`|02|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[島津国造|島津国]]|02=[[志摩国]]<br/>([[8世紀]]初め-)|03='''[[志摩国]]'''|04=三重県(東部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[尾張国造|尾張国]]|02='''[[尾張国]]'''<ref group="注"> [[田中卓]]が「尾張国はもと東山道か」(1980年)という論文を著し、東海道は本来は伊勢国から海路で三河国に向かうルートを取っていたとする観点から、尾張国が武蔵国と同様に元は東山道で後に東海道に移管されたとする説を唱えている。</ref><br/>([[7世紀]]-)|03='''[[尾張国]]'''|04=愛知県(西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|03|*|04|*|-|04|%|05| 01=[[参河国造|参河国<br/>(三川国・三河国)]]|02='''[[三河国|参河国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03=[[三河国]]<br/>([[784年]]-)|04='''[[三河国]]'''|05=愛知県(東部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[穂国造|穂国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[遠淡海国造|遠淡海国]]|02='''[[遠江国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[遠江国]]'''|04=[[静岡県]](西部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|(||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[久努国造|久努国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[素賀国造|素賀国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|v|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[珠流河国造|珠流河国]]|02='''[[駿河国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[駿河国]]'''|04=静岡県(中部・北東部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|(|!|:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[廬原国造|廬原国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'|`|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[伊豆国造|伊豆国]]|02='''[[伊豆国]]'''<br/>([[680年]]-)|03='''[[伊豆国]]'''|04=静岡県([[伊豆半島]])、[[東京都]]([[伊豆諸島]])}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[甲斐国造|甲斐国]]|02='''[[甲斐国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[甲斐国]]'''|04=[[山梨県]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[相武国造|相武国]]|02='''[[相模国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[相模国]]'''|04=[[神奈川県]](北東部以外大部分)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|'||:|||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[師長国造|師長国]]}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left||||||:|||||||||||01|-|*|02|*|-|02|%|03| |01=[[武蔵国]]<br/>([[771年]]、[[東山道]]から移管)|02='''[[武蔵国]]'''|03=東京都(大部分)、[[埼玉県]](大部分)、神奈川県(北東部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|||:||||,|02|.|,|03|-|-|*|04|*|-|04|%|05| 01=[[総国|総国(捄国)]]<br />([[阿波国造|阿波国]]など十数カ国)<ref group="注">[[阿波国造|阿波国]]のほか、[[長狭国造|長狭国]]、[[須恵国造|須恵国]]、[[馬来田国造|馬来田国]]、[[菊麻国造|菊麻国]]、[[伊甚国造|伊甚国]]、[[上海上国造|上海上国]]、[[武社国造|武社国]]、[[下海上国造|下海上国]]、[[千葉国造|千葉国]]、[[印波国造|印波国]]。</ref>|02=[[安房国]]<br />([[718年]]-[[742年]])|03=[[安房国]]<br />([[757年]]-)|04='''[[安房国]]'''|05=[[千葉県]](南部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|^|-|-|-|^|^|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[上総国]]<br />(上捄国、[[6世紀]]-)<ref group="注">『帝王編年記』は上総国の成立を[[安閑天皇]]元年([[534年]])とする。</ref>|02='''[[上総国]]'''<br />(令制国、[[7世紀]]-)|03='''[[上総国]]'''|04=千葉県(中部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|-|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[下総国]]<br />(下捄国)|02='''[[下総国]]'''<br />(令制国、[[7世紀]]-)|03='''[[下総国]]'''|04=千葉県(北部)、[[茨城県]](南西部)、埼玉県(一部)、東京都(一部)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left|01|v|-|*|02|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|*|03|*|-|03|%|04| 01=[[茨城国造|茨城国]]など7カ国<ref group="注">[[茨城国造|茨城国]]のほか、[[筑波国造|筑波国]]、[[新治国造|新治国]]、[[久自国造|久自国]]、[[仲国造|仲国]]、[[高国造|高国]](多珂国)、[[道口岐閉国造|道口岐閉国]]。</ref>|02='''[[常陸国]]'''<br/>([[7世紀]]-)|03='''[[常陸国]]'''|04=茨城県(南西部以外大部分)}}
 
{{familytree|border=0|boxstyle=text-align:left||||`|01||||||||||||||:||||:|||||:| 01=[[陸奥国]]([[東山道]])}}
 
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{{Reflist|group=注}}
 
{{hidden end}}
 
 
 
{{令制国一覧}}
 
 
 
== 道(みち)としての東海道 ==
 
{{Pathnav|主要カテゴリ|[[:Category:技術|技術]]・[[:Category:社会|社会]]・[[:Category:歴史|歴史]]|交通|[[:Category:テーマ史|テーマ史]]・[[:Category:技術史|技術史]]・[[:Category:交通史|交通史]]|[[:Category:各国の交通史|各国の交通史]]|[[:Category:日本の交通史|日本の交通史]]|街道|frame=1}}
 
