「金大中」の版間の差分

提供: miniwiki
移動先:案内検索
(1版 をインポートしました)
(内容を「サムネイル '''金 大中'''(キム・デジュン、朝鮮語:{{lang|ko|김대중}}、1924年? - 2009年8月18日)…」で置換)
(タグ: Replaced)
 
1行目: 1行目:
{{Otheruses|韓国の元大統領|朝鮮日報社の顧問|金大中 (新聞記者)}}
+
[[ファイル:Kim Dae-jung.jpg|サムネイル]]
{{大統領
+
'''金 大中'''(キム・デジュン、[[朝鮮語]]{{lang|ko|김대중}}、1924年? - [[2009年]][[8月18日]]
| 人名 = 金大中
 
| 各国語表記 = 김대중 [[image:Nobel prize medal.svg|18px|ノーベル賞受賞者]]
 
| 画像 = Kim Dae-jung (Cropped).png
 
| 国名 = {{Flagicon|KOR}} [[大韓民国]]
 
| 代数 = [[ファイル:Seal of the President of the Republic of Korea.svg|20px]] 第15
 
| 職名 = [[大統領 (大韓民国)|大統領]]
 
| 就任日 = [[1998年]][[2月25日]]
 
| 退任日 = [[2003年]][[2月24日]]
 
| 国名2 = {{Flagicon|KOR}} [[大韓民国]]
 
| 職名2 = [[File:Emblem of the National Assembly of Korea.svg|20px]] [[国会 (大韓民国)|国会議員]]
 
| 就任日2 = [[1961年]][[5月14日]] - 1961年[[5月16日]]<br />[[1963年]][[12月17日]] - [[1972年]][[10月17日]]<br />[[1988年]][[5月30日]]
 
| 退任日2 = [[1992年]][[12月19日]]
 
| 首相 = [[金鍾泌]](1998年 - 2000年)<br />[[朴泰俊 (政治家)|朴泰俊]](2000年)<br />[[李漢東]](2000年 - 2002年)<br />[[張裳]](代理:2002年)<br />[[張大煥]](代理:2002年)<br />[[金碩洙]](2002年 - 2003年)
 
| 出生日 = [[1925年]][[12月3日]]<ref name=yomiuri20090818 />
 
| 生地 = {{KOR1910}} [[全羅南道 (日本統治時代)|全羅南道]][[務安郡]]荷衣面後広里<br />(現:[[全羅南道]][[新安郡]]荷衣面後広里)
 
| 死亡日 = {{死亡年月日と没年齢|1925|12|3|2009|8|18}}<ref name=yomiuri20090818-2>戸籍上の生年月日(1925年12月3日)による計算。自叙伝では[[1924年]][[1月6日]]生としており、これによると満85歳で亡くなったことになる。[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090818-OYT1T00677.htm 読売新聞8月18日付記事]参照。</ref>
 
| 没地 = {{KOR}} [[ソウル特別市]]
 
| 出身校 = [[慶煕大学校]]大学院
 
| 配偶者 = [[李姫鎬]]
 
| 子女 = [[金弘一]]<br />[[金弘業]]<br />[[金弘傑]]
 
| 政党 = [[民主党 (韓国 1955-1965)|民主党]] (1954-1964)<br />[[新民党]] (1970)<br />[[統一民主党]] (1986-87)<br />[[平和民主党]] (1987-1990)<br />新民主連合党 (1991)<br />[[民主党 (韓国 1991-1995)|民主党]] (1991-1995)<br />[[新政治国民会議]] (1995-2000)<br />[[新千年民主党]] (2000-03)
 
| 受賞 = [[ノーベル平和賞]]
 
| サイン = Kim Dae-jung signature.png
 
}}
 
{{韓国の人物
 
|title=金大中
 
|hangeul=김대중
 
|hanja=金大中
 
|hiragana=きん だいちゅう
 
|katakana=キム・デジュン
 
|alphabet-type=[[英語]]表記:<br />[[文化観光部2000年式|2000年式]]:<br />[[マッキューン=ライシャワー式|MR式]]
 
