「養蚕業」の版間の差分

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[[画像:Aoyama-rekishimura4054.jpg|thumb|160px|[[糸車]]]]
 
[[画像:Aoyama-rekishimura4050.jpg|thumb|160px|養蚕用竹かご]]
 
[[Image:Silkworm working platform.JPG|thumb|160px|養蚕台]]
 
'''養蚕業'''(ようさんぎょう)は、[[カイコ]](蚕)を飼ってその[[繭]]から生糸([[絹]])を作る[[産業]]である。[[遺伝子組み換え]][[カイコ]]を用いた医薬素材の生産や、[[カイコ]][[蛹]]を利用して[[冬虫夏草]](茸)を培養するといった新しい[[カイコ]]の活用も進んでいる。
 
  
養蚕業は蚕を飼うため[[クワ]](桑)を栽培し繭を生産する。繭を絹にするために[[製糸業|製糸]][[工場]]で繭から生糸へと[[加工]]され、生糸をさらに加工して[[絹織物]]などの[[繊維]]になる。なお、日本では蚕を使った[[タンパク質]]の[[生産]]の[[研究]]が主になっているが、培養細胞による[[タンパク質]]の生産効率の高まりとともに、蚕を用いる優位性は下がってきている。
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'''養蚕業'''(ようさんぎょう)
  
かつて養蚕業は日本の主要産業であった。しかし、[[世界恐慌]]以降の[[海外]][[市場]]の喪失、代替品の普及などで衰退していった<ref name="yamakawa">{{Cite book|和書
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おもに製糸用の繭を生産する産業。製糸,製織とともに絹業3部門の一部門。日本では絹業と農業とは農民生産のなかに統一されていたが,江戸時代に製織が,明治初期に製糸が,末期には蚕種製造が分離,養蚕だけが農業の副業部門となった。第2次世界大戦前,生糸は日本貿易の大宗として世界産額の 64% (1931) を占め,養蚕も稲作と並んで日本農業の双璧であったが,戦後,化学繊維工業の急激な発展によって生糸,蚕の地位はくずれ,1931年に 201万戸の養蚕農家は 71年には 37万戸に,68万 haの桑園は 16万 haに,29万tの産繭は 10万tに,73万俵 (1俵は 60kg) の生糸は 32万俵に激減。 71年は輸出約 1200俵に対し輸入約 13万俵,74年以後輸出は皆無となり,戦後の日本は生糸の輸入国に転化した。 90年の養蚕農家は5万 2000戸,桑園面積5万 9000ha,繭産出量2万 5000tで,なお減少傾向にある。
|author=監修 [[坂本太郎 (歴史学者)|坂本太郎]]
 
|year=1995
 
|title=日本史小辞典
 
|publisher=[[山川出版社]]
 
|isbn=4634090104}}</ref>。繭の生産は[[中華人民共和国|中国]]、[[インド]]、[[ブラジル]]などで盛んに行われている。
 
  
== 中国における養蚕 ==
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{{テンプレート:20180815sk}}
=== 歴史 ===
 
養蚕の起源は中国大陸にあり、浙江省の遺跡から紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している<ref name="jofuku84">亀山勝『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』龍鳳書房、2009年、84頁。</ref>。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている<ref name="jofuku84" />。
 
 
 
中国では養蚕技術の国外への持ち出しは固く禁じられており<ref name="jofuku84" />、特に[[秦]]による中国統一(紀元前221年)以後は統制が強くなったと考えられている<ref name="jofuku85" />。また、2週間足らずで孵化してしまう種(卵)の運搬や餌となる桑の調達などの問題もあり、長い間、養蚕技術は中国大陸の外へ出ることはなかった<ref name="jofuku84" />。朝鮮半島(楽浪郡)へ伝播したのは前漢の頃(紀元前108年頃)とされ、同じ中国でも南部の雲南省には後漢の頃に伝わった<ref name="jofuku84" />。中国からヨーロッパへの伝来は紀元後の6世紀頃とされる<ref name="jofuku84" />。
 
 
 
=== 分布 ===
 
[[浙江省]]、[[江蘇省]]、[[山東省]]などが主要な養蚕地となっている。
 
 
 