[[ファイル:Tokaido.PNG|thumb|250px|東海道の概略]]
 
=== 律令時代 ===
 
==== 概説 ====
 
東海道は律令時代に設けられた[[五畿七道]]の一つで<ref group="注釈">東海道各国の[[国府]]を駅路で結び、東海道に巡察に派遣された官人が順に移動した。</ref>、中路である{{sfn|浅井建爾|2001|p=87}}。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。
 
 
 
その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、[[揖斐川]]・[[長良川]]・[[木曽川]]・[[大井川]]・[[安倍川]]・[[富士川]]・[[多摩川]]・[[利根川]](当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された[[10世紀]]以降のことと考えられている<ref name="kitamura">北村優季「長岡平城遷都の史的背景」(初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年) ISBN 978-4-642-04610-7</ref>。
 
 
 
中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。
 
 
 
==== 畿内から近国まで ====
 
[[首都]]が[[飛鳥]]に置かれた時期には、[[大和国]]の[[宇陀]]が、東海道方面への入口だったと考えられているが<ref group="注釈">概ね後の[[初瀬街道]]、現在の[[国道165号|国道165号線]]に沿ったルートであったと想定される。</ref>、その後、[[平城京]]に遷都されると、平城京から[[平城山]]を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って[[伊賀国]]に入り、[[鈴鹿山脈]]と[[布引山地]]の鞍部を[[加太越え]]で越えて[[伊勢国]]へ、[[木曽三川]]を下流域で渡って[[尾張国]][[津島市|津島]]へ、[[名古屋市]]を通り、[[三河国]]と続いていったと考えられている。およそ、現在の[[国道163号|国道163号線]]・[[国道25号|国道25号線]]・[[国道1号]]に沿ったルートであった。
 
 
 
ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは[[飛鳥]]や[[平城京]]から[[鈴鹿峠]]を経由してそのまま伊勢国の港から[[伊勢湾]]を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の[[不破関]]に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の[[七里の渡し]]や[[美濃路]]の原型として考えることもできる<ref name=kitamura/>。
 
 
 
[[平安京]]に遷都されると、起点が平安京に移ったため、伊賀国から、[[近江国]]を通るルートに変更されることになる。平安時代初期には現在の[[杣街道]]から伊賀国に入る経路がとられたが、[[886年]]([[仁和]]2年)に鈴鹿峠を通る経路に変更され、ほぼ現在の国道1号のルートに準ずるようになった。
 
 
 
==== 中国・遠国 ====
 
現在の[[浜松市]]付近から[[駿河国|駿河国府]]([[静岡市]])に至る経路は、江戸時代の旧東海道よりも、やや海岸寄りを通っていたとみられている。[[焼津市]]と[[静岡市]]との境は難所であり、日本坂と呼ばれ、[[日本武尊]]の東征伝説や[[万葉集]]の歌にも詠まれている。平安時代には、やや内陸寄りの[[宇津ノ谷峠]]を通る経路へ変更され、[[蔦の細道]]として文献に現れる。
 
 
 
駿河国と相模国の国境の峠越えについては、[[沼津市|沼津]]から永倉駅([[長泉町]])を経て横走駅([[御殿場市|御殿場]])を経由し[[足柄峠]]を越え、坂本駅([[関本]])に至る足柄路が使われた。ただし[[富士山]]の[[延暦噴火]](800年〜802年)の際にこの駿河側の復旧に時間を要したため、新たに[[三島市|三島]]から[[箱根山|箱根カルデラ]]を縦貫し[[小田原]]へ至る[[箱根路]]が開かれ一時的に使われた。[[甲斐国|甲斐国府]](山梨県[[笛吹市]])へは横走駅から北上する分岐路([[甲斐路]])を通った。
 
 
 
[[相模国]]では[[国府津]]から[[大磯]]まで[[相模湾]]沿いに東へ進み、相模国中部([[寒川町]]南西付近)で[[相模川]]を渡った<ref group="注釈">ただし相模国の東海道および[[相模国|相模国府]](相模国中部)の位置には諸説がある。</ref>。[[鎌倉市|鎌倉]]以東は、東京湾岸の河川の渡河を避け海路をとるため、[[三浦半島]]へ入り、走水から[[浦賀水道]]を渡って[[房総半島]]([[上総国]][[富津]])に入った{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}<ref>「千葉県の歴史 - 通史編」千葉県、2001年</ref>。そこから北上して、[[上総国|上総国府]](現在の千葉県[[市原市]])を経て[[下総国]]荒海駅([[成田市]])で[[香取海]]を[[渡船]]し[[常陸国]]榎浦津駅([[稲敷市]]柴崎)へ入り、[[常陸国|常陸国府]](茨城県[[石岡市]])へ至った。[[安房国|安房国府]]へは富津から南下する分岐路を通った。上総国府から[[下総国|下総国府]](千葉県[[市川市]])へも分岐路が伸びていた。
 
