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(内容を「 '''皇后美智子'''(こうごう みちこ、1934年昭和9年〉10月20日 - ) 天皇明仁(あきひと)の皇后。 昭和9年10月20日生ま…」で置換)
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{{複数の問題
 
|存命人物の出典明記 = 2015年7月
 
|雑多な内容の箇条書き = 2015年7月
 
}}
 
{{Otheruses|第125代・今上天皇の皇后|[[賀陽宮恒憲王]]第一王女の[[旧皇族]]|美智子女王}}
 
{{基礎情報 皇后
 
|名= 皇后 美智子
 
|立后根拠 = 第125代今上天皇后
 
|画像= Emperor Akihito and Empress Michiko of Japan - Tokyo Imperial Palace - 2 Jan 2013ver2.jpg
 
|画像サイズ= 250px
 
|画像説明= [[2013年]](平成24年)新年一般参賀 皇居にて
 
|在位期間 = [[1989年]][[1月7日]] -
 
|和暦在位期間 = 昭和64年1月7日 -
 
|氏族 = 正田家
 
|旧名 = 正田美智子
 
|栄典= [[宝冠大綬章]]
 
|諱 = 美智子(みちこ)
 
|異称 =
 
|身位= [[皇太子妃]] → [[皇后]]
 
|入内 =
 
|結婚 = [[1959年]]([[昭和]]34年)[[4月10日]]
 
|立后 = [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]
 
|皇后 = [[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]
 
|皇太后 =
 
|敬称= [[陛下]]
 
|お印= [[白樺]]
 
|出生日= {{生年月日と年齢|1934|10|20}}
 
|生地= {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[本郷区]]<br>(現:[[東京都]][[文京区]][[本郷 (文京区)|本郷]])
 
|死亡日=
 
|没地=
 
|埋葬日=
 
|陵所=
 
|配偶者1= [[明仁|今上天皇]]
 
|子女= [[皇太子徳仁親王]](浩宮徳仁親王)<br />[[秋篠宮文仁親王]](礼宮文仁親王)<br />[[黒田清子]](紀宮清子内親王)
 
|父親= [[正田英三郎]]
 
|母親= 正田富美子
 
|役職= [[日本赤十字社]]名誉総裁<br/>[[国際児童図書評議会]]名誉総裁
 
}}
 
{{Infobox Royal styles
 
|royal name = 皇后
 
|image = [[File:Japan Kou(tai)gou Flag.svg|100px]]
 
|dipstyle = [[陛下]]
 
|color = #FFFFFF
 
|background = #BE0026
 
}}
 
{{日本の皇室}}
 
'''皇后美智子'''(こうごう みちこ、[[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[10月20日]] - )は、第125代[[天皇]]・[[明仁|今上天皇]]の[[皇后]]。[[皇族]]。
 
  
旧姓名は、'''正田美智子'''(しょうだ みちこ)。
+
'''皇后美智子'''(こうごう みちこ、[[1934年]]〈[[昭和]]9年〉[[10月20日]] - )
  
[[皇室典範]]に定める[[敬称]]は[[陛下]]。[[日本赤十字社]][[名誉総裁]]、[[国際児童図書評議会]]名誉総裁。<!-- 皇位継承発生時は、この記事のノートで案内されている、プロジェクトで合意された手続きにしたがって記事を修正してください。 -->
+
天皇明仁(あきひと)の皇后。
  
== 略歴 ==
+
昭和9年10月20日生まれ。正田英三郎の長女。昭和32年夏,軽井沢のテニスコートで明仁皇太子とであい,34年結婚。民間人初の皇太子妃の誕生でミッチーブームがおこった。2男1女の母親として,皇室の伝統をやぶって自分の手元でそだてる。64年皇后。日本赤十字社名誉総裁。東京出身。聖心女子大卒。
{{See also|ミッチー・ブーム}}
 
 
 
=== 少女時代 ===
 
[[ファイル:Shoda Michiko 1940.jpg|thumb|1940年(昭和15年)頃の正田美智子]]
 
[[1934年]](昭和9年)[[10月20日]]、[[日清製粉グループ本社|日清製粉]]勤務の[[正田英三郎]]・冨美([[1981年]](昭和56年)に富美子と改名した)夫妻の[[長女]]として[[東京府]][[東京市]][[本郷区]](現:[[東京都]][[文京区]]の東部)の[[東京大学医学部附属病院|東京帝国大学医学部附属病院]]で誕生<ref>歴代皇后125代総覧423頁</ref>。
 
 
 
[[大和郷幼稚園]]、[[雙葉学園]][[雙葉小学校附属幼稚園]]を経て、[[1941年]](昭和16年)に雙葉学園[[雙葉小学校]]に[[入学]]するが、[[1944年]](昭和19年)、[[疎開]]のため、[[神奈川県]][[藤沢市]]の乃木高等女学校附属小学校(現:[[湘南白百合学園小学校]])、[[群馬県]]の館林南[[国民学校]](現:[[館林市立第二小学校]])、[[1945年]](昭和20年)5月には、[[長野県]]の軽井沢第一国民学校(初等科5年に[[転入]]、同年9月まで[[在籍]])<ref>{{cite web|url=http://karuizawa-kankokyokai.jp/knowledge/300/|title=軽井沢観光協会公式ホームページ 軽井沢を知る 軽井沢と皇室|accessdate=2016-04-11}}</ref>と[[転校]]を繰り返し、[[軽井沢]]にて終戦を迎えた。雙葉学園を受験する際、本郷区大和郷の[[俵孝太郎]]旧居に、一時在住したこともある。
 
 
 
小学生時代の性格は、担任の回想では真面目な女の子・活発で勝ち気だった・神経質な性格だったとされていて、[[スポーツ]]が得意な女の子だった<ref>歴代皇后125代総覧424頁8行目</ref>。また、[[ピアノ]]・[[絵画]]・[[料理]]、[[香道]]も習っていた<ref name="asahi19590412">『[[週刊朝日]]』1959年4月12日号</ref>。
 
 
 
[[1947年]](昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を[[卒業]]するが、当時は[[五反田]]に在住しており通学に不便なことから[[聖心女子学院中等科・高等科|聖心女子学院中等科]]へ入学する。[[1953年]](昭和28年)3月、[[聖心女子学院中等科・高等科|聖心女子学院高等科]]を卒業。中高時代も成績はトップクラスで、当時の愛称は[[アメリカ合衆国|米国]]の[[子役]]であった[[シャーリー・テンプル]]のような[[天然パーマ]]だった事から「'''テンプルちゃん'''」や<ref>歴代皇后125代総覧424頁5行目</ref>「'''ミッチ'''」「'''ミチ'''」<ref name="asahi19590412" />と呼ばれていた。
 
 
 
[[1957年]](昭和32年)[[聖心女子大学]]文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科[[英語]][[英文学]]専攻)を首席で卒業<ref>歴代皇后125代総覧424頁11行目</ref>。在学中はクラスの福祉委員(ウェルフェア・メンバー)委員長<ref>歴代皇后125代総覧424頁12行目</ref>、プレジデント(全学自治会会長)としても活動していた<ref>歴代皇后125代総覧424頁13行目</ref>。[[卒業式]]では、[[総代]]として答辞を読んだ<ref>歴代皇后125代総覧424頁14行目</ref>。自身は[[大学院]]進学も希望していたが、両親の意向もあり家庭に入る。クラブ活動では[[合唱]]部・英語劇クラブ・テニス部に所属していた<ref>歴代皇后125代総覧424頁15行目</ref>。テニスでは在学中に新進トーナメントに優勝して、[[関東地方|関東]]学生ランキングの第4位にランクインした<ref>歴代皇后125代総覧425頁1行目</ref>。昭和29年度([[1954年]]度)の[[成人の日]]記念の[[読売新聞社]]主催の感想文では2位に入選した。[[大学]]の[[卒業論文]]は、『ゴーズワージーのフォーサイト・クロニエル』([[:en:The Forsyte Saga|The Forsyte Chronicles]] by [[ジョン・ゴールズワージー|John Galsworthy]])さらに、[[ハーバード大学]]と[[オックスフォード大学]]の教科課程も修了した<ref>{{cite web|title=The commoners who married royalty|url=http://www.bbc.co.uk/news/uk-21741488|publisher=BBC|accessdate=11 March 2013}}</ref>。大学卒業後に[[フランス語]]の習得をしながら[[19世紀]]の[[児童文学]]の研究を続けていた<ref>歴代皇后125代総覧425頁5行目</ref>。なお、同大学の[[キャンパス]]は元来は[[久邇宮]]邸があり、後に自身の義母・姑となる[[香淳皇后]]が幼少期を過ごした地であり、自身の義父にあたる裕仁親王(後の[[昭和天皇]])との結婚の折にはこの地から宮中に向かったとされており、2代続けて[[皇后]]に縁のある大学であることになる。
 
 
 
同年8月、[[長野県]]の[[軽井沢]]会テニスコートで開催された[[テニス]]のトーナメント大会にて当時[[皇太子]]だった[[明仁|明仁親王]]と出会う。[[テニスコートの誓い]]にちなんだ「テニスコートの出会い」として知られる。その後もテニスを通して交際を深めたといわれる。明仁親王は正田美智子(当時)の[[写真]]を「女ともだち」と題して[[宮内庁]]職員の[[文化祭]]に出品したが、「[[皇太子妃]]には旧[[皇族]]・[[華族]]から選ばれるのが当然」と考えられていた時代であり、誰も彼女を「お妃候補」とは思わなかったようである。
 
 
 
[[1958年]](昭和33年)、[[ベルギー]]にて開催された「聖心世界同窓会」第1回世界会議の日本代表として出席し、[[欧米]]各国に訪問旅行。
 
 
 
同年11月27日、[[結婚]]が[[皇室会議]]において[[全会一致|満場一致]]で可決された。同日[[記者会見]]にて、[[記者]]から明仁親王の魅力について問われ「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました。」と回答。これは当時の[[流行語]]にもなった<ref>{{Harv|板垣|2006|p=22}}</ref>。また第一印象について「ご清潔な方」とした。明仁親王と美智子の巨大な写真が[[百貨店|デパート]]に飾られる・「美智子さまぬりえ」が発売される等の[[ミッチー・ブーム]]が起こる。
 
 
 
=== 入内への反発 ===
 
[[ファイル:Kuretake-Ryo.JPG|200px|サムネイル|左|1955年ごろの呉竹寮。]]
 
[[皇太子妃]]は「[[皇族]]([[臣籍降下]]後の[[旧皇族|旧宮家]])か[[五摂家]]([[伯爵]]以上)といった特定の旧[[華族]]」に属する女性から選ばれるのが習わしとされており、「[[平民]]から妃を迎える」ということが考えられなかった時代であり、[[1958年]](昭和33年)の正田美智子嬢入内は、後に自身の姑ともなる[[香淳皇后]]や、[[常磐会]]会長の[[松平信子]]、[[秩父宮妃勢津子]]、[[高松宮妃喜久子]]、[[柳原白蓮]]、その他の旧皇族・旧華族らに強く反対された<ref name=time>{{cite news|url=http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,892335-1,00.html |title=JAPAN: The Girl from Outside |publisher=''TIME'' |date=1959-03-23 |accessdate=2016-10-21}}</ref>。
 
