「金閣寺放火事件」の版間の差分

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{{Infobox 民間人の攻撃
 
| 名称      = 金閣寺放火事件
 
| 画像      = Burned Kinkaku.jpg
 
| 脚注      = 焼失直後の金閣
 
| 場所      = [[京都府]][[京都市]][[上京区]](現・[[北区 (京都市)|北区]])
 
| 緯度度 =35 |緯度分 =2 |緯度秒 =21.85 |N(北緯)及びS(南緯) = N
 
| 経度度 =135 |経度分 =43 |経度秒 =45.71 |E(東経)及びW(西経) = E
 
| 日付      = [[1950年]][[7月2日]]
 
| 時間      = 未明
 
| 時間帯    = [[協定世界時|UTC]]+9
 
| 標的      = [[鹿苑寺]]の舎利殿(金閣)
 
| 手段      = 放火
 
| 死亡      = 0人
 
| 負傷      = 0人
 
| 行方不明  = 0人
 
| 損害      = 舎利殿が全焼。[[足利義満]]の木像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点の焼失。
 
| 犯人      = 林承賢(本名・林養賢)
 
| 動機      = 不明
 
}}
 
'''金閣寺放火事件'''(きんかくじほうかじけん)は、[[1950年]][[7月2日]]未明に、[[京都府]][[京都市]][[上京区]](現・[[北区 (京都市)|北区]])金閣寺町にある[[鹿苑寺]](通称・金閣寺)において発生した[[放火罪|放火]]事件である。[[アプレゲール#日本のアプレゲール犯罪|アプレゲール犯罪]]の一つとされた。
 
 
 
== 事件の経緯 ==
 
[[ファイル:Kinkakuji, 1893.jpg|thumb|right|焼失する前の金閣([[1893年]])]]
 
[[ファイル:GoldenPavillion1905.jpg|thumb|right|焼失する前の金閣([[1905年]])]]
 
1950年7月2日の未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。当時の金閣寺には[[火災報知機]]が7箇所に備え付けられていたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていた。幸い人的被害はなかったが、[[国宝]]の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である[[室町幕府]]3代将軍、[[足利義満]]の木像(当時[[国宝]])、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失した。
 
 
 
鎮火後行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。その結果、同寺子弟の見習い僧侶であり[[大谷大学]]学生の林承賢(本名・林養賢、京都府[[舞鶴市]]出身、[[1929年]][[3月19日]]生まれ)が行方不明であることが判明し[[捜索]]が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で[[薬物]]の[[カルモチン]]を飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]した。なお、林は救命処置により一命を取り留めている。
 
 
 
=== 動機 ===
 
逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていた。しかし実際には自身が病弱であること、重度の[[吃音症]]であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか、同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも[[事務職|事務方]]が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
 
 
 
そのため、この複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された(詳細は後述)。一例として、[[三島由紀夫]]は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析したほか、[[水上勉]]は「寺のあり方、[[仏教]]のあり方に対する[[矛盾]]により美の[[象徴]]である金閣を放火した」と分析した。
 
 
 
また、服役中に[[統合失調症]]の明らかな進行が見られた(詳細は後述)ことから、{{誰範囲|事件発生当時既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もある。|date=2017年1月}}
 
 
 
=== その後 ===
 
事件後、林の母親は[[京都市警察|京都市警]]による[[事情聴取]]のため京都に呼び出され([[禅|禅宗]]の僧侶であった父親はすでに[[結核]]により他界)、[[刑事|捜査官]]から事件の顛末を聞くこととなったが、その衝撃を受けた様子から不穏なものを感じた[[日本の警察官|警官]]は実弟を呼び寄せて付き添わせた。しかし、実弟の実家がある[[大江町 (京都府)|大江]]<ref>現在の京都府[[福知山市]][[大江町 (京都府)|大江町]]。</ref>への帰途、[[山陰本線]]の列車から[[亀岡市]]馬堀付近の[[保津峡]]に飛び込んで自殺している。
 
 
 
林の[[精神鑑定]]を行ったのは後に[[国立病院機構京都医療センター|国立京都病院]]に[[精神科]]を設立し医長となる[[加藤清 (精神科医)|加藤清]]である。[[1950年]][[12月28日]]、林は[[京都地方裁判所|京都地裁]]から[[懲役]]7年を言い渡されたのち服役したが、服役中に結核と[[統合失調症]]が進行し、[[加古川刑務所]]から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、[[1956年]](昭和31年)[[3月7日]]に26歳で病死した。
 
 
 
親子の墓は親戚のいた[[舞鶴市]]安岡にあるが、墓は今も清掃され花が手向けられている。
 
 
 
== 再建 ==
 
[[ファイル:Kinkaku3402CBcropped.jpg|thumb|right|再建後の金閣舎利殿]]
 
現在の金閣は国や京都府の支援および地元経済界などからの浄財により、事件から5年後の1955年に再建されたものである。金閣は明治時代に大修理が施されており、その際に詳細な図面が作成されていたことからきわめて忠実な再現が可能であった。
 
 
 
事件当時の寺関係者の回顧談等によると、焼失直前の旧金閣はほとんど金箔の剥げ落ちた簡素な風情で、現在のように金色に光る豪華なものではなかった。また修復の際に創建当時の古材を詳細に調査したところ金箔の痕跡が検出され、本来は外壁の全体が金で覆われていたとの有力な推論が得られたことから、再建にあたっては焼失直前の姿ではなく創建時の姿を再現するとの方針が採られた。
 
 
 
== 事件をテーマにした作品 ==
 
この事件を題材に、長編小説では[[三島由紀夫]]『[[金閣寺 (小説)|金閣寺]]』や、[[水上勉]]『[[五番町夕霧楼]]』が書かれた。
 
 
 
水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べている<ref>「六年前高野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。帽子を阿弥陀にかぶった額ぎわのせまい男。私と滝谷の会話を聞き入っていた吃音少年だ。あの男が火をつけたか」</ref>。水上が[[1979年]]に発表した[[ノンフィクション]]『金閣炎上』は舞鶴の寒村・成生の禅宗寺院の子として生まれた犯人の生い立ちから事件の経緯、犯人の死まで事件の全貌を詳細に描いたもので、事件の経緯を知るための一次[[史料]]となっている。
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連資料 ==
 
*文化庁編『新版 戦災等による焼失文化財 20世紀の文化財過去帳』、戎光祥出版、2003
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[鹿苑寺]]
 
* [[司馬遼太郎]] - 記者としてこの事件を取材した
 
* [[炎上 (映画)]]
 
* [[金閣寺 (映画)]]
 
* [[崇礼門放火事件]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://dspace.lib.niigata-u.ac.jp/dspace/bitstream/10191/8807/1/43_179-192.pdf 『金閣炎上』と『金閣寺』 ]孫暘、新潟大学、2008
 
 
 
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