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{{野球チーム
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'''松竹ロビンス'''(しょうちくロビンス、''Shochiku Robins''
|ページ名 = 松竹ロビンス(解散時)
 
|チーム名 = 松竹ロビンス
 
|会社名 =
 
|加盟団体 = [[セントラル・リーグ]]
 
|創設年度 = 1936年
 
|解散年度 = 1952年
 
|チーム名の遍歴 =
 
*大東京軍(1936年 - 1937年春)
 
*ライオン軍(1937年秋 - 1940年)
 
*朝日軍(1941年 - 1945年)
 
*パシフィック(1946年)
 
*太陽ロビンス(1947年)
 
*大陽ロビンス(1948年 - 1949年)
 
*松竹ロビンス(1950年 - 1952年)<br />[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]と対等合併し<br />[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]を結成(1953年・開幕直前)
 
|フランチャイズの遍歴 =
 
*[[京都府]](1952年)
 
|本拠地 =
 
*[[衣笠球場]](解散時)
 
|キャパ = 24,000人
 
|永久欠番 = なし
 
|オーナー = [[田村駒治郎]](解散時)
 
|球団社長 =
 
|スポンサー = [[田村駒]]<br />([[スポンサー]]は[[松竹]]
 
|監督 = [[新田恭一]](解散時)
 
|日本一回数 = 0
 
|日本一 = なし
 
|リーグ優勝回数 = 1
 
|リーグ優勝 = [[1950年の野球|1950]]
 
}}
 
  
'''松竹ロビンス'''(しょうちくロビンス、''Shochiku Robins'')は、{{by|1936年}}から{{by|1952年}}まで17年間活動した[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団で、[[セントラル・リーグ]]加盟球団の一つであった。
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{{by|1936年}}から{{by|1952年}}まで17年間活動した[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団で、[[セントラル・リーグ]]加盟球団の一つであった。
  
{{by|1953年}}に[[横浜DeNAベイスターズ|旧・大洋ホエールズ]]と対等合併し、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋松竹ロビンス]]となった。しかし、その翌年に合併時の親会社であった[[松竹]]が球団経営から撤退したため、実質的には大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)に吸収合併された形になり、それ以降は現在に至るまで消滅球団の扱いを受けている。
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1954年に洋松ロビンスに改称。
  
== 球団の歴史 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
=== 戦前 ===
 
始祖は[[1936年]][[2月15日]]に結成された'''大東京軍'''(だいとうきょうぐん)。親会社は[[新愛知|新愛知新聞社]](現・[[中日新聞社]])傘下の[[國民新聞|國民新聞社]]。新愛知主筆の[[田中斉]]が[[中日ドラゴンズ|名古屋軍]]とともに独自で「大日本野球連盟」というプロリーグ結成を企画したもので、会社名は、株式会社大日本野球連盟・東京協会となったが、独自のリーグ構想は頓挫し、[[正力松太郎]]により構想された[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本職業野球連盟]]へ名古屋軍とともに加盟した。球団の会長には元[[警視総監]]の[[宮田光雄 (内務官僚)|宮田光雄]]が就任し、宮田の指名で元國民新聞記者の[[鈴木龍二]]が球団常務(代表)となった<ref>鈴木の回顧録によると、[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]が財界、[[翼軍|東京セネタース]]が政界([[貴族院 (日本)|貴族院]])をバックとしたため、國民新聞が「うちは官界をバックにする」という意向で宮田を選んだという。</ref>。戦後も長くプロ野球界の要職を務めた鈴木がプロ野球と関わりを持ったのは、これがきっかけであった。
 
 
 
資金難で経営が苦しく同年中に[[小西得郎]]の仲介で[[共同印刷]]専務の[[大橋松雄]]の手に渡った<ref name="konisi">[[小西得郎]]『したいざんまい』[[実業之日本社]]、1957年、P130-145</ref>。しかし大橋は[[財閥]]の息子で、印刷業以外に金を使うことに父親([[大橋光吉]]。[[博文館]]の創業者[[大橋佐平]]の娘婿で、共同印刷の創業者<ref>{{citation|和書|editor=日外アソシエーツ|title=出版文化人物事典――江戸から近現代・出版人1600人|publisher=[[日外アソシエーツ]]|date=2013年6月25日|ISBN=978-4-8169-2417-0|pages=81-82,84}}</ref>)の目がうるさくなり、妻同士が姉妹だった[[大阪市]]で繊維商社の田村駒商店(1943年に[[田村駒]]に改称)を経営する[[田村駒治郎]]を経営に参加させた<ref name="konisi"/>。大橋は「大東京軍という名前では経営が成り立たないと、[[スポンサー]]との[[タイアップ]]を思い付き<ref name="konisi"/>、[[1937年]]8月に「ライオン歯磨本舗」の名前で営業をおこなっていた[[ライオン (企業)|小林商店(現・ライオン)]]をスポンサーに迎えチーム名は'''ライオン軍'''となった。大橋は「大東京軍のスポンサー候補には積極的に新聞広告を入れている会社がいい」として、ライオン歯磨本舗以外に[[味の素]]・[[わかもと製薬]]・[[近江兄弟社]]を挙げていた。しかし「ユニフォームに『LION』と入れるだけでいい」と要求したライオン歯磨本舗以外は「ユニフォームに自社製品の名前を入れてほしい」と要求してきたため、スポンサーをライオン歯磨本舗に決めたという<ref>[[綱島理友]]『プロ野球ユニフォーム物語』[[ベースボール・マガジン社]]、2005年、P130。</ref><ref name="konisi"/>。
 
