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{{日本の歴史|Nagasaki bay siebold.jpg|300px|画像説明=長崎の出島}}
 
'''鎖国'''(さこく)とは、[[江戸幕府]]が、キリスト教国([[スペイン]]と[[ポルトガル]])の人の来航、及び日本人の[[東南アジア]]方面への出入国を禁止し、[[貿易]]を管理・統制・制限した対外[[政策]]であり、ならびに、そこから生まれた日本の孤立状態及び、日本を中心とした経済圏を指す。幕末に「開国」を主導した[[井伊直弼]]は、「鎖国」のことを'''閉洋之御法'''とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していた<ref name="bakumatsushi-p183">『[https://books.google.co.jp/books?id=jpeXfNiZSccC&pg=frontcover 訂正増補大日本時代史 幕末史]』 P.183 小林庄次郎 1915年</ref>。
 
  
対外関係は[[朝鮮王朝]]([[朝鮮国]])及び[[琉球王国]]との「[[通信国|通信]]」(正規の外交)、中国([[明|明朝]]と[[清|清朝]])<ref group="注">当初は倭寇対策として「海禁」政策を採る明・清政府の正式な交流許可はなく、[[福建省]]をはじめとする南方中国の商人の私貿易であった。[[1684年]]に[[康煕帝]]により海禁が解除された後は[[寧波]]商人の貿易船が日本との交易を行うようになる。</ref>及び[[オランダ]]<ref group="注">ネーデルラント連邦共和国、但し国際法上その独立を[[ヨーロッパ]]諸国に承認されたのは、[[1648年]]の[[ヴェストファーレン条約]]においてであった。さらに[[フランス革命戦争]]で本国がフランスに占拠され、[[1795年]]その衛星国[[バタヴィア共和国]]となり、併合を経て再独立したのは[[1815年]]であった。</ref>([[オランダ東インド会社]]<ref group="注">本国がバタヴィア共和国となっても、[[アメリカ合衆国]]の商船を雇用し、オランダの国旗を掲げて通商を行なっていた。なお、東インド会社自体は[[1799年]]に解散させられている</ref>)との間の通商関係に限定されていた。鎖国というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていたオランダとの貿易額は中国の半分であった。
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'''鎖国'''(さこく)
  
一般的には[[1639年]]([[寛永]]16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、[[1854年]]([[嘉永]]7年)の[[日米和親条約]]締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である<ref>[[荒野泰典]]著『近世日本と東アジア』、東京大学出版会、1988年、など。</ref>。
 
  
なお海外との交流・貿易を制限する政策は[[江戸時代]][[日本]]だけにみられた政策ではなく、同時代の[[北東アジア|東北アジア]]諸国でも「[[海禁|海禁政策]]」が採られていた<ref group="注">清は1684年に海禁を解いているが、その後も[[長崎貿易]]に類似した管理貿易制度を維持した([[広東システム]])。</ref>。
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[[江戸幕府]]がとった対外政策。日本人の海外往来禁止 ([[海外渡航禁止令]] ) ,[[キリスト教禁制]],朝鮮 ([[朝鮮通信使]] ) や[[琉球]]との外交関係および中国人,オランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態をさす。寛永 16 (1639) 年から嘉永6 (1853) 年の[[マシュー・カルブレース・ペリー]]の来航まで続いた。幕府はキリスト教を[[幕藩体制]]確立に有害なものと考え,たびたび禁教令を出した。また寛永 10 (1633) 年以来,貿易取り締まりなどの諸政策を打ち出し,寛永 16 (1639) 年のポルトガル船来航禁止をもって鎖国体制を完成した。カトリック国でないオランダと中国に対し長崎にかぎって貿易を許し,両国との貿易は江戸時代を通じて行なわれた。長崎[[出島]][[オランダ商館]]は鎖国期間も近代西洋文明の窓口の役割を果たした。鎖国の効果については,[[エンゲルベルト・ケンペル]]の『鎖国論』 (1801) が紹介されて以来論じられている。
  
== 語源 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
「鎖国」という語は、江戸時代の[[蘭学]]者である[[志筑忠雄]](1760年〜1806年)が、[[1801年]]成立の『鎖国論』(写本)において初めて使用した<ref>志筑忠雄訳『鎖国論』(写本)、享和元年(1801年)</ref><ref>検夫爾著、志筑忠雄訳、黒沢翁満編『異人恐怖伝』嘉永3年(1850年)刊、3冊(鎖国論を含む印刷された最初の本)。</ref>。[[1690年]]から[[1692年]]にかけて来日したドイツ人医師[[エンゲルベルト・ケンペル]]が、帰郷後にアジア諸国に関する体系的な著作『[[廻国奇観]]』の中で日本についても論じ<ref>[https://uuair.lib.utsunomiya-u.ac.jp/dspace/bitstream/10241/9604/1/39-3-Kaempfers.pdf ケンペルの「……国を鎖している日本」論 -志筑忠雄訳「鎖国論」と啓蒙主義ヨーロッパ]渡邉直樹、宇都宮大学国際学部研究論集 no.39 p.23 -36、2015-2</ref>、死後『[[日本誌]]』([[1727年]]刊)が編集され英訳出版された<ref>''Heutiges Japan. Hrsg.'' von Wolfgang Michel und Barend J. Terwiel, 1/1, 1/2, München: Iudicium Verlag, 2001. (Textband und Kommentarband) (『今日の日本』[いわゆる『日本誌』]の原典批判版)ISBN 3-89129-931-1。</ref>。そのオランダ語第二版(1733年刊)中の巻末附録の最終章に当たる『日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理』という論文を、1800年頃に長崎の元阿蘭陀稽古通詞であった志筑忠雄が訳出した。その際、あまりに論文の題名が長いことから、翻訳本文中の適当な語を捜し、『鎖国論』と題した<ref>[[大島明秀]]著『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』ミネルヴァ書房、2009年</ref><ref group="注">ケンペルは上述の論文において、キリスト教的立場に反し、いわゆる「鎖国」体制を肯定する立場を採った。それは次のケンペルの背景を踏まえねばならない。まず、ケンペルは[[三十年戦争]]直後の荒廃した地方都市レムゴー(Lemgo)に生まれ、また、そこで遅くまで[[魔女狩り]]が残っていたことにより叔父が処刑された経験を持っており、戦争に対する思いやキリスト教に対する疑いの眼差しを持っていた。さらにケンペルは、各地を旅行することで比較文化の眼も養っていた。そのような背景を有するケンペルは、短期間の滞在(1690年〜1692年)と限られた情報源の中で、厳格な処罰により〈平和〉が保持されていた第5代将軍[[徳川綱吉]]治世の状態を誤解したことから上述の見解(論文)が生まれた。</ref>。
 
