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'''鎌倉幕府'''(かまくらばくふ)は、[[日本]]の[[武家政権]]。同幕府の約150年間を[[鎌倉時代]]と呼び、[[源頼朝]]を創設者とし、[[北条時政]]・[[北条義時]]らを中心とした坂東武士が[[鎌倉]]に設立した[[幕府]]である。頼朝の死後、[[御家人]]の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である[[得宗|得宗家]]が同幕府の支配者となった。武家政権は[[室町幕府]]・[[江戸幕府]]へと継承された。
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'''鎌倉幕府'''(かまくらばくふ)
  
== 概要 ==
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源頼朝によって鎌倉に樹立された武家政権。成立の時期は (1) 頼朝が伊豆に挙兵した治承4 (1180) 年,(2) 頼朝が朝廷から東国行政公権を委譲された寿永2 (83) 年,(3) 幕府の主要政治機関公文所,問注所が設置された同3年,(4)守護,地頭が設置された文治1 (85) 年,(5) 頼朝が右近衛大将に任命された建久1 (90) 年,(6) 頼朝が征夷大将軍に任命された建久3 (92) 年など諸説がある。幕府成立当時の政治機関として,中央に[[侍所]][[政所]] (初め公文所といった) [[問注所]]が,地方には[[京都守護]][[鎮西奉行]][[奥州総奉行]],各国守護などがおかれた。鎌倉幕府は御恩,奉公の主従関係による御家人制度によって支えられていた。その経済的基盤は将軍家の直轄地である関東御領,朝廷から将軍家に与えられた知行国である関東御分国,関東御公事と称して御家人から徴収する恒例の臨時課役であった。鎌倉幕府は頼朝の代にその基礎が確立したが,正治1 (99) 年頼朝の死後源家将軍は頼家,実朝の3代で滅び,以後摂家 (藤原氏) 将軍2代,親王将軍 (宮将軍) 4代を京都から迎えたが,侍所,政所別当を兼ねた[[北条氏]]が実権を握る執権政治であった。承久3 (1221) 年,公家政権による倒幕計画を武力で押しつぶし ([[承久の乱]] ) ,元仁1 (24) 年[[連署]],嘉禄1 (25) [[評定衆]],貞永1 (32) 年に[[御成敗式目]]を制定して武家政権を確立した。執権北条氏は,宝治1 (47) 年三浦氏を滅ぼして,建長1 (49) [[引付衆]]を設置し,これに北条一門をあてるなど北条氏嫡流による得宗専制政治を強化していった。それは2度の蒙古襲来 ([[元寇]] ) の非常事態に対処することを理由に,幕府中枢機関はもちろん,地方の支配機構にも及んだ。やがて得宗専制に対する外様御家人層の批判が出て反発が強くなってくると,北条氏一門は強圧的手段に出た。また中期以後になると鎌倉御家人制度にも種々の矛盾が表面化し,御家人の経済的窮乏と相まって,幕府も次第に動揺をみせはじめた。幕府は永仁5 (97) 年,徳政令 ([[永仁の徳政令]] ) を発布して御家人の窮乏を救おうとしたが効果はなかった。このような幕府の動揺に乗じて[[後醍醐天皇]]を中心とする倒幕勢力が台頭し,足利,新田氏などの有力御家人の寝返りもあって,元弘3=正慶2 (1333) 年鎌倉幕府は成立後約 150年にして滅亡した。鎌倉幕府成立の歴史的評価としては,平氏政権とは本質的に異なる点を認めつつも,なお古代的性格を重視する立場と,武士政権としての封建的性格を重視する立場とがある。
=== 成立過程の概略 ===
 
まず[[1180年]]([[治承]]4年)に[[鎌倉]]の大倉郷に頼朝の邸となる[[大倉御所]]が置かれ、また[[幕府]]の統治機構の原型ともいうべき[[侍所]]が設置されて武家政権の実態が形成された。朝廷は[[寿永二年十月宣旨]]([[1183年]])で頼朝に対し、[[東国]]における[[荘園]]・[[公領]]からの[[官物]]・[[年貢]]納入を保証させると同時に、頼朝による東国支配権を公認した。[[壇ノ浦の戦い]]([[1185年]])で[[平氏]]を滅ぼし、同年、[[文治の勅許]](1185年)では頼朝へ与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可した。そして[[1190年]]([[建久]]元年)頼朝が[[権官|権]][[大納言]]兼[[右近衛大将]]に任じられ、[[公卿]]に列し[[荘園領主]]の家政機関たる[[政所]]開設の権を得たことで、いわば統治機構としての合法性を帯びるようになり、さらに[[1192年]]、[[征夷大将軍]]の[[将軍宣下|宣下]]がなされた。こうして、名実ともに武家政権として成立することとなった。[[守護]]の設置で諸国の治安維持を幕府は担当したものの、その支配は限定的であったが次第に範囲を拡大し、[[承久の乱]]や[[元寇]]を経て、[[得宗]]家の専制支配が全国的な支配権を確立するに至った。
 
 
 
=== 幕府についての議論 ===
 
当時、武家政権を「[[幕府]]」と呼んでいたわけではなく、[[朝廷]]・公家は[[関東]]と呼び、武士からは[[鎌倉殿]]、一般からは[[武家]]と称されていた。「[[吾妻鏡]]」に征夷大将軍の館を「幕府」と称している例が見られるように、もともと幕府とは将軍の陣所、居館を指す概念である。武家政権を幕府と称したのは[[江戸時代]]後半、[[幕末]]になってからのことであり、鎌倉幕府という概念が登場したのは、1887年(明治20年)以降とされる<ref>国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 3』(吉川弘文館、1983年)549頁</ref>。以上の理由から、鎌倉幕府の統治機構としての概念、あるいは成立時期というのも後世の、近代歴史学上のとらえ方の問題であり、一応の通説があるとはいえ、統一された見解がないのが現状である。歴史学者の[[林屋辰三郎]]は「そもそも幕府というものの本質をいずれに置くのか、歴史学上未確定である」と述べている。
 
 
 
鎌倉幕府をめぐる論争としては、中世における国家という観点から、朝廷と鎌倉幕府の関係を如何にとらえるかという学術上の論争がある。通説では、中世の国家の性格として鎌倉幕府を中心とする在地領主層を基盤とする封建国家、すなわち鎌倉幕府を中心とした国家観が定着しているが、あくまで国家の中心は朝廷であり、公家、寺家、そして武家の権門が相互補完しながら国家を形成していたとする[[黒田俊雄]]らの[[権門体制論]]、そうではなく西国の朝廷に対して東国に事実上の国家を樹立したとする[[佐藤進一]]らの[[東国国家論]]がある。
 