 
 
特に、秩父宮妃勢津子の実母である松平信子は当時、宮内庁内で絶大な発言権と政治力を有しており、その権勢は時の皇后をも凌ぐといわれ、「影の昭和の女帝」または「昭和の妖怪」と恐れられていた。
 
 
 
『[[入江相政日記]]』によると、「松平信子が中心となって御婚儀反対を叫び、愛国団体をも動かした。」とあり、美智子の正家である正田家自体に圧力をかけていた。更には、美智子が何とか皇太子妃となり皇孫を出産できたものの、2人目の子を[[流産]]してしまった際には、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとはけしからぬ」などと自身から罵詈雑言を浴びせていた。
 
 
 
旧皇族[[久邇宮|久邇宮家]]出身で姑ともなる[[香淳皇后|皇后良子]](当時)は、夏に、[[静岡県]]・[[御殿場市|御殿場]]{{#tag:ref|通常は避暑地として使われた秩父宮家の別邸。|group = 注釈}}に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「''東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん''。」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えた。
 
 
 
しかし、11月の皇室会議では、猛反対をしていた秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。旧皇族の[[梨本伊都子]]は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記に、「''朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。''」と記している。ただ、この結婚に理解を示した自身の義父ともなる[[昭和天皇]]の意向もあり、伊都子は以後は表立って批判することはなくなった<ref>[[講談社]]『美智子さまと皇族たち』([[河原敏明]]・1994年)44項~46項</ref>。
 
 
 
また、入内に際し姑となった[[香淳皇后|皇后良子]]との間にも軋轢があった。皇室会議にて正式に皇太子妃となった美智子が、[[書道]]、[[和歌]]、[[英語]]、[[フランス語]]、礼儀作法、心得、[[宮中祭祀]]、宮中慣習、[[宮内庁|宮内庁制度]]などの皇室の知識や儀式、[[プロトコル]]([[外交儀礼]])やマナーなどを二か月半ほどの特訓で習得するいわゆる「お妃教育」の教室となる場所で一悶着があった。
 
 
 
皇居内の[[東御苑]]にある呉竹寮(現在では一般に公開されている)の利用を天皇が許可したため、ここを美智子の教室として使用するはずであったが、皇后がこれに反対したという。
 
 
 
元来、呉竹寮は四内親王([[東久邇成子|照宮成子内親王]]・[[鷹司和子|孝宮和子内親王]]・[[池田厚子|順宮厚子内親王]]・[[島津貴子|清宮貴子内親王]])が学齢前から住居として使い、傅育官(ふいくかん)によって育てられた場所であり、皇后にとっても思い出深い場所であった。
 
 
 
『入江相政日記』には「呉竹寮を使ふことを昨日お上はいいとおっしゃったのに、皇后さまはいけないとおっしゃった由。まだモヤモヤがあるらしい。」(昭和33年2月9日)と記されている。同年4月26日の同文献には、「東宮、同妃御参、両陛下と御会食。午後一寸散策、観瀑亭にあたりから元覆馬場(もとのおおいのばば)のあたりまで皇后様と妃殿下とお手をおつなぎになっていらっしゃるのを見上げた。」とあり、成婚パレード後は両者とも穏健妥当であった<ref>[[講談社]]『美智子さまと皇族たち』([[河原敏明]]・1994年)p.47,p.48</ref>。
 
 
 
=== 皇太子妃時代 ===
 
[[ファイル:Crown Prince & Princess & Emperor Showa & Empress Kojun wedding 1959-4.jpg|thumb|1959年(昭和34年)、朝見の儀に臨んだ[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]、皇太子同妃美智子]]
 
[[ファイル:乗鞍高原の白樺P8128189.jpg|サムネイル|お印に選ばれた[[シラカンバ|白樺]]]]
 
[[ファイル:Staatsbezoek Japans kroonprinselijk paar.jpg|thumb|1979年(昭和54年)10月、訪[[オランダ|蘭]]時に[[ベアトリクス (オランダ女王)|ベアトリクス女王]]夫妻と]]
 
[[ファイル:Yo-Yo Ma performs for President Reagan 1987.jpg|thumb|1987年(昭和62年)10月、訪[[アメリカ合衆国|米]]時に[[ロナルド・レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]夫妻と]]
 
[[1959年]](昭和34年)[[4月10日]]、皇太子明仁親王と結婚、[[明治]]以降初めての民間出身<ref group="注釈">[[士族]]以下の意。ただし[[徳川氏]]の遠祖[[新田義重]]の重臣である徳川郷郷主[[生田氏]]の家系であり、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]まで遡ると家格は決して低くない。</ref>の皇太子妃となる。同日の成婚パレードには、沿道に53万人もの市民が集まった<ref>『[[朝日新聞]]』2009年3月9日 {{Wayback | url = http://www.asahi.com/national/update/0304/OSK200903040064.html | title = 「ご成婚パレード「儀装馬車」展示 京都御所の特別公開で」 | date = 20090416064649 }}</ref>。お印は夫妻の出会いの場だった[[軽井沢]]にちなんで[[シラカバ|白樺]]とした<ref name="keizu">{{Cite web |url=http://www.asahi.com/special/koushitsu/keizu/ |title=皇室の系図-皇室とっておき |work=[[朝日新聞デジタル]] |publisher=[[朝日新聞社]] |accessdate=2016-01-29}}</ref>。
 
 
 
晴れがましいご成婚の[[パレード]]・民間での祝福ムードとは対照的に、[[貴賤結婚]]であることや選に漏れた他の候補者に北白川肇子など元皇族の令嬢がいたことなどの理由から、一部の[[皇族]]・女官に受け入れられず、元皇族・元華族の婦人らからもさまざまな非難を受けたとされる<ref name="itagaki26">{{Harv|板垣|2006|pp=26-33}}</ref>。美智子妃は1969年に、昭和天皇の侍従[[入江相政]]に対し「(香淳皇后は)[[平民]]出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるのか」と尋ねたという<ref>{{Harv|板垣|2006|p=49}}、『[[入江相政日記]]』1967年(昭和42年)11月13日。</ref>。
 
 
 
一方、もと内親王であり、美智子妃の義理の姉にあたる[[東久邇成子]]より自宅のホームパーティーに招かれるなど、好意的な旧皇族も存在した。またパレードの際にも暴漢が馬車を襲撃<ref group="注釈">午後2時半過ぎ、祝田橋付近で発生。犯人は長野県[[上伊那郡]]長谷村(現[[伊那市]])出身で[[長野県伊那北高等学校|県立伊那北高校]]卒業の19歳の浪人生。走って馬車に接近、一発投石した。石は外れたもののさらに馬車の幌部分に飛び乗り、護衛官に押さえつけられ引きずりおろされて警視庁[[丸の内警察署]]に逮捕された。この模様はそのままテレビで生中継された。犯人は[[東京都]][[練馬区]]の東京[[少年鑑別所]]に50日間拘留され、精神鑑定の結果、精神分裂症と診断され、[[未成年者]]であったこともあり保護観察処分となり釈放された。</ref>して取り押さえられる事件が起こった。
 
 
 
[[1960年]](昭和35年)[[2月23日]]に第一子・第一男子[[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]が誕生した。出産後、[[昭和天皇]]、[[香淳皇后]]より「ごくろうさまでした。しっかり、静養するように」とねぎらいの言葉をかけられた。また、浩宮徳仁の命名は昭和天皇が行った。親王の存在は美智子妃の心の支えとなった。美智子妃は当時、側近である黒木従達東宮侍従に「どのような時でも皇太子としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの」との言葉を語っている。同年[[9月22日]] - [[10月7日]]、[[幕末]]より数えての[[日米修好通商条約|日米修好]]百周年を記念し、[[アメリカ合衆国連邦政府]]より招待され訪米。[[ホワイトハウス]]にも招待された。この折、浩宮は出生後7か月となっていたが伴わず、側近に躾の方針を示したメモ・通称「ナルちゃん憲法」を与えて養育を委ねる。
 
 
 
[[1963年]](昭和38年)に前後し、週刊誌を中心に虚偽・報道協定違反の報道が相次いだ<ref>『朝日新聞』1963年3月23日「美智子妃お疲れのかげに‥興味本位の雑誌記事 “守られぬ皇室の人権”」</ref>。1963年3月4日に第二子懐妊が報じられたが、同年3月10日の香淳皇后の還暦祝いを欠席し、同11日に[[小山いと子]]が美智子妃の生い立ちを書いた、雑誌『平凡』連載の小説「美智子さま」の連載と単行本発行中止を宮内庁が[[マガジンハウス|平凡出版]]に申し入れ、連載は中止された<ref name="itagaki34">{{Harv|板垣|2006|pp=34-40}}</ref>。直後の3月22日に[[宮内庁病院]]に緊急入院、[[胞状奇胎]]と診断され翌23日の午後に[[流産]]の処置手術が行われた<ref name="itagaki34" />。全国紙各紙は美智子妃の不調を週刊誌報道や小説問題と関連付け、『平凡』ほか雑誌をバッシングしたが、胞状奇胎がストレスで起こることはなく、小説の内容は東宮御所筋から得ていたと小山は証言しており、対立する宮内庁側からの圧力とされる<ref name="itagaki34" />。このとき流産の件をある宮妃に責められることがあったため、その後も心身の疲労から体調が回復せず、同年4月より葉山御用邸にて約3か月間ひとりで静養する事態となった<ref name="itagaki41">{{Harv|板垣|2006|pp=41-49}}</ref>。7月8日から皇太子・浩宮とともに軽井沢で過ごした後、9月1日に帰京し、9月13日の[[第18回国民体育大会|山口国体]]から、段階的に公務に復帰した。
 
[[ファイル:031164 - Crown Prince and Empress meet teams Tokyo Games - 3b - Scan.jpg|サムネイル|左|[[1964年]](昭和39年)皇太子明仁親王と共に [[前東京オリンピック|東京オリンピック]]にて]]
 
[[1965年]](昭和40年)[[11月30日]]、第二子・第二男子[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]誕生。
 
 
 
[[1969年]](昭和44年)[[4月18日]]、皇太子明仁親王との第三子・第一女子[[黒田清子|紀宮清子内親王]]誕生。苦労の多い美智子妃にとって、唯一の娘である紀宮の存在は大きな心の支えとなったとされる。1977年(昭和52年)から10年間は、毎年2人で陵墓・史跡訪問を含む小旅行を行なっていた。
 
 
 
これら子女の出産にあたり、皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、[[乳母]]制度、傅育官制度を廃止した<ref group="注釈">[[大正天皇]]・[[貞明皇后]]の時代より改革が行われ、続く[[昭和天皇]]・[[香淳皇后]]も[[女官]]制度廃止・乳母は置いたがほぼ[[母乳]]で育てる・内親王を学齢まで手元で育てる等を行った。明仁親王夫妻の改革もこれに続くものである(1977年(昭和52年):昭和天皇・香淳皇后への那須御用邸での記者会見より)。</ref>。
 
 
 
[[1984年]](昭和59年)、[[銀婚式]]となる結婚25周年の会見で「夫婦としてお互いに何点を付けるか」との問いに対し、皇太子が「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」と答えたのを聞いて、美智子妃は「私も差し上げるのなら、お点ではなく感謝状を」と答え、同席していた記者たちからも感嘆の声があがった。
 
