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{{政治家
 
|人名 = 江藤 新平
 
|各国語表記 =
 
|画像 = Eto Shinpei4.jpg
 
|画像説明 =
 
|国略称 = {{JPN}}
 
|生年月日 = [[天保]]5年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]<br/>([[1834年]][[3月18日]])
 
|出生地 = {{JPN}} [[肥前国]]佐賀郡八戸村
 
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1834|3|18|1874|4|13}}
 
|死没地 = {{JPN}} 佐賀
 
|出身校 =
 
|親族(政治家) = [[江藤新作]]
 
|配偶者 =
 
|サイン =
 
|国旗 = JPN1889
 
|職名 = 初代 [[司法卿]]
 
|就任日 = 明治5年[[4月25日 (旧暦)|4月25日]]([[1872年]][[5月31日]])
 
|退任日 = 明治6年([[1873年]])[[4月19日]]
 
}}
 
  
'''江藤 新平'''(えとう しんぺい、[[天保]]5年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1834年]][[3月18日]]) - [[明治]]7年([[1874年]])[[4月13日]])は、[[幕末]]の[[佐賀藩|佐賀]][[藩士]]、[[明治]]時代の政治家。幼名は恒太郎・又蔵。[[諱]]は胤雄、胤風とも、[[号 (称号)|号]]は南白。[[朝臣]]としての正式な名のりは'''平胤雄'''(たいら の たねお)。「[[維新の十傑]]」「[[佐賀の七賢人]]」の一人に挙げられる。
+
'''江藤 新平'''(えとう しんぺい、[[天保]]5年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]([[1834年]][[3月18日]]) - [[明治]]7年([[1874年]])[[4月13日]])
 
 
== 生涯 ==
 
=== 出生 ===
 
[[肥前国]]佐賀郡八戸村(現在の[[佐賀県]][[佐賀市]]八戸)で、[[佐賀藩|佐賀]][[藩士]]の[[江藤胤光]]<ref group="注釈"> [[江藤道胤|江藤助右衛門道胤]] ━ ■ ━ [[江藤惣次郎]] ━ [[江藤助右衛門]] ━ [[江藤道員|江藤助右衛門道員]] ━ [[江藤胤光|胤光]] と続く。</ref>と妻・浅子の間に長男として生まれる。江藤家は肥前[[小城郡]]晴気保の[[地頭]]・[[千葉常胤]]の末裔を称する。父は「[[手明槍]]」という身分の下級武士であったとされる。[[嘉永]]元年([[1848年]])に藩校の[[弘道館 (佐賀藩)|弘道館]]へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永[[蟄居]]の処分となったため生活は困窮し外生課程に進学せずに弘道館教授で[[儒学]]・[[国学]]者であった[[枝吉神陽]]の私塾に学び、[[神道]]や尊皇思想に影響される。このころ新平は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたという。嘉永3年([[1850年]])に枝吉神陽が「[[義祭同盟]]」を結成すると、[[大隈重信]]・[[副島種臣]]・[[大木喬任]]・[[島義勇]]らとともに参加した。
 
 
 
[[江戸時代]]後期の外国船の日本近海への出没や[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マシュー・ペリー|ペリー]]艦隊や[[ロシア帝国|ロシア]]の[[エフィム・プチャーチン|プチャーチン]]艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、[[安政]]3年([[1856年]])、22歳の時に開国の必要性を説いた『[[図海策]]』を執筆し、のちに政府に重用される。安政4年([[1857年]])に江口千代子と結婚<ref>[http://etoshinpei.ryubin.net/top/character/eguchichiyoko/ アニメーション「新・江藤新平伝」(江口千代子)]</ref>。藩の洋式[[砲術]]、貿易関係の役職を務める。
 
 
 
=== 志士活動 ===
 
[[文久]]2年([[1862年]])に脱藩し[[京都]]で活動し、[[長州藩|長州]]藩士の桂小五郎([[木戸孝允]])や[[公家]]の[[姉小路公知]]らと接触する。2ヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した[[鍋島直正]]の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や幕府による長州征伐([[長州征討|幕長戦争]])での出兵問題では鍋島直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。
 
 
 
15代将軍・[[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を行って幕府が消滅した[[慶応]]3年([[1867年]])の12月に新平は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。[[薩摩藩]]と長州藩は公家の[[岩倉具視]]と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される。
 
 
 
