「浅井長政」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
 
21行目: 21行目:
 
| 特記事項 =
 
| 特記事項 =
 
}}
 
}}
'''浅井 長政'''(あざい{{Efn|[[名字]]および所領地名の「浅井」の読みは、以前は「あさい」が一般的であったが、現在は「あ'''ざ'''い」が正しいとされている。ただ、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある{{Sfn|宮島}}。}} ながまさ、[[旧字体]]表記:淺井 長政)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。北[[近江国|近江]]の[[戦国大名]]。[[浅井氏]]の3代目にして最後の当主。
+
'''浅井 長政'''(あざい{{Efn|[[名字]]および所領地名の「浅井」の読みは、以前は「あさい」が一般的であったが、現在は「あ'''ざ'''い」が正しいとされている。ただ、最新の研究では、やはり「あさい」が正しいという学説もある{{Sfn|宮島}}。}} ながまさ、[[旧字体]]表記:淺井 長政)
  
浅井氏を北近江の[[戦国大名]]として成長させ、北東部に勢力をもっていた。妻の兄・[[織田信長]]と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが、後に信長と決裂して織田軍との戦いに敗れて[[自殺|自害]]。浅井氏は滅亡した。[[官位]]は贈[[従二位]][[中納言]]([[徳川家光]]の外祖父にあたるため、死後の[[寛永]]9年([[1632年]])9月15日に贈られた<ref>村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜」、『駒沢史学』80号。</ref>)。
+
戦国大名。久政の子。幼名は猿夜叉,のち新九郎,備前守と称した。浅井父祖2代の近江北半の経営を受継ぎ,初め六角氏のために勢力の伸長ができなかったが,永禄6 (1563) 年織田信長の妹お市 ([[小谷の方]] ) をめとって勢力を拡張していった。同 11年信長とともに観音寺城を陥れて,六角義賢父子を追い,さらに朽木元綱を従え,近江の大半を領した。その後信長が天下統一を志向するに及び,長政は[[朝倉義景]],六角承禎,本願寺と連合して信長にそむき,その打倒をはかったが,元亀2 (71) 年には比叡山が焼打ちにあい,天正1 (73) 年には朝倉義景が滅ぼされ,ついには居城小谷を信長に攻撃され落城,自殺した。なお長政の3人の娘は,のちにそれぞれ豊臣秀吉の側室 (淀君) ,京極高次,徳川秀忠の夫人となった。
 
+
   
== 生涯 ==
+
{{テンプレート:20180815sk}}
=== 家督相続 ===
 
[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に[[浅井久政]]の[[嫡男]]として、[[六角氏]]の居城・南近江の[[観音寺城]]下(現在の[[滋賀県]][[近江八幡市]][[安土町地域自治区|安土町]])で生まれる。[[幼名]]は'''猿夜叉丸'''。
 
 
 
[[下克上]]によって、直接の主筋で北近江の守護であった[[京極氏]]を追い落とした浅井氏も、当時南近江の守護であった[[六角氏]]との合戦に敗れ、初代当主である[[浅井亮政]](長政の祖父)の代に手に入れた領地も失い、六角氏に臣従していた。そのため長政自身も、生母・小野殿と共に人質になっていたとされる。久政は六角氏との外交に力をいれ、かろうじて北近江を維持していた。家臣の中には久政の弱腰な政策に反発する者も多く、また先代に活躍した武将も世代交代という名目で低い扱いを受けていた。
 
 
 
15歳で長政が[[元服]]した際、六角氏は浅井と臣従関係にあることをはっきりさせるため、長政に六角氏当主である[[六角義賢]]の[[諱#偏諱授与の風習|一字をとって]]'''賢政'''と名乗らせた。また、六角氏の家臣である[[平井定武]]の娘との婚姻も強いた。
 
 
 
=== 浅井家の成長と六角家の衰退 ===
 
[[永禄]]3年([[1560年]])8月中旬、賢政(新九郎)は15歳で軍を率い、六角軍を相手に[[野良田の戦い]]で見事な戦い振りを披露した。これによって重臣の[[赤尾清綱]]・[[海北綱親]]・[[遠藤直経]]らを心酔させたと言われている。
 