 
 
[[1986年]](昭和61年)3月、[[子宮筋腫]]の[[手術]]を受ける。このため同時期に予定されていた訪米は翌年に延期、訪[[大韓民国|韓]]は中止になった。手術の際も夫・皇太子の公務の妨げとなることを好まず、中止の判断は極限まで下されなかった。退院の際、[[宮内庁病院]]玄関前で皇太子の胸に顔をうずめる姿がみられた。
 
 
 
晩年の昭和天皇一家の写真にて、嫁・美智子妃が腰を悪くしていた姑・香淳皇后の体を支えている写真が複数公表されている。[[秩父宮妃勢津子]]とは共に[[マラソン]]を観戦した姿も目撃、報道された<ref>『[[FOCUS]]』昭和57年12月3日号</ref>。また次男の文仁親王と長女の清子内親王は[[高松宮妃喜久子]]と関係が深く、孫のように可愛がられていたといわれる。
 
 
 
=== 皇后時代 ===
 
[[ファイル:Laura Bush Asia Trip 2002 01.jpg|thumb|180px|2002年(平成14年)[[1月]]、[[アメリカ合衆国|米国]][[ジョージ・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]夫妻と会談]]
 
[[ファイル:Akihito 090710-1600a.jpg|thumb|180px|2009年(平成21年)7月10日、[[カナダ]]訪問時([[リッチモンド・オリンピックオーバル]]、[[ブリティッシュコロンビア州]][[リッチモンド (ブリティッシュコロンビア州)|リッチモンド]])]]
 
[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]、明仁親王の即位に伴い皇后になる。即位後の記者会見においては、皇太子となり東宮仮御所にて独立する徳仁親王について「時たまでよろしいから、[[ヴィオラ]]を聴かせにいらしてくださると、うれしいと思います」とのコメントを発している。
 
 
 
[[1993年]](平成5年)10月20日、満59歳の[[誕生日]]に[[赤坂御所]]にて倒れる。同年の『[[宝島30]]』8月号には「皇室の危機-『菊のカーテン』の内側からの証言」として、「宮内庁職員・大内糺」を称する人物による記事が掲載されていた<ref>{{Cite book |和書 |author =大内糺 |year=1993 |month=11 |title=「皇室の危機」論争 |publisher=[[宝島社]] |editor =宝島30編集部 |pages=5-34|isbn=4-7966-0714-5 |chapter =皇室の危機-「菊のカーテン」の内側からの証言 }}</ref><ref name="okotoba">{{Cite book |和書 |author=[[島田雅彦]] |year=2005 |title=おことば 戦後皇室語録 |pages=192-193 |publisher=[[新潮社]] |isbn=4-10-362207-5 }}</ref>。[[島田雅彦]]のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、今上天皇夫妻を[[昭和天皇]]に比して華美で[[西洋]]風な生活を送り、[[神道]]よりも[[キリスト教]]に親和性が高く(元々美智子皇后が[[ミッション系大学]]の出でもあることから)、国民の望む[[皇室]]の主としてふさわしくないという批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも皇后に対するバッシング記事が掲載された<ref name="okotoba" /><ref name="itagaki196">{{Harv|板垣|2006|pp=196-199}}</ref>。宮中の最高権力者となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる<ref name="okotoba" />。このため皇后は精神的な苦痛から[[失声症]]となった<ref name="okotoba" /><ref name="itagaki196" />。これに対し、[[宝島社]]および[[文藝春秋]]の関係者宅に何者かが銃弾を撃ち込む騒動が起き、このショックと皇后が[[宮中祭祀]]を熱心に行ったことで事態は沈静化したが、前代とは違う形の[[菊タブー]]が明らかになったとされる<ref name="okotoba" />。翌年に回復し「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを発表している<ref name="itagaki196" />。また回復時の第一声は「もう大丈夫、私はピュリファイ(purify、浄化)されました」であった。
 
 
 
[[1994年]](平成6年)10月20日、[[還暦]]を迎える。
 
 
 
[[1995年]](平成7年)1月31日、天皇と共に夫妻で[[阪神・淡路大震災]]後の神戸を見舞い(行幸啓)、[[兵庫県]][[神戸市]][[長田区]]の菅原市場にその日[[皇居]]から自ら切って持参した黄色と白の[[スイセン属|水仙]]を供えた。この水仙は関係者によって永久保存処置が取られ、同市[[布引ハーブ園]]内で展示されている。被災地の避難所を訪問し、被災者一人一人に声をかけ、時には手を握り、時には抱きしめて被災者の労をねぎらう様子が大きな反響を呼ぶ。また、一人の病身の被災者のために自ら布団を敷いた。
 
 
 
[[1998年]](平成10年)、[[インド]]・[[ニューデリー]]で開催された「[[国際児童図書評議会]] (IBBY)」に際して[[ビデオ]]による講演を行い、[[日本神話]]に触れ、[[ヤマトタケル|日本武尊]]の妃[[弟橘媛|弟橘比売]]の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来の胸中を語った。[[2002年]](平成14年)、IBBYの本部がある[[スイス]]・[[バーゼル]]で開催されたIBBY50周年記念大会に、IBBY[[名誉総裁]]として出席し祝辞を述べた。これが唯一の単独での海外公務となっている。
 
 
 
[[2002年]](平成14年)[[10月20日]]、皇后の満68歳の誕生日に際し宮内記者会の質問に対する文書ご回答で次のように[[北朝鮮による日本人拉致問題]]についてコメントした。「[[小泉純一郎|小泉]][[内閣総理大臣|総理]]の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみと共に、無念さを覚えます。何故私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることが出来なかったかとの思いを消すことができません。今回の帰国者と家族との再会の喜びを思うにつけ、今回帰ることのできなかった人々の家族の気持ちは察するにあまりあり、その一入(ひとしお)の淋しさを思います<ref name="h14sk">[[宮内庁]] 2002年10月20日[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h14sk.html 「皇后陛下お誕生日に際し(平成14年)」]</ref>」。
 
 
 
[[2005年]](平成17年)[[10月20日]]、[[黒田清子|清子内親王]]降嫁前の記者会見では子供たちに対する思いを語り、[[皇太子徳仁親王|徳仁親王]]が優しく、よく励ましの言葉をかけてくれたこと、[[秋篠宮文仁親王|文仁親王]]が細心な心配りを忘れない一方で自分が真実を見失わないようにも注意していたということ、清子内親王誕生の折には曇りなき晴天に朝から吉兆を感じたこと、清子内親王のおおらかでのどかな性格などを回想しつつ語った。婚礼の朝には、民間へ降嫁する愛娘を気遣い、抱きしめて励ましたという<ref>『[[読売新聞]]』2005年11月16日[http://www.yomiuri.co.jp/features/impr/eng/im20051116_06.htm 「嫁ぐ朝 強く抱きしめ『大丈夫よ』皇后さま」]{{リンク切れ|date=2015年4月}}</ref>。
 
 
 
[[2007年]](平成19年)、体調を崩し腸壁から出血。[[ストレス (生体)|ストレス]]性のものと診断された。通常の公務と並行して療養した結果、病状は回復したと発表された。同年5月21日からは、天皇とともに[[ヨーロッパ|欧州]]訪問の途についている。8月8日には[[御用邸|須崎御用邸]]での静養を中止し、天皇とともに[[新潟県中越沖地震]]の被災地を訪問。
 
 
 
「国民に開かれた皇室の想起者」という評価もされるが、一方で数々の発言・行動に見られるように「嫁いだ家の[[伝統]]を守る」ことも大切にしている。また訪問相手・周囲で仕える者に対する気遣いを常に怠らず、[[慈悲]]深い姿は多くの人々に感銘を与えている。
 
[[ファイル:Emperor Akihito and Empress Michiko 20090715 1.jpg|サムネイル|左|[[2009年]](平成21年)[[7月15日]]、米国[[ハワイ州|ハワイ]]・[[ホノルル]]の[[第二次世界大戦]][[太平洋戦争|太平洋戦線]]戦没者慰霊碑に礼をして。]]
 
しかしながら、[[2008年]](平成20年)で皇后も74歳の高齢となり、健康上の理由から公務軽減が検討された<ref>宮内庁、{{Wayback | url = http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/gokenkou-h200324.html | title = 宮中三殿祭祀と両陛下のご健康問題・天皇皇后両陛下のご健康問題について | date = 20081020222328 }}</ref>。
 
 
 
[[2011年]](平成23年)3月30日、 天皇とともに夫妻で、[[東北地方太平洋沖地震]]による[[東日本大震災]]の被災者約290人が避難している[[東京武道館]]([[東京都]][[足立区]])を訪問し(行幸啓)、膝をつきながら、一人一人を親しく激励した。
 
 
 
[[2015年]](平成27年)7月29日、皇后は6月末ごろから胸の痛みを訴え、その頻度が週に数回程度から、徐々に増えてきたため、同月24日に24時間の心電図検査を受けた。その結果、心臓の筋肉に血流が不足する心筋虚血を疑う所見がみられたという。[[宮内庁]]は29日、心筋虚血の疑いがあるため、同年8月9日に、[[東京大学医学部附属病院|東京大学病院]]で精密検査を受診すると発表した。同病院で、冠動脈の状態をCT検査で確認し、治療を受け、以後体調は安定している<ref>『バザードラボ』2015年07月30日 09時39分[http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail.php?no=10553 「美智子皇后 心筋虚血の疑いで精密検査へ」]</ref>
 
 
 
=== 今上天皇退位後 ===
 
[[2017年]][[6月9日]]に[[天皇の退位等に関する皇室典範特例法|退位特例法]]が成立した。これにより今上天皇の退位が実現すれば、同法に基づき称号は「'''[[上皇后]]'''(じょうこうごう)」となるとされているが、歴史的に用いられてきた「'''[[皇太后]]'''(こうたいごう)」(あるいはその略称である「'''太后'''(たいごう)」)の称号を用いるべきとする反対意見もある。
 
 
 
== 年譜 ==
 
* [[1934年]](昭和9年)10月20日、[[東京府]][[東京市]][[本郷区]]の[[東京大学医学部附属病院|東京帝国大学医学部附属病院]]にて誕生。
 
* [[1939年]](昭和14年)、[[大和郷幼稚園]]に入園([[文京区]][[本駒込]])。
 
* 1939年(昭和14年)、[[雙葉学園]][[雙葉小学校附属幼稚園]]に編入園([[千代田区]][[六番町 (千代田区)|六番町]])。
 
* [[1941年]](昭和16年)、[[雙葉学園]][[雙葉小学校]]に入学。
 
* [[1944年]](昭和19年)、乃木高等女学校附属小学校(現:[[湘南白百合学園小学校]])に編入学([[神奈川県]][[藤沢市]])。
 
**館林南国民学校(現:館林市立第二小学校)に編入学。
 
* [[1945年]](昭和20年)5月、軽井沢第一国民学校(現:軽井沢町立東部小学校)に編入学。
 
* [[1947年]](昭和22年)3月、雙葉学園雙葉小学校を卒業。
 
* [[1953年]](昭和28年)3月、[[聖心女子学院中等科]]を卒業
 
* [[1955年]](昭和30年)3月、[[聖心女子学院高等科]]を卒業
 
* [[1957年]](昭和32年)、[[聖心女子大学]]文学部外国語外国文学科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業。
 
