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[[File:Mizuno Shigeo.JPG|thumb|200px|1948年]]
 
'''水野 成夫'''(みずの しげお、[[1899年]][[11月13日]] - [[1972年]][[5月4日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。[[フジテレビジョン]](現[[フジ・メディア・ホールディングス]])初代[[社長]]。元[[日経連]]常任理事・[[経済団体連合会]]理事・[[経済同友会]]幹事。元[[日本共産党]]員で赤旗([[しんぶん赤旗]])初代編集長<ref>『水野成夫の時代-社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで-』境政郎、産経新聞出版、2012年5月25日</ref>。
 
  
==来歴・人物==
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'''水野 成夫'''(みずの しげお、[[1899年]][[11月13日]] - [[1972年]][[5月4日]]
水野彦治郎の三男として[[静岡県]][[小笠郡]][[佐倉村 (静岡県)|佐倉村]](現・[[御前崎市]])に生まれる。旧制静岡中学(現・[[静岡県立静岡高等学校]])から、旧制[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て、[[1924年]]に[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]を卒業。学生時代は、[[文学]]に親しみ、[[夏目漱石]]、[[島崎藤村]]、[[森鴎外]]の作品に親しむ一方で、中学、高校時代[[柔道]]部に所属し、一高では猛者として鳴らした。東大時代には[[新人会]]に入り[[共産主義]]運動に身を投じる。
 
  
[[1925年]]に[[日本共産党]]に入党した。共産党時代に所属していた[[産業労働調査所]]を赤字経営であったのを黒字に転換させるなど、後年の経営者の片鱗を見せている。[[1927年]]日本共産党代表として、[[コミンテルン]]極東政治局に派遣され、[[中国]]で[[武漢国民政府]]の樹立に参画する。[[1928年]]に帰国して赤旗(現:[[しんぶん赤旗]])初代編集長として2月1日から発行を開始していたが、[[三・一五事件]]で検挙され、獄中で[[転向]]を表明する<ref>『水野成夫の時代-社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで-』境政郎、産経新聞出版、2012年5月25日</ref>。これが獄中での転向声明第一号で、転向理論の原型を作ったと言われ、その後の獄中での大量転向のきっかけを作ることになる。出所後、[[1929年]]に[[コミンテルン]]からの離脱を宣言し[[天皇制]]の下での共産主義運動を標榜する[[日本共産党労働者派]](いわゆる「解党派」)を[[浅野晃]]らとともに結成し日本共産党批判に回るが、ほどなくして労働者派の組織・運動は消滅し、水野は大いなる挫折を余儀なくされる。以後、政治活動から離れ、[[翻訳]]業に就く。
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昭和期の実業家。東京帝国大学を卒業後,日本共産党に入党し,産業労働調査所に勤務。 1927年,日本共産党を代表してコミンテルン極東政治局に派遣され,中国の[[武漢政府]]の樹立に参画するが,28年の[[三・一五事件]]で検挙され,翌年獄中で転向。 40年に大日本再生製紙会社を設立し,同社が国策パルプ会社に吸収されたのち,社長に就任。その後は文化放送,ニッポン放送,産業経済新聞社,フジテレビなどの社長を歴任した。
 
 
翻訳家・[[フランス]]文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本における[[アナトール・フランス]]の紹介に大いに功績があった。水野翻訳によるフランスの著『神々は渇く』は名訳として名高くベストセラーとなった。その他、『舞姫タイス』、『現代史』などフランスの著作約20作品、[[アンドレ・モーロア]]著『英国史』なども翻訳している。翻訳に当たってはフランス文学者の[[辰野隆]]の紹介で辰野の弟子に当たる[[渡辺一夫]]と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、[[尾崎士郎]]、[[尾崎一雄]]、[[今日出海]]、[[林房雄]]などとの交友を持つに至った。
 
 
 
[[1938年]][[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]に逮捕されるが、翌年保釈される。
 
 
 
