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{{Infobox 力士
 
|名前 = 輪島 大士
 
|画像=
 
|説明=
 
|四股名 = 輪島 大士
 
|本名 = 輪島 博
 
|愛称 = 蔵前の星<ref>[http://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_02 角界「異名」列伝 ウルフの時代] 時事ドットコム</ref>、ワジー
 
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1948|1|11}}
 
|没年月日 =
 
|出身 = {{JPN}}・[[石川県]][[七尾市]]
 
|身長 = 185cm
 
|体重 = 132kg
 
|BMI = 38.57
 
|所属部屋 = [[花籠部屋]]
 
|得意技 = 左四つ、寄り、[[下手投げ]]
 
|現在の番付 = 引退
 
|最高位 = 第54代[[横綱]]
 
|生涯戦歴 = 673勝234敗85休(68場所)
 
|幕内戦歴 = 620勝213敗85休(62場所)
 
|優勝 = 幕内最高優勝14回<br />十両優勝1回<br />幕下優勝2回
 
|賞 = [[殊勲賞]]3回<br />[[敢闘賞]]2回
 
|初土俵 = [[1970年]]1月場所(幕下付出)<ref name="nishonoo22"/>
 
|入幕 = [[1971年]]1月場所<ref name="nishonoo22"/>
 
|引退 = [[1981年]]3月場所<ref name="nishonoo22"/>
 
|引退後 = [[花籠部屋]][[師匠]]
 
|他の活動 = [[プロレスラー]]<br />[[タレント]]
 
|趣味 =
 
|備考 =
 
|作成日時 = [[2013年]][[3月21日]]
 
}}
 
'''輪島 大士'''(わじま ひろし、[[1948年]](昭和23年)[[1月11日]] - )は、[[石川県]][[七尾市]]出身で[[花籠部屋]]所属の元[[大相撲力士]]、第54代[[横綱]]、[[全日本プロレス]]所属の元[[プロレスラー]]、元[[タレント]]。本名は'''輪島 博'''(わじま ひろし)。[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。[[ニックネーム]]は[[蔵前国技館|蔵前]]の星・黄金の左、現役引退後はワジー<ref name="nishonoo22">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ席部屋』p22</ref>。
 
  
== 人物 ==
+
'''輪島 大士'''(わじま ひろし、[[1948年]](昭和23年)[[1月11日]] -
=== 大相撲・力士時代 ===
 
姓は輪島で石川県出身ではあるが[[輪島市]]出身ではなく、同じ[[能登半島]]の七尾市石崎町出身である。[[金沢高等学校]]・[[日本大学]]と相撲部で活躍。高校2年時には[[大鵬幸喜|大鵬]]が[[二所ノ関部屋 (1911-2013)|二所ノ関部屋]]へ勧誘するべく実家まで訪れたこともある。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2013/01/20/kiji/K20130120005020780.html?feature=related 大鵬さんしのぶ 曙「オーラが違った」北の富士「あの人以上はいないから」] Spinichi Annex 2013年1月20日 07:12 </ref>大学では2年連続で[[学生横綱]]に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、[[同志社大学]]の逸見憲治([[逸見政孝]]の実弟)であった。日大卒業前の[[1970年]]、[[花籠部屋]](師匠は元[[幕内]]・[[大ノ海久光|大ノ海]])に入門し、同年1月場所に[[幕下付出]](60枚目格)で[[初土俵]]を踏んだ。[[東京農業大学]]出身の長浜(元[[小結]]・[[豊山広光|豊山]]、後の[[年寄]]・[[湊 (相撲)|湊]]→[[立田川 (相撲)|立田川]])は大学時代からの[[ライバル]]である。
 
  
[[ちゃんこ]]番等の雑務を免除され寝食を日大の宿舎で過ごさせ、食事は師匠の自宅に呼んで食べさせるという異例の特別待遇<ref name="nishonoo7071">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ席部屋』p69-70</ref><ref>そのため、付き人はいるものの、普段の世話を行うことはなく、輪島自身も誰が付き人かを知らなかったという話がある。また、稽古場では、まわしを締めるのを隣接する大学の土俵で行ったほか、地方場所では宿舎ではなくホテルに宿泊していたという。</ref>で入門し、[[幕下]]を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で[[十両]]入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。三役昇進前から私生活は派手であり、場所入りの際にはリンカーン・コンチネンタルを乗り回していた。また髷を結う前の髪を伸ばしている時期にパーマを当てたり、トレーニングにランニングを取り入れたりして物議をかもした<ref name="wajinum">Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p78</ref>。[[1972年]]9月場所では[[千秋楽]][[貴ノ花利彰|貴ノ花]]との[[水入り]]の大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに[[大関]]に昇進した(大関昇進を機に、[[番付]]の[[四股名]]を「輪島博」から「輪島大士」に改名)。この取り組みは当時の[[明仁天皇|皇太子]]ご一家が観覧されていた(皇太子、[[皇后美智子|皇太后]]、現在の[[皇太子|徳仁親王]]の3名)。7月場所が8勝7敗止まりであったことから本人もこの9月場所で昇進を決めることは諦めていたようであり<ref>『相撲』(別冊師走号)20ページ</ref>、インタビュー記事での「[[清國勝雄|清國]][[琴櫻傑將|琴櫻]][[大麒麟將能|大麒麟]]の先輩3大関と比べ、自分はどこが違うか」という質問に対しても「先輩の皆さんは、すぐにも大関だ、大関だと言われながら苦労してなったでしょう。その点自分なんか運のいい男ですよ。まだ苦労が身についていないと思うんです」と話していた<ref>『相撲』(別冊師走号)21ページ</ref>。大関昇進当初は横綱昇進を掴み取れるかどうかについて「『やっぱりやってみなくちゃ分からない』という答えしか出せない」と話していた<ref>『相撲』(別冊師走号)22ページ</ref>が、大関になって4場所目の[[1973年]]5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され<ref name="nishonoo22"/>、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、'''史上初の学士・本名横綱'''<ref>後年[[NHK G-Media 大相撲ジャーナル|『大相撲ジャーナル』]]2014年4月号118頁に寄せられた[[遠藤聖大|遠藤]]の四股名命名を巡る投書には「石川県出身力士は本名のままが好きならしく、輪島、[[出島武春|出島]]は横綱、大関に昇進しても改名しなかった」と輪島の例も出されていた。</ref>が誕生した。
+
[[石川県]][[七尾市]]出身で[[花籠部屋]]所属の元[[大相撲力士]]、第54代[[横綱]][[全日本プロレス]]所属の元[[プロレスラー]]、元[[タレント]]。本名は'''輪島 博'''(わじま ひろし)。[[ABO式血液型|血液型]][[ABO式血液型|A型]]。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。[[ニックネーム]][[蔵前国技館|蔵前]]の星・黄金の左、現役引退後はワジー<ref name="nishonoo22">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ席部屋』p22</ref>
  
同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった<ref>関取昇進前に貴ノ花に食事を奢らせるといった通常極めて無礼と言える態度を取った輪島を貴ノ花は許した。学生時代の輪島と稽古場で対戦して敗れた経験から実力や将来性を評価したためであった。</ref>。「[[角界]]のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した[[玉の海正洋|玉の海]]と激闘を重ねたが、これとは対照的に「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも[[前頭|平幕]]時代に一度顔を合わせただけだった。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。また一時期「貴輪時代」(きりんじだい)を期待されたが、貴ノ花はその後幕内優勝を2回達成したのみで、輪島と共に横綱昇進は果たせず、大関在位50場所(当時歴代1位・現在3位)目の[[1981年]]1月場所を最後に現役引退した。
+
{{テンプレート:20180815sk}}
  
