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'''言文一致'''(げんぶんいっち)とは、[[日常]]に用いられる[[口語|話し言葉]]に近い[[口語体]]を用いて[[文章]]を書くこと、もしくはその結果、口語体で書かれた文章のことを指す。口語体で書かれた文章を[[口語文]]という。
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'''言文一致'''(げんぶんいっち)
  
ただし、話した通りそのままに文章として書くという[[意味]]ではない。
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 明治初期の改良運動の一つで、国語・国字改良と類縁をなしている。改良運動とは、日本を急速に西欧近代に接近させるため、日本のさまざまな分野の制度を西欧風に改良していこうとする運動だが、その根幹となったのが言文一致を中心とすることばの組み替えの試みであった。具体的には国民の啓蒙(けいもう)を目的としていたが、結果的には日本人のそれまでの思考の変革を促す一種の精神革命として機能していった。
  
[[音声言語]]とそれに対応する[[文字言語]]をともにもつ[[言語]]にて[[問題]]となる。[[日本語]]で特に注釈なく用いられた場合、この語は日本語での言文一致をさす。以下の記述でも同様である。
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 このことばの改良運動は、最初は前島密(ひそか)の「漢字御廃止之議」建白(1866)に始まる漢字廃止論や、西周(あまね)、外山正一(とやままさかず)、矢田部良吉(やたべりょうきち)、田口卯吉(うきち)らのローマ字論あるいは清水卯三郎(うさぶろう)らの平仮名論などの国語・国字改良論が先行していたが、しだいに言文一致論へと改良の比重が移行していった。言文一致とは、それまで分離していた言(話しことば)と文(書きことば)とを一致させようとする試みだが、具体的には話しことばすなわち口語体で文章を表していこうとする運動として展開していった。理論面では数多くの論があるが、物集高見(もずめたかみ)の『言文一致』(1886)などはその代表的なものであろう。実践面では「かなのくわい」(1883結成)の三宅米吉(みやけよねきち)、「羅馬字(ローマじ)会」(1885結成)の田口卯吉やチェンバレンらの活動が目覚ましく、また啓蒙書、啓蒙雑誌、翻訳書、教科書、小(こ)新聞、速記本などが談話体を普及させたことも相まって、言文一致はさまざまな分野で急速に拡大していった。このなかでももっとも先行したのが文学の分野であり、山田美妙(びみょう)の『武蔵野(むさしの)』(1887)や二葉亭四迷(ふたばていしめい)の『浮雲』(1887~89)、『あひびき』(1888)の試みを出発点として、明治末年にはさまざまなジャンルでほぼ口語文体が確立していった。ただ官界や司法界あるいは軍部など、分野によっては既成の漢文体や文語文体を保持するところも多く、ほぼ全分野で文体の口語化が完了するまでには長い時間を経なければならず、やはり第二次世界大戦での敗戦をまたなければならなかった。
  
日本語を主要な言語とする[[日本]]では、[[明治]]時代に'''言文一致運動'''の高揚からそれまで用いられてきた[[文語文]]に代わって行われるようになった。言文一致運動とは言文一致を実践することを主旨とする。したがって、言文一致の実践は言文一致運動と不可分だった。文脈によっては主に言文一致運動の意味で言文一致の語が用いられている場合がある。
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== 日本語における言文一致 ==
 
日本語の[[古典]]的な[[文体]]である[[文語]]は主に[[平安時代]]までに完成した。[[中世]]以降、次第に話し言葉との乖離が大きくなっていった。
 
 
 
[[明治時代]]には、文学者の中から改革運動(言文一致運動)が起こった。言文一致小説の嚆矢は、[[坪内逍遥]]に刺激を受けた[[二葉亭四迷]]の『浮雲』などである。二葉亭が『浮雲』(1887年)を書く際には、初代円朝師匠の落語を[[速記]]法により筆記した、[[落語]]家の初代[[三遊亭圓朝]]の落語口演筆記を参考にしたという。
 