|alphabet=Kim Dae-jung<br />Gim Dae-jung<br />Kim Tae-jung
 
|}}
 
{{thumbnail:begin}}
 
{{thumbnail:ノーベル賞受賞者|2000年|ノーベル平和賞|韓国、および一般に東アジアの民主主義と人権のための努力、特に北朝鮮との平和と和解のため}}
 
{{thumbnail:end}}
 
  
'''金 大中'''(キム・デジュン、[[朝鮮語]]:{{lang|ko|김대중}}、[[1925年]][[12月3日]]<ref name=yomiuri20090818>戸籍上の生年月日である。自叙伝では[[1924年]][[1月6日]]生としている。[http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090818-OYT1T00677.htm 読売新聞8月18日付記事]参照。{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref> - [[2009年]][[8月18日]])は、[[大韓民国|韓国]]の[[政治家]]、[[市民活動]]家。第15代[[大統領 (大韓民国)|大統領]](在任:[[1998年]] - [[2003年]])。[[本貫]]は[[金海金氏]]。[[雅号|号]]は後廣({{lang|ko|후광}}、フグァン、ごこう)。日本名は'''豊田大中'''( 1924年- [[1945年]])。ニックネームは「[[スイカズラ|忍冬草]]」。略称は「'''DJ'''」。[[カトリック教会|カトリック]]教徒で、[[洗礼]]名はトマス・モア。[[慶熙大学]]大学院修了。[[立命館大学]]第37号[[名誉博士]]。
+
大韓民国(韓国)の政治家。大統領(在任 1998~2003)。1961年5月国会議員に初当選したが,直後の軍事革命により議員資格を喪失。1963年民政移管に伴う国会議員選挙で当選し,民衆党の要職を歴任。1971年,民衆党と新韓党が合併して結成された[[新民党]]の大統領候補に選ばれ,民主共和党候補[[パク・チョンヒ]](朴正煕)に挑んだが敗れた。1972年パクにより維新体制([[十月維新]])がしかれるとアメリカ合衆国,日本で反政府運動を展開,1973年8月東京のホテルから拉致され,5日後に韓国で解放された。1976年3月,パク体制を批判する[[民主救国宣言]]に署名して逮捕,起訴され,懲役 8年の判決を受けたが 1978年に釈放,1980年に公民権を回復した。1980年[[光州事件]]の首謀者として再び逮捕され,翌 1981年に死刑判決を受けたが,アメリカ,日本などの助命要請もあり減刑,1982年に刑の執行停止を受けてアメリカへ出国した。1985年に帰国,1987年の「六・二九民主化宣言」で復権,平和民主党を結成し総裁に就任,同年 12月の大統領選挙に出馬したが落選。1988年国会議員に返り咲き,1992年大統領選挙に出馬したが敗北,政界引退を表明した。しかし,1995年に新党の[[新政治国民会議]]の総裁となり政界に復帰,1997年の大統領選挙に 4度目の立候補を果たし,民主化闘争時代の政敵,保守派のキム・ジョンビル(金鐘泌),パク・テジュン(朴泰俊)の協力を得て当選,1998年第15代大統領に就任した。就任後ただちに経済危機の克服に取り組み,金融機関の統廃合や財閥改革に努めた。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対し,対話ならびに交流を目指す「太陽政策」を推進し,2000年6月に[[南北首脳会談]]を実現,南北共同宣言に署名した。同 2000年,韓国をはじめ東アジアの民主化を先導したこと,南北和解に貢献したことなどが評価され,ノーベル平和賞を受賞。著書に『金大中獄中書簡』『金大中:わが人生,わが道』などがある。
 
 
== 来歴 ==
 
=== 政界入り ===
 
[[File:金大中初当選記事.png|thumb|初当選時の新聞記事(1961年5月15日 東亜日報)]]
 
[[1924年]][[1月6日]](自伝による。戸籍上の出生日は[[1925年]][[12月3日]]となっている)、[[全羅南道 (日本統治時代)|全羅南道]]の荷衣島(現在の[[全羅南道]][[新安郡]]荷衣面)に生まれるが、本貫はこの地域と対立していた[[慶尚道]]の[[金海市|金海]]である。荷衣島の現在の{{仮リンク|荷衣小学校|ko|하의초등학교}}に通っていたが、[[1936年]]秋に家族とともに[[木浦市|木浦府(現・木浦市)]]に転居し、{{仮リンク|木浦第一普通学校(現・木浦北橋小学校)|ko|목포북교초등학교}}に転校。[[1939年]]に{{仮リンク|木浦公立商業学校(現・木商高校)|ko|목상고등학교}}に入学、[[1943年]]に卒業。[[1970年]]に[[慶煕大学校|慶煕大学]]大学院経済学科2年課程修了。
 
 
 
木浦商業学校卒業後、海運会社経営を経て、[[1954年]]の[[第3代総選挙 (大韓民国)|総選挙]]で国会議員に初挑戦するも落選。[[張勉]]に引き立てられ、[[民主党 (韓国 1955-1965)|民主党]]スポークスマンを務める。以降も、当時の[[李承晩]]大統領の政策に反対する姿勢で活動したが、[[1959年]]、[[1960年]]と立て続けに落選を経験した。[[1961年]]に補欠選挙で国会議員に初当選したが、[[朴正煕]]による[[5・16軍事クーデター|軍事クーデター]]により無効となった。
 
 
 
その後、[[金泳三]]とともに野党の代表的な政治家として頭角を現し、[[1963年]]と[[1967年]]の[[第6代総選挙 (大韓民国)|第6代]]、[[第7代総選挙 (大韓民国)|第7代]]、国会議員選挙で連続当選した結果、[[1970年]]9月に[[新民党]]の大統領候補に指名された。翌[[1971年]]の[[1971年大韓民国大統領選挙|大統領選]]では、現職の朴正煕に97万票差にまで迫った(朴正煕634万票、金大中537万票)が、落選。以後、朴正煕の政敵としてつけ狙われるようになり、大統領選の直後には交通事故を装った暗殺工作に遭い、[[股関節]]の障害を負った。
 
 
 
