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{{政治家
 
|人名 = 板垣 退助
 
|各国語表記 = いたがき たいすけ
 
|画像 = ITAGAKI Taisuke.jpg
 
|画像サイズ = 245px
 
|画像説明 = 1906年頃(70歳頃)
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[1837年]][[5月21日]]<br />([[天保]]8年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]])
 
|出生地 = {{JPN}} [[土佐国]][[高知城]]下[[高知市|中島町]]<br />(現:[[高知県]][[高知市]]本町通2丁目)
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1837|5|21|1919|7|16}}
 
|死没地 = {{JPN}} [[東京府]][[東京市]]
 
|所属政党 = ([[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]→)<br />([[愛国公党]]→)<br />([[自由党 (日本 1890-1898)|自由党]]→)<br />[[憲政党]]
 
|称号・勲章 = [[従一位]]<br />[[勲一等旭日桐花大綬章]]<br />[[伯爵]]
 
|配偶者 = 林益之丞政護妹(正妻)<br />中山弥平治秀雅次女(継妻)<br />板垣鈴(継妻)<br />[[板垣絹子]](継妻)<br />[[板垣清子]](継妻)
 
|子女 = [[板垣鉾太郎]](長男)<br />[[乾正士]](次男)<br />板垣孫三郎(三男)<br />[[板垣正實]](四男)<br />[[乾六一]](五男)<br />片岡兵子(長女)<br />宮地軍子(次女)<br />小川腕子(三女)<br />浅野千代子(四女)<br />小山良子(五女)
 
|親族(政治家) = [[乾正聰]](曾祖父)<br />[[乾信武]](祖父)<br />[[乾正成]](父)<br />[[片岡光房]](娘婿)<br />[[宮地茂春]](娘婿)<br />[[小川一眞]](娘婿)<br />[[浅野総一郎]](娘婿)<br />[[小山鞆絵]](娘婿)<br />[[板垣守正]](孫)<br />[[板垣正貫]](孫)<br />[[宮地茂秋]](孫)<br />[[杉崎光世]](曾孫)
 
|国旗 = JPN
 
|職名 = 第17代 [[内務大臣 (日本)|内務大臣]]
 
|内閣 = [[第1次大隈内閣]]
 
|就任日 = [[1898年]][[6月30日]]
 
|退任日 = 1898年[[11月8日]]
 
|国旗2 = JPN
 
|職名2 = 第13代-14代 内務大臣
 
|内閣2 = [[第2次伊藤内閣]]<br />[[第2次松方内閣]]
 
|就任日2 = [[1896年]][[4月14日]]
 
|退任日2 = 1896年[[9月20日]]
 
}}
 
  
'''板垣 退助'''(いたがき たいすけ、[[天保]]8年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1837年]][[5月21日]]) - [[大正]]8年([[1919年]])[[7月16日]])は、[[日本]]の[[武士]]([[土佐藩]]士)、[[政治家]]。[[幼名]]は猪之助。退助は元は[[仮名 (通称)|通称]]。[[諱]]は初め正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)。[[雅号|号]]は無形(むけい)。[[栄典]]は[[従一位]][[勲一等旭日桐花大綬章|勲一等]][[伯爵]]。'''明治維新の元勲'''。[[自由民権運動]]の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。薨去後も民主政治の草分けとして人気が高く、[[第二次世界大戦]]後は50銭[[政府紙幣]]、[[日本銀行券]][[百円紙幣|B100円券]]に肖像が用いられた。
 
  
== 生涯 ==
+
'''板垣 退助'''(いたがき たいすけ、[[天保]]8年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1837年]][[5月21日]]) - [[大正]]8年([[1919年]][[7月16日]])
=== 生い立ち ===
 
[[File:Itagaki Taisuke Kochi01bs3872.jpg|thumb|200px|生誕地([[高知県]][[高知市]])]]
 
[[天保]]8年[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]([[1837年]][[5月21日]])、[[土佐藩]][[上士]][[馬廻]]格・300[[石高|石]])[[乾正成]]の嫡男として、高知城下[[高知市|中島町]](現 [[高知県]][[高知市]]本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は[[武田信玄]]の重臣であった[[板垣信方]]を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。[[後藤象二郎]]とは竹馬の友である。[[坂本龍馬]]とは親戚<ref>『坂本龍馬とその一族』[[土居晴夫]]著、[[新人物往来社]]、1985年(昭和60年)。『坂本龍馬の系譜』土居晴夫著、新人物往来社、2006年(平成18年)。[http://www.geocities.jp/tajima73/tosayamamoto.html]</ref>にあたるが、退助は同じ土佐藩の[[中岡慎太郎]]のほうが気脈が通じたらしく交誼が良く知られている。しかし、龍馬の[[木戸孝允|桂小五郎]]宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、面識があり互いに尊敬しあう関係であったようである<ref group="注">板垣家と坂本家の関係は、坂本龍馬の実祖父・山本覺右衛門信固の実弟である宮地順右衛門信貞の曾孫・[[宮地茂春]]が退助の次女と婚姻したことによる。([[宮地茂春]]の子・[[宮地茂秋]]は、[[坂本龍馬]]、板垣退助、両方の遺伝子を受け継いでいると言われる)また[[千葉さな子]]が開業した鍼灸院には退助自ら患者としてでなく、自由党員の[[小田切謙明]](のちに無縁仏となったさな子の身元引受人となる)をはじめ数多くの患者を紹介するなど、龍馬の縁者には何かと面倒をみている。</ref>。
 
上士と[[下士]]の身分が確立されていた土佐藩の中で[[谷干城]]や[[佐々木高行]]と同じく、下士に対し寛大だった{{Refnest|group="注"|退助が神田村に蟄居中、樵(きこり)や農夫たちと[[身分]]の隔てなく親しく交わり、それが後年、庶民の立場に立った[[自由民権運動]]に目覚めるきっかけとなったことや、免奉行(税務官)時代に農夫たちが、退助に平伏して話をするのを見て、'''万民が上下のへだたりなく文句を言ったり、議論したりするぐらいがちょうど良い'''。私にも遠慮なく文句があれば申し出てくださいと語った話など、下士や農民たちに対しても寛大であった(当時としては変人とみられることもあった)逸話は豊富である。そえがゆえに退助が[[自由民権運動]]に没頭し全国を遊説していた頃には'''庶民派'''として大衆の人気を博した。<ref>『板垣退助君伝 第1巻』栗原亮一、宇田友猪著、[[自由新聞|自由新聞社]]、[[1893年]]、『自由党史』</ref>}}。
 
  
少年期は腕白そのものであったという。退助は晩年、自分の少年時代を振り返り「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。成長すると、また仮りにも卑怯な挙動をして祖先の家名を汚してはならぬと教えられた」と述懐している<ref>[http://www.city.kochi.kochi.jp/deeps/01/0104/rekishi/re0702.htm 高知歴史散歩『武田信玄と板垣退助(2)』広谷喜十郎著。-高知市広報「あかるいまち」2007年2月号より-]</ref>。
+
自由民権運動の指導者。伯爵。土佐藩主山内容堂を補佐して明治維新に参画。 1874年「民撰議院設立建白書」を提出し,藩閥政治を攻撃,自由民権論を主張した。 81年自由党を創設。 82年岐阜に遊説の際,刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したと伝えられる。
 