 
 
現在、鎌倉幕府の成立年については、頼朝が東国支配権を樹立した治承4年(1180年)、事実上、東国の支配権を承認する寿永二年の宣旨が下された寿永2年(1183年)、公文所及び問注所を開設した元暦元年(1184年)、守護・地頭の任命を許可する[[文治の勅許]]が下された文治元年(1185年)、日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)<ref>これら学説については井上光貞前掲書、国史大辞典編集委員会編前掲『国史大辞典 3』などに詳しい。</ref>、[[征夷大将軍]]に任命された建久3年(1192年)など様々な意見が存在する。<!--そもそも当時は「幕府」と称しておらず、幕府の起源は中国の「近衛府」で、日本では武家政権の政庁を指し、現代における歴史用語。-->
 
 
 
== 統治構造 ==
 
当初の鎌倉幕府は鎌倉殿を主宰者とする武士を首班とした地方政権で、支配は東国を中心としており、[[承久の乱]]後、全国政権へと飛躍し、権力を拡大させたものであるが、そもそも当初から全国政権を志向したわけでなく、あくまで朝廷権力を前提とした地方政権であった。その大きな理由のひとつが鎌倉幕府が[[荘園公領制]]を前提とした政権であることである。
 
 
 
地方で土地を私有する武士団の起源は、天平15年(743年)、朝廷が効果的に収税を行うべく発布した[[墾田永年私財法]]の施行により土地私有が公認されたことに由来し、古来の豪族や有力農民などが土地を私有するようになったが、国司による厳しい徴税を回避すべく有力地主たちは公卿に土地の一部を寄進し、[[荘園]]の荘官(開発領主)としての地位を得たことが契機であった。寄進した貴族の保護は受けるとはいえ、今度は寄進した荘園領主からの取り立てや国司との摩擦、近隣豪族の侵略も絶えず、有力農民たちはいつしか武装するようになり、[[武士]]が誕生する。
 
 
 
やがて有力農民たちに由来する武士は、[[武士団]]の起源となり、都から派遣された下級貴族や官人層、さらに源氏や平氏など上級貴族を上位の棟梁として仰ぎ、主従関係を結ぶことによって本領安堵を確実なものとした。棟梁の戦に従軍し、新たな領地を与えられることで繁栄の糸口を得たのである<ref>ただし近年では逆に、武士の起源を有力農民ではなくて貴族の側とする見解が主流となった。詳細は『[[軍事貴族]]』『[[武士#「職能」武士の起源]]』の項目を参照。</ref>。
 
 
 
源頼朝はそうした各地の武士団を統べる貴族の名門中の名門であり、頼朝の鎌倉幕府とは、御家人となった武士に地頭職を授けることで本領安堵を行い、武功により新たな領地を与える新恩給与を行う、まさに荘園公領制を媒介とした、御恩と奉公により武士の利害を代表する政権であったといえる。そして、そうした鎌倉幕府の主な基盤であったのが関東を中心とした東国であったという点であり、鎌倉幕府の政治的基盤及び軍事的・経済的基盤は頼朝が平氏追討などで獲得した[[関東知行国]]、[[関東御領]]であった<ref>阿倍猛、佐藤和彦編『人物でたどる日本荘園史』(東京堂出版、1990年)参照。</ref>。
 
 
 
そして、鎌倉幕府が朝廷権力を前提とした政権であるという二つ目の理由が、鎌倉幕府が律令法制上、様々な存立根拠を満たして成立しているという点である。
 
 
 
もともと伊豆で[[蛭ヶ小島]]の[[流罪|流人]]であった頼朝が平氏追討の兵を挙げる前提となった出来事は、[[以仁王]]のいわゆる「令旨」(厳密には御教書)であった。[[大庭景親]]をはじめとする関東の平家方武士団を破った頼朝は、治承4年(1180年)、鎌倉に拠点を置き統治を開始するが、この時点ではまだ[[平将門]]と変わらない、ごく私的な政権に過ぎなかった。しかし、寿永2年(1183年)に入り、朝廷は頼朝を平家に敗れて流人となる前の[[従五位下]]に復し、頼朝の要望に従い平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に帰属させる権限を承認する、いわゆる東国沙汰権を付与した。そしてこの権限の履行のために東国の地方官である国衙を指揮する権能も認められたのである。いわゆる[[寿永二年十月宣旨]]である<ref>『百錬抄』寿永二年十月二十二日条によれば「十月十四日、(中略)東海・東山諸国の年貢、神社仏寺ならびに王臣家領の庄園、元の如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝の申し行いに依るところ也。」と記されている。『百錬抄』寿永二年十月二十日条参照。</ref>。
 
 
 
元暦2年(1185年)3月24日には、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏を滅ぼすことに成功した頼朝は朝敵追討の功労者として平家の所有していた荘園、いわゆる[[平家没官領]]の支配権を要求して承認され、後に鎌倉殿直轄の荘園、関東御領と呼ばれる所領を獲得した。また、平家滅亡後、頼朝に叛旗を翻した弟・[[源義経]]と叔父・[[源行家]]が後白河法皇から頼朝追討の院宣を賜ると、頼朝はこれに抗議し、朝廷を頼朝の推薦した公卿を議奏として、議奏をもって朝廷の政治を担当させること、義経・行家追討の院宣を発すること、加えて、その追討のために東国及び畿内に守護及び地頭を置くことを認可し、さらに荘園公領を問わず、反別五升の[[兵粮米]]の徴収権を頼朝に与えることを求めた。いわゆる、[[文治の勅許]]である<ref>『吾妻鏡』には文治元年(1185年)10月18日以降の記述によれば「廿八、丁未、補任諸国平均守護地頭、不論権門勢家庄公、可充 課兵粮米段別五升之由、今夜、北条殿謁申藤中納言経房卿云々」とあるように、数度に渡り北条時政を通じて荘園公領を問わず反別五升の兵粮米の徴収権を与えられることを奏請した。さらに、[[九条兼実]]の日記『[[玉葉]]』によれば「二十九日、戊申、北条殿申さるるところの諸国守護地頭兵粮米の事、早く申請に任せて御沙汰あるべきの由、仰せ下さるるの間、帥中納言勅を北条殿に伝えらると云々」と記されている。『吾妻鏡』文治元年十二月六日条、『玉葉』『吉記』文治元年十二月二十七日条。参照。</ref>。
 
