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{{Infobox baseball player
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{{テンプレート:20180815sk}}
|選手名 = 藤尾 茂
 
|英語表記 =
 
|所属球団 =
 
|背番号 =
 
|選手写真ファイル名 = Shigeru Fujio 1956 Scan10012.JPG
 
|写真サイズ = 275
 
|写真のコメント =
 
|国籍 = {{JPN}}
 
|出身地 = [[兵庫県]][[西宮市]]
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1934|10|8}}
 
|没年月日 =
 
|身長 = 179
 
|体重 = 75
 
|利き腕 = 右
 
|打席 = 右
 
|守備位置 = [[捕手]]、[[外野手]]
 
|プロ入り年度 = [[1953年]]
 
|ドラフト順位 =
 
|初出場 = 1953年
 
|最終出場 = 1964年
 
|年俸 =
 
|経歴 =
 
* [[兵庫県立鳴尾高等学校]]
 
* [[読売ジャイアンツ]] (1953 - 1965)
 
|選出国 =
 
|選出年 =
 
|得票率 =
 
|選出方法 =
 
}}
 
'''藤尾 茂'''(ふじお しげる、[[1934年]][[10月8日]] - )は、[[昭和]]中期([[1950年代]]後半-[[1960年代]]前半)の[[プロ野球選手]]([[捕手]]、[[外野手]])。
 
 
 
== 経歴 ==
 
小学校時代から[[中田昌宏]]とバッテリーを組み<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』149頁</ref>、{{by|1950年}}に[[兵庫県立鳴尾高等学校|鳴尾高]]に揃って入学。{{by|1951年}}の[[第23回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]では六番打者、[[三塁手]]として出場。決勝に進出するが[[徳島県立鳴門高等学校|鳴門高]]に9回サヨナラ逆転負けを喫した。1年上のチームメートに[[山田清三郎 (野球)|山田清三郎]]、[[鈴木武]]がいる。翌{{by|1952年}}の[[第24回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]では正捕手となり準決勝に進出するが、またも鳴門高に敗れる。この大会では1試合で6度の牽制・盗塁刺を記録して高校生ベストナイン捕手に選出された<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』150頁</ref>。
 
 
 
{{by|1953年}}に[[読売ジャイアンツ]]に入団。2年目の{{by|1954年}}から[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]捕手であった[[広田順]]の控えとなる。{{by|1955年}}には51試合にマスクを被って[[打率]].286と、広田(.222)を大きく上回る成績を残す。さらに、同年の[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]との[[1955年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、巨人が1勝3敗と追い詰められた第5戦に広田に代わってマスクを被って3番に抜擢され、初回に先制3点本塁打を放つ活躍で巨人の日本一に大きく貢献、藤尾はそのまま捕手のレギュラーポジションに定着した。翌{{by|1956年}}からは6番を打って、打率.276(リーグ5位)、14本塁打、打点58を挙げ、3部門ともリーグ5位以内に入り、[[1956年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にファン投票で選出されるとともに、ベストナインも獲得した。{{by|1957年}}も前半戦は好調であったが、8月の[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])で満員の観客を[[バックスクリーン]]に入場させたことから、阪神の[[渡辺省三]]の[[シュート (球種)|シュート]]を避けきれずに[[顔面]]に[[死球]]を受ける<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』200頁</ref>。このアクシデントにより約1ヶ月戦列を離れた上に[[後遺症]]から調子を崩して<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』202頁</ref>、105試合の出場に留まり、打率も.256と成績を落とした。{{by|1958年}}は外角球に対して逆らわずに[[右翼手|右翼]]へ打て、との[[川上哲治]]の助言を受けて死球の後遺症による[[スランプ]]を脱し、打率.283(リーグ5位)、11本塁打、58打点と好成績を残す。この年も投票総数153票のうち149票の圧倒的な支持を集め3年連続のベストナインに選出された<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』211頁</ref>。
 
 
 