=== 民主化運動家として ===
 
朴正煕による[[十月維新]]の後は、日米両国に滞在しながら[[民主化]]運動に取り組んだ。[[1973年]]([[昭和]]48年)[[8月8日]]、東京に滞在中、[[ホテルグランドパレス]]で何者か(複数)によって拉致され、行方不明となった。この犯人たちは、謀殺を意図した[[大韓民国中央情報部|韓国中央情報部 (KCIA)]] の工作員であった事が後に判明する。拉致後、[[神戸港|神戸]]から出港した工作船の上で殺害される寸前であったが、日本の[[自衛隊]]機が船の上を旋回して威嚇したため、犯人らは殺害は中止。その後、ソウルで解放されて九死に一生を得たが、ソウルの自宅で日本人記者らに会見を行った後、2か月間、軟禁状態に置かれた。{{seealso|金大中事件}}
 
 
 
[[1976年]]3月には[[尹ボ善|尹{{lang|ko|潽}}善]]らと共に「[[民主救国宣言]]」を発表、逮捕され懲役判決を受けるも、[[1978年]]3月に釈放された。1979年に[[朴正煕暗殺事件]]が起きると、民主化の機運が高まって[[ソウルの春]]が訪れ、韓国政界で金大中・[[金泳三]]・[[金鍾泌]]の3人のリーダーが注目される、いわゆる'''[[三金]]時代'''が始まった。
 
 
 
[[1980年]][[2月29日]]に公民権を回復。政治活動を再開するが、3ヶ月後の1980年[[5月18日]]に再び逮捕。これが原因となって[[光州広域市|光州]]で起きた民主化要求のデモを軍部が武力鎮圧する、流血の大惨事となった([[光州事件]])。このため、[[軍法会議]]で首謀者として、また[[1977年]]に発生した[[学園浸透スパイ団事件]]での“摘発スパイ”の自白から「[[韓国民主回復統一促進国民会議]]」の議長とされ、死刑判決を受けた。日本の当時の[[鈴木善幸]]首相はこれを憂慮して、[[11月21日]]に[[崔慶禄]]駐日大使と会談し、「日韓親善からみて、金大中の身柄に重大な関心と憂慮の意を抱かざるを得ない」と発言し、その旨を[[全斗煥]]大統領に伝達するよう要請した。この事を受け、『[[朝鮮日報]]』は11月25日付の紙面で、鈴木発言を「内政干渉である」と批判した。しかし、次第に民主化弾圧の死刑判決であると国際的な批判が強まって、[[1982年]][[1月23日]]の閣議決定により無期懲役に減刑される事が決定し、[[12月23日]]に米国への出国を条件に刑の執行を停止された。{{seealso|光州事件}}
 
 
 
[[1985年]][[2月8日]]に亡命先の米国からの帰国を強行し軟禁状態に置かれたが、1ヶ月後の[[3月6日]]に[[全斗煥]]大統領により政治活動を解禁された<ref>[http://japanese.yonhapnews.co.kr/misc/2009/02/13/9000000000AJP20090213003400882.HTML 今日の歴史(3月6日)] 聯合ニュース 2009/03/06</ref>。[[1987年]]には再び公民権を回復。16年ぶりに直接選挙制で行われた[[1987年大韓民国大統領選挙|大統領選挙]]で[[平和民主党]]を結成して、軍人出身の[[盧泰愚]]に挑むものの、[[金泳三]]と分立したことが文民勢力の分裂を招いて敗北した([[金泳三]]と金大中の得票率の合計は55%で、当選した[[盧泰愚]]の36・6%をはるかに上回った)。
 
 
 
[[1989年]][[1月8日]]、[[昭和天皇]][[崩御]]により在韓日本大使館に設置されていた[[焼香]]所で90度のお辞儀をして拝礼をした<ref>京郷新聞1989年1月9日</ref>。<ref>[http://www.newdaily.co.kr/news/article.html?no=235003 국민 모두를 조롱한 정청래 최고위원은 즉각 사과해야!],뉴데일리,2015.02.13.</ref>
 
 
 
[[1992年]]にも[[金泳三]]、[[鄭周永]]らを相手に[[1992年大韓民国大統領選挙|大統領選]]を戦うも再び敗北。これをもって金大中は一時、政界引退を表明した。その後、研究生活に入り、論文を書く日々を送っていたが、次回大統領選挙に向け動向に注目が集まっていた[[1995年]]に、[[新政治国民会議]]を結成して、総裁に就任。政界復帰した。
 
 
 
=== 大統領として ===
 
[[1997年]]の[[1997年大韓民国大統領選挙|大統領選挙]]では、与党[[ハンナラ党]]の[[李会昌]]と、ハンナラ党内での予備選に敗退した[[李仁済]]を相手に選挙を戦った。与党の強力な集票力に当選が危ぶまれたが、保守派であり朴正煕の片腕だった[[金鍾泌]]と手を結び<ref>いわゆる'''DJP連合'''。ちなみに両者は共に金海金氏である。</ref>、また度重なる敗北を逆手に取り「準備された大統領」をキャッチフレーズに戦い、[[アジア通貨危機]]への対応能力をアピールした。結果、自らの地盤である[[全羅道]]地域で圧倒的な支持を得たことに加えて、金鍾泌の地盤である[[忠清道]]地域、浮動票の多い首都圏での支持を得ることに成功した。また、李仁済の立候補により保守票が割れたことにも助けられ、当選した。
 