*[[1959年]](昭和34年)[[4月10日]]、[[皇太子明仁親王]]と成婚([[皇太子妃]]冊立)。
 
*[[1960年]](昭和35年)[[2月23日]]、[[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]を出産。
 
*[[1965年]](昭和40年)[[11月30日]]、[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]を出産。
 
*[[1969年]](昭和44年)[[4月18日]]、[[黒田清子|紀宮清子内親王]]を出産。
 
*[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]、皇后冊立(立后)。
 
== 外国訪問 ==
 
=== 単独訪問 ===
 
[[ファイル:Akihito and Michiko at Andrews Air Force Base 1987.jpg|サムネイル|[[1987年]](昭和62年)今上天皇と共に アメリカ・[[メリーランド州]]、[[アンドルーズ空軍基地]]にて]]
 
* [[2002年]](平成14年)[[9月28日]] - [[10月3日]]、[[スイス]]旅行。
 
** [[国際児童図書評議会]] (IBBY)、スイス・[[バーゼル=シュタット準州]]州政府からの招待により、同準州州都でIBBYの本部がある[[バーゼル]]で開催される「国際児童図書評議会創立50周年記念大会」に同会の[[名誉総裁]]として出席のため。
 
* [[2014年]](平成26年)[[12月11日]] - [[12月13日]]、[[ベルギー]]訪問。
 
** 元・[[ベルギー国王]][[ボードゥアン1世 (ベルギー王)|ボードゥアン]]の王妃である[[ファビオラ・デ・モラ・イ・アラゴン|ファビオラ]]が12月5日に死去し、12月12日に首都[[ブリュッセル]]行われる葬儀に参列するため<ref>{{Cite news|url=http://www.asahi.com/articles/ASGDD5R6HGDDUHBI025.html|title=皇后さま、ベルギー元王妃の国葬に参列 ブリュッセル|date=2014-12-12|accessdate=2014-12-22|newspaper=朝日新聞}}</ref>。
 
 
 
=== 今上天皇との訪問 ===
 
{| class="wikitable collapsible collapsed" style="font-size:80%"
 
|+親王時の外国訪問 <ref>『皇族 天皇家の近現代史』 小田部雄次 中公新書 2011</ref>
 
|-
 
!style="width:4em;color:#fff; background-color:#000080" |年 !!style="width:4em;color:#fff; background-color:#000080" | 出国!!style="width:4em;color:#fff; background-color:#000080" | 帰国!!style="width:22em;color:#fff;background-color:#000080"|訪問地!!style="width:4em;color:#fff; background-color:#000080"| 同行!!style="width:13em;color:#fff; background-color:#000080"|備考
 
|-
 
| 1953||3月30日||10月12日||{{GBR}}({{USA1912}}・{{CAN1921}}・{{FRA1852}}・{{ESP1945}}・{{MCO}}・{{SWI}}など13国に立寄り)||||英女王戴冠式参列、天皇[[代理|名代]]
 
|-
 
|rowspan="2" | 1960||9月22日||10月7日||{{USA}}||皇太子妃||日米修好100年記念
 
|-
 
| 11月12日||12月9日||{{IRN}}・{{ETH}}・{{IND}}・{{NEP}}({{THA}}立寄り)||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| rowspan="2" |1962||1月22日||2月10日||{{PAK}}・{{IDN}}||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| 11月5日||11月10日||{{PHI}}||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| rowspan="2" |1964||5月10日||5月17日||{{MEX}}({{USA}}立寄り)||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| 12月14日||12月21日||{{THA}}||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| 1967||5月9日||5月31日||{{PER}}・{{ARG}}・{{BRA1960}}||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| 1970||2月19日||2月28日||{{MYS}}(天皇名代)・{{SIN}}||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| 1971||6月3日||6月12日||{{AFG}}({{IRN}}・{{THA}}立寄り)||皇太子妃||国際親善(名代)
 
|-
 
| rowspan="2" |1973||5月6日||5月23日||{{AUS}}・{{NZL}}||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
|10月11日||10月22日||{{ESP1945}}({{USA}}・{{BEL}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| 1975||2月20日||2月28日||{{NEP}}({{BGD}}・{{IND}}立寄り)||皇太子妃||ネパール国王戴冠式参列
 
|-
 
| 1976||6月8日||6月25日||{{JOR}}・{{YUG1945}}(名代)・{{GBR}}({{THA}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| 1978||6月12日||6月27日||{{BRA1968}}・{{PRY}}({{USA}}立寄り)||皇太子妃||ブラジル移住70周年記念式典参列
 
|-
 
| 1979||10月5日||10月14日||{{ROU}}・{{BGR}}(名代)({{NED}}・{{BEL}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| rowspan="2" |1981||2月27日||3月7日||{{KSA}}・{{LKA}}({{THA}}・{{SGP}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
|7月26日||8月2日||{{GBR}}({{BEL}}立寄り)||皇太子妃||英皇太子結婚参列 差遣
 
|-
 
| 1983||3月10日||3月25日||{{ZMB}}・{{TZA}}・{{KEN}}(名代)({{LUX}}・{{BEL}}・{{THA}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| 1984||2月25日||3月8日||{{ZR1967}}・{{SEN}}(名代)({{BEL}}・{{GBR}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| rowspan="2" |1985||2月23日||3月9日||{{ESP}}・{{IRL}}(名代)({{POL1952}}・{{GBR}}立寄り)||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| 6月1日||6月15日||{{SWE}}・{{DEN}}・{{NOR}}(名代)・{{FIN}}||皇太子妃||国際親善
 
|-
 
| 1987||10月3日||10月10日||{{USA}}||皇太子妃||国際親善
 
|}
 
 
 
{{第125代天皇外国訪問}}
 
 
 
== 皇子孫 ==
 
 
 
=== 皇子女 ===
 
[[第125代今上天皇]]との間に3子がいる。
 
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
 
![[諱]]
 
!読み
 
!生年
 
![[御称号]]
 
![[続柄]]
 
!現在
 
|-
 
|[[皇太子徳仁親王|徳仁親王]]
 
|なるひと
 
|style="text-align:right" |昭和35年([[1960年]])<br>[[2月23日]]({{年数|1960|2|23}}歳)
 
|<sub>ひろのみや</sub><br>浩宮
 
|[[皇子|第1皇男子]]
 
|[[皇太子]]
 
|-
 
|[[秋篠宮文仁親王|文仁親王]]
 
|ふみひと
 
|style="text-align:right" |昭和40年([[1965年]])<br>[[11月30日]]({{年数|1965|11|30}}歳)
 
|<sub>あやのみや</sub><br>礼宮
 
|第2皇男子
 
|[[秋篠宮|秋篠宮家]]当主
 
|-
 
|[[黒田清子|清子内親王]]
 
|さやこ
 
|style="text-align:right" |昭和44年([[1969年]])<br>[[4月18日]]({{年数|1969|4|18}}歳)
 
|<sub>のりのみや</sub><br>紀宮
 
|第1[[皇女]]
 
|[[黒田慶樹|黒田家]]に[[皇籍離脱]]
 
|}
 
 
 
=== 皇孫 ===
 
{| class="wikitable" style="font-size:95%"
 
![[諱]]
 
!読み
 
!生年
 
![[御称号]]
 
![[続柄]]
 
|-
 
|[[愛子内親王]]
 
|あいこ
 
|style="text-align:right" |平成13年([[2001年]])<br>[[12月1日]]({{年数|2001|12|1}}歳)
 
|<sub>としのみや</sub><br>敬宮
 
|[[皇太子徳仁親王]]第1女子
 
|-
 
|[[眞子内親王]]
 
|まこ
 
|style="text-align:right" |平成3年([[1991年]])<br>[[10月23日]]({{年数|1991|10|23}}歳)
 
!
 
|[[秋篠宮文仁親王]]第1女子
 
|-
 
|[[佳子内親王]]
 
|かこ
 
|style="text-align:right" |平成6年([[1994年]])<br>[[12月29日]]({{年数|1994|12|29}}歳)
 
!
 
|秋篠宮文仁親王第2女子
 
|-
 
|[[悠仁親王]]
 
|ひさひと
 
|style="text-align:right" |平成18年([[2006年]])<br>[[9月6日]]({{年数|2006|9|6}}歳)
 
!
 
|秋篠宮文仁親王第1男子
 
|}
 
<small>※ 順序は[[皇位継承順位|皇位継承の順序]]に準ずる。</small><ref>男女関係なく[[直系卑属|直系]]優先・兄弟姉妹間[[長子]]優先</ref>
 
[[ファイル:Kinjyoutennou keizu.png|thumb|left|200px|天皇一家と諸王]]
 
{{-}}
 
 
 
== 生家・正田家 ==
 
[[ファイル:Syouda Family.jpg|320px|サムネイル|正田貞一郎の家族<br />前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ、四男・順四郎、後列右から三男・[[正田英三郎|英三郎]]、[[長男]]・明一郎、義弟・卓治、二男・[[正田建次郎|建次郎]]<ref>[http://www.corbisimages.com/stock-photo/rights-managed/U1173258/michiko-shoda-and-her-family "Michiko Shoda and Her Family"] ''Corbis Images''. "In the picture are (left to right), front row, Mrs. Fumi Shoda, her mother; Michiko; Telichiro, her grandfather; Emiko, her younger sister; and Hidesaburo Shoda, her father. Standing in back are (left), Osamu, a younger brother; and Iwao, an elder brother. The engagement of the Crown Prince to a commoner breaks more than 2,000 years of Japanese tradition. November 27, 1958."</ref>]]
 
 
 
* 高祖父:'''[[正田文右衛門 (3代)|文右衛門]]''' - [[実業家]]・[[質屋]]経営者・米穀業の後の[[正田醤油]][[株式会社 (日本)|株式会社]]創業者
 
* 曾祖父:'''作次郎''' - 輸入業者・[[横浜市]]の外国米輸送者
 
* 曾祖母:'''長幸''' - [[代官|代官家]]出身・長家の長女
 
* 祖父:'''[[正田貞一郎|貞一郎]]''' - [[正五位]]勲三等・[[日清製粉グループ本社|日清製粉]]創業者、[[貴族院]]議員
 
* 祖母:'''きぬ''' - 文右衛門の長女
 
* 父:'''[[正田英三郎|英三郎]]''' - 実業家・日清製粉[[名誉会長]]
 
* 母:'''富美子''' - 佐賀の旧家・副島家出身、中支那振興会社常務理事 副島綱雄の長女、[[上海共同租界|英国租界]]〈現・[[中国]] [[上海]]〉生まれ
 
* 兄:'''巌''' - [[日本銀行]]監事、[[ドイツ]] [[ベルリン]]生まれ
 
* 妹:'''恵美子''' - [[昭和電工]]専務、[[日本体育協会]]会長[[安西孝之]]夫人
 
* 妹:'''祐子''' - [[ニチロ|日魯漁業]]取締役、[[一橋大学]]教授、[[三菱銀行]]行員脇村禮次郎夫人
 
* 弟:'''[[正田修|修]]''' - 実業家・日清製粉グループ本社取締役会長、東武鉄道監査役、[[花王]]取締役。夫人は[[華族]]・[[野津道貫]][[侯爵]]の孫娘
 
