「自衛隊イラク派遣」の版間の差分

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'''自衛隊イラク派遣'''(じえいたいイラクはけん)は、[[イラク戦争]]初期の[[2003年]](平成15年)12月から[[2009年]](平成21年)2月まで行なわれていた、[[日本]]の[[自衛隊]]の[[イラク]]への[[自衛隊海外派遣|派遣行為]]の総称である。その目的は、[[イラク]]の国家再建を支援するためとされている。
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[[画像:P1100812 R 国際平和協力活動等(及び防衛協力等) 25.jpg|thumb|イラク派遣時の様子]]
 
「[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法]]」(イラク特措法)に基づくもので、活動の柱は'''人道復興支援活動'''と'''安全確保支援活動'''である。活動は「[[非戦闘地域]]」に限定されていたが、自衛隊創設以来初めて、戦闘地域ではないかとの論議のある地区に陸上部隊を派遣した。
 
 
 
陸上自衛隊は「人道復興支援」のため、比較的治安が安定しているとされたイラク南部の都市[[サマーワ]]の[[宿営地]]を中心に活動し、[[2006年]](平成18年)7月に撤収した。航空自衛隊は陸自の撤収後も輸送活動を継続していたが、[[2008年]](平成20年)12月に輸送活動を終了した。
 
 
 
== 派遣内容 ==
 
=== 規模 ===
 
;派遣期間
 
* [[2003年]](平成15年)[[12月15日]]〜[[2004年]](平成16年)[[12月14日]]まで(基本計画上)
 
* [[2004年]](平成16年)[[12月9日]]に基本計画の1年延長を決定。
 
* [[2005年]](平成17年)[[12月8日]]に基本計画の1年延長を決定。
 
* [[2006年]](平成18年)[[6月20日]]に陸上自衛隊の撤収を命令。
 
* [[2007年]](平成19年)[[6月20日]]に[[イラク特措法]]を改正。法の派遣期限を2年延長。
 
* [[2008年]](平成20年)
 
:11月28日:安全保障会議において航空自衛隊の活動終結を決定。派遣輸送航空隊に対し撤収命令を発出。
 
:12月23日:空自派遣輸送航空隊の全隊員が帰国。
 
* [[2009年]](平成21年)
 
:2月:空自イラク復興支援派遣撤収業務隊の任務が終了
 
:7月:イラク特措法、2年の延長期限が切れ失効
 
 
 
;人数
 
* 陸上自衛隊 約550人(基本計画で600人以下と制約)
 
* 海上自衛隊 約330人
 
* 航空自衛隊 約200人
 
 
 
;派遣機材
 
* 航空機 - [[C-130 (航空機)|C-130H]](輸送機)
 
[[Image:JASDF C-130H Iraq dispatch version.JPG|thumb|right|イラク派遣仕様のC-130H]]
 
[[Image:Image-JGSDF APC Type 96 at JGSDF PI center 3 rear.jpg|thumb|right|イラク派遣仕様と同じ[[日章旗|日の丸]]と国名の表記が施された[[96式装輪装甲車]]([[陸上自衛隊広報センター]])]]
 
* 艦艇 - [[輸送艦]]「[[おおすみ (輸送艦・2代)|おおすみ]]」、[[護衛艦]]「[[むらさめ (護衛艦・2代)|むらさめ]]」 : (基本計画上艦艇2隻以内および[[護衛艦]]2隻以内)
 
* 車両 - [[浄水セット]]、[[野外手術システム]]、[[ブルドーザー|ドーザ]]、[[掩体掘削機]]、[[グレーダ]]、[[グレードローラ]]、[[トラッククレーン]]、各種施設機材、[[軽装甲機動車]]、[[96式装輪装甲車]]、[[高機動車]]など200両以内
 
* 携行火器 - [[ミネベア 9mm自動拳銃|9mm自動拳銃]]、[[9mm機関けん銃]]、[[89式5.56mm小銃]]、[[64式7.62mm小銃]]、[[ミニミ軽機関銃|5.56mm機関銃MINIMI]]、[[カールグスタフ (無反動砲)|84mm無反動砲]]、[[パンツァーファウスト3|110mm個人携帯対戦車弾]]
 
* 個人装備 - [[防弾チョッキ2型]]、[[88式鉄帽]]、[[個人用暗視装置 JGVS-V8]]、防暑服4型、防暑靴4型など
 
;宿営地
 
* ムサンナー県サマーワ郊外(北緯31度16分・東経45度13分)、広さ約350ha
 
{{-}}
 
 
 
{{-}}
 
=== 活動内容 ===
 
[[画像:JDF Uniform01a.jpg|thumb|井上3等陸佐の[[迷彩服2型]]戦闘服左腕に貼りつけられた[[日章旗]]ワッペン]]
 
; [[陸上自衛隊]]
 
陸自による[[サマーワ]]での活動の3本柱は「給水」「医療支援」「学校・道路の補修」の人道復興支援活動であった。
 
 
 
* 給水
 
: 約5万3500トン(1日平均200トン、多い日で250トン以上を給水。延べ約1189万人分)
 
: 自衛隊が供給していた浄水装置の10倍強の浄水装置6基の寄贈、設置。
 
* [[医療]]支援
 
: 医官らがサマーワ総合病院を筆頭に医療機材の使用法などの医療技術の指導。(277回)
 
* [[学校]]等の公共施設の復旧・整備
 
: 学校(36校)
 
: 道路(31ヵ所、延べ約80km)
 
: 診療所(66ヵ所)
 
* 現地住民の雇用
 
: 公共施設の復旧などで1日平均700人の現地住民を雇用。
 
* 復興関連物資の輸送
 
 
 
; [[海上自衛隊]]
 
陸上自衛隊の派遣時に、車両約70両などの部隊輸送を艦艇で行った。(平成16年2月20日〜4月8日)
 
 
 
; [[航空自衛隊]]
 
空自は主に[[C-130 (航空機)|C-130]]輸送機による輸送活動が任務。拠点は[[クウェート]]のアリ・アルサレム空軍基地に置かれ、イラク南部[[ナシリヤ]]近郊のタリル飛行場との間を往復していたが、陸上自衛隊のイラク撤収に伴い多国籍軍・[[国際連合|国連]]のための輸送活動が強化され、危険性が高く避けられてきた[[バグダッド国際空港]]やイラク北部の[[アルビル]]へも活動を広げている。国連の人員・物資輸送は平成18年([[2006年]])[[6月20日]]の計画変更により任務となった。
 
* 人道復興支援活動
 
: 日本の人道復興支援関連物資や陸上自衛隊が使用する物資・隊員などを輸送。
 
* 安全確保支援活動
 
: イラクの治安回復活動に関連した多国籍軍の物資・兵員などを輸送。
 
兵員輸送と武器・弾薬の取り扱い
 
: 武器・弾薬の輸送は行わないとしており([http://www.kantei.go.jp/jp/koizumispeech/2003/12/09press.html 平成15年12月9日小泉首相記者会見])、[http://www.mod.go.jp/j/iraq/news/1218.htm 実施要項]の中でも同様に定められているが、兵員輸送などの際に兵士らが通常携行する[[小銃]]などの武器・弾薬は人員輸送の一環として輸送している([http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000116020040802002.htm 平成16年8月2日小泉首相答弁])。
 
 
 
輸送活動の実績(平成16年3月3日〜平成20年12月12日)
 
* 輸送回数:821回(ここでいう回数とは輸送を行った日数)
 
* 輸送物資量:673トン
 
 
 
=== 派遣部隊の交代 ===
 
==== 陸上自衛隊 ====
 
* イラク復興業務支援隊
 
:派遣期間は各期約6ヶ月。隊長は[[1等陸佐]]をもって充てられていた。
 
 
 
{|class="wikitable"
 
|+歴代のイラク復興業務支援隊
 
|-
 
!期||派遣期間||隊長||職種||派遣主力方面隊
 
|-
 
|1||2004年1月9日〜2004年8月1日||[[佐藤正久]]||[[化学科 (陸上自衛隊)|化学科]]||[[北部方面隊]]・約100名
 
|-
 
|2||2004年8月2日〜2005年1月23日||[[田浦正人]]||[[機甲科]]||[[東北方面隊]]・約90名
 
|-
 
|3||2005年1月24日〜2005年7月18日||岩村公史||[[普通科 (陸上自衛隊)|普通科]]||[[中部方面隊]]・約110名
 
|-
 
|4||2005年7月19日〜2006年1月22日||[[斎藤剛]]||[[航空科 (陸上自衛隊)|航空科]]||[[西部方面隊]]・約100名
 
|-
 
|5||2006年1月23日〜2006年7月29日||小瀬幹雄||[[施設科]]||[[東部方面隊]]・約100名
 
|}
 
 
 