この頃貴ノ花ともう一人、同部屋の[[魁傑將晃|魁傑]](後の年寄・[[放駒]])の3人で“[[阿佐ヶ谷]]トリオ”と呼ばれた。
 
 
=== 大相撲・横綱時代 ===
 
大相撲の歴史上でも、輪島のみが幕下付出初土俵で横綱に昇進し(現在の[[番付]]制度が確立した[[明治]]以降、[[江戸時代]]を除く)、学生相撲出身唯一の横綱であり、横綱昇進後も本名を[[四股名]]にしていた横綱となっている(外国出身力士が[[帰化]]し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の[[下手投げ]]を得意とし、左前ミツを引き右からおっつけて寄る相撲も武器であった<ref name="nishonoo22"/>。トレードマークの金色の[[廻し]]<ref name="wajinum"/>とかけて'''「黄金の左」'''と言われ一世を風靡した<ref name="nishonoo22"/><ref>なお北の湖は、「輪島は左だけでなく右からの攻めも非常に強く、それで左下手投げが決まっていた」と語っている(平成初期のビデオシリーズ「大相撲大全集 昭和の名力士 輪島・北の湖」より)。</ref>。下手投げを得意とする力士は大成しないという[[ジンクス]]を破っている数少ない例であった。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」<ref>相撲はすり足が基本で「足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する」という考えからか、ランニングはあまり好まれなかった。他方で[[琴風豪規|琴風]]は左膝の大怪我に見舞われてから暫くランニングを取り入れたことがあり、記者にその意図を問われた際に自ら「ランニングはリハビリ」と答えたことがある。</ref>と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は玉の海らしい)、「[[稽古]]」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「[[天才]]」という声もあった。
 
 
[[横綱土俵入り]]については、脇が空いて前屈みの姿勢でせり上がるなどの批判もあったが、徐々に落ち着いた土俵入りとなり、テンポの早い[[北の湖敏満|北の湖]]とは好対照であった。後年になって輪島以降、下段の構えで掌が真下を向く傾向が顕著になったと[[やくみつる]]が考察している。<ref>[[相撲 (雑誌)|『相撲』]]2013年11月号、90頁。せり上がりの際の、「重たい岩をも支える腕の形」という[[羽黒山政司|羽黒山]]の頃まで保たれてきた本質が失われているとして、[[白鵬翔|白鵬]]や[[日馬富士公平|日馬富士]]の土俵入りが批判されている。</ref>
 
 
[[廻し#廻しをめぐる戦術と勝負規定|ユルフン]]の力士として知られており、上手投げを打たれても廻しが伸びて効かなかった<ref>北の富士勝昭、嵐山光三郎『大放談!大相撲打ちあけ話』(新講舎、2016年)p33</ref>。
 
 
輪島自身はそれほど大柄な部類ではなかったものの、[[千代の富士貢|千代の富士]]や[[鷲羽山佳和|鷲羽山]]などの小兵力士には絶対的な強さを見せたが、[[高見山大五郎|高見山]]などの巨漢力士に対しては脆さを見せることも多かった。高見山には、当時最多記録だった[[金星 (相撲)|金星]]12個のうち7個を与えており、当時の同一力士への金星配給の最多記録を樹立してしまったほどだった。<ref>後に[[曙太郎|曙]]が[[貴闘力忠茂|貴闘力]]戦でタイ記録を樹立。</ref>
 
 
後年、元大鳴戸親方の[[高鐵山孝之進]]が、大相撲の[[八百長]]問題を告発した際に、輪島の行った八百長行為についても告発したが、その際人間性について「とにかくデタラメな男」「金と女にだらしない」と酷評した。八百長についても「輪島は(普段の豪遊の影響もあって)金がないため、横綱、大関では一般的な、金銭による星の「買取」が出来ず、その場所で負けてもらった分を翌場所で自分が負ける事で返す「貸し借り」で八百長を行っていた。」と暴露している。しかし、輪島の実力自体は否定しておらず、星の貸し借りが出来たのも「前場所で借りた星をいくつか返しても、[[ガチンコ]]で横綱を維持する最低ラインである10勝を挙げる自信があったからだ。」としており、自身の対戦経験からも「本当に強かった。」「14回しか優勝できなかったのが不思議」と評している。
 
 
横綱昇進後は輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、1974年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。この時期輪島の相撲は全く精彩を欠き、[[土俵]]上をバタバタと動き回っては自滅し「勝ち方を忘れた」と評され、新聞に「輪島27歳にして引退の危機」と書かれ、その相撲内容から、引退はあながち誤った見方とも思えない程危機的状態に追い込まれた。角界は貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。当時[[柏戸剛|柏戸]]が持っていた金星最多供給記録を更新し、「いったいあの黄金の左はどこに行ってしまったのでしょうか?」と問われると自らの左腕を見せて「まだまだここに健在です、昔は下手投げでしたが今は金星を与えるという意味で黄金の左と呼ばれています」と答える始末であった。1975年5月場所直後には場所を途中休場した身にも拘らずカメラマンの前にゴルフウェア姿で出てくるという不謹慎な様子を見せ、翌7月場所を休場するという挙動を見せるなど報道を騒がせる事態も引き起こしていた。
 
 
[[1978年]]に入ると、輪島は3月場所の右[[膝]][[靭帯]]の怪我や、年齢から来る体力、とりわけ持久力の衰えなどから、北の湖の後塵を拝することが多くなる<ref>なお、輪島の足の裏は土踏まずが大きく切れ上がった形状をしているため、元来寄られると弱かった。稽古不足の時期にはスタミナが続かないことによりそれが顕著になった。</ref><ref name="wajimaotoroe">『大相撲ジャーナル』2017年8月号 p47</ref>。この年の7月場所14日目の北の湖との対決では、左四つ、輪島は左下手、北の湖は右上手と、ともに十分な廻しを取り合ういつもの体勢になった。輪島は北の湖の右上手投げを残すと、右からおっつけて、左下手で脅かす、両力士の攻防が決定打に欠ける中、北の湖は過去、慌てた攻めで輪島の左下手投げの餌食になった反省を踏まえ、持久戦に持ち込み、水入りとなった。控えに下りた両者だが、北の湖が普段と変わらぬ表情だったのに対し、輪島は肩で息をするなど、明らかに疲労感がにじみ出ていた。再開後は、北の湖が積極的に攻め、右上手から強引に振り回したあと、左下手を取り、がっぷり左四つの体勢から持久力の切れた輪島を寄り切った<ref name="wajimaotoroe"/>。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・[[金城興福|栃光]]・[[栃赤城雅男|栃赤城]]・[[双津竜順一|双津竜]]など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた<ref>そのためか千代の富士には一番勝ちたい力士は輪島と名前を挙げられていた。</ref>。そもそも大相撲入門当初、軽量のハンデと右上手の力強さを考慮した形で左四つに転向したのであって、学生時代以前は右四つであった。そのことから本来の型に戻ったとも取れる。[[1979年|1979]] - [[1980年]]の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、1979年7月、1980年11月と二度の優勝を重ねたことは立派であると言えよう。輪島の部屋と大学の後輩である[[荒勢永英|荒勢]]が北の湖にほとんど勝てず、輪島の援護射撃ができなかったことや、輪島が苦手にしていた豊山も北の湖には全く勝てないこと、[[若乃花幹士 (2代)|若乃花]]や[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]の横綱昇進などでライバルが増えたことなど、輪島に不運な一面が多々あった点も否めなかった。
 
 
=== 輪湖時代 ===
 
「[[横綱#大横綱|昭和の大横綱]]」と言われた[[北の湖敏満|北の湖]]とは最大の[[ライバル|好敵手]]であり、2人で「'''輪湖時代'''」(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。また、[[1973年]]11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、[[休場]]しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに[[1989年]]3月場所で優勝した千代の富士は14日目の[[大乃国康|大乃国]]戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場しているが、[[不戦勝|不戦敗]]の扱い。
 