 
 
六角氏に服従する状況に不満を持っていた家臣達は賢政に期待を寄せ、久政を[[竹生島]]に追放して隠居を強要した。長政は家督を強奪に近い形で相続した。長政は六角氏から離反する意思を明確にするため平井定武の娘を六角氏に返し、「賢政」の名も'''新九郎'''に戻した。
 
 
 
野良田の戦いの勝因は、短期間で寄せ集めの軍備しかできなかった六角氏と異なり、久政が隠居した頃から合戦の準備を始めていたためと思われる。また[[朝倉氏]]に援軍を求めた様子もないことから、朝倉親交派である久政や家臣達ではなく、長政自身が戦の主導権を取っていたという見方もできる。合戦後は、朝倉氏との関わりを少なくした独立政治を展開している。
 
 
 
永禄6年([[1563年]])、六角氏の筆頭家臣であった[[後藤賢豊]]が暗殺された([[観音寺騒動]])。この騒動で六角を離れ浅井に仕官した者も多く、六角氏の改革失敗が決定的になった。同年、長政の美濃遠征中にその留守を狙い六角氏が軍を動かしたため、長政は軍を反転させて六角軍を撃破した。[[殿 (軍事用語)|殿]](しんがり)を守らせた赤尾清綱は、わずか500の兵で見事な働きを見せた。
 
 
 
この2つの出来事で浅井氏は領地を拡大したが、その後は六角氏との停戦協議により膠着状態が続く。
 
 
 
=== 織田信長と同盟 ===
 
{{multiple image
 
| footer    = 浅井長政像・お市の方像は対の掛け軸となっている。(高野山持明院像)
 
| width    = 200
 
| image1    = Azai-Nagamasa-cropped.jpg
 
| alt1      = 長政
 
| image2    = Oichinokata.jpg
 
| alt2      = 於市
 
}}
 
[[1560年代]]、[[織田信長]]は、美濃[[斎藤氏]]との膠着状態を打破するため[[不破光治]]を使者として送り、長政に同盟を提案した。同盟の条件は浅井側に有利であったが、浅井家臣の中では賛否両論あり、遠藤直経も反対だったという。最大の問題は、久政の盟友である[[朝倉義景]]と信長の不仲だった。西美濃勢が信長寄りに振る舞う度に領地が油阪で通じることになり、織田・朝倉は互いに挑発を繰り返していた。
 
 
 
同盟に際して織田・浅井の両家は政略結婚をした。永禄10年([[1567年]])9月頃<ref>{{Citation |和書 |author=西ヶ谷恭弘 |year =2000 | title =考証織田信長事典 |publisher =東京堂出版 |ISBN=4490105509 |pages=246-247}}</ref>に、長政は信長の妹の[[お市の方|市]]を妻とした<ref>[[奥野高廣]]「織田信長と浅井長政との握手」(『日本歴史』248号、1969年)</ref><ref>[[宮本義己]]「信長の婚姻大作戦」、『歴史読本』31巻16号、1986年。</ref>。
 
なお、長政と市の婚姻時期については諸説ある。永禄7年(1564年)<ref>『浅井三代記』</ref>、永禄8年(1565年){{Efn|[[和田惟政]]が三雲定持に宛てた書状に「浅井備前守と信長の縁辺(婚姻)、入眼候…」とあることから、[[近江国]]矢島の和田惟政の元にいた覚慶([[足利義昭]])が、上洛を目指すために織田と浅井の婚姻を結ばせたとする<ref name="takazawa">[[高澤等]]『新・信長公記』(ブイツーソリューション、2011年)</ref>。}}とする説などいくつかの異説{{Efn|市は天文16年(1541年)出生とされ、永禄年間の終わり頃の婚姻では初婚としては遅い20代前半にあたることから市の出生年代や婚姻時期が誤りか、初婚でない可能性も考えられており、北近江をめぐる地域情勢から婚姻を永禄4年段階とする説や<ref>太田浩司「北近江の戦国史」『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』、長浜市長浜城歴史博物館、2008年。</ref>、永禄2年6月以降遅くとも永禄6年を下らない時期とする説{{Sfn|宮島|p=177}}もある。}}がある。
 
