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'''素朴実在論'''(そぼくじつざいろん、英:Naïve realism)とは、[[実在論]]の一形態で「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のことである<ref name='sanichi'>{{Cite book|和書
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'''素朴実在論'''(そぼくじつざいろん、英:Naïve realism)
|title =哲学・論理用語辞典
 
|publisher =三一書房
 
|year = 1975
 
}}</ref>。
 
  
== 概説 ==
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主として認識論上の立場で,われわれの認識の対象は,常識的に,感覚に映じるがままに実在するとした理論。実在論が[[観念論]]の批判を受けて,みずからを修正しながらその難点を克服し,いわゆる批判的実在論に立ったのに対して,それ以前のものが素朴実在論と呼ばれる。
子供などが持っている素朴な実在論である。また大人などでも、哲学を学んだことがない一般人が抱きがちな実在観である<ref name='sanichi' />。
 
 
 
[[ファイル:Roadmirage.jpg|thumb|right|200px|「道路上に[[逃げ水|水]]がある」]]
 
[[ファイル:SchwetzingenSchlossgarten.jpg|thumb|right|180px|「トンネルのむこうに川と木がある」]]
 
この実在観の例をあげると、例えば、木の葉を見て、ミドリの葉が実在していると思ったりすることである<ref name='sanichi' />。
 
また、例えば右のような場面において「水がある」と思ったり、「トンネルのむこうに川と木がある」と思うのも素朴実在論と言える。
 
 
 
素朴実在論が[[哲学者]]によって未熟だと烙印を押されるのは、一つには、上の木の葉の例で言えば、木の葉は夕日の中や薄暗がりの中では黒かったりし、ミドリ色として決まっている木の葉があるわけではない、ということからでもある<ref name='sanichi' />。
 
 
 
人間というのは素朴な状態なままだと、自分が肉眼で感じられた内容をそのまま存在すると信じ、反対に、見えないものは存在していないと思い込む傾向がある。
 
 
 
また人は素朴な状態では、物というのは他の物とガツンとぶつからなければ動きに変化はないと思っている。[[ルネ・デカルト|デカルト]]の[[渦動説]]にはそうした素朴な考えの影響があるということは科学史家が指摘している。また、[[アイザック・ニュートン]]が『[[自然哲学の数学的諸原理]]』で[[万有引力]]を提唱した時、同時代人がそれを[[オカルト]]だと呼んで非難したことには、「自分が感覚器で感じられるものは実在しているに決まっており、反対に [[オカルト|自分の感覚器で感じられないもの(見えないもの、触れられないもの]])は存在していないに決まっている」とする素朴な考え方を無自覚に持ったり頑強なまでに信じ込む人が多い、という背景がある。
 
 
 
19世紀から20世紀にかけて自然科学の領域で様々な遠隔力が発見されたことで、今でこそ(ニュートンの時代とは異なり)、知覚できないことであっても実在しているものはやはり実在しているのだ、という見方は知識として一応普及した。だが現代においても人というのは、普通の人も科学者もしばしば、自分が知覚できるものだけが知覚したように実在し、知覚できないものは実在していないに決まっている、と素朴に思う傾向がある。
 
 
 
人類は古くから、自分の眼に見えていてもそれが実在していなかったという経験や、反対に、たとえ肉眼では見えなくても(あるいは他の感覚器でも知覚できなくても)確かに何かが実在していた、という経験を繰り返している。こうして人間は、素朴実在論とは異なった考え方を探求してきた。
 
 
 
== 素朴実在論の乗り越えや改良 ==
 
この素朴実在論とは異なった考え方の一つが、プラトンが提示した[[イデア]]という考え方である。これは、本物の実在というのは霊界にある[[イデア]]であり、我々がふだん肉眼で見たと信じているものはイデアの摸造にすぎない、我々は以前イデアを見て過ごしていたがこちらの世界に来る時にその記憶を失ってしまった、だからそのイデアを《想起(アナムネーシス)》して見ることが、実在を真に認識することになるのだ、とするものである。
 
 
 
「本当の実在はあちら側の世界にあり、こちらの世界はみかけにすぎず摸造だ 」とするこのプラトニズムの世界観は、一方では現在の[[スピリチュアリズム]]の考えともつながっている。
 
 
 
またその一方で、このプラトニズムが結果として数理的に自然を把握しようとする西洋の[[科学]]をもたらすことになった、と指摘する科学史家もいる。(<small>[[カール・ポパー]]が提示した「数理的な《世界3》が実在し、我々の世界はその《世界3》が投影されたものだ」という考え方も、このプラトニズムの系譜に属すると指摘されてもいる。なおポパーの《世界3》という考え方は[[ロジャー・ペンローズ]]も支持している。</small>)
 
 
 
また西欧哲学においては、我々が感じている内容を[[現象]]と呼び、それについて考察してきた。[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]は懐疑的にとらえ、我々が感覚器でとらえていることは客観性とは繋がり得ないと見なした。[[イマヌエル・カント|カント]]は、現象は《物自体》と対比され、現象というのは物自体と主観との共同作業によって構成されるものだとし、人は現象が構成される以前の《物自体》を認識することはできない、とした。[[エトムント・フッサール|フッサール]]は[[現象学]]を創始した。
 
 
 
素朴実在論を改変・改良した考え方としては他に、「世界は現に存在しているが、しかしその世界は必ずしもそのすべての点において私たちに見えているとおりのものとは限らない」とする批判的実在論がある<ref>ルック・チオンピ『基盤としての情動: フラクタル感情論理の構想』</ref>。
 
 
 
現代の科学では「我々は、世界が存在すると見なし、しかもその世界の構造が部分的には認識可能であることを想定してはいるが、世界について我々が行うあらゆる言明は[[仮説]]的な性格を持つ」というCampbellの「仮説的実在論」<ref>ルック・チオンピ『基盤としての情動: フラクタル感情論理の構想』</ref>がある。
 
 
 
== 備考 ==
 
* 素朴実在論は[[自然科学]]成立のための根本前提であり、また、[[唯物論]]も素朴実在論の立場に立つため、両者は同じ土台(素朴実在論)から成立したものとされる<ref>[[梅本克己]] 『唯物論入門』 [[清水弘文堂書房]] 1969年 p.16.</ref>。
 
* 「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」の「自分の眼に見えた」は、個別の事態ではなく、習慣的な事態群である。世界のすべてを一度に見ることはできないからである。この命題は「この世界というのは、いつも自分の眼に見えたままに存在している」と解釈しなければならない。したがってその否定は、「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在していることはない」ではなく、「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在しているとはかぎらない」である。人間を含む動物の感覚器は不完全なので、実在しない(と思われる)対象を知覚する場合や、実在する(はずの)対象を知覚できない場合もあるが、本来は、当該の動物種にとって知覚することが必要な、実在する対象だけを知覚するために作られているものと考えられる。さもないと、動物は食物を得られず、危険を回避できず、滅びてしまうであろう。
 
 
 
== 出典・脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*{{Cite book|和書
 
|title =哲学・論理用語辞典
 
|publisher =三一書房
 
|year = 1975
 
}}
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* {{Cite journal|和書
 
|author=森 一夫
 
|year=1976
 
|title=幼児における素朴実在論的物質観 - 特に体積と重量の概念的未分化について
 
|journal=教育心理学研究
 
|volume=24
 
|issue=1
 
|pages=17-25
 
|publisher=日本教育心理学会
 
|naid=110001892169
 
|url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110001892169/
 
|format=PDF
 
|accessdate=2011-04-03
 
}}
 
* {{Cite journal|和書
 
|author=喰代 驥
 
|year=1961
 
|title= 素朴実在論の問題点
 
|journal=[[哲学 (学術雑誌)|哲学]]
 
|volume=11
 
|issue=
 
|pages=31-44
 
|publisher=日本哲学会
 
|url=http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=philosophy1952&cdvol=1961&noissue=11&startpage=31&lang=ja&from=jnlabstract
 
|format=PDF
 
|accessdate=2011-04-04
 
}}
 
* {{Cite journal|和書
 
|author=前田 高弘
 
|year=2003
 
|title= 我々は何を直接見ているのか?
 
|journal=[[科学哲学 (学術雑誌)|科学哲学]]
 
|volume=36
 
|issue=1
 
|pages=29-42
 
|publisher=日本科学哲学会
 
|url=http://www.journalarchive.jst.go.jp/jnlpdf.php?cdjournal=jpssj1968&cdvol=36&noissue=1&startpage=29&lang=ja&from=jnlabstract
 
|format=PDF
 
|accessdate=2011-04-04
 
}}
 
* {{Cite journal|和書
 
|author= [[藤田晋吾|藤田 晋吾]]
 
|year=1992
 
|title= 実在論の二つの顔 : アインシュタインとボーア
 
|journal=哲学・思想論叢
 
|volume=10
 
|issue=
 
|pages=1-13
 
|publisher= 筑波大学哲学・思想学会
 
|url=http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/M21/M215588/2.pdf
 
|format=PDF
 
|accessdate=2011-04-04
 
}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[独我論]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{PhilP|naive-and-direct-realism|Naive and Direct Realism|素朴実在論と直接実在論}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:そほくしつさいろん}}
 
{{DEFAULTSORT:そほくしつさいろん}}
 
[[Category:哲学の概念]]
 
[[Category:哲学の概念]]

2019/4/30/ (火) 00:41時点における最新版

素朴実在論(そぼくじつざいろん、英:Naïve realism)

主として認識論上の立場で,われわれの認識の対象は,常識的に,感覚に映じるがままに実在するとした理論。実在論が観念論の批判を受けて,みずからを修正しながらその難点を克服し,いわゆる批判的実在論に立ったのに対して,それ以前のものが素朴実在論と呼ばれる。



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