 
 
大橋が親がかりでもあり、親の手前積極的に動けない、田村の方が自由に金が使えるということもあって、同年秋季シーズン終了後に田村に譲渡しチームを大阪に移した<ref name="konisi"/>。
 
 
 
田村は田村駒の地元・関西の人気球団である[[阪神タイガース|大阪タイガース]]の向こうを張る意味でこの「ライオン軍」のチーム名を気に入っていたが、[[1940年]]シーズン途中、球団名を日本語化する決定が理事会でなされ、改称を迫られる。ライオン軍はスポンサーの小林商店からかなりの資金援助を受けており(当時の選手の年俸の半分が小林商店からの資金援助で賄われた)、チーム名改称はスポンサー降板に繋がるため球団経営に支障をきたすおそれがあった。各球団がシーズン途中ながら球団名を変更する中、ライオン軍は「ライオンは日本語である」と主張して名称を変えずに1940年のシーズンを終えた。結局、翌[[1941年]]より'''朝日軍'''(あさひぐん)に改称<ref>『プロ野球ユニフォーム物語』によると、これも後年の「太陽ロビンス」同様、太陽レーヨンが由来であるという。</ref>。小林商店とのスポンサー契約は終了となった(戦後、[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]が誕生したが、前述の「ライオン軍」とは直接関係はなく、ライオンも経営に関わっておらず、[[西鉄ライオンズの歌|球団歌]]を贈呈した。ライオンズの興りは該当項参照)。鈴木龍二は1941年のシーズン中に、[[日本野球連盟 (プロ野球)|連盟]]の理事長に就任したため、朝日軍を退いている。
 
 
 
田村がチームを引き受けてからはファンも増えて経営状態も以前よりはよくなったが、「それでも相当の持ちだしであった」と田村駒の社史には記されている<ref>『繊維専門商社は生きる 田村駒九十年史』(田村駒、1984年)P160</ref>。
 
 
 
=== 戦後 ===
 
田村は戦争中、チームを[[奈良県]][[御所市]](当時は御所町)の傘下の軍需工場に疎開させ、工場長の橋本三郎<ref>サッカー日本代表選手の[[橋本英郎]]の祖父</ref>に預けていた。しかし[[1945年]]の終戦後、田村から連絡がなかったという理由で、橋本は独断でチームを「[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]」として日本野球連盟に加盟を申請、田村は強く反発するが、[[鈴木龍二]]の説得を受けて了解、改めてチーム作りを余儀なくされる。
 
 
 
翌[[1946年]]、球団名を「パシフィック」に変えてリーグに復帰(当時の会社名は朝日野球倶楽部)。愛称は「太平(たいへい)」で「太平パシフィック」とも呼ばれた([[日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称|参照]])。翌[[1947年]]のニックネーム導入により「太陽ロビンス」(たいよう - )と改められる。「太陽」の由来は田村駒がかつて製販一体を目指して設立した子会社太陽レーヨンから<ref>太陽レーヨンは戦争中に企業統合により[[帝国繊維]]に吸収されており、この時点では存在していなかった。</ref>、「ロビンス」の由来は田村駒治郎オーナーの「駒」から「[[コマドリ|駒鳥]]=ロビン」の連想による。さらに[[1948年]]、「野球は点を取らなアカン」「野球選手の太ったのはアカン」という田村の考えから「太陽」から点を取った「大陽ロビンス」(読み同じ)に球団名をマイナーチェンジ。[[1949年]]、[[京都新聞]]との提携により、[[京都府|京都]]に進出。[[衣笠球場]]で41試合、舞鶴で4試合、福知山で2試合を開催<ref name="wakabayashi">若林正博「地方紙と業界紙から探る戦後京都のプロ野球興行-大陽ロビンス・松竹ロビンスを中心として」(『京都府立総合資料館紀要』第44号、2016年、79-158頁)</ref>。この頃、田村は大阪市内に球場を持つ球団がないことに着目。[[北区 (大阪市)|北区]][[玉江橋 (大阪府)|玉江橋]]の関西相撲協会の土地を買収して[[プロ野球地域保護権|本拠地]][[野球場|球場]]を建設する構想を企画する<ref>「関西相撲協会」という団体は詳細不明。[[春秋園事件]]で[[日本相撲協会|大日本相撲協会]]を脱退した力士が作った大日本関西'''角力'''協会があるが、1937年に解散している。ここでは中野晴行の『球団消滅』や永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)の記述に従う。</ref>。しかし、この案に対しては[[阪神タイガース|大阪タイガース]]や[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]から[[ターミナル駅|ターミナル]]である[[梅田]]に近く、客を奪われるという反対の声があがった。加えて[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]が[[難波]]に球場を作る構想を打ち出し、阪神や阪急もこれを支持する。[[日本野球連盟 (プロ野球)|日本野球連盟]]は双方の予定地を視察した後、南海の難波球場案を採用し、田村の玉江橋球場案は実現しなかった。それでも田村は「もし南海が一年以内に球場を完成させなければ、自分の手で球場を作る」と主張。南海は8ヶ月の突貫工事で[[大阪スタヂアム|大阪球場]]を建設することになった<ref>[[永井良和 (社会学者)|永井良和]]『ホークスの70年』(ソフトバンククリエイティブ、2008年)P135</ref>。
 