 
[[1976年]]・[[1977年]]は12場所のうち、輪湖両横綱による千秋楽[[相星]]決戦が4度(1976年1月、1976年11月、1977年1月、1977年11月)、両者優勝圏内による対決が3度(1976年5月、1976年7月、1977年7月、その結果優勝決定戦が1度(1976年5月))実現し、横綱として責任を充分果たしている成績で復活を果たす。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲して、真の「輪湖時代」を迎えたといってよい。
 
 
1976年〜1977年の2年間の輪島、北の湖の成績は、下記の通り:
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!場所    !!輪島成績  !!北の湖成績  !!優勝力士!!備考
 
|-
 
|1976年1月場所||12勝3敗||13勝2敗||'''北の湖'''||'''千秋楽2敗同士相星決戦'''で、北の湖勝利。
 
|-
 
|1976年3月場所||13勝2敗||10勝5敗||'''輪島'''||千秋楽対戦は、輪島勝利。
 
|-
 
|1976年5月場所||13勝2敗||13勝2敗||'''北の湖'''||'''千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦。'''輪島勝利。優勝決定戦は、北の湖勝利。
 
|-
 
|1976年7月場所||14勝1敗||12勝3敗||'''輪島'''||'''千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦。''' 輪島勝利。
 
|-
 
|1976年9月場所||12勝3敗||10勝5敗||魁傑||千秋楽対戦は、輪島勝利。
 
|-
 
|1976年11月場所||13勝2敗||14勝1敗||'''北の湖'''||'''千秋楽1敗同士相星決戦'''で、北の湖勝利。
 
|-
 
|1977年1月場所||13勝2敗||12勝3敗||'''輪島'''||'''千秋楽2敗同士相星決戦'''で、輪島勝利。
 
|-
 
|1977年3月場所||12勝3敗||15勝0敗||'''北の湖'''||千秋楽対戦は、北の湖勝利。
 
|-
 
|1977年5月場所||11勝4敗||12勝3敗||若三杉(後の若乃花(2代))||千秋楽対戦は、北の湖勝利。
 
|-
 
|1977年7月場所||15勝0敗||13勝2敗||'''輪島'''||'''千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗'''で対戦。輪島勝利。
 
|-
 
|1977年9月場所||10勝5敗||15勝0敗||'''北の湖'''||千秋楽対戦は、北の湖勝利。
 
|-
 
|1977年11月場所||14勝1敗||13勝2敗||'''輪島'''||'''千秋楽1敗同士相星決戦'''で、輪島勝利。
 
|-
 
|}
 
1976年=輪島:77勝13敗(優勝2回)、北の湖72勝18敗(優勝3回)<br/>
 
1977年=輪島:75勝15敗(優勝3回)、北の湖80勝10敗(優勝2回)<br/>
 
 
※このように、1976年〜1977年の2年12場所間で、輪湖両横綱が千秋楽結びの対戦で、両者とも優勝圏内での対戦が7度実現した(そのうち、相星決戦は4度である)。<br />
 
※また、1974年(昭和49年)7月場所も、千秋楽輪島2敗、北の湖1敗(当時大関)で対戦が実現(この時は、輪島勝利。優勝決定戦も輪島が制し、逆転優勝を果たした。北の湖は、場所後横綱昇進を果たしている)。
 
 
このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な[[上手投げ]]を打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前[[廻し]]を引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の[[切り返し]]で降し、大鵬に次ぎ[[双葉山定次|双葉山]]と並ぶ当時史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。
 
 
1975年9月〜1978年1月までの15場所間は、千秋楽結びの一番は、全て輪島-北の湖という対戦であり、千秋楽結び対戦連続回数15回は史上1位である。<ref>2位は、[[白鵬翔|白鵬]]-[[日馬富士公平|日馬富士]]の10回(平成24年5月場所〜平成25年11月場所)。この間の両者は白鵬4勝-6勝日馬富士。また相星決戦は2回(全勝同士=H24.7、1敗同士=H25.11)。優勝圏内での対戦1回(H24.9)。また、両者横綱同士に限ればこの両者の対戦は7回連続となり、[[朝青龍明徳|朝青龍]]-白鵬と並ぶ。ちなみに、輪島-北の湖による千秋楽結び対戦回数は22回あり、[[曙太郎|曙]]-[[貴乃花光司|貴乃花]]の27回に次いで、史上2位。</ref>
 
 
====輪湖 全対戦一覧====
 
輪湖両雄の対戦は、1972年7月場所〜1981年1月場所の52場所間に44回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上2位の22回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が8回(うち、相星決戦が4回)、水入りの大相撲が3回と、数多くの名勝負が展開された。
 
 
千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を表す。
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!場所        !!対戦日!!輪島勝敗<br/>(通算成績)    !!北の湖勝敗<br/>(通算成績)  !!優勝力士!!備考
 
|-
 
|1972年7月場所||13日目||○(1)||●(0)||高見山||'''初対戦'''
 
|-
 
|1972年9月場所||12日目||○(2)||●(0)||北の富士||
 
|-
 
|1972年11月場所||-||-||-||琴桜||対戦なし。輪島新大関
 
|-
 
|1973年1月場所||初日||●(2)||○(1)||琴桜||
 
|-
 
|1973年3月場所||10日目||○(3)||●(1)||北の富士||
 
|-
 
|1973年5月場所||4日目||○(4)||●(1)||'''輪島(2)'''||
 
|-
 
|1973年7月場所||7日目||○(5)||●(1)||琴桜||輪島新横綱
 
|-
 
|1973年9月場所||8日目||○(6)||●(1)||'''輪島(3)'''||
 
|-
 
|1973年11月場所||5日目||○(7)||●(1)||'''輪島(4)'''||
 
|-
 
|1974年1月場所||初日||●(7)||○(2)||'''北の湖(1)'''||
 
|-
 
|1974年3月場所||12日目||●(7)||○(3)||'''輪島(5)'''||北の湖新大関
 
|-
 
|1974年5月場所||'''千秋楽'''||○(8)||●(3)||'''北の湖(2)'''||
 
|-
 
|1974年7月場所||'''千秋楽'''||○(9)||●(3)||'''輪島(6)'''||'''千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦'''。輪島勝利。優勝決定戦も輪島が勝利
 
|-
 
|1974年9月場所||'''千秋楽'''||○(10)||●(3)||'''輪島(7)'''||北の湖新横綱
 
|-
 
|1974年11月場所||'''千秋楽'''||○(11)||●(3)||魁傑||
 
|-
 
|1975年1月場所||'''千秋楽'''||○(12)||●(3)||'''北の湖(3)'''||
 
|-
 
|1975年3月場所||-||-||-||貴ノ花||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1975年5月場所||-||-||-||'''北の湖(4)'''||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1975年7月場所||-||-||-||金剛||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1975年9月場所||'''千秋楽'''||●(12)||○(4)||貴ノ花||
 
|-
 
|1975年11月場所||'''千秋楽'''||●(12)||○(5)||三重ノ海||
 
|-
 
|1976年1月場所||'''千秋楽'''||●(12)||○(6)||'''北の湖(5)'''||'''千秋楽2敗同士の相星決戦'''
 
|-
 
|1976年3月場所||'''千秋楽'''||○(13)||●(6)||'''輪島(8)'''||
 
|-
 
|1976年5月場所||'''千秋楽'''||○(14)||●(6)||'''北の湖(6)'''||'''千秋楽輪島2敗、北の湖1敗で対戦'''。優勝決定戦は北の湖勝利
 
|-
 
|1976年7月場所||'''千秋楽'''||○(15)||●(6)||'''輪島(9)'''||'''千秋楽輪島1敗、北の湖2敗で対戦'''
 
|-
 
|1976年9月場所||'''千秋楽'''||○(16)||●(6)||魁傑||
 
|-
 
|1976年11月場所||'''千秋楽'''||●(16)||○(7)||'''北の湖(7)'''||'''千秋楽1敗同士の相星決戦'''
 
|-
 
|1977年1月場所||'''千秋楽'''||○(17)||●(7)||'''輪島(10)'''||'''千秋楽2敗同士の相星決戦'''
 