 
 
[[武蔵国]]は当初は歴史的経緯から[[東山道]]に属し、[[上野国]]新田駅・[[下野国]]足利駅から南下する支路である[[東山道武蔵路]]が[[武蔵国|武蔵国府]](東京都[[府中市 (東京都)|府中市]])まで伸びていた<ref group="注釈">ただし東山道に属する武蔵国を[[東山道武蔵路]]を通って公務上管理することは非効率的であった。</ref>。
 
 
 
やがて、武蔵国には帰化人が多く移り住み東海道との交通が活発となり、実情および管理の合理性から、[[771年]]に東海道へ移管された{{sfn|浅井建爾|2001|p=88}}。東海道は相模国以東はそれまでの海路で上総国へ入ることを止め、相模国中部を北上して武蔵国府に至り<ref group="注釈">多摩川を[[関戸の渡し]]で渡った。</ref>、武蔵国府もしくは相模国中部から東行して<ref group="注釈">相模国中部から[[中原街道]]もしくは[[厚木街道]]に近い経路を通り多摩川は[[丸子の渡し]]で渡った。</ref>、下総国府を経て上総国府へ向う経路となった。途中の東京湾岸は現在の[[東京]][[都心#東京における都心|都心]]部を通り、その東側に広がる[[隅田川]]・[[利根川]]・[[渡良瀬川]]の[[デルタ地帯]]は各川を[[渡船]]した。
 
 
 
[[805年]]には、上総国府から北上する路線(香取道)を止め、下総国府から直接北上し常陸国へ入る経路となった(相馬道)<ref group="注釈">この経路が現在に至る[[水戸街道]]の原型となった。</ref>。途中の経路は[[柏市]]・[[我孫子市]]([[布佐町|布佐]])・[[利根町]]を通り<ref group="注釈">[[手賀沼]]と当時の[[常陸川]]とに南北を挟まれ東西に細長く伸びるこの台地上を進み東端の布川([[利根町]])に達し、そこから北上し当時の[[常陸川]]・[[鬼怒川]]を渡船した。</ref>、当時の[[常陸川]]・[[鬼怒川]]を渡船し<ref group="注釈">当時、この付近は[[常陸川]]が現在の[[新利根川]]を流れ、[[鬼怒川]]が[[龍ケ崎市]]と[[利根町]]との間を流れていた。</ref>、鬼怒川北岸台地の馴馬・長峰付近([[龍ケ崎市]])から常陸国へ入った。
 
 
 
常陸国の先、[[勿来関]]の北側の、現在の[[福島県]][[浜通り]]地方南部は、所属がやや流動的であり、当初は、常陸国まで太平洋沿岸に伸びてきた東海道の延長として扱われることもあったが、その後、現在の[[宮城県]]に置かれた[[多賀城|陸奥国府]]の管轄下に置かれることとなり、東山道に属することとなった。東海道の延長は、常陸国北部で内陸に入り、[[棚倉構造線]]沿いの構造谷を北上して、東山道に合流する連絡路で接続された。
 
 
 
=== 平安中後期 ===
 
平安時代中期を過ぎると、律令制の弛緩に伴い、国家の公的な交通に代わり、より現実的な必要に伴う交通が行われるようになったと考えられている。[[更級日記]]には、[[1020年]]秋に、著者菅原孝標女の父の上総国への赴任が終わり、東海道を通って京都に帰る道程が記されているが、そこには、濃尾平野北西部の[[墨俣]]と、東山道の要衝のはずの[[不破関]]を通過したと記されており、当時の事実上の交通状況が窺える。
 
 
 
=== 中世 ===
 
[[鎌倉幕府]]の[[政庁]]所在地鎌倉は、前述のように、古い東海道の沿道上に所在しており、「武家の政庁所在地」鎌倉と、「朝廷・[[院]]の所在地」京都を結ぶ、最も重要な街道は、旧時代の東海道ルートをそのまま転用して事足りることになった。この、鎌倉[[極楽寺坂切通し]]と、京都[[京の七口|粟田口]]を結ぶ街道は、単に[[鎌倉街道]]と呼ばれたり、海道と呼ばれたりしていた。また箱根路の整備が進んだ。
 
 
 