 
 
大統領に就任したのは[[アジア通貨危機]]の直後であり、経済的な危機は続いていた。金大中政権は引き続き[[国際通貨基金|IMF]]の介入を全面的に受け入れた上で、経済改革に着手した。IT産業奨励やビッグディール政策(財閥間の事業交換、統廃合)をもって経済建て直しを図った。危機を脱した韓国は内外から「IT先進国」と呼ばれるようになり、[[サムスン電子]]や[[現代自動車]]の世界市場での地位を高めた。しかし、急激な産業構造の転換は貧富の格差の増大などを招いた。そのため、医療保険や年金など福祉政策の拡充にも重点を置いた([[DJノミクス]])。
 
 
 
[[1998年]]、[[小渕恵三]][[内閣総理大臣]]と[[日韓共同宣言]]を発表し、韓国でそれまで禁止されていた日本文化開放を推し進めた。
 
 
 
自ら[[大韓民国中央情報部]](KCIA)に拉致され、命を狙われた経験のある金大中は、[[1999年]]に国家安全企画部(旧・中央情報部)を廃止し、権限や機能を大幅に縮小した[[大韓民国国家情報院|国家情報院]]を大統領直属機関として新設した。
 
 
 
[[朝鮮民主主義人民共和国]](北朝鮮)に対しては「'''[[太陽政策]]'''」と称される[[デタント|緊張緩和]]政策を志向した。[[2000年]]6月に[[朝鮮民主主義人民共和国]]の首都[[平壌]]で[[金正日]][[朝鮮民主主義人民共和国国防委員会#国防委員長|国防委員長]]との[[南北首脳会談]]が実現し、[[6.15南北共同宣言]]を締結した。南北首脳会談などが評価されて、[[ノーベル平和賞]]を受賞した。<ref>ただし会談の一方の当事者である[[金正日]]には賞は授与されていない。</ref>。これは現時点で韓国人唯一のノーベル賞受賞である。ただ、太陽政策は、当時北朝鮮にいた[[脱北者]]からみても、困窮して崩壊直前とされていた北朝鮮を救って継続させた上に、核実験の成功や核兵器保有に繋がったため批判がある。<ref>[https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171219-00534245-shincho-kr&p=2 脱北女性が見た北朝鮮核実験場「豊渓里」死の光景 汚染を知らない住民たちは死んだ川魚を…]週刊新潮</ref>。
 
 
 
その後の報道では、会談実現のために金大中大統領から[[ヒュンダイ|現代]]グループを通じて4億から5億ドルを金正日に渡していたとされる。([[#対北送金疑惑|後述]])
 
 
 
[[朴正煕]]、[[全斗煥]]、[[盧泰愚]]、[[金泳三]]と4代続いた[[慶尚道]]地域出身の大統領から、[[全羅道]]地域の金大中へ権力が移ったことにより[[韓国の地域対立]]の打破が期待されたが、当選時の経緯や、共に与党である[[新政治国民会議]]と忠清道地域に影響力を持つ[[自由民主連合|自民連]]の統合が頓挫したことにより、この分野では目覚しい成果を上げることが出来なかった。
 
 
 
2002年の任期末に3人の息子である[[金弘一]]、[[金弘業]]、[[金弘傑]]による不正蓄財が発覚し、国民へ代わりに謝罪をした。<ref>[http://japanese.joins.com/article/640/174640.html]「【中央時評】大統領の父親をかじって食べる息子(2)」,聯合ニュース,2013年8月2日.</ref>
 
 
 
3人の息子らが斡旋収賄で身柄を拘束された時に、[[李姫鎬]](イ・ヒホ)夫人によると「家庭の中外でも言葉を失くした。互いに各々の書斎で別々に過ごし、夜遅くに寝ようとした。夫(金大中)が死刑宣告を受けた時の辛さも、これほどではなかった。一日も早く[[青瓦台]](大統領府)から出ていきたかった」。月刊誌のインタビューで夫人は「2002年は悪夢」と語っている<ref>[http://archive.is/mmxV1]「【萬物相】「私はこんなことをするため大統領になったわけでは…」」]朝鮮日報.</ref>。
 
 
 
=== 大統領退任後と晩年 ===
 
退任後は政界を引退した。[[延世大学校]]付属の[[金大中図書館]]設立に携わるなど政治とは距離を置き、研究生活を送った。
 
 
 
[[2006年]]6月に北朝鮮を訪問する予定であったが、北朝鮮の[[北朝鮮によるミサイル発射実験 (2006年)|テポドン発射問題]]によって取り消された。
 
 
 
[[2008年]][[11月27日]]に、民主労働党指導部に対して「[[民主労働党 (韓国)|民主労働党]]・[[民主党 (韓国 2008-2011)|民主党]]・市民社会団体がしっかりと手を組んで広範囲の民主連合を結成し、逆走を阻止する闘争をすれば必ず成功するはずだ。李明博政府の非核・開放3000政策は失敗した米ブッシュ政権の政策である」と述べた<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=107996&servcode=200&sectcode=200 金大中元大統領「李大統領、南北関係を意図的に破たん」] 中央日報 2008.11.28</ref>。
 