1938年、同じく[[転向]]者で、その後も水野の片腕として行動を共にする[[南喜一]]が[[米糠]]を[[媒体]]に使い、[[新聞紙]]から[[インキ]]を抜いて[[再生紙]]を作るというアイデアを[[陸軍]]に持ち込む<ref name="人間・水野成夫">松浦行真『人間・水野成夫』[[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]] 1973年、巻頭アルバム集6頁、300-328、384、385、水野成夫を偲ぶ1-19頁</ref><ref name="いま明かす戦後秘史上">[[桜田武]]・[[鹿内信隆]]共著 『いま明かす戦後秘史』(上巻)、[[サンケイ出版]]、1986年、71-76頁</ref><ref>[[大宅壮一]]『大宅壮一全集 第13巻』蒼洋社、1981年、123-126頁<br />[http://www.iwakuro.com/blog/ blog]<br />[http://iwakuro.com/blog/index.php?blogid=1&archive=2007-02 blog » Archive]</ref>。陸軍軍事課長・[[岩畔豪雄]]は、[[国策会社]]で[[パルプ]]自給をはかるという計画を持っていたため、同年[[日清紡ホールディングス|日清紡績]]社長・[[宮島清次郎]]を社長に迎えて[[国策パルプ]]を設立させた後、若い南と水野を見込み、元[[日本共産党|共産党員]]では、という周囲の反対をはねつけ、[[1940年]]、二人に国策パルプ工業の全額出資で別会社・[[大日本再生製紙]]を作らせた<ref name="人間・水野成夫"/><ref name="いま明かす戦後秘史上"/><ref>鹿内信隆『泥まみれの自画像』(上巻)、[[扶桑社]]、1988年、85-89頁</ref>。南と水野を最初に見出したのは岩畔である。また、岩畔と親しかった[[椎名悦三郎]]の商工省からも援助を得た。大日本再生製紙の実務は、この二人と[[篠田弘作]]を加えた三名で主に行う。[[鹿内信隆]]はこの時の陸軍の担当事務官(需品本廠監督官)<ref name="人間・水野成夫"/><ref name="いま明かす戦後秘史上"/><ref>鹿内信隆『泥まみれの自画像』(上巻)、[[扶桑社]]、1988年、85-89頁</ref>。[[太平洋戦争]]開戦後に岩畔が[[特務機関#対英インド独立工作における特務機関|インド独立工作]]に関わるため、水野は岩畔に招かれ同工作に関与した<ref name="人間・水野成夫"/><ref name="いま明かす戦後秘史上"/><ref>[[岩井忠熊]]『陸軍・秘密情報機関の男』[[新日本出版社]]、2005年、134-138頁</ref>。また大日本再生 製紙設立時に宮島清次郎と師弟関係になったことで、戦後に政財界に強い影響力を持つことになる<ref>松浦行真『人間・水野成夫』333-334頁</ref>。
 
 
 
大日本再生製紙は[[1945年]]に国策パルプと合併し、同社常務取締役に就任する。[[1946年]]、現在も続く出版社[[酣燈社]]を文芸・学術専門の出版社として創業するが、数年で手を引き、酣燈社は後に航空関係専門の出版社となった。
 
 
 
同1946年、[[経済同友会]]幹事となる。終戦後の労働攻勢の中で[[左翼]]運動に身をおいた経歴を持つ水野は、労働対策を担当し、[[財界]]首脳の信頼を得た。本業の国策パルプにおいても[[1948年]]に専務取締役、[[1949年]]副社長、[[1951年]]11月に社長就任。[[1960年]]会長に就任。
 
 
 
[[1956年]]、民間会社組織に改組された[[文化放送]]の社長に就任した。これを契機に[[報道機関|マスコミ]]各社の社長に就任する。「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評される。
 
 
 
[[1957年]]に経団連理事に就任。[[ニッポン放送]]の[[鹿内信隆]]と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任。
 
 
 