しかし、古代の律令制下とは、気候・地勢や利用者・利用目的・整備状況など、さまざまな状況が異なっており、具体的な道程には、かなりの相違が見られる。全般に、古代の東海道より、かなり内陸寄りを通る場合が多かった。例えば、三河国東部では、[[豊橋市]]の[[普門寺 (豊橋市)|普門寺]]から、[[弓張山地]]を越えて同市多米町に至り、[[豊川市]]当古町で[[豊川]]を渡河するというルートだったと考えられており、律令制下の東海道どころか、江戸時代の東海道や、現在の国道1号よりはるかに内陸の山がちなルートを選択していることが分かる。また、尾張国では、名古屋市中区古渡・[[中村区]]を通り、[[あま市]]下萱津と[[一宮市]]を通って、墨俣から[[美濃国]]に入り、そのまま、東山道ルートと合流して、不破関を通過して近江国に入り、さらに[[北陸道]]と合流して京都へ向かうルートが、鎌倉街道の本道であると理解されていた。現在の交通路で言えば、国道1号よりも、むしろ[[東海道本線]]に近いルートが選択されていたと言える。
 
 
 
この鎌倉街道は、鎌倉幕府滅亡後も、主要な交通路としての地位を維持し続けた。静岡県[[磐田市]]の[[一の谷墳墓群遺跡]]の様相に、中世における[[遠江国]]の宿場町の繁栄を伺うことができる。また、戦国時代になると、[[六角氏]]の[[観音寺城]]、[[織田氏]]の[[清洲城]]、[[松平氏]]の[[岡崎城]]・[[浜松城]]、[[今川氏]]の[[駿府城]]、[[後北条氏]]の[[小田原城]]など、名だたる戦国武将の根拠地が築かれていった。また、尾張美濃国境の墨俣は、鎌倉街道の[[木曽川]]渡河点として、大変に重要なポイントであり、[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の「墨俣一夜城」の逸話は、これを地理的背景とするものである。
 
 
 
=== 江戸時代 ===
 
 
 
<imagemap>
 
File:東海道.svg|right|512px
 
circle 464 66 4 [[日本橋 (東京都中央区)|]]
 
circle 461 74 4 [[品川宿]]
 
circle 457 85 4 [[川崎宿]]
 
circle 451 93 4 [[神奈川宿]]
 
circle 446 96 4 [[程ヶ谷宿]]
 
circle 440 102 4 [[戸塚宿]]
 
circle 436 108 4 [[藤沢宿]]
 
circle 423 110 4 [[平塚宿]]
 
circle 418 113 4 [[大磯宿]]
 
circle 403 121 4 [[小田原宿]]
 
circle 390 128 4 [[箱根宿]]
 
circle 379 137 4 [[三島宿]]
 
circle 373 140 4 [[沼津宿]]
 
circle 367 137 4 [[原宿]]
 
circle 356 132 4 [[吉原宿]]
 
circle 348 136 4 [[蒲原宿]]
 
circle 343 139 4 [[由比宿]]
 
circle 339 146 4 [[興津宿]]
 
circle 334 151 4 [[江尻宿]]
 
circle 325 156 4 [[府中宿 (東海道)]]
 
circle 321 159 4 [[鞠子宿]]
 
circle 315 163 4 [[岡部宿]]
 
circle 312 168 4 [[藤枝宿]]
 
circle 304 173 4 [[島田宿]]
 
circle 299 175 4 [[金谷宿]]
 
circle 294 177 4 [[日坂宿]]
 
circle 288 181 4 [[掛川宿]]
 
circle 279 184 4 [[袋井宿]]
 
circle 272 186 4 [[見附宿]]
 
circle 259 189 4 [[浜松宿]]
 
circle 247 192 4 [[舞阪宿]]
 
circle 242 190 4 [[新居宿]]
 
circle 236 191 4 [[白須賀宿]]
 
circle 231 187 4 [[二川宿]]
 
circle 225 182 4 [[吉田宿]]
 
circle 218 173 4 [[御油宿]]
 
circle 215 169 4 [[赤坂宿 (東海道)|赤坂宿]]
 
circle 208 164 4 [[藤川宿]]
 
circle 202 158 4 [[岡崎宿]]
 
circle 189 151 4 [[池鯉鮒宿]]
 
circle 180 142 4 [[鳴海宿]]
 
circle 176 138 4 [[宮宿]]
 
circle 155 144 4 [[桑名宿]]
 
circle 147 156 4 [[四日市宿]]
 
circle 140 163 4 [[石薬師宿]]
 
circle 136 167 4 [[庄野宿]]
 
circle 129 170 4 [[亀山宿]]
 
circle 123 170 4 [[関宿]]
 
circle 120 166 4 [[坂下宿]]
 
circle 112 160 4 [[土山宿]]
 
circle 102 156 4 [[水口宿]]
 
circle 89 150 4 [[石部宿]]
 
circle 80 149 4 [[草津宿]]
 
circle 70 150 4 [[大津宿]]
 
circle 61 150 4 [[三条大橋]]
 
desc top-right
 
</imagemap>
 
 
 