|-
 
|1977年3月場所||'''千秋楽'''||●(17)||○(8)||'''北の湖(8)'''||'''水入りの大相撲'''で北の湖勝利
 
|-
 
|1977年5月場所||'''千秋楽'''||●(17)||○(9)||若三杉(のちの若乃花(2代)||
 
|-
 
|1977年7月場所||'''千秋楽'''||○(18)||●(9)||'''輪島(11)'''||'''千秋楽は輪島全勝、北の湖1敗で対戦'''
 
|-
 
|1977年9月場所||'''千秋楽'''||●(18)||○(10)||'''北の湖(9)'''||
 
|-
 
|1977年11月場所||'''千秋楽'''||○(19)||●(10)||'''輪島(12)'''||'''千秋楽1敗同士の相星決戦'''
 
|-
 
|1978年1月場所||'''千秋楽'''||●(19)||○(11)||'''北の湖(10)'''||
 
|-
 
|1978年3月場所||-||-||-||'''北の湖(11)'''||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1978年5月場所||'''千秋楽'''||●(19)||○(12)||'''北の湖(12)'''||
 
|-
 
|1978年7月場所||14日目||●(19)||○(13)||'''北の湖(13)'''||'''13戦全勝同士で対戦'''。'''水入りの大相撲'''で北の湖勝利
 
|-
 
|1978年9月場所||-||-||-||'''北の湖(14)'''||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1978年11月場所||14日目||○(20)||●(13)||若乃花(2代)||
 
|-
 
|1979年1月場所||13日目||●(20)||○(14)||'''北の湖(15)'''||
 
|-
 
|1979年3月場所||14日目||●(20)||○(15)||'''北の湖(16)'''||'''水入りの大相撲'''で北の湖勝利
 
|-
 
|1979年5月場所||14日目||○(21)||●(15)||若乃花(2代)||
 
|-
 
|1979年7月場所||13日目||○(22)||●(15)||'''輪島(13)'''||
 
|-
 
|1979年9月場所||'''千秋楽'''||●(22)||○(16)||'''北の湖(17)'''||
 
|-
 
|1979年11月場所||14日目||●(22)||○(17)||三重ノ海||
 
|-
 
|1980年1月場所||-||-||-||三重ノ海||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1980年3月場所||14日目||●(22)||○(18)||'''北の湖(18)'''||
 
|-
 
|1980年5月場所||14日目||●(22)||○(19)||'''北の湖(19)'''||
 
|-
 
|1980年7月場所||-||-||-||'''北の湖(20)'''||輪島休場により対戦なし
 
|-
 
|1980年9月場所||14日目||●(22)||○(20)||若乃花(2代)||
 
|-
 
|1980年11月場所||13日目||○(23)||●(20)||'''輪島(14)'''||
 
|-
 
|1981年1月場所||14日目||●(23)||○(21)||千代の富士||輪湖最後の対戦
 
|-
 
|}
 
*北の湖横綱昇進以前の対戦成績(1974年7月場所まで)は、輪島の9勝3敗。
 
*両者横綱同士の対戦成績(1974年9月場所以降)は、北の湖の18勝14敗。
 
**1974年9月場所〜1977年11月場所までは、輪島の10勝7敗で、輪島やや優勢であった。(優勝回数は、1977年11月場所まで、輪島12回、北の湖9回)。
 
**1978年1月場所以降は、北の湖の11勝4敗で、北の湖圧倒的優位であった(優勝回数は、1981年1月場所まで、輪島2回、北の湖11回)。1978年1月場所以降は、力関係が完全に逆転し、北の湖の独走時代であった。
 
 
=== 大相撲・親方時代 ===
 
[[1981年]]3月場所中に[[引退]]し、停年(定年)退職間近であった師匠とバトンタッチする形で[[花籠部屋#旧花籠部屋|花籠部屋]](※[[平成]]時代の花籠部屋とは別)を継承した。年寄名も先代の名をそのまま継承し、「花籠 昶光」(はなかご ひさみつ)を名乗った(のちに花籠 大嗣(- ひろし)と改名)。しかし同年、9月20日にその先代が輪島の[[引退相撲]]を目前にして亡くなったため、[[断髪式]]では花籠部屋の兄弟子にあたり、二所ノ関一門の総帥格であった[[若乃花幹士 (初代)|二子山]]が止め鋏を入れた<ref>この止め鋏の際、二子山に付き添い、先代花籠の子息が先代の遺影を持って土俵に上がっている。</ref>。
 
 
[[1982年]]4月妻(師匠・大ノ海の長女である輪島五月(旧姓・中島。「輪島五月」名義で著書あり))が自殺未遂(その後[[離婚]])、[[1985年]]11月に[[角界]]では前代未聞の、[[年寄名跡]]「[[花籠]]」を実妹の経営する[[料亭]]の借金の担保にしていたことが表面化し、[[日本相撲協会]]は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。これほどまでの重大な処分が下された影には、輪島が当時抱えていた他の金銭問題や、現役時代からの私生活での豪遊ぶり等も不興を買ったという説もある。<ref name="nishonoo7071"/>
 
 
結局これが原因で、同年12月に[[引退#大相撲|廃業]]<ref>日刊スポーツ 2017年11月22日</ref><ref>現在(2014年12月時点)の相撲協会の規定でいうところの“退職”に相当</ref>となった。先代花籠は気を配って育てたが、その脇の甘い育て方が裏目に出たと言える<ref name="nishonoo7071"/>花籠部屋は部屋の継承者を決めることができず消滅、所属の力士たちは花籠部屋出身の魁傑が開いた[[放駒部屋]]へ移籍した<ref name="nisho40">ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ席部屋』p40</ref>。さらに初代若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた先代師匠の妻・中島トミが[[1986年]][[5月23日]]の夕刻に首を吊り[[自殺]]するという悲劇を生んだ。
 
 
=== プロレス時代 ===
 
{{Infobox プロレスラー
 
| 名前 = '''輪島 大士 '''
 
| リングネーム = 輪島 大士
 
| 本名 = 輪島 博
 
| ニックネーム = 黄金の左
 
| 身長 = 185cm
 
| 体重 = 125kg<ref>プロレス転向会見の時点では103kgと答えた。
 
: [https://www.youtube.com/watch?v=rHcK29IbSpc 輪島大士プロレス転向記者会見 1986 Japan] 実際の映像 </ref>
 
| 誕生日 = {{生年月日と年齢|1948|1|11}}
 
| 死亡日 =
 
| 出身地 = [[石川県]][[七尾市]]
 
| 所属 =
 
| スポーツ歴 = [[大相撲]]
 
| トレーナー = [[ジャイアント馬場]]<br />[[パット・オコーナー]]<br />[[ネルソン・ロイヤル]]
 
| デビュー = [[1986年]][[8月7日]]
 
| 引退 = [[1988年]]12月
 
}}
 
大相撲を離れた輪島は、[[1986年]]に[[全日本プロレス]]に入門。全日本の総帥[[ジャイアント馬場]]のツテでアメリカの名レスラー・[[パット・オコーナー]]や[[ネルソン・ロイヤル]]から指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を[[寝技]]に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。
 
本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」。と述べ、[[プロレス]]の基礎を十分学ぶだけの下積み期間がほとんどなかったようでである。
 
また[[阿修羅・原]]の[[バックドロップ]]を受ける際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷する事もあった。
 
 
輪島が全日本に入門したことで、日本相撲協会は全日本に対して1986年11月以降における[[両国国技館]]の使用禁止を通告し、全日本は[[2004年]]まで18年間両国国技館における興行ができない状態に陥った。
 
 
そういった経験不足の状態でありながら、馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行う。相撲技の「[[喉輪]]」と「かち上げ」を合体させて開発したという、オリジナルの必殺技'''[[ゴールデン・アームボンバー]]'''(喉輪落とし)で快勝したが、プロレスとしての見せ場を作る技術は低かった。なおゴールデン・アームボンバーは輪島引退後の全日マットで[[田上明]]が復活させ、後に高角度喉輪落とし([[チョークスラム]])へと発展していく。他に片足抱え式の[[バックドロップ]]も得意としていた。
 