 
 
この頃、[[松竹]]に野球チームを作る気運が出てきて、[[大谷竹次郎]]が[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]や[[小西得郎]]に相談<ref name="konisi"/><ref name="seki">関三穂『プロ野球史再発掘 4 』ベースボール・マガジン社、1987年、P26-46</ref>。[[浜崎真二]]監督-[[水原茂]]助監督というプランでチームの結成を考えていたが、田村が財政面でうわついていたため[[1950年]]、鈴木龍二が田村と松竹を結びつけて「松竹ロビンス」となり<ref name="konisi"/>、[[セントラル・リーグ]]に加盟(主砲[[森下重好]]を、森下の[[法政大学野球部|法大野球部]]の先輩・[[藤田省三 (野球)|藤田省三]]が初代監督に就任した[[大阪近鉄バファローズ|近鉄パールス]]<ref>結果的に[[パシフィック・リーグ]]初年度から3年連続最下位となる。</ref>に放出)。本拠地は[[京都市]]とされたが衣笠球場での開催は4試合にとどまる<ref name="wakabayashi"/>。チームの内紛から[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]を集団で退団した[[赤嶺旋風|赤嶺昌志一派]]を受け入れたこともあって、「これをまとめる監督は小西さんしかいない」と[[岩本義行]]の説得により、浜崎が先に阪急ブレーブスの監督に決まったため、小西得郎が不本意ながらも止むを得ず監督に就任した<ref name="konisi"/>。松竹ロビンスは改称1年目にしてセ・リーグの初代チャンピオンに輝く。エースはこの年39勝の[[真田重蔵|真田重男(重蔵)]]、主砲[[小鶴誠]]は当時の日本新記録であるシーズン51[[本塁打]]を記録。チームとしても[[水爆打線]]と呼ばれた猛打を発揮。しかし、この年の[[1950年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では[[千葉ロッテマリーンズ|毎日オリオンズ]]の前に2勝4敗で屈した(真田と小鶴の対立に端を発したチーム内の内紛が原因<ref name="seki"/>)。[[1951年]]、大阪球場に[[ナイター]]設備が完成してからは事実上衣笠球場から球場を移転した。この年、田村駒の経営悪化が表面化し、オフには真田重男、[[岩本義行]]、[[大島信雄]]らを放出する。[[1952年]]のシーズンはチームの運営費も削減されることとなり、戦力は低下した。
 
 
 
1952年の開幕前、リーグの代表者会議でシーズン勝率3割を切った球団には処罰を決めるという申し合わせがされていた<ref name="suzuki">[[鈴木龍二]]『プロ野球と共に五十年(下)』(恒文社、1984年)、P56 - 57。この申し合わせは『年度連盟選手権実施要項』の22条に「(あるチームの勝率が3割に達しない場合は)当該球団に対するその後の処置は連盟会長の提案により理事長がこれを決定する」という形で明文化された。「3割を切った球団は強制的に解散と取り決めをしていた」と書かれることがあるが、そのような事実はなく誤りである。シーズン終了後の新聞にも「リーグの約束に従ってなんらかの罰則を食うことになっている松竹」(朝日新聞1952年10月18日)と記されている。</ref>。その裏には、球団数が奇数で日程が組みにくいことから、下位の球団を整理する意図が含まれていた<ref name="suzuki"/>。迎えた同年公式戦、ロビンスは34勝84敗、勝率.288でシーズンを終え勝率3割を下回った。このため、申し合わせの履行が焦点となる。「近鉄パールスに身売りする」という噂も流れる<ref>上記1952年10月18日の朝日新聞記事に言及がある。</ref>中、田村は11月17日にいったん来季の球団存続を表明。11月20日のリーグ代表者会議で6位の[[広島東洋カープ|広島カープ]]から出た合併の申し入れは拒否したものの、田村駒が多額の負債を抱えていたこともあり、最終的に大洋ホエールズとの合併を受け入れる。[[1953年]]1月10日に松竹と大洋漁業(現・[[マルハ]])の関係者による会談で'''対等合併'''で合意し、1月24日に両者間で合併が決まった。球団名は「大洋松竹ロビンス」となり、田村は球団経営から退いた。「ロビンス」の名前が残ったのは田村の要望であったという。なお、[[大映]]に対抗して球団経営に参画しただけの松竹は当初から野球に熱意がなく、[[1954年]]12月11日を以って球団経営から撤退し、球団名も「大洋ホエールズ」に改称された。
 
 
 
=== “消滅球団”としての扱い ===
 
松竹が球団経営から撤退した後は大洋漁業がそのまま単独で球団経営を継続したことから、松竹ロビンスと旧・大洋ホエールズの合併は完全な対等形式であったにも関わらず実質的には大洋ホエールズに吸収合併された形となり、大東京軍 - 松竹ロビンスの系統は“消滅球団”として扱われることになってしまった。そのため、大洋松竹ロビンスおよび新・大洋ホエールズの後身にあたる[[横浜DeNAベイスターズ]]の球団史において松竹ロビンスの結成年度や優勝回数およびその他記録は傍系扱いとされて通常は含まれず、横浜DeNA球団は初代セ・リーグ優勝球団の後身でありながら「初代セ・リーグ優勝チーム」と名乗ることができなくなっている。
 
 
 
新聞やテレビなどでは松竹ロビンスを(前身球団である大東京軍、ライオン軍、朝日軍、パシフィック、太陽ロビンス、大陽ロビンスの全ての時代を含めて)「現在の横浜DeNAベイスターズの前身」と表記・紹介することがしばしば見受けられる。松竹ロビンスは現在の横浜DeNAベイスターズを構成する合併球団の一つであり、なおかつ1953年の合併当時は正真正銘の対等合併であったので間違いではない。ただし、大洋ホエールズは1950年に松竹とは無関係に創立され、それから3年間はセ・リーグで松竹と大洋は並立していた。さらに前述のとおり横浜DeNAベイスターズ(および前身の新・大洋ホエールズ、横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ)の公式球団史では傍系前身という位置付けになっていることから、単に「前身」と紹介するのは誤解を招く表現とも言える。
 
 
 
== チームの特徴 ==
 
* [[1936年]]は春季、夏季、秋季の3シーズン制であり、大東京軍は5勝34敗3分の成績を残しているが、連勝をしたことが1度もなかった。通年で連勝がなかったのはこの例だけである。勝率は.128に過ぎなかった。ただし、このシーズンのみ、地域ごとに行われたリーグ戦とトーナメント戦の寄せ集めであるため、1シーズンの勝率記録としては扱われていない。
 
* また1936年秋季の[[9月28日]]から[[11月22日]]まで16連敗を記録。これは1リーグ時代の最多連敗記録である。この記録は[[1970年]]に[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ]]が並んだが、[[1998年]]にパ・リーグの[[千葉ロッテマリーンズ#悪夢の18連敗|千葉ロッテマリーンズが18連敗を記録]]し、現在の日本のプロ野球記録となるまで、実に62年間も破られなかったということになる。
 
* [[戦前]]・[[戦中]]は[[坪内道典|坪内道則]]、[[鬼頭数雄]]、[[近藤久 (野球)|近藤久]]らが奮闘するも選手層が薄く低迷。そうした状況で[[林安夫]]は1942年のシーズンに541回と1/3を投げ、2016年現在も日本プロ野球記録である。[[小鶴誠]]、[[岩本義行]]、[[大岡虎雄]]、[[金山次郎]]ら「[[水爆打線]]」と称された得点力抜群の打線に[[真田重蔵]]、[[大島信雄]]らの好投手を擁し優勝した1950年が華々しいが、実際は好成績の年はほとんどない。
 
* [[1946年]]に[[放棄試合|没収試合]]を4試合経験している。[[#没収試合第1号|後述]]。
 
* 大洋との合併後の1953年度のシーズンは、運営会社の統合が間に合わなかったため、[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]を運営する[[下関市]]の大洋球団と、当チームの運営会社・松竹球団(京都市)が1つのチームを運営する変則的なやり方となり、選手の給与も旧大洋側、旧松竹側とで別々に支給されていた。シーズン後にようやく運営会社が統合された([[対等合併]]形式による、大洋松竹球団の設立)。
 
 
 
=== ロビンスと田村駒治郎 ===
 
* 名物オーナーといわれた[[田村駒治郎]]が球団を譲受したのは結成の翌年であるが、既に大東京軍時代には経営に参画していた。これは次のような経緯による:結成早々にして経営が行き詰まった同球団は国民新聞の経営であったが、この国民新聞は名古屋の新愛知新聞社が経営しており、同社は名古屋で「名古屋軍(現・[[中日ドラゴンズ]])」を経営していた。一社で二球団を持っていた状態は長くなく、間もなく大東京軍の経営は[[共同印刷]]の[[大橋松雄]]専務に委ねられたものの、大橋は球団経営に熱心ではなかった。この大橋の義兄(妻が姉妹同士)に当たり、かつ野球好きであった田村が大橋から更に委ねられる形で球団経営に参画し、翌年正式に譲渡を受けた。
 
* 1947年頃、田村には「ホームゲームは'''ロビンス'''、ビジターゲームは'''サンズ'''というように愛称を使い分ける」という考えがあった<ref>『プロ野球ユニフォーム物語』P134。同書によると、この内容は『日本スポーツ』1947年3月15日号に記載されているという。</ref>。「サンズ」は太陽レーヨンの「太陽」を英訳したものだが、田村のこの考えに失笑する関係者がほとんどで、愛称を使い分けることはなかった。また田村は1949年に京都新聞との提携を発表した際に「球団名を'''京都ロビンス'''にする」と言っていたが、地元の理解が得られず球団名変更を断念している。
 
*1950年のシーズン終了後、二軍を田村駒に移籍させてノンプロチームを結成すると発表した。戦争中に解散したチームを復活でき、見込みのない選手には会社員として給与を与えながら野球をさせた方が生活が楽になるだろうとの意図からであったが、二軍の充実を図っていた他球団の関係者からは呆れられた。
 
 
 
== 球団歌 ==
 
* 輝けロビンス<ref>[http://www.ritomo.jp/rbc/rbc35g.htm 大陽ロビンス](綱島プロ野球研究所)</ref>
 
: 作詞:[[佐伯孝夫]] 作曲:[[灰田有紀彦|灰田晴彦]]
 
: 大陽ロビンス時代に作られた歌(田村駒の社史に掲載された楽譜では、タイトルは「輝けRobins」となっている)。松竹ロビンス時代も歌詞の「大陽」を「松竹」に変えれば歌うことは可能だったとみられるが、いつ頃までどの程度の頻度で歌われたかは不詳。田村駒の社史には「レコードも現存している」と書かれている<ref>『写真で見る田村駒の百年』(田村駒、1994年)P102</ref>。
 
 
 
=== 戦前の球団歌 ===
 
* 制覇に進む若き獅子(ライオン軍応援歌)<ref>[http://www.ritomo.jp/rbc/rbc35i.html ライオン軍](綱島プロ野球研究所)</ref>
 
: 作詞:[[八木好美]] 作曲:[[山田耕筰]]
 
: ライオン軍時代に作成された。
 
 
 
== 球団旗の変遷 ==
 
*1947~1948:赤地に白文字で「Robins」
 
*1949:赤地に青文字で「Robins」
 
*1950~1951(オールスター前):赤地に青文字で「Robins」。その上に松竹映画の社章。
 
*1951(オールスター後)~1953:白地に赤文字で「Robins」。その上に松竹映画の社章。
 
== ユニフォームの変遷 ==
 
{{節スタブ}}
 
*「大東京軍」時代は筆記体の「D」を左胸に付けた[[ユニフォーム]]を使用。
 
*「ライオン軍」時代は胸に「LION」のロゴが入り、左袖には獅子のイラストが付けられた。
 
* 田村駒が繊維商社であったためか、同社がオーナーの時代には、物資不足の時代にも他球団より材質のよいユニフォームを使用していた。
 
* 上記の通り1940年までは「ライオン軍」であったが、[[敵性語]]排除がリーグの方針となったため、同年秋の対抗戦では「LION」という[[ロゴタイプ|ロゴ]]を削除してチーム名のないユニフォームを使用した。
 
*「朝日軍」時代は「朝」を胸文字に使用。偏に「赤い丸」を入れたデザインとした。
 
*「パシフィック」時代は「PACIFIC」と入ったロゴを使用。
 
* 1950年、松竹となったこの年は、前年来日した[[サンフランシスコ・シールズ]]のユニホームをモデルにして左胸に「Robins」のロゴが小さく入ったものを使用した。これとは別に通常の胸全面にロビンスのロゴが入ったものも使用している。帽子マークは松竹映画の社章をそのまま使用、左肩には駒鳥のイラストが入る。また当時としては珍しく、[[パンツ]]の腰部分に小さく[[野球の背番号|背番号]]が入っていた。
 
* 1951年は前年セ・リーグを制覇したことを記念した[[エンブレム]]が左肩の駒鳥マーク下に入った。
 
 
 
== チーム成績・記録 ==
 
* 優勝・1回(1950年)
 
* Aクラス・3回(1942年~1943年、1950年)※
 
* Bクラス・14回(1937年春~1941年、1944年~1949年、1951年~1952年<ref>1936年春、秋は順位を定めなかったが、勝率では最下位であった。</ref>)
 
* 最多勝 98勝(1950年)
 
* 最多敗 84敗(1952年)
 
* 最多引分 7分(1943年)
 
* 最高勝率 .737(1950年)
 
* 最低勝率 .192(1936年秋)
 
* 通算成績 647勝896敗57分(1600試合)
 
 
 
※1942年はAクラスが本来なら4チームであるが、[[オリックス・バファローズ|阪急軍]]と同率の4位であり、この年のAクラスは5チームである。
 
 
 
== その他の記録 ==
 
* 最小ゲーム差 11ゲーム(1938年秋、1943年)
 
* 最大ゲーム差 50ゲーム(1940年)
 
* 最多本塁打 179本(1950年)
 
* 最小本塁打 0本(1936年秋)
 
* 最高打率 .287(1950年)
 
* 最低打率 .187(1940年)
 
* 最高防御率 1.41(1942年)
 
* 最低防御率 4.59(1949年)
 
 
 
== 歴代本拠地 ==
 
* 1936-1937 [[洲崎球場]]
 
* 1938-1947 特定の本拠地はなし(主に[[後楽園球場]]、[[阪神甲子園球場|甲子園球場]]、[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])
 
* 1948 [[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]](保護地域は京都)
 
* 1949-51 [[衣笠球場]](1951年より[[大阪スタヂアム|大阪球場]]が事実上の本拠地、衣笠球場での開催は49年が41試合、50年が4試合、51年が1試合<ref name="wakabayashi"/>)
 
* 1952 [[京都市西京極総合運動公園野球場|西京極球場]]<ref name="wakabayashi"/>(大阪球場が事実上の本拠地、西京極球場での開催は6試合)
 
 
 
== 歴代監督 ==
 
* 1936年春 : [[永井武雄]]<ref group="※">開幕前に解任。</ref>
 
* 1936年春 - 1936年秋 : [[伊藤勝三]]<ref group="※">1936年秋はシーズン途中で辞任。</ref>
 
* 1936年秋 - 1938年春 : [[小西得郎]](第1次)<ref group="※">ここからライオン軍。</ref>
 
* 1938年秋 - 1940年 : [[高田勝生]]
 
* 1941年 - 1943年 : [[竹内愛一]]<ref group="※">ここから朝日軍。</ref>
 
* 1944年 : [[坪内道典|坪内道則]]
 
* 1946年 - 1947年 : [[藤本定義]]<ref group="※">ここからパシフィック。</ref><ref group="※">ここから太陽ロビンス。</ref>
 
* 1948年 : [[長谷川信義]]<ref group="※">ここから大陽ロビンス。</ref>
 
* 1949年 : [[石本秀一]]
 
* 1950年 : '''小西得郎'''(第2次)<ref group="※">ここから松竹ロビンス。</ref>
 
* 1951年 - 1952年 : [[新田恭一]]
 
※'''太字'''は優勝達成監督
 
{{Reflist|group="※"}}
 
 
 
== キーワード ==
 
=== 洲崎球場誕生秘話 ===
 
プロ野球のリーグ戦がスタートした[[1936年]]は大東京軍の首脳の間に[[専用球場]]<ref>ここでは自前の球場としての意味。現在用いられている意味で専用球場が定義され、保有が義務付けられたのは、[[日本プロフェッショナル野球協約]]が発効する[[1951年]]6月以降。</ref>を持とうという考えがあり、[[東京市]][[城東区 (東京都)|城東区]]洲崎にあった[[東京瓦斯]]の資材置場が候補となった。東京瓦斯にその旨を伝えたところ、「(当時[[社会人野球]]の強豪である)[[東京ガス硬式野球部|自チーム]]と対戦してくれれば」という条件で承諾された。大東京軍にとっては開幕前のオープン戦4試合目。試合は8回まで7-6で大東京軍がリードしていたが、ここから9点を取られて逆転負け。球団理事の[[鈴木龍二]]は激怒し、その場で監督の[[永井武雄]]を解任した。公式戦で1試合も指揮を取らずに監督を辞任したのはこの時の永井と、[[1965年]]の[[蔭山和夫]]([[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]・就任4日後に急死)、[[1976年]]の[[レオ・ドローチャー]]([[埼玉西武ライオンズ|太平洋クラブライオンズ]]・契約を結ぶも病気のため来日できず)の3人しかいない。大東京軍はこの試合の[[審判員]]だった[[小西得郎]]が11月に監督に就任するまで、[[内野手]]の[[伊藤勝三]]が監督を兼任した。尚、永井は、解任から数年後,日中戦争に従軍し、戦死しており、鈴木は後の回想録の中でこの解任を悔やんだと言う。「監督」としては実際の職業野球の公式戦では指揮は執れずに終わったが、イーグルスで選手兼任監督のまま出征して戦死した寺内一隆と共に「鎮魂の碑」に名前が刻まれている。
 
 
 