 
 
その後、頼朝は東北に強大な独立勢力を築いていた[[奥州藤原氏]]を滅ぼした。建久元年(1190年)11月、上洛を果たした頼朝は征夷大将軍の宣下を望むものの、後白河法皇より拒否され、代わりに[[権官|権]][[大納言]]兼[[近衛府|右近衛大将]]に任ぜられた(位階は既に[[元暦]]二年(1185年)に[[従二位]]に叙され、[[文治]]五年(1189年)に[[正二位]]に昇叙されていた)。
 
 
 
これによって、三位以上の公卿に認められる、家政機関 [[政所]]の設置が公に認められ、それまで頼朝が独自に設置してきた[[公文所]]を政所と改め、官職・右近衛大将の略称である右大将に因み、右大将家政所と称した。それまで頼朝個人としての官職復帰や、東国沙汰権を拠り所としていた鎌倉の東国政権は、朝廷公認の家政機関としての位置付けを得て、統治機構としての正当性を獲得したのである。[[建久]]2年([[1191年]])[[1月15日 (旧暦)|1月15日]]、鎌倉に帰還した頼朝は年頭行事や祝い事など画期に行われる[[吉書始]]を行い、右大将家政所を司る四等官として[[政所]][[別当]]に[[大江広元]]、令に主計允[[二階堂行政]]、案主に[[藤井俊長]]、知家事に中原光家をそれぞれ任じ、[[問注所]][[執事]]に三善善信、[[侍所]]別当に[[和田義盛]]、侍所所司に[[梶原景時]]、公事奉行人に藤原親能他6名、[[京都守護]]に外戚で公卿でもある[[一条能保]]、鎮西奉行人に内舎人[[天野遠景]]を任じ、鎌倉幕府の陣容を固めた。
 
 
 
そして、建久3年([[1192年]])[[7月12日 (旧暦)|7月12日]]、頼朝は朝廷から征夷大将軍を宣下された。この時代においては名誉職化していたが、戦時において全国の兵馬を動員できる征夷大将軍への任命は、頼朝に非常大権を付与せしめることを意味した<ref>高橋富雄著『征夷大将軍 もう一つの国家主権』(中央公論社、1987年) 73、74頁参照。</ref><ref>もっとも、北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年)P137-194)のように、征夷大将軍はこの時代には完全に名誉職化しており、何らかの権限を付与されたものではないとする説もある。 </ref>。これが幕府の主宰者に世襲されたことによって、鎌倉幕府は朝廷に代わる政権として名実ともに確立された。後に源頼朝は武家政権の始祖として武士に神聖視されることとなる。
 
 
 
鎌倉幕府は朝廷の公的制度である荘園公領制を前提とし、朝廷から幾重もの権限承認、委譲を受け、成立した政権であるということができる。
 
== 歴史 ==
 
=== 成立 ===
 
{{Main|治承・寿永の乱}}
 
 
 
[[平安時代]]末期、[[平清盛]]を中心とする[[平氏政権]]が成立していたが、旧勢力や対抗勢力には強い反感・抵抗感があった。[[1177年]]の[[鹿ケ谷の陰謀]]を嚆矢として、反平氏の動きが活発化し、[[1180年]]、[[後白河天皇|後白河法皇]]の皇子[[以仁王]]が平氏追討の兵を挙げ、すぐ討ち取られたものの、これを契機に全国的に反平氏を標榜する勢力が立ち上がっていった。
 
 
 
そうした状況の中で、[[伊豆国|伊豆]]に[[流罪]]となっていた[[源頼朝]]は、同年8月に挙兵し[[石橋山の戦い]]で敗れたが、逃亡先の[[安房国|安房]]から[[上総国]]・[[下総国]]を行軍する間に、[[関東]]一円の平氏系の[[武士団]]([[坂東平氏]])らの支持を獲得した。瞬く間に大勢力となった頼朝軍は、同年10月、先祖ゆかりの地である[[鎌倉]]へ入り本拠地とした。頼朝は、関東武士団を統率するための[[侍所]]を置き、関東武士団の代表=[[鎌倉殿]]と称されるようになった。その直後の[[富士川の戦い]]で平氏軍に勝利した頼朝は、自分を支持する関東武士団の意向を受け、関東内部の平定・経営に重点を置くこととした。
 
 
 
[[1183年]]7月、[[源義仲]]が平氏を[[京都]]から追放したが、義仲勢力は推戴する北陸宮の天皇即位を迫り、京内で乱暴な行動を重ねた。これを憂慮した[[後白河天皇|後白河法皇]]は、頼朝へ上洛を求めたが、頼朝は逆に[[東海道]]・[[東山道]]・[[北陸道]]の[[荘園]]・[[公領]]を元のように[[国司]]・[[本所]]に返還させる内容の宣旨(寿永二年十月宣旨)の発給を要求した。[[朝廷]]は、義仲に配慮して北陸道は除いたものの、頼朝の要求をほぼ認めた。これにより、頼朝は東海・東山両道の支配権を間接的ではあるが獲得した。
 
 
 
こうして、名実ともに東国の支配権を確立していった頼朝は、[[1184年]]、行政を担当する公文所(後の[[政所]])と司法を担当する[[問注所]]を置いて、政権の実態を形成していった。同時に、頼朝は弟の[[源範頼]]・[[源義経]]を派遣し、平氏追討に当たらせ、[[1185年]]、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏が滅亡し、6年に渡る内乱が終結した。
 
 
 
同年、源義経・[[源行家]]が頼朝政権の内規に違反したことを契機に、頼朝は両者追討の[[院宣]]を後白河法皇から獲得するとともに、両者の追捕を名目に、[[守護]]・[[地頭]]の任免権を承認させた。これを文治の勅許という。これにより頼朝政権は、全国の軍事権・警察権を掌握したため、この時期をもって幕府成立とする説が有力とされている。守護・地頭には、兵糧米の徴収権、[[在庁官人]]の支配権などが与えられ、これは頼朝政権が全国的に在地支配を拡げる契機となった。この時の頼朝政権の在地支配は、まだ従来の[[権門勢家]]による支配に優越した訳ではなく、地頭の設置も平氏の旧領([[平家没官領]])などに限定されていた。
 
 
 
[[1189年]]、頼朝政権は、義経を匿ったことを口実として[[奥州合戦]]で[[奥州藤原氏]]を滅ぼし、対抗しうる武家勢力はいなくなった。頼朝政権は治承の乱から義経追捕、そして奥州合戦へと続く一連の内乱の流れの中で幕府のその基礎を固めることに成功した。このため、「内乱に勝利したから幕府ができたのではなく、幕府ができたので内乱に勝利した」とする評価もある<ref>菱沼一憲『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院、2011年)P161 </ref>。
 