 
 
[[2009年]][[7月13日]]に三たび持病の[[肺炎]]を患う。同年[[8月18日]]に[[ソウル特別市|ソウル市内]]の[[延世大学校医療院]]セブランス病院で、[[多臓器不全]]により、死去。85歳だった<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/korea/090818/kor0908181355002-n1.htm 金大中元大統領が死去]</ref>。また、[[盧武鉉]]の死去(同年5月23日)と同じく、韓国の大手サイト([[ネイバー]]、[[ダウム]]、[[ネート]]、[[Yahoo!]]、[[Google]]、[[MSN]])では、トップのロゴを白黒に差し替え、特設ページも設けた。太陽政策を推し進めた大統領経験者が4か月足らずで相次いで死去したことになる。
 
 
 
日本政府は、金大中の死去に際し、[[麻生太郎]]内閣総理大臣(当時)名の追悼談話を発表した<ref>{{Cite web |date= 2009-8-18|url=https://www.kantei.go.jp/jp/asospeech/2009/08/18danwa.html|title=金大中元大統領逝去に際する内閣総理大臣の談話|publisher=首相官邸公式サイト|accessdate=2018-5-12}}</ref>。
 
 
 
2009年[[8月23日]]、ソウル市の国会議事堂前広場にて、韓国史上2人目の[[国葬]]に処された<ref>{{cite news|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090823-OYT1T00554.htm|title=金大中・元大統領の国葬、2万人が参列|publisher=[[読売新聞]]|date=2009-08-23|accessdate=2009-08-23}}</ref>。
 
 
 
盧武鉉が2009年5月23日に亡くなった際には、金大中は「私の体の半分が崩れたような気持ちだ」と語った。盧武鉉の死後、自身の死去(2009年8月18日)の約2か月前に、[[文在寅]]、[[朴智元]]、[[丁世均]]、[[安熙正]]らを呼び<ref>{{cite news |title= 「단독」김홍걸 “아버지, 별세 두달 전 문재인·박지원 불러서…”(「単独」、金弘傑"父、死去二ヵ月前、文在寅・朴智元呼ばれて…")|author= |newspaper= ハンギョレ|date= 2016-1-29|url= http://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/728451.html|accessdate=2017-5-15}}</ref>、「必ず政権交代を果たしてほしい。私は年老いて病気で先が長くない。あなたたちがしなければならない」と言い遺していた。この金大中の「遺言」を受けて文在寅は政界入りを決意<ref>{{Cite web |author= |date= 2017-4-20|url= https://www.youtube.com/watch?v=6nnnNOQ7Pas|title= 文在寅"金大中大統領の遺言を胸に抱いて政治を始めるようになりました。"|publisher= 문 궁 덕|accessdate=2017-5-17}}</ref>し、8年後の[[2017年大韓民国大統領選挙|2017年5月9日の大統領選挙]]に当選して第19代大統領に就任した。安熙正は翌2010年6月の[[第5回全国同時地方選挙_(韓国)|全国同時地方選挙]]の[[忠清南道]]知事選挙に出馬し、当選した(2014年6月の[[第6回全国同時地方選挙_(韓国)|全国同時地方選挙]]で再選)。朴智元は2016年の[[朴槿恵]]の大統領[[朴槿恵韓国大統領弾劾訴追|弾劾]]の際に、野党第二党(当時)の[[国民の党_(大韓民国_2016-)|国民の党]]の院内代表兼非常対策委員長として国会での弾劾訴追案の可決に尽力した。丁世均は朴槿恵の弾劾訴追案議決の際に国会議長であった。
 
 
 
=== 対日関係 ===
 
金大中は、併合時代の統治下で[[日本語教育]]を受けており、戦後も日本滞在歴が長かったため、流暢な[[日本語]]を話すことができた。非公式な場における日本のマスコミ向けのインタビューでは日本語で応じることが多かった。[[盧武鉉]]・[[江沢民]]の様に、強固な反日姿勢はとっておらず、2度命を救われている日本に対しても寛容な立場で、潜在的親日派とされているが<ref>{{要出典|=ただし若手議員時代には朴政権を親日売国政権と痛烈に批判していた。|date=2018年5月}}</ref>、大韓民国の事情により、親日<ref>日本語の「[[親日]]」とは別の意味を持つ。[[親日派]]を参照。</ref>に踏み込んだ発言まではしなかった。ただし、[[小泉純一郎]]の[[靖国神社参拝問題]]には反対の姿勢であった。
 
 
 
また前述の[[金大中事件]]が[[大韓民国中央情報部|KCIA]]の犯行と判明した際には、当時の首相[[田中角栄]]らを田中の没後であったのにもかかわらず、痛烈に批判している(ただし、日本語訳版も出た大統領就任直後に出版された自伝『死線を越えて』では「[[金大中事件]]の際には日本の皆様には世話になった。」と日本に対する謝意は表明している)。大統領就任後の来日時には日本統治時代の恩師を訪問し、「豊田です。」と日本語で[[創氏改名]]時の苗字を名乗ったため、一部から批判を浴びた。
 
 
 
