「横澤彪」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「 '''横澤 彪'''(よこざわ たけし、1937年12月15日 - 2011年1月8日) 昭和後期-平成時代のテレビプロデューサー。 昭和1...」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Infobox 人物
 
|氏名 = 横澤 彪
 
|ふりがな = よこざわ たけし
 
|出生名 =
 
|生年月日 = [[1937年]][[12月15日]]
 
|生誕地 = [[群馬県]][[前橋市]]
 
|失踪年月日 =
 
|失踪地 =
 
|現況 =
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1937|12|15|2011|1|8}}
 
|死没地 = [[東京都]]
 
|死因 = [[肺炎]]
 
|遺体発見 =
 
|墓地 =
 
|記念碑 =
 
|住居 =
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|別名 = 横澤オジン彪
 
|民族 = [[日本人]]
 
|市民権 =
 
|教育 =
 
|出身校 = [[東京大学]]
 
|職業 = [[テレビプロデューサー]]
 
|活動期間 = [[1962年]] - [[1995年]]
 
|雇用者 =
 
|団体 =
 
|代理人 =
 
|著名な実績 =
 
|業績 =
 
|流派 =
 
|影響を受けたもの =
 
|影響を与えたもの =
 
|活動拠点 =
 
|給料 =
 
|純資産 =
 
|身長 =
 
|体重 =
 
|テレビ番組 = 「[[オレたちひょうきん族]]」<br />「[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]」<br />「笑っていいとも!増刊号」他
 
|肩書き = 「笑っていいとも!」初代プロデューサー
 
|任期 = [[1982年]][[10月4日]] - [[1987年]][[10月2日]]
 
|前任者 =
 
|後任者 = [[佐藤義和]]、[[荻野繁]]
 
|政党 =
 
|政治活動 =
 
|敵対者 =
 
|取締役会 =
 
|宗教 =
 
|宗派 =
 
|罪名 =
 
|有罪判決 =
 
|犯罪者現況 =
 
|配偶者 = あり
 
|非婚配偶者 =
 
|子供 =
 
|親 = 横澤陸郎(元[[朝日新聞]]千葉支局長)
 
|親戚 =
 
|コールサイン =
 
|受賞 =
 
|署名 =
 
|署名サイズ =
 
|公式サイト =
 
|補足 =
 
}}
 
'''横澤 彪'''(よこざわ たけし、[[1937年]][[12月15日]] - [[2011年]][[1月8日]])は、[[日本]]の元テレビ[[プロデューサー]]。通称「オジン」。[[フジテレビジョン|フジテレビ]]プロデューサーを経て、[[吉本興業]][[東京吉本|東京本社]]代表、[[役員 (会社)#常務取締役、常務執行役、常務執行役員|専務取締役]]東京本部本部長などを歴任。[[鎌倉女子大学]]児童学部教授を経て、晩年はフリーの立場で活動した。[[群馬県]]出身。実父は元[[朝日新聞]]千葉支局長の横澤陸郎。
 
  
== 来歴・人物 ==
+
'''横澤 彪'''(よこざわ たけし、[[1937年]][[12月15日]] - [[2011年]][[1月8日]]
[[群馬県]][[前橋市]]に生まれる。父が新聞記者であったため転居・転校を繰り返した。出生後すぐに[[長野県]][[長野市]]に移り、その後も[[東京都]][[杉並区]]、[[新潟県]][[新潟市]]、新潟県[[高田市]](現・[[上越市]])、[[秋田県]][[秋田市]]、[[神奈川県]][[横浜市]]と、平均2年半に1回のペースで移り住んだ。どこへ行っても[[東京方言|東京弁]]を喋る「東京っ子」として異端視され、いじめられるのは日常茶飯事で、これが「ネクラ人間横澤彪」のルーツとなった。転校が多かったため小学生時代は友達を作らない主義で、すぐ別れが来る悲しさが嫌で人を避けて映画やラジオ番組に没頭していたという<ref name="keiseiline-1999">[[京成電鉄]]発行「京成ライン」1999年6月号 6ページより。</ref>。
 