 
 
織田・浅井の同盟により、信長は[[上洛]]経路ともなる近江口を確保し、美濃国攻略の足掛かりとした。信長は同盟成立を喜び、通常は浅井側が結婚資金を用意するのが当時のしきたりだったが、信長自身が婚姻の費用を全額負担したとされている。結婚に際して、信長の一字を拝領し、'''長政'''と改名したともされる<ref>[[黒田惟信]]編『東浅井郡志』、東浅井郡教育会、1927年のちに1971年に名著出版から復刻。</ref>{{Sfn|佐藤|p=37}}{{Sfn|宮島|pp=163-164}}。
 
さらに賢政時代の花押をやめて、「長」の字を右に倒した形の花押を作った{{Sfn|佐藤|pp=37-38}}。
 
 
 
永禄11年(1568年)7月、[[越前国]]に滞在していた[[足利義昭]]は、一向に上洛の意志をみせない朝倉義景に見切りをつけ、尾張の信長の元に身を寄せた。これによって、9月に信長は上洛を開始した。上洛の道中、反抗する六角氏を攻撃。これにより、長政の敵である六角氏の勢力は、南近江の甲賀郡に撤退。浅井氏も、義昭を守護しながら上洛を掩護した。
 
 
 
=== 同盟破棄・信長包囲網 ===
 
[[元亀]]元年([[1570年]])、信長が長政と交わした「朝倉への不戦の誓い」を破り、[[徳川家康]]と共に[[琵琶湖]]西岸を通過して越前国の朝倉方の城を攻め始める。長政は義景との同盟関係を重視し、織田徳川連合軍を背後から急襲。信長は殿を務めた[[豊臣秀吉|木下秀吉]]らの働きにより、近江国を脱出した([[金ヶ崎の戦い|金ヶ崎の退き口]])。
 
 
 
信長との同盟に反対していた家臣達は、信長が朝倉攻めに際して一報を入れなかったことから、隠居の久政をかつぎ出し、長政に織田軍への進撃を提案したと言われている。敦賀への進軍に、主力である武将達は参加しておらず長政が居たという記録はない。また、そもそも織田と浅井の同盟自体が存在せず、金ヶ崎の戦いでの織田軍は、目的を達して凱旋中に浅井氏の挙兵を知ったという説もある{{Efn|安芸毛利元就宛覚書』(毛利家文書)に「浅井備前守別心易色之由、帰洛之途中へ告来候」とあることを根拠に浅井氏挙兵は凱旋途中にその報を受けたとする<ref name="takazawa"/>。}}。
 
 
 
同年6月、長政は朝倉軍とともに、近江国・[[姉川]]で織田徳川連合軍と戦う([[姉川の戦い]])。先鋒の[[磯野員昌]]が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す攻撃を見せ、織田軍は敗走の用意をしていたという逸話はあるものの、信憑性は薄い。結局この戦は、織田徳川連合軍の勝利に終わった。なお、当時浅井軍の足軽だった[[藤堂高虎]]は、姉川の戦いに参戦し、織田軍に対し武功を上げて長政から感状を送られた。
 
 
 
姉川の戦いの後、信長に脅威を覚えた[[本願寺]]([[野田城・福島城の戦い]])が、反信長の意志を表した([[信長包囲網]])。9月には朝倉軍や[[延暦寺]]・一向宗徒と連携し、再び信長への攻勢を強め([[志賀の陣]])、坂本において[[森可成]]や[[織田信治]]らを討ち取る。だが、信長が足利義昭に和睦の調停を依頼し、さらに朝廷工作を行ったため、12月に信長と勅命講和することになる。また、浅井氏と協力関係にあった延暦寺は、元亀2年([[1571年]])9月に信長の[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]にあい、壊滅してしまった。
 
 
 
=== 武田信玄との連携 ===
 
元亀3年([[1572年]])7月、信長が北近江に来襲した。長政は父の代からの同盟者である朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず睨み合いが続いたが、浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。
 
 
 