[[徳川家康]]が、1590年(天正18年)に[[江戸]]に入城する。戦国時代の頃には江戸と平塚を結ぶ経路は、現在の[[中原街道]]が使われ、徳川家康も利用した。
 
 
 
<!-- ==== 近世東海道 ==== -->
 
==== 道としての東海道の誕生 ====
 
徳川家康は、[[1601年]](慶長6年)に「[[五街道]]整備」により、五つの街道と「[[宿場|宿]](しゅく)」を制定し、道としての「東海道」が誕生する。[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]](江戸)から[[三条大橋]]([[京都市|京都]])に至る[[宿駅]]は、53箇所でいわゆる[[東海道五十三次]]である。又、[[箱根町|箱根]]と[[新居町 (静岡県)|新居]]に[[関所]]を設けた。その後、[[1603年]](慶長8年)には、東海道松並木や一里塚を整備する。
 
 
 
==== 経路と宿場 ====
 
東海道は、江戸の日本橋から[[小田原宿]]、[[駿府宿]]、[[浜松宿]]、[[宮宿]](熱田宿)を経て、[[七里の渡し]]で[[伊勢湾]]を渡り、[[桑名宿]]、[[草津宿]]を経て京都の三条大橋まで[[東海道五十三次|五十三次]]ある。距離は約490kmあり、山間部の経路をとる[[中山道]]よりも約40kmほど短いが{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}、東海道には行く手を阻む大きな河川が何本もあり、六郷川([[多摩川]])、[[馬入川]]、[[富士川]]、[[天竜川]]は船渡しによる渡河が行われたが、[[大井川]]をはじめ、[[安倍川]]、[[酒匂川]]では[[江戸幕府]]により渡し船が許されず、川越人足(歩行渡し)による渡河をする必要があった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。川の上流で雨が降ると川は増水したので、水位が増すごとに川札代も高くなり、七里の渡しの船賃よりも高かったといわれる。さらに、雨で増水した川は川止めとなることもあり、川の流れが一定水位まで下がるまで、何日でも宿代がかさむこととなった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。[[箱根八里]]や七里の渡しも交通難所で、七里の渡しでは宮から桑名までの七里(約28km)を海を船で揺られながら渡るのに、6時間余りを要した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=98-99}}。このため、これをバイパスする[[佐屋路]]が尾張初代藩主の[[徳川義直]]によって開かれ、宮から桑名まで9里(約36km)で結ばれた。また幕府による「[[入鉄砲出女]]」の取り締まりが行われ、とりわけ[[新居関|新居の関]]は厳しかった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。
 
 
 
[[尾張国|尾張]]の[[宮宿|宮]](熱田)からは脇街道(脇往還)である[[美濃路]]と接続し、美濃の[[垂井宿|垂井]]で中山道と連絡した{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。また、東海道の脇街道である[[本坂通|本坂道]]([[姫街道 (東海道)|姫街道]])は、[[浜名湖]]を渡る[[今切の渡し]]や、新居関を避けて浜名湖を北に迂回するもので、[[浜松宿]]から[[御油宿]]までの東海道をバイパスした{{sfn|浅井建爾|2001|pp=100-101}}。
 
 
 
* [[武蔵国|武蔵]](現・東京都、神奈川県の一部)
 
*:[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]](江戸) - [[品川宿|品川]] - [[川崎宿|川崎]] - [[神奈川宿|神奈川]] - [[程ヶ谷宿|保土ヶ谷]] -
 
* [[相模国|相模]](現・神奈川県の大部分)
 
*:[[戸塚宿|戸塚]] - [[藤沢宿|藤沢]] - [[平塚宿|平塚]] - [[大磯宿|大磯]] - [[小田原宿|小田原]] - [[箱根宿|箱根]] -
 
* [[伊豆国|伊豆]](現・静岡県東部の一部、伊豆諸島)
 
*:[[三島宿|三島]] -
 
* [[駿河国|駿河]](現・静岡県中・東部の大部分)
 
*:[[沼津宿|沼津]] - [[原宿 (東海道)|原]] - [[吉原宿|吉原]] - [[蒲原宿|蒲原]] - [[由比宿|由比]] - [[興津]] - [[江尻宿|江尻]] - [[府中宿 (東海道)|府中]](駿府) - [[鞠子宿|鞠子]] - [[岡部宿|岡部]] - [[藤枝宿|藤枝]] - [[島田宿|島田]] -
 
* [[遠江国|遠江]](現・静岡県西部)
 
*:[[金谷宿|金谷]] - [[日坂宿|日坂]] - [[掛川宿|掛川]] - [[袋井宿|袋井]] - [[見附宿|見附]] - [[浜松宿|浜松]] - [[舞阪宿|舞坂]] - [[新居宿|新居]] - [[白須賀宿|白須賀]] -
 
* [[三河国|三河]](現・愛知県東部)
 
*:[[二川宿|二川]] - [[吉田宿|吉田]] - [[御油宿|御油]] - [[赤坂宿 (東海道)|赤坂]] - [[藤川宿|藤川]] - [[岡崎宿|岡崎]] - [[池鯉鮒宿|池鯉鮒]] -
 
* [[尾張国|尾張]](現・愛知県西部)
 
*:[[鳴海宿|鳴海]] - [[宮宿|宮]](熱田) -
 
* [[伊勢国|伊勢]](現・三重県)
 
*:[[桑名宿|桑名]] - [[四日市宿|四日市]] - [[石薬師宿|石薬師]] - [[庄野宿|庄野]] - [[亀山宿|亀山]] - [[関宿|関]] - [[坂下宿|坂下]] -
 
* [[近江国|近江]](現・滋賀県)
 
*:[[土山宿|土山]] - [[水口宿|水口]] - [[石部宿|石部]] - [[草津宿|草津]] - [[大津宿|大津]] -
 
* [[山城国|山城]](現・京都府)
 
*: [[三条大橋]](京)
 
  
==== 西の起点(五十三次か五十七次か) ====
+
{{テンプレート:20180815sk}}
著名な文学作品や[[浮世絵]]などの影響で、近世東海道の西の起点は京都三条大橋であるという考え方が広く行われているが、幕府は京ではなく[[大阪市|大坂]]までの街道を一体整備しており、こちらを加えたものが本来の近世東海道であるとする理解もある。この場合、最も西側の部分は、[[京街道 (大坂街道)|京街道]]がそれに相当する。この考え方を取る場合、東海道は京都中心部へは入らず、大津宿の西側の追分から、[[山科盆地]]を南西方向へ向かい、現在の[[名神高速道路]]付近を通って京都東山を越え、[[伏見区|伏見]]城下町を貫通して[[淀川]]沿いに進み、[[石清水八幡宮]]の手前で淀川・[[木津川 (京都府)|木津川]]を渡る。そしてそのまま淀川左岸を大坂へ向かい、大坂[[高麗橋]]が、江戸日本橋に対する西の起点となる。途中の宿駅は4箇所あり、併せて[[東海道五十七次]]となる{{sfn|浅井建爾|2001|pp=94-95}}。
 
 
 
==== 江戸幕府の道路政策 ====
 
[[File:Tokaido1825.jpg|thumb|250px|[[幕末]]における東海道の松並木]]
 
慶長9年2月に[[大久保長安]]その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に[[エノキ|榎樹]]を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里堠を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に[[伝馬]]、[[飛脚|継飛脚]]の制が定められた。各宿駅に人夫100人、[[ウマ|馬]]100匹を常備し(百人百匹の制)、幕府や大名などの往来に供した。これが寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、100人100匹の定員のなかから公用その他の準備として30人20匹を除き置き、平時は70人80匹を武家その他に供した(人馬七八遣の法)。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅で250人200匹を常備する定めだったが、実際の員数は規定どおりの規模には至らなかった。このほかにも飛脚の制があった。
 
 
 
幕府は各宿駅で田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与して、これを保護した。元禄年間には定助郷・加助郷の制を定めて宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。
 
 
 
幕府はまた軍事上の理由から、[[相模国]][[小田原市|小田原]]にかかる[[酒匂川]]、[[駿河国]][[静岡市|府中(駿府)]]を挟む[[興津川]]と[[安倍川]]、駿河[[遠江国|遠江]]国境の[[大井川]]の4河川は、橋梁を架けないどころか、[[渡船]]さえ禁止して、往来する者には川の中を徒歩で渉らせた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。大河川の徒渉は難儀であり、その両岸には徒渉の補助を行う業者が繁栄した。雨で水位が上昇し流速が増すと、危険なため徒渉は禁止された(川止め){{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。しかしこれらの河川の上流域は全国有数の多雨地域であり、暖候期には川止めが頻発・長期化することもしばしばで、大名から庶民まで旅費がかさむ旅行者を苦しめた{{sfn|浅井建爾|2001|pp=96-97}}。
 
 
 
==== 脇街道 ====
 
東海道には、軍事的・地理的理由から、顕著なボトルネックとなるポイントや、地理的迂回路となるポイントが残されており、このような交通上脆弱・不便な部分には、これを回避するための[[脇街道]]が置かれた。[[脇街道]]には[[相模国]]の内陸部を通って直線的に結ぶ[[中原街道]]、[[見附宿]]より[[浜名湖]]の[[今切の渡し]]と[[新居関所]]を迂回し、[[気賀関所]]を通り、[[本坂峠]]を越し、[[吉田宿]]ないし[[御油宿]]へ抜ける道である[[本坂通]]([[姫街道 (東海道)|姫街道]]){{sfn|浅井建爾|2001|pp=100-101}}、宮から桑名迄の[[七里の渡し]]を避けて、[[濃尾平野]]内部を陸路で結ぶ[[佐屋街道]]があった{{sfn|浅井建爾|2001|pp=98-99}}。特に、姫街道に関しては、[[宝永地震]]とそれに伴う大[[津波]]で、今切の渡しが破壊されて交通途絶してしまったことから、18世紀初頭には、東海道本道の交通をまるごと引き受ける場面もあった。
 
 
 
; 東海道を扱った作品
 
* [[歌川広重]]作「東海道五十三次」([[浮世絵]])
 
* [[十返舎一九]]作「[[東海道中膝栗毛]]」
 
 
 
{{東海道}}
 
 
 
=== 明治時代以後 ===
 
[[ファイル:Shizuoka yui.jpg|thumb|245px|静岡県[[静岡市]][[清水区]]付近。 {{国土航空写真}}]]
 
明治政府は、地方制度としての{{要出典範囲|[[令制国]]を廃止|date=2016年10月}}、五街道に代わる[[国道]]を制定した。東海道としての実質的機能と位置は現在の[[国道15号]]及び[[国道1号]]に受け継がれ、[[東日本]]と[[西日本]]([[関東地方]]と[[近畿地方]])を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。
 
 
 
江戸時代に整備された東海道の松並木は、明治4年ごろに電線を引くのに不便であるとの理由で伐り払うことになり、横浜・小田原間から始められた<ref name=iwanami/>。横浜の英字新聞ジャパン・ガゼット紙は、並木の持つ日射風雪を防ぐ機能と美観を損ねる愚かな行為と批判した<ref name=iwanami>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1217767/27 『岩波講座日本歴史. 廃仏毀釈』p51]国史研究会 (岩波書店, 1935)</ref>。[[太平洋戦争]]中には飛行機の燃料として[[松根油]]を採取するため、あるいは道路の拡張のため伐採されてしまい、現代ではごく一部だけが当時の姿をとどめるに過ぎない{{sfn|浅井建爾|2001|p=128}}。
 
 
 
現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。従って、東海道の東端は、律令時代では[[北茨城市|磯原]]、江戸時代以後は[[東京都区部|東京]](江戸)ということになる。
 
 
 
== 鉄道の東海道 ==
 
なお、「東海道」の名をつけたJRの[[東海道本線]]および[[東海道新幹線]]は、[[東京駅|東京]] - [[熱田駅|熱田]]間と[[草津駅 (滋賀県)|草津]] - [[京都駅|京都]]間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが<ref group="注釈">厳密にいえば[[豊橋駅|豊橋]] - [[熱田駅|熱田]]間のルートは、東海道本線よりもむしろ[[名鉄名古屋本線]]の方が江戸時代の東海道に近いルートになっている。</ref>、熱田([[名古屋市]])- 草津については[[中山道]]([[加納宿|加納]] - [[草津宿|草津]])と[[美濃路]]([[宮宿|宮・熱田]] - [[垂井宿|垂井]])に沿ったルートとなっている。
 
 
 
現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。本来の街道としての東海道は、[[名古屋駅|名古屋]] - 草津については名古屋 - [[亀山駅 (三重県)|亀山]] - 草津を経由するもので、現在の鉄道路線ならば[[関西本線]]と[[草津線]]のルートに近いものである。
 
 
 
この名古屋([[宮宿|宮・熱田]])から亀山を経て草津に至る、[[江戸時代]]の東海道のうち、上記の東西[[幹線]]から外れた区間は、[[明治]]中期になって民間の[[関西鉄道]]がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、後にそれが[[鉄道国有法|国有化]]されて現在の両線となっている。
 
 
 
東海道本線の該当区間が実際の東海道から離れた理由は、明治初期に東西両京を結ぶ鉄道線を敷設する際、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って論争があり、中山道経由に一旦は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に[[碓氷峠]]を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限、さらには沿線人口の差(中山道沿いには[[名古屋市]]や[[浜松市]]、[[静岡市]]に相当する大きな都市がなかった)を考慮したところ、やはり東海道経由の方が優れているという検証がなされ、急遽[[岐阜駅|岐阜]]([[加納宿|加納]])以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。
 
 
 
計画変更が決まった時には、既に[[神戸駅 (兵庫県)|神戸]]から[[大阪駅|大阪]]・[[京都駅|京都]]を経て[[大津駅|大津]]に至る鉄道と、[[長浜駅|長浜]]から[[岐阜駅|岐阜]]・[[名古屋駅|名古屋]]を経て[[武豊駅|武豊]]までの鉄道が開業しており、これと[[琵琶湖]]の[[鉄道連絡船]]([[太湖汽船]] 大津 - 長浜[[航路]])を用いることによって武豊 - 名古屋 - 京都 - 神戸間の[[連絡運輸|連絡]]が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。
 
 
 
結果、[[日本の鉄道開業|日本初の鉄道路線]]である[[新橋駅|新橋]] - [[横浜駅|横浜]]間もその東西[[幹線]]に組み入れる形となり、[[1880年代]]中頃(明治10年代末)より横浜から[[静岡駅|静岡]]を経て[[大府駅|大府]]に至る区間と[[関ヶ原駅|関ヶ原]]から[[米原駅|米原]]を経て大津に至る区間が建設され、[[1889年]](明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。
 
 
 
また[[東海道新幹線]]に関しては、当初は名古屋から京都まで[[鈴鹿山脈]]を一直線に[[トンネル]]で抜けるルートでの敷設も計画されていたが<ref group="注釈">昭和初期に構想されたものの実現できなかった[[名古屋急行電鉄]]も、鈴鹿山脈をトンネルで越える旧東海道沿いのルートであった。</ref>、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要する(1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]前の開業予定に間に合わなくなる)こと、それに米原が[[北陸本線]](旧:[[北陸道]])との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。
 
 
 
以上の経緯については、[[中山道]]及び[[鉄道と政治#中山道ルートと岐阜羽島駅(東海道新幹線)|鉄道と政治]]の項目も参照のこと。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注釈"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book |和書 |author=浅井建爾 |edition= 初版|date=2001-11-10 |title=道と路がわかる辞典 |publisher=[[日本実業出版社]] |isbn=4-534-03315-X |ref=harv}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Tōkaidō (road)|東海道(道路)}}
 
* [[日本の古代道路]]
 
* [[東海道五十三次]]
 
* [[東海道五十三次 (浮世絵)]]
 
* [[奥州街道]] - 五街道のひとつ
 
* [[甲州街道]] - 五街道のひとつ
 
* [[日光街道]] - 五街道のひとつ
 
* [[街道てくてく旅]]
 
* [[国道1号]]
 
* [[国道15号]]
 
* [[東海自然歩道]]
 
* [[東名高速道路]] [[東名阪自動車道]] [[名神高速道路]] [[新名神高速道路]] [[名阪国道]] [[西名阪自動車道]]
 
* [[東海旅客鉄道]](JR東海) [[東海道本線]] [[東海道新線]] [[東海道新幹線]] [[関西本線]] [[草津線]]
 
* [[東海地方]] [[畿内]] [[南関東]]
 
* [[東海市]] [[東海村]]
 
* [[東海 (曖昧さ回避)]](様々な「東海」)
 
* [[太平洋ベルト]]
 
* [[日本の交通]] [[交通]] [[道路]] [[駅]]
 
* [[海道]]
 
* [[東海道 (みちのくボンガーズのユニット)]] - [[神道裕]]、[[水野圭悟]]の2人組[[ユニット]]。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.mlit.go.jp/road/index.html 国土交通省 道路局] / [http://www.mlit.go.jp/road/michi-re/index.htm 道の歴史]
 
* [http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/ 国土交通省 関東地方整備局 東京国道事務所] / [http://www.ktr.mlit.go.jp/toukoku/05koho/list_kaido.htm#tokaido  東京国道マップ 東海道]
 
* [http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/ 国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所] / [http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/ 東海道ルネッサンス]
 
* [https://www.shinmeisya.or.jp/rekisi/matunamiki.html#anchor_maisaka 東海道松並木]神明社
 
{{日本の道100選}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 
{{デフォルトソート:とうかいとう}}
 
{{デフォルトソート:とうかいとう}}

2018/8/21/ (火) 01:34時点における版

東海道(とうかいどう、うみつみち)

古代五畿七道の一つ。伊賀,伊勢,志摩,尾張,三河,遠江,駿河,甲斐,伊豆,相模,安房,上総,下総,常陸の 14ヵ国,のちに武蔵が加えられた。またこの地域を通る街道の呼称でもある。 30里 (約 120km) ごとに駅を設置し,駅馬を常備した。鎌倉時代には交通量が増加し街道としての重要度が高まり,江戸時代には五街道の一つに定められた。 53の宿駅がおかれ,軍事的な意味から河川の架橋が禁じられた。また箱根,新居などには関所が設けられ,江戸への出入りがきびしく監視された。 (新居関 , 箱根関 )




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