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[[File:Shitagau Noguchi.JPG|thumb|300x300px|野口遵|代替文=]]
 
'''野口 遵'''(のぐち したがう、したごう<ref>{{Kotobank|日窒コンツェルン}}</ref>、通称:じゅん<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000106882 日窒コンツェルン創始者の野口遵さんの名前の読み方を知りたい] レファレンス協同データベース</ref>、[[1873年]][[7月26日]] - [[1944年]][[1月15日]])は、[[日本]]の[[実業家]]。日本窒素肥料(現・[[チッソ]])を中核とする[[日窒コンツェルン]]を一代で築いた。「電気化学工業の父」や「朝鮮半島の事業王」などと称された。チッソの他にも、[[旭化成]]、[[積水化学工業]]、[[積水ハウス]]、[[信越化学工業]]の実質的な創業者でもある。
 
  
[[朝鮮半島]]進出後の野口遵は[[政商]]であった。[[朝鮮総督府]]の手厚い庇護の下、[[鴨緑江]]水系に赴戦江発電所など大規模な水力発電所をいくつも建設し、[[咸鏡南道]]興南(現・[[咸興市]]の一部)に巨大な[[コンビナート]]を造成した。さらに、[[日本軍]]の進出とともに[[満州]]、[[海南島]]にまで進出した。[[森矗昶]]、[[鮎川義介]]などと共に当時、「財界新人三羽烏」として並び称されていた<ref>『挫折した理想国 - 満州国興亡の真相 - 』([[古海忠之]][[片倉衷]]、[[現代ブック社]]、1967年) P218</ref>。
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'''野口 遵'''(のぐち したがう、したごう<ref>{{Kotobank|日窒コンツェルン}}</ref>、通称:じゅん<ref>[http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000106882 日窒コンツェルン創始者の野口遵さんの名前の読み方を知りたい] レファレンス協同データベース</ref>、[[1873年]][[7月26日]] - [[1944年]][[1月15日]]
  
== 履歴 ==
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実業家。昭和初期に勃興した新興財閥日窒コンツェルンの総帥。 1896年東京帝国大学電気工学科卒業後,1906年藤山常一らとともに曾木電気創立。その余剰電力を用いてカーバイド製造に着手し,日本カーバイド商会設立。 08年ドイツに渡りフランク=カロ式石灰窒素製造法の特許権を買収,前2社を合併して日本窒素肥料を設立,10年日本最初の硫安製造に成功。さらに第1次世界大戦中に再び渡欧し,試作段階にあったカザーレ式アンモニア合成法の特許権を買収,空中窒素固定法に成功し,23年延岡に日本最初のアンモニア合成工場を建設して事業化した。さらにこのアンモニアを利用して人絹工業に進出,31年には延岡アンモニア絹糸を設立,以後日本窒素肥料も工業薬品,火薬,鉱山など関連事業に次々と進出し総合化学会社へ発展させた。また安価な電力を求めて朝鮮に進出し,発電所建設,窒素肥料工場建設などを進め,大化学工業コンビナートづくりに努力,37年頃には日本,朝鮮にまたがる多数の企業集団日窒コンツェルンを形成した。
* [[1873年]] [[7月26日]] [[金沢市|金沢]]の[[士族]]の家に生まれた。
 
* [[東京高等師範学校|東京師範学校]]附属小(現・[[筑波大学附属小学校|筑波大附属小]])を経て東京府中学(現・[[東京都立日比谷高等学校|都立日比谷高校]])入学。のち乱暴狼藉といたずらで同校を放学され、[[成立学舎]]を経て<ref>『野口遵翁追懐録』(新日本窒素肥料内 野口遵翁追懐録編纂会、1952年9月10日) </ref>、
 
* [[1888年]] [[第一高等学校 (旧制) |第一高等中学校]]入学。
 
* [[1896年]] [[東京帝国大学|帝国大学]]工科大学電気工学科(現・[[東京大学]]工学部電気工学科)を卒業した。郡山電灯に技師長格で赴任。
 
* [[1898年]] [[シーメンス]]東京支社に入った。
 
* [[1903年]] [[仙台市|仙台]]で日本初の[[カーバイド]]製造事業を始めた。
 
* [[1906年]] '''曽木電気'''を設立し、[[鹿児島県]]の[[大口市|大口]]に[[曽木の滝|曽木水力発電所]]を開いた(後のチッソ、旭化成、積水化学、積水ハウス、信越化学)。
 
* [[1907年]] '''日本カーバイド商会'''を設立し、[[熊本県]]の[[水俣市|水俣]]でカーバイドの製造を始めた。
 
* [[1908年]] 曽木電気と日本カーバイド商会を合併して'''日本窒素肥料'''を設立した。水俣工場でカーバイド製造開始。
 
* [[1914年]] '''広島電灯'''(現・[[中国電力]])の取締役に就任。[[中国山地]]・[[太田川]]水系の電源開発を計画。また東洋コルク工業([[マツダ]]の前身)などの支援や[[福屋|福屋デパート]]創業にも参画した。
 