[[戊辰戦争]]で江藤は[[東征大総督府]]軍監に任命され、[[土佐藩]]士の[[小笠原唯八]]とともに[[江戸]]へ偵察に向かう。薩摩藩の[[西郷隆盛]]と幕臣の[[勝海舟]]の会談で[[江戸開城]]が決定するや、江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと([[東京奠都]])を献言する。旧幕臣らを中心とする[[彰義隊]]が活動していた問題では[[大村益次郎]]らとともに討伐を主張し、[[軍監]]として[[上野戦争]]で戦い彰義隊勢を[[寛永寺]]周辺に追い詰め、さらに佐賀藩の[[アームストロング砲]]を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。明治2年([[1869年]])には、維新の功により[[賞典禄]]100石を賜っている。
 
 
 
=== 明治新政府の官吏として ===
 
戊辰戦争が一段落した後、新政府が設置した江戸鎮台においては長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。7月には江藤の献言が通って[[明治天皇]]が行幸して、江戸は東京と改称される。
 
 
 
明治3年([[1870年]])1月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して[[藩政改革]]を行うが後に中央に呼び戻され、同年11月に[[太政官中弁]]となる。12月、[[虎ノ門]]で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。明治4年([[1871年]])2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事し、[[大納言]]・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出する。近代的な集権国家と[[四民平等]]を説き、国法会議や[[民法 (日本)|民法]]会議を主催して[[箕作麟祥]]らとともに民法典編纂に取り組む。江藤は「フランス民法と書いてあるのを日本民法と書き直せばよい」「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」<ref>『毎日新聞』「余録」2015年4月2日</ref>というほど[[フランス]]の法制度を高く評価し、[[普仏戦争]]でフランスが大敗し、フランスへの評価が日本で低くなるのを戒め、以下のような漢詩を残している。
 
{{quotation|廟堂用善無漢蕃 廟堂善を用いるに 漢蕃無し
 
 
 
孛国勢振仏国蹲 孛国勢い振るいて 仏国蹲(うずくま)る  <small>(※最初の漢字は『字の上に十』。 [JIS] 5556 )</small>
 
 
 
仏国雖蹲其法美 仏国蹲ると雖も 其の法美なり
 
 
 
哲人不惑敗成痕 哲人惑わず 敗成の痕}}
 
文部大輔、[[左院]]副議長、[[司法省]]が設置されると明治5年([[1872年]])には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に[[学制]]の基礎固め・[[四民平等]]・[[警察]]制度整備など近代化政策を推進。特に[[司法]]制度の整備(司法職務制定・[[裁判所]]建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に[[行政訴訟]]を認めた司法省達第四十六号などが知られる。また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた[[藩閥|長州閥]]の[[山縣有朋]]が関わったとされる[[山城屋事件]]、[[井上馨]]が関わったとされる[[尾去沢鉱山#尾去沢銅山事件|尾去沢銅山事件]]らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。
 
 
 
だがその一方で、英仏を範とする西欧的な[[三権分立]]の導入を進める江藤に対して、[[行政権]]=[[司法権]]と考える伝統的な政治的価値観を持ち、[[プロイセン王国]](のち[[ドイツ帝国]])を範とする政府内の保守派からは激しく非難された。また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、[[大蔵省]]の[[井上馨]]との確執を招いた。
 
 
 
=== 下野から佐賀の乱(佐賀戦争)まで ===
 
明治6年([[1873年]])には朝鮮出兵を巡る[[征韓論]]問題から発展した[[明治六年政変|政変]]で西郷隆盛・[[板垣退助]]・[[後藤象二郎]]・副島種臣と共に[[10月24日]]に下野。明治7年([[1874年]])[[1月10日]]に愛国公党を結成し[[1月12日]]に[[民撰議院設立建白書]]に署名し帰郷を決意する。
 
 
 
大隈・板垣・後藤らは、江藤が帰郷することは[[大久保利通]]の術策に嵌るものであることを看破し、慰留の説得を試みる。しかし江藤はこれには全く耳を貸さず、[[1月13日]]に船便で九州へ向かう。江藤は直ぐには佐賀へ入らず[[2月2日]]、長崎の深堀に着き、しばらく様子を見ることになる。この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、[[2月5日]]には佐賀に対する追討令を受けている。
 
 
 
[[2月11日]]、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い[[2月12日]]、佐賀征韓党首領として擁立された。そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。
 
 
 