 
 
[[1190年]]、頼朝は常設武官の最高職である右近衛大将に補任されたが、同職には様々な政治的制約も付随していたため、すぐに辞している。[[1192年]]、頼朝は征夷大将軍に任命される。これにより、鎌倉幕府の形成がひとまず完了することとなる。ただし、[[1221年]]の[[承久の乱]]での勝利をもって幕府の成立とする見解もある。
 
 
 
以上のように、鎌倉幕府は元々、源頼朝の私的政権に発している。この私的政権は、朝廷から承認されることによって、支配権の正統性を獲得していった。そのため、幕府の支配権の及ぶ範囲は[[守護]]の設置などで諸国の軍事・警察権を得たものの、支配は主として頼朝傘下の[[御家人]]に限られ、少なくとも承久の乱までは朝廷側勢力(権門勢家)の支配権を侵害しないことを原則としていた。また、幕府機構を見ると、朝廷のそれと大きく異なり、鎌倉殿の家政機関としての性格を色濃く残していた。
 
 
 
==== 年表 ====
 
* [[1180年]]([[治承]]4年) - 頼朝が[[平家]]追討のため配流先の[[伊豆国]]で挙兵する(頼朝と在地武士との主従関係の成立)。
 
** 同年、頼朝が鎌倉入りし、[[大倉御所]]に居を構える(鎌倉における拠点設置)。
 
** 同年、頼朝が[[侍所]]を設置する(武士支配機構の成立)。
 
* [[1183年]]([[寿永]]2年) - 朝廷から頼朝に東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証([[寿永二年十月宣旨]]:朝廷から間接的に土地支配権が認定)。
 
* [[1184年]]([[寿永]]3年) - 頼朝が公文所(後に[[政所]]と改称)、[[問注所]]を設置する(行政・裁判機構の成立)。
 
* [[1185年]]([[文治]]元年) - [[平家]]が滅亡する(敵対武家勢力の消滅)。
 
** 同年、頼朝が[[朝廷]]から[[守護]]・[[地頭]]の設置を認められる([[文治の勅許]]:軍事・警察・土地支配権を公認される)。
 
* [[1189年]]([[文治]]5年) - 頼朝が[[源義経]]とこれを匿った[[奥州藤原氏]]を滅ぼす(全国の武士を動員し、対抗しうる武家勢力を排除)。
 
* [[1190年]]([[建久]]元年) - 頼朝が[[近衛大将|右近衛大将]]([[律令制]]における武官の最高位)に任じられ治安維持に関する17ヶ条に及ぶ命を受ける([[大犯三ヶ条]]:軍事・警察・土地支配権の確立)。
 
* [[1192年]]([[建久]]3年) - 頼朝が[[征夷大将軍]]に任命される。
 
* [[1221年]]([[承久]]3年) - [[北条氏]]を中心とする軍勢が[[承久の乱]]で[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]方を破る(全国特に西国掌握の完了、[[朝廷]]の掌握)。
 
 
 
=== 北条氏の台頭 ===
 
[[Image: Hōjō Tokimasa.jpg|thumb|[[北条時政]]]]
 
鎌倉幕府の確立を成し遂げた源頼朝は、[[1199年]]([[正治]]元)1月に突然死去した。跡を継いで鎌倉殿となったのは、頼朝の嫡子で当時18歳の[[源頼家]]だった。しかし、幕府の有力者たちは、若年の頼家に政務を任せることに不安を抱き、有力御家人が頼家に代わって裁判と政務を執行する[[十三人の合議制]]と呼ばれる政治体制を築いた。この合議制の中心にいたのは頼家の外戚にあたる[[北条氏]]であり、[[北条時政]]・[[北条義時]]父子は他の有力[[御家人]]を次々と滅ぼしていった(1200年:[[梶原景時の変]]、1203年:[[比企能員の変]])。
 
 
 
[[1203年]]、重病に陥った頼家は、外祖父時政の手により[[伊豆国|伊豆]]の[[修禅寺]]へ幽閉され、弟の[[源実朝]]が次の鎌倉殿・将軍位に就くと、翌[[1204年]]に死亡した。時政ら[[北条氏]]の手勢により暗殺されたと伝えられている。時政は、将軍実朝を補佐して[[執権]]と呼ばれる地位に就き、政治の実権を握っていった。翌1205年、時政は娘婿の[[平賀朝雅]]を将軍にしようと画策、朝雅と対立する[[畠山重忠]]を殺害し、実朝を廃そうとした([[畠山重忠の乱]])。しかし、時政の子の義時と[[北条政子]]はこの動きに反発し、有力御家人と連帯して、時政を引退させるとともに、平賀朝雅を抹殺した([[牧氏事件]])。
 
 
 
この後、北条義時が執権となり、北条氏権力の確立に努めたが、侍所別当の[[和田義盛]]が対抗勢力として現れた。義時は計略をめぐらし、[[1213年]]、和田一族を滅ぼした([[和田合戦]])。このように、武力紛争が絶えない幕府の状況は、[[1219年]]([[承久]]元)1月の将軍・源実朝の暗殺という最悪の事態に至る。頼朝の直系が断絶し、困惑した幕府は、朝廷へ親王将軍を要望したが、[[治天の君]]・[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]はこれを拒否し、曲折の末、頼朝の遠縁に当たる摂関家の幼児[[藤原頼経]]が新将軍=鎌倉殿として迎え入れられた。この後の2代の鎌倉殿は[[摂家将軍]]と呼ばれる。こうして幕府の実権は、執権の北条氏が掌握することとなった。
 
 
 
=== 承久の乱 ===
 
{{main|承久の乱}}
 
後鳥羽上皇は、治天として専制的な政治を指向し、幕府の存在を疎ましく感じていた。実朝の暗殺を幕府の混乱・弱体化と見た後鳥羽は、幕府打倒を計画するようになり、政権を朝廷に取り戻そうと考えた。そして、[[1221年]](承久3)5月、後鳥羽は北条義時追討の院宣を発した。それまでの歴史から後鳥羽は、ほどなく義時が討ち取られ、関東武士たちも帰順すると見込んでいたが、幕府側は、頼朝以来の御恩を訴え、御家人の大多数を味方につけた。そして、短期決戦策を採り、2ヶ月も経たないうちに朝廷軍を打ち破った。
 