* [[1915年]]宇治川電気(株)の技術顧問、後に取締役就任。
 
* [[1919年]] [[広島市]]に移住。'''出雲電気'''、'''広島電灯'''設立。
 
* [[1920年]]  '''日本鉱山'''、'''五ヶ瀬電力'''、'''阿武川水力'''設立
 
* [[1921年]] イタリアのカザレー(Luigi Casale)博士より[[アンモニア]]の新しい製造方法([[カザレー法]])の[[特許]]を購入した。
 
* [[1922年]] '''旭絹職'''を設立、専務取締役に就任。
 
* [[1923年]] [[宮崎県]]の[[延岡市|延岡]]で、カザレー法によるアンモニア製造を開始した。カザレー法の実用化として世界初。
 
* [[1924年]] 日本窒素肥料の[[朝鮮半島]]への進出を決定した。
 
* [[1926年]] '''朝鮮水電'''を設立、取締役社長に就任。信越窒素肥料を設立。
 
* [[1926年]] '''朝鮮窒素肥料'''を設立、取締役社長に就任。
 
* [[1929年]] '''日本ベンベルグ絹糸'''(現・旭化成)を設立した。
 
* [[1930年]] 朝鮮窒素・朝鮮水電が合併,赴戦江系水力発電所の工事完成,'''新興鉄道'''、'''日窒火薬'''を設立
 
* [[1932年]] 京城府本町(現・[[ソウル特別市]]中区明洞)に'''半島ホテル'''(現・[[ロッテホテル]])を開いた。
 
* [[1932年]]  旭絹織・日本ベンベルグ・延岡アンモニア工業が合併し'''旭ベンベルグ'''を設立、取締役社長に就任、日本窒素肥料社長に就任、'''長津江水電'''設立、社長に就任
 
* [[1934年]] '''朝鮮送電'''を設立
 
* [[1937年]] '''朝鮮'''並びに'''満州鴨緑江水電'''を設立し、社長および理事長に就任
 
* [[1940年]] 京城で[[脳溢血]]に倒れ、実業界から引退した。
 
* [[1941年]] 科学振興・朝鮮教育振興のため私財3000万円を投じて、2,500万円で'''[[野口研究所]]'''を設立、500万円を[[朝鮮奨学会]]'''に寄付した。
 
* [[1942年]] 勲一等[[瑞宝章]]を受けた。
 
* [[1943年]] 朝鮮水力、朝鮮送電その他を合併して、'''朝鮮電業'''を設立。
 
* [[1944年]] [[1月15日]] 没。
 
 
 
== 脚注 ==
 
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== 関連項目 ==
 
* [[森矗昶]] 昭和肥料(現・[[昭和電工]])を率いた[[実業家]]。野口遵が終生、ライバルとして意識していたという。奇遇にも、野口遵の日本窒素肥料は[[水俣病]]、森矗昶の昭和電工は[[第二水俣病]]という公害病を引き起こした。
 
 
 
== 参考文献 ==
 
* 中国地方電気事業史編集委員会編『中国地方電気事業史』中国電力、1974年。
 
  
 
== 外部リンク ==
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.noguchi.or.jp/ 財団法人野口研究所]
 
* [http://www.noguchi.or.jp/ 財団法人野口研究所]
 
* [http://www.korean-s-f.or.jp/ 財団法人朝鮮奨学会]
 
* [http://www.korean-s-f.or.jp/ 財団法人朝鮮奨学会]
* [http://www.nobeoka-dotto.com/ 延岡どっと.com] 野口遵顕彰会のページがある
 
  
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野口 遵(のぐち したがう、したごう[1]、通称:じゅん[2]1873年7月26日 - 1944年1月15日

実業家。昭和初期に勃興した新興財閥日窒コンツェルンの総帥。 1896年東京帝国大学電気工学科卒業後,1906年藤山常一らとともに曾木電気創立。その余剰電力を用いてカーバイド製造に着手し,日本カーバイド商会設立。 08年ドイツに渡りフランク=カロ式石灰窒素製造法の特許権を買収,前2社を合併して日本窒素肥料を設立,10年日本最初の硫安製造に成功。さらに第1次世界大戦中に再び渡欧し,試作段階にあったカザーレ式アンモニア合成法の特許権を買収,空中窒素固定法に成功し,23年延岡に日本最初のアンモニア合成工場を建設して事業化した。さらにこのアンモニアを利用して人絹工業に進出,31年には延岡アンモニア絹糸を設立,以後日本窒素肥料も工業薬品,火薬,鉱山など関連事業に次々と進出し総合化学会社へ発展させた。また安価な電力を求めて朝鮮に進出し,発電所建設,窒素肥料工場建設などを進め,大化学工業コンビナートづくりに努力,37年頃には日本,朝鮮にまたがる多数の企業集団日窒コンツェルンを形成した。

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