* 叔父:'''[[正田建次郎|建次郎]]''' - 数学者・[[大阪大学]]6代総長、[[武蔵大学]]学長、[[勲一等瑞宝章]]<ref>{{cite web|url=http://www.osaka-u.ac.jp/eng/about/history.html|title=History|accessdate=|publisher=University of Osaka|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090302001539/http://www.osaka-u.ac.jp/eng/about/history.html|archivedate=2 March 2009|deadlinkdate=2018-4-16|deadurl=yes}}</ref>
 
* 叔父:'''順四郎''' - 実業家・[[日本農産工業]][[社長]]、[[1945年]]([[昭和]]20年)[[5月]]の[[東京大空襲]]で死亡
 
* 叔父:'''篤五郎''' - 学者・[[東京大学]][[理学部]]名誉教授
 
* 従兄:'''[[正田彬|彬]]''' - 正田建次郎長男、[[慶應義塾大学]][[名誉教授]]、[[上智大学]]教授、[[公正取引委員会]]顧問
 
*従弟:'''晋一郎''' - [[東北大学]][[工学部]]助教授、東北大学大学院工学研究科教授、[[日本化学会]]東北支部幹事長、[[高分子学会]]東北支部理事
 
=== 系譜 ===
 
*『正田貞一郎小伝』9 - 21頁によると、
 
**「[[徳川氏|徳川家]]の[[菩提寺|菩提所]]である[[群馬県]][[新田郡]][[世良田長楽寺]]の伝えるところによれば、正田家の祖先は[[源義重|新田義重]]の[[武士|家臣]]生田隼人<ref group="注釈" name="toshu">重幸。生田隼人は当主の代々名。</ref>となっている。[[天正]]年間、生田義豊は[[徳川家康]]に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。
 
** 後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って[[商人]]となり、これが館林における正田家の始まりである。それは、[[延享]]、[[寛政]]の頃といわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを[[襲名]]した。
 
** 正田家は代々「米文」の[[暖簾]]のもとに[[米問屋]]を家業とし、上州[[館林藩|館林]]および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は[[江戸]]はいうまでもなく、[[大阪]]方面まで聞こえていた。[[弘化]]の頃([[1844年]] - [[1847年]])には[[名主]]の職にあり、[[名字帯刀]]を許されていた。
 
** [[文政]]元年([[1818年]])7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。文右衛門は[[明治]]6年([[1873年]])[[米問屋|米穀商]]を辞め、[[醤油]][[醸造業]]を始めた。」という。
 
* [[神一行]] 『閨閥 <small>改訂新版</small> <small>特権階級の盛衰の系譜</small>』([[角川書店]]、[[2002年]])385-386頁によると、
 
** 「そもそも正田家のルーツは[[群馬県]]館林の在。“開かれた皇室”を実現すべく、皇太子妃を選ぶにあたって尽力した[[小泉信三]]は、正田家を三百年前までさかのぼって調べたという。
 
** 郷土史家によれば“正田家の祖先は[[源義家]]の孫、[[源義重|新田義重]]の重臣、生田隼人<ref group="注釈" name="toshu"/>までいきあたる”というが、入手した文献で確認できるのは、300年前の庄田六三郎([[天和 (日本)|天和]]2年没)からである。
 
** この六三郎が館林における正田家の始祖である。四代を経て正田文右衛門という人物が登場し、庄田を正田にあらため以後代々、正田家の当主は文右衛門を[[襲名]]するに至っている。[[江戸時代]]は“米文”の屋号で代々[[米問屋]]を営んでいたようで、[[江戸]]深川や[[大阪]]堂島の[[米相場]]をうごかす、近郊きっての豪商だったと伝えられる。大繁盛した[[米問屋]]であったが、[[明治]]6年、[[正田英三郎]]の曾祖父にあたる三代目文右衛門は、突然家業をやめ、“亀甲正”という商号で新しく[[醤油]][[醸造業]]を始めた。」という。
 
{{皇太子徳仁親王の系譜}}
 
<pre>
 
 
 
(三代)
 
正田文右衛門━┳━正田文右衛門
 
       ┃              ┏━正田明一郎
 
       ┃              ┣━はる
 
       ┗━正田作次郎━━正田貞一郎 ┃
 
                  ┃   ┃
 
                  ┃   ┃
 
                  ┣━━━╋━正田建次郎
 
                  ┃   ┃  ┣━━━━正田彬
 
                  ┃   ┃
 
                 きぬ   ┃
 
       (五代目・正田文右衛門の長女)┣━勅子
 
                      ┣━正田英三郎
 
                      ┃  ┣━━┳━正田巌
 
                      ┃ 冨美子 ┣━美智子
 
                      ┃     ┣━恵美子
 
                      ┣━祐子  ┗━正田修
 
                      ┣━正田順四郎
 
                      ┣━正田篤五郎
 
                      ┗━和子
 
</pre>
 
 
 
=== 正田邸 ===
 
[[ファイル:Shoda Mansion in 1958.jpg|200px|サムネイル|左|[[1958年]](昭和33年)4月10日の正田家一族と正田邸]]
 
[[ファイル:NemunokinoniwaPark Gate.JPG|180px|サムネイル|右|旧正田邸跡地の公園[[ねむの木の庭]]。(2007年)]]
 
皇后が家族と共に、出生から結婚までの半生を過ごした正田邸は、昭和初期に皇后の父である正田英三郎が構え、[[清水建設|清水組]]によって建設された洋館である。竣工当時は、比較的シンプルなデザインであったが、重層的な増築により、屋根などの装飾が複雑に重なり、天窓などの[[モダニズム建築]]の要素も加えられた。近世イギリスの[[チューダー様式|テューダー朝形式]]の英国風の屋根や、当時流行した木組みを表面に見せる北欧の[[ハーフティンバー様式]]のデザインは典型的な上流邸宅しても建設された。邸内は客室兼書斎の中央に[[暖炉|マントルピース]]が備わっており、居間には[[シャンデリア]]などもあり、和室なども存在した<ref>『天皇陛下と皇后美智子さま 至高の愛の物語』([[ハースト婦人画報社]]、[[2012年]])</ref>。
 
 
 
約70年間保存されてきた貴重な建造物であったが、[[2003年]](平成15年)3月に老朽化を理由に解体された。[[2004年]](平成16年)8月26日に、「旧正田邸跡地」「皇后美智子の生家跡」とされ、後に自由公園である[[ねむの木の庭]]が建設された。現在では、公園用地として[[品川区]]が運営している。公園名の由来は、皇后が[[聖心女子高等学校]]時代に作った詩である「ねむの木の子守歌」にちなんで名付けられた。旧正田邸の門扉を模した正門、正田邸にあった庭石などがあり、暖炉の煙突をモチーフにしたガス灯などが配されている。園内には、皇后が[[歌会始]]で詠んだ[[やまぼうし]]、[[ネムノキ|ねむの木]]、[[ライラック]]や、皇后の[[お印]]である[[シラカンバ|白樺]]などが植えられている。また、皇太子妃時代に、イギリスから贈られた薔薇[[プリンセス・ミチコ]]も、初夏と秋に咲いている。
 
 
 
{{clearleft}}
 
== 栄典 ==
 
=== 日本 ===
 
* [[宝冠章|宝冠大綬章]](勲一等宝冠章) - [[File:JPN Hokan-sho 1Class BAR.svg|55px]]<ref>{{cite web|url=http://1.bp.blogspot.com/_dHMUkWjxiWM/TVGPQPDBS4I/AAAAAAAAJPY/g2cesldsKTM/s1600/empress.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=1.bp.blogspot.com |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://sohanews2.vcmedia.vn/2013/corbis-u1184325-1384241314928.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=Sohanews2.vcmedia.vn |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/e3/28/ca/e328ca70ead9fbfbd46259486c7f926f.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=S-media-cache-ak0.pinimg.com|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://noticiasnippon.jp/wp-content/uploads/2014/04/parejaimperial.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=Noticiasnippon.jp|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.kunaicho.go.jp/activity/activity/01/img/goseiso.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=Kunaicho.go.jp|accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
 
 
=== 外国 ===
 
* {{Flag|Austria}}: オーストリア共和国勲章 - [[ファイル:AUT Honour for Services to the Republic of Austria - 1st Class BAR.png|55px]]<ref name="AUT1298">{{cite web | url = http://www.parlament.gv.at/PAKT/VHG/XXIV/AB/AB_10542/imfname_251156.pdf | title = Reply to a parliamentary question about the Decoration of Honour | language = German | page=1298 |trans-title=| format = PDF | accessdate = 1 November 2012 }}</ref>
 
* {{Flag|Belgium}}: レオポルド勲章 - [[ファイル:Grand Crest Ordre de Leopold.png|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.gettyimages.ae/detail/news-photo/the-belgian-king-albert-ii-and-queen-paola-and-their-eldest-news-photo/173523009 |title=The Belgian King Albert II (L) and Queen Paola (2ndL) and their eldest son, crown Prince Philippe of Belgium (C) are welcomed by Japanese Empress Michiko and Emperor Akihito, at the Imperial Palace... Pictures |publisher=Getty Images |date=1996-10-22 |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://blog-imgs-62.fc2.com/m/o/o/moonnight467719/1aef7df4408c1b36b3879d95a38f7eb9.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=Blog-imgs-62.fc2.com|accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Denmark}}: エレファント勲章 - [[File:Orderelefant ribbon.png|55px]]<ref>[https://archive.is/20121217232134/https://www.borger.dk/foa/Sider/Default.aspx?fk=26&foaid=10171253&paid=]  </ref><ref>{{cite web|url=http://blog-imgs-54.fc2.com/t/o/r/toriton/qm1316968036103.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=Blog-imgs-54.fc2.com|accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Ethiopia}}: シバの女王勲章 - [[File:Order of The Queen of Sheba (Ethiopia) ribbon.gif|55px]]<ref>{{cite web|url=http://enjoy.eastday.com/images/thumbnailimg/month_1608/201608260836324707.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=Enjoy.eastday.com |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://blog-imgs-71-origin.fc2.com/m/a/s/masakosamalove/20150426221023051.jpg |title=Archived copy |accessdate=2016-10-02 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20161003215241/http://blog-imgs-71-origin.fc2.com/m/a/s/masakosamalove/20150426221023051.jpg |archivedate=3 October 2016 |df=dmy }}</ref>
 
* {{Flag|Germany}}: [[ドイツ連邦共和国功労勲章]] - [[File:GER Bundesverdienstkreuz 9 Sond des Grosskreuzes.svg|55px]]
 
* {{Flag|Lithuania}}: 大公ヴィータウタス勲章 - [[File:Order of Vytautas Commanders Grand Cross Ribbon.jpg|55px]]
 
* {{Flag|Luxembourg}}: ナッサウ家金獅子勲章 - [[File:Ord.Lion.Nassau.jpg|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.theroyalforums.com/forums/attachment.php?attachmentid=173647&stc=1&thumb=1&d=1418863129 |title=Photographic image |website=Theroyalforums.com |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Malaysia}}: ラム・クラウン勲章 - [[File:MY Darjah Utama Seri Mahkota Negara (Crown of the Realm) - DMN.svg|55px]]
 