 
 
幕府側の主導で戦後処理が進められた。主謀者の後鳥羽上皇、そして後鳥羽の系譜の上皇・皇子が流罪に処せられ、[[仲恭天皇]]は退位、朝廷側の貴族・武士も多くが死罪とされた。当時の人々は、治天の君をはじめとする朝廷側の上皇・天皇・諸臣が処罰される事態に大きな衝撃を受けた。当時の社会における価値観は正反対に転換した。朝廷の威信は文字どおり地に落ち、幕府は朝廷監視のために[[六波羅探題]]を置き、朝廷に対する支配力を強めることとなる。
 
 
 
乱直後、朝廷は、次代の天皇を誰にするかを幕府へ諮った。これ以降、朝廷は治天・天皇を決定する際は必ず幕府の意向を確認するようになり、幕府と朝廷の立場が逆転したことを物語る。
 
 
 
=== 執権政治の確立 ===
 
[[Image: Hōjō Yasutoki.jpg|thumb|[[北条泰時]]]]
 
[[1224年]]に北条義時、[[1225年]]に北条政子や[[大江広元]]といった幕府創業世代が死去し、義時の子[[北条泰時]]が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の[[北条時房]]を執権の補佐役といえる[[連署]]に当てるとともに、政治意思決定の合議機関である[[評定衆]]を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとつに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。
 
 
 
承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが[[御成敗式目]]と呼ばれる法典([[武家法]])であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の[[室町幕府]]も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。
 
 
 
こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。
 
 
 
泰時の孫[[北条時頼]]は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、[[1249年]]、裁判の公平化のため、[[引付衆]]を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。[[1246年]]、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と[[名越光時]]一派を幕府から追放する([[宮騒動]])と、[[1247年]]には有力御家人である[[三浦泰村]]の一族を討滅した([[宝治合戦]])。[[1252年]]、幕府への謀叛に荷担した将軍[[藤原頼嗣]]が廃され、代わりに[[宗尊親王]]を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍([[宮将軍]])が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を北条氏支流の[[北条長時|赤橋長時]]に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、[[得宗]](徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を'''[[得宗専制]]'''という。
 
 
 
=== 元寇 ===
 
{{main|元寇}}
 
[[File:Hōjō Tokimune.jpg|thumb|200px|[[北条時宗]]]]
 
時頼の死後、得宗の地位を継いだのは子の[[北条時宗]]だった。時宗が得宗となった前後の[[1268年]]、[[モンゴル帝国]]第5代[[大ハーン]]の[[クビライ]]が[[高麗]]を通して朝貢を要求してきた。朝廷は対応を幕府へ一任し、幕府は回答しないことを決定、西国の防御を固めることとした。[[1269年]]と[[1271年]]にもモンゴルから国書が届き、朝廷は返書送付を提案したが、幕府は当初の方針どおり黙殺を選んだ(外交権も幕府が握っていたことを表す)。
 
 
 
[[モンゴル]]から国号を改めた[[元 (王朝)|元]]は、[[1274年]]([[文永]]11)10月に九州北部を襲撃したが、鎌倉武士の頑強な抵抗に遭ったため([[元寇#赤坂の戦い|赤坂の戦い]]・[[元寇#鳥飼潟の戦い|鳥飼潟の戦い]])、元軍は夜間に強行撤退し、帰還途中に暴風雨を受けて大損害を被った。これを[[文永の役]]という。幕府は朝廷と一体になって、国家鎮護に当たることとし、西国の警固を再強化するとともに、それまで幕府の支配の及ばなかった朝廷側の支配地、本所一円地からの人員・兵粮の調達が認められるようになった。これは幕府権力が全国的に展開する一つの契機となる。さらに幕府は、警固を強化する一方で、逆に大陸に侵攻する計画をたてたが、この計画は途中で頓挫した([[元寇#第一次高麗征伐計画|第一次高麗征伐計画]])。
 
 
 
元は[[1281年]]([[弘安]]4)、九州北部を中心に再び日本へ侵攻した。この時は2ヶ月近くにわたる日本軍の頑強な抵抗に遭い([[元寇#志賀島の戦い|志賀島の戦い]]・[[元寇#壱岐島の戦い|壱岐島の戦い]]・[[元寇#鷹島沖海戦|鷹島沖海戦]])、侵攻が停滞していたところに[[元寇#台風|台風]]により大被害を受ける。さらに日本軍による総攻撃を受けて元軍は壊滅した([[元寇#御厨海上合戦|御厨海上合戦]]・[[元寇#鷹島掃蕩戦|鷹島掃蕩戦]])。これを[[弘安の役]]という。前回の襲来と併せて[[元寇]]と呼ぶ。大勝した幕府は直ちに大陸に出兵して、反撃する計画をたてたが、この計画も実行はされなかった([[元寇#第二次高麗征伐計画|第二次高麗征伐計画]])。
 
 
 
この間、時宗は非常事態への迅速な対処を名目として、時間のかかる合議ではなく、一門や側近([[御内人]]という)らと専断で政策決定していった。こうした中で、御内人のトップである[[内管領]]が次第に権力を持ち始め、弘安期には内管領の[[平頼綱]]と有力御家人の[[安達泰盛]]が拮抗していた。泰盛は、時宗の理解も得て、幕府の経済基盤の充実を図るとともに、御家人の地位を保証する政策を実現しようとした。しかし、時宗が[[1284年]]に急死すると、翌[[1285年]]、平頼綱は泰盛を突如襲撃・殺害し、泰盛派の御家人らを討伐した([[霜月騒動]])。この事件により、得宗専制が完成したとされる。
 
 
 
この頃、朝廷においては、[[後嵯峨天皇]]以後の皇位を巡って[[大覚寺統]]と[[持明院統]]の2系統に分立して幕府に[[皇位継承]]の調整を求めた。幕府は[[両統迭立]]原則を示して仲裁にあたるとともに内外の危機に対応するために幕府は朝廷に対しても「[[徳政]]」と呼ばれる政治改革を要求した。これを受けて[[亀山天皇|亀山上皇]]は[[1286年]](弘安9)12月に院評定を徳政沙汰と[[雑訴決断所|雑訴沙汰]]に分割、続いて[[伏見天皇]]は[[1293年]]([[正応]]6)6月に[[記録所]]組織の改革を行って、政治組織の刷新を行って円滑な政務遂行を図った。だが、皇位継承と徳政実施の過程において幕府との対立が表面化するようになり、朝廷内に再び反幕府の動きを潜在化させる遠因となった。
 