[[2月16日]]夜、憂国党が武装蜂起し[[士族反乱]]である[[佐賀の乱]](佐賀戦争)が勃発する。佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する[[岩村通俊]]の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。
 
 
 
大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。政府軍は、朝日山方面へ[[野津鎮雄]]少将の部隊を、[[三瀬峠]]付近へは[[山田顕義]]少将の部隊を前進させた。朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。
 
 
 
江藤は征韓党を解散して逃亡し、[[3月1日]]に[[鹿児島]][[鰻温泉]]の[[福村市左衛門]]方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。続いて[[3月25日]]、高知の[[林有造]]・[[片岡健吉]]のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途上、現在の[[高知県]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]][[東洋町]]甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この[[指名手配|写真手配制度]]は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。
 
 
 
=== 裁判とその最期 ===
 
{{external media
 
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|topic = '''{{color|red|閲覧注意}}'''
 
|image1= [[:File:Head of Eto Shinpei.jpg|獄門に処せられた江藤新平]]
 
}}
 
[[File:Grave of Eto Shinpei Hongyoji.jpg|200px|thumb|江藤新平の墓所、佐賀市の本行寺]]
 
[[4月8日]]、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった[[河野敏鎌]]によって裁かれることとなった。河野は江藤を取り調べ、釈明の機会も十分に与えないまま死刑を宣告した。訊問に際し敏鎌は江藤を恫喝したが、江藤から逆に「敏鎌、それが恩人に対する言葉か!」と一喝され恐れおののき、それ以後自らは審理に加わらなかった。
 
[[4月13日]]に河野により除族の上、[[梟首]]の刑を申し渡され<ref group="注釈">礼遇の慣習により[[武士]]を梟首にすることは出来なかったため、まず[[士族]]の地位を剥奪する必要があった。</ref>、その日の夕方に嘉瀬刑場において処刑された。
 
 
 
判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた<ref group="注釈">[[大久保利通]]は日記(4月13日付)において、江藤について「今朝江藤、島(義勇)以下十二人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜態笑止なり。朝倉、香月、山中らは賊中の男子と見えたり」と記している。</ref>。その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。
 
 
 
この裁判について、巷では大久保が金千円で河野を買収して江藤を葬ったという風評が立ったが、河野自身は晩年になって立憲改進党掌事の牟田口元学に自身の行動に関する弁明を試みている。
 
 
 
辞世は、
 
{{quotation|「ますらおの  涙を袖にしぼりつつ  迷う心はただ君がため」}}
 
明治22年([[1889年]])、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。[[大正]]5年([[1916年]])4月11日、贈[[正四位]]。墓所は佐賀県[[佐賀市]]の[[本行寺 (佐賀市)|本行寺]]。[[墓碑銘]]は[[書家]]としても知られる副島種臣が手がけた。同市の[[神野公園 (佐賀市)|神野公園]]には銅像もある。
 
 
 
== 逸話 ==
 
* 江藤は[[藩校]]の弘道館に入学した頃、髪の毛はぼさぼさでぼろぼろの服を着ていた。女中がひやかそうとすると高い声で書物を読み上げ、驚かせたという。
 
* 明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。
 
* 江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。他方、外交については積極的な対外進出を主張しており、明治4年(1871年)3月に[[岩倉具視]]に提出した意見書には清をロシアとともに攻めて占領し、機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。
 
* 自分が低い身分から起ったので、司法卿に栄進しても少しも尊大ぶらず、面会を求むる書生は誰でも引見し、その才幹を認むれば直ぐにも登用した。それ故、郷国の官途につこうとする者は、先ず江藤を訪い、志望を述べ採用を頼むので、その私邸にも役所にも常に一二人の訪問者が絶えなかったそうだ。新平はこれ等の人を引見しては、先ず先に『貴公は本を読むか』と尋ねる。読みますと答えると、『どういう種類を読むか』と反問して、その答えに依りてその人物を察し、登用の程度を決めたそうである。まだ第二の試験方法としては、政治法律上の問題をあたえて、これについて意見を書いて来いと言い、論文を徴するか、または直に論題を提出して、その議論を聴取するのが例であった。この試験に及第しさえすれば、即日にも採用するが、もしこれに落第した者は如何なる情実があろうが、決して用いる事はなかった。ゆえに江藤の登用した人物には、一人として屑は無く、適材を置くの主義で、皆一廉の働きを現した。<ref>『江藤新平』鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
 