* {{Flag|Nepal}}:
 
** オヤイランニャ勲章 - [[File:Ord.Rajanya.Nepal-Ribbon.gif|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.np.emb-japan.go.jp/history/chrono.html |title=Embassy of Japan in Nepal |publisher=Np.emb-japan.go.jp |date= |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
** ビレンドラ・ビール・ビクラム・シャハメダル<ref>{{cite web|url=http://www.omsa.org/files/jomsa_arch/Splits/1988/153251_JOMSA_Vol39_12_19.pdf |format=PDF |title=NEPAL : Order of Ojaswi Rajanya |website=Omsa.org |accessdate=2016-10-21}}
 
</ref>
 
* {{Flag|Netherlands}}: オランダライオン勲章 - [[File:NLD Order of the Dutch Lion - Grand Cross BAR.png|55px]]<ref>{{cite web|url=http://c7.alamy.com/comp/E9KTGF/tokyo-japan-29th-oct-2014-japanese-empress-michiko-during-a-state-E9KTGF.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=C7.alamy.com|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://static3.volkskrant.nl/static/photo/2012/9/7/7/album_large_1067182.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=Static3.volkskrant.nl|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://c7.alamy.com/comp/E9KTEA/tokyo-japan-29th-oct-2014-japanese-empress-michiko-during-a-state-E9KTEA.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=C7.alamy.com|accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Norway}}: [[聖オーラヴ勲章]] - [[File:St Olavs Orden storkors stripe.svg|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.theroyalforums.com/forums/attachment.php?attachmentid=141160&d=1115844540 |title=Photographic image |website=Theroyalforums.com |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Philippines}}: ガブリエラ・シラン勲章 - [[File:PHL Order of Gabriela Silang.png|55px]]<ref>{{cite web|author=GOVPH |url=http://www.gov.ph/featured/filipino-recipients-of-japanese-decorations-and-japanese-recipients-of-philippine-decorations/ |title=Filipino recipients of Japanese decorations and Japanese recipients of Philippine decorations &#124; Official Gazette of the Republic of the Philippines |website=Gov.ph |date= |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Poland}}: 白鷲勲章 - [[File:POL Order Orła Białego BAR.svg|55px]]
 
* {{Flag|Portugal}}: ソード・セントジェームス勲章 - [[File:PRT Order of Saint James of the Sword - Knight BAR.png|55px]]<ref name="PrPort">{{cite web|url=http://www.ordens.presidencia.pt/?idc=154&list=1 |title=CIDADÃOS ESTRANGEIROS AGRACIADOS COM ORDENS PORTUGUESAS - Página Oficial das Ordens Honoríficas Portuguesas |website=Ordens.presidencia.pt |date= |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{Flag|Portugal}}: [[エンリケ航海王子勲章]] - [[File:PRT Order of Prince Henry - Grand Cross BAR.png|55px]]
 
* {{Flag|Spain}}:
 
** イザベラ・カトリック勲章 - [[File:Order of Isabella the Catholic - Sash of Collar.svg|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.boe.es/boe/dias/1972/01/20/pdfs/A01047-01047.pdf |title=Archived copy |accessdate=2015-01-21 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150610180722/http://www.boe.es/boe/dias/1972/01/20/pdfs/A01047-01047.pdf |archivedate=10 June 2015 |df=dmy }}</ref><ref>{{cite web|url=http://1.bp.blogspot.com/-KyIaAtDRwmY/Ueky7ALRchI/AAAAAAAADQw/cc0fGI4yWos/s1600/19850226japn1prncipeakiret.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=1.bp.blogpsot.com|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/236x/6c/33/40/6c3340cc0d273215b8b790fad7206174.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=S-media-cache-ak0.pinimg.com |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
** チャールズ3世勲章 - [[File:ESP Charles III Order GC.svg|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.boe.es/boe/dias/1994/10/10/pdfs/A31634-31634.pdf |title=Archived copy |accessdate=2014-06-15 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150122190624/http://www.boe.es/boe/dias/1994/10/10/pdfs/A31634-31634.pdf |archivedate=22 January 2015 |df=dmy }}</ref><ref>{{cite web|url=http://blog-imgs-65-origin.fc2.com/m/o/o/moonnight467719/Empress20Michiko2020Queen20Sophia.jpg |title=Archived copy |accessdate=2016-03-23 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160313023031/http://blog-imgs-65-origin.fc2.com/m/o/o/moonnight467719/Empress20Michiko2020Queen20Sophia.jpg |archivedate=13 March 2016 |df=dmy }}</ref><ref>{{cite web|url=https://myroyal.files.wordpress.com/2008/11/20081110_viaje_japon_06.jpg?w=470&h=297|format=JPG|title=Photographic image|website=Myroyal.files.wordpress.com|accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{flag|Sweden}} : セラフィム勲章 - [[File:Order of the Seraphim - Ribbon bar.svg|55px]]<ref>http://media-cache-ec0.pinimg.com/736x/b4/50/f6/b450f6f8c300347a91adfcaf125d17c5.jpg</ref><ref>{{cite web|url=http://c7.alamy.com/comp/DAWMMX/queen-silvia-of-sweden-l-and-japanese-empress-michiko-arrive-for-a-DAWMMX.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=C7.alamy.com|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://c8.alamy.com/comp/C4FNY4/king-carl-gustaf-queen-silvia-crown-princess-victoria-emperor-akihito-C4FNY4.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=C8.alamy.com|accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{flag|Greece|old}} : 救い主勲章 - [[File:GRE Order Redeemer 1Class.png|55px]]
 
* {{Flag|Thailand}}: [[大チャクリー勲章]] - [[File:Order of the Royal House of Chakri (Thailand) ribbon.png|55px]]<ref>{{cite web|url=http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/emperor-akihito-of-japan-and-empress-michiko-of-japan-news-photo/71200423 |title=Banquet Celebrates Thailand King's 60th Anniversary Photos and Images |publisher=Getty Images |date= |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/236x/5b/0a/8f/5b0a8f166449d88ab5ac3e863f864a7d.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=S-media-cache-ak0.pinimg.com|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://4.bp.blogspot.com/-Pys6rUZMQek/Ub1SyvimhBI/AAAAAAAAAEw/cDko3IU-5a0/s1600/94608900.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=4.bp.blogspot.com |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/29/a4/a8/29a4a81037a06d3aff26d332c9bc4ef6.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=S-media-cache-ak0.pinimg.com |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
* {{flag|Morocco}}:ウイサム・アラウアイト勲章<ref>{{cite web|url=http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/moroccos-king-mohammed-vi-japans-emperor-akihito-and-news-photo/56284053 |title=Japanese Emperor Akihito Welcomes King of Morocco Mohammed VI In Tokyo Photos and Images |publisher=Getty Images |date=2005-11-28 |accessdate=2016-10-21}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.gettyimages.co.uk/detail/news-photo/moroccos-king-mohammed-vi-is-welcomed-by-japanese-emperor-news-photo/56282676 |title=Japanese Emperor Akihito Welcomes King of Morocco Mohammed VI In Tokyo Photos and Images |publisher=Getty Images |date=2005-11-28 |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
=== 名誉役職 ===
 
* [[日本赤十字社]]名誉総裁<ref name="Medals">{{cite web|url=https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/236x/ee/92/3b/ee923b61711cba1f7d381c9c2f5cf421.jpg|format=JPG|title=Photographic image|website=S-media-cache-ak0.pinimg.com|accessdate=2016-10-21}}</ref><ref name="Medals1">{{cite web|url=https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/236x/b8/56/ff/b856ff31f126c29875c417fdcb078646.jpg |format=JPG |title=Photographic image |website=S-media-cache-ak0.pinimg.com |accessdate=2016-10-21}}</ref>
 
 
 
== 著作 ==
 
=== 和歌・発言集 ===
 
* 『ともしび-皇太子同妃両殿下御歌集』 [[宮内庁東宮職]]編、[[ハースト婦人画報社|婦人画報社]]、[[1986年]][[12月]]
 
* 『瀬音-皇后陛下御歌集』 [[大東出版社]]、[[1997年]][[4月]]、ISBN 4-500-00633-8 / 新装版 [[2007年]]、ISBN 978-4-500-00724-0
 
* 『あゆみ-皇后陛下お言葉集』 [[宮内庁]]侍従職監修、[[海竜社]]、[[2005年]][[10月]]、ISBN 4-7593-0900-4 / 改訂新版 [[2010年]][[3月]]、ISBN 978-4-7593-1097-9
 
* 『道--天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、[[日本放送出版協会]]、[[1999年]][[10月]] ISBN 4-14-080467-X / 新装版 [[2009年]]、ISBN 978-4-14-081390-4
 
* 『道--天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、[[2009年]]、ISBN 978-4-14-081389-8
 
 
 
=== 児童関連楽曲・書籍 ===
 
* 『はじめての やまのぼり』絵 [[武田和子]] [[至光社]] [[1991年]]、ISBN 9784783401995
 
* 『[[五木の子守唄]] 鮫島有美子』 Denon、[[1992年]](作詞した「ねむの木の子守歌」を収録)
 
* 『愛のゆりかご 日本の子守歌』 [[中目徹]]編、[[東亜音楽社]]、[[1995年]](楽譜、19曲目に作詞曲を収録)
 
* 『どうぶつたち (The Animals):[[まど・みちお]]詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:[[安野光雅]]、[[すえもりブックス]]、[[1992年]][[9月]]、ISBN 978-4-915777-06-6
 
* 『ふしぎなポケット (The Magic Pocket):まど・みちお詩集』 選・英訳:皇后美智子、絵:安野光雅、すえもりブックス、[[1998年]][[6月]]、ISBN 4-915777-21-9
 
* 『橋をかける--子供時代の読書の思い出』 すえもりブックス、[[1998年]][[11月]] ISBN 4-915777-22-7 / [[文春文庫]]、[[2009年]][[4月]]、ISBN 978-4-16-775381-8
 
* 『バーゼルより--子どもと本を結ぶ人たちへ』 すえもりブックス、[[2003年]][[2月]]、ISBN 4-915777-34-0(第2版)
 
 
 
=== 作詞 ===
 
* ねむの木の子守歌(作曲:[[山本正美]])
 
** [[1966年]]、[[吉永小百合]]([[JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント|ビクター]])と[[梓みちよ]]([[キングレコード|キング]])の競作でシングルレコードとして発売。
 
** [[鮫島有美子]]や[[横内美知代]]をはじめ多くの歌手にカバーされている。
 
 
 
== 逸話 ==
 
=== 少女時代 ===
 
* 非常に優れた[[運動神経]]の持ち主で、学生時代には[[リレー走|リレー]]の選手などに選ばれることが多かった。この当時は勝気な性格であったと伝えられる。
 
* 学生時代に学校において出会った[[アイルランド]]の[[修道士|修道女]]たちに深い思いを寄せており、一人一人の顔と名前を今なお鮮明に思い出すことができるという。
 
 
 