 
「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく[[新幹線]]を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が[[週刊プロレス]]にも掲載されている。しかし[[仲田龍]]によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にし、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である[[渕正信]]らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っていており、練習もきちんと行っていた<ref>「輪島は練習しない」というイメージが広がったきっかけは、[[1987年]][[11月7日]]に行われた輪島対天龍源一郎の試合においてテレビ解説を務めていた馬場が、「輪島は最初はよかったが、だんだん稽古しなくなりましたね」とコメントしたことも大きい。しかし、件の試合では天龍に徹底的に攻められて戦闘不能に陥るほど、当時輪島の膝の怪我が悪化していた。</ref>とのことであり、「全く仲間がいなかった」「練習をしなかった」という訳ではなかった。
 
 
輪島デビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、当時全日本と業務提携していた[[ジャパンプロレス]]の大型新人であった[[馳浩]]が「輪島さんと同じリングに上がるんですか!?」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳本人により否定される。ジャパンプロの長であった[[長州力]]も[[新日本プロレス]]から[[北尾光司]]を契約解除する際に(若さ故に未熟な言動を繰り返していた当時の)北尾と比較して「輪島さんは一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上ではすれ違いに終わったジャパン勢からもその姿勢は認められていた。
 
 
[[リック・フレアー]]の[[NWA世界ヘビー級王座]]に挑戦、[[スタン・ハンセン]]との[[PWF]]ヘビー級新王者決定戦に出場するなど[[マッチメイク]]面では優遇された(輪島が初登場した[[全日本プロレス中継]]で20%を超える[[視聴率]]を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。
 
 
レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の[[天龍源一郎]]との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを[[八百長]]視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。当時新日本にUターンしていた[[前田日明]]はこの2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。
 
 
必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年「喉輪落とし」として多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代からの仲良しだったプロレスラー[[石川孝志|石川敬士]]の退団と同時に[[1988年]]12月に引退した。
 
 
=== プロレス引退後〜タレント・評論家時代 ===
 
プロレス引退後は、大相撲解説などの他[[タレント]]としても活躍。[[日本テレビ放送網|日本テレビ系]]「[[とんねるずの生でダラダラいかせて!!]]」に準レギュラーで出演し、いわゆる[[天然ボケ]]タレントとして活躍する(登場時には「第54代横綱・輪島こと輪島大士」と紹介された)。
 
 
「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、[[とんねるず]]の[[石橋貴明]]から'''ワジー'''と言うあだ名で呼ばれ出し、ワジーと言う愛称が、現役時代を知らない世代にも広く定着する。
 
 
また、この番組ではテロップが初めて出たことでも知られ、輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に[[江戸文字]]体や[[根岸流 (書風)|相撲字]]体・[[勘亭流|歌舞伎文字]]体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ「マグロ!?」という具合になっていた。
 
 
この番組には[[輪島功一]]も準レギュラーで出演していたが、[[石橋貴明]]は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。本来功一とは又従兄弟であり、これは[[輪島直幸]]を含む3人が従兄弟であると横綱現役の頃から言われていたという事実と矛盾するが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである<ref>2010年8月9日のスポーツニッポン「我が道」のコーナーより</ref>。功一とは従来より友人であったため「コウちゃん」「ヒロシ」と互いに呼びあっている。なお、[[木梨憲武]]と輪島の共演はほとんどなかった。後に輪島が回想録等で話したところによると、当初は元横綱のプライドがあり出演を固辞していたが、貴明らが輪島の現役時代のファンであると口説かれ出演を応諾したという。
 
 
その後、[[アメリカンフットボール|アメフト]]・[[Xリーグ]]のクラブチーム「[[ROCBULL]]」の総監督に就任し、現在は[[キューバ]]の相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務め、地元の鮮魚販売会社[[スギヨ]]のCMにも'''スギヨふるさとの味大使'''として登場している。また一時期TBS系「[[サンデーモーニング]]」等で相撲解説を担当していた。2008年に還暦を迎えたが、[[還暦土俵入り]]は行われなかった<ref>[[池田雅雄]]は「[[相撲 (雑誌)|相撲]]」の『質疑応答』で、輪島が事実上、破門されるような形で相撲協会を去った経緯からして、還暦土俵入りが行われることはないであろうという私見を述べていた。ただし、親方となった後に協会を退職した横綱経験者でも、[[太刀山峯右エ門|太刀山]]([[1937年]][[2月6日]])・[[北の富士勝昭|北の富士]]([[2002年]][[2月23日]])のように、還暦土俵入りを行った例は存在する。また土俵入りしなくても還暦記念に赤い綱を作製し受取る場合も有るが、輪島は公表されず不明である。</ref>。
 
 
[[2009年]][[1月18日]]、大相撲初場所8日目のNHK[[大相撲中継]]に[[デーモン閣下|デーモン小暮閣下]]と共に出演し、解説を務めた。輪島が本場所の土俵を観戦することは年寄花籠を名乗っていた当時の[[1985年]]11月場所以来、23年2ヶ月ぶりのことであった。不祥事によって廃業した大相撲関係者がNHKの大相撲中継に出演することはほとんどないため、異例の出演となった。
 
 
2013年秋に[[喉頭癌|下咽頭癌]]への罹患が判明し、12月に癌の切除手術を受けて成功したがその影響で声を失ってしまったことが明らかにされた<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/general/2014/07/16/1p_0007149676.shtml 元横綱輪島さん がん手術で声失った] デイリースポーツ 2014年7月16日閲覧</ref>。2014年9月、かつての盟友・貴ノ花の系譜を継ぐ[[高田川部屋]]<ref>現在は貴ノ花(藤島→二子山)の愛弟子である元関脇・[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]](藤島部屋→二子山部屋)が師匠。</ref>へ、二所ノ関一門の連合稽古を見学に訪れた。この際に高田川部屋の当時幕下の達綾哉が自身の遠縁であると明かされた<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20140910-1364393.html 輪島氏が筆談で「元気になりました」]nikkansports.com 2014年9月10日9時1分 紙面から</ref>。その達が関取に昇進し、現在の[[輝大士]]という四股名に改めた際には、下の名前の「大士」という字を譲った(読みは「ひろし」ではなく「たいし」)<ref>[http://www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20141002-1376131.html 輝 輪島と同じ黄金まわしに意欲] 日刊スポーツ 2014年10月2日(2014年10月27日閲覧)</ref><ref>ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 2014年11月号(九州場所展望号)37頁によると、高田川が下の名前の読みについて勘違いしていた上に確認を取っても輪島本人がその勘違いに気付かなかったという。</ref>。
 
 
大相撲九州場所13日目の[[2015年]][[11月20日]]、輪湖時代を築き上げたライバル・北の湖理事長が、[[直腸癌]]による[[多臓器不全]]により62歳で死去。翌日の[[11月21日]]、発声不可能のため、文書でコメントを寄せる。「最近理事長は元気だと聞いたばかりなので、とても驚いた。お互いに病気と闘っていたが先に逝かれて寂しい」「昔のライバルが、相撲界で頑張り続けている事が嬉しかった。俺はもう少し頑張る。(理事長には)よく頑張ったね、お疲れ様と言いたい」と弔いの言葉を贈っていた<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1569498.html 輪島氏、北の湖さんへ「頑張ったね、俺はもう少し」]日刊スポーツ 2015年11月22日</ref>。
 