* 江藤は読書を生命としていた。いかなる任務中にあっても、卓上常に五六冊の書籍が無かったことはない。用務が小閑なれば、その間を盗んでは書見していた。これはいつものことで、属僚がたまたまその室に入る時は、必ず書見に耽っておる時で、江藤は本を卓上に伏せ、何の用かと顧み問うが常であった。その勉強には感服せぬ者が無かったという。<ref>『江藤新平』鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
 
* [[真崎秀郡]] 「少年の折、片田舎にて江藤に行き遇う。江藤曰く『真崎サン、近頃ハ本読ドルカ』と。真崎答えて曰く『イヤ学者ニナルト皆馬鹿ニナル様デスカラ本ハ悉皆クレテ仕舞ッテ読マンコトニシマシタ』と。江藤曰く『ソレハイカヌ。三国志デモ漢楚軍談デモヨイカラ本ハ御読ミナサイ』といって別れたり。後年江藤益々の出世、参議の折上京、久し振りにて江藤を訪う。この頃の江藤は飛ぶ鳥も落とすという勢いにて、多忙を極めおる時節ゆえ、多分不在ならんと考えながら訪問せしに、在宅なりとの事ゆえ、心易きままに直に上座何れに在りやを問えば、奥の書斎に在りという。到れば江藤は専心読書し、人の来るも知らざる様子なりき。この時、片田舎における忠告の親切を痛感す」<ref>『佐賀先覚遺聞』 向井弥一著 大正15年</ref>
 
* 時のフランス公使が本所の近くで猟をしていた時に、誤って畑に出ていた農夫に弾丸が当り、即死した。直ぐ羅卒が公使とは知らずに屯所に引致したが、取調べ中その公使は逆に引致した無礼を怒り、外務卿を呼べ、このような公使を引致するような野蛮国には居られぬから帰国すると騒ぎ立てた。この問題について会議が行われたとき、[[西郷隆盛]]がこうなっては仕方が無いから、その引致した羅卒に切腹せしめて謝罪しようといいだすと、江藤司法卿は、『それはもってのほかである。羅卒の行為は職務を執行したので、更に落度は無い。いかに謝罪のためとはいえ、罪無き羅卒に死を命ずるは法の表に背く。これは本官の職掌であるから、万事一任されたい。自ら公使を訪うて談判をいたそう』と引き受け、すぐ横浜に出張して公使に面会し、『公使と知らずして無礼を働いた羅卒は貴官が気の済むように処分するが、貴官もまた過失殺傷の罪に問うて宜しいか。それとも互いに譲歩して、我も貴官を法に問わぬ代わりに帰国を思い止らるるか』と義理明白に説いたので、公使も意を和らげ、却って過失を謝して事は無事に済んだ。<ref>『江藤新平』鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
 
* 江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」と城下の人々に{{誰範囲|date=2015年4月2日 (木) 06:12 (UTC)|いわれ}}、参拝客が多かった。そのため、県庁が柵を設けて参拝を禁止した。従って、{{要出典範囲|date=2015年4月2日 (木) 06:12 (UTC)|夜間に参拝する者がいたという}}。
 
 
 
== 評価 ==
 
*[[鍋島閑叟]] 「彼は異日有用の器たり。之を斬に処せしむべからず」
 
*[[大久保利通]] 「江藤が自ら作る所の新律に罪按せられたるは、そのすこぶる秦の商鞅と相似たり。予は江藤の刑名家たるを知る。その弁論の精悍なる、立法の技量に富める、真に商鞅の流亜なり。否あるいは之に駕するものあらん。然れどもまた及ばざる所あり。およそ人自ら固く信ずる所ありて、事を成すも失敗すること少なからず。いわんや自ら信ぜず、徒に人をして信ぜしめんとするにおいて、失敗なきを得んや。江藤の兵を挙げたるは、天下に一信無くして失敗せしなり。彼が兵に将たる能わざるは、自ら能く之を知る。しかして彼が江藤さえ兵を挙げたりとて、天下の人をして之に応ぜしめんと図りしは、拙策なりと為さざる可からず」<ref>『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
 
*[[板垣退助]] 「かくの如き憎悪せられたる点は、その短所にあらずして、実にその長所に在り。すなわち邪にあらずして正なる点に在り。言を換ゆれば、江藤君は余りに正義なりし為に、遂にその奇禍を買うに至りし也」<ref>『江藤南白』的野半介著</ref>
 