== 日本における養蚕 ==
 
=== 歴史 ===
 
[[日本]]へは[[弥生時代]]に[[中国大陸]]から伝わったとされる<ref>[http://www.pref.saitama.lg.jp/A06/BQ00/tokusan/silk/index.new.htm#埼玉県の養蚕の歴史 埼玉県の養蚕・絹文化の継承について](埼玉県農林部生産振興課)</ref>。[[秦]]による中国統一(紀元前221年)によって統制が厳しくなったことから、蚕種はそれ以前の時代に船で運ばれたと考えられており、日本が桑の生育に適していたこともあってかなり早い時期に伝来した<ref name="jofuku85">亀山勝『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』龍鳳書房、2009年、85頁。</ref>。養蚕の伝播経路については諸説ある。朝鮮半島への養蚕技術の伝播との比較などから、中国大陸(江南地方)から日本列島(北部九州)へ直接伝わったとする説<ref>亀山勝『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』龍鳳書房、2009年、85-88頁。</ref>などがある。
 
 
 
福岡県の有田遺跡(紀元前200年頃)からは平絹が出土しているが、当時の中国の絹織物とは織り方が異なることから日本列島特有の絹織物が既にあったと考えられている<ref name="jofuku84" />。記紀には[[仲哀天皇]]の4年に養蚕の記録がある<ref name="jofuku84" />。
 
 
 
[[195年]]には[[百済]]から蚕種が、[[283年]]には秦氏が養蚕と絹織物の技術を伝えるなど、暫時、養蚕技術の導入が行われた。[[奈良時代]]には全国的(東北地方や北海道など、大和朝廷の支配領域外の地域を除く)に養蚕が行われるようになり、[[租庸調]]の税制の庸や調として、絹製品が税として集められた。
 
 
 
しかしながら国内生産で全ての[[需要]]を満たすには至らず、また品質的にも劣っていたため、中国からの[[輸入]]は[[江戸時代]]に至るまで続いた。代金としての金銀銅の流出を懸念した[[江戸幕府]]は養蚕を推奨し、諸藩もが殖産事業として興隆を促進した。結果、[[幕末]]期には画期的養蚕技術の開発・発明がなされ、中国からの輸入品に劣らぬ、良質な生糸が生産されるようになった。日本が[[鎖国]]から[[開国]]に転じたのはこの時期であり、生糸は主要な[[輸出]]品となった。
 
 
 
[[明治時代]]に至り養蚕は隆盛期を迎え、良質の生糸を大量に輸出した。養蚕業・[[絹糸]]は「外貨獲得産業」として重視され<ref name="yamakawa" />、日本の[[近代化]]([[富国強兵]])の礎を築いた。[[日露戦争]]における[[軍艦]]をはじめとする近代兵器は絹糸の輸出による外貨によって購入されたといっても過言ではない。明治以降の[[皇后]]は、産業奨励のため養蚕を行い、現代にいたるまで継承している<ref>[http://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/goyousan.html 「蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」展の開催について](2014年)、[[宮内庁]]、2016年1月6日閲覧。</ref>。農家にとっても養蚕は、貴重な現金収入源であり、農家ではカイコガについては「お蚕様」と接頭辞を付けて呼称したほどである<ref>東村山ふるさと歴史館編2002『繭と糸 : 養蚕と機織の道具と信仰 : 特別展 』東村山ふるさと歴史館 </ref>。もうひとつの背景としては、同時期において[[ヨーロッパ]]でカイコの[[伝染病]]の流行により、養蚕業が壊滅したという事情もあった。[[1900年]]頃には中国を追い抜き世界一の生糸の輸出国になり、[[1935年]]前後にピークを迎える。
 
 
 
だが[[1929年]]の[[世界大恐慌]]、[[1939年]]の[[第二次世界大戦]]、そして[[1941年]]の[[太平洋戦争]]によって、生糸の輸出は途絶した。一方で[[1940年]]には絹の代替品として[[ナイロン]]が発明された。戦災もあって日本の養蚕業は、ほぼ壊滅に至る。
 
 
 
敗戦後、食料増産を優先したため養蚕業の復興は遅れたが、1950年代に[[復興]]することとなる。しかし戦前のようには輸出できず、1958年には養蚕業危機に直面し、桑園2割減反の行政措置を取られる<ref name=":0">http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/zentai.pdf</ref>など、水を差されることもあった。
 
 
 