 
== 取り口など ==
 
大相撲入り以降は右四つでも左四つでも取れるようになったが、日大時代は右四つの取り手であった。輪島はがっぷり四つにならないので右差しでも左差しでも体の動きの自由度は変わらず、それは輪島の幅広のやや前すぼみの肩という体型に由来しており、体型的に胸を合わせる四つ身の型にはなりにくかった。輪島は左下手一本でも引き付けて肩を密着させてくるので、体を開いて投げを打って対抗することもやりづらかった。怒り肩をしていたため、有効身長は実際の身長と比べて高かった。<ref name="siwasu1">『相撲』(別冊師走号)26ページ</ref>。
 
 
輪島の下手投げは投げの打ち返しか動いてくるところを小手投げのようにしたり引きずるようにしたりして投げるものではなく、腰の力を利用して土俵の真ん中からいきなり投げて相手を裏返す凄まじい威力のものであり<ref name="siwasu2">『相撲』(別冊師走号)25ページ</ref>、輪島は現役時代に「下手投げは上位では効かない。だから悪い手だ」という常識に対して「下手投げでも、根こそぎ投げるから構わない」と言い放ち、その通りにしてきた。左からの投げは下手投げに限らず上手投げも掬い投げも小手投げも強かった<ref name="siwasu2"/>。寄り足はお世辞にも速いと言えなかったがすり足が徹底されていたためうっちゃりによる逆転を許さなかった。差せば腕を返し、押せば押し上げ、おっつけも絞り上げるなど、出る時に力を下から上へと加えたため、吊り身でなくても相手を浮かせることができた。逆にうっちゃりがないため、立合いで失敗して一気に土俵に押し込まれた時が最大の弱みになった<ref name="siwasu1"/><ref name="siwasu4">『相撲』(別冊師走号)26ページから27ページ</ref>。
 
 
立合いを称賛されることは少なかったが、横綱昇進直後の記事では概して「ゆとりある幅の広い立ち合いをしており、立ち合いがずれても抜群の足腰のおかげで甘さにつながらず、相手を見ながら前さばきで押さえ込もうとする」と評され、この立合いに加えて「攻める踏み込みが自在に加われば、これは完璧である」と言われていた。その頃は「双葉山の立合いに最も近付き得るのは輪島」とまで期待された<ref name="siwasu3">『相撲』(別冊師走号)24ページから25ページ</ref>。一方で小兵であったため[[変化 (相撲)|変化]]をすることも多かった。ほとんどの場合は左に飛んでいたが、良く見て当たる瞬間に変わるので失敗率が低かった。押し相撲の力士であったが突進型でなかった[[大受久晃|大受]]も輪島の変化はよく喰らった。ただ、輪島の変化は[[決まり手]]に直結しない場合が多く、逃げただけの印象を与えることがままあった<ref name="siwasu2"/>。
 
 
== エピソード ==
 
*十両を4場所で通過したが、この時期には負け越したり、番付運の悪さに泣かされたりした。後者については1970年9月場所、西十両6枚目で13勝2敗・十両優勝を決めたにもかかわらず、翌場所東十両筆頭に据え置かれるという不運も経験した。十両の定員が28人となった1967年5月場所以降、十両で13勝を挙げた力士が翌場所も十両に据え置かれたケースは12回発生したが、同場所の輪島のケースは最も高い地位で「13勝据え置き」となった記録である。
 
*1974年7月場所前、稽古を終えた輪島は記者から質問をされた。同年5月場所前の靖国神社奉納相撲の時に北の湖が「輪島の力は落ちた。大受は大関からも落ちるぜ」と怪童らしくこだわりも遠慮もない言葉を口にしたが、これがある週刊誌に掲載され、それを見た輪島が怒っているのでは?という内容の質問であった。ところが輪島は「オレ、知らないよ。新聞も雑誌も読まないからな」と答えた。その一方で「だけど、北の湖だってもうじき糖尿病でガクッだぜ」と肩を落とす真似をして見せ、北の湖が放ったとされる言葉に対して反撃を加えた<ref name="6kaime">『相撲』(別冊師走号)29ページ</ref>。
 
* 大関昇進伝達式では「謹んでお受け致します」と言ったところで口上を度忘れしてそれ以上言えなくなるというハプニングを引き起こしている。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/12/01/kiji/K20111201002145860.html 昭和の大関昇進口上は短め…輪島は“ド忘れ”] Sponichi Annex 2011年12月1日 06:00 </ref>
 
*現役時代を通してスタミナ面が課題であり、そのため1974年7月場所前には精を付けようと[[泥鰌]]を3匹一気飲みしたことがある<ref name="6kaime"/>。
 
*現役時代に、横綱ながらも[[週刊ポスト]]に「輪島の美女対談。」と称する対談コーナーを持ち、当時の人気アイドル達を招いて、かなりくだけたトークを繰り広げ話題になった<ref>北の湖も輪島に誘われる形で参加したことがある。</ref>が、一方で「品が無さ過ぎる」というクレームもかなり来た<ref>北の湖は[[松本ちえこ]]から女性体験を再三聞かれてしどろもどろだったと伝わっている。</ref>と言われ、同コーナーは半年で打ち切られている。
 
* 1973年11月場所、12日目の貴ノ花戦では手のひらを負傷(右手人差指中指間裂傷)したものの勝利した。しかし、この傷のため満足な相撲が取れず、13日目は[[北の富士勝昭|北の富士]]に外掛けで敗れ、連勝が27でストップ。連勝途切れたこともあり休場し、14日目は不戦敗、15日目は休場<ref name="center">大相撲ジャーナル』2017年12月号p40</ref>。しかし休場したものの優勝して登場した輪島は、インタビューで「私は今幸運に酔っている。幸運の女神様、来年もまた私のそばに来てください」ととんでもないコメントを残す。なお、大相撲の歴史上、休場したものの優勝した力士は他に1989年3月場所の千代の富士(14勝1不戦敗)だけであり、星取表に「休」を含む優勝者は、この時の輪島だけである。
 
* 十両になった時に羽織のたたみ方が分からないので、同じ一門である佐渡ヶ嶽部屋の[[琴乃富士宗義|琴乃富士]](輪島より4学年下で当時は幕下以下。のち前頭5枚目まで昇進)に「先輩。どうやってたたむのか、教えてくださいよ」と頼んだ。
 
* 日大相撲部に入学する時に上京してきて、ある食堂の会計をツケですませようとしたが断られたため、「石川県では有名人やお役人は、初めてでもツケが利くんですよ」と言いながら渋々金を払った。
 
* 子供の頃から自分の名前をサインで練習していた。このことから、輪島が本名に愛着を持っていて四股名を付けたくなかったとする資料もある<ref>『相撲』(別冊師走号)p84</ref>。
 
* 1973年5月場所、大関時代の輪島は途中から縁起をかついで14日目までひげを剃らずに土俵へ上がった。場所後に横綱昇進を果たしたが、無精ひげについては[[横綱審議委員会]]の席上、辛口の[[高橋義孝]]委員(ドイツ文学者、のち委員長)から「見苦しい」と物言いがついた<ref name="wakige">[http://www.jiji.com/jc/v4?id=201705takayasu0002 「胸毛の横綱」再来か 高安=力士と「毛」あれこれ] 時事通信 </ref>。
 
* 長男の[[輪島大地]]は[[2017年]]の[[第99回全国高等学校野球選手権大会]]で[[天理高等学校]]の[[投手]]として[[登板]]を果たした<ref>{{Cite web|url=https://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/1875017.html|title=天理の元横綱輪島の長男大地、初登板も満塁弾被弾|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2017-08-20|accessdate=2018-02-04}}</ref>。
 
 
== 略歴 ==
 
* [[1970年]]1月 - 幕下付出で初土俵
 
* 1970年5月 - 新十両
 
* [[1971年]]1月 - 新入幕
 
* [[1972年]]11月 - 大関昇進('''輪島 博''' 改め '''輪島 大士''')
 
