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'''禄'''(ろく)とは、仕官している者に対し、その生活の資として給与された金銭・物資あるいはその代替のこと。
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'''禄'''(ろく)
  
== 概要 ==
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仕官する者に下付される給与。古代においては律令(りつりょう)制に規定された、官人に対する支給で、四、五位の者に与える位禄(いろく)と、在京の文武官人、大宰府(だざいふ)・壱岐(いき)・対馬(つしま)の官人に春夏・秋冬の2回給される季禄(きろく)とがあった。施禄の品にはあしぎぬ、布、綿、鍬(くわ)、糸など手工芸品が主であった。
日本において整備された禄の体系が登場したのは、[[大宝律令]]・[[養老律令]]において[[禄令]]<ref>唐の律令においては、食邑(日本における封戸に相当)を扱う[[封爵令]]と禄を扱う禄令が分離されていたが、日本の[[律令制|律令]]では封爵令が設けられず、封戸は禄令にて扱われた。</ref>が制定され、[[貴族]]・[[官人]]への支給が行われて以降のことである。[[食封]]とも称された[[封戸]]([[位封]]・[[職封]]など)・[[位禄]]・[[季禄]]が令で定められた基本的な禄である。食封と位禄・季禄はその身分の上下に応じて支給に差があり、封戸はそこから徴収された[[租庸調|租]]の半分と庸調の全部が封主(支給対象者)に与えられ、位禄や季禄は諸国から徴収された庸調を財源として支給対象者に規定の物品が支給される仕組となっていた。また、位封・位禄は[[職事]]・[[散位]]を問わず身分(保持する[[位階]])のみに基づいて支給されたため、両者を合わせて'''封禄'''(ほうろく)と称した<ref>[[村尾次郎]]「位禄」『平安時代史事典』(角川書店、1994年)</ref>。ただし、広義での封禄には季禄などの他の禄や位田・職田のように田地の形式での支給、資人・事力のように人の形式での支給を含む場合もある<ref>俣野「封禄」『日本歴史大事典』</ref>。
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 近世では一般に俸禄(ほうろく)とよび、将軍・大名から家臣に与えられる蔵米(くらまい)のことをさした。知行地(ちぎょうち)を支給して年貢を収納する地方(じかた)知行制は、高位の家臣のみを対象として少なくなったためである。所領の年貢徴収権は領主が一手に収めて、家臣には知行高に応じて俸禄を支給する蔵米知行制が発達、このため家臣団の財政は、領主の財政に対する依存度が大きくなったが、一方では武士が知行地の支配を気にせず、吏僚として行政の職務に専念できるようになった。
 
 
また、后妃・皇親に対しては、[[中宮]][[湯沐]]・[[東宮]][[東宮雑用料|雑用料]](湯沐の代替)・[[皇親]][[時服]]および[[後宮]][[号禄]]が支給されており、その支給形態は封戸・位禄・季禄と対応する。その他、令外に支給された禄、もしくは後世に追加された禄として諸司時服・[[要劇料]]・[[月料]]・[[馬料]]・[[番上粮]]・[[公廨稲]]などがあげられる。
 
 
 
日本の律令制のモデルとなった中国の制度では、上([[皇帝]])からの恩恵である「賜」と官人としての生活を支える給与である「禄」は分離され、後者は官人としての奉仕に対する反対給付として「給」されるものと理解されていた。ところが、日本では賜と禄の明確な分離はなされずに[[王権]]・[[朝廷]]に対する奉仕の代償として上([[天皇]])から与えられる恩恵とみなされ、位封・位禄のように[[致仕]]後も支給を停止・削減されずに終身与えられる禄も存在した。また、季禄・位禄を支給される際に天皇への謝意を示すために賜禄儀<ref>賜禄儀は禄令には規定がないものの、『[[弘仁式]]』や『[[貞観儀式|儀式]]』に規定が設けられている。</ref>が伴われるのも日本独自のシステムであった<ref>山下、2012年、P27-36</ref>。
 
 
 