 
 
=== 得宗専制の全盛 ===
 
[[File:Hōjō Sadatoki.jpg|thumb|[[北条貞時]]]]
 
平頼綱は、時宗を継いだ年少の[[北条貞時]]を補佐し、得宗専制の強化に尽力した。元寇防衛に働いた九州御家人の恩賞・訴訟を判定するため、安達泰盛は九州に合議制の奉行(鎮西談議所)を置いていたが、頼綱はそれに代えて、得宗派で固めた新機関([[鎮西探題]])を設置した。頼綱政権は、この機関を通じて西国の荘園・公領への支配を強めていった。その反面、さらなる元寇の可能性を根拠として、御家人らへの恩賞給与は僅かにとどまった。
 
 
 
[[1293年]]、成人した[[北条貞時]]は、[[平頼綱]]一族を討滅した([[平禅門の乱]])。貞時は、政治の実権を内管領から取り戻し、実質的な得宗専制を一層強化していった。まず、頼綱政権下で停滞していた訴訟の迅速な処理のため、合議制の引付衆を廃止し、判決を全て貞時が下すこととした。当初、御家人らは訴訟の進行を歓迎したが、ほどなく独裁的な判決への反発が高まった。そして、[[1297年]]([[永仁]]5)、大彗星が現れると世相に不安が拡がり、当時の徳政観念に従って、貞時は、財物を元の持ち主へ無償で帰属させる[[永仁の徳政令]]を発布した。この徳政令は、当時、普及しつつあった貨幣経済に深刻な影響を与えるとともに、社会に大きな動揺をもたらした。
 
 
 
その後、執権職は貞時に代わって北条氏支流の4人が次々に受け継いだが、貞時は得宗として幕府を実質的に支配し続けた。貞時の時代には、北条一門の知行国が著しく増加した。その一方、一般の御家人層では、異国警固番役や長門警固番役などの新たな負担を抱えるとともに、貨幣経済の普及に十分対応しきれず、分割相続による所領の細分化などもあり、急速に階層分化が進んでいった。中には所領を増加させる御家人もいたが、没落傾向にある御家人も少なくなく、所領を売却したり、質入するなどして失い、幕府への勤仕ができない無足御家人も増加していった。一方で彼らから所領を買収・取得する事でのし上がる者もおり、その中には非御家人も数多く含まれる。こうした無足御家人と、力をつけた非御家人は、[[悪党]]化し、社会変動を一層進展させた。そのような中で嘉元3年(1305年)、貞時は北条氏庶家の重臣である連署・[[北条時村]]を誅殺し、得宗家の権力をさらに強化しようと図ったが北条氏一門の抵抗を受けて失敗([[嘉元の乱]])した。乱の後貞時は酒浸りとなって政務を放棄し、北条庶家や[[御内人]]らによる[[寄合衆]]が幕府を主導し、得宗の地位も将軍同様の形式的なものとなっていった<ref>[[細川重男]]『鎌倉幕府の滅亡』([[吉川弘文館]]、[[2011年]]) P132 - 133</ref>。
 
 
 
[[1311年]]、貞時が死去すると、子の[[北条高時]]が跡を継いだ。9歳の高時の補佐役に、平頼綱の一族の[[長崎円喜|長崎高綱(長崎円喜)]]と、安達一族の生き残りの[[安達時顕]]が就いた。当時、[[悪党]]と呼ばれる新興勢力が現れ、寺社の強訴が相次いでいたが、長崎高綱・安達時顕が支える得宗政権は、これらの動きに高圧的な姿勢で対処した。
 
 
 
高時は14歳で執権となったが、父の晩年以降得宗の地位は形骸化しており、引き続き長崎高綱・安達時顕らが幕府の実権を握った。高時成人後も、幕府は各地で見られた地域独自の動きを強権的に押さえ込もうとした。これにより高時が執権となってから10年ほどは表面上政権は安定していた。しかし、このような強権的な支配では各地域の動きは抑えられず、次第に矛盾が大きくなっていった。
 
 
 
=== 後醍醐天皇の倒幕運動 ===
 
{{main|元弘の乱}}
 
[[File:Emperor Godaigo.jpg|thumb|230px|[[後醍醐天皇]]]]
 
一方、時宗の介入によって分裂した[[皇室]]の[[大覚寺統]]・[[持明院統]]はさらに大覚寺統内で[[嫡流]]の[[邦良親王]]([[後二条天皇]]の嫡男)派と本来中継ぎであったはずの[[後醍醐天皇]]派に分かれて対立していたが、朝廷の各派はこれらの争いの調停を幕府に求めたため、幕府は朝廷内の争いに巻き込まれていくことになった。
 
 
 
[[1318年]]、後醍醐天皇が即位。彼は天皇を中心とする政治体制の再構築を企てた。こうした姿勢は皇位継承問題をきっかけとして、幕府の得宗専制と衝突することとなった。
 
 
 
[[1324年]]([[正中 (元号)|正中]]1)、後醍醐天皇の蜂起計画が露呈し、[[日野資朝]]・[[日野俊基]]など側近の公家が処罰された([[正中の変]])。その後、[[1331年]]([[元弘]]元)に再び倒幕計画を立てたが、これも事前に発覚し、翌年[[隠岐島]]へ流された([[元弘の乱|元弘の変]])。しかし、これを契機に得宗専制に不満を持つ[[楠木正成]]、[[赤松則村]](円心)など各地の悪党と呼ばれる武士が各地で反幕府の兵を挙げるようになる。
 
 
 
[[1333年]](元弘3/[[正慶]]2)4月、反幕府勢力の討伐のために京都へ派遣された有力御家人の[[足利尊氏|足利高氏(尊氏)]]は[[北条高家|名越高家]]が[[久我畷の戦い]]で戦死したのを見て、一転して後醍醐側へつき、5月7日に[[六波羅探題]]を落とした。
 
 
 
=== 滅亡 ===
 
[[画像:Toushouji.jpg|230px|thumb|right|北条高時ら一族・家臣が自害した東勝寺址]]
 
六波羅陥落の翌日、[[新田義貞]]が[[上野国]]で挙兵し、150騎だった軍勢は関東[[御家人]]の支持を得て数日のうちに大軍となった<ref>峰岸・37頁</ref><ref>峰岸・38頁</ref>。これに対し、幕府は[[北条貞国|桜田貞国]]・[[長崎高重]]らを将に討伐軍を組織し、大軍で以てこれを迎撃させたが、彼らは[[小手指原の戦い]]、[[久米川の戦い]]で敗れた<ref>峰岸・57頁</ref>。[[北条泰家]]の援軍が加わったのちも、[[分倍河原の戦い]]、[[関戸の戦い]]で敗れ、幕府軍は鎌倉へと敗走し、新田勢は鎌倉へと迫った。
 