* イラク復興業務支援群
 
:実活動期間は各期約3ヶ月(表中の期間は編成命令受領から隊旗返還まで)。1等陸佐の群長以下各期500名前後が任務に従事した。
 
 
 
{|class="wikitable"
 
|+歴代のイラク復興業務支援群
 
|-
 
!期||派遣期間||群長||前職||派遣主力部隊
 
|-
 
|1||2004年1月26日〜2004年6月10日||[[番匠幸一郎]]||[[第3普通科連隊]]長||北部方面隊[[第2師団 (陸上自衛隊)|第2師団]]
 
|-
 
|2||2004年4月27日〜2004年9月15日||[[今浦勇紀]]||[[第11後方支援連隊]]長||北部方面隊[[第11師団 (陸上自衛隊)|第11師団]]
 
|-
 
|3||2004年7月28日〜2004年12月18日||[[松村五郎]]||[[第21普通科連隊]]長||東北方面隊[[第9師団 (陸上自衛隊)|第9師団]]
 
|-
 
|4||2004年11月5日〜2005年3月11日||[[福田築]]||[[第20普通科連隊]]長||東北方面隊[[第6師団 (陸上自衛隊)|第6師団]]
 
|-
 
|5||2005年1月28日〜2005年6月10日||[[太田清彦]]||[[第35普通科連隊]]長||中部方面隊[[第10師団 (陸上自衛隊)|第10師団]]
 
|-
 
|6||2005年4月26日〜2005年9月3日||[[鈴木純治]]||[[第36普通科連隊]]長||中部方面隊[[第3師団 (陸上自衛隊)|第3師団]]
 
|-
 
|7||2005年7月19日〜2005年11月26日||岡崎勝司||[[第16普通科連隊]]長||西部方面隊[[第4師団 (陸上自衛隊)|第4師団]]
 
|-
 
|8||2005年10月11日〜2006年3月4日||[[立花尊顯]]||[[第43普通科連隊]]長||西部方面隊[[第8師団 (陸上自衛隊)|第8師団]]
 
|-
 
|9||2006年1月20日〜2006年6月10日||小野寺靖||[[第34普通科連隊]]長||東部方面隊[[第1師団 (陸上自衛隊)|第1師団]]
 
|-
 
|10||2006年4月28日〜2006年7月29日||山中敏弘||[[第30普通科連隊]]長||東部方面隊[[第12旅団 (陸上自衛隊)|第12旅団]]
 
|}
 
 
 
* 陸上自衛隊 後送業務隊
 
:陸上自衛隊のサマーワからの撤収支援を実施(2006年6月26日〜2006年9月9日)。<br />1等陸佐加治屋裕一隊長([[輸送科 (陸上自衛隊)|輸送科]])以下[[中央輸送業務隊]]や[[中央会計隊]]などを基幹に約100名で編成されていた。
 
 
 
==== 航空自衛隊 ====
 
* イラク復興支援派遣輸送航空隊
 
:各期の活動期間は約3ヶ月。[[1等空佐]]の司令以下約200名が16期、5年間にわたり輸送活動に従事した。
 
 
 
{|class="wikitable"
 
|+歴代のイラク復興支援派遣輸送航空隊
 
|-
 
!期||派遣期間||司令||期||派遣期間||司令
 
|-
 
|1||2004年1月〜2004年4月||新田明之||9||2006年3月〜2006年7月||西野厚
 
|-
 
|2||2004年4月〜2004年7月||日暮正博||10||2006年7月〜2006年11月||田中久一朗
 
|-
 
|3||2004年7月〜2004年10月||寒河江勇美||11||2006年11月〜2007年3月||岩本真一
 
|-
 
|4||2004年10月〜2005年1月||永井昭雄||12||2007年3月〜2007年7月||渡邊弘
 
|-
 
|5||2005年1月〜2005年4月||野中成竜||13||2007年7月〜2007年11月||新井正弘
 
|-
 
|6||2005年4月〜2005年7月||金子康輔||14||2007年11月〜2008年3月||赤峯千代裕
 
|-
 
|7||2005年7月〜2005年11月||池田吉夫||15||2008年3月〜2008年7月||関俊彦
 
|-
 
|8||2005年11月〜2006年3月||中島聡明||16||2008年7月〜2008年12月23日||北村靖二
 
|}
 
 
 
* イラク復興支援派遣撤収業務隊
 
:派遣輸送航空隊撤収後の残務処理に従事。司令は第3期派遣輸送航空隊司令を務めた寒河江勇美1等空佐が補せられた。
 
 
 
=== 部隊編成 ===
 
派遣された陸上自衛隊の部隊は次のような編成である。
 
* イラク復興業務支援隊(隊長:[[大佐#自衛隊|1等陸佐]])
 
* イラク復興支援群(群長:1等陸佐)
 
** 本部
 
** 本部管理中隊:整備小隊・通信小隊などから構成される。
 
** 施設隊
 
** 給水隊
 
** [[衛生兵#自衛隊の衛生要員|衛生隊]]
 
** 警備中隊(中隊長[[少佐#自衛隊|3等陸佐]])
 
* イラク復興支援[[警務官#軸上自衛隊警務隊|警務派遣隊]](隊長:3等陸佐)
 
* 後送業務隊
 
 
 
=== 表彰 ===
 
2006年(平成18年)11月27日に、イラク復興支援群の編成を担任した部隊等22個部隊等に対して、陸上幕僚長から第2級賞状、第3級賞状が授与された。第2級賞状を授与されたのは、[[第1師団 (陸上自衛隊)|第1師団]]、[[第2師団 (陸上自衛隊)|第2師団]]、[[第3師団 (陸上自衛隊)|第3師団]]、[[第6師団 (陸上自衛隊)|第6師団]]、[[第8師団 (陸上自衛隊)|第8師団]]、[[第9師団 (陸上自衛隊)|第9師団]]、[[第10師団 (陸上自衛隊)|第10師団]]、[[第11師団 (陸上自衛隊)|第11師団]]、[[第12旅団 (陸上自衛隊)|第12旅団]]、[[警務官#陸上自衛隊警務隊|警務隊]]、[[第1空挺団 (陸上自衛隊)|第1空挺団]]、[[中央輸送業務隊]]、[[特殊作戦群]]である。また、第3級賞状を授与されたのは、[[陸上自衛隊研究本部]]、[[陸上自衛隊補給統制本部]]、[[自衛隊中央病院]]、[[通信団]]、[[情報保全隊#陸上自衛隊情報保全隊|情報保全隊]]、[[北海道補給処]]、[[第1施設団]]、[[関東補給処]]、[[部隊訓練評価隊]]である。また、本任務に参加した隊員総員に対し第17号及び第35号(当時)[[防衛記念章]]が授与された。
 
 
 
また、同年12月14日には、テロ対策特措法及びイラク人道復興支援特措法に基づき派遣された自衛隊員(イラク派遣隊員・[[自衛隊インド洋派遣|インド洋派遣隊員]]で、[[幹部自衛官]]から下は[[2等陸曹]]まで)並びに在サマーワ外務省連絡事務所職員等約180名を[[明仁|天皇]]・[[皇后美智子|皇后]]が[[皇居]]宮殿で接見。
 
 
 
2007年(平成19年)2月8日には、第10期イラク復興支援派遣輸送航空隊(2006年8月25日から同年12月24日までの間任務に当った。司令は田中久一朗[[1等空佐]])及びその支援部隊に、[[久間章生]][[防衛大臣]]から第1級賞状が授与された(省移行後初の第1級賞状授与)。また、同日、[[齋藤隆]][[統合幕僚長]]から、田中久一朗1等空佐及び井筒俊司1等空佐に対して、第2級賞詞がそれぞれ授与された。
 
 
 
2007年(平成19年)3月13日に、訪日していた[[ジョン・ハワード]][[オーストラリアの首相|豪州首相]]は、小野寺靖1佐(元第9次イラク復興支援群長)以下12名の元日本部隊隊員と面会し、感謝の言葉を述べた。
 
 
 
== 経緯 ==
 
{{see also|イラク戦争の年表}}
 
 
 
=== 2003年(平成15年) ===
 
* [[7月26日]] [[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法]](イラク特措法)が国会で成立。
 
* [[11月29日]] 在[[イギリス|英国]]大使館参事官(45歳)と在イラク大使館三等書記官(30歳)が、イラク [[ティクリート]]近くを車で移動中襲撃を受け死亡。
 