=== 天皇に関するもの ===
 
* 戦後[[日本国憲法|新憲法]]([[日本国憲法第1章]])により,天皇のご存在が「象徴」という,私にとっては不思議な言葉で示された[[1947年]](昭和22年)、私はまだ中学に入ったばかりで、これを理解することは難しく、何となく意味の深そうなその言葉を,ただそのままに受け止めておりました。[[御所]]に上がって50年がたちますが、「象徴」の意味は、今も言葉には表し難く、ただ,陛下(=自身の夫)が「国の象徴」また「国民統合の象徴」としての在り方を絶えず模索され、そのことをお考えになりつつ、それにふさわしくあろうと努めておられたお姿の中に、常にそれを感じてきたとのみ、答えさせていただきます<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html 天皇陛下御即位二十年際して] - [[宮内庁]]</ref>。
 
 
 
=== 成婚に関するもの ===
 
* [[1955年]](昭和30年)- [[1956年]](昭和31年)頃、[[東京]]・[[銀座]]の小料理店「井上」2階にて、独身時代の[[三島由紀夫]]と“見合い”風の対面をしている(同店女将・井上つる江談。<ref>『[[週刊新潮]]』[[2009年]](平成21年)4月2日号)</ref><ref>{{cite news|url=http://www.markdevlin.com/TheMishimaIncident/SundayTimes.htm|archive-url=https://archive.is/20120904223002/http://www.markdevlin.com/TheMishimaIncident/SundayTimes.htm|dead-url=yes|archive-date=4 September 2012|date=2 May 2005|publisher=Sunday Times|title=Briton let author commit hara-kiri|accessdate=12 June 2012}}</ref><ref>{{cite web|author=Saru |url=http://www.mutantfrog.com/2006/02/12/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%85%A5%E9%96%80/ |title=三島入門 (An Introduction to Mishima) &#124; Mutantfrog Travelogue |website=Mutantfrog.com |date=2015-10-26 |accessdate=2016-10-21}}</ref>。
 
* [[皇室]]に嫁ぐ際、お印が白樺に決まると、実家の庭に[[軽井沢]]から取り寄せたその苗木を自ら植えた<ref name="keizu" />。
 
* 成婚に際しては[[作曲家]]の[[團伊玖磨]]が「[[祝典行進曲 (團伊玖磨)|祝典行進曲]]」を作曲した。この曲は後に[[紀宮清子内親王]]が[[降嫁]]する際、[[皇居]]から[[帝国ホテル]]へ出発する[[内親王]]を送るためにも演奏された。
 
* 国民から盛大な歓迎と祝福を受けたが、この事に関し[[2004年]]([[平成]]16年)の誕生日に次のように発表した<ref name="h1601">宮内庁、2004年10月、{{Wayback | url = http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h1601.html | title = 皇后陛下のお誕生日(平成16年10月20日)に際して 宮内記者会の質問に対する文書ご回答とこの1年のご動静 | date = 20081023154946 }}</ref>。
 
** 「私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」。
 
* 結婚の儀当日[[昭和天皇|天皇]]から授けられた守り刀は、[[1955年]]に、刀剣では最初の[[重要無形文化財]]保持者([[人間国宝]])に認定された刀工[[高橋貞次]]の作。[[皇太子徳仁親王|浩宮徳仁親王]]・[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]]の守り刀も彼の作である。
 
 
 
=== 家庭・育児に関するもの ===
 
* 苦しい日々にあっても優しさを忘れず、「殿下にお料理を作って差し上げたい」と希望し、新造の[[東宮御所]]奥公室に小さな[[台所|厨房]]を設置。後に浩宮徳仁親王、礼宮文仁親王、紀宮清子内親王らの[[弁当]]もこの厨房で自ら作ったこともある。宮中晩餐に関しては食材選びからメニューの選定まで、細心に心を配るという。
 
* 皇室の慣習である宮中御産殿での出産や、乳母制度、傅育官制度を廃止、3人の子を全て自らの手で育てた。とりわけ浩宮徳仁親王は誕生に際し、[[母子手帳]]が発給されたことでも知られ、「乳が足りない際には(乳母を立てず)人工栄養で育てるよう」指示がなされた。なお、後の礼宮文仁親王、紀宮清子内親王の誕生の際には(母親学級に参加する際の警備上の問題などもあって)、母子手帳の発給を受けることはなかった。
 
* いわゆる「ナルちゃん憲法」に関して、皇后自身は「書き溜めたメモの溜まったものに過ぎない」としている<ref name="h1601" />。
 
 
 
=== 祭祀・公務などに関するもの ===
 
[[ファイル:TennoTanjobiM1085 detail.jpg|thumb|[[2005年]](平成17年)12月、[[天皇誕生日]]の一般参賀にて天皇と共に]]
 
* 天皇[[行幸]]の際には、ほぼ常に同行している(行啓)。そのときの服装は、訪問地に縁のある花をあしらった帽子や、同様の意味合いを持つ色の服を着るなどの配慮をしている。例えば[[2007年]](平成19年)の訪欧時には、各国の国旗の色をあしらった服や、コサージュを着用した。
 
* [[明治]]以来の歴代[[皇后]]が行ってきた[[養蚕業|養蚕]](皇后御親蚕)を継承している。紅葉山御養蚕所において[[奈良時代]]から飼育され続けてきた[[カイコ|蚕]]の品種「[[小石丸]]」の飼育中止が検討されたとき、これを残すことを主張して同種を救った。小石丸は今日では全国で飼育されるに至り、各種美術品の修復にも用いられている。養蚕によって作られた絹糸で、皇后のドレスを仕立てた事もある。近年では、眞子内親王・佳子内親王が養蚕を手伝っており、[[内親王]]たちの着物に仕立てられたという。
 
* 特徴ある活動としては、児童への図書普及への取り組みが挙げられる。[[1998年]](平成10年)、[[インド]]で開催された「[[:en:International Board on Books for Young People|国際児童図書評議会 (IBBY)]]」におけるビデオによる基調講演「子供時代の読書の思い出」<ref group="注釈">このビデオ講演は、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]][[ETV特集]](現)で、国民一般にも放送され、大きな反響を呼んだ。[[出雲大社]][[神社|社務所]]では、皇后の講演全文を小冊子にして、社頭にて一般に頒布(はんぷ)している。</ref>では、[[ヤマトタケル|日本武尊]]の妃[[弟橘媛|弟橘比売]]の吾妻における入水の物語などを引いて、成婚以来のその胸中を語り世界中に大反響を呼んだ。またこの講演では幼少の頃に家族から聞かされた童話として[[新美南吉]]の「[[デンデンムシノカナシミ]]」を取り上げ、大人になってからもよく思い出される作品であると紹介した。講演内容は『橋をかける』という題名で、各国にて出版された。[[2002年]]には、[[スイス]]で開催されたIBBY50周年記念大会に、名誉総裁として出席し祝辞を述べた。なお、その時の祝辞は、『[[バーゼル]]より-子どもと本を結ぶ人たちへ』という題名で出版されている。皇后が単身日本国外に行啓した史上最初の例である。
 
* 戦没者慰霊の地に赴き、[[和歌]]を詠んでいる。
 
 
 
=== 他の妃・皇孫に対するもの ===
 
* [[文仁親王妃紀子|紀子妃]]は同じく[[旧皇族]]・旧[[華族]]以外の出身であり、彼女に対してそれまでの自分の経験を話し、助言をしていると言われている。彼女の婚約が内定した際には、「またひとつ宝物が増えました」との感想を発表している。
 
* [[皇太子徳仁親王と小和田雅子の結婚の儀|皇太子徳仁親王の結婚]]の際には、[[皇太子徳仁親王妃雅子|雅子妃]]に[[ルビー]]の指輪を贈った。この指輪は自身の結婚の際、[[香淳皇后]]から贈られたものであった。また、秋篠宮文仁親王の結婚の際には、紀子妃に[[真珠]]の指輪を贈った。
 
* [[2006年]](平成18年)2月、紀子妃の第三子懐妊時には、友人に秋篠宮および同妃が、一人で悩んでいる天皇の胸中を思って懐妊を決断したのだろうという、天皇への思いを語ったとされる。また、紀子妃が[[前置胎盤]]で[[帝王切開]]が必要なことがわかると、それを心配する言葉を寄せた。
 
** 無事に[[悠仁親王]]が誕生すると、皇后は白いベビーシューズを携えて見舞いに訪れた。このベビーシューズは[[秋篠宮|秋篠宮家]]で大切に保管されていたとみられ、悠仁親王の1歳の誕生日写真においてソファ脇の机に飾られていた<ref>[[読売新聞社]]、[http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0709photo/index.htm 悠仁さま満1歳] {{リンク切れ|date=2015年4月}}</ref>。
 
* また、同年の誕生日においては、[[愛子内親王|敬宮愛子内親王]]との面会や彼女の着袴の儀を楽しみにしている旨を発表<ref>宮内庁、[[2006年]][[10月]]、{{Wayback | url = http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h1801.html | title = 皇后陛下のお誕生日(平成18年10月20日)に際して 宮内記者会の質問に対する文書ご回答とこの1年のご動静 | date = 20081211084401 }}</ref>。なお、この年を境に、コメント・会見の際に「敬宮」と呼ばずに「愛子」と呼んでいる。
 
 
 
=== その他 ===
 
[[File:Rosa 'Princess Michiko' 1966.jpg|180px|thumb|プリンセス・ミチコ([[1966年]])]]
 
[[ファイル:Nancy Reagan in red with Princess Michiko.jpg|thumb|180px|1987年(昭和62年)、[[ナンシー・レーガン|レーガン大統領夫人]]と皇太子妃美智子(当時)]]
 
* [[イギリス]]のディクソン社から[[プリンセス・ミチコ]]というバラを献呈されており、皇居の庭にも植えられている。他に[[エンプレスミチコ (バラ)|エンプレス・ミチコ]]というバラが皇后冊立後4周年記念に献呈されたが、「プリンセス・ミチコ」の方がフロリバンの品種として優れており「美智子さまの薔薇」と言えばこちらを指すのが一般的である。
 
* 皇太子妃時代、庶民からの羨望の気持ちを込めて「同じ服は二度と着ない」等とも{{誰範囲|date=2015年10月13日 (火) 05:45 (UTC)|いわれて}}いたが、実際には丁寧に管理され、時には仕立て直しなど[[リフォーム]]をして繰り返し着用しているという<ref>『[[主婦の友]]』[[1969年]][[4月]]号</ref>。
 
* 公務の際は、洋装に日本独自のもの(佐賀錦等)をあしらったり、訪問先の[[国花]]・[[都道府県]]花等を身につけたり、[[国旗]]を意識した配色の衣服を着用する等の気配りを見せている。そのファッションセンスは、日本のみならず世界的にも高く評価されており、[[1985年]]・[[1988年]]・[[1990年]]の三度、国際ベストドレッサー賞を受賞している。[[植田いつ子]]らがデザイナーとして知られる。
 
* [[1992年]](平成4年)に、[[山形県]]において開催された秋の[[国民体育大会|国体]]([[第47回国民体育大会|べにばな国体]])の開会式臨席の際、暴漢が発煙筒を投じたところ、とっさに片手を挙げ身を挺して天皇をかばうなど<ref group="注釈">この時の様子は[[津川雅彦]]や[[小林よしのり]]も証言している[http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20090910-01/3.htm] {{リンク切れ|date=2015年4月}}[http://www.houshuku.org/kakukai/koe/gakkai.html#gakkai13]。</ref>、常に天皇を気遣っている。
 