*[[副島種臣]] 「江藤新平という男は、ちょっと見ると鈍いような人であった。そこで初めは人に重く見られなかった。その頭角を現したるは維新後である。自分は中野芳蔵から、初めて江藤の人物を紹介され、その後面会して話してみると、なるほど見る所がすこぶる卓越しておる。それでやはり後輩よりも先輩が余計に喜んで、その意見を徹するようになり、次第に引き立てられたのである。頭を擡げてからというものは、めきめきと栄進して、維新後初次の政府にあれだけの地位を得、先輩をも凌ぐばかりの勢力を占めた。江藤がかつて自分にいうたには、『私は怒ることがあっても直ぐには怒らぬ。いつも三日ばかり考えてから怒った。即座に怒れば必ず好い結果は無い』と話したことがある。それゆえ若い者にはなんだかボンヤリのようにも見られたであろう」<ref>『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
 
*[[松岡康毅]] 「当時、弁舌家では陸奥宗光などは台閣中のもっともなるものであったが、それでも江藤に比べれば弁論の重みが違う。かつ條理が明らかで、人を屈服する力があった」<ref>『江藤新平』 鹿島桜巷著 実業之日本社 明44.9</ref>
 
*[[土方久元]]
 
**「我、維新前後の人物とは知人多し。しかし就中自分が真に豪傑と思う者は西郷南州と江藤新平と二人しかおらぬ」<ref>『佐賀先覚遺聞』 向井弥一著 大正15年</ref>
 
**「意気豪邁、議論精確、和漢上下古今に出入りす。抱負の大なること測る可からざる者有り」
 
*[[渋沢栄一]] 「学問があってよく物を知っていても、礼をわきまえなかったばかりに身を滅ぼした最も著しい例は、佐賀の乱で刑死した江藤新平である」
 
*[[勝海舟]] 「あれは驚いた才物だよ。しかし、ピリピリしておって、実に危ないよ」
 
 
 
== 家族 ==
 
* [[江藤新作]] - 二男。[[衆議院議員]]。[[犬養毅]]の側近として活躍。新平の遺稿を整理・編纂し『南白遺稿』として刊行した。
 
* [[江藤夏雄]] - 孫。新作の子。[[満州鉄道|満鉄]]職員、[[満州国]]官吏、衆議院議員。
 
* [[江藤小三郎]] - 曾孫。[[江藤夏雄|夏雄]]の三男、[[1969年|昭和44年]]・[[建国記念の日]]に[[国会議事堂]]前で[[自決]]。
 
* [[江藤源九郎]] - 甥。弟[[江藤源作]]の子。[[陸軍少将]]。衆議院議員。
 
* [[江藤兵部]] - 曾孫。夏雄の兄の子。[[航空自衛官]]。最終位は[[航空総隊司令官]]([[空将]])。
 
 
 
== 資料・関連文献 ==
 
* 『江藤家資料』
 
* [{{NDLDC|898715}} 『南白遺稿』近代デジタルライブラリー]
 
*  「圖海策」[{{NDLDC|898715}} 『南白遺稿』近代デジタルライブラリー]
 
; 伝記研究
 
* [[毛利敏彦]]『江藤新平 急進的改革者の悲劇』[[中公新書]]
 
* 毛利敏彦『幕末維新と[[佐賀藩]]』中公新書、続篇
 
* [[杉谷昭]]『江藤新平』人物叢書・[[吉川弘文館]]
 
* [[鈴木鶴子]]『江藤新平と明治維新』[[朝日新聞出版]]
 
; 小説
 
* [[佐木隆三]]『[[司法卿]]江藤新平』文藝春秋のち文春文庫
 
* [[司馬遼太郎]]『[[歳月 (小説)|歳月]]』[[講談社文庫]]ほか
 
* 司馬遼太郎『[[翔ぶが如く]]』[[文春文庫]]全10巻ほか
 
*[[山田風太郎]]『首の座』
 
; ドラマ
 
* [[獅子の時代]]([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]・演:[[細川俊之]])
 
* [[翔ぶが如く (NHK大河ドラマ)|翔ぶが如く]](NHK大河ドラマ・演:[[隆大介]])
 
* [[八重の桜]]([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]・演:[[山崎銀之丞]])
 