位封は[[慶雲]]3年([[706年]])から[[大同 (日本)|大同]]3年([[808年]])まで一時増額されていたが、財政難とともに元に戻され、[[10世紀]]初頭遅くても[[延長 (日本)|延長]]年間には他の封戸とともに令制の3/4に削減されている。また、この時期には季禄なども支給が滞ったり、地方の[[国衙]]から集められた[[穎稲]]を代替品として支給して補う方法も採られた([[禄物価法]])。
 
 
 
[[院政期]]([[12世紀]])に入ると封戸制度は急速に崩壊し、代わって貴族が土地を私有化する[[荘園 (日本)|荘園]]や[[国司]]の地位を私物化する[[知行国]]制度が成立し、そこから上がる様々な収益をもって収入とするようになる。[[応保]]2年([[1162年]])頃に[[太政大臣]][[藤原伊通]]が[[二条天皇]]に献じた意見書『大槐秘抄』には、かつての上達部([[公卿]])は封戸を与えられ、[[節会]]などには臨時の禄も支給されていた。だが、今はそれがないため、荘園を持たなければ生活が成り立たないし、同様に知行国の制度があるのも封戸が支給されないからであるとして、[[荘園整理令]]を進める朝廷の方針を批判している。その後、[[源頼朝]]が[[鎌倉幕府]]を開き、配下の[[御家人]]との間で[[御恩と奉公]]の関係を結び、[[御恩]]の中核として所領[[安堵]]や新恩給与の形で土地の[[知行]]をあてがい(宛行・充行)、そこからの収益を給与とする仕組を確立させた。こうした武家社会の動きは貴族にも影響を与え、[[文永]]年間([[1270年]]前後)に元太政大臣であった[[徳大寺実基]]が[[後嵯峨院]]に充てた奏状では、荘園を貴族にとっての給与とみなし、その保護こそが朝廷が廷臣に与えられる最大の「朝恩(天子の恩恵)」である主張した。こうして、中世においては配下に土地の知行を保障し、そこからの収益を給与として上の者に仕えるというあり方が確立されることになった。
 
 
 
近世に入り、日本全国の土地が[[幕藩体制]]の支配下に入ると、俸禄として[[征夷大将軍|将軍]]から大名および[[旗本]]・[[御家人]]、あるいは[[大名]]からその家臣に対し、[[石高制]]に基づいて土地あるいは[[蔵米]](金銀で代替される場合もある)の形での知行が与えられるようになる。後者の場合、名目上の知行高が認められて石高に[[免]](年貢率)を掛けた額を[[藩]]から蔵米の形で支給される[[蔵米知行]]と実際の手取額のみが明示される[[蔵米取]]が存在し、両者を合わせて'''俸禄制'''(ほうろくせい)とも称する。もっとも、大名の家臣で土地を知行する[[地方知行]]が許されたのは上級家臣が多く<ref>地方知行の場合においても、免(年貢率)の上限は藩によって定められ、家臣による勝手な徴税は規制されていた。</ref>、大名の土地支配の強化([[蔵入地]]の拡大)に伴って蔵米を知行する蔵米知行へと切り替えられ、更に[[借上 (近世)|借上]]などの措置が採られる場合もあった。なお、[[江戸幕府]]の旗本・御家人の場合には地方知行と蔵米取の2種類からなる支給体系となっていた。17世紀中期以降、武士階層の官僚化とともに、俸禄制への切り替えも進展していったが、その反面、中世の間に所領(知行)を持たない者は庶子・郎党・武家奉公人など一人前の武士ではない者とする意識が定着しており、地方知行から俸禄制への移行には必ずしも順調とは言えなかった。実際に知行に多少の余裕があった江戸幕府の場合には、地方直(じかたなおし)を行って蔵米取から地方知行に切り替えるという流れに逆行する措置を採ることもあった。
 
 
 