[[1958年]]には[[前田久吉]]から[[産業経済新聞社]]([[産経新聞]])を買収して社長に就任すると同時に、産経新聞社は登記上の本店を[[大阪市|大阪]]から[[東京]]に移転させた。産経新聞の買収で、在京の新聞・ラジオ・テレビを握った為'''「マスコミ三冠王」'''と呼ばれるとともに、のちの[[フジサンケイグループ]]の土台を築いた<ref>水野以降のフジサンケイグループは鹿内家による準[[同族経営]]が長く続いた</ref>。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。[[新聞]]社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、[[広告]]の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。また、[[労働組合]]を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し(この結果、組合は[[日本新聞労働組合連合]]より脱退)、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「'''産経残酷物語'''」「'''水野天皇制'''」と言われた。しかし、産経新聞そのものは、水野社長就任1年で黒字に転換し、フジサンケイグループの強固な基盤が確立されたとされる。
 
 
 
[[1965年]]、産経新聞社会長に就任。
 
 
 
[[池田勇人]][[内閣]]時代に「[[財界四天王]]」の一人と称されるようになる。政商のイメージが強い水野であったが、[[政治]]に関してはかつて共産党に身を置き挫折したことから、「政治は、ワンストライクアウト。共産党でアウトになった。もう絶対やらん」と語っていた。自由奔放な性格で、共産党員、翻訳家、財界人と三段跳びの人生から人物評が定まりにくい人物であった。
 
 
 
文化的活動も支援し、1956年、文化放送の傍系事業として[[日本フィルハーモニー交響楽団]]を結成。また、[[1963年]]の[[日本近代文学館]]の創設にも尽力した<ref>[[小田光雄]]『古本探求2』(論創社)より</ref>。[[1968年]]には[[ 財団法人]][[サンケイスカラシップ]]初代[[理事長]]に就任。
 
 
 
また、将棋棋士・[[升田幸三]]の熱心なファンで、産経新聞社社長時代の[[1962年]]には、当時はすべて一局に二日から三日かけていた将棋のタイトル戦にあって、初の「一日指し切り制」となるタイトル戦『[[棋聖戦 (将棋)|棋聖戦]]』を創設した。棋聖位を7期獲得し、永世棋聖の称号を持つ[[米長邦雄]]によると、水野が棋聖戦を一日指し切り制にしたのは、体力面に問題があり、二日制のタイトル戦で思うような成績を残せなくなっていた升田に、何としてもタイトルを取らせたかったからだという<ref>米長邦雄『将棋の天才たち』172ページ、『週刊現代』2011年8月20・27日号初出</ref>。だが、升田は棋聖戦の挑戦者には二度なったものの、結局棋聖位獲得はならなかった。
 
 
 
その一方で[[野球]]をこよなく愛し、[[1953年]]に[[日本生産性本部]]第二回欧米使節団に参加中、風邪と称して[[ナショナル・リーグ]]の観戦に出かけたり、1965年に[[日本国有鉄道]]とその関連会社から国鉄スワローズを買収して、フジテレビが放送していた日本初の国産[[テレビアニメ]][[鉄腕アトム (アニメ第1作)|鉄腕アトム]]にあやかってサンケイアトムズ(現・[[東京ヤクルトスワローズ]])と名づけ、経営を手がけたりした。しかし、球団買収の年から[[読売ジャイアンツ]]のV9が始まり、サンケイアトムズは長くBクラスに甘んじることになった。
 
 
 
生前の水野は『男と生まれたからにゃやってみたいものが三つある。それは[[聯合艦隊司令長官]]、[[オーケストラ]]の[[指揮者]]、そして[[プロ野球]]の[[プロ野球監督|監督]]だ』と語ったことでもまた有名である。
 
 
 
[[1968年]]、病気で倒れサンケイアトムズの経営権を[[南喜一]]が代表の[[ヤクルト本社|ヤクルト]]に売却。ヤクルトグループが同球団の経営権を握ることになった<ref>サンケイアトムズはその後アトムズ(形式上はフジサンケイとヤクルト本社の共同経営)→ヤクルトアトムズ([[1970年]])を経て[[1974年]]にヤクルトスワローズに改称した</ref>。[[1970年]][[瑞宝章|勲一等瑞宝章]]を受章。
 