* [[12月9日]] 派遣期間や活動内容、規模に関する「基本計画」(イラク人道復興支援特措法に基づく対応措置に関する基本計画)が臨時閣議決定。
 
* [[12月19日]] [[航空自衛隊]]の先遣隊に派遣命令。
 
* [[12月26日]] 航空自衛隊の先遣隊(48人)が出発。
 
 
 
=== 2004年(平成16年) ===
 
* [[1月9日]] [[陸上自衛隊]]の先遣隊(約30人)と航空自衛隊の本隊(約150人)に派遣命令が発令。
 
* [[1月16日]] 陸上自衛隊のイラク第1期派遣部隊の編成完結式を行う。
 
* [[1月17日]] 陸上自衛隊の先遣隊が[[クウェート]]に到着。
 
* [[1月19日]] 陸上自衛隊の先遣隊がイラクに到着。
 
* [[1月20日]] 陸上自衛隊の先遣隊がサマーワに到着。
 
* [[1月22日]] 航空自衛隊本隊の第1期派遣部隊(約110人)が出発。
 
* [[1月23日]] 航空自衛隊本隊が昨年派遣されたクウェートの先遣隊と合流。
 
* [[1月26日]] 航空自衛隊の[[C-130 (航空機)|C-130H]]輸送機3機と隊員(約50人)がクウェートに向け出発。
 
* [[1月31日]] 衆院本会議で自衛隊派遣承認案件が与党の賛成多数で可決。野党および一部の与党議員は採決に欠席。
 
* [[2月3日]] 陸上自衛隊の本隊第1陣(約90人)が出発。
 
* [[2月8日]] 陸上自衛隊の本隊第1陣がサマーワに到着。
 
* [[2月20日]] [[海上自衛隊]]の輸送艦「おおすみ」と護衛艦「むらさめ」が[[クウェート]]に向け[[室蘭港]]を出港。
 
* [[3月3日]] 航空自衛隊のC-130がイラクへ初任務。
 
* [[3月15日]] 海上自衛隊の艦船がクウェートに到着。
 
* [[3月24日]] 昨年12月以降、派遣されていた航空自衛隊約200人のうち約100人帰国。
 
* [[4月8日]] サマーワの宿営地近くに迫撃砲弾のようなもの<!--専門家によると、迫撃弾などではなく、歴然たるロケット弾だそうです-->が着弾。日本人3人が武装勢力に拉致される(後に解放、[[イラク日本人人質事件]])。<!--直接自衛隊イラク派遣とは無関係→自衛隊撤退を求めたのだから大いに関係あるはずでは?-->海上自衛隊の艦船が日本に帰着。
 
* [[4月14日]] サマーワ市内で自衛隊の撤退を求めるデモが行われる。
 
* [[4月16日]] 物資空輸を行う航空自衛隊の交代要員出国。
 
* [[4月23日]] 航空自衛隊の第1期派遣部隊(約200人)帰国。
 
* [[5月6日]] サマーワ市内で自衛隊の活動を支持するデモが行われる<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』169頁</ref>。
 
* [[5月8日]] 陸上自衛隊の第2期派遣隊(約140人)出発。
 
* [[5月15日]] 陸上自衛隊の第2期派遣隊の第2陣(約230人)出発。<!--6月1日 イラク暫定政府発足-->
 
* [[6月14日]] 航空自衛隊の第3期派遣要員前段者(約100人)出発。<!--6月28日 占領軍に代わり多国籍軍が発足、自衛隊も参加-->
 
* [[8月8日]] 陸上自衛隊の第3期派遣部隊第1陣(約140人)出発。[[多国籍軍]]に参加。
 
* [[8月15日]] 陸上自衛隊の第3期派遣部隊第2陣(約230人)出発。
 
* [[8月16日]] 陸上自衛隊第3期隊第1陣約140人のうち約60人サマーワ到着。
 
* [[8月23日]] 陸上自衛隊の第3期派遣部隊の第3陣(約130人)出発。
 
* [[9月6日]] 陸上自衛隊の第2期派遣隊の3陣(約140人)帰国。
 
* [[9月22日]] 航空自衛隊の第4期派遣隊の前期部隊(約100人)出発。
 
* [[9月27日]] 航空自衛隊の第3期派遣隊前段者(約100人)帰国。
 
* [[10月7日]] 米政府調査団の「大量破壊兵器は発見できなかった」という前日の報告書提出を受け、[[小泉純一郎|小泉首相]]は「国連決議にのっとり日本は(米国を)支持した。イラクが決議に従えば戦争は起こらなかった」と記者会見で発言。
 
* [[10月23日]] 自衛隊宿営地内に迫撃弾が着弾。
 
* [[10月27日]] [[大野功統]][[防衛庁長官]]がイラクの陸海空指揮官とテレビ会談。
 
* [[11月2日]] サマーワの陸上自衛隊宿営地内の荷物保管用コンテナに砲弾が貫通した疑い。
 
* [[11月10日]] 政府・与党は自衛隊イラク派遣1年延長の方針を固める。小泉首相が党首討論で「法の趣旨は自衛隊の活動している地域は非戦闘地域だ」と発言。
 
* [[11月11日]] サマーワ宿営地ゲート付近で自衛隊を支援するデモが行われる。
 
* [[11月13日]] 陸上自衛隊の第4期派遣部隊の第1陣(約200人)出発。
 
* [[11月13日]] [[オランダ]]内閣、[[2005年]][[3月]]にサマーワから[[国軍]]を撤退する閣議決定を了承。
 
* [[11月22日]] イラク外相、来年末まで自衛隊駐留延長を要望。
 
* [[11月27日]] 陸上自衛隊の第3期派遣部隊の第1陣(約120人)<!--約3カ月間の復興支援任務を終え-->帰国。
 
* [[12月4日]] 大野防衛庁長官が陸上自衛隊視察のため、サマーワへ出発。翌日部隊を視察。
 
* [[12月5日]] [[自民党幹事長]][[武部勤]]と[[公明党]]幹事長[[冬柴鉄三]]が陸上自衛隊視察のため、サマーワへ出発。
 
* [[12月9日]] 派遣期間を1年延長する自衛隊活動の基本計画変更を閣議決定。
 
* [[12月16日]] 物資を輸送する航空自衛隊のC-130輸送機1機(約15人)出発。
 
* [[12月18日]] 大野防衛庁長官が防衛庁からイラクの海・空指揮官とテレビ会談。
 
* [[12月20日]] 航空自衛隊の交代要員(約85人)出発。
 
 
 
=== 2005年(平成17年) ===
 
* [[1月4日]] イラク復興業務支援隊第3次要員に建設工事の専門家として[[防衛施設庁]]職員の2人が[[文民]]として派遣されることが明らかに。
 
* [[1月8日]] イラク復興業務支援隊第3次要員110人のうち約90人が出発。
 
* [[1月10日]] [[イギリス|英国]]の[[ジェフ・フーン|フーン国防相]]は[[イギリス軍|英軍]]400人を増派する方針を議会に報告。
 
* [[1月12日]] 防衛庁は現地時間11日、陸自の宿営地内に初めて信管付きロケット弾が着弾したことを発表。けが人はなし。
 
* [[1月17日]] [[オランダ]]政府は閣議で軍部隊約1400人を予定通り3月15日に全面撤退させることを確認。
 
* [[1月18日]] 航空自衛隊第5期派遣部隊(約100人)出発。
 
* [[1月22日]] 航空自衛隊第4期派遣隊の後期部隊(約100人)帰国。
 
* [[1月27日]] 大野防衛庁長官は、治安悪化、オランダ軍撤退に備え、給水要員を減らし警備要員を増やすことを発表。
 
** 英国のフーン国防相はサマーワに英軍部隊600人(220人は本国から新しく)を派遣し、治安維持にあたると発表。
 
* [[2月1日]] 陸上自衛隊第3期イラク派遣部隊の第2陣全員帰国。
 
* [[2月12日]] 陸上自衛隊第5期イラク派遣部隊の第2陣(約200人)出発。
 
* [[2月20日]] 陸上自衛隊第5期イラク派遣部隊の第3陣(約110人)出発。
 
** 陸上自衛隊第4期イラク派遣部隊の第1陣(約120人)帰国。
 
* [[2月22日]] [[オーストラリア]]政府の[[ジョン・ハワード|ハワード]]首相がイラク南部の兵員を増大することを決定。日本の要請によると発表。
 
* [[3月5日]] 陸上自衛隊第4期イラク派遣部隊の帰国第3陣(約140人)が帰国。
 
* [[4月25日]] オーストラリア軍の先遣隊(43人)がサマーワに到着。
 
* [[5月1日]] オーストラリア軍本隊第1陣(約450人)がイラク南部の治安維持活動のため、サマーワに入り始める。
 
* [[5月7日]] 陸上自衛隊第6期イラク派遣部隊(陸上自衛隊第3師団)の第1陣(約200人)出発。
 
* [[5月25日]] サマーワで、日本の自衛隊に反発する一部の住民らから投石される。
 
* [[6月]] サマーワ市内で落書きされた[[日章旗]]が張られたり、「自衛隊出て行け」といった張り紙が数度にわたって見つかる。
 
* [[6月23日]] 自衛隊の車列が仕掛け爆弾で攻撃され、高機動車1両のフロントガラスにひびが入る。けが人は無し。
 
* [[6月25日]] 陸上自衛隊第4次復興業務支援隊(約100人)が出発。
 
* [[9月28日]] 陸上自衛隊の撤収に関して検討に入ったことを、複数の政府筋が明らかにした。英豪軍が翌年5月撤収の検討に入ったため。
 
* [[9月29日]] 日米英豪4カ国ロンドンで外務・防衛担当者会談(〜[[10月3日]])。英豪軍がイラクに正式政府が発足する翌年前半に撤収することの検討を開始したことを確認。
 
* [[11月6日]] 陸上自衛隊第8次隊第3波の隊員約110人(うち女性10人)が熊本空港から出発した。クウェートでの訓練を経て、サマーワに入る。これで熊本、宮崎、鹿児島各県の部隊を中心に編成された8次隊の出国が完了した。
 
* [[11月6日]] サマーワ市内の公園で大きな爆発音が1回した。破壊力の弱い音響爆弾とみられ、負傷者はなかった。同公園は陸上自衛隊が復興支援で補修工事をした公共施設のひとつ。
 
* [[12月3日]] [[額賀福志郎]]防衛庁長官がクウェートとイラクを訪問。部隊を視察する。
 
* [[12月4日]] 改修工事を終えた養護施設の竣工式を外で警備していた隊員が、反米指導者[[ムクタダー・サドル]]派の民兵組織[[マハディ軍]]のメンバーら約50〜100名のデモ隊に取り囲まれる。デモ隊は武器は持っていなかったが、投石により[[軽装甲機動車]]のサイドミラーが破損。隊員は軽装甲機動車内に退避し無事。
 
* [[12月8日]] イラク特措法の1年再延長を閣議決定。合わせて英豪軍と同時の翌年前半に撤収することも検討。
 
* [[12月15日]] 14日のブッシュ大統領「開戦情報誤り」発言を受け、小泉首相「イラクが大量破壊兵器がないことを証明しなかった為だ」として、開戦を改めて支持。
 
 
 
=== 2006年(平成18年) ===
 
* [[1月6日]] 第5次隊要員約百人の出国報告式が[[防衛庁]]で行われた。現地で対外調整や情報収集に当たる。隊長は小瀬幹雄1等陸佐。朝霞(東京)、相馬原(群馬)、松本(長野)、駒門(静岡)等関東やその周辺の約30駐屯地の隊員を中心に構成されている。
 
* [[1月23日]] 日米英豪4カ国の外務・防衛課長級会談で、2月中にも正式政府が発足することから、英軍は8000人の駐留軍のうち、治安の安定している南部では地元警察に権限を委譲して、500人を3月に撤収を開始し5月に完了、年末までに2000人を撤退させる計画を伝える。
 
* [[1月31日]] 日本政府が英軍の撤収検討を受け、陸自撤収に向けた本格的な検討に入ったことを発表。英豪軍同様、2月中の正式政府発足を待ち、陸自のみ3月から5月にかけて段階的に撤収を行うこと、代わって空自の輸送活動の対象を24空港に拡大することなどを検討。
 
* [[2月7日]] イラク派遣隊員と[[埼玉県]]の[[西武台新座中学校・西武台高等学校|西武台高等学校]]生徒とのテレビ会議を開催。
 
* [[2月16日]] 防衛庁が陸自の撤収計画を公表。3月末から「撤収支援隊」をサマーワに10名、[[クウェート]]に100名程度派遣し、5月まで2ヶ月かけてサマーワ駐留隊員600名をクウェートへ移動して支援隊と合流、さらに2ヶ月かけて装備の洗浄と梱包した後、7月中に全員が帰国する。空自による多国籍軍への輸送支援任務は継続して行う。
 
* [[2月24日]] 日米英豪の防衛会談。政権発足の難航と22日からの宗派対立によって3月からの日英豪軍の撤退が不透明となる。
 
* [[3月3日]] [[産経新聞]]が日米英豪の政府間調整が難航していると報道。
 
* [[3月4日]] [[読売新聞]]と[[朝日新聞]]が3月中の陸自撤退開始が困難であると報道。
 
* [[3月10日]] 政府が5月撤退完了を断念する見込みであることが判明する(産経新聞)。
 
* [[3月18日]] 日米豪3国外相による戦略対話が行われる。テロ対策や[[中華人民共和国|中国]]の伸張に対して会談するも、イラク撤退について具体的な議論は行われなかった。
 
* [[3月22日]] [[小泉純一郎|小泉]][[内閣総理大臣|首相]]、自衛隊撤退は日本が独自の判断で行うと声明。
 
* [[3月29日]] 米[[ジョージ・ウォーカー・ブッシュ|ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が小泉首相と自衛隊を賞賛。合わせて、日本の民主化の成果を誇示。
 
* [[4月9日]] [[麻生太郎|麻生]]外相、自衛隊の撤収次期がこの年9月以降となる可能性を示唆。
 
* [[5月1日]] [[額賀福志郎|額賀防衛庁長官]]がワシントンで英豪軍と同時撤収の意向を表明。
 
* [[5月6日]] 第10次イラク復興支援群(山中敏弘 1等陸佐以下、第12旅団主力500名)の部隊編成。翌日に第1波がクウェート入り。
 
* [[5月17日]] 来日した[[コフィ・アナン]][[国際連合事務総長|国連事務総長]]が小泉首相との会談で、イラクで活動する[[国際連合|国連]]の人員・物資を空輸するよう要請。首相「前向きに対応したい」として協力を示唆。
 
* [[5月20日]] イラクで[[イラク正式政府|正式な政府]]が発足する。
 
* [[5月31日]] サマーワ近郊で自衛隊と豪軍の車列が走行中、豪軍車両の付近で爆弾が爆発。車両は軽微に損傷したが、負傷者は無し(翌日に発表はあったが、ほとんど報道されなかった)。
 
* [[6月4日]] 日米英豪4カ国防衛相が[[シンガポール]]で会談。陸自撤退は4国で緊密に連携するとしつつ、時期は明らかにしない。ラムズフェルド長官は空自の活動をバグダッドまで拡大するよう打診。
 
* [[6月15日]] 日米英豪4カ国の外務・防衛実務者が[[ロンドン]]で協議。英政府がムサンナ県の治安権限移譲の発表を20日に行うと各国に通告。これを受け、日本政府も陸自撤退の検討を再開した。なお、英政府スポークスマンは[[英国放送協会|BBC]]に対し、権限移譲の発表から最大45日間は英軍を撤収しないと述べている。
 
* [[6月19日]] イラク政府の[[ヌーリ・マリキ|マリキ首相]]が、7月にムサンナ県の治安権限を英軍から移譲される旨を発表。
 
* [[6月20日]] 日本政府が安全保障会議で陸上自衛隊の撤収を正式決定し、[[小泉純一郎|小泉首相]]が午後1時の記者会見で発表。決定に基づき、[[額賀福志郎|額賀防衛庁長官]]が陸自に撤収を命令した。同時に撤収支援を行う「後送業務隊」約100名の編成を命令し、6月中にクウェートへ派遣され、サマーワの駐屯隊員をクウェートへ移送、順次帰国させる。最速で7月末に全員が帰国する予定とした。この撤収決定を受け、駐日イラク大使館は同日に陸自の活動を賞賛・感謝する声明を発表した。一方、航空自衛隊はイラク北部のアルビルへの空輸任務が追加された。なおこの日、旧バース党のサマーワ市幹部が何者かに殺害された。
 