  
自身「郷里はどちらですか」という質問が一番苦手と言い、「郷里はありません」と答えることもあり、「父は[[岩手県|岩手]]、母は[[静岡県|静岡]]です」と加えるとき、「群馬県の前橋生まれです」と言って済ませるとき、丁寧にすべて説明するときとあり、いずれも説明は苦痛と話しており<ref>横澤彪『犬も歩けばプロデューサー』 [[NHK出版]] [[1994年]] 195-197頁。</ref><ref>横澤彪『人間メディア』 [[講談社]] [[1985年]] 176-190頁。</ref>、いわば「多国籍」と述べたこともある<ref name="keiseiline-1999"/>。
+
昭和後期-平成時代のテレビプロデューサー。
  
[[神奈川県立横浜翠嵐高等学校]]から[[千葉県立千葉高等学校]]に編入学。その後、浪人をし[[東京大学]]文学部社会学科に入学したが、留年したため入学以来の学友と卒業式に出席した経験がない。[[1962年]]に同大学を卒業し、大学時代の友人の誘いで[[フジテレビジョン|フジテレビ]](現・[[フジ・メディア・ホールディングス]])に入社。最初に配属されていたのが製作現場でなかったらすぐ退社していたかもしれなかったという<ref name="keiseiline-1999"/>。
+
昭和12年12月15日生まれ。37年フジテレビに入社。演芸番組を担当し,東京ぼん太,コント55号などを発掘,漫才ブームの仕掛け人となる。55年以来,「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのコント・バラエティー番組で,タモリ,ビートたけし,明石家さんまをそだてた。のちゼネラルプロデューサー。フジテレビ退社後,吉本興業東京本社代表,鎌倉女子大教授などをつとめた。平成7年吉本興業常務。平成23年1月8日死去。73歳。群馬県出身。東大卒。
 
 
大学時代の友人とは60歳を過ぎても交流が続いていた<ref name="keiseiline-1999"/>。
 
 
 
東京大学文学部社会学科の1期後輩には[[東京放送ホールディングス]]代表取締役会長の[[井上弘]]、18期後輩には[[TBSテレビ|TBS]][[報道局]][[解説委員]]の[[杉尾秀哉]]がいる。フジテレビの同期は元同社社長の[[村上光一]]。フジテレビでは[[労働組合]]運動にかかわって社長の[[鹿内信隆]]の逆鱗に触れたため、[[1970年]]に「経営合理化のため制作部門を分社」の大義名分のもと産経新聞出版局に左遷させられるなど辛酸をなめたが、このとき、同じ業界の[[光文社]]の[[神吉晴夫]]から「既成概念にとらわれない」ということを学ぶ。その後の1974年に『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』で初プロデューサーを経験し、[[1980年]]に『[[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]』で頭角を現し始めた。その後も『[[らくごin六本木]]』『[[スター千一夜]]』『[[笑ってる場合ですよ!]]』『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』『[[オレたちひょうきん族]]』などを手掛け、1年先輩の[[日枝久]]や[[鹿内春雄]](社長信隆の長男)とともに視聴率低下で苦境に立たされていたフジテレビの立て直しを果たした。また、お笑い界の[[ビッグ3 (日本のお笑いタレント)|ビッグ3]]こと[[タモリ]]、[[ビートたけし]]、[[明石家さんま]]をスターダムへと押し上げることに一役買った。
 
 
 