この「鎖国」はその際に新造された語だが、本は出版されず写本として一部に伝わっただけで、「鎖国」という語も広まらなかった。なお、国学者の[[平田篤胤]]が『鎖国論』を入手して『古道大意』などの著作に引用されたこと、幕末に黒沢翁満が『鎖国論』を『異人恐怖伝』に改題して自らの攘夷論を示した『刻異人恐怖伝論』(1850)を加える形で刊行されるなど、『鎖国論』そのものの社会に対する影響は小さくなかったとする見方もある<ref>大島明秀「『鎖国論』から『異人恐怖伝』へ」井上泰至 編『近世日本の歴史叙述と対外意識』(勉誠出版、2016年) ISBN 978-4-585-22152-4</ref>。
 
 
 
実際に「鎖国」という語が幕閣の間で初めて使われたのは1853年で、本格的に定着していくのは1858年以降とされている<ref>荒野泰典著『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』、東京大学出版会、1992年所収)、P212-213</ref>。さらに一般に普及していったのは明治時代以降である<ref>[[大島明秀]]著『「鎖国」という言説 - ケンペル著・志筑忠雄訳『鎖国論』の受容史』ミネルヴァ書房、2009年</ref>。したがって、いわゆる「鎖国令」とは後世の研究者による講学上の名称で、実際にそのような名称の禁令が江戸時代に発せられていたわけではない。
 
 
 
欧米では日本の外交政策については、メルビルの『白鯨』(1851)で「double-bolted」(当時の玄関ドアなどの上下にそれぞれ取り付けられた様式で、天地スライド錠を締めている)、「locked Japan」(鍵のかけられた日本)との言及があるように、「鎖国」として認識されていた。
 
<!--、それ以後はプレ徳川時代とポスト徳川時代の孤立外交も「鎖国」の名で呼ばれることになった。そのため、近年歴史学者の間では「鎖国」ではなく、他の[[東北アジア]]諸国でも見られた「海禁」に改めようとする動きがある。なお、近年の教科書においても、いわゆる鎖国や、鍵括弧つきで「鎖国」と表記することが多い。-->
 
 
 
<!--以下の意味、鎖国との関連が不明のためコメントアウト。なお、欧州において、[[オランダ東インド会社]]は、1799年に同社を解散するまで、時には日本列島の一部を時には全島を同社のチェーンランド(英;a land chain、蘭;een Land keten)として宣伝していたことが知られている。
 
--><!-- * 「日本型[[華夷秩序]]」論-->
 
== 経過 ==
 
 
 
=== 「鎖国」完成までの歴史 ===
 
「鎖国」体制は、第2代将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の治世に始まり、第3代将軍[[徳川家光|家光]]の治世に完成した。
 
 
 
*[[1612年]](慶長17年)[[幕領]]に禁教令
 
*[[1616年]]([[元和 (日本)|元和]]2年)[[明]]朝以外の船の入港を[[長崎市|長崎]]・[[平戸市|平戸]]に限定する。
 
*[[1620年]](元和6年)[[平山常陳事件]]。英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、[[元和の大殉教]]に繋がる。
 
*[[1623年]](元和9年)[[イギリス]]、業績不振のため平戸商館を閉鎖。
 
*[[1624年]]([[寛永]]元年)[[スペイン]]との国交を断絶、来航を禁止。
 
*[[1628年]](寛永5年)[[タイオワン事件]]の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える。
 
*[[1631年]](寛永8年)[[奉書船]]制度の開始。[[朱印船]]に朱印状以外に[[老中]]の[[老中奉書|奉書]]が必要となった。
 
*[[1633年]](寛永10年)「第1次鎖国令」。奉書船以外の渡航を禁じる。また、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
 
*[[1634年]](寛永11年)「第2次鎖国令」。第1次鎖国令の再通達。長崎に[[出島]]の建設を開始。
 
*[[1635年]](寛永12年)「第3次鎖国令」。中国・[[オランダ]]など外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた<ref>[http://www.nippon.com/ja/simpleview/?post_id=10558 シリーズ東アジアの中の日本の歴史〜中世・近世編〜【第4回】「四つの口」と長崎貿易――近世日本の国際関係再考のために――荒野 泰典 【Profile】]</ref>。
 
*[[1636年]](寛永13年)「第4次鎖国令」。貿易に関係のない[[ポルトガル]]人とその妻子(日本人との混血児含む)287人を[[マカオ]]へ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。
 
*[[1637年]]〜[[1638年]](寛永14年〜15年)[[島原の乱]]。幕府に武器弾薬をオランダが援助。
 
*[[1639年]](寛永16年)「第5次鎖国令」。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している<ref>[http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/19/pub_kaigai-oranda-yaku-04-ge.html 東京大学資料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之四(下)]</ref>。
 
*[[1640年]](寛永17年)マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航。徳川幕府、使者61名を処刑。
 
*[[1641年]](寛永18年)[[オランダ商館]]を平戸から出島に移す。
 
*[[1643年]](寛永20年)[[ブレスケンス号事件]]。オランダ船は日本中どこに入港しても良いとの[[徳川家康]]の朱印状が否定される。
 
*[[1644年]]([[正保]]元年)中国にて明が滅亡し、満州の[[清]]が[[李自成]]の[[順 (王朝)|順]]を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める([[日本乞師]])が、徳川幕府は拒絶を続けた。
 
*[[1647年]](正保4年)ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航。徳川幕府は再びこれを拒否。以後、ポルトガル船の来航が絶える。
 
*[[1673年]]([[延宝]]元年)[[リターン号]]事件。イギリスとの交易の再開を拒否。以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える。
 
 
 
=== 「鎖国」中の貿易(四口) ===
 
「鎖国」政策の下、外国に向けてあけられた4つの窓口を、現代になってから「四口」と呼ぶことがある(「四口」という語は1980年頃に[[荒野泰典]]が使い始めた。)<ref>兼光秀郎、「[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jis2000/2006/6/2006_6_1/_article/-char/ja/ 徳川幕府の対外政策 (鎖国) と現代の国境問題に占める意義]」 『島嶼研究』 Vol.2006 (2006) No.6 P1-19, {{doi|10.5995/jis.2006.1}}</ref>。
 
 
 
:'''長崎口:対[[オランダ]]と対[[清|清朝中国]]:[[長崎会所]]([[天領]])経由'''
 
:{{main|長崎貿易}}
 
::[[長崎市|長崎]]は幕府の[[天領|直轄地]]として幕府の管理で貿易が行われた。
 
 
 
:'''対馬口:対[[李氏朝鮮]]:[[対馬藩]]経由'''
 
::[[対馬藩]]の[[宗氏]]は[[中世]]から対朝鮮の外交、貿易の中継ぎを担ってきた。江戸時代に入っても、対馬藩にはその権限が引き続き認められ([[釜山]][[倭館]]における交易)、幕府の対朝鮮外交を中継ぎする役割を担った。
 
 
 
:'''薩摩口(琉球口):対[[琉球王国]]:[[薩摩藩]]経由'''
 
::[[薩摩藩]]が[[琉球王国]]を[[琉球侵攻|攻略]]、支配したことで、琉球を通じての貿易が認められた。
 
 
 
:'''蝦夷口:対[[アイヌ]]:[[松前藩]]経由'''
 