遅れること同年9月、将軍・足利義昭の要請に応える形で[[武田信玄]]がやっと甲斐国を進発する。信玄はこの時、長政・久政親子宛に「''只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候'' 」という書状を送っている。
 
 
 
同年10月宮部城の宮部継潤が羽柴秀吉の調略で降伏、その後信玄の参戦を機に北近江の信長主力が岐阜に移動した隙を突き、虎御前山砦の羽柴隊に攻撃を仕掛けるも撃退されてしまう。その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を撃破し([[三方ヶ原の戦い]])、三河に進んだ。
 
 
 
同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と積雪を理由に越前に帰国した。信玄は義景の独断に激怒し、再出兵を促す手紙([[伊能文書]])を義景に送ったが、義景はそれに応じず、黙殺的態度を示した。それでも信玄は義景の再出兵を待つなどの理由で軍勢を止めていたが{{Efn|実際は周辺の調略、自軍の補給、気候条件、信玄自身の体調などの問題があり、進軍不可能であった。}}、翌年2月には進軍を再開し、家康領の[[野田城 (三河国)|野田城]]を攻め落とす。しかし、信玄の急死により、武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は一部破綻し、信長は大軍勢を近江や越前に向ける事が可能になった。
 
 
 
=== 浅井家滅亡 ===
 
[[File:Azai Nagamasa's death place.jpg|thumb|200px|浅井長政公自刃之地([[小谷城]]内・赤尾屋敷跡)]]
 
{{Main|小谷城の戦い}}
 
[[天正]]元年([[1573年]])7月、信長は3万の軍を率い、再び北近江に攻め寄せる。長政は義景に援軍を要請、義景は2万の軍で駆けつけるが織田の軍勢が北近江の城を落とし、浅井家中にも寝返りが相次いだため、浅井氏の救援は不可能と判断した義景は越前国に撤退を始めた。撤退する朝倉軍を信長は追撃して刀根坂にて壊滅させ、そのまま越前国内へ乱入し朝倉氏を滅亡させた後([[一乗谷城の戦い]])、取って返して全軍を浅井氏に向けた。
 
 
 
浅井軍は、信長の軍によって一方的に勢力範囲を削られるのみであった。ついに本拠の[[小谷城]]([[滋賀県]][[長浜市]])が、織田軍に囲まれる。信長は不破光治(同盟の際の使者)、さらに木下秀吉を使者として送り降伏を勧めたが、長政は断り続け、最終勧告も決裂した。
 
 
 
[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]父の久政が自害。『信長記』には翌28日に長政は小谷城内[[赤尾屋敷]]にて自害したとされるが、29日に出された長政の[[片桐直貞]]に対する感状が発見され、命日は9月1日であることが判明した<ref>[[荻野三七彦]]「浅井長政最期の感状」、『古文書研究』31号、1989年。</ref><ref>[[小笠原長和]]「浅井長政の感状と主従関係」、『千葉史学』37号、2000年。</ref>。[[享年]]29。墓所は滋賀県[[長浜市]]の[[徳勝寺]]。
 
 
 
『[[信長公記]]』には、天正2年([[1574年]])の正月、内輪の宴席において薄濃(はくだみ、[[漆]]塗りに[[金粉]]を施すこと)にした義景・久政・長政の頭蓋骨を御肴として白木の台に据え置き、皆で謡い遊び酒宴を催したとある{{Efn|これは敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものである、とする説がある<ref>宮本義己『誰も知らなかった江』、p.61-62、毎日コミュニケーションズ、2010年。</ref>。}}。
 
 
 
== 系譜 ==
 
浅井氏は始祖を[[正親町三条公綱]]([[公家]]の[[嵯峨家]])の[[落胤]]とする家系伝承を持ち、[[本姓]]を[[藤原氏]]と称するが、江北に古くから土着している[[豪族]]に浅井氏があり、[[平安時代]]や[[鎌倉時代]]の記録に既に名が見える、古来の浅井氏に、公家の子息が入り婿したとも伝えられる。[[室町時代]]には、[[守護]]・[[京極氏]]に従う国人領主の一つとして頭角を表す。やがて梟雄・亮政が[[越前国|越前]]・朝倉氏の後援によって国人一揆の盟主格であった浅見氏を倒し、江北第一の勢力として台頭するに至った。
 