『オレたちひょうきん族』では、同番組内コーナー「[[ひょうきん懺悔室]]」で神父役として出演していた。ただし、家族は横澤の娘が[[キリスト教]]系列の学校に通学していた関係から、横澤が演じていたこの役を嫌がったという。同じく『ひょうきん族』時代には、[[TBSテレビ]]で裏番組として放送されていた『[[8時だョ!全員集合]]』を意識した、今では考えられない数々の演出を行った。コントのはしばしで『全員集合』の名前を出し、揚げ句の果てには『全員集合』のオープニングテーマを流しながら「ひょうきん族がなければね」「わしもそう思う」というパロディCMを作るほどであった。ちなみにこのパロディの元ネタは、[[毎日放送]]『[[突然ガバチョ!]]』に登場していたキャラクター「わしもそう思う博士」を[[日本ハム]]が起用したCMである。番組内ではひょうきんディレクターズ等のコーナーで番組スタッフを番組に出演させ、それまで提供読みかスポットニュースくらいしか出番がなかった女性[[アナウンサー]]を[[コント]]の中に起用し、テレビでは[[タブー]]視されていた[[楽屋落ち]]を[[寸劇]]の中に取り込むなど今日にも受け継がれている[[バラエティ番組]]の手法を多く開発し賛否両論ながらも話題を集めた。
 
 
 
[[1987年]]には『[[FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島]]』第1回ゼネラルプロデューサーを務める。同年9月を以って自身がプロデューサーを務めていたレギュラー番組を全て降板し、ひょうきんディレクターズに引き継いだ(『オレたちひょうきん族』は[[三宅恵介]]、『笑っていいとも!』は[[佐藤義和]]と[[荻野繁]]、『[[ライオンのいただきます|いただきます]]』は[[山縣慎司]]がそれぞれ後任のプロデューサーとして就任した)。その後[[1989年]]には『テレビ夢列島』第3回総合プロデューサーを、[[1992年]]と[[1993年]]には『[[平成教育テレビ]]』でエグゼクティブプロデューサーを務めた。また、1993年には全国一斉公開模擬試験で、フジテレビの生徒役で平成問題に挑戦した。
 
 
 
役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに昇進したかたわら、ヴァージンジャパン<ref>同社は[[ヴァージン・レコード]]の日本法人。その後、ヴァージン・レコード本体が[[EMI]]に買収されたのに伴い、洋楽部門は発売権を[[EMIミュージック・ジャパン|東芝EMI]]へ移動。邦楽部門は[[メディア・レモラス]]へと分割された後、[[ポニーキャニオン]]に吸収された。</ref>社長も兼任。[[1995年]]3月にフジテレビを退社した。定年を待たない退社となったが、人間に定年があるのがおかしいと思っており、定年という概念があってはならないとも思っていた<ref name="keiseiline-1999"/>。
 
 
 
フジテレビ退社後は、吉本興業役員に転じ、東京支社長や専務取締役を歴任した。(フジテレビ退社直後から吉本興業への転職に関する事と吉本興業での初仕事に関した事は、日本テレビ「スーパーテレビ 情報最前線」で1994年に詳細に放送された。)同社にはそれほど長く在籍するつもりではなかったが、後に吉本興業の社長となる[[林裕章]]に懇願され、長期にわたり勤めたという<ref>『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ 〜『笑う犬』プロデューサーの履歴書〜』 p.287</ref>。[[2005年]]に[[役員 (会社)#相談役・顧問|相談役]]を退任し、翌[[2006年]]にインターネットサイト[[ジェイ・キャスト|J-CAST]]でコラム『横澤彪のチャンネルGメン69』の連載を開始した。『Gメン69』では、古巣の吉本興業やフジテレビに対しても歯に衣着せぬ主張を展開。一部の論考(左利き批判<ref>[[国分太一]]が映画『[[しゃべれども しゃべれども]]』で箸を左手で使ったことに対する批判。 - <div class="references-small">[http://www.j-cast.com/tv/2007/06/27008769.html チャンネルGメン69、[[2007年]][[6月27日]]、「国分太一君、箸は右手で持とうよ」の回]より</div></ref>など)が反響を呼び、議論を沸騰させたこともある。[[2007年]]には[[悪性リンパ腫]]の闘病を告白し、話題となった。
 
 
 