::[[松前藩]]の[[蠣崎氏|松前氏]]は[[蝦夷地]]で北方貿易を行ってきた。その権限は江戸時代に入っても引き続き認められ、松前藩の収入のほとんどは北方貿易によって支えられている<ref group="注">北方貿易は[[アイヌ]]との交易であるが、アイヌは[[宗谷海峡]]、[[間宮海峡]]を超えて[[シベリア]]との交易をも行っており、間接的にはシベリアにある清の出先機関と繋がっていた。</ref>。
 
 
 
「鎖国」実施以前から、幕府は貿易の管理を試みていた。[[1604年]]には[[糸割符]]制度を導入し、生糸の価格統制を行った。糸割符は[[1655年]]に廃止され、長崎では相対売買仕方による一種の自由貿易が認められて貿易量は増大したが、[[1672年]]に[[貨物市法]]を制定して金銀流出の抑制を図り、さらに[[1685年]]には[[定高貿易法]]により、金・銀による貿易決済の年間取引額を、清国船は年間銀6000貫目・オランダ船は年間銀3000貫目に限定した。のちに、これを超える積荷については、銅・俵物・諸色との物々交換による決済([[代物替]])を条件に交易を許すようになったが、[[1715年]]の[[海舶互市新例]]により代物替が原則とされた。また、定高は[[1742年]]と[[1790年]]の2回にわたり引き下げられたため、代物替による交易が中心となっていった<ref>浅田毅衛著『鎖国政策化の日本貿易』、『明大商学論叢』(第82巻第1号、2000年)、P28-p46</ref>。
 
 
 
いわゆる「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた[[松前藩]]、[[対馬藩]]や[[薩摩藩]]では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易([[抜け荷]])として行い、それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。これに対して、[[新井白石]]や[[徳川吉宗]]ら歴代の幕府首脳はこうした動きにたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、[[石見国|石見]][[浜田藩]]のように、藩ぐるみで密貿易に関わった上に、自藩の船団を仕立てて[[東南アジア]]にまで派遣していた例もあった([[竹島事件]])。<!-- また、[[万治]]年間に密航し5年間オランダで医学を学んだ[[鳩野宗巴]]のような人物もいた。(本件に関しては、それを裏付ける同時代の文献がなく、また否定的な見方の方が強いため削除)-->
 
<!-- *[[朝鮮通信使]] - [[江戸上り|琉球使節]] - [[オランダ風説書|オランダ]]・唐風説書 - 漂流民の取り調べ -->
 
 
 
「鎖国」中も幕府は[[唐船風説書]]や[[オランダ風説書]]を通じて海外の情報を受信していた。[[1840年]]の[[アヘン戦争]]発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした[[オランダ風説書#別段風説書|別段風説書]]を毎年提出するようになった。別段風説書では[[ジェームズ・ビドル]]や[[マシュー・ペリー]]の来航予告のほか、[[海底ケーブル]]敷設といった情報も伝えていた。
 
 
 
=== 「開国」までの動きと「鎖国」の終焉 ===
 
[[ファイル:Rezanov and his ship.jpg|right|thumb|350px|日本側が記録したレザノフの船と部下]]
 
18世紀後半から19世紀中頃にかけて、[[ロシア帝国]]、[[イギリス]]、[[フランス]]、[[アメリカ合衆国]]などの艦船が日本に来航し、交渉を行ったが、その多くは拒否された。しかし、[[1853年]][[7月8日]]には[[浦賀]]へ[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[マシュー・ペリー]]率いる[[黒船来航|黒船が来航し]]、翌[[1854年]][[3月31日]]には[[日米和親条約]]が締結され、終に「[[開国]]」に至った。その後、[[日米修好通商条約]]([[1858年]])を初めとする[[不平等条約]]が続々と締結され、「鎖国」は崩壊したのである。
 
 
 
*[[1778年]]([[安永]]7年)、[[ヤクーツク]]の商人[[パベル・レベデフ=ラストチキン]]が[[蝦夷]][[厚岸町|厚岸]]に到着。[[松前藩]]に、交易を求めたが拒否された。幕府には報告されず<ref>McDougall, Walter (1993). "Let the Sea Make a Noise: Four Hundred Years of Cataclysm, Conquest, War and Folly in the North Pacific." New York: Avon Books. ISBN 978-0380724673</ref>。
 
*[[1787年]]([[天明]]7年)、[[ラ・ペルーズ伯ジャン=フランソワ・ド・ガロー]]が日本近海を航海、[[千島列島]]、[[琉球列島]]を探検した。[[宗谷海峡]]の国際名称ラ・ペルーズ海峡は、彼にちなんだものである<ref>ラ・ペルーズ著『ラペルーズ 太平洋周航記 上・下』 佐藤淳二訳、岩波書店、2006年、ISBN 978-4000088589、978-4000088596</ref>。
 
*[[1791年]]([[寛政]]3年)、米国の探検家[[ジョン・ケンドリック]]が2隻の船と共に[[紀伊大島]]に到着、11日間滞在した。日本を訪れた最初の米国人<ref>Black Ships Off Japan The Story Of Commodore Perry's Expedition (1946), by Arthur Walworth</ref><ref group="注">現在、[[和歌山県]][[串本町]]の[[紀伊大島]]にはケンドリックの来航を記念した[[日米修交記念館]]がある。</ref>。
 
*ロシアによる開国要求
 
**[[1792年]](寛政4年)[[アダム・ラクスマン]]が[[大黒屋光太夫]]ら3名を連れて[[根室]]に上陸、通商交渉を求めるも徳川幕府は拒否。しかし、長崎への入港許可証である[[信牌]]を与えた。
 
**[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]]元年)9月、[[アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン]]が率いたロシアの世界一周遠征隊が[[津太夫]]ら4名を連れ、信牌を持って長崎に来航。特使[[ニコライ・レザノフ]]が交易を求め、翌年春まで幕府と交渉するものの最終的に拒否される。
 
**[[1806年]](文化3年)「文化の[[薪水給与令]]」が出される。
 
**1806年(文化3年)〜[[1807年]](文化4年)、レザノフの部下であるフヴォストフが[[樺太]]の[[久春古丹]]や[[利尻島]]、[[択捉島]]の[[番屋]]を襲撃(フヴォストフ事件、文化露寇)、[[中川五郎治]]と佐兵衛がロシアに連行される。この事件は幕府が[[蝦夷地]]防衛に乗り出すきっかけとなり、日露間の緊張が高まった。薪水給与令は1年で取り消される。
 
**[[1811年]](文化8年)[[ヴァーシリー・ゴローニン]]大尉が[[国後島]]に上陸、捕らえられその後2年間抑留された([[ゴローニン事件]])<ref>ゴロヴニン著、[[井上満]]訳『日本幽囚記』、[[岩波文庫]]全3巻、ISBN 978-4003342114、978-4003342121、978-4003342138 </ref>。
 
**[[1812年]](文化9年)8月、[[ディアナ号]]が国後島に来航する。日露間で捕虜交換交渉が行われるが、日本側の捕虜である中川五郎治と歓喜丸漂流民6名が脱走したために交渉が決裂。帰途、ディアナ号艦長{{仮リンク|ピョートル・リコルド|ru|Рикорд, Пётр Иванович}}は報復として附近を航行していた歓世丸を襲撃、[[高田屋嘉兵衛]]を拘束し、翌年6月まで抑留する。
 