* [[1973年]]7月 - 横綱昇進
 
* [[1981年]]3月 - 現役引退、年寄・花籠襲名
 
* [[1985年]]12月 - 不祥事により、相撲界を退く(廃業)。
 
* [[1986年]] - 全日本プロレス入団
 
* [[1988年]] - プロレス引退
 
 
== 主な成績 ==
 
===通算成績===
 
* 通算成績:673勝234敗85休 勝率.742
 
* 幕内成績:620勝213敗85休 勝率.744
 
* 大関成績:50勝10敗 勝率.833
 
* 横綱成績:466勝142敗85休 勝率.766
 
* 現役在位:68場所
 
* 幕内在位:62場所
 
* 横綱在位:47場所(当時[[大鵬幸喜|大鵬]]に次ぎ、[[柏戸剛|柏戸]]と並び歴代2位タイ・現在歴代7位タイ)
 
* 大関在位:4場所
 
* 三役在位:5場所(関脇4場所、小結1場所)
 
* [[年間最多勝]]:3回
 
**1972年(63勝27敗)、1973年(71勝18敗1休)、1976年(77勝13敗)
 
* 連続6場所勝利:78勝(1976年3月場所〜1977年1月場所)
 
* 通算(幕内)連続勝ち越し記録:21場所(1971年9月場所〜1975年1月場所)
 
* 幕内連続2桁勝利記録:15場所(当時4位タイ・現在歴代8位、1975年9月場所〜1978年1月場所)、13場所(現在歴代10位タイ、1972年9月場所〜1974年9月場所)
 
* 幕内連続12勝以上勝利:8場所(当時大鵬に次いで2位・現在歴代5位、1976年1月場所〜1977年3月場所)
 
 
====連勝記録====
 
輪島の最多連勝記録は、27連勝である(1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目)。
 
 
下記に、輪島のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。
 
{| class="wikitable"
 
|-
 
!回数!!連勝数!!期間!!止めた力士!!備考
 
|-
 
|1||21||1973年3月場所千秋楽〜1973年7月場所5日目||三重ノ海||1973年5月場所全勝優勝
 
|-
 
|2||27||1973年9月場所初日〜1973年11月場所12日目||北の富士||1973年9月場所全勝優勝
 
|-
 
|3||20||1977年7月場所初日〜1977年9月場所5日目||高見山||1977年7月場所全勝優勝
 
|}
 
*上記の通り、20連勝以上を3回記録している。
 
 
===各段優勝===
 
*幕内最高優勝:14回<ref name="nishonoo22"/>
 
(1972年 5月場所<br>
 
1973年 5月場所、9月場所、11月場所<br>
 
1974年 3月場所、7月場所、9月場所<br>
 
1976年 3月場所、7月場所<br>
 
1977年 1月場所、7月場所、11月場所<br>
 
1979年 7月場所<br>
 
1980年 11月場所)
 
**歴代7位
 
**全勝優勝:3回
 
**同点1回
 
*十両優勝:1回(1970年9月場所)
 
*幕下優勝:2回(1970年1月場所、1970年3月場所)
 
 
===三賞・金星===
 
* 三賞:5回
 
**殊勲賞:3回(1972年1月場所、1972年5月場所、1972年9月場所)
 
**敢闘賞:2回(1971年5月場所、1971年11月場所)
 
 
=== 場所別成績 ===
 
{{Sumo record box start|輪島 大士}}
 
{{Sumo record year start|1970}}
 
  {{Basho|yusho|rank=mt|r-no=60||win=7|loss=0}}
 
  {{Basho|yusho|rank=ma|r-no=8|tozai=e|win=7|loss=0}}
 
  {{Basho|j|8|e|10|5}}
 
  {{Basho|j|4|e|7|8}}
 
  {{Basho|yusho|rank=j|r-no=6|tozai=w|win=13|loss=2}}
 
  {{Basho|j|1|e|9|6}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1971}}
 
  {{Basho|m|11|w|9|6}}
 
  {{Basho|m|5|w|5|10}}
 
  {{Basho|m|12|e|11|4|||f}}
 
  {{Basho|m|2|w|6|9}}
 
  {{Basho|m|6|e|10|5}}
 
  {{Basho|m|1|e|11|4|||f}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1972}}
 
  {{Basho|k||e|10|5|||o}}
 
  {{Basho|s||w|9|6}}
 
  {{Basho|s||w|12|3||y|o}}
 
  {{Basho|s||e|8|7}}
 
  {{Basho|hs||e|13|2|||o}}
 
  {{Basho|o||e|11|4}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1973}}
 
  {{Basho|o||w|11|4}}
 
  {{Basho|o||e|13|2}}
 
  {{Basho|o||e|15|0||y}}
 
  {{Basho|y||e|11|4}}
 
  {{Basho|hy||e|15|0||y}}
 
  {{Basho|y||e|12|2|1<ref>右手人差指中指間裂傷により14日目から途中休場</ref>|y}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1974}}
 
  {{Basho|y||e|12|3}}
 
  {{Basho|y||e|12|3||y}}
 
  {{Basho|y||e|10|5}}
 
  {{Basho|y||e|13|2<ref name="Wajima1">[[北の湖敏満|北の湖]]と優勝決定戦</ref>||y}}
 
  {{Basho|y||e|14|1||y}}
 
  {{Basho|y||e|9|6}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1975}}
 
  {{Basho|yo||w|10|5}}
 
  {{Basho|y||w|0|4|11<ref>腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛により4日目から途中休場</ref>}}
 
  {{Basho|y||w|0|3|12<ref>腰椎及び左膝関節及び左足首関節捻挫・左坐骨神経痛により3日目から途中休場</ref>}}
 
  {{Basho|KYUJO|rank=y|tozai=w|}}
 
  {{Basho|y||w|10|5}}
 
  {{Basho|y||w|11|4}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1976}}
 
  {{Basho|y||w|12|3}}
 
  {{Basho|y||w|13|2<ref>[[旭國斗雄|旭國]]と優勝決定戦</ref>||y}}
 
  {{Basho|y||e|13|2<ref name="Wajima1"/>}}
 
  {{Basho|y||e|14|1||y}}
 
  {{Basho|y||e|12|3}}
 
  {{Basho|y||e|13|2}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1977}}
 
  {{Basho|y||w|13|2||y}}
 
  {{Basho|y||e|12|3}}
 
  {{Basho|y||w|11|4}}
 
  {{Basho|y||w|15|0||y}}
 
  {{Basho|y||e|10|5}}
 
  {{Basho|y||w|14|1||y}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1978}}
 
  {{Basho|y||e|10|5}}
 
  {{Basho|y||w|1|1|13<ref>膝関節捻挫・右膝内側側副靱帯損傷により2日目から途中休場</ref>}}
 
  {{Basho|y||w|9|6}}
 
  {{Basho|hy||e|14|1}}
 
  {{Basho|y||w|1|3|11<ref>急性大腸炎により4日目から途中休場</ref>}}
 
  {{Basho|hy||e|13|2}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1979}}
 
  {{Basho|y||w|10|5}}
 
  {{Basho|hy||e|12|3}}
 
  {{Basho|hy||e|12|3}}
 
  {{Basho|hy||e|14|1<ref>[[三重ノ海剛司|三重ノ海]]と優勝決定戦</ref>||y}}
 
  {{Basho|y||e|10|5}}
 
  {{Basho|hy||w|10|5}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1980}}
 
  {{Basho|hy||w|0|3|12<ref>腰痛・左手首関節捻挫後遺症により3日目から途中休場</ref>}}
 
  {{Basho|hy||w|11|4}}
 
  {{Basho|hy||e|11|4}}
 
  {{Basho|hy||e|1|4|10<ref>頸椎捻挫により5日目から途中休場</ref>}}
 
  {{Basho|hy||w|11|4}}
 
  {{Basho|hy||e|14|1||y}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record year start|1981}}
 