{{by|1959年}}のシーズン前に、[[川上哲治]][[ヘッドコーチ]]にインサイドワークを認められた[[森祇晶|森昌彦]]が正捕手とされ<ref>『巨人軍に葬られた男たち』160頁</ref>、藤尾は俊足と持ち前の長打力を生かす目的もあり、引退した川上の後釜として[[一塁手]]に移った[[与那嶺要]]に替わって、守備の負担の少ない[[外野手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]され<ref>『巨人軍 陰のベストナイン』56頁</ref>、5番打者として[[クリーンナップ]]を打った。しかしこの年も藤尾は捕手として36試合に出場し、[[1959年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]][[オールスターゲーム (日本プロ野球)#ファン投票|ファン投票]]の捕手部門で1位になるとともに、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]捕手にも選ばれた。打撃を活かすためのコンバートであったが、打たなくてはならないとの意識が力みを生んで夏場にスランプに陥り<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』234頁</ref>、打率は.264(リーグ14位)に終わったが、チーム2位の70打点を挙げた。{{by|1960年}}は開幕からハイペースで本塁打を打ち、5月28日には早くも10号を放ちリーグのトップを快走する<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』240頁</ref>。しかし、6月から極端なスランプに陥り、終盤に左足首の[[捻挫]]で戦列を離れるなどもあって、5月末以降は5本しか打てず、結局打率.245、15本塁打、54打点に終わる。
 
 
 
{{by|1961年}}には川上新監督の下で[[主将]]を務め、捕手に復帰するが、この頃より急激な[[打撃 (野球)|打撃]]不振に陥る。同年夏には逆転本塁打を打たれた[[伊藤芳明]]を投手[[コーチ]]の[[別所毅彦]]が叱責しようとしたところを庇ったことが首脳陣批判ととられて、[[罰金]]の上に主将を剥奪される<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』250頁</ref>などもあって89試合の出場に留まる。{{by|1962年}}には急激に出場機会が減少する中で、なぜ藤尾を使わないのかと調べ回っていた新聞記者に対して、ある首脳陣が(森に比べて)藤尾はインサイドワークが悪いと洩らす。そのため、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]に藤尾は頭が悪いとの表現で喧伝されてしまい、藤尾は精神的にも不安定になり大きく調子を崩した<ref>『巨人軍 陰のベストナイン』65頁</ref>。追い打ちをかけるように、同年6月の[[阪神タイガース|阪神]]戦([[札幌市円山球場]])で[[左翼手|左翼]]の守備時に[[打球]]を追って右[[鎖骨]]を[[骨折]]して3ヶ月間出場できず、治癒後も強肩を誇った右肩がすっかり弱ってしまった<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』255頁</ref>。{{by|1963年}}は春の宮崎[[キャンプ (日本プロ野球)|キャンプ]]で前年度負傷した右肩を再び痛め、6月後半にようやく一軍ベンチ入りする。出場は25試合に留まったが、同年19勝を挙げて[[沢村栄治賞|沢村賞]]を獲得した伊藤芳明とよく[[バッテリー]]を組み、伊藤が挙げた勝利の約半分の9勝が藤尾がマスクをかぶった際のものであった<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』262頁</ref>。{{by|1965年}}には公式戦出場のないままシーズン終了後に現役を引退した。
 
 
 
引退後は、[[金融業]]・[[不動産業]]への勤務を経て、[[1977年]]にゴルフ用品を扱う上山実業に入社<ref>『巨人軍 陰のベストナイン』76頁</ref>。また、[[サラリーマン]]生活の傍らで[[西宮市]]にあるスポーツクラブの鳴尾クラブの館長を務め、休日に小中学生に野球の指導を行っていた<ref>『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』279頁</ref>。[[1987年]]に[[京都府]]の総合[[リゾート]]施設[[レイクフォレストリゾート]]の[[理事]]兼[[支配人]]に就任したのち<ref>森岡浩編著『プロ野球人名事典 1999』日外アソシエーツ</ref>、[[三重県]][[鈴鹿市]]の[[ゴルフ場]]・[[鈴鹿カンツリークラブ]]の[[副社長]]を務めた。
 
 
 
== 評価 ==
 
捕手にして俊足、長打力のある打撃、強肩、そして闘志溢れるプレーから、戦後の「巨人軍最強の捕手」「[[吉原正喜|吉原]]二世」という評価もされている。
 
 
 