 
 
1972年5月4日死去、[[享年]]72。
 
 
 
[[辻井喬]]の小説『風の生涯』(新潮文庫・上巻 ISBN 4101025274、下巻 ISBN 4101025282)の主人公のモデルとなっている。
 
 
 
==家族==
 
[[西武百貨店]]社長、[[参議院議員]]、[[新党さきがけ]][[政務調査会]]長を務め、現在[[インスティテュート・オブ・マーケティング・アーキテクチュア]]社長の[[水野誠一]]は長男。
 
 
 
鈴木幸夫は、「水野の[[閨閥]]は、兄[[水野彦治郎|彦治郎]]が元[[代議士]]で[[静岡県]]農業界の大物、[[いとこ]]の[[田畑政治]]がオリンピック組織委員という程度で特記するほどのものはない。ただ、長女のクララが元同友会代表幹事の[[二宮善基]](もと興銀副頭取)の弟正義の[[夫人]]であることを付記しよう。」という<ref>鈴木『閨閥(けいばつ)―結婚で固められる日本の支配者集団―』 114-115頁</ref>。
 
 
 
== 翻訳 ==
 
*ペンギンの島 [[アナトール・フランス]] 春陽堂 1924
 
*[[プロスペル・メリメ]]全集 第2巻 シャルル十一世の幻想、堅塁抜く、タマンゴ 河出書房 1938
 
*教育論 [[エミール=オーギュスト・シャルティエ|アラン]] [[浅野晃]]共訳 創元社 1938 のち矢島剛一共訳
 
*舞姫タイス アナトオル・フランス 白水社 1938 のちUブックス 
 
*英国史 [[アンドレ・モーロア]] 浅野晃,和田顕太郎共訳 白水社 1939 のち[[小林正 (仏文学者)|小林正]]共訳、新潮文庫 
 
*作家の情熱 ジェローム・タロウ,ジャン・タロウ 仏蘭西文学賞叢書 実業之日本社 1940
 
*神々は渇く アナトオル・フランス 酣灯社 1946
 
*われらの心 モーパッサン [[中平解]]共訳 酣灯社 1948 
 
*アナトオル・フランス長篇小説全集 第3巻 現代史 第1 散歩道の楡の樹 白水社 1951
 
 
 
==脚注==
 
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== 参考文献 ==
 
*鈴木幸夫 『閨閥<small>(けいばつ)</small> <small>結婚で固められる日本の支配者集団</small>』 光文社 昭和40年(1965年) 114-115頁
 
*人間・水野成夫 [[松浦行真]] サンケイ新聞社出版局 1973
 
*境政朗「水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで」日本工業新聞社 2012
 
 
 
==関連項目==
 
*[[静岡県出身の人物一覧]]
 
*[[麻生太郎]]
 
*[[石原慎太郎]]
 
*[[森喜朗]]
 
*[[福本邦雄]]
 
*[[渡邉恒雄]]([[読売新聞グループ本社]]会長で、共産党から転向→政界と太いパイプを持つ→メディア支配→プロ野球オーナーというところが水野と類似している)
 
*[[世界和平連合会|門屋博]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%88%90%E5%A4%AB 水野成夫 とは - コトバンク]
 
 
 
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{{ヤクルト}}
 
{{東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団歴代オーナー|サンケイスワローズ、サンケイアトムズ}}
 
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[[Category:日本の翻訳家]]
 
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水野 成夫(みずの しげお、1899年11月13日 - 1972年5月4日

昭和期の実業家。東京帝国大学を卒業後,日本共産党に入党し,産業労働調査所に勤務。 1927年,日本共産党を代表してコミンテルン極東政治局に派遣され,中国の武漢政府の樹立に参画するが,28年の三・一五事件で検挙され,翌年獄中で転向。 40年に大日本再生製紙会社を設立し,同社が国策パルプ会社に吸収されたのち,社長に就任。その後は文化放送,ニッポン放送,産業経済新聞社,フジテレビなどの社長を歴任した。



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