[[2011年]][[1月8日]]、[[肺炎]]のため東京都内の病院で死去<ref>[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/entertainment/celebrity/482578/ 元フジテレビゼネラルプロデューサー 横澤彪氏死去] Iza 2011年1月10日閲覧</ref>。{{没年齢|1937|12|15|2011|1|8}}。[[1月13日]]に通夜、翌[[1月14日|14日]]に告別式が東京都大田区内の[[池上本門寺]]で営まれた。告別式には[[片岡鶴太郎]]や[[山田邦子]]や[[栗原小巻]]、俳優の[[山崎努]]など約600人が参列した。[[品川区]]の[[桐ヶ谷斎場]]で[[荼毘]]に付された。[[戒名]]は'''富岳院衆楽日彪居士'''<ref>参照記事:[http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110114-724341.html 横沢さん通夜 遺影自分で選んだ「大笑い」] - 日刊スポーツ、2011年1月14日。戒名「富岳院衆楽日彪居士(ふがくいんしゅうらくにちひょうこじ)」の上下を組み合わせると[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の「'''フジ'''」となる。</ref>。また、奇しくも横澤のフジテレビ時代の先輩だった[[高田明侑]]プロデューサーも[[尿毒症]]で横澤と同じ2011年1月8日に逝去した<ref>[http://www.47news.jp/CN/201101/CN2011010901000447.html 高田明侑氏死去 元フジテレビプロデューサー 47NEWS・2011年1月9日付]</ref>。
 
 
 
[[プロ野球]]・[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の大ファンであり、同じく大の横浜ファンである[[ジャズピアノ|ジャズピアニスト]]の[[山下洋輔]]は[[1998年の日本シリーズ|1998年]]に横浜が38年ぶりの日本一になった日に共に美酒を味わった事を思い出として語っている<ref>[http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110112/enn1101121616012-n1.htm ZAKZAK ひょうきんプロデューサー横澤彪さん秘話(上)ベイスターズ日本一の時昼間から一緒に美酒]</ref>。また、[[調査情報|TBS調査情報]]で行った[[テレビマンユニオン]]代表取締役会長の重延浩とTBS常務取締役の衣笠幸雄との三者対談では、[[TBSニュースバード]]で横浜戦を試合開始から欠かさず見ており、横浜が負けた時はあまりの悔しさにテレビを蹴り上げていると述べている<ref>[http://www.tbs.co.jp/mri/info/info498.html TBS調査情報498号(2011/1-2)「「地デジ」でテレビ大変化 巻頭対談 テレビの価値再発見の好機に 横澤 彪×重延 浩×衣笠幸雄」]([[TBSメディア総合研究所]])</ref>。
 
 
 
== 担当番組 ==
 
=== フジテレビ時代 ===
 
* [[ママとあそぼう!ピンポンパン]]
 
* [[THE MANZAI (1980年代のテレビ番組)|THE MANZAI]]
 
* [[らくごin六本木]]
 
* [[スター千一夜]]
 
* [[笑ってる場合ですよ!]]
 
* [[森田一義アワー 笑っていいとも!]]
 
* [[笑っていいとも!増刊号]]
 
* [[笑っていいとも!特大号]]
 
* [[タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ]]
 
* [[タケちゃんの思わず笑ってしまいました]]
 
* [[オレたちひょうきん族]]
 
* [[ひょうきん予備校]]
 
* [[ライオンのいただきます]]
 
* [[FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島]]
 
* [[TV PLUS PRESS]]
 
* 他
 
 
 
=== 吉本興業役員時代 ===
 
()内は横澤が担当した役職。
 
* モーリーモールの冒険(総合プロデューサー、制作)※吉本興業移籍後の初仕事。
 
* [[AHERA]](ゼネラルプロデューサー)
 
* [[アメジャリチハラ]](スペシャルアドバイザー)
 
 
 
== 出演番組 ==
 
* [[クイズまるごと大集合]]([[TBSテレビ|TBS]]、1989年) - 「番組CM大賞」のコーナーから、「[[テレビ探偵団]]」のエントリー作品で[[三宅裕司]]と共演。
 
* [[爆笑問題のニッポンの教養]]([[日本放送協会|NHK]][[NHK総合テレビジョン|総合]]、2010年[[9月21日]]) - 生涯最後のテレビ出演となった。
 