全盛期には、[[西鉄ライオンズ]]の[[プロ野球監督|監督]]・[[三原脩]]が[[雑誌]]の企画で日本最強チームを選定した際、[[捕手]]には打撃で勝る[[野村克也]]を押しのけて藤尾を選んでいる。また三原は藤尾と野村を比較して、守備面と回転力では藤尾、打撃面では野村、総合力では互角と評した。<ref name="n214">『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』214頁</ref>
 
 
 
== 選手としての特徴 ==
 
機敏な動作、強肩かつ正確なスローイングで、[[バント]]処理に非常に優れていた<ref name="n214" />。
 
 
 
== 詳細情報 ==
 
=== 年度別打撃成績 ===
 
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}}
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1953}}
 
|rowspan="12" style="text-align: center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]]
 
|16||17||12||3||2||0||0||0||2||3||0||0||0||--||5||--||0||0||0||.167||.412||.167||.578
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1954}}
 
|54||122||115||10||22||4||1||3||37||15||1||2||0||2||5||--||0||14||3||.191||.225||.322||.547
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1955}}
 
|60||171||154||22||44||4||2||5||67||29||3||2||0||0||16||2||1||25||1||.286||.357||.435||.792
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1956}}
 
|117||443||406||43||112||19||2||14||177||58||12||2||9||3||22||1||3||62||9||.276||.318||.436||.754
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1957}}
 
|105||389||348||45||89||19||6||8||144||30||7||3||7||3||28||1||3||52||5||.256||.317||.414||.730
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1958}}
 
|115||428||399||54||113||22||6||11||180||58||14||8||1||3||24||1||1||57||9||.283||.325||.451||.777
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1959}}
 
|115||448||402||52||106||13||4||13||166||70||9||2||6||4||36||2||0||81||8||.264||.324||.413||.737
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1960}}
 
|104||350||314||39||77||5||4||15||135||54||13||0||7||3||24||0||2||50||7||.245||.303||.430||.733
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1961}}
 
|89||190||161||15||30||2||1||3||43||19||3||5||2||2||25||3||0||30||2||.186||.296||.267||.563
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1962}}
 
|35||58||55||3||9||0||0||1||12||3||3||0||0||0||2||0||1||8||1||.164||.207||.218||.425
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1963}}
 
|25||49||47||4||13||1||0||0||14||3||0||0||0||0||2||0||0||14||4||.277||.306||.298||.604
 
|-
 
|style="text-align: center;"|{{by2|1964}}
 
|33||66||62||4||8||2||0||1||13||4||2||0||0||0||4||0||0||16||2||.129||.182||.210||.391
 
|-
 
!colspan="2"|通算:12年
 
|868||2731||2475||294||625||91||26||74||990||346||67||24||32||20||193||10||11||409||51||.253||.309||.400||.709
 
|}
 
 
 
=== 表彰 ===
 
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:4回 (捕手部門:1956年 - 1959年)
 
 
 
=== 記録 ===
 
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:4回 (1956年 - 1959年)
 
 
 
=== 背番号 ===
 
* '''9''' (1953年 - 同年途中、1954年 - 1965年)
 
* '''42''' (1953年途中 - 同年終了)
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 参考文献 ==
 
*[[澤宮優]]『プロ野球・燃焼の瞬間 -宮田征典・大友工・藤尾茂-』[[現代書館]]、2006年
 
*[[織田淳太郎]]『巨人軍に葬られた男たち』[[新潮文庫]]、2003年
 
*[[上前淳一郎]]『巨人軍 陰のベストナイン』[[角川文庫]]、1982年
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[兵庫県出身の人物一覧]]
 
* [[読売ジャイアンツの選手一覧]]
 
* [[読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧]]
 
 
 
{{セントラル・リーグ ベストナイン (捕手)}}
 
 
 
{{DEFAULTSORT:ふしお しける}}
 
[[Category:日本の野球選手]]
 
[[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]]
 
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
 
[[Category:兵庫県出身の人物]]
 
[[Category:1934年生]]
 
[[Category:存命人物]]
 

2018/10/14/ (日) 10:07時点における最新版



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