[[明治維新]]後、禄の問題は国家的なものとなった。維新の功績者に対しては[[賞典禄]]と呼ばれる禄が新たに支給されたが、これらが政府財政を圧迫することは明らかであった。[[版籍奉還]]の直後である明治2年6月25日、旧藩主である[[知藩事]]に対して現石高の10%を家禄とするとともに、旧家臣団の家禄について適宜改革を行うよう指令が下った{{sfn|落合弘樹|1994-10|pp=178}}。明治4年の[[廃藩置県]]後、政府は各地の家禄を掌握する政策を続いて行い、明治6年12月27日に家禄の国への奉還と、禄に対する[[家禄税]]の開始を布告した{{sfn|落合弘樹|1994-10|pp=179}}。明治9年(1876年)8月25日、禄を廃止して[[金禄公債]]を対象者に渡す、「金禄公債証書発行条例」の発令によって禄制度は全廃された([[秩禄処分]]){{sfn|落合弘樹|1994-10|pp=179}}。しかしこれら禄制改革の混乱で、不当に禄の支払いを差し止められたと訴える[[士族]]や旧[[卒族]]が多数存在し、秩禄処分の撤回を求めて運動を行った。この運動の結果、明治30年 (1897年)10月29日に[[家禄賞典禄処分法]]が成立し、秩禄処分が正当であるということが宣言される一方で、正当な支払いを受けなかった者に対して補償の道が開かれることとなった{{sfn|落合弘樹|1994-10|pp=189}}。しかし請求が増加することを危惧した[[大蔵省]]は、家禄賞典禄処分法施行法の制定によって支払対象者を限定する動きに出た。このため複禄申請を行った訴えの大半が却下されたが{{sfn|落合弘樹|1994-10|pp=193}}、その後も訴えの審理は継続された。昭和23年(1948年)に家禄賞典禄処分法は廃止され、秩禄処分はこの時点で完全に終了した{{sfn|落合弘樹|1994-10|pp=194}}。
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references/>
 
== 参考文献 ==
 
*[[高橋崇]]「封禄」(『国史大辞典 12』([[吉川弘文館]]、1991年)ISBN 4-642-00512-9)
 
*[[鈴木寿]]「俸禄制」(『国史大辞典 12』(吉川弘文館、1991年)ISBN 4-642-00512-9)
 
*[[時野谷滋]]「禄」(『平安時代史事典』([[角川書店]]、1994年) ISBN 978-4-040-31700-7)
 
*[[俣野好治]]「封禄」(『日本歴史大事典 3』([[小学館]]、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0)
 
*J・F・モリス「俸禄制」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-095-23003-0)
 
*[[山下信一郎]]『日本古代の国家と給与制』(吉川弘文館、2012年) ISBN 978-4-642-04601-5
 
**「律令俸禄制と賜禄儀」(P26-52、原論文『史学雑誌』第103編第10号(1994年))
 
**「皇親給禄の諸問題」(P155-177)
 
**「平安時代の給与制と位禄」(P256-283、原論文『日本歴史』第587号(1997年))
 
**「古代・中世貴族の給与制変貌観」(P284-294)
 
* {{Cite journal|和書|author= 落合弘樹|title=帝国議会における秩禄処分問題--家禄賞典禄処分法制定をめぐって|date=1994-01|publisher=京都大学人文科学研究所|journal=人文学報  |volume=73 |naid=120000901703|pages=177-199 |ref=harv}}
 
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[[Category:日本の律令制]]
 
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[[Category:日本の制度史]]
 
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仕官する者に下付される給与。古代においては律令(りつりょう)制に規定された、官人に対する支給で、四、五位の者に与える位禄(いろく)と、在京の文武官人、大宰府(だざいふ)・壱岐(いき)・対馬(つしま)の官人に春夏・秋冬の2回給される季禄(きろく)とがあった。施禄の品にはあしぎぬ、布、綿、鍬(くわ)、糸など手工芸品が主であった。  近世では一般に俸禄(ほうろく)とよび、将軍・大名から家臣に与えられる蔵米(くらまい)のことをさした。知行地(ちぎょうち)を支給して年貢を収納する地方(じかた)知行制は、高位の家臣のみを対象として少なくなったためである。所領の年貢徴収権は領主が一手に収めて、家臣には知行高に応じて俸禄を支給する蔵米知行制が発達、このため家臣団の財政は、領主の財政に対する依存度が大きくなったが、一方では武士が知行地の支配を気にせず、吏僚として行政の職務に専念できるようになった。



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