高度経済成長によって内需が伸びてくると、1966年の日本蚕糸事業団法施行と各地での養蚕団地の取り組みなどもあり、内需に応じる形で生産が増加し、[[東京都下]]([[三多摩]])などを中心にようやく[[1970年代]]に再度のピークを迎えた<ref name=":1">{{Cite web|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/999584|title=現代蚕糸業の社会経済的性格と意義 : 持続可能な農村社会構築への示唆|accessdate=2017-11-13|author=矢口克也|date=2009-10|publisher=国立国会図書館}}</ref><ref name=":2">{{Cite web|url=http://www.maff.go.jp/kanto/seisan/engei/tokusan/sanchi/index.html|title=養蚕の動向|accessdate=2017-11-13|publisher=関東農政局}}</ref>。とはいえ、繭生産量、生糸生産量とも、1935年の半分以下に過ぎず、また1962年(昭和37年)の生糸輸入自由化<ref>http://www.maff.go.jp/j/study/sansigyou/01/pdf/data3.pdf</ref>を経て、このころには一大輸入国に転じていた<ref name=":0" />。その後、一元輸入制度導入、蚕糸業振興資金の設置等が行われるも、1973年の第一次オイルショック以降、価格の暴落・農業人口の減少・化学繊維の普及で衰退が進み、1994年(平成6年)にはWTO協定で再度自由化され、1979年には収繭量1トン以上の大規模養蚕農家だけでも15,497戸あったところ、2016年には全国の養蚕農家数は349戸にまで減少している<ref name=":1" /><ref name=":2" />。都下の養蚕業者数も全盛期の30軒<!-- 35軒? 右出典の朝日新聞記事のうろ覚え --><ref>2015年12月2?<!-- おそらく28-30日-->日[[朝日新聞]]朝刊より</ref>から2014年には6軒まで減少した。
 
 
 
数万頭の蚕の生育度合を調整して同じタイミングで上蔟(じょうぞく:蚕が繭を作り出すこと)させるなど、日本の養蚕農家には特筆されるべき技術・知恵が残っている<ref>[http://www.nhsoken.co.jp/whatis/whatis-4/ にちはら総合研究所-冬虫夏草とは]</ref>。
 
 
 
=== 分布 ===
 
日本の養蚕業の主産地として、[[南東北]]、[[北関東]]、[[甲信地方]]、[[南九州]]などがあった。繭の集散地として栄えた[[山形県]][[鶴岡市]]、[[福島県]][[梁川町]]、[[埼玉県]][[深谷市]]、埼玉県[[熊谷市]]、[[富山県]][[富山市]][[八尾町]]、[[長野県]][[上田市]]、[[愛知県]][[豊橋市]]、[[京都府]][[綾部市]]は'''蚕都'''と、[[東京都]][[八王子市]]は'''桑都'''と呼ばれた。
 
 
 
== 出典 ==
 
{{Reflist}}
 
 
 
== 関連項目 ==
 
* [[カイコ]]
 
* [[絹]]
 
* [[和服]]
 
* [[シルクロード]]
 
* [[冬虫夏草]]
 
* [[蚕箔]] - 養蚕用具
 
* [[工芸作物]]
 
* [[あんぽ柿]] - 廃業した養蚕家が選択した、後継生産品の1つ
 
* [[ジム・トンプソン (実業家)]]
 
* [[イザーク・レーフ・ホーフマン・フォン・ホーフマンスタール]]
 
* [[日本蚕糸絹業開発協同組合]] - 養蚕業の[[協同組合]]([[養蚕実行組合]])で[[絹]]の[[製造業]]。 
 
* [[大日本蚕糸会]]
 
* [[養蚕村]]
 
* [[富岡製糸場]]
 
* [[紅葉山御養蚕所]] - [[皇后]]が養蚕を行う施設。
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* [http://www4.pref.fukushima.jp/nougyou-centre/ 福島県農業総合センター]
 
* [http://www3.ocn.ne.jp/~mawataya/ 有限会社関根商店(入金真綿取扱店。養蚕や真綿の製造の解説がある)]
 
* [[日本蚕糸絹業開発協同組合 http://www.j-silk.jp/yosan_noka/yosan_noka.html/ ]] 
 
* [http://www.silk.or.jp/ 財団法人 大日本蚕糸会]
 
 
 
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養蚕業(ようさんぎょう)

おもに製糸用の繭を生産する産業。製糸,製織とともに絹業3部門の一部門。日本では絹業と農業とは農民生産のなかに統一されていたが,江戸時代に製織が,明治初期に製糸が,末期には蚕種製造が分離,養蚕だけが農業の副業部門となった。第2次世界大戦前,生糸は日本貿易の大宗として世界産額の 64% (1931) を占め,養蚕も稲作と並んで日本農業の双璧であったが,戦後,化学繊維工業の急激な発展によって生糸,蚕の地位はくずれ,1931年に 201万戸の養蚕農家は 71年には 37万戸に,68万 haの桑園は 16万 haに,29万tの産繭は 10万tに,73万俵 (1俵は 60kg) の生糸は 32万俵に激減。 71年は輸出約 1200俵に対し輸入約 13万俵,74年以後輸出は皆無となり,戦後の日本は生糸の輸入国に転化した。 90年の養蚕農家は5万 2000戸,桑園面積5万 9000ha,繭産出量2万 5000tで,なお減少傾向にある。



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