  {{Basho|y||e|10|5}}
 
  {{Basho|intai|rank=y|tozai=w|win=1|loss=2}}
 
  {{Basho|}}
 
  {{Basho|}}
 
  {{Basho|}}
 
  {{Basho|}}
 
{{Sumo record year end}}
 
{{Sumo record box end}}
 
 
=== 主な力士との幕内対戦成績 ===
 
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
 
|-
 
! 力士名 !! 勝数 !! 負数 !! 力士名 !! 勝数 !! 負数 !! 力士名 !! 勝数 !! 負数
 
|-
 
|[[青葉城幸雄]] || 10 || 0 || [[青葉山弘年]] || 9 || 0 || [[朝潮太郎 (4代)|朝汐太郎]] || 6 || 2
 
|-
 
| [[旭國斗雄]] || 30* || 4 || [[天ノ山静雄]] || 4 || 0 || [[大潮憲司]] || 5 || 1
 
|-
 
| [[巨砲丈士]] || 6 || 2 || [[大錦一徹]] || 2 || 2 || [[魁輝薫秀]] || 7 || 1
 
|-
 
| [[北瀬海弘光]] || 7 || 3 || [[北の湖敏満]] || 23* || 21* || [[北の富士勝昭]] || 5 || 7
 
|-
 
| [[清國勝雄]] || 10 || 2 || [[麒麟児和春]] || 15 || 8 || [[蔵間竜也]] || 8 || 1
 
|-
 
| [[黒瀬川國行]] || 2 || 2 || [[黒姫山秀男]] || 24 || 7 || [[琴風豪規]] || 8 || 3
 
|-
 
| [[琴櫻傑將]] || 7 || 6 || [[金剛正裕]] || 19 || 5 || [[蔵玉錦敏正]] || 4 || 0
 
|-
 
| [[佐田の海鴻嗣]] || 1 || 0 || [[白田山秀敏]] || 2 || 1 || [[錦洋幸治]] || 5 || 2
 
|-
 
| [[大麒麟將能]] || 13 || 3 || [[大受久晃]] || 19 || 2 || [[大雄辰實]] || 4 || 0
 
|-
 
| [[隆の里俊英]] || 11 || 1 || [[貴ノ花利彰]] || 31 || 17 || [[高見山大五郎]] || 24 || 19
 
|-
 
| [[玉輝山正則]] || 5 || 0 || [[玉の海正洋]] || 0 || 1 || [[玉ノ富士茂]] || 19 || 4
 
|-
 
| [[千代の富士貢]] || 6 || 1 || [[出羽の花義貴]] || 4 || 1 || [[時葉山敏夫]] || 3 || 1
 
|-
 
| [[栃赤城雅男]] || 6 || 2 || [[栃東知頼]] || 12 || 1 || [[栃光興福]] || 15 || 2
 
|-
 
| [[羽黒岩智一]] || 6 || 2 || [[長谷川勝敏]] || 18 || 5 || [[播竜山孝晴]] || 2 || 0
 
|-
 
| [[福の花孝一]] || 6 || 5 || [[富士櫻栄守]] || 24 || 9 || [[二子岳武]] || 6 || 0
 
|-
 
| [[双津竜順一]] || 4 || 0 || [[鳳凰倶往]] || 2 || 0 || [[前の山太郎]] || 8 || 2
 
|-
 
| [[増位山太志郎]] || 30 || 8 || [[舛田山靖仁]] || 3 || 1 || [[三重ノ海剛司]] || 27* || 16
 
|-
 
| [[陸奥嵐幸雄]] || 4 || 1 || [[豊山広光]] || 13 || 8 || [[琉王優貴]] || 4 || 2
 
|-
 
| [[若獅子茂憲]] || 8 || 0 || [[若浪順]] || 2 || 2 || [[若乃花幹士 (2代)|若乃花幹士]] || 19 || 14
 
|-
 
| [[鷲羽山佳和]] || 18 || 0 || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp; || &nbsp;
 
|}
 
 
== CM ==
 
*[[日本熱学工業]]「コインクーラー」(1974年) - [[新珠三千代]]と共演。同社社長の[[牛田正郎]]は輪島の後援会会長も務めていた<ref>[[石井代蔵]]「修羅の男」、『大関にかなう』、文春文庫、1988年5月10日、86頁。</ref>。
 
*[[資生堂]]「アウスレーゼ」(1981年)「ウェービーボーイ」(1982年) - 引退後の[[貴ノ花利彰|貴ノ花]]と共演。「アウスレーゼ」撮影当時の輪島は断髪前だったので、カツラを着用していた。
 
*[[学生援護会]]「Q-tai」 - プロレスラー転身後。キャッチコピーは「また基本から出直した男です」。
 
* オクダ運輸(1987年) - プロレスラー転向後。
 
* [[ピップフジモト]]「[[ピップエレキバン]]」(1995年)- [[樹木希林]]と共演。
 
 
== 映画 ==
 
* 『コナ・ニシテ・フウ』(2008年、吉本興業) - デーモン小暮閣下監督。[[YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100 〜100人が映画撮りました〜|YOSHIMOTO DIRECTOR'S 100]]企画の一篇。父親役。
 
 
== LPレコード ==
 
* 横綱輪島の道(1978年、KC-9023)※[[徳間ジャパンコミュニケーションズ|ミノルフォンレコード]]より発売。
 
: 黄金の左腕栄光の記録/人間輪島大士、歌と友情
 
 
== シングル盤レコード ==
 
* [[惜春 (五木ひろしの曲)|望郷賦]](1978年、KA-1136) ※ミノルフォンレコードより発売。
 
: 作詞:たかたかし 作曲:松山かずお([[五木ひろし]]の[[ペンネーム]])
 
 
== 関連作品==
 
* わたし、元横綱輪島の"脱線"女房 : 寄った!ノコッタ!おもしろマジメ夫婦相撲 輪島五月 主婦と生活社, 1983.12.
 
* 甦る輪島 黄金の炎で男の肉体を燃え上がらせる 細谷正勝,川副宏芳共著 日刊スポーツ出版社, 1987.10
 
* 輪島沈む 『貴ノ花散る』[[もりたなるお]]、文春文庫、1990
 
* [[遠藤賢司]] 『輪島の瞳』
 
* [[杉森久英]]『天才横綱 輪島大士物語』(河出書房新社、1998)
 
 
== 参考文献 ==
 
* 石井代蔵『大関にかなう』(文春文庫、1988年)ISBN 4167475014
 
* 『昭和平成 大相撲名力士100列伝』(著者:塩澤実信、発行元:北辰堂出版、2015年)p113-115
 
* ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)
 
== 関連項目 ==
 
* [[横綱一覧]]
 
* [[石川県の高校相撲部出身の一覧]]
 
* [[ワジマ]] - [[アメリカ合衆国]]の競走馬。馬名は輪島に由来。
 
 
== 脚注 ==
 
{{reflist}}
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://sumo.goo.ne.jp/kiroku_daicho/mei_yokozuna/wajima.html 第五十四代横綱 輪島 大士] - goo 大相撲
 
{{sumodb|4074|輪島 大士}}
 
{{大相撲幕内優勝力士}}
 
{{年間最優秀力士賞}}
 
{{年間最多勝}}
 
{{歴代横綱|第54代|1973年7月-1981年3月}}
 
{{歴代大関|第204代|1972年11月-1973年5月}}
 
{{学生横綱一覧}}
 
{{報知プロスポーツ大賞受賞者-大相撲}}
 
 
{{デフォルトソート:わしま ひろし}}
 
{{デフォルトソート:わしま ひろし}}
 
[[Category:石川県出身の大相撲力士]]
 
[[Category:石川県出身の大相撲力士]]

2018/10/10/ (水) 04:22時点における最新版

輪島 大士(わじま ひろし、1948年(昭和23年)1月11日 - )

石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、第54代横綱全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。本名は輪島 博(わじま ひろし)。血液型A型。大相撲時代は身長185cm、体重132kg。ニックネーム蔵前の星・黄金の左、現役引退後はワジー[1]



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  1. ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) ニ所ノ席部屋』p22