完成した[[洲崎球場]]はその年の[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]と[[阪神タイガース|大阪タイガース]]の年度優勝決定戦の舞台となりその名を知られるようになったものの、[[高さ#地理|海抜]]の低い[[埋立地]]であったため[[潮汐|満潮]]になると[[グラウンド]]に[[海水]]が入るという不具合が生じ、さらに翌[[1937年]]に[[後楽園球場]]が完成したこともあり、プロ野球開催は年々減少していった。
 
 
 
=== 没収試合第1号 ===
 
[[1946年]][[5月]]に行われた4試合([[5月20日]]・対[[北海道日本ハムファイターズ|セネタース]]戦、[[5月23日]]・対[[福岡ソフトバンクホークス|近畿グレートリング]]戦、[[5月24日]]・対[[オリックス・バファローズ|阪急軍]]戦、[[5月26日]]・対近畿グレートリング戦。全て球場は[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]])がいずれも0-9敗戦の[[放棄試合|没収試合]]となり、5月20日の試合がその第1号となった。
 
 
 
これは当時の監督・藤本定義が、戦前既存球団でプレーしていた元[[読売ジャイアンツ|東京巨人軍]]の[[白石勝巳|白石敏男]]と元[[阪神タイガース|阪神軍]]の[[藤井勇]]の2名について、この年からパシフィックのメンバーとして登録させたが、これを巡っての調査中にもかかわらず同年[[5月]]の公式戦4試合に出場させたとして、当該4試合を没収試合(0-9の敗戦)扱いとさせられた(なお元東京巨人軍の[[ヴィクトル・スタルヒン]]も調査対象となっていたが、当該4試合には出場していない)。この4試合での白石と藤井の出場状況は以下の通りである。
 
 
 
{| class="wikitable"
 
!月日!!対戦相手!!白石敏男!!藤井勇
 
|-
 
|[[5月20日]]||[[北海道日本ハムファイターズ|セネタース]]||5回裏、[[藤村隆男]]の代打||不出場
 
|-
 
|[[5月23日]]||[[福岡ソフトバンクホークス|近畿グレートリング]]||1番・[[遊撃手]]で先発||4番・[[右翼手]]で先発
 
|-
 
|[[5月24日]]||[[オリックス・バファローズ|阪急軍]]||1番・遊撃手で先発||4番・右翼手で先発
 
|-
 
|[[5月26日]]||近畿グレートリング||不出場||4番・右翼手で先発
 
|-
 
|}
 
 
 
このうち5月23日に[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]で行われた[[福岡ソフトバンクホークス|近畿グレートリング]]戦は7-4でパシフィックが勝っていた試合の勝敗がひっくり返ってしまい、これが効いて近畿グレートリングは東京巨人軍に1ゲーム差をつけての初優勝を果たした(放棄・没収試合の場合には個人成績は残るものの、このケースのように勝敗がひっくり返った場合は勝利投手・敗戦投手の記録だけが抹消される)。放棄・没収試合を2回以上犯したのは他に大阪タイガース・阪神タイガース([[1954年]][この時は大阪タイガース]・[[1967年]][この時は阪神タイガース])だけであるが、1年で複数回犯したのはこの時のパシフィックだけであった。
 
 
 
=== 10点差を大逆転 ===
 
日本プロ野球における最大点差の逆転ゲームは10点差で過去に4度あるが、その第1号は[[1949年]][[10月2日]]、[[衣笠球場|京都衣笠球場]]での[[大映ユニオンズ|大映スターズ]]との[[ダブルヘッダー]]第2試合で大陽が記録した。
 
{{Linescore
 
|Road=大映|RoadAbr=大映
 
|Home=大陽|HomeAbr=大陽
 
|R1=1|R2=0|R3=9|R4=0|R5=0|R6=0|R7=0|R8=0|R9=0|RR=10
 
|H1=0|H2=0|H3=0|H4=0|H5=0|H6=3|H7=4|H8=3|H9=1x|HR=11
 
}}
 
この試合では初回に[[大岡虎雄]]のタイムリーで先制した大映が、3回には大陽先発・[[宮沢基一郎]]とリリーフ・[[江田孝|江田貢一]]に集中打を浴びせ、10点をリードする。一方、大映先発のルーキー・[[小川善治]]は大陽打線を5回まで1安打に抑える好投を見せる。この試合の前に行われた第1試合でも大映が10-3と大勝しており、2試合続けて白けたゲームを見せられる羽目になったファンは「金返せ!」「監督代われ!」と大陽ナインに対し罵声を浴びせた。
 
 
 
しかし6回、[[木村勉 (野球)|木村勉]]のショートゴロを[[山田潔]]がエラー。このプレーが試合の流れを激変させる。この回[[藤井勇]]と[[岩本義行]]の連続二塁打で3点を返すと、続く7回には藤井が満塁本塁打を放って小川をKO。8回からリリーフに立った[[姫野好治]]も火が付いた大陽打線の勢いを止められず、四球と暴投で2点を失った後、藤井に左中間二塁打を打たれ、同点に追いつかれてしまう。最後は9回2死満塁の場面で大映3番手・[[木場巌]]が[[田川豊]]に痛恨の押し出し死球を与えてしまい、大陽が10点のビハインドをひっくり返して勝ってしまった。
 