1998年の来日に先立って、韓国政府として[[天皇]]を表す「日王」の呼称を取り止め、「天皇」を使用することを公式に宣言。また、来日前から「過去の清算」に強い意欲を持っていたとされる。[[皇居]]での[[宮中晩餐会]]で[[明仁]]のお言葉に対する答辞では、植民地支配など過去の歴史の傷には触れなかった。[[愛子内親王]]の誕生に際しては「皇室と国民が待ちこがれた皇孫が誕生した事を、韓国国民とともに心よりお祝いします。皇室がこの度の慶事を機に、一層繁栄することを確信します」との祝電を送った。また、金は日本の常任理事国入りに対する韓国国内の支持を求めていた。
 
 
 
映画や音楽などの日本文化を受容することも表明<ref>[[CHAGE and ASKA]]が初の韓国でライブを行った日本歌手だった。</ref>。[[2002 FIFAワールドカップ|日韓ワールドカップ]]も共同開催するなど、『韓国社会の“独島愛国主義”を拡大・「歴史の正しい立て直し」として総督府としてより、韓国国会として長く使われた後に博物館としていた旧[[朝鮮総督府]]を独立50周年記念で爆破解体・慰安婦問題では[[河野談話]]や[[アジア女性基金]]による解決策を軽視し問題を長期化させるなど、反日愛国[[大衆迎合主義]]の大統領だったと日本には苦い思いが残る人』と称される<ref>[http://www.sankei.com/world/news/151123/wor1511230038-n3.html]「反日愛国に精出す 竹島に埠頭“独島愛国主義”のスタート切る」,産経ニュース,2015年11月13日.</ref>[[金泳三]]より民間交流で日韓関係を好転させ、金大中時代が過去最も良好な外交関係であった。しかし、『[[産経新聞]]』の[[黒田勝弘]]・ソウル駐在客員論説委員は最も良好な時代でさえ「[[教科書問題]]について小渕総理との間で'''過去は清算した'''と述べていたにも関わらず、日本で保守系の教科書([[新しい歴史教科書をつくる会]])が検定に通ると35項目の修正要求をしてきた」と韓国の[[ムービング・ゴールポスト|動くゴールポスト]]は変わっていないと批判している<ref>http://www.dailyshincho.jp/article/2017/01210556/?all=1</ref>。
 
[[盧武鉉]]と合わせて[[公安]]事件犯3500人を[[特赦]]で釈放したり、韓国の情報機関である[[国家安全企画部]]を廃止し、大幅縮小・弱体化改編させた結果、北朝鮮の[[金正日]]死亡を、公式報道直前まで兆候すら把握出来なくさせたと主張する者もいる。一部の右翼勢力は「北朝鮮に引き取ってもらうべく策謀しており、弱い韓国という従北勢力の悲願をいくつも達成させた」と主張している<ref>[http://www.sankei.com/premium/news/161114/prm1611140004-n8.html].</ref>。
 
 
 
== 対北送金疑惑 ==
 
金大中は南北首脳会談の直前に[[ヒュンダイ|現代グループ]]が事業の権利を得るべく行った北朝鮮への5億ドル(4億ドルとも伝えられてる)の違法な送金を容認し<ref>[http://gendaikorea.com/20080905_01_hon.aspx 李明博はなぜ金大中・盧武鉉政権の疑惑を捜査しなければならないのか?] 現代コリア 趙甲済 2008年9月5日(月刊朝鮮2007年1月号より引用)</ref>、[[中華人民共和国]]の[[北京]]・[[マカオ]]・[[香港]]を経由<ref>{{cite web |url=http://japanese.donga.com/List/3/all/27/270708/1|title=「南北首脳会談の際、北に4億ドル送金」波紋呼ぶ疑惑|author=|date=2002-09-26 |work= |publisher=[[東亜日報]] |accessdate=2018-02-04}}</ref>して金正日とその長男の[[金正男]]<ref>『激動!!北朝鮮・韓国そして日本 歴史的必然と日本の選択』第5章 実業之日本社、2013年5月。ISBN 978-4-408-10994-7</ref><ref>{{cite web |url=http://japanese.joins.com/article/931/146931.html|title=【取材日記】マカオの金正男に注目する理由|author=|date=2011-12-30 |work= |publisher=[[中央日報]] |accessdate=2018-02-04}}</ref>や側近の[[張成沢]]<ref>{{cite web |url=http://news.onekoreanews.net/detail.php?number=47739|title=金大中政権が北へ送った秘密資金は核開発などに使われた! |author=|date=2009-03-06 |work= |publisher=[[統一日報]] |accessdate=2018-02-04}}</ref>に渡ったとされる。このため首脳会談は送金の見返りだったという見方があり<ref>[http://www.chosunonline.com/news/20030214000031 「対北送金」は首脳会談の対価ではない?] 朝鮮日報 2003年2月14日</ref>、[[ノーベル平和賞]]受賞に疑問を投げかけた。
 
 
 