; 両親
 
* 父:[[浅井久政]] - 近江国[[小谷城]]主で浅井氏の第2代当主
 
* 母:[[小野殿]](阿古御料人)
 
; 兄弟
 
* [[岡崎安休]] - [[顕如]]乳兄
 
* [[浅井政元]]
 
* [[浅井政之]]
 
* [[大文字屋新十郎]](浅井治政)
 
; 姉妹
 
* [[昌安見久尼|阿久姫]](昌安見久尼)
 
* [[近江の方]] - [[斎藤義龍]]室、[[斎藤龍興]]母
 
* [[京極マリア]] - [[京極高吉]]室
 
[[File:Azai Nagamasa.JPG|thumb|200px|愛知県春日井市の浅井氏宅跡にある浅井長政像。側室八重が生んだ子の七郎とその子孫がこの地に住んだという。]]
 
; 妻
 
* [[正室]]:[[平井定武]]の娘
 
* [[継室]]:[[織田信長]]の妹・[[お市の方|市]]
 
* [[側室]]:八重の方
 
; 息子
 
* [[嫡男]]:[[浅井万福丸|万福丸]](輝政)
 
* 次男:[[浅井万寿丸|万寿丸]](直政 / 正芸 / 万菊丸 / 幾丸 / 虎千代丸)
 
* [[浅井長明|長明]](七郎)
 
* [[浅井政治|政治]](円寿丸)
 
; 娘
 
* 長女:[[淀殿|茶々]] - [[豊臣秀吉]]の側室
 
* 次女:[[常高院|初]] - [[京極高次]]の正室
 
* 三女:[[崇源院|督]](江) - [[佐治一成]]の正室→[[豊臣秀勝]]の正室→[[徳川秀忠]]の継室
 
* 庶女:[[宝光院 (くす)|くす]] - [[京極竜子]]の姥(侍女)
 
* 庶女:[[刑部卿局]] - [[千姫]]の乳母
 
; 養子
 
* [[浅井井頼]](政信 / 政賢 / 政春 / 政堅 / 長房)
 
 
 
=== 末裔 ===
 
著名な人物に、[[崇源院|お江]][[系統]]の子孫として[[昭和天皇]]以降の[[皇室]]が挙げられる。
 
{{徳川家光の系譜|外祖父}}{{明正天皇の系譜}}
 
{{main|崇源院#系譜}}
 
 
 
== 家臣 ==
 
* [[海北綱親]]
 
* [[赤尾清綱]]
 
* [[雨森清貞]]
 
* [[磯野員昌]]
 
* [[遠藤直経]]
 
* [[新庄直頼]]
 
* [[阿閉貞征]]
 
* [[宮部継潤]]
 
* [[藤堂高虎]]
 
* [[寺村小八郎]]
 
* [[野村直隆]]
 
* [[大野木秀俊]]
 
* [[三田村国定]]
 
* [[弓削家澄]]
 
* [[安養寺氏種]]
 
* [[矢野忠之]]
 
* [[八木友忠]]
 
* [[田辺氏之]]
 
* [[三田村定頼]]
 
* [[保田顕元]]
 
* [[中島直親]]
 
* [[井口経長]]([[井口経親]]の子)
 
* [[今井秀家]]([[今井定清]]の子)
 
* [[新庄直忠]]
 
* [[脇坂秀勝]]
 
* [[森本鶴松太夫]]
 
* [[浅見道西]]
 
* [[百々盛実]]
 
* [[片桐直隆]]([[直貞]]とも)
 
* [[今村氏直]]
 
* [[脇坂安明]]
 
 
 
== 一門衆 ==
 
* [[浅井政澄]]
 
* [[浅井盛政]]
 
* [[浅井井規]]
 
* [[浅井亮親]]
 
 
 
他にも、弟の[[浅井政元]]、[[浅井政之]]、[[大文字屋新十郎|浅井治政]]、庶流の[[浅井惟安]]もいた。
 
 
 