* [[田原坂 (テレビドラマ)|田原坂]]([[日本テレビ]]・演:[[浜田晃]])
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[維新の十傑]]
 
* [[佐賀の七賢人]]
 
* [[義祭同盟]]
 
* [[弘道館 (佐賀藩)]]
 
* [[毛利敏彦]]
 
* [[佐賀の乱]](佐賀戦争)
 
* [[指名手配]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{Commons|Category:Etō Shinpei}}
 
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/etoushinnpei.html 国立国会図書館 憲政資料室 江藤新平関係文書(MF:佐賀県立図書館蔵ほか)]
 
* [http://ndl.go.jp/portrait/datas/242.html 江藤新平 - 近代日本人の肖像|国立国会図書館]
 
* [http://www.wul.waseda.ac.jp/CLIB/MICRO/eto.html 早稲田大学] - 江藤新平関係文書
 
{{-}}
 
{{司法大臣|1872年 - 1873年|司法卿}}
 
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明治新政府の参議,司法卿。肥前佐賀藩下級武士の家に生れ,領内の国学者枝吉神陽に学ぶ。ペリー来航の際『図海策』を建白して攘夷の不可を説く。藩の目付,代官を経て貿易方をつとめたが,尊王攘夷運動に投じ,文久2 (1862) 年脱藩して上京,攘夷派公家と提携したため,帰藩後永蟄居 (えいちっきょ) に処せられた。王政復古に伴い再び藩に登用され大総督府監軍となって江戸におもむき,鎮将府,江戸府の各判事として江戸の人心収拾と復興に尽力。明治2 (69) 年佐賀藩権大参事となり,9月上京して太政官中弁となる。法律制度に卓越した見識をもち,制度改革の建白を再三行なった。同4年7月文部大輔,8月左院副議長,同5年4月司法卿となり,参議に上った。民法典の編纂などみるべき業績が多かったが,岩倉遣外使節外遊中の留守政府で,西郷隆盛,板垣退助らとともに征韓派の一人となった。[[征韓論]]が敗れると,1873年 10月 24日西郷,板垣とともに辞職し,翌 74年1月,[[民撰議院設立建白]]に加わった。しかし,帰郷した江藤は郷里の反政府勢力に推されて同年2月 13日挙兵し,[[佐賀の乱]]を起した。敗戦後,鹿児島に行き西郷に救援を求めたがいれられず,土佐に向って林有造らを頼ったが成功しないまま,高知の甲 (かん) の浦で官軍に逮捕され,佐賀に護送,投獄された。4月 13日,内務卿大久保利通臨席のもとに,臨時裁判所で斬罪梟首 (きょうしゅ) となった。
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2018/12/22/ (土) 21:43時点における最新版

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日1834年3月18日) - 明治7年(1874年4月13日

明治新政府の参議,司法卿。肥前佐賀藩下級武士の家に生れ,領内の国学者枝吉神陽に学ぶ。ペリー来航の際『図海策』を建白して攘夷の不可を説く。藩の目付,代官を経て貿易方をつとめたが,尊王攘夷運動に投じ,文久2 (1862) 年脱藩して上京,攘夷派公家と提携したため,帰藩後永蟄居 (えいちっきょ) に処せられた。王政復古に伴い再び藩に登用され大総督府監軍となって江戸におもむき,鎮将府,江戸府の各判事として江戸の人心収拾と復興に尽力。明治2 (69) 年佐賀藩権大参事となり,9月上京して太政官中弁となる。法律制度に卓越した見識をもち,制度改革の建白を再三行なった。同4年7月文部大輔,8月左院副議長,同5年4月司法卿となり,参議に上った。民法典の編纂などみるべき業績が多かったが,岩倉遣外使節外遊中の留守政府で,西郷隆盛,板垣退助らとともに征韓派の一人となった。征韓論が敗れると,1873年 10月 24日西郷,板垣とともに辞職し,翌 74年1月,民撰議院設立建白に加わった。しかし,帰郷した江藤は郷里の反政府勢力に推されて同年2月 13日挙兵し,佐賀の乱を起した。敗戦後,鹿児島に行き西郷に救援を求めたがいれられず,土佐に向って林有造らを頼ったが成功しないまま,高知の甲 (かん) の浦で官軍に逮捕され,佐賀に護送,投獄された。4月 13日,内務卿大久保利通臨席のもとに,臨時裁判所で斬罪梟首 (きょうしゅ) となった。



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