毛利就隆

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毛利就隆
時代 江戸時代前期
生誕 慶長7年9月3日1602年10月17日
死没 延宝7年8月8日1679年9月12日
幕府 江戸幕府
周防下松藩主→徳山藩
氏族 大江姓毛利氏

毛利 就隆(もうり なりたか)は、江戸時代前期の大名周防下松藩徳山藩の初代藩主。就隆系毛利家初代。毛利輝元の次男で、母は児玉元良の娘・清泰院。正室は長府藩主・毛利秀元の娘・松菊子、継室は中川重政の娘・禅海院。

経歴

幼少期

慶長7年(1602年9月3日毛利輝元の次男として京都伏見で生まれる。慶長9年(1604年)閏8月1日に母・清泰院(二の丸殿)が死去し、同年11月11日に輝元が山口から工事中の萩城へ移って、就隆も11月13日へ移った。

慶長16年(1611年9月28日駿府大御所徳川家康に初めて拝謁し、白銀1000両と肴10種を献上した。同年10月17日には江戸将軍徳川秀忠に拝謁し、秀忠から「体格が良い」と声をかけられている。これ以降、兄・秀就の代わりに証人として江戸へ滞在することとなった。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣豊臣氏が滅亡すると、同年7月1日に天下一統の祝儀として太刀と馬代を家康と秀忠に献上し、元和2年(1616年4月17日に家康が死去すると、銅の灯籠一基を献上した。また、元和3年(1617年)の秀忠の上洛に伴って就隆も上洛し、7月1日に二条城において堆朱文台と銀の香炉を献上した。

元和4年(1618年)6月に江戸を発って萩へ帰国し、7月に元服。兄の秀就から「就」の偏諱を与えられ、祖父の隆元からも1字を取って「就隆」と名乗る。

下松藩成立

元和3年(1617年4月28日、秀就から周防国都濃郡に3万1473石8斗3升9合を内分分知され[1]、付家老として桂元綱神村元種が派遣された[2]。元和7年(1621年7月9日には毛利秀元の娘・松菊子と婚姻する。ただし、後に離縁し、秀元の長府藩と険悪な関係となる。

就隆に当初与えられた所領は山間部の村々が多かったことから、就隆は輝元と秀就に領地替えを再三申し出て、元和7年(1621年12月2日に領地替えを許可された。この領地替えによって、当初与えられていた串浜久米村末武村下谷村須々万村中須村切山村莇地村須万村のうちの金峰兼田萩藩へ返還し、周防国都濃郡富田村矢地村福川村大向村四熊村大道理村、周防国佐波郡富海村[3]長門国阿武郡奈古村大井村が新たに与えられ、所領は3万1072石3斗8升2合2勺となった。石高こそ約400石減少しているが、山間部と海岸部との交換であるため、実質的には有利になっている。寛永8年(1631年)に下松の館邸が竣工した。

寛永11年(1634年3月19日、就隆への分知が幕府から公認されて下松藩の初代藩主となり、寛永15年(1638年6月15日に初めて下松の館邸に入った。後に4万5,000石に加増される。

徳山藩へ

正保2年(1645年5月3日、屋敷構えが悪いことを理由として下松から野上(後の徳山)への移転を幕府に願い出ることを秀就に依頼する。慶安元年(1648年6月15日には幕府の許可が下りる[4]。同年11月19日に野上館邸の新築鍬初を執り行い、慶安2年(1649年10月22日に落成。慶安3年(1650年6月10日に初めて野上館邸へ入った。同年9月28日には野上を「徳山」と改称し、徳山藩が成立した。

承応元年(1652年)、徳山藩士に屋敷地を割り渡し、移転料を支給した。万治元年(1658年)に時鐘を設置し、9月10日卯の刻(午前6時)に初めて鐘をついた[5]

就隆は輝元の実子かつ末子であったために甘やかされて育ったことから、初めは自由奔放で贅沢好きな人物であったが、後に負担を領民に押し付けることを恥じて、以後殖産興業や新田開発による税収増加に努めた。特にの生産に力を注いだことから「三白政策」とも呼ばれている。一方で手伝普請に悩む、兄の秀就が藩主を務める長州藩からの協力要請を財政難を理由に拒否し、これが後の元次時代の徳山藩改易にまで発展する、萩藩との軋轢の初めとなる。

延宝5年(1677年)7月、町方支配のために「町方法度」を定め、閏12月16日に藩札の発行を決定した。

延宝7年(1679年8月8日、江戸三田の藩邸で死去。享年78。五男の元賢が後を継いだ。法号は発性院殿忽生本然大居士。墓所は山口県周南市舞車の聚福山大成寺周南市徳山城(徳山陣屋)の跡にある祐綏神社に祭神として祀られている。また、東京都台東区上野寛永寺には、就隆が寄進した燈篭が現存している。

人物

  • 就隆は幼い頃よりに親しんでおり、10歳で既に萩城の能舞台で能を演じている。慶長18年(1613年)には謡本楊貴妃」を書き写した。この謡本は現存しており、表紙に蜀江錦が使われ、見返しは金砂子散に、金泥金箔で雲霞が描かれている。その他にも就隆が書き写した謡本・小謡集も現存している。
  • 馬術にも堪能で、三代将軍・徳川家光の乗馬の相手も務めるほどであった[6]

脚注

  1. 分知されたのは元和7年(1617年)だったが、寛永11年(1634年)までは「内証分知」で、分知が正式に将軍に認知されていなかった。なお、分知の打渡坪付は萩藩当職を務めた井原元以から、就隆の傅役である粟屋元相に宛てられている。
  2. 桂元綱は武に秀でて国元の仕置きを担当し、神村元種は知に優れて専ら江戸での活動を担当した。この2人は就隆の傅役の粟屋元相の内申により、就隆が窮屈に思うような人柄の人物として選ばれたとされる。
  3. 富海村は元々、萩藩永代家老の福原広俊の知行地であった。そのため、輝元と秀就は就隆の領地替えを許可した翌日に広俊に詫びている。
  4. 下松藩は萩藩の支藩であったため、萩藩主の秀就を通して申請され、幕府からの許可も秀就を経由して就隆へ届けられた。幕府からの許可が下りたことを就隆に伝える同年6月30日の秀就の書状からは、秀就も許可が下りたことを喜んでいる様子が窺える。この後、就隆は老中阿部忠秋に御礼として茶を贈った。
  5. 時鐘が設置された一帯は現在「鐘楼町」と呼ばれ、「旧藩鐘楼跡」の石碑が残されている。
  6. 『下松市史 通史編』269頁。

参考文献

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