 
 
この試合では藤井が3打数3安打7打点と大暴れ。また2番手投手の江田が投げては4回以降を6安打無失点で踏ん張り、打っては2安打と投打にわたる活躍を見せた。
 
 
 
大陽は翌[[1950年]]から球団名を「松竹ロビンス」とするが、ここで10点差逆転を再現してしまう。舞台は[[1951年]][[5月19日]]、[[大分県立春日浦野球場]]での[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]戦。
 
 
 
{{Linescore
 
|Road=松竹|RoadAbr=松竹
 
|Home=大洋|HomeAbr=大洋
 
|R1=0|R2=0|R3=0|R4=0|R5=1|R6=1|R7=3|R8=5|R9=3|RR=13
 
|H1=0|H2=3|H3=4|H4=1|H5=1|H6=3|H7=0|H8=0|H9=0|HR=12
 
}}
 
 
 
この試合では大洋が松竹先発・林茂と2番手・[[井筒研一]]に襲い掛かり、[[矢野純一]]と[[杉浦清]]が各2本塁打、さらに投手の[[高野裕良]]も本塁打を放ち、6回までに12-2とリードした。ところがこの大量リードで、大洋は疲れの見える高野の交代機を逃してしまう。2点差まで追い上げられた9回にようやく[[林直明]]に交代したが、「[[水素爆弾|水爆]]打線」の異名を持つ松竹の重量打線を止めることができず、逆転負けを食らってしまった。
 
 
 
この試合では[[小鶴誠]]が2本塁打6打点と4番打者の働きを見せ、また3番手投手・[[小林経旺|小林恒夫]]が3ラン本塁打を放ち、勝利投手となった。
 
 
 
10点差逆転はその後、[[1997年]][[8月24日]]に[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]が対[[千葉ロッテマリーンズ]]戦([[大阪ドーム]])で、[[2017年]][[7月26日]]に[[東京ヤクルトスワローズ]]が対[[中日ドラゴンズ]]戦([[明治神宮野球場|神宮球場]])で記録している。
 
 
 
== 備考 ==
 
* 田村駒治郎が球団運営からの撤退を余儀なくされたのは表向き大洋球団(大洋ホエールズ)との合併であるが、上記のとおり田村駒が経営危機に陥っていたことも要因であった。田村駒はその後[[三和銀行]](現・[[三菱UFJ銀行]])の協力を取り付けて再建に成功し、中堅繊維[[商社]]として現在に至る。なお、大洋ホエールズの後継球団に当たる現在の横浜DeNAベイスターズと田村駒との間には全く関係はない。
 
* 松竹の球団経営参画は既述の通りスポンサーとしてであり、[[命名権|ネーミングライツ]]に近かった。ただし、球団経営は田村が掌握していたものの、役員は派遣していた。松竹も横浜DeNAベイスターズとは無関係だが、松竹の大株主上位10社の中にはかつての同球団のオーナー企業である[[東京放送ホールディングス]](TBSHD)が名を連ねている<ref>一時期[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]のオーナー企業のひとつだった[[フジテレビジョン]]の創業には松竹も関与し、大株主にも名を連ねていたが、2014年現在は大半の株式を譲渡し、少数株主となっている。</ref>。
 
 
 
== 脚注、出典 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*中野晴行『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』[[筑摩書房]]、2001年(ISBN 4-480-42023-1)
 
*綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』[[ベースボール・マガジン社]]、2005年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[プロ野球チーム一覧#消滅したチーム|過去に存在したプロ野球チーム]]
 
* [[松竹ロビンスの選手一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.lion.co.jp/ja/company/history/museum/ ミュージアム] - 主に[[#職業野球参加]]関係 - ([http://www.lion.co.jp/index2.htm ライオン株式会社]より)
 
* [https://web.archive.org/web/20011005070623/http://www.asahi-net.or.jp/~kp7s-ootk/KOKUMIN/TAMURAKOMA.html 田村 駒治郎とその球団]([https://web.archive.org/web/20011005100030/http://www.asahi-net.or.jp/~kp7s-ootk/KOKUMIN/MAIN.html もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』]より)
 
 
 
{{各年の松竹ロビンス}}
 
{{日本プロ野球}}
 
{{京都新聞社}}
 
 
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[[Category:松竹ロビンス|*しようちくろひんす]]
 
[[Category:松竹ロビンス|*しようちくろひんす]]

2018/9/27/ (木) 07:44時点における版

松竹ロビンス(しょうちくロビンス、Shochiku Robins

1936年から1952年まで17年間活動した日本プロ野球球団で、セントラル・リーグ加盟球団の一つであった。

1954年に洋松ロビンスに改称。



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