福建省 (中華民国)

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テンプレート:中華民国の一級行政区画 福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian/Fukien)は、中華民国の省。現在でも中華民国は同省島嶼部の金門島馬祖島を実効支配しており、金門県連江県の2県が置かれている。

ここでは1949年(民国38年)に中華民国が大陸地区の実効支配権を喪失する以前の行政区画を中心に、後半で現在の中華民国における行政区について説明する。

管轄区域

福建省は略称を「」(びん)と称し、管轄区域は現在の中華人民共和国福建省にほぼ相当する。

西は江西省、南は広東省、北は浙江省に接し、東は台湾海峡に面している。

行政沿革

1911年宣統3年)10月10日、武昌起義により辛亥革命が勃発すると11月9日、 福建新軍もこれに呼応し決起、同月17日に廈門軍政府を設立した。1912年(民国元年)11月16日、民政長官として民政長を設置、1914年(民国3年)5月23日、民政長は巡按使に、1916年(民国5年)7月に更に省長に改称されている。

1926年(民国15年)12月24日、国民党は福建省臨時政務委員会を設置、翌年1月2日に省臨時政治委員会を改編、福建省の最高行政機関と定められた。1927年(民国16年)4月12日、上海クーデターが勃発すると福建省は南京国民政府に帰属、5月1日に臨時政治委員会は解体され福建省政府が成立した。

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると福州は日本軍に占領され福建省政府は亡命政府となる。1945年(民国34年)、日本の敗戦に伴い中華民国の施政権が回復したが、1949年(民国38年)8月17日、中国共産党により福州市は「解放」され、中華民国は島嶼部の金門県及び連江県長楽県の一部(馬祖島)、莆田県のごく一部()を除き実効支配権を喪失した。

1954年、烏島を暫定的に金門県の管轄下とする。

1996年1月15日、福建省の地方政府としての機能が「凍結」された。

省会

1937年(民国26年)以前は閩侯県に、1945年8月に林森県1946年(民国35年)1月以降は福州市に設置された。

日中戦争期間中は、洪塘甘蔗小箬永安に疎開している。

行政区画

道制

中華民国が建国されると清代の各道は廃止されたが、1913年(民国2年)2月12日、東路道南路道西路道北路道の4道が設置された観察使が任命されている。1914年(民国3年)5月、それぞれ閩海道廈門道汀漳道建安道と改称され、観察使も道尹と改められた。1927年(民国16年)、北伐軍が進駐すると道制は廃止されている。

県級行政区画

中華人民共和国成立直前の管轄行政区画はの2市67県。(50音順)

行政督察区

現在の中華民国福建省

1955年大陳島撤退作戦以降、中華民国が実効支配する福建省は、中国大陸とは海峡をはさんだ島嶼部、金門島(金門県)と(元は莆田県の島嶼部。現在は暫定的に金門県)、馬祖島連江県の島嶼部)のみとなっている。中華民国統治下の福建省について、台湾地域(台湾省と台湾島内の行政院直轄市)との対比から、現在では金門島と馬祖島の頭文字を使用した「金馬地区」と言う呼称がなされている。

1996年1月15日を以って福建省政府は地方政府としての機能を「凍結」(事実上の廃止)させられ、省政府は行政院の出先機関として中央政府に組み込まれた。このような省から地方政府としての機能を喪失指せる動きを、台湾では「虚省化」と呼んでおり、1997年憲法増修条文第四次改憲以降は中華民国で実質的に「省」という地方行政区分が機能していない。ただし、今でも公務員試験等における地域区分や地方法院(裁判所)等の名称で「福建省」の名称が使用されている。

上記の2県は国共内戦以来、防共の拠点として戒厳令のもと厳しい軍事態勢下にあったが、近年中華人民共和国による軍事的な脅威が減少したこと、また対岸の中国大陸との交流が活発化した事により、観光地へと変貌を遂げている。

教育

脚注


関連項目

外部リンク

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