肥後国

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肥後国(ひごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。

沿革

元来は肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)であった。「肥後国」として初めて文献に現れるのは持統天皇10年(696年)頃であり、7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。

近世以降の沿革

国内の施設

国府

国府所在地を記した文献は次の通り。

国府は託麻郡、益城郡、飽田郡と変遷したとされる[4]。それぞれ託麻国府は熊本市国府(位置)、益城国府は未詳(諸説)、熊本市二本木の二本木遺跡と推定されている[4]

国分寺・国分尼寺

  • 肥後国分寺跡 (熊本市出水一丁目・神水本町、位置
    • 寺域は2町四方で、託麻国府に近接。法起寺伽藍配置と推定される。法燈を伝承する医王山国分寺の本堂が講堂西南隅に当たる。講堂の北側には僧坊と小房子、南側には塔・回廊と南大門が検出されており、塔心礎は原位置から東方30m程の熊野神社境内に現存する。塔の東側にあったと推定される金堂は未調査。出土したは北東約8kmの楳谷寺瓦窯跡(同市小山町)で焼かれたもので、その様式から平安時代末期まで存続していたことが分かる。文字瓦や墨書土器も出土した。
  • 肥後国分尼寺跡(熊本市水前寺公園、位置
    • 水前寺公園南東にある陣山廃寺が国分尼寺跡と推定されている。南北170m、東西115mの規模で、講堂・金堂・中門・回廊・南門などの遺構が確認されている。瓦は国分寺と同笵である。廃絶は国分寺より早く、10世紀頃に焼亡したらしい。

神社

延喜式内社

延喜式神名帳』には、次に示す大社1座1社・小社3座3社の計4座4社が記載されている(肥後国の式内社一覧参照)。大社1社は次に示すもので、名神大社である。

総社一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく総社・一宮以下の一覧[5]

以上のほか、郡浦神社宇城市三角町郡浦)が三宮を称する[7]

安国寺利生塔

  • 安国寺 - 熊本県熊本市横手。
  • 安國寺 - 熊本県宇土市花園町佐野。
  • 安国寺 - 熊本県菊池市豊永。
  • 利生塔 - 如来寺(熊本県宇土市岩古曽町)内に設置。

地域

江戸時代の藩

人物

国司

※日付=旧暦

肥後守

肥後介

  • 豊宗広人809年(大同4年)1月23日 - 812年(弘仁3年)4月19日)従五位下
  • 菅原清人(812年(弘仁3年)4月19日 - )従五位下
  • 橘真直842年(承和9年)頃)従五位下
  • 菅原梶吉(843年(承和9年)8月11日 - )外従五位下
  • 山池作(848年(嘉祥2年)1月13日 - 2月27日)外従五位下
  • 高丘貞雄(848年(嘉祥2年)2月27日 - )外従五位下
  • (権介)県犬養氏河(853年(仁寿3年)8月8日 - )従五位下
  • 橘仲宗(854年(斉衡元年)5月11日 - )従五位下
  • 大原真室(855年(斉衡2年)1月15日 - )従五位下
  • 藤原正峯(858年(天安元年)1月16日 - )従五位下
  • (権介)大原真室(859年(貞観元年)1月13日 - )従五位下
  • 橘朝雄(864年(貞観6年)1月16日 - )従五位下
  • 平住世(866年(貞観8年)1月13日 - )従五位下
  • 橘子善(869年(貞観11年)1月13日 - )従五位下
  • 藤原智泉(877年(元慶元年)頃)従五位下
  • 大神良臣(886年(仁和2年)1月16日 - 2月21日)外従五位下
  • 三善清行891年(寛平3年)1月30日 - 893年(寛平5年)1月11日)従五位下
  • 源家基

守護

鎌倉幕府

室町幕府

戦国時代

戦国大名

  • 菊池氏:肥後国守護。1504年、22代菊池能運が没すると、急速に没落
  • 阿蘇氏:阿蘇神社大宮司家で鎌倉以来の名門だが、1585年島津氏に降伏
  • 相良氏:最盛期には球磨・八代・葦北を領するが、1581年島津氏に降伏。後に豊臣政権の小大名として復活

豊臣政権の大名

  • 佐々成政:肥後一国、1587年 - 1588年(肥後国人一揆の鎮圧に失敗し、改易・死罪)
  • 加藤清正:肥後北半国19万5千石(熊本城)、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、肥後一国52万石の熊本藩に)
  • 小西行長:肥後南半国20万石(宇土城)、1588年 - 1600年(関ヶ原の戦い後、改易・死罪)
  • 相良頼房:人吉2万石、1587年 - 1600年(関ヶ原の戦い後も本領安堵、人吉藩に)

武家官位としての肥後守

江戸時代以前

江戸時代

肥後国の合戦

脚注

  1. 『和名類聚抄 20巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)29コマ参照。
  2. 『拾芥抄 3巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)59コマ参照。
  3. 『節用集 易林本』(国立国会図書館デジタルコレクション)144コマ。
  4. 4.0 4.1 中世諸国一宮制 2000年, p. 621.
  5. 『中世諸国一宮制の基礎的研究』(岩田書院、2000年)pp. 618-621。
  6. 6.0 6.1 中世諸国一宮制 2000年, p. 620.
  7. 三角町史編纂委員会編纂 『三角町史』 三角町役場、1987年。

参考文献

関連項目