2004年3月28日、最高裁判所は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への不法送金事件で起訴された林東源元国家情報院長、李瑾栄元産業銀行総裁、朴相培元産業銀行副総裁、金潤圭現代峨山社長に対し有罪を確定したと発表。判決文では「高度な政治性を帯びた国家行為に対し、司法審査を抑制するという統治行為概念は認めるとしても、適法な手続きに沿うことなく、北朝鮮に4億5000万ドルを送金した行為自体は法的審査の対象となる」としている<ref>[http://www.chosunonline.com/article/20040328000016 「対北送金」 6被告の有罪確定] 朝鮮日報 2004/03/28</ref>。
 
 
 
2004年6月12日のMBCのインタビューにて、金大中は「対北送金に対する特別検事捜査は、それ自体やってはならないことだった。国政を遂行していれば、外部には知らせられない多数の問題がある。これを一々特別検事が捜査し、問題視すれば、国政は難しくなる。1億ドルを提供しようとしたのは事実だが、実定法では難しい部分があり、政府レベルでは提供できなかった。現代が通信に関する権利を北朝鮮側から提供される対価として支払ったと聞いている」と関与を認めた<ref>[http://www.chosunonline.com/article/20040614000055 金大中氏「対北送金の捜査すべきでなかった」] 朝鮮日報 2004/06/14</ref>。
 
 
 
2011年12月、金大中政権が発足当時からノーベル平和賞受賞のために組織的な「工作」を行っていたことや、北朝鮮に5億ドルを不法送金した内幕、安全企画部による盗聴などをメディアに次々と暴露した元国家情報院職員がアメリカへの政治亡命が認められた。この元職員は機密漏洩の容疑で国家情報院より告発されている。<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=0125&f=national_0125_122.shtml 「金大中ノーベル賞は工作」暴露の元情報員、米国に亡命へ=韓国] サーチナ 2012/01/25</ref><ref>{{cite news |title= 「뉴스 파일」‘감청의혹 폭로’ 김기삼 前안기부원 美 망명 승인(「ニュース ファイル」‘監聴(盗聴)疑惑暴露’キム・ギサム前安企部員 アメリカ亡命承認)|author= |newspaper= 東亜日報|date= 2012-1-26|url= http://news.donga.com/3/all/20120126/43555632/1|accessdate= 2012-1-26}}</ref>。
 
 
 
== その他 ==
 
* 大統領になるまでの自宅軟禁、投獄期間は約10年に及ぶ。
 
* 私邸が[[ソウル市]][[麻浦区]]東橋洞にあったことから、金大中系の政治家は「東橋洞系」と呼ばれる。
 
* [[2000年]]の[[元日]]に、[[漢字]]交じりで「{{lang|ko|새}}千年 {{lang|ko|새}}希望」と[[書き初め]]し、[[全国漢字教育推進総連合会]]から賞賛された。
 
* 国会議員を務めた1970年に、当時24歳の女性(後に自殺)との間で[[婚外子]]をもうけたと、2005年4月、韓国のSBSテレビが報道した。国家情報院はこの問題を「1号懸案」と呼び、関係者の盗聴など特別な注意を払っていたという。
 
* 2009年に10月17~18日に嶺南大学付設「朴正煕リーダーシップ研究院」が世論調査機関「リサーチ・アンド・リサーチ」に依頼して行った「韓国の発展に最も大きく貢献した大統領」を問うアンケートで2位となった(1位は朴正煕)<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=121832 「最高の大統領」は朴正煕元大統領] 中央日報</ref>。
 
* 2017年5月20~22 日に世論調査専門機関リサーチビューが行った歴代大統領の好感度調査(歴代大統領から最も好感を持つ人を1人だけ選ぶ調査)で盧武鉉(54.2%)、朴正煕(20.6%)に次いで3位(13.5%)となった<ref>{{Cite web |date= 2017-5-22|url= http://rsview.kr/pdboard/bbs/board.php?bo_table=data&wr_id=665|title= 170522 전직대통령 호감도 "노무현(54%) 첫 과반돌파-최고치 경신", 정당지지도 "민주당(49.6%) vs 자유한국당(12.2%)"_리서치뷰(170522元大統領の好感度・盧武鉉(54%)の最初の過半数を突破 - 最高更新、政党支持率・民主党(49.6%vs自由韓国党(12.2%)リサーチビュー)
 
|publisher= リサーチビュー|accessdate=2017-5-27}}</ref>(歴代大統領から1人だけを選ぶ調査では、盧武鉉と支持層が重なる金大中は不利になる)。
 
* 大統領在任中に死刑判決を受けた北朝鮮の工作員[[辛光洙]](シン・グァンス)を恩赦で釈放した。また、18か月しか服役していない殺人犯[[朴琦緖]](パク・キソ)を釈放した。
 
*来日の折、1998年10月8日の日韓共同宣言<ref>[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/kaidan/yojin/arc_98/k_sengen.html 日韓共同宣言 -21世紀に向けた新たな日韓パートナーシップ-] 外務省</ref>において、歴史認識に関して植民地支配がもたらした苦痛と損害に対し、日本の「お詫び」が文書化された<ref>[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-5/jo.htm 「韓日新時代」論考-金大中政権の対日政策] 立命館大学 立命館法学 一九九九年五号</ref>。金大中はこれ以降、「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任を持つ」と言明した<ref>[http://d-arch.ide.go.jp/browse/html/1998/1998000TPA_02.html アジア支援をめぐる思惑に差 - 日本とアジア] 小牧輝夫 アジア経済研究所 IDE-JETRO</ref>。しかし2001年、韓国政府は「[[新しい歴史教科書を作る会]]」の教科書に修正要求を出し、日本との外交の場に歴史認識を再度持ち出している<ref>[http://www.chosunonline.com/news/20010410000023 政府、日本の歴史教科書の再修正要求を検討] 朝鮮日報 2001年4月10日</ref>。
 