 
 
また、[[ツルゲーネフ]]など[[ロシア文学]]作品を翻訳した文体も既存の[[文語]]からの離脱の試みである。
 
 
 
当時は二葉亭以外にも、多くの作家が言文一致の新文体を模索した。その中でも、[[山田美妙]]における「です・ます」調の試みは、もうひとつの日本語表現の可能性として、小説言語の主流にはならなかったものの、後世へ大きな影響を与えた。[[若松賤子]]が「[[小公子]]」の翻訳で試みた「ありませんかった」のような文体も当時の注目を浴びたが、これは受け継ぐものが現れなかった。
 
 
 
しかし、そのころはまだ文語文の作品も多く書かれている。[[和歌]]の[[塾]]に通い、古典の教養を持っていた[[樋口一葉]]は古文の呼吸をつかった[[雅文]]体で「[[にごりえ]]」「[[たけくらべ]]」などの作品を書いている。翻訳で言文一致を試みた[[森鴎外]]も、「[[舞姫]]」や「[[即興詩人]]」では文語にもどしている。評論の分野では[[北村透谷]]や[[幸徳秋水]]は、[[漢文]]書き下しの文体を使って論文を書いていた。その点では、言文一致の運動がすぐに時代の主流になったわけではなかった。
 
 
 
このような新文体への挑戦は[[文学]]の分野で作家たちだけがしていたのではなく、当時の[[新聞]]や[[雑誌]]記事などでも並行的に行なわれていた。特に従軍記者による戦地レポートや、[[速記]]による裁判の傍聴記録などで、積極的に言文一致の新文体が試みられていた。その結果、明治末になるとそれらは書き言葉として次第に確立し、一般の文章にも大きな影響を与えるようになった。[[自然主義文学]]の運動も、その普及に一役買った。
 
 
 
しかし、法律の言語は、[[戦前]]では文語文を用いて記述されていた。[[戦後]]は口語体となった。
 
{{See also|日本語#文語文と口語文}}
 
 
 
=== 例文 ===
 
* 文語体(漢文調):天ノ人ヲ生ズルハ億兆皆(みな)同一轍ニテ、之ニ附与スルニ動カス可カラザルノ通義ヲ以テス。即(すなわ)チ其通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ、他ヨリ之ヲ如何トモス可ラザルモノナリ。(福沢諭吉『西洋事情』1866年よりアメリカ独立宣言の一節)<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/001189/files/45257_18673.html 福沢諭吉訳 アメリカ独立宣言]<[[青空文庫]]</ref>
 
* 口語体:秋九月中旬といふころ、一日自分がさる樺の林の中に座してゐたことが有ツた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合ひ。(二葉亭四迷訳『あひびき』1888年)[[岩波文庫]]から
 
* 口語体:文学極衰! この言葉を吾々は島田三郎氏、福沢諭吉翁及び其他一二の人から聞きました。今日の文学は世の好尚のために書く文学と云つて島田氏は嘆かれ、今の文学者に一機軸を出すものが無いとて福沢翁は呟かれ、其他の人は今日の文学を拝金主義の下に立つものと評されました。(山田美妙「文学極衰?」1890年)『近代文学評論大系』より
 
* 文語体<!---(漢文調?)--->:石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。([[森鴎外]]『舞姫』1890年)<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2078_15963.html 森鴎外 舞姫]<青空文庫</ref>
 
* 文語体:例は威勢よき黒ぬり車の、それ門に音が止まつた娘ではないかと両親に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛びのりの車さへ帰して悄然と格子戸の外に立てば、([[樋口一葉]]『十三夜』1895年)岩波文庫から
 
* 口語体:これから私が一身一家の経済のことを述べましょう。およそ世の中に何が怖いと言っても、暗殺は別にして、借金ぐらい怖いものはない。(福沢諭吉『福翁自伝』1899年)<!---文庫P246--->岩波文庫から
 
* 口語体:小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。(略)田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京詞(ことば)を使うのである。(森鴎外『青年』1910年)<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2522_5002.html 森鴎外 青年]<青空文庫</ref>
 
 
 
== 中国・中華圏における言文一致運動 ==
 
{{See|文学革命|白話#白話運動}}
 
 
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
 
 
== 関連文献 ==
 
* [[奥田靖雄]] 「標準語について」(雑誌『教育』1957年、通算77号に掲載。のち、『読み方教育の理論』[[むぎ書房]], 1974年, ISBN 9784838400638 に再録。)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
*[[ダイグロシア]]
 
*[[標準語]]
 
*[[書記言語]]
 
*[[文語体]]
 
*[[白話小説]]、[[白話字]]、{{仮リンク|白話詩|zh|新詩|en|Modern Chinese poetry}}
 
*[[新文化運動]]
 
*[[正書法]]
 
*[[綴り字#表音主義]]、{{仮リンク|綴字改定|en|spelling reform}}、[[言語改革]]
 
*[[仮名遣]]、[[国語国字問題]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
*[http://www.aozora.gr.jp/cards/000006/files/901_16059.html 二葉亭四迷『余が言文一致の由来』]
 
*{{kotobank|言文一致-493059|[[日本大百科全書]]|言文一致}}
 
*{{kotobank|言文一致運動-61054|[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|言文一致運動}}
 
*{{kotobank|言文一致体-674881|[[デジタル大辞泉]]|言文一致体}}
 
 
 
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[[Category:文]]
 
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[[Category:日本文学]]
 
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[[Category:明治時代の文化]]
 
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2018/10/1/ (月) 23:15時点における最新版

言文一致(げんぶんいっち)

 明治初期の改良運動の一つで、国語・国字改良と類縁をなしている。改良運動とは、日本を急速に西欧近代に接近させるため、日本のさまざまな分野の制度を西欧風に改良していこうとする運動だが、その根幹となったのが言文一致を中心とすることばの組み替えの試みであった。具体的には国民の啓蒙(けいもう)を目的としていたが、結果的には日本人のそれまでの思考の変革を促す一種の精神革命として機能していった。

 このことばの改良運動は、最初は前島密(ひそか)の「漢字御廃止之議」建白(1866)に始まる漢字廃止論や、西周(あまね)、外山正一(とやままさかず)、矢田部良吉(やたべりょうきち)、田口卯吉(うきち)らのローマ字論あるいは清水卯三郎(うさぶろう)らの平仮名論などの国語・国字改良論が先行していたが、しだいに言文一致論へと改良の比重が移行していった。言文一致とは、それまで分離していた言(話しことば)と文(書きことば)とを一致させようとする試みだが、具体的には話しことばすなわち口語体で文章を表していこうとする運動として展開していった。理論面では数多くの論があるが、物集高見(もずめたかみ)の『言文一致』(1886)などはその代表的なものであろう。実践面では「かなのくわい」(1883結成)の三宅米吉(みやけよねきち)、「羅馬字(ローマじ)会」(1885結成)の田口卯吉やチェンバレンらの活動が目覚ましく、また啓蒙書、啓蒙雑誌、翻訳書、教科書、小(こ)新聞、速記本などが談話体を普及させたことも相まって、言文一致はさまざまな分野で急速に拡大していった。このなかでももっとも先行したのが文学の分野であり、山田美妙(びみょう)の『武蔵野(むさしの)』(1887)や二葉亭四迷(ふたばていしめい)の『浮雲』(1887~89)、『あひびき』(1888)の試みを出発点として、明治末年にはさまざまなジャンルでほぼ口語文体が確立していった。ただ官界や司法界あるいは軍部など、分野によっては既成の漢文体や文語文体を保持するところも多く、ほぼ全分野で文体の口語化が完了するまでには長い時間を経なければならず、やはり第二次世界大戦での敗戦をまたなければならなかった。



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