* [[宮内庁]]職員組合文化祭には'''白木華子'''(=白樺子→シラカバ)の名前でひそかに手芸作品を出品したことがある。その時、紀宮清子[[内親王]]も「川瀬美子(かわせ・みこ→[[カワセミ]])」の名前で出品した。
 
* 音楽に造詣が深く、学生時代から[[ピアノ]]が得意とされる。[[バチカン]]訪問の際の音楽会では、即興で[[シャルル・グノー|グノー]]の『[[アヴェ・マリア (グノー)|アヴェ・マリア]]』の伴奏を弾いた。自宅でじかに演奏に接した[[ピアニスト]]の[[中村紘子]]は、あれだけ想いの深い演奏をする[[ピアニスト]]は日本にはいない、もしピアニストになっていたら自分には出番がなかっただろう、と最大級の讃辞を送っている<ref>『[[週刊新潮]]』[[2009年]][[9月24日]]号 「演奏家人生50年「中村紘子」私の知られざるエピソード」</ref>。またピアニスト・[[田中希代子]]の演奏を愛し、[[1996年]](平成8年)に田中が急逝したときには深い悲しみを表している。このほか[[ハープ]]も得意とする。ハープを演奏する写真も撮影されている。2009年(平成21年)の[[カナダ]]訪問時に訪れた[[トロント]]の小児病院では子供たちを前に、子育てのとき子供たちに歌って聞かせた「[[揺籃のうた]]」([[北原白秋]]作詞、[[草川信]]作曲)を歌唱した。
 
[[File:Shoda Michiko1958.jpg|200px|thumb|[[1958年]](昭和33年)、ピアノを演奏する皇后美智子(正田美智子)]]
 
* [[1999年]](平成11年)、父・[[正田英三郎]]の死去に伴い、[[東京都]][[品川区]][[東五反田]]五丁目(通称「池田山」)の生家正田邸が[[相続]]の対象になった際は、[[相続権]]を放棄。正田邸跡地は小公園「[[ねむの木の庭|品川区立ねむの木の庭]]」になっている。
 
* 元・宮内庁担当記者の[[板垣恭介]]は、皇太子妃時代の記者会見で彼女がクッキーを手作りすることを疑う質問をすると、次の機会で記者らに手作りクッキーを出して笑顔で勧めたり、明仁皇太子の語学に関する話題で不用意な発言をし気まずくなった板垣をかばい、彼のタバコに火をつけながらフォローする言葉をかけてくれて、母校の聖心で「あっ、やばい!」などと下世話な掛け声をかけながら[[テニス]]をするという皇后の人柄を、聡明でユーモアがあると好意的に評した<ref name="itagaki26" />。板垣は夫妻の[[メキシコ]]訪問時に、明仁皇太子に美智子妃の報道に関する相談を受けたこともある<ref name="itagaki41" />。
 
 
 
== 発言 ==
 
* 「とてもご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げて行かれる方だというところに魅力を感じ致しました」 - [[1958年]](昭和33年)11月27日、婚約決定記者会見での明仁親王評
 
* 「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」 - [[1960年]](昭和35年)4月11日、結婚一周年の記者会見で
 
* 「わたくしも差し上げるのならお点ではなく、感謝状を」 - [[1984年]](昭和59年)4月10日、銀婚記者会見にて。明仁親王の「点数を付けることは出来ないが努力賞ということで」をふまえ
 
* 「平成初めての大会に当たり、[[1947年]](昭和22年)以来、42年の長い年月にわたって名誉総裁の責務をお果たしになった[[香淳皇后|皇太后]][[陛下]]に、わたくしどもの深い感謝をお奉げしたいと思います」 - [[1989年]](平成元年)5月31日、平成元年全国赤十字大会にて
 
* 「変化の尺度を測れるのは皇位の継承に連なる方であり、配偶者や家族であってはならないと考えています」
 
* 「どの時代にも新しい風があり、またどの時代の新しい風も、それに先立つ時代なしには生まれ得なかったのではないかと感じています」 - 以上[[1994年]](平成6年)10月20日、還暦文書回答にて、皇后美智子が天皇とともに皇室に新風を吹き込んだという指摘に対して
 
* 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」 - [[1995年]](平成7年)10月20日、誕生日の文書回答にて
 
* 「常に国民の関心の対象となっているというよりも、国の大切な折々に、この国に皇室があって良かった、と、国民が心から安堵し喜ぶことの出来る皇室でありたいと思っています」 - [[1996年]](平成8年)10月20日、誕生日の文書回答にて
 
* 「不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、左手の子供たちが、心配そうにこちらを見ておりましたので、どうかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しを頂いて加わりました」 - [[1998年]](平成10年)10月20日、誕生日の文書回答にて、長野パラリンピックでのウェーブ参加に関して<ref>宮内庁、1998年10月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h10sk.html 皇后陛下お誕生日に際し(平成10年)]</ref>
 
* 「どの時代にも皇后様方のお上に、歴代初めての体験がおありになり(中略)先の時代を歩まれた皇后様方のお上を思いつつ、私にも時の変化に耐える力と、変化の中で判断を誤らぬ力が与えられるよう、いつも祈っています。これからの女性皇族に何を望むかという質問ですが、人は皆個性を持っていることであり、どなたに対しても類型的な皇族像を求めるべきではないと思います」 - [[2002年]](平成14年)10月20日、誕生日の文書回答にて<ref name="h14sk" />
 
* 「[[黒田清子|清子]]は、私が何か失敗したり、思いがけないことが起こってがっかりしている時に、まずそばに来てドンマーインと、のどかに言ってくれる子どもでした」 - [[2005年]](平成17年)10月20日、誕生日文書回答にて、数日後に控えた清子内親王の降嫁を前に<ref>宮内庁、2005年10月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h17sk.html 皇后陛下お誕生日に際し(平成17年)]</ref>
 
* 「[[皇太子徳仁親王妃雅子|東宮妃]]の公務復帰については、専門医の診断を仰ぎながら、妃自身が一番安心できる時を待って行われることが大切だと思います。あせることなく、しかし、その日が必ず来ることに希望をもって、東宮妃も、また[[皇太子徳仁親王|東宮]]も、それまでの日々、自分を大切にして過ごしてほしいと祈っています」 - [[2006年]](平成18年)10月20日、誕生日の文書回答にて<ref>宮内庁、2006年10月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h18sk.html 皇后陛下お誕生日に際し(平成18年)]</ref>
 
* 「(かくれみのを用いて)混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし、その後、学生のころよく通った神田や[[神保町]]の古本屋さんに行き、もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います」 - [[2007年]](平成19年)5月14日、欧州諸国歴訪前の記者会見にて、身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらという問いに対し<ref>宮内庁、2007年5月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gaikoku/gaikoku-h19-europe.html ヨーロッパ諸国ご訪問に際し(平成19年)]</ref>
 
* 「皇太子妃の健康についての質問ですが(中略)妃は皇太子にとり、また、私ども家族にとり、大切な人であり、「妃の快復を祈り、見守り、支えていきたい」という、私の以前の言葉に変わりはありません」
 
* 「この頃[[敬宮愛子内親王|愛子]]と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、「これは面白がっているな」と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります。思い出して見ると、眞子や佳子が小さかった頃にも、同じようなことが、度々ありました」 - [[2008年]](平成20年)10月20日、誕生日の文書回答にて<ref>宮内庁、2008年10月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h20sk.html 皇后陛下お誕生日に際し(平成20年)]</ref>
 
* 「この度も私はやはり感謝状を、何かこれだけでは足りないような気持ちがいたしますが、心を込めて感謝状をお贈り申し上げます」 - [[2009年]](平成21年)4月8日、結婚50周年記者会見にて。先の25周年記者会見での発言をふまえ<ref>宮内庁、2009年4月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gokekkon50.html 天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して(平成21年)]</ref>
 
* 「東宮も[[秋篠宮文仁親王|秋篠宮]]も孫として[[昭和天皇]]のおそばで過ごす機会を度々に頂き、また成人となってからは、陛下をお助けする中でそのお考えに触れ、日々のお過ごしようをつぶさに拝見し、それぞれの立場への自覚を深めてきたことと思います。これからも二人がお互いを尊重しつつ、補い合って道を歩み、家族も心を合わせてそれを支えていってくれることを信じ、皇室の将来を、これからの世代の人々の手にゆだねたいと思います」 - 2009年(平成21年)11月11日、天皇即位20年に際する記者会見にて<ref>宮内庁、2009年11月、[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gosokui20.html 天皇陛下ご即位二十年に際し(平成21年)]</ref>
 
*  「これが[[初音ミク|ミクちゃん]]ですか」 - [[2013年]](平成25年)[[8月20日]]、[[六本木ヒルズ]]・[[森美術館]]でのLOVE展にて<ref>{{Cite web|author=朝日新聞 |date=2013-08-20 |url=http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY201308200050.html |title=皇后さま「これがミクちゃんですか」 LOVE展を鑑賞 |publisher= |accessdate=2013-08-21|deadlinkdate=2015-04-28}}</ref>
 
*  「80年前,私に生を与えてくれた両親は既に世を去り,私は母の生きた齢としを越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に,同じ朝『陛下と殿下の御心に添って生きるように』と諭してくれた父の言葉は,私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。」 - [[2014年]](平成26年)[[10月20日]]、皇后誕生日に際し、80年の[[傘寿]]を迎えて<ref>宮内庁にて(2014年10月20日)[http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/gokaito-h26sk.html 皇后陛下お誕生日に際し(平成26年)]</ref>
 
 
 
== 出典・注釈 ==
 
=== 注釈 ===
 
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=== 出典 ===
 
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== 参考文献 ==
 
* 森 暢平・河西 秀哉 編『皇后四代の歴史: 昭憲皇太后から美智子皇后まで 』(吉川弘文館、2018/5/20)
 
* {{cite book|和書 |last=板垣 |first=恭介 |title=明仁さん、美智子さん、皇族やめませんか 元宮内庁記者から愛をこめて |publisher=[[大月書店]] |edition =初版第1刷 |date=2006-01-20 |isbn=4-272-21086-6 |ref=harv }}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commons|Category:Empress Michiko}}
 
* [[祝典行進曲 (團伊玖磨)|祝典行進曲]]
 
* [[吉川重国]]
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
* [http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁ホームページ] {{ja icon}}
+
* [http://www.kunaicho.go.jp/ 宮内庁ホームページ]  
* [http://www.britishpathe.com/video/japanese-royal-wedding/query/Nagako 海外ニュース映像 日本のロイヤルウエディング(1959年)] - British Pathe
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皇后美智子(こうごう みちこ、1934年昭和9年〉10月20日 - )

天皇明仁(あきひと)の皇后。

昭和9年10月20日生まれ。正田英三郎の長女。昭和32年夏,軽井沢のテニスコートで明仁皇太子とであい,34年結婚。民間人初の皇太子妃の誕生でミッチーブームがおこった。2男1女の母親として,皇室の伝統をやぶって自分の手元でそだてる。64年皇后。日本赤十字社名誉総裁。東京出身。聖心女子大卒。

外部リンク



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