* [[産経新聞|サンケイ新聞]]テレビCM([[1986年]]ごろ) - フジテレビ社員時代に放送。関連会社([[ニッポン放送]]、[[ポニーキャニオン|キャニオン(現・ポニーキャニオン]])の若手新入社員と共演したものもある。
 
* [[オールスター感謝祭|オールスター感謝祭'95超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号]](TBS、1995年9月30日) - 200人中100位(21問112.70)
 
 
 
== 横澤班のスタッフ ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2014年4月}}<!--1か月経過後も改善のない場合は除去-->
 
===概要===
 
フジテレビに限らず、テレビ局の制作スタッフはいくつかの班に分かれて番組を制作する。
 
 
 
かつての部下だった[[石田弘]]率いる「石田班」とは仲が悪く、部下の[[王東順]]率いる「王班」とも一線を画していた。
 
 
 
そのためか、横澤班が担当していた番組の収録中には、石田が敬遠していた『[[ザ・ベストテン]]』([[TBSテレビ]])への追っかけ中継の立ち入りを許可する等、同番組に友好的な対応を取っていた。
 
 
 
後年、横澤・王ともにフジテレビを退社し、また石田もエグセクティブプロデューサーとなり、横澤班・石田班・王班にそれぞれ所属していた部下はプロデューサー等になっている。ちなみに1987年9月以降、横澤が担当していた番組のプロデュースは『笑っていいとも!』を佐藤義和と荻野繁が、『オレたちひょうきん族』を三宅恵介が、『ライオンのいただきます』を山縣慎司がそれぞれ引き継いだ。近年は[[FNSの日]]等の特番で[[港浩一]]ら石田班出身のスタッフと組む事が多い。
 
 
 
=== スタッフの近況 ===
 
()内は肩書・愛称
 
; [[三宅恵介]](デタガリ)
 
: 役員待遇を経て[[2011年]]に定年を迎えたが、現在も[[嘱託社員]]としてフジテレビに在籍中。編成制作局バラエティー制作センターゼネラルディレクター。
 
; [[荻野繁]](ビビンバ)
 
: [[BSフジ]]出向などを経て、[[2008年]]にフジテレビを定年退職。現在は個人事務所・株式会社おぎの屋CREATIVE Mix代表取締役社長。
 
; [[山縣慎司]](ベースケ)
 
: 広報局視聴者センター専任部長を経て、[[2010年]]にフジテレビを定年退職。現在は[[カレント (芸能事務所)|カレント]]所属のフリープロデューサー。
 
; [[永峰明]](アンノン)
 
: 『[[発掘!あるある大事典]]』スーパーバイザー、フリープロデューサー。
 
; [[佐藤義和]](ゲーハー)
 
: フリープロデューサー。沖縄県へ移住。
 
; [[小林豊 (実業家)|小林豊]](ぶーちゃん、ブッチャー)
 
: [[フジ・メディア・ホールディングス]]・フジテレビジョン取締役を経て、現在は[[テレビ静岡]]代表取締役社長。
 
; [[小畑芳和]]
 
: フジテレビKIDS代表取締役社長。
 
; [[吉田正樹]]
 
: [[ワタナベエンターテインメント]]代表取締役会長。
 
; [[片岡飛鳥]]
 
: 編成制作局バラエティー制作センター ゼネラルプロデューサー。
 
; [[栗原美和子]]
 
: 編成制作局ドラマセンター副部長。
 
; [[大平司]]
 
: 美術制作局美術センターゼネラルプロデューサー。
 
; [[清水淳司]]
 
: ライツ開発局 コンテンツ事業センター 映像コンテンツ事業部プロデューサー
 
; [[窪田豊]](スマイリー)
 
: 『[[あっぱれさんま大教授]]』ディレクター。
 
 
 
== その他エピソード ==
 
*「ひょうきん族」スタート当初は「あまり楽しくなかった」という<ref>『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ 〜『笑う犬』プロデューサーの履歴書〜』 p.278「みんなが痩せた田んぼをもらって耕した、みたいな感じだった(中略)数字が取れないところをやりなさいと言われて、どうすんだ、ここで・・・・・・と思いましたよ」</ref>。
 