* [[6月25日]] 民間輸送業者によって、サマーワ宿営地から支援物資・機材の搬出を開始。クウェートへ移送する。この日、サマーワ中心部で2度の爆発が起こる。
 
* [[6月26日]] サマーワからの撤退を支援する、後送業務隊(約100名)の出発式。同日クウェートへ出発。この日、人員輸送のためタリル飛行場へ向かっていた[[軽装甲機動車]]1両がタリル飛行場の手間約10kmの地点の盛り土状の道路を走行中、路面の窪みを避けようとした際にハンドルを取られ脱輪、斜面をずり落ちるように横転した。この事故により搭乗者3人が負傷し車両は自走不能となる。単なる[[交通事故]]で攻撃の可能性無しと発表。
 
* [[6月29日]] サマーワ宿営地周辺を警戒中だった陸上自衛隊の小型無人ヘリコプター(RMAX Type II G)1機が、同宿営地の北約3kmの地点の空き地に墜落。陸上自衛隊は機体を回収し原因を調査中としているが、故障か操作ミスが原因とみている。
 
* [[7月]]初め 撤収に理解を求め、隊員の安全を確保する目的で、サマーワ市民向けに自衛隊の復興支援の成果を紹介する[[テレビ]][[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]の放映を開始。
 
* [[7月2日]]・[[7月4日|4日]] サマーワの警察官がデモを行い、ムサンナ県庁に投石。サマーワ警察長官は辞任し、ムサンナ県知事も治安権限委譲後に辞任すると表明した。このころ、サマーワ市幹部が再び殺害され、英軍を狙った爆発(被害なし)も起こるが、自衛隊の撤収計画に影響は無いとしている。
 
* [[7月4日]] 航空自衛隊[[小牧基地]]所属の池田頼将三等空曹が派遣先のクウェートのアリ・アルサレム空軍基地周辺で米軍主催の長距離走大会に選手として参加中、米軍の大型バスに後ろから撥ねられ重傷を負う。帰国後、外傷性[[顎関節症]]と診断され、[[身体障害者]][http://www.mhlw.go.jp/bunya/roudoukijun/rousaihoken03/index.html 4級]に認定される。帰国させてくれるよう何度も申し出たが無視され、まともな処置がされずに障害が残ったとして国を提訴<ref>[http://iryou.chunichi.co.jp/article/detail/20120927130724619 イラク派遣の空自隊員 「事故隠し」と国提訴へ] 中日新聞2012年8月27日</ref><ref>[http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2701D_X20C12A8000000/ イラク派遣元空自隊員が国を提訴へ 現地事故で重傷] 日本経済新聞 2012年8月27日</ref>。
 
* [[7月7日]] 撤収第1派の約30名がクウェートへ移動。サマーワからタリル飛行場までは英軍ヘリ、飛行場からクウェートのアリ・アルサレム空軍基地までは航空自衛隊のC-130H輸送機で移動した。隊員の安全の為として、防衛庁は直前にクウェートでの取材を拒否した。
 
* [[7月13日]] [[ムサンナ県]]の治安権限が英軍主導の多国籍軍からイラク軍へ移譲される。
 
* [[7月16日]] 額賀防衛庁長官がクウェートを訪問し、撤収した隊員を激励。装備品の梱包状況などを視察する。
 
* [[7月17日]] '''陸上自衛隊がサマーワから全面撤収'''。宿営地に最後まで残った隊長以下、撤収第6派の220人がC-130H輸送機でクウェート入り。額賀長官と[[金田勝年]]外務副大臣も到着に立会う。なお、自衛隊撤収後の旧宿営地でイラク軍と地権者の間で銃撃戦が起こる(旧宿営地の使用権について自衛隊・イラク軍・地権者それぞれに通達の行き違いがあったためだが、戦闘の直接の原因は、自衛隊が地元向けに置いて行った電機製品の奪い合いによるもの)。
 
* [[7月18日]] 額賀長官がクウェート市内のホテルで、サマーワ宿営地を16日にイラク陸軍に引き渡した事を発表。サマーワ周辺の治安を担当するイラク陸軍第10師団第2旅団が司令部として使用する予定。
 
* [[7月20日]] 第10次イラク復興支援群の帰国第1陣(173人)が日本に到着。
 
* [[7月23日]] 帰国第2陣(約140人)が民間チャーター機で日本に到着。
 
* [[7月25日]] 山中敏弘群長ら帰国最終の第3陣(277人)が日本に到着し、派遣された第10次イラク復興支援群と第5次復興業務支援隊の約600人全員の帰国が完了した。山中群長は羽田空港で「任務を完遂し無事帰国できてうれしい。この2年半、国民のみなさんの支援、声援にお礼を言いたい」と話した。なおこの日、隊員の帰国に民間チャーター機が利用されたことに対し、航空労組3団体が「民間機が攻撃対象となる恐れがあった」などと防衛庁に抗議した。
 
* [[7月29日]] 陸上自衛隊第10次復興支援群などの隊旗返還式が[[朝霞駐屯地]]で開かれた。式には第10次復興支援群と第5次復興業務支援隊の約600人の隊員とその家族、国内に残った予備要員約80名、小泉首相、麻生外相、額賀防衛庁長官、イラクのジュマイリ駐日大使などが出席した。式典で小泉首相は「全員が無事帰国できた<ref>死者・負傷者の項参照。</ref>という事は、日本国民として、また、日本国の総理大臣として、諸君の活動を誇りに思っているところであります」と述べ、部隊を表彰した。また、ジュマイリ駐日大使は「イラク国民、サマーワ市民は自衛隊の素晴らしい活動に感謝している」と述べ、感謝の意を表した。隊員や家族らが見守る中、第10次復興支援群の山中敏弘群長が額賀長官に隊旗を返還し、陸上自衛隊は約2年半にわたるイラク人道復興支援活動の任務を完了した。
 
* [[7月31日]] 航空自衛隊のC-130H輸送機が活動範囲の拡大し[[クウェート]]の[[アリ・アルサレム空軍基地]]から[[バグダッド国際空港]]へ多国籍軍の兵士等をはじめて輸送した。
 
* [[9月2日]] 派遣部隊が[[2004年]][[5月23日]]に宿営地から出る際、軽装甲機動車の車載[[ミニミ軽機関銃|5.56mm機関銃MINIMI]]が暴発し、実弾2発が発射(これによる被害は無い)されていたにも係わらず、現地部隊がすぐに防衛庁に報告していなかったことが分かった。
 
* [[9月9日]] - 陸自の撤収支援を行なっていた後送業務隊(約100人)が日本に到着。陸自の活動が終結。
 
* [[10月11日]]〜[[12月10日]] - [[陸上自衛隊広報センター]]で[[東部方面隊]]主催による「イラク人道復興支援活動特別展」が開催される。 初日のオープニングセレモニーには在日本イラク大使館付[[駐在武官]]のサミ・アンカハジ[[准将]]も出席して謝辞を述べた。
 
* [[11月27日]] - イラク復興支援群の編成を担任等した陸自各部隊等に対して、陸上幕僚長から第2級、第3級賞状が授与された。
 
* [[12月14日]] - 派遣隊員及び在サマーワ外務省連絡事務所職員等約180名に天皇・皇后が[[皇居]]宮殿で接見。
 
 
 
=== 2007年(平成19年) ===
 
* 1月27〜31日 - [[統合幕僚長]]の齋藤隆[[海将]]が中東地域を歴訪した。29日には第11期イラク復興支援派遣輸送航空隊を視察した。統合幕僚長による輸送航空隊の視察は初めて。
 
* 2月21日 - [[安倍晋三]]首相は、[[ディック・チェイニー]]米副大統領と会談し、「航空自衛隊の活動や[[政府開発援助]] (ODA) を通じてイラクを支える」と航空自衛隊の派遣継続を伝えた。
 
* 3月30日 - 政府は、[[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法|イラク特措法]]の2年延長案を閣議で決定した。
 
* 6月20日 - イラク特措法改正。派遣期限を2年延長。
 
* 10月19日 - 民主党が[[イラク復興支援特別措置法廃止法案]]を参議院に提出。
 
 
 
=== 2008年(平成20年) ===
 
* 4月17日 - [[名古屋高等裁判所]]([[青山邦夫]]裁判長)は、他の同種の訴訟と同じく、自衛隊イラク派遣についての違憲の確認と派遣の差し止め、及び損害賠償を求める原告に対し、全面敗訴の判決を下した。ただし、[[傍論]]として、[[航空自衛隊]]部隊が多国籍軍兵士をバグダッドに輸送している事に鑑み、“戦闘地域での活動”とし、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ず、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、[[日本国憲法第9条]]に違反する活動を含んでいるとする問題点を指摘した。差し止め自体は棄却し、勝訴した国は上告できず、判決は確定した。([[長沼ナイキ事件]]1審判決以来の自衛隊違憲判決)[http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=36331&hanreiKbn=03]。
 
* 11月28日 - 安全保障会議で派遣輸送航空隊の撤収を決定。防衛省は輸送活動の終結と撤収業務隊の編成命令を発出<ref>[http://www.mod.go.jp/j/news/2008/11/28c.html イラク特措法に基づく自衛隊の対応措置の終結に関する命令等の発出について] 防衛省 2008年11月28日</ref>。
 
* 12月23日 - 派遣隊員約140人が、政府専用機で県営名古屋空港に帰還。
 
* 12月24日 - イラク復興支援派遣輸送航空隊の隊旗返還式が[[小牧基地]]において[[麻生太郎]][[内閣総理大臣]]臨席の元執り行われる。
 
 
 
=== 2009年(平成21年) ===
 
* 2月10日 - 撤収業務の終結に関する命令を発出<ref>[http://www.mod.go.jp/j/news/2009/02/10b.html 航空自衛隊イラク復興支援派遣撤収業務隊による撤収業務の終結に関する命令の発出について] 防衛省 2009年2月10日</ref>。
 
* 2月14日 - イラク復興支援派遣撤収業務隊が帰国。自衛隊イラク派遣に関するすべての任務が終了<ref>[http://www.mod.go.jp/j/sankou/jinji/2009/02/16.pdf 2009年2月16日付防衛省人事発令]</ref>。
 
* 7月3日 - 午前の閣議でイラク特措法に基づく活動について「わが国はイラク再建に貢献し、貴重な経験を獲得した」などとする結果報告を了承し、国会に提出した。
 
 
 
== サマーワの反応 ==
 
[[File:17.11.19 イラク人道復興支援活動・浄水場の施工状況を確認する隊員 R 国際平和協力活動等(及び防衛協力等) 9.jpg|thumb|浄水場の施工状況を確認する隊員]]
 
[[画像:いい写真 R 国際平和協力活動等(及び防衛協力等) 26.jpg|thumb|[[サムズアップ]]する現地の少年と[[軽装甲機動車]]に乗車している隊員]]
 
第1次イラク復興業務支援隊の[[佐藤正久]]1佐は、到着直後から積極的に地元首長など有力者と接見し、自衛隊の活動への理解を求め、住民側はこれを快く受け入れた。これは当初、サマーワの住民が、自衛隊が派遣されることにより雇用問題などが劇的に解決されると過剰に期待していたことから<ref name="佐藤34">佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』34頁</ref>、これを訂正する目的もあった。佐藤1佐が帰還する際、有力者に率いられた住民が、宿営地前で[[デモ活動]]をして、これが当初、自衛隊に反対するデモと見られたが、実際は[[日本の国旗|日章旗]]を振りながら佐藤1佐に感謝するデモ活動であった。
 
 
 
自衛隊では地元住民と融和する為、文房具を配ったり<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』48-49頁</ref>、各部族長に[[羊肉]]を贈答したり<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』50-51頁</ref>、子供達の前で演奏会を行い<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』56頁</ref>、'''スーパーうぐいす嬢作戦'''を行うなど、様々な対策を行った。「スーパーうぐいす嬢作戦」とは、日本の選挙活動での[[街宣車]]うぐいす嬢を捩ったもので、車両で移動する際に市民を見かけたら、自衛隊員から手を振るようにしたものである。この作戦の成果は絶大で、自衛隊の車両が通るときには子供達が自分から手を振るようになった。車列を組む為に車道に進入する際は、地元の車両に対して機銃等ではなく、手を使って合図を送った。また日本の風習を紹介しようと[[こいのぼり]]を記事にしたところ、「鯉が竜神になる」点が[[唯一神教]]の[[イスラム教|イスラーム教]]のタブーにふれる事を指摘され修正するなど、地元住民の宗教に対しても気をつかった<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』129-130頁</ref>。佐藤は地元住民との友好関係を「信頼と安全の海」と述べている<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』77頁</ref>。
 
 
 
しかし、自衛隊の主要任務は[[水道]]・[[病院]]施設などの[[インフラストラクチャー]]整備による復興計画であり、直接的な雇用の回復などを期待していたサマーワの住民の思惑とは違っていた<ref name="佐藤34"/>。自衛隊との思惑の齟齬でサマーワ市内で自衛隊撤収を求めるデモが起こるが、その数日後には、治安の悪化や劇的ではないにしろ助けにはなっていると、自衛隊の活動を支持するデモも行われる。また、[[迫撃砲]]・[[ロケット弾]]による宿営地攻撃が13回計22発にわたって発生したが、奇跡的に死傷者は出なかった。地元警察、オランダ軍、友好的住民がすぐかけつけるため、照準修正ができなかった事が原因とされる<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』158頁</ref>。さらにサマーワは地方都市であるため首長間や住民同士の付き合いが濃密で、市外からのテロリスト・武装勢力が侵入しにくい点が、専守防衛に徹しなければならない為にテロを阻止することができない自衛隊の救いになっている。首長の1人は「日本の自衛隊を攻撃したものは一族郎党皆殺しにする」と公言し、自衛隊の安全確保に一役買った<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』139-140頁</ref>。
 
 
 
[[2005年]](平成17年)[[1月19日]]に陸上自衛隊をイラクのサマーワに派遣してちょうど1年を迎えるにあたって、同年1月上旬<!--[[1月1日]]から[[1月6日]]まで-->に地元紙アッサマワが現地のムサンナ州の住民1000人を対象アンケート調査が行われた。その調査によると、日本国政府の陸上自衛隊派遣延長についての支持が78%、不支持は13%であることが明らかになった。また、自衛隊の活動に対して不満と答えた人は約3割おり、その主な理由を「事業が小規模」とあげた人が半数近く上るなど、大規模な都市整備などの活動が望まれている。自衛隊の望ましい駐留期間も、「1年」と「1年以上」で約70%以上を占め、2004年の調査の結果とほぼ変化はなかった。
 
 
 
オランダ国軍が2005年(平成17年)3月でイラク派遣(ムサンナ州の警備)を終了する旨を表明。当初、撤収の後には米軍か英軍が進駐すると思われ、その際にはこれらを狙う武装勢力も侵入する恐れがあり、自衛隊の安全が保たれるか不安の声が上がった。また武装勢力によってサマーワの治安が悪化することも考えられたが、オランダを引き継いでムサンナ州入りしたのは、米軍よりは評判のよい[[オーストラリア]]軍と英軍であり、混乱は起こらなかった。
 
 
 
しかし、2005年(平成17年)5月末から6月にかけて、自衛隊への投石、日章旗落書き、手製爆弾攻撃(負傷者なし)が一時的に発生した。このため急遽、任務が終わった給水要員の一部を転用して警備要員を増やし、宿営地外での活動を3時間から1時間に削減するなどの対応をとった。用件を1時間以内で終わらせて宿営地へ帰還する自衛隊に対し、市民からは「自衛隊は市民を怖がっている」「自衛隊は隠れているだけ」といった批判も聞こえるようになった。
 
 
 
これらの事件の背景には、自衛隊の活動内容と一部の地元首長や住民の要望に乖離があったためと見られるが、日本はサマーワに対して資金的な援助(道路・橋梁・学校・病院の建設や修繕にかかわる援助と円借款)も行っており、この資金の分配(主に地域別の建設や修繕の優先順位)を巡って首長間の意見対立が起こり、一連の事件の要因になっているとも言われる。事件後に陸上自衛隊がサマーワ市長に苦言を告げたところ、このような行動は一切無くなった。また自衛隊では、これらの事件のたびに各首長と面談し、自衛隊の活動に理解を求めると共に、自衛隊の活動停止をカードとして、首長や住民代表と慎重な調整を行っており、サマーワの平穏をもたらしてきた。
 
 
 
日本政府は[[2006年]](平成18年)6月に自衛隊の撤収を命令した。これを受け、[[共同通信社]]がサマーワ市民に、自衛隊の活動に対する評価アンケートを行ったところ、78.7パーセントが復興支援に「満足している」と答えた。一方、「自衛隊は占領軍である」と答えた住民は12.4パーセントで、過去4回の調査で初めて1割を超えた。朝日新聞が8月31日に発表した調査では、自衛隊駐留に対し肯定的評価が71パーセント。自衛隊の活動について、「人々に大いに役立った」が28パーセント、「ある程度役立った」が39パーセントという評価となった<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』194頁</ref>。自衛隊は給水水量5万3500トン、医療技術指導277回、新生児死亡率1/3、総雇用人員48万8000人の数字を残して撤収した<ref>佐藤『イラク自衛隊「戦闘記」』192頁</ref>。
 
 
 
撤収発表と前後して、サマーワ市内や郊外で爆発や市幹部の暗殺が発生した。イラクの他の地域より安定しているとされてきたサマーワも、治安の悪化が問題となっている。
 
 
 
自衛隊のサマーワ撤収より6年後、2013年3月20日、朝日新聞の元現地助手が報告したところによると、自衛隊による道路の整備については質が悪く、多くをやり直す必要があったとして「失敗」としている。ただ、サマーワの人々の批判は、自衛隊ではなく、武装勢力の妨害や州政府の腐敗に向かっており、自衛隊には感謝しているとされる。また、サマーワの[[病院]]への支援や、[[火力発電所]]の建設は高く評価されている。サマーワの病院では難しい[[手術]]を実施できるようになり、イラクの南部地域でも最高のレベルの医療技術を持つようになったという。他、復興支援活動で、莫大な資金が投入された結果、人々の経済格差が開いたともされる<ref>{{cite news |title=【イラク戦争10年】サマワからの報告 自衛隊駐留が残したもの |newspaper=[[朝日新聞|Asahi中東マガジン]] |date=2013-3-20 |url=http://middleeast.asahi.com/report/2013032000004.html |accessdate=2014-9-13 |author=ナイフ・カードム}}</ref>。
 
 
 
== サマーワ・ムサンナー県の治安状態 ==
 
陸上自衛隊活動期間中のサマーワを中心としたムサンナー県の治安に関わる主な攻撃・事件。
 
 
 
; 陸自に関わるもの
 
:* 陸自宿営地に対する[[迫撃砲]]・[[ロケット弾]]の攻撃が計13回発生(各1発〜3発程度)計22発<ref>[[防衛庁]] 「[http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2006/2006/html/i1130000.html 南東部ムサンナー県の治安情勢]」『平成18年版防衛白書』 2006年、第1章第3節(3)</ref>。
 
:: 2004年10月22日から2005年7月4日まで4回連続して各1発ずつのロケット弾が宿営地内に着弾した。うち2004年10月31日の攻撃は、宿営地西側に置かれた荷物用コンテナを貫通した。当時の隊員の宿舎はテントであったが、陸上自衛隊は隊員の安全強化のため砲弾を通さないコンクリート宿舎を築造した<ref name="tokyo-np">「[http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2008071390071055.html 陸自への攻撃 13回22発着弾 イラク・サマワ派遣 詳細判明」] 東京新聞 2008年7月13日</ref>。
 
:* 2005年6月23日 - サマーワ郊外で陸自車両に対する路肩爆弾([[即席爆発装置|IED]])による攻撃(車両が破損)<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/features/gulf2/200506/gu20050624_01.htm 「陸自車列、爆弾で破損-けが人なし 遠隔操作装置発見」] YOMIURI ONLINE 2005年6月24日</ref>。
 
:: 路肩爆弾による攻撃の発生は、これがイラクで活動する米兵に対する主要な攻撃法であり、また米兵の主要な死亡要因であるため治安の悪化が懸念された。
 
 
 
; 空自に関するもの
 
:* 米兵をバグダッド空輸の際、地上から携帯ミサイルで狙われた。<ref>2014年6月30日[[中日新聞]]朝刊1面</ref>
 
 
 
; オランダ軍に関わるもの
 
: オランダ軍部隊は陸自と同じくムサンナー県で活動していた。陸自が人道復興支援活動を行なうのに対してオランダ軍は治安維持活動にもあたっていたため、武装勢力などとの衝突もいくらか発生し、2005年3月のイラク撤収までに死者2人を出す一方で、任務活動によってイラク人数人を殺害ないし死亡させている。
 
 
 
:* 2004年5月10日 - サマーワ中心部で警備中に[[手榴弾]]の攻撃があり、オランダ軍兵士1人が死亡、1人が重傷を負った<ref>[http://www2.asahi.com/special/iraqrecovery/TKY200405110156.html サマワでオランダ兵1人死亡、手投げ弾攻撃受ける] asahi.com 2004年5月11日</ref>。
 
 
 
:* 2004年8月14日 - サマーワ近郊のルメイサで、パトロール中の車両にロケット弾の攻撃があり、オランダ軍兵士1人が死亡、5人が重傷を負い、武装勢力側のイラク人2人も死亡した<ref>[http://news.kyodo.co.jp/kyodonews/2004/iraq4/news/0815-2013.html オランダ兵1人が死亡 サマワ近郊、武装勢力襲撃] 共同通信 2004年8月15日</ref>。
 
 
 
:* その他パトロール隊などへの攻撃に加え、オランダ軍の宿営地に対しても陸自と同様の攻撃が継続して発生した。
 
 
 
; 地元住民に関わるもの
 
: サマーワでは停電や雇用に関する不満が大きく、地元行政当局などに対して住民によるデモが度々起こり、暴徒化によって警官隊との銃撃戦に発展することもある。特に2005年8月7日の州知事の解任を要求した1000人以上の大規模デモでは、暴徒化によりデモ隊の1人が死亡、警官20人を含む約60人が負傷する事態となった<ref>[http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt57/20050807SSXKA048307082005.html イラクのサマワでデモ暴徒化・警官発砲、1人死亡60人負傷] NIKKEI NET 2005年8月7日</ref>。
 
 
 
== 論点 ==
 
自衛隊のイラク派遣の是非はとりわけ否定的な意見が大多数のマスコミにより煽動的に取り上げられたこと、故に全国で多数の自治体が反対、あるいは慎重な対応を求める決議を採択したこと<ref>[http://homepage1.nifty.com/anpohaikikanagawa/iraq-ketugi.htm 自衛隊のイラク派兵反対自治体決議一覧/04年04月14日]安保破棄中央実行委員会</ref>など、日本国内などで大きな論争となった。
 
小泉純一郎首相が「どこが非戦闘地域で、どこが戦闘地域か、私に聞かれたってわかるわけがない」「自衛隊が活動する所が『非戦闘地域』」など憲法や自衛隊員の生命よりもアメリカに忠節を尽くす事の方を優先する姿勢にも反発を招いた。
 
 
 
=== 前提となる主張 ===
 
大きく2つに分かれる。以下の「[[#派遣そのものについて]]」「[[#派遣延長について]]」には、同じ項目に挙げられていても、異なる前提が混じっているので注意が必要である。
 
 
 
一つは、軍隊という「力」が必要不可欠とする立場である。従って、軍事による協力を最も高く評価し、[[再軍備]]のための[[憲法改正論議]]とも話題が関連する。また、軍事力以外の選択肢はそれ自体が「テロに屈した」と非難されることになり、戦争の正当性への疑問は無視するか、民主化などの大義名分を挙げて反論する。いわば非妥協の戦いである。基本的に自衛隊派遣に賛成であり、反対する場合も、再軍備して軍隊としての力を付けてから派兵すべきという但し書きが付く。
 
 
 
もう一つは、軍隊の評価に消極的な立場である。できうる限り民間によって復興させるべきであり、軍事力はむしろ敵意を高めるという主張である。たとえ「テロリスト」を軍事力で潰したとしても、背後に民衆の支持がある限りは屈服させられない、という認識である(さらに進んで、攻撃する側こそテロリストだとする見解もある)。
 
 
 
また、イラク戦争の場合、派兵そのものが侵略であり、許されないとする見解が、軍隊消極派はもとより、軍隊肯定派の一部にも存在する。これは、[[開戦事由|開戦の理由]]とした[[大量破壊兵器]]所持疑惑などが、ことごとく誤りであり、ついに正当性を証明できなかったからである([[イラク武装解除問題]]参照)。当然ながら自衛隊派遣に反対であるが、代案についてはボランティアの派遣や原住民に対する物資援助で自助努力に期待する、さらに[[国連平和維持活動|PKO]]での派遣なら賛成するなど、見解が分かれる。
 
 
 
=== 派遣そのもの ===
 
* '''肯定的な意見'''
 
# そもそも、派遣地域が支援を必要としている。
 
# 治安が不安定なイラクで支援するには自衛もしくは護衛が必要であり、自衛能力を備えた自己完結組織である自衛隊が適している。
 
# [[アメリカ合衆国]][[ジョージ・W・ブッシュ|ブッシュ政権]]に貸しを作ることにより見返り(特に[[北朝鮮による日本人拉致問題]]の解決のための国際的支持)が得られるなど、[[日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約|日米安保]]による事実上の同盟を更に堅固なものにすることで、日本は様々な[[国益]]を得る。
 
# 自衛隊が給水活動を行ったところ、乳幼児の死亡率が3分の1に減った。きれいな水を支援するだけで目に見えて変化があるため、派遣している意義は大きい。
 
# サマーワ市民の期待に添えなかったとしたら、日本の自衛隊は[[憲法第9条]]を遵守しているためである。他国の軍隊・国軍の活動とは違い、自衛隊の行動や活動には制限がある。[[2004年]][[5月]]、新しく統合した[[欧州連合|EU]]は、米国一国による世界の国際紛争の解決を懸念し、独自で軍事力を強化している。世界的に軍隊や軍事力は国際紛争の解決の手段(…及び、外交の手段)として重要なままである。
 
# [[赤十字]]といった国際的機関も撤退し、観光目的などで渡った日本人が拉致や殺害されるなどイラクの治安は悪化している。このような地域で自衛能力を有した集団以外の活動は困難である。非武装で活動すればテロに対して格好の標的になり、逆に地元軍・警察や所属国家の手を煩わせることになりかねない。そのため、[[非政府組織]]による復興を大規模に行うにはまだ危険であり、復興支援のごく初期段階を自衛隊が行うことは非効率性を差し引いてももっとも確実であるといえる。イラク戦争に反対の姿勢を取っていたカナダも、復興支援のために民間でなく軍の機材を提供している。
 
# イラク武装勢力に拉致拘束された自国民を解放するため、[[フィリピン]]政府が自国の軍隊をイラクから撤退させたことは、 米・英・[[オーストラリア|豪]]など参戦国から「テロに誤ったメッセージを与え、更なるテロを助長した」などの批判が浴びせられた。今更自衛隊を撤退させても、テロに屈したとみなされ日本の国際的な地位や信用を無くすだけである。
 
# [[小川和久]]によれば、民生協力によって社会資本の再建を手助けすることは、(貧困がテロを深刻なものにしている一因であることを考慮すれば)テロの温床を根絶することにつながる。これは日本国憲法の前文が示している精神にも適うことである。日本にとっては[[テロリスト]]と[[大量破壊兵器]]の結びつきが現実的脅威となるため、たとえアメリカと同盟関係になくとも、独自に[[対テロ戦争]]に関わっていくことになるだろうし、[[アメリカ合衆国]]とはこの点において利害が一致しているに過ぎない。貸しを作ることによる見返りを期待することが目的ではないと指摘している。
 
 
 
* '''否定的な意見'''
 
# 自衛隊の派遣は米国によって「[[有志連合]]」の一員と見なされている。現地の報道でも日本軍として報じられている。また、自衛隊による輸送は復興支援物資だけではなく、多国籍軍の輸送も行っており、[[兵站]]支援であるから戦闘目的の一部であり、武力行使を禁じた憲法第9条違反である。
 
# [[イラク日本人人質事件]]が自衛隊イラク駐留を原因とするという主張がある。
 
# 自衛隊の派遣は戦闘目的ではなく復興支援である(という立場から)。米は復興支援要員を少なくすることが出来るので戦力を大きくさせることにつながる。
 
# これまでの自衛隊の海外派遣は、主に[[国連平和維持活動]](PKO)の下で活動しており、今回のイラク派遣は国連指揮下ではないことが問題である。
 
# 非武装中立で経験の長い[[非政府組織]]の復興活動に比べ自衛隊による復興支援は極めて非効率的な上、日本の非政府組織の復興支援の中立性を脅かしかねない。
 
# [[覇権主義]]的姿勢の米ブッシュ政権を支持する[[小泉純一郎]]政権の外交姿勢に主体性はないに等しい。
 
# 自衛隊は日本を守る為にこそ存在するのであり、[[自民党]]がブッシュ政権に自分達を認めてもらうために使う私兵ではない。
 
 
 
=== 派遣延長 ===
 
* '''肯定的な意見'''
 
# 復興支援を任務に派遣されているが、サマーワの復興が不十分であるので撤退はまだ早い。
 
# そもそも、自衛隊を派遣しているサマーワ市民が派遣を歓迎してくれている。
 
# 反米強硬派として知られる[[ムクタダ・サドル]]師も、自らの部隊には日本の部隊への攻撃を行わないよう厳命していた。
 
 
 
* '''否定的な意見'''
 
# 他国の軍隊はテロリストたちから攻撃を受け、死亡者も出ている。今のイラク特措法では相手に反撃することすら難しく、憲法9条を改正せずに派遣延長を決めるのは自衛隊員の安全を考えず、政府は無責任である。
 
# [[湾岸戦争]]と違いイラク戦争に正当性はない。一刻も早く撤退するのは当然である。アクテッドが現地の住民に機材を貸与しているように、自衛隊でなければできないというものではない。
 
 
 
== 死者・負傷者 ==
 
[[社会民主党 (日本 1996-)|社民党]]の[[照屋寛徳]]議員が国会において、インド洋やイラクなどへの派遣任務に就いた自衛官の中に、自殺等による死者が多数に上っている点を問題視して、質問を行なったのに対して、延べ約1万9700人の自衛隊員のうち、16人が在職中に自殺していたことが、政府が閣議決定した2007年11月13日の答弁書で明らかにされている。在職中の死亡者は計35人で、内訳は海自20人、陸自14人、空自1人とし、そのうち自殺者は、海自が8人、陸自が7人、空自が1人で、それ以外は病死が、計7人、事故死・死因不明が、計12人となっている<ref>[http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168182.htm イラク帰還自衛隊員の自殺に関する質問に対する答弁書] 衆議院 2007年11月13日</ref>。だが、2万人近い自衛官が一度に派遣されて、そして一度に戻った上で直後に16人が自殺したというわけではなく、それぞれ数十人あるいは数百人ごとに代わる代わる交代して任務を行っている。この答弁書が作成されるまでの間に、派遣任務という因子以外にも数多くの因子が付加されてしまっている。その為、派遣任務が即自殺に繋がったわけではないが、海上自衛隊だけを取って見ても厚生労働省が発表した10万人当たりの自殺者数よりも多く自殺者が出てしまっている。今後、自衛隊内における精神面のカウンセリング体制の整備が求められている。
 
 
 
イラク特措法に基づき派遣された隊員のうち在職中に死亡した自衛隊員数(2007年10月末現在)
 
 
 
*陸上自衛隊 14人(うち自殺7人、病死1人、死因が事故又は不明6人)
 
*海上自衛隊 20人(うち自殺8人、病死6人、死因が事故又は不明6人)
 
*航空自衛隊 1人(うち自殺1人)
 
**2007年11月13日防衛省発表
 
 
 
2014年4月16日現在の自衛隊イラク派遣後の自殺者合計が28名と放送される<ref>2014年4月16日19時30分NHK総合放送[[クローズアップ現代]]〜イラク派遣10年の真実</ref>。内訳は陸自20名、空自8名。<ref>2014年6月30日[[中日新聞]]朝刊1面</ref>
 
 
 
イラク派遣の自衛隊の負傷者は21名。<ref>2014年6月18日16時52分[[テレビ東京]]放送[[NEWSアンサー]]</ref>
 
 
 
== 脚注 ==
 
<div class="references-small"><references/></div>
 
 
 
== 参考資料 ==
 
*[[佐藤正久]]『イラク自衛隊「戦闘記」 <small>元自衛隊一等陸佐 イラク先遣隊長「ヒゲの佐藤」</small>』(講談社、2007)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[イラク戦争]]
 
* [[自衛隊海外派遣]]
 
* [[イラク特措法]]
 
* [[憲法改正論議]]
 
* [[兵站]]
 
* [[自衛隊日報問題]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
{{commonscat|Japan Self-Defense Forces in Iraq}}
 
* [http://www.mod.go.jp/j/iraq/ イラク人道復興支援特措法に基づく対応措置](防衛省)
 
* [http://www.mod.go.jp/asdf/irsaw/ イラク復興支援派遣輸送航空隊](航空自衛隊)
 
* [http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H15/H15HO137.html イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法](総務省行政管理局[[法令データ提供システム]])
 
* [http://www15.ocn.ne.jp/~j-stop/MyPage/menu0.html 自衛隊イラク派兵差止訴訟・関西]
 
* [http://ikeben.jp/ 自衛隊イラク派兵違憲判決~その後](イラク派兵差止訴訟 全国弁護団)
 
 
 
{{DEFAULTSORT:しえいたいいらくはけん}}
 
[[Category:イラク戦争|しえいたい]]
 
[[Category:自衛隊海外派遣|いらくはけん]]
 
[[Category:日本・イラク関係]]
 
[[Category:陸上自衛隊の歴史|いらくはけん]]
 

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