 
 
5月18日、新田義貞は数十万ともいわれる軍勢で鎌倉に対し攻撃を開始し、防戦する幕府軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた([[鎌倉の戦い]])<ref>峰岸・62頁</ref>。当日、追い詰められた執権の[[北条守時|赤橋守時]]が自害するなどしたが<ref>峰岸・63頁</ref>、地形を利用した幕府軍の激しい抵抗に新田軍は甚大な損害を被った。
 
 
 
5月21日、新田義貞率いる軍勢が干潮を利用して[[稲村ヶ崎]]を突破し、鎌倉市内になだれ込んだ。両軍は市中において激戦を繰り広げたが、22日までに[[北条貞直|大仏貞直]]、[[北条貞将|金沢貞将]]、[[北条基時|普恩寺基時]]など幕府軍の有力武将が相次いで戦死・自害した<ref>『金沢貞顕』〈人物叢書〉148頁・150頁。</ref><ref>『太平記』巻十「大仏貞直並金沢貞将討死事」</ref><ref>『太平記』巻十「信忍自害事」</ref>。観念した北条高時・[[北条貞顕|金沢貞顕]]、長崎円喜・[[長崎高資]]・安達時顕ら一族・家臣ら283人は菩提寺の[[東勝寺 (鎌倉市)|東勝寺]]に集合し、寺に火を放って自害し果てた([[東勝寺合戦]])<ref>『太平記』巻十「高時並一門以下於東勝寺自害事」</ref>。同日、将軍[[守邦親王]]は将軍職を退いて出家。こうして、鎌倉幕府と北条氏一門は滅亡した。
 
 
 
後醍醐天皇は[[京都]]へ帰還して親政を開始した([[建武の新政]])。
 
 
 
== 都市造営 ==
 
鎌倉入りと都市造営は、それまで京都の公家たちに従属していた武士の歴史として画期的な意味を持つ。まず、頼朝は居館の建築と、[[鶴岡八幡宮]]の整備を行う。鶴岡宮は地勢的にも精神的な位置においても都市鎌倉の中心を占めるものであり、京都における[[内裏]]に匹敵するもので、中央から下向した[[天台宗]]・[[真言宗]]の僧が、[[供僧]]として運営の主導権を握っていた。そこでは[[放生会]]といった[[年中行事]]が整備される一方、それに際し奉納される[[流鏑馬]]や[[笠懸]]は武家社会を代表する重要行事となった。
 
 
 
新造の武家の都を飾る建設は続き、[[源義朝]]の[[菩提]][[勝長寿院]]や、[[中尊寺]]の二階大堂を模した[[永福寺]]、13世紀に入ると[[寿福寺]]・[[東勝寺]]といった[[禅宗]]の寺が次々に建立された。禅宗は特に保護されて、[[北鎌倉]]には渡来僧を[[開山 (仏教)|開山]]とする[[建長寺]]や[[円覚寺]]などの巨刹が偉容を示す<ref>『概説日本思想史』 佐藤弘夫</ref>。
 
 
 
== 存立原理と幕府機構 ==
 
=== 御恩と奉公 ===
 
鎌倉幕府の存立は、武士、特に関東武士団を基盤としていた。これらの武士は、「鎌倉殿」(=将軍)の家人となることで、鎌倉幕府の構成員となった。鎌倉殿の家人になった武士は[[御家人]]と呼ばれた。鎌倉殿と御家人の主従関係は、[[御恩と奉公]]と呼ばれる互恵関係によって保持された、この制度を御家人制度と呼ぶ。
 
;[[御恩]]:鎌倉殿が御家人の所領支配を保障し、又は新たな土地給与を行うことを言う。「御恩」には所領支配を保障する本領安堵(ほんりょうあんど)と新たな土地給与である新恩給与(しんおんきゅうよ)の2種類があった。いずれも御家人を[[地頭]]へ任命するという形で行われた。
 
;[[奉公]]:御家人が鎌倉殿に対して負担する軍役・経済負担などを言う。具体的には、「いざ鎌倉」などに代表される緊急時の軍役、内裏の警護である[[大番役|京都大番役]]、幕府の警護である[[大番役|鎌倉番役]]、後の元寇の頃には[[異国警固番役]]や[[長門警固番役]]という形で行われ、また[[関東御公事]]と言われる経済負担もあった。
 
 
 
以上のように、相互に利益を享受することで、両者は結ばれていた。主従の契約は、御家人が鎌倉殿へ見参した際の名簿差出(みょうぶさしだし)によって行われ、幕府は御家人名簿により御家人を管理した。
 
 
 
=== 経済基盤 ===
 
鎌倉幕府は、以下のような独自の経済基盤を有していた。
 
* [[関東御成敗地]] - 将軍家が地頭任免権を持つ国・荘園・国衙領
 
* [[関東御領]] - 将軍が本所である荘園
 
* [[関東御分国]] - 将軍に与えられた知行国
 
* [[関東進止所領]] - 将軍が地頭を任免できる荘園・国衙領
 
* [[関東御口入地]] - 将軍が地頭職を推薦、斡旋できる荘園、国衙領
 
 
 
=== 職制 ===
 
; [[征夷大将軍]]([[鎌倉殿]])
 
: 鎌倉幕府の長。初代頼朝の時は実質的にトップだったが、その後形骸化していく。
 
; [[執権]]
 
: 鎌倉幕府の将軍(鎌倉殿)の補佐役。次第に将軍の権限を吸収していき、事実上の鎌倉幕府のトップとなり[[北条氏]]が世襲したが、後半になると北条得宗家の当主が執権職を一族の人物に譲った後も得宗家当主が実権を掌握し続けるようになった。
 
; [[連署]]
 
: 執権に次ぐ、もしくは執権に並ぶ役職。
 
; [[評定衆]]
 
: 幕府の政策意思決定の最高合議機関。得宗専制が進むと軽視されるようになる。
 
; [[寄合衆]]
 
: 元々は得宗家当主の私的な会議であったが、得宗専制が進むと実質的に評定衆に代わる最高意思決定機関となった。
 
; [[引付衆]]
 
: 幕府へ提訴された訴訟の審理を担当した。審理結果は評定衆へ上申され、評定衆が裁定した。
 
; [[侍所]]
 
: 御家人の統率を所管した。
 
; [[政所]]
 
: 頼朝の家政機関に端を発し、幕府の一般政務・財政を所管した。
 
; [[問注所]]
 
: 幕府へ提訴される訴訟に関する実務を担当した。
 
; [[守護]]
 
; [[地頭]]
 
; [[京都守護]] → [[六波羅探題]]
 
: 元は朝廷との連絡調整が任務だったが、承久の乱以後の六波羅探題は、朝廷の監視・西国御家人の統率が任務となった。
 
; [[鎮西奉行]]→[[鎮西探題]]
 
: 詳細は鎮西奉行、鎮西探題を参照。
 
; [[奥州総奉行]]
 
; [[蝦夷管領|蝦夷沙汰職・蝦夷代官]]
 
 
 
===幕府(御所)所在地の変遷===
 
{| class="wikitable"
 
! 名称 !! 期間 !! 開設・移設者
 
|-
 
| [[大倉御所|大蔵幕府]] || [[1180年]](治承4年)~[[1225年]](嘉禄元年) || 源頼朝
 
|-
 
| [[宇都宮辻子|宇都()宮辻子]]幕府 || [[1225年]](嘉禄元年)~[[1236年]](嘉禎2年) || 執権北条泰時<br>連署北条時房
 
|-
 
| [[若宮大路幕府]] || [[1236年]](嘉禎2年)~[[1333年]](元弘3年、正慶2年) || 執権北条泰時
 
|}<ref>{{Cite web
 
|author=鎌倉市
 
|url=http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kids/jh/kjh_a12.htm
 
|title=鎌倉市のみどころ「大倉幕府」  かまくら GreenNet
 
|language=日本語
 
|accessdate=2009年10月6日
 
}}</ref>
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
 
 
 
==参考文献==
 
* [[永井晋]]『金沢貞顕』〈人物叢書〉[[吉川弘文館]]、2003年。ISBN 4-642-05228-3
 
* {{Cite book|和書|author=[[峰岸純夫]]|title=新田義貞|publisher=[[吉川弘文館]]〈人物叢書〉|isbn=4642052321|date=2005-5-10}}
 
 
 
== 関連史料 ==
 
* 『[[吾妻鏡]]』
 
* 『鎌倉年代記』
 
* 『北条九代記』
 
* 『太平記』
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[鎌倉時代]]
 
* [[鎌倉将軍一覧]]
 
* [[鎌倉幕府の執権一覧]]
 
* [[鎌倉幕府の執権連署評定衆時系列一覧]]
 
* [[武臣政権]](高麗)
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/bkikou3bakufu.html 鎌倉幕府栄枯盛衰の歴史を辿る] {{ja icon}}
 
* [http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/bkikou15rekisi.html 鎌倉幕府滅亡後の鎌倉の歴史] {{ja icon}}
 
 
 
 
 
{{北条氏得宗}}
 
{{鎌倉幕府執権}}
 
{{鎌倉幕府連署}}
 
{{六波羅探題}}
 
{{鎌倉幕府将軍}}
 
  
 +
{{テンプレート:20180815sk}}
 
{{DEFAULTSORT:かまくらはくふ}}
 
{{DEFAULTSORT:かまくらはくふ}}
 
[[Category:鎌倉時代|*はくふ]]
 
[[Category:鎌倉時代|*はくふ]]

2018/10/10/ (水) 04:09時点における最新版

鎌倉幕府
創設年 1185年
解散年 1333年
代表 得宗
執権
征夷大将軍
対象国 日本の旗 日本
前政府 18px平氏政権
後政府 18px建武政権
備考 幕府発足年について、1185年以外に、1180年1183年1190年1192年など様々な意見が存在する
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鎌倉幕府(かまくらばくふ)

源頼朝によって鎌倉に樹立された武家政権。成立の時期は (1) 頼朝が伊豆に挙兵した治承4 (1180) 年,(2) 頼朝が朝廷から東国行政公権を委譲された寿永2 (83) 年,(3) 幕府の主要政治機関公文所,問注所が設置された同3年,(4)守護,地頭が設置された文治1 (85) 年,(5) 頼朝が右近衛大将に任命された建久1 (90) 年,(6) 頼朝が征夷大将軍に任命された建久3 (92) 年など諸説がある。幕府成立当時の政治機関として,中央に侍所政所 (初め公文所といった) ,問注所が,地方には京都守護鎮西奉行奥州総奉行,各国守護などがおかれた。鎌倉幕府は御恩,奉公の主従関係による御家人制度によって支えられていた。その経済的基盤は将軍家の直轄地である関東御領,朝廷から将軍家に与えられた知行国である関東御分国,関東御公事と称して御家人から徴収する恒例の臨時課役であった。鎌倉幕府は頼朝の代にその基礎が確立したが,正治1 (99) 年頼朝の死後源家将軍は頼家,実朝の3代で滅び,以後摂家 (藤原氏) 将軍2代,親王将軍 (宮将軍) 4代を京都から迎えたが,侍所,政所別当を兼ねた北条氏が実権を握る執権政治であった。承久3 (1221) 年,公家政権による倒幕計画を武力で押しつぶし (承久の乱 ) ,元仁1 (24) 年連署,嘉禄1 (25) 年評定衆,貞永1 (32) 年に御成敗式目を制定して武家政権を確立した。執権北条氏は,宝治1 (47) 年三浦氏を滅ぼして,建長1 (49) 年引付衆を設置し,これに北条一門をあてるなど北条氏嫡流による得宗専制政治を強化していった。それは2度の蒙古襲来 (元寇 ) の非常事態に対処することを理由に,幕府中枢機関はもちろん,地方の支配機構にも及んだ。やがて得宗専制に対する外様御家人層の批判が出て反発が強くなってくると,北条氏一門は強圧的手段に出た。また中期以後になると鎌倉御家人制度にも種々の矛盾が表面化し,御家人の経済的窮乏と相まって,幕府も次第に動揺をみせはじめた。幕府は永仁5 (97) 年,徳政令 (永仁の徳政令 ) を発布して御家人の窮乏を救おうとしたが効果はなかった。このような幕府の動揺に乗じて後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力が台頭し,足利,新田氏などの有力御家人の寝返りもあって,元弘3=正慶2 (1333) 年鎌倉幕府は成立後約 150年にして滅亡した。鎌倉幕府成立の歴史的評価としては,平氏政権とは本質的に異なる点を認めつつも,なお古代的性格を重視する立場と,武士政権としての封建的性格を重視する立場とがある。



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