* [[日本テレビ放送網|日本テレビ]]編成局専門局長の[[土屋敏男]]は、若手時代にバラエティ番組制作のノウハウを学ぶため[[河田町コンフォガーデン|当時のフジテレビ河田町本社]]や[[スタジオアルタ]]の収録スタジオに[[芸能事務所]]の[[マネージャー]]を装って頻繁に出入りしていた時期があり、その際に当時『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』のプロデューサーだった横澤と知り合ってバラエティ番組制作に関する様々な助言を受けた事から、横澤の事を尊敬するテレビマンであると公言している。横澤もこの当時から土屋の番組制作に対する熱意や姿勢を高く評価しており、吉本興業退社後には数々の講演会や[[フォーラム]]で土屋との共演を果たした。
 
* 『オレたちひょうきん族』のADだった[[吉田正樹]](『笑う犬』シリーズ等のプロデューサー)と2010年4月16日に「師弟対談」を行っている。この対談の様子は、吉田が2010年7月に上梓した著書『人生で大切なことは全部フジテレビで学んだ 〜『笑う犬』プロデューサーの履歴書〜』(キネマ旬報社・刊)に収められている。
 
* [[1994年]][[2月]]には[[日本共産党]]の[[機関紙]]『赤旗』(現・[[しんぶん赤旗]])のインタビューを受け、自らの政治思想を語った記事が顔写真付きで同紙の一面に大々的に掲載された<ref>赤旗(1994年2月23日付)</ref>。当時まだフジテレビ社員であった上に、過去には'''[[反共主義]]'''を掲げている産経新聞のイメージキャラクターまで務めた横澤が共産党の機関紙に登場した事は、当時大きな話題となった<ref>[http://d.hatena.ne.jp/sankeiaidokusya/20110119/p1 産経新聞愛読者倶楽部]</ref>。尚、横澤はこの1年1ヶ月後にフジテレビを退社している。
 
* フジテレビのメディア研究誌『AURA』に、1995年から2006年に亘って連載されたエッセイをまとめたkindle版電子書籍「横澤彪の吉本探訪記」1〜6、「横澤彪 メディアのご意見番 其の壱」(供に新翠舎)が2013年3月27日に出版された。(2013年5月31日にiBookstoreでも出版)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mamos/tv/yokozawa.html 横澤 彪]
 
* [http://www.fujitv.co.jp/b_hp/kikkake2003/kikkake2003_030610.html きっかけはフジテレビ。横澤彪編]
 
* [http://www.yoshimoto.co.jp/nsc/2004_tokyo.html 東京NSC生徒募集のお知らせ]
 
* [http://www.j-cast.com/tv/a02_channelgmen69/index.php 横澤彪のチャンネルGメン∞(むげんだい)](連載)
 
 
 
{{ビッグ3 (日本のお笑いタレント)}}
 
{{笑っていいとも!}}
 
{{オレたちひょうきん族}}
 
{{FNSの日}}
 
{{フジサンケイグループ}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:よこさわ たけし}}
 
{{DEFAULTSORT:よこさわ たけし}}
 
[[Category:フジテレビの人物]]
 
[[Category:フジテレビの人物]]

2018/11/13/ (火) 01:06時点における最新版

横澤 彪(よこざわ たけし、1937年12月15日 - 2011年1月8日

昭和後期-平成時代のテレビプロデューサー。

昭和12年12月15日生まれ。37年フジテレビに入社。演芸番組を担当し,東京ぼん太,コント55号などを発掘,漫才ブームの仕掛け人となる。55年以来,「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのコント・バラエティー番組で,タモリ,ビートたけし,明石家さんまをそだてた。のちゼネラルプロデューサー。フジテレビ退社後,吉本興業東京本社代表,鎌倉女子大教授などをつとめた。平成7年吉本興業常務。平成23年1月8日死去。73歳。群馬県出身。東大卒。



楽天市場検索: