「蘇我蝦夷」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2015年6月}}
 
{{基礎情報 公家
 
| 氏名 = 蘇我蝦夷
 
| 時代 = [[飛鳥時代]]
 
| 生誕 = 不詳
 
| 死没 = [[皇極天皇]]4年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]([[645年]][[7月11日]])
 
| 別名 = 豊浦大臣
 
| 官位 = [[大臣 (古代日本)|大臣]]
 
| 主君 = [[推古天皇]]→[[舒明天皇]]→[[皇極天皇]]
 
| 氏族 = [[蘇我氏]]
 
| 父母 = 父:[[蘇我馬子]]、母:[[物部守屋]]の妹[[太媛]]
 
| 兄弟 = [[蘇我善徳]]<ref>『日本書紀』巻第二十二、推古十八年(610年)の記事に朝廷の大夫(まえつぎみ)の一人として初めて現れる蘇我蝦夷の年齢は、『[[扶桑略記]]』の記述によると25歳となり、推古四年(596年)における蝦夷の年齢は11歳となる。『日本書紀』巻第二十二には、推古四年(596年)冬十一月に蘇我善徳が[[飛鳥寺]](法興寺)の寺司(てらのつかさ、司長)になったことが記されている(法興寺造竟 則以大臣男善徳臣拝寺司)ことから、善徳が蝦夷の兄と推定されている(門脇禎二 人物叢書『蘇我蝦夷・入鹿』吉川弘文館 1977年) 。</ref>、[[蘇我倉麻呂]]<br/>河上娘([[崇峻天皇]]妃)<br/>法提郎女([[舒明天皇]]妃)<br/>[[刀自古郎女]]([[聖徳太子]]妃)
 
| 子 = [[蘇我入鹿]]、[[物部大臣]]
 
}}
 
[[ファイル:Soga faminy tree.svg|thumb|right|337px|蘇我氏略系図 [[media:Soga faminy tree.svg|SVGで表示(対応ブラウザのみ)]]]]
 
'''蘇我 蝦夷'''(そが の えみし)は、[[飛鳥時代]]の[[政治家]]、[[貴族]]。[[大臣 (古代日本)|大臣]]として権勢を振るうが[[乙巳の変]]で[[自殺|自害]]した。
 
  
== 名称 ==
+
'''蘇我 蝦夷'''(そが の えみし)
『[[日本書紀]]』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。[[蝦夷]]の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である([[小野毛人]]や[[佐伯今毛人]]、[[鴨蝦夷]]らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は[[侮蔑#蔑称|蔑称]]であり、[[毛人]]が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。
 
  
== 生涯 ==
+
古代の中央豪族。馬子の子,入鹿の父。豊浦大臣と呼ばれ,毛人とも書く。推古 34 (626) 年父の死後,大臣になったらしい。推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため,聖徳太子の子山背大兄王と敏達天皇の孫田村皇子の間で皇位継承問題が起り,蝦夷は叔父境部摩理勢らの反対を強引に押切って,田村皇子を皇位につかせた。これが舒明天皇である。蝦夷は舒明8 (636) 年大派 (おおまた) 王に参朝の怠慢を指摘されたが従わず,皇極天皇即位後も大臣としてとどまり,子入鹿が国政をとった。皇極1 (642) 年祖廟を葛城高宮に建て,天下の民部曲 (かきべ) ,さらに聖徳太子一族の私有民まで使役して今来に2つの墓を造り,これを大陵 (おおみささぎ) ,小陵と称した。翌年,入鹿に紫冠を授けて大臣とし,弟を物部大臣と称した。翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て,「宮門 (みかど) 」と称した。前年,山背大兄王を殺した入鹿が,4年の三韓朝貢の日に中大兄皇子に殺され,みずからも誅せられるにのぞみ自邸に放火し自殺した。このとき『天皇記』『国記』などを同時に焼失した。彼らの誅伐によって,蘇我氏の宗族は滅亡し,大化改新が断行されることとなった。『扶桑略記』には,斉明天皇のときに,彼の霊威についての風説があったことを記している。
[[蘇我馬子]]の子で、母は[[物部守屋]]の妹・[[太媛]]。
 