== 浅井長政を主題とする作品 ==
 
* 『覇者の系譜』([[伊藤浩士]]) - 朝倉氏に近しい久政の一派を長政が完全に統制したと仮定した[[if]]小説
 
* 『浅井長政正伝 死して残せよ虎の皮』([[鈴木輝一郎]]) - 浅井長政出生から父久政の放逐、信長との離反、滅亡を長政から描いた歴史小説
 
* 『花朧〜戦国伝乱奇〜』([[オトメイト]]) - 正室[[お市の方]]が主人公、浅井長政がメインヒーローの[[恋愛ゲーム (ゲームジャンル)|恋愛ゲーム]]
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
 
=== 出典 ===
 
{{reflist|2}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* [[黒田惟信]]編『東浅井郡志』(東浅井郡教育会、1927年のちに1971年に名著出版から復刻)
 
* [[奥野高廣]]「織田信長と浅井長政の握手」(『日本歴史』248号、1969年)
 
* [[宮本義己]]「信長の婚姻大作戦」(『歴史読本』31巻16号、1986年)
 
* 宮本義己『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ、2010年)
 
* [[荻野三七彦]]「浅井長政最期の感状」(『古文書研究』31号、1989年)
 
* [[小笠原長和]]「浅井長政の感状と主従関係」(『千葉史学』37号、2000年)
 
* {{Cite book|和書 |author = [[佐藤進一]] |year = 2000 |title = 増補 花押を読む |publisher = 平凡社 |series = 平凡社ライブラリー |isbn = 978-4582763676 |ref = {{SfnRef|佐藤}}}}
 
* [[太田浩司]]「北近江の戦国史」『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』(長浜市長浜城歴史博物館、2008年)
 
* {{Cite book|和書 |author = [[宮島敬一]] |year = 2008 |title = 浅井氏三代 |publisher = 吉川弘文館 |series = 人物叢書 |isbn = 978-4642052443 |ref = {{SfnRef|宮島}}}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Azai Nagamasa}}
 
* [[戦国時代の人物一覧]]
 
* [[浅井氏]]
 
* [[浅井三姉妹]]、[[淀殿|淀殿(大虞院)]]・[[常高院]]・[[崇源院]]
 
* [[浅井町 (滋賀県)]](現・[[長浜市]])
 
* [[観音寺城の戦い]]
 
* [[小谷城戦国歴史資料館]]
 
* [[畿内・近国の戦国時代]]
 
 
 
{{浅井氏当主||1560年-1573年}}
 
{{Authority control}}
 
 
{{DEFAULTSORT:あさい なかまさ}}
 
{{DEFAULTSORT:あさい なかまさ}}
 
[[Category:浅井氏|なかまさ]]
 
[[Category:浅井氏|なかまさ]]

2018/10/17/ (水) 23:18時点における最新版

浅井長政
時代 戦国時代
生誕 天文14年(1545年
死没 天正元年9月1日1573年9月26日
主君 六角義賢
氏族 近江浅井氏(自称藤原氏

浅井 長政(あざい[注釈 1] ながまさ、旧字体表記:淺井 長政)

戦国大名。久政の子。幼名は猿夜叉,のち新九郎,備前守と称した。浅井父祖2代の近江北半の経営を受継ぎ,初め六角氏のために勢力の伸長ができなかったが,永禄6 (1563) 年織田信長の妹お市 (小谷の方 ) をめとって勢力を拡張していった。同 11年信長とともに観音寺城を陥れて,六角義賢父子を追い,さらに朽木元綱を従え,近江の大半を領した。その後信長が天下統一を志向するに及び,長政は朝倉義景,六角承禎,本願寺と連合して信長にそむき,その打倒をはかったが,元亀2 (71) 年には比叡山が焼打ちにあい,天正1 (73) 年には朝倉義景が滅ぼされ,ついには居城小谷を信長に攻撃され落城,自殺した。なお長政の3人の娘は,のちにそれぞれ豊臣秀吉の側室 (淀君) ,京極高次,徳川秀忠の夫人となった。



楽天市場検索:



引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つからない、または閉じる </ref> タグがありません