 
=== 幕末 ===
 
[[安政]]3年([[1856年]])[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に[[蟄居]]し、ここで身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得る。一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、[[禄|家禄]]を220石に減ぜられて家督相続を許された。
 
 
 
[[文久]]元年([[1861年]])10月25日、江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、11月21日に高知を出て江戸へ向かう。文久2年([[1862年]])6月、[[小笠原唯八]]とともに、佐々木高行に会い[[勤皇]]に盡忠することを誓う。10月17日、[[山内容堂]]の御前において、[[寺村道成]]と時勢について対論に及び、[[尊皇攘夷]]を唱える。文久3年([[1863年]])1月4日、高輪の[[薩摩藩]]邸で、[[大久保利通|大久保一蔵]](のちの利通)に会う。1月11日、容堂に随行して上洛の為、[[品川湊|品川]]を出帆するが、悪天候により下田港に漂着する。1月15日、容堂の本陣に[[勝海舟|勝麟太郎]](のちの海舟)を招聘し坂本龍馬の脱藩を赦すことを協議。4月12日、土佐に帰藩する。
 
 
 
[[慶応]]元年([[1865年]])1月14日、洋式[[兵学|騎兵術]]修行を命ぜられ、江戸で幕臣・[[倉橋長門守]](騎兵頭)や[[深尾政五郎]]<ref group="注">『柳営補任』によると[[旗本]]・深尾善十郎の養子総領。実父は松波平兵衛。</ref>(騎兵指図役頭取)らにオランダ式騎兵術を学ぶ<ref>『迅衝隊出陣展』39頁</ref>。慶応2年([[1866年]])11月、薩摩藩士の[[吉井友実]]らと交流する。慶応3年([[1867年]])2月、水戸浪士の[[中村勇吉]]・[[相楽総三]]らを独断で江戸の土佐藩邸に匿う。
 
 
 
=== 薩土密約を締結 ===
 
退助は土佐藩の上士としては珍しく武力倒幕を一貫して主張していた(当時の土佐藩上士は[[公議政体]]論が主流)。慶応3年(1867年)5月には上洛し、前月に脱藩の罪を許されたばかりの中岡慎太郎の手紙を受けて5月18日、[[京都]]の料亭「近安楼」で、[[福岡孝弟|福岡藤次]]・[[船越洋之助]]らと共に中岡と会見し武力討幕を議した。さらに5月21日、中岡の仲介によって、京都の[[小松清廉]]邸で、土佐藩の谷干城・[[毛利吉盛|毛利恭助]]らと共に薩摩藩の[[西郷隆盛|西郷吉之助]](のちの隆盛)らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何に拘らず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、[[薩土密約]]を結ぶ。翌日、退助は山内容堂へ拝謁して、時勢が武力討幕へ向かっていることを説き、江戸の土佐藩邸に水戸浪士を秘かに匿っている事実を告げる。5月27日、薩土密約に基づき[[大坂]]でアルミニー銃300挺を購入し、6月2日に土佐に帰国、藩の[[大監察]]に復職し、7月22日には軍制改革を指令する。8月20日、土佐藩より[[アメリカ合衆国]]派遣の内命を受ける(のち中止)。9月6日、[[土佐勤王党]]弾圧で投獄されていた[[島村雅事|島村寿之助]]、[[安岡正美|安岡覚之助]]等を釈放する。これに応じ、七郡勤王党幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決議する。10月、土佐藩邸に匿っていた水戸浪士らを薩摩藩邸へ移す。
 
 
 
=== 戊辰戦争で活躍 ===
 
[[File:Jinshotai.jpg|thumb|250px|[[迅衝隊]](前列左から[[伴権太夫]]、板垣退助(中央)、[[谷乙猪]](少年)、[[山地元治|山地忠七]]。 中列、[[谷重喜|谷神兵衛]]、[[谷干城]](襟巻をして刀を持つ男性)、[[山田平左衛門|山田清廉]]、[[吉本祐雄|吉本平之助祐雄]]。 後列、[[片岡健吉]]、[[真辺正精]]、西山榮、[[北村重頼]]、別府彦九郎)]][[File:Sculpture of Itagaki Taisuke near Nikkobashi Bridge.jpg|250px|thumb|[[日光東照宮]]の[[板垣退助]]像(写真は戦後に復元されたもの) 銅像題字の揮毫は徳川宗家第16代当主・[[徳川家達]]による]]
 
[[戊辰戦争]]では土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた[[迅衝隊]]総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の[[参謀]]として従軍した。[[天領]]である[[甲府城]]の掌握目前の[[美濃国|美濃]]大垣に向けて出発した慶応4年([[1868年]])2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「[[甲斐源氏]]の流れを汲む旧武田家家臣の[[板垣氏]]の末裔であることを示して[[甲斐国]]民衆の支持を得よ」と、[[岩倉具視]]等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。
 
 
 
=== 新選組を撃破 ===
 
この策が講じて[[甲州勝沼の戦い]]で大久保大和([[近藤勇]])の率いる[[新選組]]を撃破したばかりではなく、その後に江戸に転戦した際も、旧武田家臣が多く召抱えられていた[[八王子千人同心]]たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。
 
 
 
=== 三春藩を無血開城 ===
 
[[東北戦争]]では、[[三春藩]]を無血開城させ、[[二本松藩]]・[[仙台藩]]・[[会津藩]]などを攻略するなどの軍功によって[[賞典禄]]1,000石を賜っている。[[明治]]元年([[1868年]])12月には藩陸軍総督となり、[[家老]]格に進んで家禄600石に加増される。
 
 
 
=== 旧幕側の名誉回復に尽力 ===
 
[[官軍]]の将でありながら維新後すぐから、[[賊軍]]となった会津藩の心情を慮って名誉恢復に努めるなど、徹底して公正な価値観の持ち主であった為、多くの会津人が維新後、感謝の気持ちから土佐を訪れている。
 
 
 
=== 明治政府の要職を歴任 ===
 
[[Image:Seikanron2.jpg|thumb|250px|朝鮮国の不義を糺すために立ちあがった板垣退助らの[[征韓論|征韓議論]]。([[1877年]]([[明治]]10年)[[鈴木年基]]作)]]
 
明治2年([[1869年]])、[[木戸孝允]]、西郷隆盛、[[大隈重信]]と共に参与に就任する。明治3年([[1870年]])に高知藩の[[大参事]]となり「'''人民平均の理'''」を発令する。明治4年([[1871年]])に[[参議]]となる。
 
 
 
明治6年([[1873年]])、書契問題に端を発する度重なる[[李氏朝鮮|朝鮮国]]の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して[[征韓論]]を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らと共に下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚600余名に及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった([[明治六年政変]])。
 
 
 
=== 自由民権運動 ===
 
[[ファイル:大阪会議開催の地レリーフ.JPG|thumb|250px|大阪会議開催の地にある[[大久保利通]](上左)・[[木戸孝允]](上中央)・'''板垣退助'''(上右)・[[伊藤博文]](下左)・[[井上馨]](下右)のレリーフ<br />([[大阪府]][[大阪市]][[中央区 (大阪市)|中央区]][[北浜]])]]
 
[[File:Itagaki.jpg|thumb|250px|板垣退助の[[岐阜事件|岐阜遭難事件]]]]
 
 
 
下野後、退助は[[五箇条の御誓文]]の文言「万機公論に決すべし」を根拠に、明治7年([[1874年]])に[[愛国公党]]を結成し、後藤象二郎らと左院に[[民撰議院設立建白書]]を提出したが、却下された。また、高知に[[立志社]]を設立した。明治8年([[1875年]])、[[大阪会議]]によって参議に復帰したが、民衆の意見が容れられる議会制政治を目指し、間もなく辞して再び[[自由民権運動]]に身を投じた。
 
 
 
明治14年([[1881年]])、10年後に[[帝国議会]]を開設するという[[国会開設の詔]]が出されたのを機に、[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]を結成して[[総理]](党首)となった。以後、全国を遊説して廻り、党勢拡大に努めていた明治15年([[1882年]])4月、[[岐阜市|岐阜]]で遊説中に暴漢・[[相原尚けい|相原尚褧]]に襲われ負傷した([[岐阜事件]])。その際、板垣は襲われた後に[[竹内綱]]に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い
 
{{Refnest|group="注"|当時、岐阜県御嵩(みたけ)警察署御用掛であった岡本都嶼吉が、3月26日から4月8日までの板垣一行の動静をまとめて4月10日に御嵩警察署長に提出した「探偵上申書」に記載されている。また[[岐阜県警察部|岐阜県警部長]]の川俣正名が[[岐阜県知事|岐阜県令]]に対して提出した供覧文書には、板垣が刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由は永世不滅ナルベキ」と笑った、と記録されている。<ref>[http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p04.html 知っていましたか? 近代日本のこんな歴史|板垣退助暗殺未遂事件〜「板垣死すとも自由は死せず」〜]</ref>}}、これがやがて「'''板垣死すとも自由は死せず'''」という表現で広く伝わることになった。この事件の際に板垣は当時医者だった[[後藤新平]]の診療を受けており、後藤は「閣下、御本懐でございましょう」と述べ、療養後に彼の政才を見抜いた板垣は「彼を政治家にできないのが残念だ」と語っている<ref>『日本の有名一族』小谷野敦、幻冬舎新書、2007</ref>。
 
11月、後藤象二郎と洋行し、翌年の6月に帰国した。明治17年([[1884年]])10月、自由民権運動の激化で[[加波山事件]]が起き、自由党を一旦解党した。
 
 
 
自由民権運動家の立場から、[[華族制度]]には消極的な立場であり、授爵の勅を二度断っていたが、明治20年([[1887年]])5月、[[三顧の礼|三顧之礼]](三度の拝辞は不敬にあたるという故事)を周囲から諭され、三度目にして、やむなく[[伯爵]]位を授爵した。その結果、[[衆議院議員]]となることはなく(華族当主には衆院選の[[被選挙権]]がない)、また、[[貴族院 (日本)|貴族院]]でも[[伯爵議員]]の互選にも[[貴族院勅選議員|勅選議員]]の任命も辞退したため、[[帝国議会]]に議席を持つことはなかった。
 
 
 
=== 帝国議会開設以後 ===
 
[[大同団結運動]]の分裂後、帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は[[林有造]]らとともに愛国公党を再び組織して[[第1回衆議院議員総選挙]]に対応した。明治23年([[1890年]])の帝国議会開設後には[[河野広中]]や[[大井憲太郎]]らとともに旧自由党各派(愛国公党、[[自由党 (日本 1890)|自由党]]、[[大同倶楽部]]、九州同志会)を統合して[[自由党 (日本 1890-1898)|立憲自由党]]を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。
 
 
 
明治29年([[1896年]])、議会内で孤立していた自由党は[[第2次伊藤内閣]]と協力の道を歩み、板垣は[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]として入閣。続く[[第2次松方内閣]]においても留任したがすぐに辞任した。明治30年([[1897年]])3月、自由党総理を辞任している。
 
 
 
明治31年([[1898年]])、対立していた大隈重信の[[進歩党 (日本 1896-1898)|進歩党]]と合同して[[憲政党]]を組織し、日本初の[[政党内閣]]である[[第1次大隈内閣]]に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・'''隈板内閣'''(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。しかし、内閣は内紛が激しく、4ヶ月で[[総辞職]]せざるを得なくなる。明治33年([[1900年]])、[[立憲政友会]]の創立とともに政界を引退した。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
政界引退後は、明治37年([[1904年]])に機関誌『友愛』を創刊したり、同40年([[1907年]])には全国の華族に書面で華族の世襲禁止を問う活動を行なった。[[大正]]2年([[1913年]])2月に[[肥田琢司]]を中心に結成された立憲青年自由党の相談役に就いた。[[大正]]3年([[1914年]])には2度[[台湾]]を訪問し、[[台湾同化会]]の設立に携わった。
 
 
 
[[大正]]8年(1919年)7月16日、[[死去|薨去]]。享年83(満82歳没)。[[法名]]は邦光院殿賢徳道圓大居士。なお、「一代華族論」という主張から、嫡男・[[板垣鉾太郎|鉾太郎]]は自ら廃嫡し家督相続を遅らせたため板垣家は華族の栄典を喪失した<ref>『官報』第2350号、大正9年6月3日</ref><ref group="注">板垣家の家督は孫の[[板垣守正|守正]]が相続した。</ref>。
 
 
 
== 逸話 ==
 
[[ファイル:Itagaki50sen.jpg|thumb|250px|50銭政府紙幣]]
 
[[ファイル:SeriesB100Yen Bank of Japan note.jpg|thumb|250px|日本銀行券B100円券]]
 
*明治4年([[1871年]])[[武田信玄]]の300回忌法要の際に、松本楓湖の画による武田二十四将の肖像が、[[武田氏]]一族の菩提寺である甲斐[[恵林寺]]に奉納される際、各武将の直系子孫が画賛を書くことになり、依頼されて退助は[[板垣信方]]の肖像画に直筆で画賛を書いた。退助は揮毫を依頼されても殆ど断っており、確実に自筆と判明している2点(1点は「死生亦大矣」の書)のうちの一つであり、数少ない板垣退助の直筆史料として、現在は、財団法人歴史博物館信玄公宝物館の所蔵となっている。
 
* 少年時代、「蝦蟇の油を塗ると川に潜っても呼吸ができる」との言い伝えを信じ、後藤象二郎と一緒に、蛙を沢山捕獲して釜で煮て蝦蟇の油を作り、鏡川を潜水したが呼吸が出来ず、蝦蟇の油の効力が迷信であることを知る。これによって迷信を疑うようになり、実証主義に転じて、翌日今度は、神社のお守りを[[厠]]に捨ててみて、神罰が本当に起こるのか試したことがある(結果、何事も起こらなかった)。同様の主旨で、退助が神田村(こうだむら)に蟄居していた時、当時の人が[[合食禁|食べ合わせ]](「うなぎと梅干」、「てんぷらと西瓜」など)を食べると死ぬと信じていた[[迷信]]に対して、自ら人を集めて食べて無害なことを実証したことがある。
 
* [[武市瑞山]]の命令で自分を斬りに来た中岡慎太郎を見透かし、暗殺を留まらせた。その時、中岡と意気投合し、共に倒幕に身を投じる事となった。
 
* 自らの命を狙われた[[岐阜事件|岐阜遭難事件]]の犯人である相原尚褧に対して、[[特赦]]嘆願書を[[明治天皇]]に提出した結果、相原は特赦となり、改心した相原は退助に謝罪に訪れている<ref>『板垣退助君伝記』第4巻、宇田友猪著、明治百年史叢書、[[原書房]]、2009年</ref>。
 
* 家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮していたと伝えられている。明治44年([[1911年]])頃、人を介して秘かに[[杉山茂丸]]に[[日本刀|刀]]を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、[[長船派|備前長船]](大宮派)の初代「盛重」([[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の作)という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。驚いた茂丸は「この刀は伯が維新の際にその功により、拝領したものだと聞いているが…」と嘆息するエピソードがある<ref>『杉山茂丸伝』、野田美鴻著、島津書房、1992年</ref>。この後、杉山は「板垣ほどの者がこれほど困窮しているのだから」と[[山縣有朋]]に説いて天皇や[[元老]]から救援金が出るようはからった。
 
*[[市島謙吉]] 「昔改進党時代に、常用で板垣伯を訪ねたことがある。当時の伯の住所は芝公園内の第何号地という様な分り悪い所にあった。辛うじて番号を尋ね当てたが、さてその家が如何にもみすぼらしいので、自由党総理の家とは思えぬ。そこで念の為その家に就いて問うて見ると、矢張り伯の家であった。下駄の三足も並ぶと一杯になる入口に障子が二枚ある。どうしても下等の判任官の住居としか見えぬ。下駄脱から御免というて取次を頼むと、中でお上りという声がする。戸を開けると、直ぐそこに伯が客と対談中で、今上れと言われたのが主人の伯であったのに一驚を喫した。伯は無造作に応接されて、用は立ちどころに弁じたが、一方改進党総理[[大隈重信|大隈伯]]の殿様振りと板垣伯の生活振りが余りに懸隔あるので案外に感じた」<ref>市島謙吉「随筆春城六種」</ref>。
 
* 宣教師・フルベッキが高知に宣教をするにあたって紹介をし、同郷の[[片岡健吉]]・[[坂本直寛]]の受洗などに多大な影響を与えたが、退助自身はキリスト教には入信しなかった。高知の板垣家歴代墓所には、各々「十字」が刻まれているため、クリスチャンだったと誤解する人がいるが、これは家紋であり、板垣家の代々の宗旨は[[曹洞宗]]である。(菩提寺は、東京・[[青松寺]])
 
* [[後藤象二郎]]と共に日本人としてはきわめて早い時期の([[1896年]]以前の)[[ルイ・ヴィトン]]のトランクを所持していた<ref>
 
{{cite web
 
| url = http://www.asahi.com/national/update/0916/OSK201109160105.html
 
| title = ルイ・ヴィトン、板垣退助もご愛用 ひ孫、トランク寄託
 
| date = 2011-09-17
 
| publisher = [[朝日新聞]]
 
| accessdate = 2011-09-17
 
|deadlinkdate= 2015年3月
 
}}</ref>([[立憲主義|立憲政治]]視察のため後藤象二郎と渡欧した[[1882年]]から[[1883年]]の間に購入したとされる)。なお初めて顧客になったのが後藤と板垣であると長らく信じられてきたが、実際には板垣たちの渡欧よりも5年前の[[1878年]]に[[鮫島尚信]](在仏特命全権公使)と[[中野健明]](一等書記官)が購入していたことが当時の顧客名簿から判明している。
 
* 退助の曾孫の家に保管されていた、明治2年([[1869年]])頃撮影と見られる板垣退助と二人の武士<ref group="注">板垣を中央に右が[[後藤象二郎]]と左が[[乾正厚]]との所伝がある。</ref>が写った幕末古写真が、平成24年(2012年)7月13日に記者公開され、同年8月1日から8月31日まで[[高知市立自由民権記念館]]で一般公開された<ref>{{Cite web
 
|url=http://www.47news.jp/CN/201207/CN2012071301001718.html
 
|title=壮年期の板垣退助の写真公開 明治初期 子孫が保管
 
|publisher=[[高知新聞]]
 
|accessdate=2012-7-13
 
|archiveurl=http://web.archive.org/web/20150304080538/http://www.47news.jp/CN/201207/CN2012071301001718.html
 
|archivedate=2015-3-4
 
|deadlinkdate=}}</ref>。
 
 
 
 
 
 
 
=== 呑敵流 ===
 
[[柔術]]は[[呑敵流]][[小具足 (武術)|小具足術]]を[[本山団蔵]]に学んだ。
 
 
 
板垣退助は、明治15年([[1882年]])に岐阜で相原尚褧に襲われた際、咄嗟に'''呑敵流'''の[[当身]]で反撃をした。
 
 
 
この時、敵の心臓を狙って肘で[[当身]]をしたが力が入れ過ぎた為に下にずれて腹部に当たった。
 
 
 
後の取り調べで[[相原尚褧]]が警察に脾腹が[[充血]]して痛みに耐えられん言ったので、調べて見ると脾腹が黒いアザになっていたという。
 
 
 
[[岐阜事件]]の後、板垣は命が助かったのは師のおかげと思い、本山団蔵に贈物を贈り
 
 
 
この事を話したところ、本山団蔵は板垣に教えた武術が実地に功を奏した事を喜び'''呑敵流'''の'''皆伝免状'''を授けたという。
 
==== 相伝系譜 ====
 
{{quotation|∴'''吉里呑敵齋信武''' - 馬渕嘉平正保 - 本山団蔵重隆 - '''板垣退助'''}}
 
 
 
=== 武術 ===
 
* [[抜刀術|居合]]は故郷に伝わる[[無双直伝英信流]]を、後に第17代となる[[大江正路]]と共に修めていた。また、居合を学ぶために高知を訪れた[[中山博道]]に、[[無雙神傳英信流|無双神伝英信流]]の[[細川義昌]]を紹介した。[[日本刀]]の収集家としても有名だった。
 
* 自宅に相撲道場を築く程の[[好角家]]としても知られており、[[国技館]]の名付け親でもある。後に第6代[[友綱]]となる幕内力士・[[海山太郎 (友綱)|海山]]をはじめ多くの力士を育てた。
 
* [[帝國尚武會]]の野口正八郎に頼まれて顧問となっている。
 
 
 
=== 学問 ===
 
* 退助の教養形成に大きな影響を与えたのが、[[阿波国]]出身の学者、[[若山勿堂]](壮吉)である。[[昌平坂学問所]]塾頭を務めた[[佐藤一斎]]に[[儒学]]を学んだ勿堂は、[[山田方谷]]、[[佐久間象山]]、[[渡辺崋山]]などと並び「一斎門下の十哲」として、[[昌平黌]]の儒官として教鞭を取った人物である<ref>『佐藤一斎と其の門人』第九章</ref>。勿堂は儒学だけでく、幕府[[講武所]]頭取を務め、[[甲州流軍学]]、[[越後流]]、[[長沼流]]を兼修した兵学の重鎮・[[窪田清音]]から[[山鹿流]]兵学を学び、免許皆伝を許された英才である。勿堂の[[山鹿流]]は、[[赤穂]]山鹿流の正統な伝系を継いでおり、他にも[[勝海舟]]、[[土方久元]]、[[佐々木高行]]、[[谷干城]]が勿堂から山鹿流を習得している<ref>『山鹿素行兵法学の史的研究』十一章</ref><ref>風間健「武士道教育総論」(壮神社)</ref>。したがって、退助の学問的系譜は、当時の幕府側学者の最高峰である佐藤一斎、窪田清音の孫弟子ということになる。
 
==== 赤穂山鹿流伝系 ====
 
{{quotation|∴'''[[山鹿素行]]''' - [[大石良重]] - [[菅谷政利]] - 太田利貞 - 岡野禎淑 - 清水時庸 - 黒野義方 - [[窪田清音]] - [[若山勿堂]] - '''板垣退助'''}}
 
 
 
== 評価 ==
 
=== 栄典 ===
 
;位階
 
* [[1893年]](明治26年)[[6月16日]] - [[正三位]]<ref>『官報』第2989号「叙任及辞令」1893年6月17日。</ref>
 
* [[1909年]](明治42年)[[7月10日]] - [[正二位]]<ref>『官報』第7813号「叙任及辞令」1909年7月12日。</ref>
 
 
 
;勲章等
 
* [[1887年]](明治20年)[[5月9日]] - [[伯爵]]<ref>『官報』第1156号「叙任及辞令」1887年5月10日。</ref>
 
* [[1896年]](明治29年)[[9月29日]] - [[勲一等旭日大綬章]]<ref>『官報』第3978号「叙任及辞令」1896年9月30日。</ref>
 
* [[1915年]](大正4年)[[11月10日]] - [[記念章|大礼記念章]]<ref>『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。</ref>
 
* [[大正]]8年([[1919年]])7月 - [[勲一等旭日桐花大綬章|旭日桐花大綬章]]
 
 
 
=== 人物評 ===
 
*[[有馬藤太]] 「或時西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」<ref>維新史の片鱗1921</ref>
 
*[[尾崎咢堂]] 「猛烈な感情と透徹せる理性と、ほとんど両立し難い二つの性質を同時に持っていた」<ref>『咢堂漫談』</ref>
 
*[[中江兆民]]
 
**「私情に絡まるのは政治や公党の公では良く無いに違いないが、私交上ではむしろ美徳である。板垣は政治家としてよりも、むしろ個人としての美しい徳を持っていた近世の偉人である」
 
**「板垣は日本の[[民主主義]]発展に大きな功績を残した。彼は無欲恬淡、金銭欲も淡白でしたたかさが無かった」
 
* 小説家の[[海音寺潮五郎]]や[[司馬遼太郎]]は「板垣は政治家より[[軍人]]に向いていて、ただ板垣の功績経歴から軍人にすると西郷隆盛の次で[[山縣有朋]]の上ぐらいには置かないといけないが、土佐藩にそこまでの勢力がなかったので政治家にされた」と述べている<ref>たとえば海音寺「敬天愛人西郷隆盛」学研M文庫、4巻、P103~104</ref>。
 
* 自由民権運動の思想はその基礎を[[王政復古]]に求めるものであり、[[天賦人権論]]を基盤としたものである<ref>[[坂野潤治]]・[[田原総一朗]]『大日本帝国の民主主義』[[小学館]],2006年,190頁</ref>。
 
*「板垣死すとも自由は死せず」の言葉が広く知られているように、板垣は自由民権運動の英雄である。その一方で、[[藩閥]]政府による懐柔や、隈板内閣内の論争などといった板垣の政治的な行動は、民衆の議論を賑わせた。内務大臣への就任については多くの[[風刺画]]が描かれ(内務大臣は[[日本の警察|警察]]を管轄し、[[言論統制]]や[[選挙干渉]]などを行ったことで評判の悪いポストであった)、[[宮武外骨]]の『[[滑稽新聞]]』は、自由は死んだのに板垣は生きていると揶揄した。風刺画研究者の[[清水勲]]によれば、板垣は伊藤博文・大隈重信とならんで風刺画に描かれることの多い明治の政治家の「ベスト・スリー」であるという<ref>清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波書店(岩波文庫)、1997年)、p.81,92。</ref>。
 
 
 
== 肖像 ==
 
=== 年代別写真 ===
 
{{Center|<gallery caption="年代別写真" widths="100px" heights="150px">
 
Taisuke Itagaki.jpg|1868年(31歳)
 
Itagaki_Taisuke_young.jpg|1880年(44歳)
 
Taisuke Itagaki 2.jpg|1886年頃(50歳頃)
 
Itagaki Taisuke.jpg|1896年頃(60歳頃)
 
ITAGAKI Taisuke.jpg|1906年頃(70歳頃)
 
</gallery>}}
 
 
 
=== 銅像 ===
 
[[File:Statue_of_ITAGAKI_TAISUKE_Kokkai.jpg|thumb|210px|[[国会議事堂]]板垣退助像除幕式(中央:[[板垣正貫]]夫妻、右:[[板垣守正]]夫妻、左:[[浅野総一郎|浅野泰治郎]]夫妻、子:浅野房子)]]
 
[[File:Taisuke Itagaki bronze statue 1.JPG|thumb|210px|[[岐阜公園]]にある板垣退助の銅像]]
 
[[File:Itagaki Taisuke01.JPG|210px|thumb|高知城の銅像]]
 
* [[国会議事堂]]([[大日本帝国憲法]]施行五十周年を記念して建立)
 
*: 中央広間の四隅に銅像の台座があり、板垣退助像、[[大隈重信]]像、[[伊藤博文]]像、そして空の台座となっている。板垣像は、[[北村西望]]の作。
 
* [[岐阜県]][[岐阜市]]の[[岐阜公園]]([[金華山 (岐阜県)|金華山]]の麓)
 
*: 板垣遭難([[岐阜事件]])の地に大正6年(1917年)に建てられた。
 
* [[高知県]][[高知市]]の[[高知城]]登城口
 
*: 銅像の作者・[[本山白雲]]([[高村光雲]]の弟子)は退助の親族でもある。
 
* [[青梅市]]
 
* [[日光市|栃木県日光市]]の[[日光東照宮]]参道へと通じる神橋入口
 
*: 日光東照宮に立て籠もる[[大鳥圭介]]ら旧幕臣達に対して板垣退助は「先祖の位牌の陰に隠れて、こそこそ戦い、結果、歴代の文物もろとも灰燼に帰すれば、徳川家は末代までも失笑の種となるであろう。尋常に外に出て正々堂々と戦いなさい」と説得し、また強硬に破壊を主張する因州[[鳥取藩]]に対しては「[[日光東照宮]]には、陽明門をはじめ各所に[[後水尾天皇]]の御親筆とされる扁額が掲げられており、これを焼き討ちすることは[[天皇家]]への[[不敬]]にあたるため回避せられよ」と両者に対して理由を使い分けて説得し、日光山を戦火から守った功績によるものである。初め昭和4年([[1929年]])に彫刻家の本山白雲による像が作られ、徳川宗家16代目を継いだ[[徳川家達]]が、板垣に感謝し銅像の題字を揮毫した。[[大東亜戦争]]末期に金属供出されたため、昭和42年([[1967年]])、彫刻家・[[新関国臣]]の作による像が再建された。銅像の題字は、拓本を基に[[徳川家達]]の揮毫を再刻して復元された。
 
 
 
== 系譜 ==
 
; 乾氏(板垣氏)
 
: [[乾氏|乾家]]の初代・[[乾正信|正信]]は、甲斐の[[武田信玄|武田晴信]](信玄)に仕えた部将・[[板垣信方]]の孫である。正信の父・[[板垣信憲]]がゆえあって改易された後に誅された事件があった為、籠居して乾氏に名を改めた。正信は長じて[[小田原征伐]]に[[陣借り]]して奮戦し、その功によって[[山内一豊]]が[[遠江国]][[掛川]]に封ぜられた天正18年(1590年)に召抱えられた(掛川衆)。[[江戸時代]]代々土佐藩士で、家格は馬廻役(上士)。[[家紋]]は、甲斐板垣氏は元々「地黒菱<ref group="注">「花菱」紋を陰陽反転したもの。この頃は、武田氏も「四つ割菱」紋はまだ用いてはおらず「四つ割菱」紋を陰陽反転したものでは無い。</ref>」を用いたが、姓を乾氏に改めた戦国時代末期頃より明治時代中期頃までは「榧之内十文字」を用いた。板垣退助は、土佐山内氏から賜った「土佐桐<ref group="注">俗説に、板垣の紋は「五三の桐」と言うが、品川神社裏の墓石などによれば板垣の紋は葉脈の数が三本、葉型は鬼葉(刻みの尖った葉)で、花が描かれており「五三の桐」とは形が全く異なる。</ref>」を明治中期以降は用いた。
 
<gallery>
 
Jiguro_Hana_bishi.png|地黒花菱
 
Kamon kayanouchi jumonji.png|榧之内十文字
 
Kamon_Tosa_Kiri.png|土佐桐
 
</gallery>
 
 
 
=== 系図 ===
 
==== 土佐板垣(乾)氏系図 ====
 
* 実線は実子、点線は養子
 
* 江戸時代部分は(御侍中先祖書系圖牒)より
 
{{familytree/start|style=font-size:80%}}
 
{{familytree|border=0|001|001= ∴}}
 
{{familytree|border=0|001|001='''板垣兼光'''}}
 
{{familytree|border=0| |!| |}}
 
{{familytree|border=0|001|001='''板垣善満坊'''}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|.|||| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|001='''板垣備州'''|002='''[[板垣信泰]]'''}}
 
{{familytree|border=0| |!|||)|-|-|v|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|001=板垣伯耆守|002='''[[板垣信方]]'''|003=[[室住虎登]]|004=女子}}
 
{{familytree|border=0| ||||)|-|-|v|-|-|V|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|001=|002=<sup>1</sup>'''[[板垣信憲]]'''|003=酒依昌光|004='''[[板垣信安]]'''<ref>板垣信方の娘婿。実は於曾氏。[[永禄|永祿]]元年([[1558年]])、[[武田信玄]]の命に依って、板垣家を再興</ref>|005=板垣信安室}}
 
{{familytree|border=0| |,|-|-|(|||!|||)|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|001=<sup>2</sup>'''[[板垣正信]]'''|002=板垣正寅|003=女子|004='''板垣修理亮'''|005=板垣隼人}}
 
{{familytree|border=0| |:|||!|||!|||`|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|001=<sup>3</sup>'''[[乾正行]]'''<ref>[[永原一照]]次男</ref>|002=[[出雲路信直|板垣正善]]|003=酒依昌吉|004=|005=|006=|007='''半右衛門'''|008=女子}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|.|||!|||!| |}}
 
{{familytree|border=0|001||||||||||002|003|004|005|001=<sup>4</sup>'''[[乾正祐]]'''|002=<sup>①</sup>[[乾正直]]|003=乾友正|004='''平右衛門'''|005=諸星信茂}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|.|||!|||:|||!|||!| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|001=<sup>5</sup>'''[[乾正方]]'''|002=|003=|004=乾十次郎|005=<sup>②</sup>[[乾正房]]|006=[[乾六一]]<ref>板垣退助五男、絶家再興</ref>|007='''板垣知貞'''|008=諸星信時}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|.|||!|||!||||||!|||!| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|001=乾加助|002=<sup>6</sup>'''[[乾正清]]'''|003=近藤通賢室|004=乾十助|005=<sup>③</sup>乾吉勝|006=|007='''板垣信精'''|008=諸星信職}}
 
{{familytree|border=0| |,|-|-|+|-|-|v|-|-|.|||)|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|001=<sup>7</sup>'''[[乾直建]]'''|002=乾直強|003=中山秀信|004=乾強正|005=<sup>④</sup>乾正英|006=乾正愛}}
 
{{familytree|border=0| |!||||||||||||!| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|001=<sup>8</sup>'''[[乾正聡]]'''|002=|003=|004=|005=<sup>⑤</sup>乾正壽}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|.||||||)|-|-|-|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|001=<sup>9</sup>'''[[乾信武]]'''|002=野本信照|003=女子|004=|005=<sup>⑥</sup>[[乾正春]]|006=|007=[[本山茂良]]}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|.||||||)|~|~|7|||!| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|001=<sup>10</sup>'''[[乾正成]]'''|002=平井政実室|003=長屋彦太夫室|004=|005=乾正勝|006=<sup>⑦</sup>[[乾正厚]]|007=[[乾正厚]]<ref>乾正春の養子となる</ref>}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||:| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|001=<sup>11</sup>'''板垣退助'''|002=乾久馬|003=女子|004=高屋長豪室|005=[[寺村道成|日野成雄]]室|006=<sup>⑧</sup>[[乾正士]]<ref>板垣退助次男</ref>}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|009|010|011|012|013|014|015|001=[[板垣鉾太郎]]|002=|003=|004=|005=|006=|007=<sup>⑧</sup>[[乾正士]]<ref>乾正厚の養子となる</ref>|008=板垣孫三郎|009=板垣正實|010=[[乾六一]]<ref>乾友正家の絶家再興</ref>|011=片岡兵子|012=[[宮地茂春|宮地軍子]]|013=[[小川一眞|小川婉子]]|014=[[浅野総一郎|浅野千代子]]|015=[[小山鞆絵|小山良子]]}}
 
{{familytree|border=0| |)|-|-|v|-|-|-|-|-|.|||||||||)|-|-|-|-|-|v|-|-|.|||,|-|-|(|||,|-|-|(|||!| |}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|009|010|011|012|013|014|015|001=板垣武生|002=<sup>12</sup>'''[[板垣守正]]'''|003=|004=<sup>13</sup>'''[[板垣正貫]]'''|005=|006=|007=[[川瀬徳太郎|川瀬美世子]]|008=|009=中村朝子|010=<sup>⑨</sup>乾一郎|011=[[宮地茂秋]]|012=本山信子|013=浅野一治|014=浅野房子|015=小山朝光}}
 
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{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|009|010|011|012|013|014|015|001=[[尾崎旦|尾崎正]]|002=三島拓子|003=板垣正明|004=秋山範子|005=<sup>14</sup>'''板垣退太郎'''|006=板垣直磨|007=川瀬勝世|008=[[杉崎光世]]|009=中村純子|010=<sup>⑩</sup>髙岡眞理子|011=|012=|013=|014=|015=小山朝和}}
 
{{familytree|border=0| |!|||,|-|-|v|-|-|(|||,|-|-|(||||||,|-|-|(|||)|-|-|.|||||||||,|-|-|(|}}
 
{{familytree|border=0|001|002|003|004|005|006|007|008|009|010|011|012|013|014|015|001=尾崎公正|002=秋山竹生|003=秋山竹史|004=秋山百合|005=板垣裕子|006='''板垣晶大'''|007=|008=中村直敬|009=中村和敬|010=井深美香|011=髙岡功太郎|012=|013=|014=小山朝顯|015=小山朝英}}
 
{{familytree/end}}
 
 
 
=== 家族 ===
 
[[Image:Graves of Itagaki taisuke family.jpg|thumb|250px|板垣退助と妻子の墓([[品川神社]]裏)。<br>右から退助、絹子、正實、六一、清子、武生(鉾太郎長男・早世)<br>同じ墓域には乾信武と、正實の乳母・青木タキの墓もある。]]
 
* 曾祖父:[[乾正聰]]
 
* 曾祖母:林 藤左衛門勝周の女
 
** 祖父:[[乾信武]]
 
** 祖母:谷村久之丞自熈の女
 
*** 父:[[乾正成]]
 
*** 母:山内勝長の妹
 
**** 本人:'''板垣退助'''
 
**** 正妻:林益之丞政護の妹
 
**** 継妻:中山弥平治秀雅の次女
 
**** 継妻:鈴(すず)。小谷正臣の娘。[[天保]]11年8月15日(1840年9月10日)生。[[安政]]6年([[1859年]])婚姻。明治18年([[1885年]])[[6月28日]]没。
 
**** 継妻:[[板垣絹子|絹子]](きぬこ)。[[福岡孝弟]]養女、荒木伊三次の七女([[荒木周道]]の妹)
 
**** 権妻:[[板垣清子]]。金春芸者の小清
 
***** 長男:[[板垣鉾太郎]] - [[慶応]]4年5月15日([[1868年]][[7月4日]])生。母は小谷氏
 
***** 次男<ref>墓碑銘に「板垣退助次男 [[乾正士]]」とあり。所在地:[[大阪府]][[池田市]]五月山(昭和46年([[1971年]])3月[[高知県]][[高知市]]より移葬)</ref>:[[乾正士]] - 慶応4年3月25日([[1868年]][[4月18日]])生。母は[[土佐藩]][[医師]]・[[萩原復斎]]の娘・薬子(やくし)
 
***** 三男<ref>墓碑銘に「板垣退助三男 板垣孫三郎」とあり。所在地:[[高知県]][[高知市]]薊野東町 乾・板垣家歴代墓所</ref>:板垣孫三郎 - 明治18年([[1885年]])[[10月6日]]生。母は福岡氏
 
***** 四男<ref>墓碑銘に「伯爵板垣退助四男 板垣正實」とあり。所在地:[[東京都]][[品川区]]北品川 東京板垣家歴代墓所</ref>:[[板垣正實]] - 明治22年([[1889年]])[[4月4日]]生。母は福岡氏
 
***** 五男<ref>墓碑銘に「伯爵板垣退助五男 板垣六一」とあり。所在地:[[東京都]][[品川区]]北品川 東京板垣家歴代墓所</ref>:[[乾六一]] - 明治30年([[1897年]])[[11月14日]]生。母は福岡氏
 
***** 長女:兵 - [[片岡光房]]妻。万延元年6月18日([[1860年]][[8月4日]])生。母は小谷氏
 
***** 次女:軍 - [[宮地茂春]]妻。元治元年3月15日([[1864年]][[4月20日]])生。母は[[土佐藩|土佐藩士]]・久川晋吉の女
 
******孫:[[宮地茂秋]]([[日本セメント]]専務取締役)
 
***** 三女:猿(のち婉と改める) - 初め[[安川甚一]]妻、後[[小川一真|小川一眞]](写真家)妻。明治5年5月16日([[1872年]][[6月21日]])生。母は[[板垣清子]]
 
***** 四女:千代子 - [[浅野総一郎|浅野泰治郎]](のちの二代目 浅野総一郎・[[浅野セメント]]社長)妻。明治26年([[1893年]])[[4月12日]]生。母は福岡氏
 
***** 五女:良子 - 哲学者・[[小山鞆絵]]妻。明治28年([[1895年]])[[1月1日]]生。母は福岡氏
 
******孫(良子の三男):小山朝光(小山海運社長)
 
 
 
== 墓所 ==
 
[[File:Grave of Itagaki Taisuke.JPG|thumb|250px|板垣退助の墓(東京・品川神社裏)]]
 
* 薊野山(板垣山) - 山全体が乾氏専用の大きな墓地となっており、初代・正信から退助までの10代の墓石が整然とあり、退助の墓は三番目の妻小谷氏と並んで建てられている。正信から退助まで全て「榧之内十文字」の紋が付けられている。退助の墓のみ「土佐桐」の紋が台座についている(所在地 [[高知県]][[高知市]]薊野東町15-12の北東付近)。
 
* [[安楽寺 (高知市)|安楽寺]] - 乾氏(板垣氏)の一族の墓がある。(所在地 [[高知県]][[高知市]]洞ヶ島町5-3)
 
* [[品川神社]] - 江戸で客死した退助の祖父・[[乾信武|信武]]の墓石以外は、退助を含め明治以降に亡くなった一族の墓石があり、退助の墓は四番目の妻福岡氏と並んで建てられている。明治以降の墓のため「土佐桐」の紋がついている。墓石のとなりには、明治維新100年・板垣伯薨去50回忌を記念して、板垣退助先生顕彰会によって建てられた[[佐藤栄作]]の揮毫による「板垣死すとも自由は死せず」の石碑がある。[[品川神社]]の社域がもと東海寺の寺域であったため、社殿裏が墓となっている。(所在地 [[東京都]][[品川区]]北品川3-7-15。昭和53年11月22日[[品川区]]史跡に指定されている)
 
 
 
== 著作 ==
 
[[File:The_tomb_of_ITAGAKI_TAISUKE.jpg|thumb|250px|板垣退助の墓(高知・板垣山)]]
 
*『板垣政法論』、板垣退助述、[[植木枝盛]]記、[[五古周二]]編、自由楼、1881年
 
*『通俗無上政法論』、板垣退助立案、植木枝盛記、[[和田稲積]]編、絵入自由出版社、1883年
 
*『板垣伯意見書』、板垣退助述、[[憲政党]]党報局、1899年
 
*『板垣南海翁之意見』、板垣退助述、郷敏儒、1890年
 
*『愛国論』板垣伯立案、[[出射吾三郎]]編、吉田書房、1890年
 
*『自由党史』(上下巻)、板垣退助監修、[[宇田友猪]]、[[和田三郎]]共編、五車楼、1910年/[[岩波文庫]] 上中下巻 初版1958年、復刊1997年ほか
 
*『[[一代華族論]]』、伯爵 板垣退助著、社会政策社、1912年
 
*『選挙法改正意見』、板垣退助著
 
*『板垣退助先生[[武士道]]観』、板垣退助著、高知 板垣會、1942年
 
*『憲政と土佐』、板垣會編、1941年
 
 
 
<!--特筆性に欠けるのでコメントアウト
 
== 演じた俳優 ==
 
*阪東扇太郎:『[[大村益次郎]]』(1942年、映画)
 
*[[羅門光三郎]]:『暁の鼓笛隊』(1945年、映画)
 
*杉山昌三九:『花の白虎隊』(1954年、映画)
 
*小山源喜:『西郷隆盛』(1963年、[[日本放送協会|NHK]])
 
*[[阿木五郎]]:『[[新選組血風録 (テレビドラマ)|新選組血風録]]』第25話「流山」(1965年、NET・現[[テレビ朝日]])
 
*[[有川博]]:『[[竜馬がゆく (NHK大河ドラマ)|竜馬がゆく]]』(1968年、[[NHK大河ドラマ]])
 
*[[丹波哲郎]]:『[[黒帯風雲録 柔]]』(1972年、NTV)
 
*[[勝部演之]]:『明治の群像』(1976年、NHKドラマ)
 
*[[村野武範]]:『[[獅子の時代]]』(1980年、NHK大河ドラマ)
 
*[[佐藤仁哉]] : 『[[竜馬がゆく#1982年版|竜馬がゆく]]』 (1982年、[[テレビ東京]])
 
*[[米倉斉加年]]:『[[春の波涛]]』(1985年、NHK大河ドラマ)
 
*[[あおい輝彦]]:『[[白虎隊 (1986年のテレビドラマ)|白虎隊]]』(1986年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]][[年末時代劇スペシャル]])
 
*[[船戸順]]:『[[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]』(1987年、日本テレビ年末時代劇スペシャル)
 
*[[斉藤洋介]]:『[[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]]』(1990年、NHK大河ドラマ)
 
*葛西和雄:『[[草の乱]]』(2004年、映画)
 
*[[片岡鶴太郎]]:『[[白虎隊 (2007年のテレビドラマ)|白虎隊]]』(2007年、テレビ朝日新春スペシャルドラマ)
 
*[[加藤雅也]]:『[[八重の桜]]』(2013年、NHK大河ドラマ)
 
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== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 補註 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
 
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*『南の海自由旗揚』[[牧岡安次郎]]編、摂海社、[[1880年]]
 
*『板垣退助君功名伝』[[上田仙吉]]編、[[1882年]]
 
*『自由党総理板垣退助君遭難記実 第1報』[[細野省吾]]編、1882年
 
*『板垣退助君演舌』[[前野茂久次]]編、[[1883年]]
 
*『東洋自由泰斗板垣退助君高談集 上編』[[斉藤和助]]編、共立支社、[[1885年]]
 
*『板垣君遭難実記』[[矢野龍渓]]著、[[1891年]]
 
*『板垣退助君伝 第1巻』[[栗原亮一]]、[[宇田友猪]]著、[[自由新聞|自由新聞社]]、[[1893年]]
 
*『板垣退助―孤雲去りて(上下巻)』[[三好徹]]著、人物文庫、[[学陽書房]]、[[1997年]]
 
*『板垣退助君伝記 全4巻』宇田友猪著、明治百年史叢書、[[原書房]]、[[2009年]]
 
*『迅衝隊出陣展』[[中岡慎太郎館]]編、2003年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{wikiquote|板垣退助}}
 
{{Commons&cat|Itagaki_Taisuke|Itagaki_Taisuke}}
 
*[[自由民権運動]]
 
*[[高知市立自由民権記念館]]
 
*[[日本銀行券]]
 
*[[百円紙幣]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/10.html 板垣退助 | 近代日本人の肖像]([[国立国会図書館]])
 
*[http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-itagaki-inui.html 板垣退助家系図]
 
*[http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?detailSearchTypeNo=K&creator=%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9&rows=20 著者=“板垣退助”で検索]([[近代デジタルライブラリー]])
 
* [http://www.ndl.go.jp/jikihitsu/part2/s1_1.html#n039 第1章 幕末・維新の人々(1) | あの人の直筆] - [[国立国会図書館]]
 
 
 
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{{Start box}}
 
{{Succession box
 
| title  = [[乾氏|土佐板垣(乾)氏]]当主
 
| years  = 第10代:1860年 - 1919年
 
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| after  = [[板垣守正]]
 
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板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日1837年5月21日) - 大正8年(1919年7月16日

自由民権運動の指導者。伯爵。土佐藩主山内容堂を補佐して明治維新に参画。 1874年「民撰議院設立建白書」を提出し,藩閥政治を攻撃,自由民権論を主張した。 81年自由党を創設。 82年岐阜に遊説の際,刺され「板垣死すとも自由は死せず」と絶叫したと伝えられる。



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