 
 
[[推古天皇]]末年から[[皇極天皇]]の御代にかけて大臣として権勢をふるった。推古天皇の[[崩御]]後、[[皇位継承]]者の選定に当たり、推古天皇の遺勅として田村皇子を[[舒明天皇]]として即位させた。有力な皇位継承の候補者としては、田村皇子と[[山背大兄王]]<ref>大兄は皇太子の意味となれるが山背大兄王が皇太子となったという記述は『日本書紀』にはなく、単なる皇子とする者もいる</ref>がいたが、山背大兄王を推薦した叔父の[[境部摩理勢]]を殺害した。『日本書紀』はこれを蝦夷の専横の一つに数えるが、父・馬子の死後、蘇我氏に対する内外の風当たりが強くなる中で、[[皇族]]や諸[[豪族]]との融和を重視して、蘇我氏との血縁関係のない舒明天皇を即位させたという説もある。
 
 
 
舒明天皇の崩御後は皇極天皇を擁立したが、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせた。また蝦夷の子・[[蘇我入鹿]]に紫冠([[冠位十二階]]最高位大徳の色であるが、代々大臣を務めた蘇我氏当主の冠とする説もある)を授けて大臣と擬し、弟を物部大臣とし、屋敷を宮上の門(みかど)とよばせるなど、自らを大王に擬する行為があった。一方で子の入鹿は、山背大兄王を襲って上宮王家一家を自殺に追いこんだ。『日本書紀』は、蝦夷はこの入鹿の行為を怒り、嘆いたと伝えている。
 
 
 
皇極天皇4年([[645年]])に天皇の御前で入鹿が殺害されると、蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した(乙巳の変)。なお、『日本書紀』によれば、『[[天皇記]]』はこの時に失われ『[[国記]]』は[[船恵尺]]が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[蘇我氏]]
 
 
 
{{start box}}
 
{{s-off}}
 
{{Succession box
 
| title  =  [[大臣 (古代日本)|大臣]]
 
| years = 626 - 645
 
| before = [[蘇我馬子]]
 
| after = [[阿倍内麻呂|阿倍倉梯麻呂]]([[左大臣]])<br/>[[蘇我倉山田石川麻呂]]([[右大臣]])
 
}}
 
{{end box}}
 
  
 +
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[[Category:蘇我氏|えみし]]
 
[[Category:蘇我氏|えみし]]

2018/12/30/ (日) 12:53時点における最新版

蘇我 蝦夷(そが の えみし)

古代の中央豪族。馬子の子,入鹿の父。豊浦大臣と呼ばれ,毛人とも書く。推古 34 (626) 年父の死後,大臣になったらしい。推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため,聖徳太子の子山背大兄王と敏達天皇の孫田村皇子の間で皇位継承問題が起り,蝦夷は叔父境部摩理勢らの反対を強引に押切って,田村皇子を皇位につかせた。これが舒明天皇である。蝦夷は舒明8 (636) 年大派 (おおまた) 王に参朝の怠慢を指摘されたが従わず,皇極天皇即位後も大臣としてとどまり,子入鹿が国政をとった。皇極1 (642) 年祖廟を葛城高宮に建て,天下の民部曲 (かきべ) ,さらに聖徳太子一族の私有民まで使役して今来に2つの墓を造り,これを大陵 (おおみささぎ) ,小陵と称した。翌年,入鹿に紫冠を授けて大臣とし,弟を物部大臣と称した。翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て,「宮門 (みかど) 」と称した。前年,山背大兄王を殺した入鹿が,4年の三韓朝貢の日に中大兄皇子に殺され,みずからも誅せられるにのぞみ自邸に放火し自殺した。このとき『天皇記』『国記』などを同時に焼失した。彼らの誅伐によって,蘇我氏の宗族は滅亡し,大化改新が断行されることとなった。『扶桑略記』には,斉明天皇のときに,彼の霊威についての風説があったことを記している。



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