**[[1813年]](文化10年)9月、ディアナ号がゴローニンの解放交渉と日本人漂流民の[[久蔵]]の送還のために[[箱館]]に来航する。なおこの時、ロシアに[[帰化]]した[[善六]]がロシア側の通訳として使節に同行していた<ref>[[大島幹雄]]著『魯西亜から来た日本人―漂流民善六物語』、[[廣済堂出版]] ISBN 4331505561</ref>。
 
*フランス革命戦争とナポレオン戦争の余波<ref group="注">[[1795年]]、オランダ本国([[ネーデルラント連邦共和国]])はフランスの侵攻により滅亡し、衛星国[[バタヴィア共和国]]が誕生した。[[オランダ東インド会社]]の日本支店に当たる[[オランダ商館]]の権利もバタヴィア共和国に移ったが、これは英国と敵対関係となることを意味し、アジア地域におけるオランダ船の航行は難しくなった。そこで[[1797年]]より[[オランダ東インド会社]]は米国船と傭船契約し、アメリカの[[セイラム_(マサチューセッツ州)#日本との繋がり|セーラム]]と米国船にて貿易を継続した。なお、当時の国際関係において米国船籍は、中立国の船として英国もその航行を認めた。但し、長崎入港時にはオランダの国旗を掲げ、名目上はオランダとの通商を行なっていることとした。[[1799年]]、[[オランダ東インド会社]]が解散すると[[オランダ商館]]は雇い主を失ない、米国船との貿易は1809年まで続いた。(詳しくは[[黒船来航]]を参照)。幕府はこのあたりの事情は理解していたが、「見て見ぬふり」をしており、本国がフランスに占領されている間(バタヴィア共和国は1806年に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の弟の[[ルイ・ボナパルト]]を王とする[[ホラント王国]]になり、さらに[[1810年]]にはフランスに完全に併合された。オランダが再独立は[[1815年]]である。)、出島のオランダ商館は世界中でオランダ国旗が掲げられている数少ない場所となっていた。</ref>
 
**[[1797年]](寛政9年)から[[1809年]]([[文化 (元号)|文化]]6年)にかけて、本国がフランスに占領されてしまったため、[[オランダ商館]]長[[ヘンドリック・ドゥーフ]]の依頼で数隻の米国船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行った<ref>K. Jack Bauer, A Maritime History of the United States: The Role of America's Seas and Waterways, University of South Carolina Press, 1988., p. 57</ref><ref group="注">[[1797年]](寛政9年)、米国船エリザ・オブ・ニューヨーク号の船長ウィリアム・スチュワート([[:en:William Robert Stewart|William Robert Stewart]])は、[[バタヴィア]]から長崎までオランダの荷物を運んだ。エリザ・オブ・ニューヨーク号は出島出港数時間後に沈没したが、引き上げられた。しかし、その後の消息は不明となった。(毎日新聞 1974年2月4日(月曜日、http://www.geocities.jp/kiemon200/219-index.html)。[[1800年]](寛政12年)、スチュワートはエンペラー・オブ・ジャパン号で長崎に入港する。しかし、オランダ商館から、エンペラー・オブ・ジャパン号はエリザ・オブ・ニューヨーク号(要するにスチュワートが船を盗んだ)であると見抜かれ、交易を拒否された上、バタヴィアの牢に入れられたが、脱獄した。</ref><ref group="注">
 
他の米国船での貿易の例は以下の通り(東京都江戸東京博物館『日米交流のあけぼの‐黒船きたる‐』、1999年発行)。
 
:*1799年、ジェームズ・デブロー船長のフランクリン号。
 
:*1800年、ウィリアム・V・ハッチングス船長のマサチューセッツ号。
 
:*1801年、ミッシェル・ガードナー・ダービー船長のマーガレット号。
 
:*1802年、ジョージ・スティルス船長のサミュエル・スミス号。
 
:*1803年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
 
:*1803年、ウィリアム・ロバート・スチュアート船長のナガサキ号。
 
:*1806年、ヘンリー・リーラー船長のアメリカ号。
 
:*1807年、ジョセフ・オカイン船長のエクリブス号。
 
:*1807年、ジョン・デビッドソン船長のマウント・バーノン号。
 
:*1809年、ジェームズ・マクニール船長のレベッカ号。
 
</ref>。
 
**[[1808年]](文化5年)、オランダと敵対関係にあった英国の帆走[[フリゲート]]・[[フェートン (帆走フリゲート)|フェートン号]]が、オランダ国旗を掲げ長崎に入港。[[フェートン号事件]]を起こす。その後も英国船出現が相次いだ。
 
[[Image:Phaeton (frigate).jpg|thumb|250px|日本人が描いた[[フェートン (帆走フリゲート)|フェートン号]]]]
 
[[Image:VincennesYedoBay1846.PNG|thumb|250px|日本人が描いた[[コロンバス (戦列艦)|コロンバス号]]と米国水兵]]
 
*[[1825年]]([[文政]]8年)、徳川幕府は[[異国船打払令]]を出し、強硬政策に転換。
 
*[[1830年]](文政13年)、徳川幕府が領有宣言をしていたものの無人島となっていた[[小笠原諸島]]の[[父島]]に[[ナサニエル・セイヴァリー]]が上陸、入植した<ref>[http://www.asjapan.org/Lectures/2003/Lecture/lecture-2003-02.htm  Asia Society of Japan, Long lecture].</ref>。
 
*[[1837年]]([[天保]]8年)商船モリソン号が[[音吉]]を含む漂流民を日本に送り届けるために浦賀に来航したが、[[異国船打払令]]に基づき日本側砲台が砲撃した([[モリソン号事件]])。この事件後、幕府内部でも異国船打払令に対する批判が強まった。
 
*[[1842年]](天保13年)[[アヘン戦争]]における[[清]]朝の敗北による[[南京条約]]の締結に驚愕した徳川幕府は、政策を転換し、遭難した船に限り給与を認める天保の[[薪水給与令]]を発令した。
 
*[[1844年]](天保15年)、フォニエル・デュプラン大佐が率いるフランス海軍の遠征隊が[[琉球王国]]に来航、通商を求めるが拒否された。しかし、テオドール・フォルカード神父と通訳が那覇に残った。
 
*1844年[[8月14日]]([[弘化]]元年7月2日)、オランダ軍艦パレンバン号がオランダ国王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]の将軍宛の親書を携えていた長崎に入港。この親書は[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]の起草によるもので、開国を求めたが幕府はこれを拒否した<ref>[[松方冬子]]著『オランダ国王ウィレム二世の親書再考 : 一八四四年における「開国勧告」の真意』、『[[史学雑誌]]』(114巻9号、2005年09月20日)、p1497-1528</ref>。
 
*[[1845年]](弘化2年)、捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、[[マーケイター・クーパー]]船長は[[浦賀]]への入港を許可され、[[浦賀奉行]]と対面した。<ref>平尾信子著『黒船前夜の出会い---捕鯨船長クーパーの来航』日本放送出版協会<NHKブックス706>、1994年。ISBN 978-4140017067</ref>。
 
*[[1846年]][[7月20日]](弘化3年閏5月27日)、[[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ東インド艦隊]]司令官[[ジェームズ・ビドル]][[代将 (アメリカ海軍)|代将]]は[[戦列艦]][[コロンバス (戦列艦)|コロンバス]]および戦闘スループ・[[ビンセンス (戦闘スループ)|ビンセンス]]を率いて、開国交渉のために浦賀に入港した。しかし、条約の締結は浦賀奉行に拒否され、数日の滞在で退去した。浦賀にアメリカの軍艦が出現したことを受けて、幕府では無二念打払令の復活が検討された。
 
*[[1846年]][[7月24日]](弘化3年6月2日)、フランスのセシル提督が長崎に来航したが上陸を拒否された。このとき、那覇に留まっていたフォルカード神父を伴っていた<ref>Polak著『絹と光: 知られざる日仏交流100年の歴史 (江戶時代-1950年代)』、婦人画報社、2002. ISBN 4-573-06210-6; ISBN 978-4-573-06210-8; [http://www.worldcat.org/oclc/50875162 OCLC 50875162]、p.19</ref>。
 
*[[1848年]](弘化5年/[[嘉永]]元年)、[[ラナルド・マクドナルド]]が、日本人に英語を教えたいと自らの意志で、遭難を装って[[利尻島]]に上陸した。その後長崎に送られ、崇福寺大悲庵に収監され、本国に送還されるまでの半年間の間、ここで通詞14人に英会話を教えた。帰国後は、日本の情報をアメリカ合衆国本土に伝えた<ref>ウィリアム・ルイス、[[村上直次郎]] 編\富田虎男 訳訂『マクドナルド「日本回想記」インディアンの見た幕末の日本』([[刀水書房]]、1981年) ISBN 4-88708-005-0
 
</ref>。
 
*[[1849年]][[4月17日]]([[嘉永]]2年3月27日)、[[ジェームス・グリン]][[大尉]]が艦長を務める米国の帆走[[スループ#スループ(軍艦)|戦闘スループ]]・プレブル([[:en:USS Preble (1839)|USS ''Preble'']])が、アメリカ捕鯨船員を救出のため長崎に来航、軍事介入の可能性をほのめかしつつ、交渉を行った。結果、船員とラナルド・マクドナルドが解放された。帰国後、グリンは米国政府に対し、日本を外交交渉によって開国させること、また必要であれば「強さ」を見せるべきとの建議を提出した。彼のこの提案は、[[マシュー・ペリー]]による日本開国への道筋をつけることとなった。
 
*[[1849年]](嘉永2年)、英国海軍のブリッグ・マリナー号が浦賀に来航し、地誌的調査を行った。マリナー号には[[音吉]]が通訳として乗艦していた。音吉は日本とのトラブルを避けるため、中国人であると偽っていた。
 
*[[1853年]](嘉永6年)[[マシュー・ペリー]]率いるアメリカ艦隊が来航。開国を要求した。[[蒸気船]]の来航はこのときが初めてであった。
 
*[[1854年]](嘉永7年/[[安政]]元年)ペリーが再来航し、[[日米和親条約]]を締結。[[下田]]と[[函館]]を開港し、鎖国が終わる。
 
*[[1858年]](安政5年)[[タウンゼント・ハリス]]と徳川幕府が[[日米修好通商条約]]を締結し、鎖国が完全に終わる。
 
 
 
なお、学問や商業目的の海外渡航が解禁されたのは[[1866年]]5月21日(慶応2年4月7日)のことであった。また、外国人の居住が自由になるのは、正式には[[内地雑居]]が認められる1899年(明治32年)7月16日である。
 
 
 
当初の「鎖国」の主目的であった「キリスト教の禁止」は、日米修好通商条約において居留地における教会建設と居留アメリカ人の信教の自由が認められたが、明治政府もしばらくは禁教政策を続けており、日本人に対する禁教が解かれたのは1873年(明治6年)であった。
 
 
 
開国後、オランダのバタビア政庁機関紙『ヤパッシェ・クーラント』が[[洋書調所]]で抄訳され、『[[活版印刷#外部リンク|官板バタヒヤ新聞]]』や『官板海外新聞』として一般、不定期に販売された。やがてアメリカの新聞をソースとする『官板海外新聞別集』が出回った。これは[[南北戦争]]の様子を挿絵つきで伝えた。
 
 
 
== 背景 ==
 
 
 
=== 南蛮貿易の開始 ===
 
[[明]]朝中国は[[海禁]]政策を採っていたが、[[日明貿易|勘合貿易]]により日明間の貿易は行われていた。しかし、[[1549年]]([[嘉靖]]28年)を最後に勘合貿易が途絶えると、両国間の貿易は密貿易のみとなってしまった。ここに登場したのが[[ポルトガル]]であった。ポルトガルは[[トルデシリャス条約]]およびサラゴサ条約によってアジアへの進出・植民地化を進め、1511年には[[マラッカ]]を占領していたが、[[1557年]]に[[マカオ]]に居留権を得て中国産品(特に[[絹]])を安定的に入手できるようになった。ここからマカオを拠点として、日本・中国・ポルトガルの三国の商品が取引されるようになった。
 
 
 
[[徳川家康]]が政権を握ると、[[オランダ]]、[[イギリス]]に親書を送り、オランダは1609年、イギリスは1613年に平戸に商館を設立した。しかしながら、両国とも中国に拠点を持っているわけではなく、日本に輸出するものはあまりなかった。結果イギリスは1623年に日本から撤退、オランダも日本への進出は商業的というよりむしろ政治的な理由であった<ref group="注">当時オランダ本国はスペインに対する[[八十年戦争|独立戦争]]を行っていたが、1608年にはイギリス・フランスの仲裁で勢力の現状維持を前提とした休戦交渉が開始された。このため、東インド会社は交渉成立以前に「現状」を拡大することが得策と考え、アジア地域の艦隊司令であったピーテル・ウィレムスゾーン・フルフーフ([[:en:Pieter Willemsz. Verhoeff|Pieter Willemsz. Verhoeff]])に可能な限り交易地域を拡大するように指令した。</ref>。なお、当時の[[スペイン]]の関心はフィリピンとメキシコ間の貿易であり、1611年に[[セバスティアン・ビスカイノ]]が使節として[[駿府]]の家康を訪れたが、貿易交渉は不調に終わっている。
 
 
 
=== キリスト教の禁止 ===
 
ポルトガル船が来航するようになると、「物」だけではなくキリスト教も入ってきた。1549年の[[フランシスコ・ザビエル]]の日本来航以来、[[イベリア半島]]([[スペイン]]や[[ポルトガル]])の[[宣教師]]の熱心な[[布教]]によって、また[[戦国大名]]や徳川幕府下の[[藩主]]にも[[キリスト教]]を信奉する者が現れたため、[[キリスト教徒]](当時の名称では「[[切支丹]]」)の数は[[九州]]を中心に広く拡大した。当時の権力者であった[[織田信長]]はこれを放任、[[豊臣秀吉]]も当初は黙認していたが、[[1587年]]に[[バテレン追放令]]を出し、1596年に[[サン=フェリペ号事件]]が発生すると、切支丹に対する直接迫害が始まった([[日本二十六聖人]]殉教事件)。
 
 
 
家康は当初貿易による利益を重視していたが、プロテスタント国家のオランダは「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたため、家康にとって積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はなくなった。また、[[1612年]]の[[岡本大八事件]]をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達、翌[[1613年]]に、キリスト教信仰の禁止が明文化された。また、国内のキリスト教徒の増加と団結は[[徳川将軍家]]にとっても脅威となり、締め付けを図ることとなったと考えるのも一般的である。ただこの後も家康の対外交政策に貿易制限の意図が全くないことからこの禁教令は「鎖国」と直結するものではないとする指摘もある<ref>[[宮本義己]]「徳川家康公の再評価」(『大日光』64号、1992年)</ref>。
 
 
 
当時海外布教を積極的に行っていたキリスト教勢力は、キリスト教の中でも専ら[[カトリック教会]]であり、その動機として、[[宗教改革]]に端を発する[[プロテスタント]]勢力の伸張により、ヨーロッパ本土で旗色の悪くなっていたカトリックが海外に活路を求めざるを得なかったという背景がある。一方、通商による実利に重きを置いていたプロテスタント勢力にはそのような宗教的な動機は薄く、特に当時、スペインからの独立戦争([[八十年戦争]])の只中にあったオランダは、自身が直近までカトリックのスペインによる専制的支配と[[宗教的迫害]]を受け続けたという歴史的経緯から、カトリックに対する敵対意識がとりわけ強かったことも、徳川幕府に対して協力的であった理由と言える。
 
 
 
とは言うものの、中国に拠点を持たないオランダやイギリスが直ちにポルトガルの代替にならない以上、ポルトガルとの交易は続けざるを得なかった。
 
 
 
なお、キリスト教に関しては、単に国内で禁止するだけでなく、海外のスペイン・ポルトガルの根拠地を攻撃する計画もあった。当時オランダ商館の次席であった[[フランソワ・カロン]]は1637年9月、[[長崎奉行]]榊原職直に対して、日蘭が同盟して[[マカオ]]、[[マニラ]]、[[基隆]]を攻撃することを提案した。その後まもなく[[長崎代官]]の[[末次茂貞]]は、商館長の[[ニコラス・クーケバッケル]]に対し、翌年にフィリピンを攻撃するため、オランダ艦隊による護衛を要請している<ref>[http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/12/pub_kaigai-oranda-yaku-03-jou.html 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之三(上)]</ref>。しかし、この計画は翌年の[[島原の乱]]で立ち消えとなった。
 
 
 
=== 島原の乱 ===
 
徳川幕府が鎖国に踏み切った決定的な事件は、[[1637年]](寛永14年)に起こった[[島原の乱]]である。この乱により、キリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、新たな布教活動が今後一切行われることのないようイベリア半島勢力を排除した。ポルトガルは1636年以降[[出島]]でのみの交易が許されていたが、1639年にポルトガルが追放されると出島は空き地となっていた。1641年、平戸のオランダ商館倉庫に「[[キリスト暦|西暦]]」が彫られているという些細な理由で、オランダは倉庫を破却し平戸から出島に移ることを強制された(ポルトガルは出島使用料を年額銀80貫払っていたが、オランダは55貫にまけさせている)。また、徳川幕府に対して布教を一切しないことを約束した<ref group="注">オランダ船は聖書や十字架など船に積んであったキリスト教関係の品を、長崎入港前に投棄していた。</ref>。しかし、島原の乱からポルトガル追放までは2年の間がある。これはオランダがポルトガルに代わって中国製品(特に絹と薬)を入手できる保証がなかったことと、日本の商人がポルトガル商人にかなりの金を貸しており、直ちにポルトガル人を追放するとその回収ができなくなることが理由であった。
 
 
 
=== 貿易の管理 ===
 
戦国時代から江戸初期にかけて、国内各地で大量に[[金]]と[[銀]](特に銀)を産出していたため、交易においてもその潤沢な金銀を用いた。他方、江戸初期においては特に輸出するものもなく圧倒的に輸入超過であり、徐々に金銀が流出していった。このため、幕府は1604年に[[糸割符]]制度を設けて絹の価格コントロールを試みた。17世紀も後半になると金銀の産出量が減り、このため1685年には貿易量を制限するための[[定高貿易法]]が定められ管理貿易に移行した。また現代的視点では、長崎の[[出島]]・[[堺]]を始めとした有力港湾を徳川幕府の直轄領([[天領]])、若しくは[[親藩]]・[[譜代大名]]領に組み入れることによって、徳川幕府による管理貿易を行い収益を独占した、という研究がある{{要出典|date=2010年11月}}。しかし、幕府は藩の直接的な貿易を禁止したが、幕府自身も直接的な貿易を行っているわけではなく、また「鎖国」成立当初において幕府が[[長崎貿易]]から利潤を得ていたわけでもない。貿易の管理・統制については、貿易都市長崎および商人を通して間接的に行っていた<ref>太田勝也著『鎖国時代長崎貿易史の研究』思文閣出版 (1992年)。ISBN 978-4784207060 </ref>。
 
 
 
=== 「鎖国」に対するオランダの認識 ===
 
「鎖国」後しばらくの間オランダは、デンマークやフランスのようなプロテスタント諸国が交易を求めてきたとしても徳川幕府がこれを拒否しないのではないか、すなわち「鎖国」は不安定ではないか、と考えていた。このため、元[[カピタン|オランダ商館長]]で滞日期間が20年を超えており[[1667年]]に[[フランス東インド会社]]の長官に就任した[[フランソワ・カロン]]が「日本との通商を求めるのではないか」と危惧している<ref group="注">実際、カロン自身はフランスと日本との交易を考えており、アジア赴任にあたっては、将軍への献上品として消防ポンプを選ぶなど([[江戸の火事|江戸に火事が多い]]ことを知っていたため)、その準備も行っていた。しかしながら、他のフランス人幹部がこれに反対したため、実現はしなかった。</ref>。また英国船[[リターン号]]が[[1673年]]に貿易再開を求めて来航した際には、事前に[[オランダ風説書]]にて英国王[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]がポルトガル王女[[キャサリン・オブ・ブラガンザ|キャサリン]]と結婚したことを幕府に対し報告することによって、オランダはその貿易再開を間接的に妨害している。ところが、18世紀の中頃になると、オランダは「日本人はオランダ人が言う海外情勢は何でも信じる」との認識をもつに至った。既にこの頃になると「鎖国」は安定し確固たるものとオランダは考え、オランダ人の貿易独占権は容易には崩れないとも考えていた<ref>[[松方冬子]]著『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』 [[中公新書]]、2010年</ref>。
 
 
 
=== 鎖国祖法観 ===
 
実現はしなかったものの、18世紀後半に蝦夷地開発に関連して[[田沼意次]]はロシアとの貿易を考慮しており、[[松平定信]]もロシアとの小規模な貿易を考えて、蝦夷地に来航した[[アダム・ラクスマン]]に[[信牌]](長崎への入稿許可証)を与えていた。この信牌を持った[[ニコライ・レザノフ]]が1804年に長崎に来航し、通商交渉が行われたが、幕府は最終的に通商を拒否した。「海外との交流を制限する体制を自己の基本的な外交政策とする」という明確な認識(鎖国祖法観)を徳川幕府自身がもったのは、この事件をきっかけにしているという説もある<ref>[[藤田覚]]著『鎖国祖法観の成立過程』(渡辺信夫編『近世日本の民衆文化と政治』、河出書房新社、1992年)。ISBN 978-4-309-22217-2</ref>。ただし、幕閣の中で「鎖国」という言葉が用いられた初出は1853年と指摘されているとおり<ref>荒野泰典著『海禁と鎖国』(荒野泰典、石井正敏、村井章介編『外交と戦争』、東京大学出版会、1992年所収)</ref>、「鎖国祖法」というのは後世の研究者による講学上の造語で、当時の資料では単に「祖法」とされている<ref>大島明秀著『「鎖国祖法」という呼称』、『文彩』第6号、2010年</ref>。
 
 
 
== 最近の研究 ==
 
1980年代になると、従来の「鎖国」概念を廃し、一連の政策は徳川幕府が中世の対外関係秩序を再編したものとする考え方が提唱された<ref>[[ロナルド・トビ|Ronald P. Toby]]: State and diplpmacy in early modern Japan: Asia in the development of the Tokugawa Bakufu. Princeton University Press, 1984. 論文著者のロナルド・トビは最近、『「鎖国」という外交』 (全集 日本の歴史 9)小学館 (2008年) ISBN 978-4096221099、を著している。</ref>。さらに2000年代に入って、〈鎖されていなかった徳川日本を「鎖国」と呼んできた歴史〉を歴史化し、それを日本人のアイデンティティと密接に関係する[[言説]]として捉え、その形成史を解明する研究が登場した<ref>大島明秀著『近世後期日本における志筑忠雄訳『鎖国論』の受容』、洋学史学会14, 1-32, 2006-03-00</ref>。また、その延長で、「鎖国」だけではなく「[[開国]]」も言説として捉え、その形成史を追究する試みも展開されている<ref>大島明秀著『「開国」概念の検討―言説論の視座から―』、『國文研究』第55号、2010年</ref>。
 
 
 
このような背景から、2017年2月には2020年度から使用される中学校の次期学習指導要領改定案から「鎖国」という表現が削除され<ref>{{Cite web|url=http://mainichi.jp/articles/20170215/k00/00m/040/042000c|title=学習指導要領「鎖国」が消えた 小中学校の社会科から|publisher=[[毎日新聞]]|date=2017-02-14|accessdate=2017-02-21}}</ref>、小学校では「幕府の対外政策」、中学では「江戸幕府の対外政策」とされる予定であるとの発表があった。しかし、パブリックコメント(意見公募)での批判が多かったことから、幕末の「開国」との関係に配慮し「鎖国などの幕府の対外政策」といった表記がなされることとなった<ref>[http://www.sankei.com/life/news/170320/lif1703200006-n1.html 次期指導要領で「聖徳太子」復活へ 文科省改定案、「厩戸王」表記で生徒が混乱 「鎖国」も復活]産経ニュース 3月20日</ref>。
 
 
 
なお、海外との交流・貿易を制限する政策は徳川[[日本]]だけにみられた政策ではなく、同時代の[[東北アジア]]諸国でも「[[海禁|海禁政策]]」が採られていたこともあり、[[現代 (時代区分)|現代]]の[[歴史学]]においては、「鎖国」ではなく、東北アジア史を視野に入れてこの「海禁」という用語を使う傾向がみられる。その理由としては、1)「鎖す」という語感が強すぎる、2)対欧米諸国の視点に基づきすぎている、3)否定的なイメージがある、があげられている。しかし、「海禁」自体の研究が十分ではないとの指摘もあり<ref>松方冬子著『オランダ風説書と近世日本』、東京大学出版会、2007年。ISBN 978-4130262156</ref>、従来の用語を変えることへの批判もある<ref>[[村井淳志]]著『この歴史用語--誕生秘話と生育史の謎を解く 「鎖国」研究主流は「鎖国」という言葉を抹殺しつつあるが、本当にそれでよいのか?--「鎖国」研究史を追跡して思うこと』、社会科教育 46(9), 116-121, 2009-09 </ref><ref>東京新聞2017年2月17日「こちら特報部」:金沢大の村井淳志教授(歴史教育・社会教育論)は、「鎖国」という言葉の歴史も踏まえ、学校教育で「幕府の対外政策」に完全に言い換えてしまうことの弊害を指摘する。「交易があった事実より、貿易が制限されていたなどを重視すべきだ。幕府が悲壮な決意でポルトガル人追放を決断したことなど、歴史のリアリティーが、言葉とともに流れてしまうとしたら残念だ」</ref>。
 
<!--(以下出典が提示されないためコメントアウト。また文化論的議論が百科事典に相応しいか疑問)
 
== 評価 ==
 
{{出典の明記|section=1|date=2009年10月}}
 
「鎖国」に対する評価はおおよそ2つに分かれる。一つは、ごく限られた場面以外に外国との交流を絶ったことで、日本独自の文化を形成し、[[自給自足]]の経済体制を構築できたとする肯定的な内容(主な論者:[[ビル・トッテン]]など)。もう一つは、外国との交流を絶ったことで、[[ヨーロッパ]](後に[[アメリカ合衆国]]も)で発達した[[産業革命]]による技術や文化を積極的に受け入れられなくなり、世界の潮流から取り残され、延いては[[太平洋戦争]]の敗北の遠因ともなってしまった、とする[[和辻哲郎]]にみられるように否定的な内容である。他にも、アジアの[[植民地化]]を狙う[[ヨーロッパ]]諸国に対して鎖国をして排除する努力をしなかった場合、[[東南アジア]]諸国と同じくヨーロッパの[[植民地]]となった可能性もある、という考え方もある。
 
 
 
最近の研究では、[[明]]朝と[[清]]朝は海洋技術が高かったことが示唆されているが、ヨーロッパ諸国と対等に渡り合えたかは不明で、末期の清朝が半植民地化されたことを考えれば、鎖国は必要だったという意見もある。故に、後進地域ができる精一杯の抵抗ではなかったか、という同情的な意見もあるが、そもそも、ヨーロッパ諸国に植民地化する気があったのならば、「鎖国」していようがいまいが大した意味はなく武力衝突となったはずである。現に、清朝は軍事的圧力により半植民地化されており、そう考えると鎖国をヨーロッパの植民地とならなかった要因とするには、根拠が弱い。また、210年以上も交流を絶ったために外交手段が解らず、[[黒船]]来航によって[[不平等条約]]を結ばされたとする批判的な意見もある。
 