 
 
== 脚注・出典 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 日本語の著書 ==
 
* 『独裁と私の闘争~韓国野党前大統領候補の記録』([[光和堂]],1973年)
 
* [[和田春樹]]・[[東海林勤]]編『民主救国の道~講演と論文 1973-1980』([[新教出版社]],1980年)
 
* 『無窮花よ永遠に』([[アンヴィエル]],1980年)
 
* [[和田春樹]]・[[金学鉉]]・[[高崎宗司]]訳『金大中獄中書簡』([[岩波書店]],1983年)
 
*『平和と民主主義にすべてを賭けて~政治哲学と対話集』([[IN通信社]],1992年)
 
* [[金容権]]訳『新しき出発のために』([[朝日新聞社]],1994年)
 
* NHK取材班構成・訳『わたしの自叙伝~日本へのメッセージ』([[日本放送出版協会]],1995年)
 
* [[金容雲]]訳『民族と統一を想う』([[三一書房]],1997年)
 
* [[金淳鎬]]訳『いくたびか死線を越えて~わが人生、わが道』([[千早書房]],1998年)
 
: ※改題増補版『金大中自伝~わが人生、わが道』([[千早書房]],2000年)
 
* [[伊藤成彦]]ほか訳『新しい時代を拓くために~民主主義・人権・民族統一』([[影書房]],1998年)
 
* [[金淳鎬]]訳『私の女性観』([[白石書店]],2000年)
 
* 『和解と共存への道 (岩波ブックレット No.536)』([[岩波書店]],2001年)
 
* [[金有培]]記録・構成、[[田内基]]訳『生産的福祉への道』([[毎日新聞社]],2002年)
 
* [[波佐場清]]・[[康宗憲]]訳『金大中自伝』上下巻([[岩波書店]],2011年)
 
 
 
== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|Kim Dae-jung}}
 
* [[金大中事件]]
 
* [[アジア通貨危機]]
 
* [[DJノミクス]]
 
* [[ノーベル平和賞]]
 
* [[2002 FIFAワールドカップ]]
 
* [[太陽政策]]
 
* [[玉流館]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www.kdjlibrary.org/ 金大中図書館](朝鮮語・英語)
 
 
 
{{韓国大統領|1998-2003}}
 
{{ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年)}}
 
{{Normdaten}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:きむ てしゆん}}
 
{{DEFAULTSORT:きむ てしゆん}}
 
[[Category:金大中|*]]
 
[[Category:金大中|*]]

2018/10/8/ (月) 23:20時点における最新版

Kim Dae-jung.jpg

金 大中(キム・デジュン、朝鮮語김대중、1924年? - 2009年8月18日

大韓民国(韓国)の政治家。大統領(在任 1998~2003)。1961年5月国会議員に初当選したが,直後の軍事革命により議員資格を喪失。1963年民政移管に伴う国会議員選挙で当選し,民衆党の要職を歴任。1971年,民衆党と新韓党が合併して結成された新民党の大統領候補に選ばれ,民主共和党候補パク・チョンヒ(朴正煕)に挑んだが敗れた。1972年パクにより維新体制(十月維新)がしかれるとアメリカ合衆国,日本で反政府運動を展開,1973年8月東京のホテルから拉致され,5日後に韓国で解放された。1976年3月,パク体制を批判する民主救国宣言に署名して逮捕,起訴され,懲役 8年の判決を受けたが 1978年に釈放,1980年に公民権を回復した。1980年光州事件の首謀者として再び逮捕され,翌 1981年に死刑判決を受けたが,アメリカ,日本などの助命要請もあり減刑,1982年に刑の執行停止を受けてアメリカへ出国した。1985年に帰国,1987年の「六・二九民主化宣言」で復権,平和民主党を結成し総裁に就任,同年 12月の大統領選挙に出馬したが落選。1988年国会議員に返り咲き,1992年大統領選挙に出馬したが敗北,政界引退を表明した。しかし,1995年に新党の新政治国民会議の総裁となり政界に復帰,1997年の大統領選挙に 4度目の立候補を果たし,民主化闘争時代の政敵,保守派のキム・ジョンビル(金鐘泌),パク・テジュン(朴泰俊)の協力を得て当選,1998年第15代大統領に就任した。就任後ただちに経済危機の克服に取り組み,金融機関の統廃合や財閥改革に努めた。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対し,対話ならびに交流を目指す「太陽政策」を推進し,2000年6月に南北首脳会談を実現,南北共同宣言に署名した。同 2000年,韓国をはじめ東アジアの民主化を先導したこと,南北和解に貢献したことなどが評価され,ノーベル平和賞を受賞。著書に『金大中獄中書簡』『金大中:わが人生,わが道』などがある。



楽天市場検索: