飯塚 勝一(いいづか かついち 生年不明 - 1944年12月4日)は、日本の元アマチュア野球選手。茨城県出身。
下妻中学(現・茨城県立下妻第一高等学校)から1932年に慶應義塾大学に進み、野球をプレーした。ポジションは投手だったと伝わる。
慶大卒業後応召され、1944年12月4日に屋久島西方海上で戦死した。1932年に慶大に入学している事から、1910年代前半に生まれた物と推定されるので、30歳前後で死没したことになる。
東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている[1]。