 
 
その反面、[[18世紀]]以降の[[蘭学]]の流行に見られるように、ヨーロッパの植民地にならなかったアジア諸国の中で、これだけヨーロッパの学問が広まった国はない。清朝中国では、北京にキリスト教宣教師団が滞在していたが、[[中国人]]の[[華夷思想]]からか、専ら宣教師が[[中国語]]を習得し、中国人がヨーロッパの[[言語]]を学習することは少なかった。[[李氏朝鮮]]では、清朝中国から間接的に西洋の技術を採用しただけである。
 
 
 
この点、徳川日本は完全に国を閉ざしたわけではなく、ヨーロッパでもオランダとは貿易を行っており、キリスト教以外は[[オランダ語]]を通じて自由に諸外国の情勢や最新の学問を研究できた。これが、徳川時代末期の開国([[1854年]])以後、日本が急速に自主的な[[近代化]]を達成し得た基盤の一つになったといえる。又、平和が長く続いたことで国内が一体化すると共に地域産業や[[金融]]も発達し、これも現代に至る経済発展の基礎にもなった<ref group="注">[[川勝平太]]は、徳川幕府の「鎖国」による平和を「パックス・トクガワーナ」と呼んでいる。[http://www.nihonkaigaku.org/03f/i030809/kawakatu/kawakatu.html 日本海学とグローカル・ヒストリー 2003年8月9日、富山市での講演]</ref>。更に、今日世界的にもてはやされる[[日本の文化|日本文化]]のかなり多くの部分([[俳句]]、[[園芸]]、[[近世邦楽]]、[[文楽]]、[[歌舞伎]]、[[浮世絵]]、[[根付]]、[[日本料理]]、[[和菓子]]、[[陶磁器]]、[[漆器|漆芸]]、[[服飾]]など)が、この鎖国時代に生まれ、あるいは発展、確立したものである。
 
 
 
その一方で、[[朱印船]]や東南アジア日本人街に象徴される鎖国前の平和外交と、215年間([[1639年]]〜[[1854年]])もの長期に亘る鎖国を布いた[[徳川将軍家|徳川]]時代の265年間(1603年〜1868年)の反動からか;次に来た[[天皇]]時代の77年間([[1868年]]〜[[1945年]])では、世界的に類を見ない規模の[[欧化政策]]([[脱亜入欧]])と暴力的な[[帝国主義|外交]]と[[絶対君主制|内政]]が布かれ、2つ後に来た[[日米安保条約|日米安保]]時代の65年間(1945年〜2010年現在)(論理不明のため削除)現代に至るまで続く、日本人の[[排外主義]]と[[白人コンプレックス]]の礎となったと考える者もいる([[井上清 (歴史家)|井上清]]など)。明治以降にヨーロッパ至上主義と帝国主義外交が進められた為に、「白人(ヨーロッパ人)の価値観で見て汚らしい」「徳川時代以前の産物」とされた物は時代遅れとして切り捨てられることがあり、徳川時代までの日本の土着文化を自ら潰し、失われた物が少なくない。例えば今日、[[茶道]]を嗜む者はいるが、日常的に[[丁髷]](ちょんまげ)をしている者は[[力士]]以外いない。ただし、[[浮世絵]]の画家が現在では存在しないように、西洋人に評価された文化でも消滅した物はある。(例が不適切。現代のヨーロッパにおいて18世紀の髪型をしているものはいない。また一口に丁髷というが、江戸期を通じてさえも変化している)
 
 
 
なお、1854年の[[日米和親条約]]締結直後には、例えば[[横井小楠]]の発言にみられるように、外に対する「鎖国」だけではなく、国内においても[[藩]]と藩との間も「鎖国」状態であるとの批判を行う論者もみられた。
 
-->
 
<!--(李氏朝鮮の鎖国に関しては[[李氏朝鮮]]の項目により詳しく記載されている。また、本項目は日本の「鎖国」を記述しているため、他国の鎖国例として李氏朝鮮だけを取り上げるのは不自然。このためコメントアウト)
 
== 李氏朝鮮 ==
 
[[李氏朝鮮]]は、[[1636年]]の[[丙子胡乱]]以来、数世紀の間、概して事大交隣という枠の中でこの鎖国政策を固守してきた。[[興宣大院君]]が執政するや、彼は国政全般にわたって果敢に改革を断行したが、外交面では[[清|清朝]][[中国]]以外との貿易を認めない[[斥洋・斥倭]]を主張して門戸を閉じた。特に天主(キリスト)教の流入を断固として拒み、それに対する蜂起が起きることもあった。このような蜂起が起こったり、列強が門戸開放に対する要求を始めたりするや、全国に斥和碑を建てて、積極的な鎖国政策に出始めた。
 
 
 
このような大院君の強硬な姿勢に、[[欧米列強]]は[[通商]]のもくろみを断念せざるを得ず、明治時代の[[日本]]では[[征韓論]]まで台頭することになった。その結果、当時[[朝鮮半島]]を取り巻く[[国際情勢]]に門戸を開く必要がある一方、[[列強]]から[[主権]]を守らねばならないという矛盾と思える状況になった。このような矛盾は[[1875年]]([[高宗 (朝鮮王)|高宗]]12年)の[[江華島事件]]で限界に達し、やむを得ず、[[門戸開放]]の道に入ることになった。
 
-->
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
 
{{Reflist|group="注"}}
 
=== 出典 ===
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[長崎貿易]]
 
* [[広東システム]]
 
* [[孤立主義]]
 
* [[中華思想]]
 
* [[パラダイス鎖国]]
 
* [[ガラパゴス化]]
 
* [[非武装中立]]
 
* [[歴史の終わり]]([[アレクサンドル・コジェーヴ]]/[[モーリス・パンゲ]])
 
* [[侍政]]
 
* [[明治維新以前に日本に入国した欧米人の一覧]]
 
 
 
== 外部リンク ==
 
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2018/9/30/ (日) 17:24時点における最新版

鎖国(さこく)


江戸幕府がとった対外政策。日本人の海外往来禁止 (海外渡航禁止令 ) ,キリスト教禁制,朝鮮 (朝鮮通信使 ) や琉球との外交関係および中国人,オランダ人との貿易関係を除く他の外国人の日本渡航禁止による孤立状態をさす。寛永 16 (1639) 年から嘉永6 (1853) 年のマシュー・カルブレース・ペリーの来航まで続いた。幕府はキリスト教を幕藩体制確立に有害なものと考え,たびたび禁教令を出した。また寛永 10 (1633) 年以来,貿易取り締まりなどの諸政策を打ち出し,寛永 16 (1639) 年のポルトガル船来航禁止をもって鎖国体制を完成した。カトリック国でないオランダと中国に対し長崎にかぎって貿易を許し,両国との貿易は江戸時代を通じて行なわれた。長崎出島オランダ商館は鎖国期間も近代西洋文明の窓口の役割を果たした。鎖国の効果については,エンゲルベルト・ケンペルの『鎖国論』 (1801) が紹介されて以来論じられている。



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