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'''高倉 健'''<ref group = "注釈">デビューした1950年代にはクレジット表記で「'''髙'''」をあてがう作品もある。</ref>(たかくら けん、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[2月16日]] - [[2014年]]〈[[平成]]26年〉[[11月10日]]
{{ActorActress
 
| 芸名 = 高倉 健
 
| ふりがな = たかくら けん
 
| 画像ファイル = Ken Takakura.jpg
 
| 画像サイズ = 250px
 
| 画像コメント = <small>国際情報社『映画情報』第31巻1月号(1966)より</small>
 
| 本名 = 小田 剛一<small>(おだ たけいち)</small>
 
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 -->
 
| 出生地 = {{JPN}}・[[福岡県]][[中間市]]
 
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]]
 
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
 
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 -->
 
| 身長 = 180 [[センチメートル|cm]]
 
| 血液型 = [[ABO式血液型|B型]]
 
| 生年 = 1931
 
| 生月 = 2
 
| 生日 = 16
 
| 没年 = 2014
 
| 没月 = 11
 
| 没日 = 10
 
| 職業 = [[俳優]]・[[歌手]]
 
| ジャンル = [[映画]]・[[テレビドラマ]]・[[コマーシャルメッセージ|CM]]
 
| 活動期間 = [[1955年]] - [[2014年]]
 
| 活動内容 =
 
| 配偶者 = [[江利チエミ]]([[1959年]] - [[1971年]])
 
| 著名な家族 =
 
| 事務所 =
 
| 公式サイト =
 
| 主な作品 = 『[[電光空手打ち]]』 『[[流星空手打ち]]』<br />『[[暴力街 (1963年の映画)|暴力街]]』 『[[日本侠客伝シリーズ]]』 <br />『[[網走番外地 (東映)|網走番外地シリーズ]]』<br />『[[昭和残侠伝シリーズ]]』<br />『[[懲役三兄弟]]』 『[[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]]』<br />『[[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]]』 『[[三代目襲名]]』<br />『[[ザ・ヤクザ]]』 『[[新幹線大爆破]]』<br />『[[君よ憤怒の河を渉れ]]』 『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』<br />『[[幸福の黄色いハンカチ]]』 『[[冬の華]]』<br />『[[野性の証明]]』 『[[動乱 (映画)|動乱]]』<br />『[[遙かなる山の呼び声]]』 『[[駅 STATION]]』<br />『[[南極物語]]』 『[[ブラック・レイン]]』<br />『[[鉄道員 ぽっぽや|鉄道員(ぽっぽや)]]』 『[[あなたへ]]』
 
| アカデミー賞 =
 
| AFI賞 =
 
| 英国アカデミー賞 =
 
| エミー賞 =
 
| グラミー賞 =
 
| ゴールデングローブ賞 =
 
| ゴールデンラズベリー賞 =
 
| ゴヤ賞 =
 
| ジェミニ賞 =
 
| セザール賞 =
 
| 全米映画俳優組合賞 =
 
| トニー賞 =
 
| 日本アカデミー賞 = '''最優秀主演男優賞'''<br />[[1977年]]<br />『幸福の黄色いハンカチ』 『八甲田山』<br />[[1981年]]<br />『動乱』 『[[遥かなる山の呼び声]]』<br />[[1982年]]<br />『[[駅 STATION]]』<br />[[2000年]]<br />『鉄道員(ぽっぽや)』
 
| ブルーリボン賞 = '''主演男優賞'''<br />1977年<br />『幸福の黄色いハンカチ』『八甲田山』<br />[[1999年]]<br />『鉄道員(ぽっぽや)』
 
| ローレンス・オリヴィエ賞 =
 
| その他の賞 = '''[[モントリオール世界映画祭]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />'''[[キネマ旬報賞]]'''<br />'''主演男優賞'''<br />1977年<br />『幸福の黄色いハンカチ』 『八甲田山』<br />1999年<br />『鉄道員(ぽっぽや)』<hr />[[1998年]]<br />[[褒章#紫綬褒章|紫綬褒章]]<br />[[2006年]]<br />[[文化功労者]]<br />[[2013年]]<br />[[文化勲章]]
 
| 備考 =
 
}}
 
'''高倉 健'''<ref group = "注釈">デビューした1950年代にはクレジット表記で「'''髙'''」をあてがう作品もある。</ref>(たかくら けん、[[1931年]]〈[[昭和]]6年〉[[2月16日]] - [[2014年]]〈[[平成]]26年〉[[11月10日]])は、[[日本]]の[[俳優]]・[[歌手]]。愛称、健さん。[[福岡県]][[中間市]]出身<ref name=meikan>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/meikan/ta/takakuraken.html |title=高倉健 〜タレント名鑑〜 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex 芸能 |publisher=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2014-11-09 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141123064432/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/meikan/ta/takakuraken.html |archivedate=2014-11-23}}</ref>、身長180[[センチメートル|cm]]<ref name = "タレント名鑑">{{Cite web |url=http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp11487 |title=高倉 健 - プロフィール |work=YAHOO! JAPAN 人物名鑑 |publisher=YAHOO! JAPAN |accessdate=2013-08-23 |archiveurl=https://archive.is/20120717015836/http://talent.yahoo.co.jp/pf/profile/pp11487 |archivedate=2012-07-17|deadlinkdate=2016年12月}}</ref>、体重71[[キログラム|kg]]、[[ABO式血液型|血液型]]は[[ABO式血液型|B型]]<ref name = "タレント名鑑" />。高倉プロモーション所属。[[1998年]]に[[紫綬褒章]]、[[2006年]]に[[文化功労者]]、[[2013年]]には[[文化勲章]]を受章した。
 
  
== 生涯 ==
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映画俳優。本名小田剛一。1954年明治大学商学部を卒業。1955年[[東映]]に入社し,『電光空手打ち』(1956)の主役でデビュー。任侠映画「人生劇場・飛車角」(1963~64)シリーズを経て,「日本侠客伝」(1964~71),「網走番外地」(1965~67),「昭和残侠伝」(1965~72)などの任侠シリーズに主演してトップスターとなる。1976年に東映を退社。その後,『八甲田山』(1977),『幸福の黄色いハンカチ』(1977),『冬の華』(1978),『駅 STATION』(1981),『鉄道員(ぽっぽや)』(1999,モントリオール世界映画祭主演男優賞),『あなたへ』(2012)など多くの話題作に主演した。『燃える戦場』Too Late The Hero(1969)でハリウッド映画に初出演したのち,リドリー・[[スコット]]監督の『ブラック・レイン』Black Rain(1989),[[チャン・イーモウ(張芸謀)]]監督の『単騎,千里を走る。』(2005)など海外作品でも活躍。1998年紫綬褒章を受章,2006年文化功労者に選ばれ,2013年文化勲章を授与された。
=== 俳優になるまで ===
 
[[1931年]][[福岡県]][[中間市]]の裕福な一家に生まれる。父は[[大日本帝国海軍|旧海軍]]の軍人で、炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた<ref name = "sonny">{{Cite book |和書 |author=[[千葉真一|JJサニー千葉]] |date=2010-09 |title=千葉流 サムライへの道 |publisher=[[ぶんか社]] |pages=154 - 171 |isbn=978-4-8211-4269-9}}</ref>。母は[[教員]]だった。幼少期の高倉は、肺を病み、虚弱だった。[[終戦の日|終戦]]を迎えた中学生の時、アメリカ文化に触れ、中でも[[ボクシング]]と[[英語]]に興味を持った<ref name = "sonny" />。学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、戦績は6勝1敗だった<ref name = "sonny" />。英語は[[小倉市|小倉]]の[[アメリカ軍|米軍]]司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代には[[ESS]]部を創設して英語力に磨きをかけた<ref name = "sonny" />。[[福岡県立東筑高等学校|旧制東筑中学]]、[[福岡県立東筑高等学校]]全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して[[明治大学]][[商学部]]商学科へ進学。在学中は相撲部のマネージャーを1年間務めていた。
 
  
[[1955年]]に大学時代の知人のつてで、当時、[[美空ひばり]]が所属していた[[福島通人|新芸プロ]]のマネージャーになるため喫茶店で面接を受けたが、居合わせた[[東映東京撮影所]]の所長で[[映画プロデューサー]]・[[マキノ光雄]]にスカウトされ、[[東映ニューフェイス]]第2期生として[[東映]]へ入社。[[マキノ雅弘]]は「高倉は[[山本麟一]]と同じ、高倉の明大の先輩で東映のプロデューサーだった光川仁朗の口利きで東映入りした」と話している<ref>{{Cite journal |和書  |issue=1981年3月4日号 |title=マキノ雅裕の映画界内緒ばなし(9) |journal=[[週刊文春]] |publisher=[[文藝春秋]] |page=78}}</ref>。同期には[[今井健二]]、[[丘さとみ]]、岡田敏子、[[五味龍太郎]]らがいた。
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{{テンプレート:20180815sk}}
 
 
=== 主演スター ===
 
ニューフェイスは映画デビューまでに[[俳優座]]演技研究所で6か月の基礎レッスン、さらに東映の撮影所で6か月の修行(エキストラ出演など)を経験することが決められていたが、俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と云われる落ちこぼれだったという<ref name="文化勲章受章コメント">{{Cite news |title=「人生を愛する心、養い続けたい」文化勲章の高倉健さん |url=http://www.asahi.com/articles/TKY201310250062.html |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2013-10-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131026012652/http://www.asahi.com/articles/TKY201310250062.html |archivedate=2013-10-26 |accessdate=2014-01-19}}</ref>。しかし採用から1か月半で主役デビューが決定、その際にマキノの知人から「高倉健」と芸名をつけられる。本人はシナリオに書かれてあった主人公の役名「忍勇作」が気に入り、「これを芸名に」と希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューともなった。演技経験も皆無で、親族に有名人や映画関係者がいるわけでもない無名の新人だったが、翌[[1956年]]の映画『[[電光空手打ち]]』で主役デビュー。元々俳優を目指していた訳ではなかったことから、初めて顔に[[ドーラン]]を塗り、化粧をした自分を鏡で見た時、情けなくて涙が止まらなかったという。その後、[[アクション映画|アクション]]・[[喜劇]]・[[刑事ドラマ|刑事]]・[[ギャング映画|ギャング]]・[[青春映画|青春もの]]・[[戦争映画|戦争]]・[[文学|文芸作品]]・[[ミステリ映画|ミステリ]]など、幅広く[[現代劇]]映画に出演し、この頃から主演スターの一人として活躍し、[[1960年代]]前半まで[[時代劇]]映画をメインにしていた東映では、[[片岡千恵蔵]]・[[萬屋錦之介|中村錦之助]]・[[美空ひばり]]の映画などにも[[助演]]していた。また、自らを厳しく律して[[酒]]を飲まず、[[筋力トレーニング]]を続けていた。
 
 
 
=== 仁侠映画 ===
 
[[1963年]]に出演した『[[人生劇場 飛車角]]』以降、[[ヤクザ映画|仁侠映画]]を中心に活躍<ref name="toeininkyo">{{Cite web |url=http://www.toei.co.jp/annai/brand/ninkyo/index.html |title=歴史([[任侠]]・実録) |publisher=東映株式会社 |accessdate=2013-04-24}}<br />{{Cite web |url=http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000003244 |title=人生劇場 飛車角 |work=東映チャンネル |publisher=東映衛星放送 |accessdate=2016-10-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130706213835/http://www.toeich.jp/?act=program-detail&info_id=1TT000003244 |archivedate=2013-07-06}}</ref><ref name="沢島&吉田">{{Cite web |url=https://ja-jp.facebook.com/notes/%E6%9D%B1%E6%98%A0%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE/%E7%A7%81%E3%81%A8%E6%9D%B1%E6%98%A0-%EF%BD%98-%E6%B2%A2%E5%B3%B6%E5%BF%A0%E5%90%89%E7%94%B0%E9%81%94%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E5%85%A82%E5%9B%9E/315508851797110 |title=『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回) |work=東映株式会社 |publisher=Facebook |date=2011-11-08 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110510-773480.html |title=鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2011-05-10 |accessdate=2016-10-08}}</ref><ref name="livedoor5603687">{{Cite news |url=http://news.livedoor.com/article/detail/5603687/ |title=″日本映画界最後の大スター″高倉健 相次ぐ知人の訃報で引きこもりに? |newspaper=livedoor NEWS |agency=日刊サイゾー |publisher=LINE |date=2011-06-02 |accessdate=2016-10-08}}</ref>、耐えに耐えた末、最後は自ら死地に赴くやくざ役を好演し、ストイックなイメージを確立した<ref name="sportsnews">{{Cite news |url=http://www.sankei.com/entertainments/news/141118/ent1411180005-n1.html |title=俳優の高倉健さんが死去 83歳 悪性リンパ腫 |newspaper=産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2014-11-18 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/19/kiji/K20141119009310990.html |title=健さん人気を不動にした任侠映画 ファン熱狂「死んでもらいます」 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date= 2014-11-19 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite news |url=http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014111802000252.html |title=高倉健さん死去 孤高、不器用男の美学 |newspaper=東京新聞 TOKYO Web |publisher=中日新聞社 |date=2014-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141120213122/http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014111802000252.html |archivedate=2014-11-20}}</ref>。本作を切っ掛けに、翌[[1964年]]から始まる『[[日本侠客伝シリーズ]]』、[[1965年]]から始まる『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』シリーズ、『[[昭和残侠伝シリーズ]]』などに主演し東映の看板スターとなる<ref name="toeininkyo" /><ref name="sportsnews" /><ref name="sankeiwest">{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130823/wlf13082307010001-n1.htm |title=【戸津井康之のメディア今昔(2)】日本映画を救った「仁義なき戦い」…“起死回生”の陰に「映画づくりの情熱」p1 |newspaper=MSN産経west |publisher=産経デジタル |date=2013-08-23 |accessdate=2016-10-08}}</ref><ref name="zakzak20110511">{{Cite news |url=http://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20110511/enn1105111250012-n1.htm |title=東映・岡田茂名誉会長しめやかに通夜 健さんは弔電 |newspaper=ZAKZAK |publisher=産経デジタル |date=2011-05-11 |accessdate=2016-10-08}}</ref>。『網走番外地』シリーズの主題歌(同タイトル)は、のちに歌詞の一部が反社会的であるとの理由で一時は[[放送禁止歌]]になったが公称200万枚を売り上げ<ref>[[長田暁二]] 『歌謡曲おもしろこぼれ話』 [[社会思想社]]、[[2002年]]、204頁、ISBN 4-390-11649-5。</ref>、[[1966年]]には『昭和残侠伝』シリーズの主題歌『唐獅子牡丹』も大ヒットし、今も、[[カラオケ]]などで歌い継がれている{{refnest|group="注釈"|高倉はこの曲を気持ちよく歌った事が1度も無いという。東映時代、年4回ほど[[キャバレー]]での営業を指示されていた。嫌々ステージに上がると、酔客の歓声や罵声の中、ホステスが感激のあまり失神する騒ぎが起こる…などの経験から、以来、キャバレー営業はできるだけ断っていたという。しかし、映画1本の[[ギャランティー|ギャラ]]が80万円のところ、キャバレーの1ステージは500万円と破格で、「お金を残そうと思ったら、キャバレー回りをしてたでしょうね。それで今頃は映画を作ってたかも知れませんね。」と語っている。また、映画『あ・うん』の時には撮影中、母親が死去し、周囲には一切伝えずに撮影に参加し続けたが、ある日の事、滞在先の旅館の大型モニターを使って「特報」や「予告編」のスタッフ試写が行われ、その後はスタッフのカラオケ大会となったが、高倉はとても加わる気になどなれなかった。しかし[[仲居]]が要らぬ気を利かせ、この曲を予約。「入ってますから」と声をかけられ、この上なく切ない気持で嫌々歌ったのも印象深いと語っている<ref>[[2012年]][[8月26日]]『日曜邦画劇場』([[日本映画専門チャンネル]])、「高倉健ロングインタビュー」での高倉の証言{{出典無効|title=検証できません。|date=2016年10月}}</ref>{{出典無効|title=検証できません。|date=2016年10月}}。}}。
 
 
 
[[70年安保]]をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に、「鍛えられた体の背筋をピンと伸ばし、寡黙であり、不条理な仕打ちに耐え、言い訳をせずに筋を通し、ついには復讐を果たす」という高倉演じる主人公は、[[サラリーマン]]や[[日本の学生運動|学生運動]]に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を集め、オールナイト興行にまでファンが溢れ、立ち見が出たほどであった。他のスターとは一線を画した印象を示したことが、大ヒットシリーズ連発の一因であったが<ref name="toeininkyo" />、本人は年間10本以上にも及ぶ当時のハードな制作スケジュール、毎回繰り返される同じようなストーリー展開、という中で心身ともに疲弊し、気持ちが入らず不本意な芝居も多かったという。そうした中で、何度か自ら映画館に足を運んだ際、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、強い衝撃を受けたという。これについて「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね。」と、当時の様子を客観視し語っている<ref group="注釈">任侠映画の役作りについて「想像を一生懸命かきたててね。僕の(生まれ育った)町は『川筋』って(呼ばれるような)炭鉱町で乱暴な町だったのね。毎年、お盆の盆踊りのあった後って、必ず殺人があってね。朝、学校行く時、必ずそういう…ムシロがかけてあったりね。そういうのいっぱい見ましたよ、うん。だから僕は品のいい京都とかで生まれて育ってたら、とてもヤクザものはできてないでしょうね。」出身地の土地柄、気風、身近だった光景など、少なからず影響している事を語っている。『川筋』という俗称は北九州地区でかつての炭鉱労働者やその運搬に関わる港湾労働者、そうした人々の住んでいた地域などをさす言葉。川筋者とは俗に「頑固な荒くれ者、そうした気質」を言う。</ref>。当時の風貌は、[[劇画]]『[[ゴルゴ13]]』の主人公・[[デューク東郷]]のモデルにもなり、同作の実写映画版への出演は、原作者の[[さいとう・たかを]]たっての要望であったという<ref group="注釈">詳細は『[[ゴルゴ13 (1973年の映画)]]』の項を参照。</ref>。
 
 
 
60年代半ばの任侠映画ワンパターン量産体勢は高倉を疲弊させ、結果的に気持ちが入らない不本意な演技が見られるようになった<ref name="健さんを探して112" >[[#健さんを探して]]、112-115頁。</ref>。高倉の後ろ盾だった[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]、[[俊藤浩滋]]、マキノ雅弘の3人が揃って「[[マンネリズム|マンネリ]]を怖れるな」の考え方で作品作りに取り組み、『[[昭和残侠伝シリーズ]]』のプロデューサー・吉田達は岡田から「[[映画評論|批評家]]連中は同じパターンが3本続けばあくびをする。けど観客の顔を見てみろ。まだまだワクワクドキドキしてる。(興行的に)コケたらやめればいい。コケるまでは続けろってことだ」と繰り返し「マンネリ上等」の話を聞かされた<ref name="健さんを探して112" />。高倉がそれでも「定番」を演じ続けたのは、劇場で目の当たりにした観客の反応があったからである<ref name="健さんを探して112" />。
 
 
 
=== 独立 ===
 
映画『[[カミカゼ野郎 真昼の決斗]]』 ([[1966年]]、[[文芸プロダクションにんじんくらぶ|にんじんプロダクション]] / 國光影業) を皮切りに、[[ハリウッド映画]]や東映以外の作品にも出演していたが、[[1970年]]に「[[ヤクザ映画]]にも出演し続けるが、好きな映画を作る自由も認めてほしい」と、東映社長・[[大川博]]の了承をもらい、高倉プロを設立する<ref name="サンデー毎日1972" >{{Cite journal |和書 |issue=1972年11月12日号 |title=悪化する高倉健と東映のいがみ合い |journal=[[サンデー毎日]] |publisher=[[毎日新聞社]] |page=50}}<br />{{Cite journal |和書 |issue=1972年12月10日号 |journal=サンデー毎日 |publisher=毎日新聞社 |pages=26-29}}<br />{{Cite journal |和書 |issue=2015年7月23日号 |title=高倉健 特別手記『男の人生を語らせてもらいます』 |journal=サンデー毎日が伝えた一億人の戦後70年 |publisher=毎日新聞社 |pages=104-106}}</ref><ref name="孤高の生涯下125" >{{Cite book |和書 |title=小説 高倉健 孤高の生涯 |volume=下(流離編)|author=嶋崎信房 |publisher=音羽出版 |date=2015-01-10 |isbn=978-4-901007-61-0 |pages=125-131 |ref=孤高の生涯下}}</ref>。しかし翌[[1971年]]8月に大川が死去。社長が[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]に代わり、特例は認めないと反故にされた<ref name="サンデー毎日1972" /><ref>[[#孤高の生涯下]]、140-144、150、179頁。</ref>。
 
 
 
この間、1970年に自宅が全焼する。
 
 
 
[[1972年]]11月、高倉の海外旅行が「高倉健 蒸発」「仕事を放り出して蒸発することで、高倉プロを認めさせる最後の手段に出た」と報道された<ref name="サンデー毎日1972" /><ref name="健さんを探して171" >[[#健さんを探して]]、171-176頁。</ref>。帰国した高倉は「僕はそんな手段を使って、会社とやり合うようなケチな根性は持ってない」と説明したものの<ref name="サンデー毎日1972" /><ref name="健さんを探して171" />、[[1973年]]には『[[仁義なき戦い]]』がヒットすると<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130823/wlf13082307010001-n3.htm |title=【戸津井康之のメディア今昔(2)】日本映画を救った「仁義なき戦い」…“起死回生”の陰に「映画づくりの情熱」p3 |newspaper=産経WEST |publisher=産経デジタル |date=2013-08-23 |accessdate=2016-10-08 |deadlinkdate=2018-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130826032759/http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130823/wlf13082307010001-n3.htm |archivedate=2013-08-23}}<br />{{Cite web |url=http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/keyword/article.aspx?id=MMACzf002002092014 |title=終戦直後の広島県を舞台にした『仁義なき戦い』 - ことばアップデート |work=NIKKEI STYLE 日経Bizアカデミー |publisher=日本経済新聞社、日経BP社 |date=2014-09-02 |accessdate=2016-10-08 |deadlinkdate=2018-08-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129030053/http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/keyword/article.aspx?id=MMACzf002002092014 |archivedate=2014-11-29}}</ref>、岡田は「[[鶴田浩二]]も高倉健もしばらく止めや」<ref>{{Cite web |url=http://www.asagei.com/28944 |title=追悼・高倉健 銀幕を共にした盟友が語る「高倉健」という人物(3)石倉三郎は役者としての気概を教えられた |work=アサ芸プラス |publisher=徳間書店  |date=2014-12-04 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite book |和書 |title=任侠映画伝 |author=[[俊藤浩滋]] |author2=[[山根貞男]] |publisher=講談社 |date=1999-02 |page=228 |isbn=4-06-209594-7 |ref=任侠映画伝}}</ref><!-- <ref>{{Cite book |和書 |title=あかんやつら 東映京都撮影所血風録 |author=春日太一 |publisher=[[文藝春秋]] |date=2013-11-14 |page=324 |isbn=4-1637-68-10-6}} -->と[[ヤクザ映画#東映実録路線|実録路線]]に変更したため<ref name="健さんを探して171" /><ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/articles/ASGD1560BGD1ULZU006.html |title=実録と虚構、対照的ヤクザ像 菅原文太さんと高倉健さん |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2014-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141201163150/http://www.asahi.com/articles/ASGD1560BGD1ULZU006.html |archivedate=2014-12-01}}<br />{{Cite news |url=http://www.iza.ne.jp/topics/entertainments/entertainments-5585-m.html |title=菅原文太さん死去 昭和の名優がまた… |newspaper=iza |publisher=産経デジタル |date=2014-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141203150212/http://www.iza.ne.jp/topics/entertainments/entertainments-5585-m.html |archivedate=2014-12-03}}<br />{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/12/01/kiji/K20141201009383470.html |title=健さん、文太さん 任侠映画2巨頭 別々の道を歩んでともに逝く |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-12-01 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite journal |和書 |issue=1981年9月3日号 |title=マキノ雅裕の映画界内緒ばなし(1) |journal=[[週刊文春]] |publisher=[[文藝春秋]] |pages=139-142}}<br />{{Cite book |和書 |title=シネマの極道 映画プロデューサー一代 |author=日下部五朗 |publisher=[[新潮社]] |date=2012-12 |isbn=978-4-10-333231-2 |pages=94-95}}<br />[[#孤高の生涯下]]、164-170頁。</ref>、高倉と岡田の関係は悪化<ref name="任侠映画伝">[[#任侠映画伝]]、224-232頁。</ref><ref name="岡田茂自伝">{{Cite book |和書 |title=波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝 |author=岡田茂 |authorlink=岡田茂 (東映) |publisher=[[角川書店]] |date=2004-06 |chapter=鶴田浩二と高倉健 |isbn=4-04-883871-7}}</ref>。「このまま東映にいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感も加わり<ref>{{Cite journal |和書 |date=2011-05-19 |title=岡田茂元東映会長の葬儀を欠席した健さん流“弔い方”|journal=[[週刊文春]]  |issue=2011年5月26日号 |page=53 |publisher=[[文藝春秋]] |url=http://shukan.bunshun.jp/articles/-/865 |accessdate=2013-08-06 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121031112604/http://shukan.bunshun.jp/articles/-/865 |archivedate=2012-10-31}}</ref>、東映作品の出演を拒みだすようになってしまう<ref name="サンデー毎日1972" />。そんな矢先に当時海外で流行中だった[[パニック映画]]に触発され東映が企画していた大作『[[新幹線大爆破]]』の台本を手にする。本作の企画の面白さに高倉は新幹線に爆弾を取り付ける犯人グループの主犯・沖田哲男役を希望し本作の主演を務めることとなる。高倉がこれまで演じてきた役柄とは大きく異なるキャラクターではあったが、従来のイメージを一新するステップアップ作となり、また海外にも輸出され本作は[[ヨーロッパ]]で空前の大ヒット作となる。その後、高倉は1976年に東映を退社した<ref name="任侠映画伝" /><ref name="岡田茂自伝" /><ref>[[#孤高の生涯下]]、192-198頁。</ref>。東映を出たら俳優を続けることはできないかもしれないと、引退する覚悟だけはしていた<ref>{{Cite book |和書 |author=[[白井佳夫]] |title=対談集 銀幕の大スタアたちの微笑 |origdate=2010-5-21 |edition=第1刷 |publisher=[[日之出出版]] |isbn=978-4-89198-133-4 |pages=226-227 |chapter=対談 高倉健 }}</ref>。岡田茂は『[[創 (雑誌)|月刊創]]』1977年5月号のインタビューで、東映スターの契約状況を聞かれ、「[[鶴田浩二|鶴田(浩二)]]はフリーですよ。いまは。高倉は本数契約ですがネ。[[菅原文太|菅原(文太)]]は完全に東映専属の俳優です」と答えている<ref>{{Citation |title=【ざっくばらん対談】ー異色経済人登場 映画界のあばれん坊 岡田茂(東映社長) ホスト勝田健|magazine=[[創 (雑誌)|月刊創]]|number=1977年5月号|publisher=創出版|page=198頁}}</ref>。
 
 
 
フリー転向後、同年の映画『[[君よ憤怒の河を渉れ]]』(永田プロ / [[大映]]) にて主演。10年以上、出演し続けた仁侠映画のイメージから脱却した。[[1977年]]には『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』、『[[幸福の黄色いハンカチ]]』の2作品に主演し、[[第1回日本アカデミー賞]]の最優秀主演男優賞と、第20回[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]]の主演男優賞のダブル受賞に輝いた。これ以後も数々の作品に出演し、合計4度の[[日本アカデミー賞]]の最優秀主演男優賞、2度のブルーリボン賞の主演男優賞に輝いている。これと前後して[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]や[[中国映画]]などの海外作品にも出演しており、[[1998年]]には[[紫綬褒章]]を受章した。一方で[[テレビドラマ]]への出演は[[1977年]]の初主演作『[[あにき]]』をはじめ、5作品である<ref>{{Cite web |url=http://www.tvdrama-db.com/name/p/key-%E9%AB%98%E5%80%89%E3%80%80%E3%80%80%E5%81%A5 |title=高倉 健 - テレビドラマ人名録 - |publisher=[[テレビドラマデータベース]] |accessdate=2014-01-29}}  ※ただし表記8件中、1件はバラエティ番組。2件は「俳優・高倉健志」の出演作。</ref>。その出演理由も「故郷にいる母親に、テレビで毎週自分の顔を見て安心して欲しいから」というものである。[[コマーシャルメッセージ|CM]]にも数多く出演しているが、[[富士通]]のパソコン[[FMV]]のCMでは『幸福の黄色いハンカチ』で夫婦を演じた[[倍賞千恵子]]と再び夫婦役で共演、コミカルな演技を見せた。1989年7月に母親が死去するが、『あ・うん』の撮影中だった高倉は、スタッフの葬儀参加のすすめをことわり、そのまま映画撮影に参加を続けた。
 
 
 
[[1994年]]前後にハリウッド映画『[[ブラック・レイン]]』で一緒に仕事をしていた[[ヤン・デ・ボン]]がハリウッド版『[[GODZILLA|ゴジラ]]』の監督に就任した際に劇中に登場する日本人科学者役を高倉にオファーし快諾、ハリウッドに渡米してスクリーンテスト撮影を行い日本のメディアでも報じられるなど出演する準備を整えていた。しかし当時の制作会社だった[[トライスター・ピクチャーズ]]が制作予算の懸念からヤン・デ・ボンを監督から降ろす処置を取ったため高倉も出演を取りやめている。
 
 
 
[[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]・男優編」で日本男優の4位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第2位になった。
 
 
 
[[2006年]][[4月2日]]の『[[THE世界遺産|世界遺産]]』(TBS)で初めてナレーションを務めた。
 
 
 
=== 晩年 ===
 
[[2006年]]4月に[[北京電影学院]]の[[客員教授]]に就任。同年11月に行われた天皇・皇后両陛下主催の[[文化勲章]]受章者・[[文化功労者]]を招いたお茶会に出席<ref name = "大原麗子">{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100804-661631.html |title=健さんがお忍びで大原麗子さんの墓掃除 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2010-08-04 |accessdate=2014-01-19 |archiveurl=http://archive.is/lYyYI |archivedate=2013-06-30}}</ref>。
 
 
 
[[2012年]]8月、前作『[[単騎、千里を走る。]]』から6年ぶり、205本目の主演作品となる映画『[[あなたへ]]』で銀幕復帰。[[11月27日]]、本作により「第37回[[報知映画賞]]」主演男優賞を受賞した。高倉の同映画賞での受賞は[[1977年]]に『[[八甲田山 (映画)|八甲田山]]』、『[[幸福の黄色いハンカチ]]』で主演男優賞を受賞して以来、35年ぶりである<ref>{{Cite news |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20121127-OHT1T00088.htm |title=健さん「感無量です」35年ぶり主演賞…第37回報知映画賞・主演男優賞 |newspaper=シネマ報知 |publisher=報知新聞社 |date=2012-11-27 |accessdate=2014-01-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130508220849/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20121127-OHT1T00088.htm |archivedate=2013-05-08}}</ref>。本作では[[12月6日]]に発表された「第25回[[日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞]]」でも主演男優賞を受賞。作品は石原裕次郎賞を受賞した。[[2013年]][[1月22日]]に発表された[[日本アカデミー賞]]優秀主演男優賞にも選出されたが、「若い人に譲りたい」との理由で、これは辞退している。受賞辞退は[[2002年]]の『[[ホタル (映画)|ホタル]]』以来2度目となる。[[10月10日]]には「五十有余年におよぶ活躍と、孤高の精神を貫き、独自の境地を示す映画俳優としての存在感」により、第60回 [[菊池寛賞]]に選出された。授賞式は欠席し、代理人を通じて「思いがけない受賞で驚いています。非常に光栄です。ありがとうございます」とのコメントを寄せた<ref>{{Cite web |url=http://www.bunshun.co.jp/award/kikuchi/list1.htm|title=菊池賞受賞者一覧 - 第60回(2012)|publisher=[[文芸春秋]] |date=2012-10-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131204031631/http://www.bunshun.co.jp/award/kikuchi/list1.htm|archivedate=2013-12-04|accessdate=2013-12-04}}<br />{{Cite news |title=「第60回菊池寛賞」授賞式に伊調馨ら出席 高倉健、式欠席も喜びのコメント |url=http://www.oricon.co.jp/news/2019449/full/ |newspaper=ORICON STYLE |publisher=オリコン |date=2012-12-07 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140119013336/http://www.oricon.co.jp/news/2019449/full/ |archivedate=2014-01-19 |accessdate=2014-01-19}}</ref>。
 
 
 
[[2013年]][[10月25日]]、政府は高倉を含む5人に[[文化勲章]]を授与することを決定<ref>{{Cite news |title=高倉健氏ら5人に文化勲章 文化功労者に15人 |url=http://www.asahi.com/articles/TKY201310250020.html?ref=reca |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2013-10-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131026123456/http://www.asahi.com/articles/TKY201310250020.html?ref=reca |archivedate=2013-10-26 |accessdate=2014-01-19}}</ref>。[[11月3日]]、皇居で親授式が行われた<ref>{{Cite news |title=皇居で文化勲章親授式 天皇陛下、高倉健さんらに勲章 |url=http://www.asahi.com/articles/TKY201311030051.html |newspaper=朝日新聞デジタル |publisher=朝日新聞社 |date=2013-11-03 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140107175606/http://www.asahi.com/articles/TKY201311030051.html |archivedate=2014-01-07 |accessdate=2014-01-19}}</ref>。親授式後の記者会見で高倉は、「[[日本人]]に生まれて本当によかったと、今日思いました」と述べている<ref>{{Cite news |url=http://sankei.jp.msn.com/life/news/131103/trd13110312010014-n1.htm |title=高倉健さんらに文化勲章 皇居・宮殿で親授式 |newspaper=MSN産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2013-11-03 |accessdate=2014-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131106093743/http://sankei.jp.msn.com/life/news/131103/trd13110312010014-n1.htm |archivedate=2013-11-06}}</ref><ref>{{cite news |url=http://www.news24.jp/articles/2014/11/18/07263590.html |title=名優・高倉健さん死去 83歳 |newspaper=日テレNEWS24 |publisher=日本テレビ |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-18}}</ref>。また、この受章については親授式前の10月にも、「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」とのコメントを発表している<ref name="文化勲章受章コメント" />。
 
 
 
主演となる次回作の映画『風に吹かれて』の準備をしていたが<ref name = "Sponichi 20141119">{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/19/kiji/K20141119009308110.html |title=高倉健さん旅立つ 「鉄道員」のように…本人意向で密葬後に発表 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-22 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141122132334/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/19/kiji/K20141119009308110.html |archivedate=2014-11-22 --> }}</ref>、[[2014年]][[11月10日]]午前3時49分、[[悪性リンパ腫]]のため東京都内の病院で死去<ref name = "FAX Takakura">{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/news/20141118k0000e040242000c.html |accessdate=2014-11-22 |title=高倉健さん死去 : 所属事務所のファクス全文 |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2014-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141122135742/http://mainichi.jp/select/news/20141118k0000e040242000c.html |archivedate=2014-11-22}}</ref><ref>{{Cite news |url=http://mainichi.jp/select/news/20141118k0000e040216000c.html |title=訃報 : 高倉健さん83歳 = 俳優「網走番外地」「鉄道員」 |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141122140359/http://mainichi.jp/select/news/20141118k0000e040216000c.html |archivedate=2014-11-22}}</ref>。満83歳没([[享年]]84)。高倉の遺志により近親者によって密葬が執り行われ<ref name = "Sponichi 20141118">{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/18/kiji/K20141118009306270.html |title=高倉健さん 最期は安らかな笑顔、次回作を準備中に体調を崩す |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-22 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141122133937/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/18/kiji/K20141118009306270.html |archivedate=2014-11-22 --> }}</ref>、終わった同月18日に高倉プロモーションから「'''往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし'''」の言葉が添えられた[[ファクシミリ|FAX]]でその死が発表された<ref name = "Sponichi 20141119" /><ref name = "FAX Takakura" /><ref name = "Sponichi 20141118" />。5年ほど前に[[前立腺癌]]で手術を受けて寛解したものの、その定期検査で悪性リンパ腫が発見されて療養していた<ref name = "Sponichi 20141119" />。「入院中の姿を見せたくない」と親しい関係者だけにしか知らせておらず{{Refnest |group = "注釈" |[[スポーツニッポン]]の取材では、世話をしていた知人が映画会社2社のトップにだけ病状を伝えていた<ref name = "Sponichi 20141121">{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/21/kiji/K20141121009321680.html |title=健さん貫いた美学 病床の姿見せたくない…見舞い許したのは2人だけ |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-11-21 |accessdate=2014-11-23 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141122152050/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/21/kiji/K20141121009321680.html |archivedate=2014-11-23 --> }}</ref>。2人が見舞った際には既に意識がなく、臨終にも病院スタッフだけが立ち会った<ref name = "Sponichi 20141121" />。[[北九州市]]で暮らす縁戚も詳しい病状は伏せられていたので、その悲報に身内も驚いていた<ref name = "Sponichi 20141121" />。}}、容体が急変して意識不明になったのは亡くなる数日前で安らかな笑顔で旅立っていた<ref name = "Sponichi 20141119" />。
 
 
 
=== 没後 ===
 
高倉の訃報を受け、各界から追悼が寄せられた。
 
 
 
芸能界では[[東映ニューフェイス]]の後輩で長年交遊し共演してきた[[千葉真一]]が「日本の映画界にとって、そしてわたくしにとって大変大事な方の訃報に今でも信じられない気持ちです<ref name = "産経訃報">{{Cite news |url=http://www.sankei.com/west/news/141118/wst1411180045-n2.html |title=俳優・千葉真一が語る「あの時、健さんがいなかったら私は」 | newspaper =産経WEST |publisher=産経デジタル |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-20 |page=2 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141119055219/http://www.sankei.com/west/news/141118/wst1411180045-n2.html |archivedate=2014-11-18 --> }}</ref>。人生においても俳優としても唯一尊敬し続けた方でした<ref name = "読売訃報">{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141118-OYT1T50116.html |title=映画出演205本、生き様貫く…高倉健さん死去 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-20 |archiveurl=https://archive.is/N2bu0 |archivedate=2014-11-20}}</ref>」と話し絶句した<ref name = "産経訃報" />。高倉が出演した『[[あゝ同期の桜]]』(1967年)でメガホンをとった[[映画監督]]の[[中島貞夫]]は「役作りに執念を持ち、役と一体になりきる人だった。存在をすべてかけて映画を撮っていた希有な俳優だった」と振り返り<ref name = "読売訃報" />、『[[駅 STATION]]』の[[脚本]]を手がけた[[倉本聰]]は「あれだけ健康に留意していた健さんが私より先に亡くなるなんて。自分より年下でも、相手が板前さんでもタクシー運転手でも駅員さんでも、きちんと立ち止まって礼をする人だった」と沈痛な様子で語り惜しんだ<ref name = "読売訃報" />。『[[南極物語]]』で共演した[[渡瀬恒彦]]は「東映に入社して45年、私にとってずっと『親方』の様な存在でした。突然のことで、只々言葉もありません」と偉大なる先輩の死を悼んだ<ref name = "オリコン訃報">{{Cite news |url=http://www.oricon.co.jp/news/2044712/full/ |title=渡瀬恒彦、浅野忠信…共演者や監督が健さんを追悼 |newspaper=ORICON STYLE |publisher=オリコン |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-20  <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141120153612/http://www.oricon.co.jp/news/2044712/full/ |archivedate=2014-11-20 --> }}</ref>。遺作となった『[[あなたへ]]』(2012年)で共演した[[浅野忠信]]は[[Twitter]]で「ご冥福をお祈りします。本当に悲しいです。ありがとうございました」<ref name = "オリコン訃報" />、『[[あ・うん]]』(1989年)で共演以来、公私ともに付き合いがあった[[板東英二]]は「つい一週間前に健さんの事務所に直接お伺いし、お手紙を預けてきた所でした。いつもご丁寧な方がお返事が来ずに不思議だと思っていましたが、驚きで声も出ません」と突然の訃報を驚いた<ref name = "オリコン訃報" />。高倉の新たなイメージを作った『[[新幹線大爆破]]』(1975年)をはじめ、複数の高倉主演映画の演出を担当した[[佐藤純彌]]は「時代を背負ったスターと共に仕事が出来たことは幸せでした。決して死なないような気がして訃報を聞いた時は、ひとつの時代が終わったことを実感しました」と希代のスターをしのんだ<ref name = "オリコン訃報" />。『[[捨て身のならず者]]』など高倉の数々の出演作のメガホンを執り、遺作となった『[[あなたへ]]』を演出、幻となった次回作もタッグを組む予定だった[[降旗康男]]は「残念の一語に尽きる」とそのひと言に万感の思いを込めた<ref>{{Cite news |url=http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/11/18/0007513242.shtml |title=健さん遺作の降旗監督、万感の「残念」 |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=デイリースポーツ |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-23 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141122153834/http://www.daily.co.jp/newsflash/gossip/2014/11/18/0007513242.shtml |archivedate=2014-11-23 --> }}</ref>。
 
 
 
スポーツ界からは親交のあった[[長嶋茂雄]]が「彼から教わったことは多かった」と追悼の辞を発表<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/18/kiji/K20141118009306981.html |title=長嶋さん 高倉健さん悼む「男としてのあるべき姿を学んだ」 |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-18}}</ref>。[[政界]]では[[石原慎太郎]]が「最後のビッグスターだった。名声が長くもった希有な人だった」と悼む<ref>{{Cite web |url=http://www.sankei.com/politics/news/141118/plt1411180030-n1.html |title=「俺もそろそろ死ぬのかな…」 同世代の石原慎太郎氏が悼む |newspaper=産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-20}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.cbc.ca/news/arts/ken-takakura-japanese-star-and-black-rain-actor-dead-at-83-1.2838806 |title=Ken Takakura, Japanese star and Black Rain actor, dead at 83 |publisher=[[カナダ放送協会|CBC.ca]] |language=英語 |date=2014-11-18 |accessdate=2014-11-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141118151228/http://www.cbc.ca/news/arts/ken-takakura-japanese-star-and-black-rain-actor-dead-at-83-1.2838806 |archivedate=2014-11-18}}</ref>。
 
 
 
[[文化大革命]]直後の[[1979年]]に『[[君よ憤怒の河を渉れ]]』が公開された[[中華人民共和国]]では、[[日本]]で高倉の死去が報じられると、[[中国中央電視台]]『[[新聞聯播]]』を始め、地方テレビ局も[[ニュース番組]]で一斉に報じたほか、同日夜には、中国中央電視台は25分に渡り特集を組んだ<ref>{{Cite news |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141119/k10013310981000.html |title=中国国営テレビが高倉さんの追悼特集 |newspaper=NHK NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |date=2014-11-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141119035638/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141119/k10013310981000.html |archivedate=2014-11-19}}</ref>。[[中華人民共和国外交部報道局]]の[[洪磊]]報道官は18日の定例[[記者会見]]で「高倉健先生は[[中国人]]民だれもが良く知る日本の[[芸術家]]であり、中日の文化交流の促進に重要かつ積極的に貢献した。われわれは哀悼の意を表す」と談話を出した<ref>{{Cite news |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141118/k10013298151000.html |title=中国外務省も哀悼「両国の文化交流に貢献」 |newspaper=NHK NEWS WEB |publisher=日本放送協会 |date=2014-11-18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141121111419/http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141118/k10013298151000.html |archivedate=2014-11-21}}</ref>。
 
 
 
11月19日には、歌手として「唐獅子牡丹」などのヒット曲を放った功績が評価され、高倉に2014年度『[[第56回日本レコード大賞]]』特別栄誉賞が贈られることが発表された<ref>{{Cite news |url=http://www.sankei.com/entertainments/news/141120/ent1411200002-n1.html |title=特別栄誉賞に高倉健さん 日本レコード大賞 |newspaper=産経ニュース |publisher=産経新聞社 |date=2014-11-20 |accessdate=2014-11-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141206002821/http://www.sankei.com/entertainments/news/141120/ent1411200002-n1.html |archivedate=2014-12-06}}</ref><ref name = "ORICON STYLE 20141120">{{Cite news |url=http://www.oricon.co.jp/news/2044797/full/ |title=高倉健さんに「レコード大賞」特別栄誉賞贈賞 |newspaper=ORICON STYLE |publisher=オリコン |date=2014-11-20 |accessdate=2014-11-22}}</ref>が、所属事務所の意向によりそれを辞退したことが12月17日に発表された。
 
 
 
12月発表の『[[キネマ旬報]]』による『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本男優4位となった<ref>{{Cite web |url=http://www.kinenote.com/main/feature/vol45/ |title=オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優 |work=[[KINENOTE]] |publisher=[[キネマ旬報社]] |date=2014-12 |accessdate=2016-09-23}}</ref>。
 
 
 
2016年、高倉の記録映画『[[健さん]]』が第40回[[モントリオール世界映画祭]] ワールドドキュメンタリー部門 最優秀作品賞を受賞<ref>{{Cite news |url=http://natalie.mu/eiga/news/200875 |title=「健さん」モントリオール映画祭ドキュメンタリー部門で最優秀作品賞に輝く|newspaper=映画ナタリー |publisher=ナターシャ |date=2016-09-06 |accessdate=2016-09-07}}</ref>。
 
 
 
2017年3月18日には[[鎌倉市]]にある光明寺の境内に墓碑が建立される。墓碑の高さは180cmと高倉の身長と同じにしており、墓碑にある段状の意匠は高倉の映画人生の節目となる年、映画作品数などを表している。
 
 
 
== 人物 ==
 
=== 人柄 ===
 
礼儀正しい人物であり、すべての共演者に挨拶を忘れず、監督やプロデューサーをはじめ、若い新人俳優やスタッフにも必ず立ち上がり、丁寧にお辞儀して敬意を払う<ref name = "sonny" />。
 
 
 
[[千葉真一]]は高倉を'''一生あこがれの存在で永遠の師匠'''と公言している<ref name = "chiba">{{Cite book |和書 |author=千葉真一 |authorlink=千葉真一 |date=2008-04-21 |title=千葉真一 改め 和千永倫道 |publisher=[[山と渓谷社]] |pages=82-85 |isbn=978-4-635-34022-9}}</ref>。「(千葉が)デビューして間もない頃、健さんが食事によく連れて行ってくれた。また、学生服しか持っておらず、取材向きの洋服がない時に健さんからスーツをもらった<ref name = "chiba" />」、「役者として少し売れてきた後でも(千葉自身の)撮影がない時には、健さんの付き人をしていた<ref name = "chiba" />」、「(千葉が)離婚した時に健さんから手紙で励まされ、それが心の支えになった<ref name="chiba" />」、「(千葉が)[[東映]]の[[労働組合]]委員長と撮影進行で衝突して、映画界を辞めようと思った時に、健さんが思いとどまらせ、一緒に謝ってくれた<ref name="sonny" />」など、「健さんは厳しい人だけど、ちゃんと愛がある。そばにいて、俳優としても人間としても、大切なことをいっぱい教わった<ref name = "chiba" />」と語っている。春日太一のインタビュー本で[[千葉真一]]は高倉との思い出を語り「僕は健さんの足元にも及ばない」と発言<ref>{{Cite book |和書 |author=春日太一 |year=2015 |title=役者は一日にしてならず |publisher=[[小学館]] |pages=31-51 |isbn=978-4-09-379869-3}}</ref>。
 
 
 
気持ちの通じ合った共演者には「高倉健」という名前を彫った高級ブランドの腕時計をプレゼントしており<ref name = "日刊大衆・共演者">{{Cite web |url=http://taishu.jp/detail/785/ |title=共演者たちが一瞬で惚れる高倉健「ホンモノ男力」エピソード集 vol.1 |work=[[週刊大衆|日刊大衆]] |publisher=[[双葉社]] |date=2012-09-05 |accessdate=2014-11-28 <!-- |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141128155154/http://taishu.jp/785.php |archivedate=2014-11-28 --> }}</ref>、[[ビートたけし]]<ref name = "日刊大衆・共演者" />、千葉真一<ref name = "日刊大衆・共演者" />、[[田中邦衛]]<ref name = "日刊大衆・共演者" />らが貰っている。
 
 
 
『[[ブラック・レイン]]』で共演した[[マイケル・ダグラス]]は[[大阪府|大阪]][[京橋 (大阪市)|京橋]]の野外シーンロケで、日本人のファンが高倉に憧れて接する姿を目撃。その様子をダグラスは「アメリカでは[[ブルース・スプリングスティーン]]の時だけだよ。あんなに尊敬される姿を見られるのは!」と驚いていた<ref>「プロダクション・ノート」『ブラック・レイン』([[VHS]]) より。</ref>。『[[君よ憤怒の河を渉れ]]』が[[中華人民共和国]]に輸入され、中国人の半分が観たともいわれており<ref>映画パンフレット 『[[単騎、千里を走る。]]』 より。</ref>、宣伝のために田中邦衛と訪中した時、宿泊先のホテルには高倉を一目見たいというファンが大勢詰め掛けた。高倉のファンである映画監督・[[張芸謀]]は『[[単騎、千里を走る。]]』の撮影の際、高倉が休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、現地採用の中国人エキストラ俳優にまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言している<ref group = "注釈">中国では、大物俳優は現場でも威張り散らしているのがほとんどであるという。</ref>。
 
 
 
『[[夜叉 (映画)|夜叉]]』で共演したビートたけしは撮影中のエピソードとして、真冬の[[福井県|福井]]ロケのある日、オフだったにもかかわらず、高倉が激励をしにロケ現場へ現れた。厳しい寒さの中、出演者・スタッフは焚火にあたっていたが、高倉は全く焚火にあたろうとしない。スタッフが「どうぞ焚火へ」と勧めるが、高倉は「自分はオフで勝手に来た身なので、自分が焚火にあたると、皆さんに迷惑がかかりますので」と答えた。このためスタッフだけでなく、共演者誰一人申し訳なくて、焚火にあたれなかったと発言している。やがて「頼むからあたってください。健さんがあたらないと僕達もあたれないんです」と泣きつかれ、「じゃあ、あたらせていただきます」となり、やっと皆で焚火にあたることができた<ref>{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/cinema/cnews/20120822-OYT8T00855.htm |title=たけしの作り話、迷惑! 高倉健の“抗議”に場内爆笑 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2012-08-22 |archiveurl=https://archive.is/gkj8p |archivedate=2013-07-03}}</ref>。
 
 
 
漫才師から役者業に進出してきたたけしに対抗して、田中邦衛と組んで漫才界に進出しようという話題になったことがあり、田中は「止めといたほうがいい」と制止した。高倉が「それじゃお前は何をやるんだ?」と言うと、田中は「二種免許取ります」と返答したという。たけしは高倉と田中がタクシーの運転手になる可能性を、真剣に検討していることに大ウケした<ref>『ビートたけしの幸か不幸か』(1986年)及び、{{Cite book |和書 |editor=オールナイトニッポン&[[高田文夫]] 編 |year=1990 |title=ビートたけしの幸せ丸十年 |publisher=[[ニッポン放送プロジェクト|ニッポン放送出版]] |page=184 |isbn=4-594-00670-1 |ref=幸せ丸十年}}</ref>。
 
 
 
[[第23回日本アカデミー賞]]に出席した[[岡村隆史]]は、高倉に長年のファンであることを伝えた。この時、主演作『[[無問題]]』で話題賞を受賞し、「将来は高倉健さんのような俳優になりたい」との受賞スピーチで会場から笑いが巻き起こる中、高倉は独りにこやかに立ち上がって拍手を送った。[[2010年]]、岡村が病気で半年にわたり療養した際にも電話や手紙で激励しており、岡村は高倉の遺作となった『あなたへ』で共演を果たしている<ref>{{Cite web |url=http://www.allnightnippon.com/program/okamura/2014/11/post-49.html |title=第8回 僕にとっては神様みたいな人。命の恩人です。 |publisher=ナインティナイン 岡村隆史のオールナイトニッポンwebサイト(ニッポン放送) |accessdate=2014-11-24}}</ref>。
 
 
 
=== 役作り・姿勢 ===
 
余計なテクニックを廃し、最小限の言葉で、演じる人物の心に込み上げるその瞬間の心情を表す台詞・動きを表現する芝居を真骨頂としており、基本的に本番は1テイクしか撮らせない。これについて「映画はその時によぎる本物の心情を表現するもの。同じ芝居を何度も演じる事は僕にはできない」と述べている。また「普段どんな生活をしているか、どんな人と出会ってきたか、何に感動し何に感謝しているか、そうした役者個人の生き方が芝居に出ると思っている」としており、肝に銘じているという。「俳優にとって大切なのは、造形と人生経験と本人の生き方。生き方が出るんでしょうね。テクニックではないですよね」とも言い切る<ref name="Professional Homepage">{{Cite web |url=http://www.nhk.or.jp/professional/2012/0908/index.html |title=第161回 高倉健(2012年9月8日放送)|これまでの放送|NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 |publisher=日本放送協会 |date=2012-09-08 |accessdate=2012-04-21}}</ref>。
 
 
 
「俳優は肉体労働」というのが信条で[[筋力トレーニング]]・[[ジョギング]]を欠かさなかったが、2012年時点では[[ウォーキング]]や[[ストレッチ]]を日課としており、起床すると[[マウスピース (スポーツ)|マウスピース]]を噛み、脳へ刺激を与えていた<ref name="Professional Homepage" />。酒を飲まず、煙草も1日に80本も吸うヘビースモーカーであったが、映画『八甲田山』が3年がかりの長期ロケとなったため、完成の願掛けに正月の成田山の初詣の際、禁煙して以来、30年以上絶っている<ref>{{Cite book |和書 |author=野地秩嘉 |year=2012 |title=高倉健インタヴューズ |publisher=[[プレジデント社]] |pages={{要ページ番号|date=2018年8月}} |isbn=978-4-8334-2017-4}}</ref><ref group="注釈">[[1983年]]の映画『南極物語』の極地ロケに際しては、撮影中の無事を祈願して大好きなコーヒーをクランクアップまで絶っている。</ref>。都内に居る時には毎日、血糖値測定や健康チェックを行い、朝食では[[ミューズリー]]や[[グラノーラ]]などの[[シリアル食品|シリアル]]にプレーン[[ヨーグルト]]をかけたものを常食とし、毎日しっかり摂ることで体のリズムを整える。体型を維持するため、大好きな甘い物も我慢し、夕食までほとんど食べない生活を続けており、ウオーキングも欠かさず行い、ウエストも体重も何十年も維持し続け、細心の注意を払ってきた<ref name="Professional Homepage" />。
 
 
 
仕事への真摯な姿勢に[[北大路欣也]]も影響を受けたと述べている<ref>{{Cite web |url=http://www.5-life.net/magazine/article-202-2.html |title=北大路欣也「父の眼力」 |work=木村政雄編集長 Special Interview |publisher=ファイブエル |year=2007 |accessdate=2013-04-22 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20081008035807/http://www.5-life.net/magazine/article-202-2.html |archivedate=2008-10-08}}</ref>。
 
 
 
常に感性に磨きをかけ、「感じやすい心」を保っておくために、読書や刀剣・美術品鑑賞、映画、音楽など、常に気に入ったものに触れる機会を作り、海外旅行へも出かけていく。撮影に際して、台本のカバーや裏表紙には有名、無名に関係なく、気に入った「心を震わせる」フレーズや詩歌などを貼りつけたり、忍ばせて持ち歩いている。『あなたへ』の撮影では、[[相田みつを]]の詩や[[会津八一]]の短歌など<ref name="Professional Homepage" />と一緒に、雑誌に掲載されていたという[[東日本大震災]]の被災地での1コマを撮影した写真<ref group="注釈">[[イタリア]]在住の作家、[[塩野七生]]が現地の雑誌に掲載されていた写真を紹介したもの。1人の少年(?)がうつむいて口を一文字に結び、歩いている。本人の物とは思えない、袖丈が余る[[フライトジャケット]]風の[[ジャンパー (衣服)|ジャンパー]]にピンクの長靴姿。給水所から戻った様子で、両手には1本ずつ水が満杯に入った[[焼酎]]の大型[[ペットボトル]]……というもの。高倉は台本に貼りつけやすいようにB5判サイズしたものを持ち歩いていた。</ref><ref>{{Cite web |url=http://style.nikkei.com/article/DGXBZO39328420V00C12A3000000?page=2 |title=コラム「高倉健のダイレクトメッセージ『1枚の写真』2/3ページ |work=NIKKEI STYLE |publisher=日本経済新聞社、日経BP社 |date=2012-03-16 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite web |url=http://quasimoto.exblog.jp/17536783/ |title=「1枚の写真」 高倉健:「戦後の日本が蓄積してきた経済や社会のシステムがパンクした瞬間でした。」 |publisher=[[井口和基]] 公式ブログ |date=2012-03-16 |accessdate=2013-05-22}}</ref>も一緒に貼りつけて持ち歩いていた。[[山本周五郎]]の著作のフレーズや、主人公の生き方について書かれた[[木村久邇典]]の『男としての人生 - 山本周五郎のヒーローたち』<ref group="注釈">[[1982年]]、[[中尾是正|グラフ社]]刊。ISBN 4-7662-0025-X</ref>もお気に入りの1冊として持ち歩いている。長期間の撮影の中では、ベテランの高倉でも感情のコントロールが出来ない時があり、そうしたときは持っているこうした物にすがっているという。また台本だけでなく、自宅の洗面所などにもこうしたものが貼られており、気持ちを盛り上げている。この事について「俳優ってそれほど頼りないものなんですよ」と語っている<ref name="Professional Homepage" />。
 
 
 
映画『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』ではヒロインもラブロマンスも無く、刑務所や脱獄が主題の映画となって売り上げが見込めないと予算をカットされた。添え物映画でモノクロ作品にすると社長の[[大川博]]に言われ、意見すると「嫌なら主演を梅宮辰夫に変える」とまで言われてしまう。仕方なくロケ地の北海道で撮影に入ったが、監督の[[石井輝男]]がなかなかやって来ない。スタッフと様子を見に旅館へ行くと、石井が窓の隙間から雪が入り込んだ粗末な部屋で丸くなって寝ていた。高倉は「この映画をヒットさせるためなら…。監督を笑顔にするためなら、俺はどんなことでもするぞ」とスタッフに漏らし、『網走番外地』シリーズは計18作の大ヒットシリーズとなった<ref>{{Cite news |url=http://style.nikkei.com/article/DGXZZO43816700X10C12A7000000 |title=すべては、出逢いから 俳優 高倉健|アート&レビュー |newspaper=NIKKEI STYLE |publisher=日本経済新聞社、日経BP社 |date=2012-07-20 |accessdate=2012-10-06}}</ref>。
 
 
 
初の[[松竹]]出演となった『幸福の黄色いハンカチ』の冒頭で、刑務所から刑期を終え出所した直後の食堂で、女性店員についでもらったグラスに入った[[ビール]]を深く味わうように飲み干した後、[[ラーメン]]と[[カツ丼]]を食べるシーンがある。その収録で「いかにもおいしそうに飲食する」リアリティの高い演技を見せ、1テイクで[[山田洋次]]監督からOKが出た。あまりにも見事だったので、山田が問い尋ねると「この撮影の為に2日間何も食べませんでした」と言葉少なに語り、唖然とさせた。
 
 
 
[[1983年]]に『[[居酒屋兆治]]』の準備をしていた矢先、映画監督・[[黒澤明]]から「鉄修理(くろがねしゅり)」役で『[[乱 (映画)|乱]]』への出演を打診されている。「でも僕が『乱』に出ちゃうと、『居酒屋兆治』がいつ撮影できるかわからなくなる。僕がとても悪くて、計算高い奴になると追い込まれて、僕は黒澤さんのところへ謝りに行きました」と述懐している。黒澤は当初から高倉を想定してこの役をつくり、自ら高倉宅へ足繁く4回通った。「困ったよ、高倉君。僕の中で鉄(くろがね)の役がこんなに膨らんでいるんですよ。僕が[[降旗康男]]君(『居酒屋兆治』の監督)のところへ謝りに行きます」と口説いたが、高倉は「いや、それをされたら降旗監督が困ると思いますから。二つを天秤にかけたら誰が考えたって、世界の黒澤作品を選ぶでしょうが僕には出来ない。本当に申し訳ない」と丁重に断った。黒澤から「あなたは難しい」と言われたが、その後偶然『乱』のロケ地を通る機会があり、「畜生、やっていればな……」と後悔の念があったと語っている結局、この役は[[井川比佐志]]が演じている。<ref>{{Cite news |url=http://www.jiji.com/jc/v4?id=2012takakura-ken_int0005 |title=「高倉健さんインタビュー」5/7ページ |newspaper=時事ドットコム |publisher=時事通信社 |date=2012 |accessdate=2013-08-05 <!-- |archiveurl=https://archive.is/zmTs7 |archivedate=2013-04-26 -->}}</ref><ref group="注釈">『南極物語』撮影前より黒澤サイドからのアプローチがあったという。学生時代からの憧れだった黒澤からの打診に気持ちが動き、何度か顔合わせをしていたが、極地ロケを終え帰国してみると、既に『居酒屋兆治』のプロジェクトが始動。[[函館]]での実景撮影が進行しており、諦めざるを得ない状況となっていた。この事について「黒澤監督には本当にご迷惑をおかけしました」と振り返っている。そんな経緯もあり『居酒屋兆治』は当初、「全く乗らない撮影だった」と語っており「現場では怒鳴りまくってましたからね……」と述懐している。しかし、仕上がった映画は「しみじみと味わい深い作品」となり「これも運でしょうね」と、今はこの時の決断に満足している旨を語っている。 - [[2012年]][[8月26日]]『日曜邦画劇場』([[日本映画専門チャンネル]])、「高倉健ロングインタビュー」での高倉の証言。</ref>{{出典無効|date=2018年8月|text=検証可能性を満たしていません。}}。
 
 
 
東映を離れ、フリーに転じてから、1つの作品を終えるたびにスクリーンから離れ、マスコミや公の場から距離を置く事を決まり事としている。それは、1つの作品を終えるたびに高倉を襲うという、“深い喪失感”に関係しているという。特に『あなたへ』に主演する前には、自身最長となる6年間の空白期間が生じた。前回主演した日中合作の映画『単騎、千里を走る。』の後、中国人の共演者やスタッフたちと別れるときに感じた気持ちと『あなたへ』の出演を決めたことについて、「分かんないね……。多分ね、この別れるのに涙が出るとかっていうのは、お芝居ではないところで、泣いているのだと思うんですよね。ああ楽しかったとか、別れたくないとか、もう二度と会えないかもしれないとか。特に中国のスタッフは。だから、そういうものを自分がお金に取っ替えてるっていう職業ってのは、悲しいなあってどっかで思ったのかもしれないね。それを売り物にするものでは、ないんじゃないかなっていう。でもしょうがないですよね、同じ人とずっとはやれないんだから。そういう切ない仕事なんですよ。だから、それはそんなに気を入れなければいいんだっていう、そのこともわかってるんだけども、やっぱり出会って仕事だ、出会って仕事だって言う。分かってるんだけど、強烈なのを受けると、しばらく。なんとなく、恋愛みたいなものなんじゃないの。多分、恋愛だよね。じゃなきゃ泣きませんよ。お金もらうところじゃないんだもん、映ってないところで泣くんだから。泣くんですよ。大の大人が(笑)。それが中国は強烈だったってことでしょうね。いや、今でも分かりませんよ。じゃあ、なんで今度(『あなたへ』)はやったのって言ったら、こんなに断ってばかりいると、またこれ断ったら(降旗)監督と、もうできなくなる年齢が来てるんじゃないかなと、2人とも。それはもう1本撮っておきたいよなっていうのが、今回の。本音を言えばそうかもしれないよ。」と、その心情を初めて漏らしている<ref>{{Cite episode |url=http://www.nhk.or.jp/professional/2012/0910/ |title=高倉健インタビュースペシャル |series=プロフェッショナル 仕事の流儀スペシャル |serieslink=プロフェッショナル 仕事の流儀 |network=[[NHK総合テレビジョン|NHK総合]] |airdate=2012-09-10}}
 
</ref>。
 
 
 
=== 交友 ===
 
[[東京アメリカンクラブ]]のメンバーである高倉は外国人の友人・知人が多い<ref name = "sonny" />。[[千葉真一]]は高倉に誘われて同クラブへ行った時や、[[パンアメリカン航空]]のパーティーへ出席した時に、千葉のファンである[[客室乗務員|フライトアテンダント]]を高倉から紹介されたりなど、[[アメリカ合衆国の映画|ハリウッド映画]]出演前から英語に堪能な高倉を目の当たりにしている<ref name = "sonny" />。
 
 
 
かつて東映内には千葉真一・[[梅宮辰夫]]・[[山本麟一]]・[[山城新伍]]など、高倉を慕う人達で集まって遊ぶ「野郎会」というものがあった<ref name="sonny" />。名の由来は「男(野郎)ばかり」なのと「何でも'''やろう'''」を語呂あわせにしたもので、何か月かごとに集まってその時の幹事が決めた遊びをしていた<ref name = "sonny" />。高倉は酒を飲まないので野球をしたり、山城が幹事の時には[[遊郭]]に行って、お大尽遊びの真似事をしていた<ref name = "sonny" />。[[明治大学]]の先輩で[[東映ニューフェイス]]でも1期上である山本も高倉と仲が良く、この集まりに参加していた<ref name = "sonny" />。『[[網走番外地 (東映)|網走番外地シリーズ]]』『[[昭和残侠伝シリーズ]]』で共演した[[潮健児]]は自伝『星を喰った男』の中で、「面倒見がよく、周囲に気を遣い、傍に誰か話し相手が居ないとしょげてしまう程の寂しがり屋」「大勢役者が揃って『何かやる』という時、その言いだしっぺは大抵、健さんだった」と回想している<ref name="jigoku taishi">{{Cite book |和書 |author=潮健児 |year=1993 |title=星を喰った男 |publisher=[[バンダイ]] |pages={{要ページ番号|date=2018年8月}} |isbn=4-89189-518-7}}</ref>。
 
 
 
[[長嶋茂雄]]との親交は互いの若い時からつとに知られており、正月には[[成田山新勝寺]]にて初詣を共に行っていたこともある<ref>{{Cite web |url=http://npn.co.jp/article/detail/28624930/ |title=王と長嶋〜プロ野球を国民スポーツにした2人の功労者〜(20) 背番号「89」に込められた二つの意味 |work=リアルライブ |publisher=フェイツ |date=2009-04-17 |accessdate=2016-10-08}}</ref>。長嶋の長男である[[長嶋一茂|一茂]]が[[1999年]]12月3日に[[箱根神社]]で結婚式を挙げた時、冠婚葬祭の類にはめったに現れない高倉が出席したので、結婚式取材に駆けつけた取材陣が驚いた一幕があった。
 
 
 
[[村田兆治]]の引退試合中継を見て感銘を受け、それまで面識も無かった村田の住所を関係者に一通り尋ねて調べ、さらに留守中だった村田の自宅前に、花束を置いて帰ったという話がある<ref>{{Cite book |和書 |author=高倉健 |year=1991 |title=あなたに褒められたくて |publisher=林泉舎 |page=174 |isbn=4-08-775148-1 |chapter=兆治さんへの花}}</ref>。[[仰木彬]]は高校の後輩。
 
 
 
[[山口組三代目]]・[[田岡一雄]]とも親しい<ref>{{Cite book |和書 |author=山平重樹 |authorlink=山平重樹 |others=取材・写真協力 [[田岡満]] |title=実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界 |origdate=2009-11-22 |edition=第1刷 |publisher=[[双葉社]] |isbn=978-4-575-30172-4 |pages=259-325 |chapter=第五章 落日の「栄光」 |ref=田岡 }}</ref>。田岡を[[江利チエミ]]との結婚披露宴へ招待したり、江利と共に[[清川虹子]]の自宅で田岡や[[美空ひばり]]・[[小林旭]]夫妻とも親交した<ref name="小林旭">[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、262-263ページ。</ref>。酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり「受け取れ」と強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めてもらった<ref name="小林旭" />。田岡が1965年(昭和40年)に[[心筋梗塞]]で[[危篤]]に陥り、面会謝絶だったが高倉は江利を伴い、見舞いに訪れた<ref>[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、298ページ。</ref>。後に『[[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]]』『[[三代目襲名]]』で高倉は田岡を演じることとなるが、撮影現場を訪ねてきた田岡に激励されている<ref>[[#田岡|実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界]]、第五章 落日の「栄光」、323ページ。</ref>。
 
 
 
[[ビートたけし]]とは[[1985年]]の『[[夜叉 (映画)|夜叉]]』で共演以来親交があり、互いに「'''健さん'''」「'''たけちゃん'''」と呼び合う仲であった<ref name = "日刊大衆・共演者" />。
 
 
 
2005年8月12日、『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』シリーズの[[石井輝男]]監督が死去。石井の遺志により、[[網走市]]内の潮見墓園に墓碑が建立され、2006年8月5日、納骨の儀が執り行われた。“安らかに 石井輝男”と記されたこの墓碑の碑文は、高倉によってしたためられたものである<ref>{{Cite web |url=http://www.kangoku.jp/data11.html |title=監獄秘話「番外地の生みの親、網走に眠る……」 |publisher=博物館 網走監獄 |accessdate=2013-03-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130308204301/http://www.kangoku.jp/data11.html |archivedate=2013-03-08}}</ref>。
 
 
 
2009年11月、同年8月に亡くなった[[俳優|女優]]の[[大原麗子]]の墓参に訪れ掃除をし、30分以上語りかけていたことが[[2010年]]8月に報じられた<ref name = "大原麗子" />。
 
 
 
[[草なぎ剛|草彅剛]]へ自ら手紙を書いて以降、草彅とは文通や電話のやり取りをしており、二人で食事をしていたり、草彅を自宅へ招き入れるなどの親交があった。遺作『あなたへ』で共演している<ref name="SSKT" />。同作に関する授賞式では、自身の代理出席を草彅に頼んだ<ref>{{Cite web |url=http://www.daily.co.jp/gossip/2012/12/29/0005634297.shtml |title=草なぎ剛 高倉健の“代理出席” |newspaper=デイリースポーツ online |publisher=デイリースポーツ |date=2012-12-29 |accessdate=2015-03-30}}</ref>。
 
 
 
2012年10月2日、『あなたへ』で共演した[[大滝秀治]]が[[肺癌|肺扁平上皮がん]]のため、87歳で死去。訃報を受け、公式に「大滝さんの最後のお仕事の相手を務めさせていただき、感謝しております。本当に素晴らしい先輩でした。静かなお別れができました。」とのコメントを発表した<ref>{{Cite news |url=http://www.cinemacafe.net/article/2012/10/05/14017.html |title=大滝秀治の訃報に高倉健が追悼コメント「静かなお別れができました」 |newspaper=cinemacafe.net |publisher=イード |date=2012-10-05 |accessdate=2014-05-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130127034535/http://www.cinemacafe.net/article/2012/10/05/14017.html |archivedate=2013-01-27}}</ref>。
 
 
 
2013年6月5日、[[横浜市]]のロイヤルホールヨコハマで行われた[[勝新太郎]]の『17回忌を偲ぶ会』では[[渡哲也]]・[[藤村志保]]らとともに発起人に名を連ね、会場にも足を運んでいる<ref>{{Cite news |title=勝新太郎さん『17回忌』 渡哲也、高倉健ら約350人が参列 |url=http://www.oricon.co.jp/news/video/2025269/full/ |newspaper=ORICON STYLE |publisher=オリコン |date=2013-06-05 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131108062822/http://www.oricon.co.jp/news/video/2025269/full/ |archivedate=2013-11-08|accessdate=2014-01-19}}</ref>。
 
 
 
2014年、8月26日に亡くなった[[米倉斉加年]]のお別れの会が10月13日に開かれた際に、故人に宛てて弔電を発した<ref>{{Cite news |url=http://sonae.sankei.co.jp/ending/article/141013/e_sogi0001-n1.html |title=米倉斉加年さんのお別れの会 500人が参列、故人しのぶ |newspaper=終活WEB ソナエ |publisher=産経デジタル |date=2014-10-13 |accessdate=2014-10-13 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141109031000/http://sonae.sankei.co.jp/ending/article/141013/e_sogi0001-n1.html |archivedate=2014-11-09}}</ref>。
 
 
 
=== 趣味 ===
 
趣味は旅・[[乗馬]]・[[ライフル射撃]]・車・刀剣の収集など。[[コーヒー]]と夜更かしが好きで、若いころはよく撮影に遅刻することがあり、監督を怒らせることもあった。自身も「自分は遅刻魔だった(笑)」と告白している。
 
 
 
好きな[[音楽家|ミュージシャン]]は[[大塚博堂]]である。友人にもらった[[カセットテープ]]を聞いて、「自分にない何かがある」と感銘を受けたことがきっかけだった。デビュー曲「[[ダスティン・ホフマンになれなかったよ]]」はじめ、大塚とよく組んで仕事をしていた作詞家の[[藤公之介]]に「大塚と組んで曲を作ってほしい」と電話で頼んだこともあったが、この時は大塚が多忙で別の作曲家が曲を担当した。しかし、その後間もなく大塚が急死したため、「夢のコラボ」は幻に終わった。大塚の曲では「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」「旅でもしようか」「ふるさとでもないのに」を特に気に入っている。直接対面することは無かったが、大塚のメモリアルイベントなどでは、一ファンとして何度かメッセージを贈っている。[[千葉真一]]と[[野際陽子]]の結婚10周年記念には「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」を[[バックグラウンドミュージック|BGM]]にして、自ら祝辞をカセットテープに録音してプレゼントしており、千葉と野際からとても喜ばれた。
 
 
 
[[キリンビバレッジ|キリン]]「[[生茶]]」のCMで共演した[[総合格闘技|総合格闘家]]の[[宇野薫]]によると、高倉は[[格闘技]]にかなり詳しく「休憩中に健さんから『[[UFC]]の試合をよく観ていますよ。応援しています』と話しかけられ驚きました」と語っている。
 
 
 
世界で一番好きな場所は[[ハワイ]]。このことについて[[沢木耕太郎]]に「[[短刀|ドス]]を片手に敵地に乗り込む高倉健とハワイの取り合わせは意外なようだが、それは何故か」と問われて、高倉は「人が温かい」ことと、東映時代に過酷なスケジュールをこなしている中で、たまの休みにハワイの海岸で寝て過ごす解放感がたまらなかった、と述懐している<ref>{{Cite book |和書 |author=[[沢木耕太郎]] |year=1994 |title=深夜特急 |volume=2 (マレー半島・シンガポール) |publisher=新潮社 |series=[[新潮文庫]] |pages=193 - 194 |isbn=978-4-10-123506-6}}</ref>。
 
 
 
=== 江利チエミ ===
 
[[1959年]][[2月16日]](高倉が28歳の誕生日の時に)、[[1956年]]の映画『恐怖の空中殺人』での共演が縁で[[江利チエミ]]と結婚。3年後の[[1962年]]、江利は妊娠し子供を授かるが重度の[[妊娠高血圧症候群|妊娠中毒症]]を発症し、中絶を余儀なくされ子宝には恵まれなかった<ref>{{Cite web |url=http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2011/01/1937111.html |title=1937年1月11日「江利チエミさんが生まれた日」 |work=[[DON!]] |publisher=日本テレビ |date=2011-01-11 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140119103159/http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2011/01/1937111.html |archivedate=2014-01-19 |accessdate=2014-01-19}}</ref>。江利の異父姉が様々なトラブルを起こし、結婚に悪影響を及ぼしたとされる<ref group="注釈">{{要出典|date=2014年11月|離婚に至った原因は不仲によるものではなく、江利の異父姉が芸能人である江利を妬み、妹を貶めるため意図的に仕組んだ事が原因とされている。江利の異父姉が 家政婦・江利の付き人として小田家に入り込み、江利からの信用を得て実印を預かるなど、家族同然の立場になると、やがてふたりへ双方に、でっちあげの誹謗中傷を吹聴、相互不信となった夫妻を別居に追い込み、その後の離婚の足掛かりとした。また、夫妻の財産横領を行うようになり、発覚後も容疑を否定、週刊誌で反論や夫婦の私生活についてリークや誹謗中傷を展開するなど悪質・執拗なもので、挙句に失踪・自殺未遂騒動を起こしている。結局「これ以上(高倉健に)迷惑をかけられない」と江利側から離婚を申し出た。この異父姉はその後、江利自身により刑事告訴され、実刑判決を受けている。}}。また[[1970年]][[1月21日]]には当時[[瀬田 (世田谷区・川崎市)#東京都世田谷区瀬田|世田谷区瀬田(旧・玉川瀬田町)]]にあった邸宅を火災で焼失した。</ref>。江利側からの申し入れで[[1971年]][[9月3日]]に離婚した。離婚原因は[[江利チエミ]]の親族にまつわるトラブルからである<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/11/18/kiji/K20141118009306820.html |title=高倉健さん 再婚せず 元妻江利チエミさんの墓参りは欠かさず |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-11-18 |accessdate=2016-10-08}}</ref>。その後、高倉は女性との交際の噂はあったものの、再婚はしなかった。一方、[[離婚]]から11年後の[[1982年]][[2月13日]]に、江利は[[脳血管障害|脳卒中]]と[[吐瀉物]][[誤嚥]]による[[窒息]]のため、45歳の若さで不慮の急死を遂げている。葬儀には姿を現さなかった高倉だが、'''江利の命日には毎年、墓参りは欠かさず、花を手向け、本名を記した線香を贈っていた'''<ref>{{Cite web |url=http://www.1242.com/surprise/nikki2/main.php?did=1786 |title=「10時のちょっといい話」『9時のサプライズ』 |work=[[うえやなぎまさひこのサプライズ!]] |publisher=ニッポン放送 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140119081141/http://www.1242.com/surprise/nikki2/main.php?did=1786|archivedate=2014-01-19|accessdate=2014-01-19}}</ref>。
 
 
 
[[1962年]]の主演映画『[[三百六十五夜]]』は、[[東映東京撮影所]]の所長兼取締役・[[岡田茂 (東映)|岡田茂]]がなかなか芽の出ない高倉をスターにするため、江利・[[美空ひばり]]・[[雪村いづみ]]の[[元祖三人娘|三人娘]]と[[鶴田浩二]]の共演で企画された作品だった<ref name="波瀾150">{{Cite book |和書 |title=波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝 |author=岡田茂 |publisher=[[角川書店]] |date=2004-06 |pages=150-152、180頁 |isbn=4-04-883871-7 |ref=岡田茂自伝}}</ref><ref name="風雲72">{{Cite book |和書 |title=風雲映画城 |volume=下 |author=[[松島利行]] |publisher=[[講談社]] |date=1992-12 |pages=72-73 |isbn=4-06-206226-7 |ref=風雲映画城下}}</ref><ref name="毎日新聞20141224">{{Cite news |url=http://mainichi.jp/shimen/news/m20141224ddm010200038000c.html |title=高倉健「歌」と「旅」:言葉の本質を伝える低音の響き 「健さん」らしい、哀惜の情 |newspaper=毎日新聞 |publisher=毎日新聞社 |date=2014-12-24 |accessdate=2015-08-18 |archiveurl=http://megalodon.jp/2015-0818-1314-02/mainichi.jp/shimen/news/m20141224ddm010200038000c.html |archivedate=2015-08-18}}</ref>。岡田は江利に「亭主の高倉主演で『三百六十五夜』を撮りたい。当てて高倉に実績を残すためにも、三人娘で色どりを添えたいんだ」とオファーしたが、「いやです。わたしは仕事と私生活を混同したくないんです。亭主は亭主です。そういう映画には出たくない」と即座に断られた<ref name="波瀾150" /><ref name="風雲72" /><ref name="毎日新聞20141224" />。高倉は岡田から「おまえ、女房になめられてるじゃないか。今後ウチでは、チエミは一切つかわんからな。チエミごときになめられて、勝手なことをやられているようでは一人前になれないぞ。おまえが大スターになって見返さんと駄目だよ」と発破をかけられ、奮起を促されたという<ref name="波瀾150" /><ref name="風雲72" /><ref name="毎日新聞20141224" />。
 
 
 
=== 岡田茂と俊藤浩滋 ===
 
[[岡田茂 (東映)|岡田茂]](元東映社長)と[[俊藤浩滋]]プロデューサーは高倉の育ての親である<ref name="livedoor5603687" /><ref name="zakzak20110511" /><ref>{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20110510-773480.html |title=鶴田浩二、健さん、文太育てた岡田茂さん |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2011-05-10 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite news |url=http://www.oricon.co.jp/news/87533/full/ |title=“日本映画界のドン”岡田茂さん葬儀・告別式に2100人が参列 |newspaper=ORICON STYLE |publisher=オリコン |date=2011-05-11 |accessdate=2016-10-08}}<br />{{Cite news |url=http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20141203-OYT8T50185.html |title=健さん、秘めた情熱…東映と東宝 追悼上映会 |newspaper=YOMIURI ONLINE |publisher=読売新聞社 |date=2014-12-04 |archiveurl=https://archive.is/5tuSM |archivedate=2014-12-06}}<br />{{Cite web |url=http://gendai.ismedia.jp/articles/-/41305 |title=高倉健、菅原文太の相次ぐ死で甦る。 |work=現代ビジネス |publisher=講談社 |date=2014-12-04 |accessdate=2016-10-08}}</ref><ref name="健さんを探して49" >[[#健さんを探して]]、49-54、84、109-111、176頁。</ref>。高倉はいきなり『[[電光空手打ち]]』で主演デビューを果たしたように会社の期待は大きかったが、その後の作品はどれも当たらなかった<ref name="文春Takakura">{{Cite book |和書 |title= 高倉健 Ken Takakura 1956-2014 |series=文春ムック |publisher=[[文藝春秋]] |date=2015-02-09 |pages=168-169 |isbn=978-4-16-008621-0}}</ref>。そこで岡田が一計を案じ、トップスターである[[美空ひばり]]の相手役を務めさせることで知名度を上げ人気を高めさせようとした<ref name="文春Takakura" />。こうして製作されたのが『べらんめえ芸者』シリーズで、高倉は二作目以降、美空の相手役として出演している。しかし一連の作品で高倉は芝居の硬さが目立ち、見え隠れする暗い陰や低音の声もあいまって、派手さや洗練さに欠ける地味で暗い雰囲気が漂った<ref name="文春Takakura" />。粋さが求められるひばりの相手役には違和感があり、ひばりも高倉と組まされ続けることに不満タラタラで、岡田がひばりに毎回頼み込むことで共演を成り立たせた<ref name="文春Takakura" />。燻り続ける高倉に岡田は「今の路線ではダメだから、アクションスターになれ。あなたほどの立派な顔だったら、スターになれるよ」と[[日活]]から引き抜いた[[井上梅次]]監督の『[[暗黒街最後の日]]』を始め<ref name="波瀾150" /><ref name="健さんを探して85" >[[#健さんを探して]]、85-86、173頁。</ref>アクション映画に出演させアクション路線に転換させた<ref name="波瀾150" /><ref name="健さんを探して85" />。当時[[東映東京撮影所|東京]]・[[東映京都撮影所|京都撮影所]]所長を歴任しながら東映作品のラインナップを事実上指揮していた岡田は<ref>[[#健さんを探して]]、92頁。</ref>、高倉には話すよりその立ち姿に魅力があると踏み、台本に目を通し「高倉のセリフをどんどんカットしろ」と指示した<ref name="健さんを探して49" />。俳優の特徴や育て方を直感的に見抜く岡田の才能は群を抜いていた<ref name="健さんを探して49" />。[[1963年]]に岡田が企画して「[[やくざ映画|仁侠映画]]」の魁となった『[[人生劇場 飛車角]]』では高倉を準主役に抜擢<ref name="toeininkyo" /><ref name="沢島&吉田" /><ref name="毎日新聞20141224" /><ref>[[#健さんを探して]]、69-72頁。</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 |title=東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 |pages=4-7 |work=電子ブックポータルサイト |publisher=スターティアラボ |accessdate=2016-10-08 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141031055815/https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103545 |archivedate=2014-10-31}}</ref><ref name="波瀾153">[[#岡田茂自伝]]、153-154頁<br />[[#任侠映画伝]]、66-67頁。</ref>。本格的な大作の準主役は初の{{読み仮名|抜擢|ばってき}}だった<ref>[[#風雲映画城下]]、106頁。</ref>。高倉は本作で任侠映画のスターとしての足掛かりをつかむが<ref name="毎日新聞20141224" />、さらに翌[[1964年]]の『[[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]]』でも出演を渋る[[萬屋錦之介|中村錦之助]]に代わり、岡田が高倉を主演に抜擢して<ref name="風雲121">[[#風雲映画城下]]、116-120頁。</ref><ref name="任侠">[[#任侠映画伝]]、116-120頁。</ref>高倉は東映の看板スターにのし上がった<ref name="毎日新聞20141224" /><ref name="任侠" /><ref>{{Cite book |和書 |title=あかんやつら 東映京都撮影所血風録 |author=春日太一 | publisher=[[文藝春秋]] |date=2013-11-14 |pages=223-229 |isbn=4-1637-68-10-6}}</ref><ref name="東映キネ旬15">{{Cite web |url=https://www.actibook.net/media/detail?contents_id=103558 |title=東映キネマ旬報 2010年夏号 Vol.15 |pages=2-5 |work=電子ブックポータルサイト |publisher=スターティアラボ |accessdate=2016-10-08}}{{リンク切れ|date=2016年10月}}</ref>。一部の文献に「『日本侠客伝』での高倉の主役抜擢は俊藤が決めた」と書かれた物があるがそれは考えにくい<ref group = "注釈">俊藤浩滋の著書『任侠映画伝』66-67頁に"私が高倉に『日本侠客伝』の主演をやってもらおうと直接交渉した"と書かれているが、119頁には"高倉に白羽に矢が立てられ〜"と書いており、高倉の主演起用は俊藤主導でないことが伺える。俊藤が実績を挙げたのは1964年の、ほぼ同時に公開されたこの『日本侠客伝』と鶴田浩二主演の『[[博徒シリーズ|博徒]]』の第一作が大ヒットし、さらに後続の映画もヒットさせたことで力を付けていったもので『日本侠客伝』の一作目を製作中にはまだ実績はなく力もない。東映の大作の主演交代を俊藤が決定できるはずがない。京都に戻っていた岡田の使者として東京の高倉に交渉に行ったものと考えられる。</ref>。寡黙な立ち姿と目力が岡田と俊藤浩滋が手掛けた任侠シリーズでその威力を発揮した<ref name="健さんを探して49" />。元々、高倉の担当は岡田であったが、[[大川博]]社長(当時)が俊藤の方が合うんじゃないかと勧め、担当を徐々に切り替え高倉は俊藤と組んで仕事をするようになった<ref name="波瀾153" />。
 
 
 
=== 敬愛している映画人や作品 ===
 
[[フランシス・フォード・コッポラ]]『[[ゴッドファーザー PART II]]』や[[マイケル・チミノ]]『[[ディア・ハンター]]』[[マーティン・スコセッシ]]『[[レイジング・ブル]]』等の名作で知られるアメリカ映画を代表する名優[[ロバート・デ・ニーロ]]について、特に『[[レイジング・ブル]]』を「あんな芝居はもう二度とできない」と語っていたことも含め「非常に大きな衝撃を受けた」と語っている。デニーロ以外の[[アメリカ]]の俳優では[[ヘンリー・フォンダ]]や[[マーロン・ブランド]]、[[クリント・イーストウッド]]に、[[フランス]]の名優・スターでは[[ジャン・ギャバン]]等を好きな俳優に挙げている。フォンダは特に[[ジョン・フォード]]監督作品が好きで、ブランドは[[エリア・カザン]]監督『[[波止場 (映画)|波止場]]』が好き、イーストウッドとは会ったことがあり会話もしている。食事の芝居は、食事の芝居が絶品と言われているギャバンの名作映画を見て勉強したと語っている<ref>{{Cite web |author=野地秩嘉 |date=2014-12-30 |url=http://president.jp/articles/-/14226?page=3 |title=なぜ高倉健の食事シーンはリアリティがあるのか |work=PRESIDENT Online |publisher=[[プレジデント社]] |accessdate=2018-08-01}}</ref><ref>{{Cite web |author=野地秩嘉 |date=2014-12-31 |url=http://president.jp/articles/-/14227 |title=高倉健が衝撃を受けた2つの映画作品 |work=PRESIDENT Online |publisher=プレジデント社 |accessdate=2018-08-01}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |date=2014-04 |editor=キネマ旬報社 編 |title=第二回 新・[[午前十時の映画祭]] デジタルで甦る永遠の名作 |publisher=[[キネマ旬報社]] |pages={{要ページ番号|date=2018年8月}} |isbn=978-4-87376-793-2}}</ref>。
 
 
 
また高倉は京都のいきつけのカフェに「いつも迷惑を掛けているので」と[[ジャン・ギャバン]]の特大ポスターをプレゼントしており、そのポスターは今も店のカウンターに貼られている<ref>{{Cite news |title=いつもの席で寡黙な健さん「映画のイメージ通りの紳士」常連だった京都・喫茶店オーナー思い出語る |newspaper=産経WEST |date=2004-11-19 |url=http://www.sankei.com/west/news/141119/wst1411190026-n1.html |accessdate=2018-08-01}}</ref>。
 
 
 
著書『旅の途中で』によれば前述のブランド作品ではコッポラの『[[ゴッドファーザー (映画)|ゴッドファーザー]]』も絶賛している。その他[[イラン映画]]の『[[運動靴と赤い金魚]]』と[[中国映画]]の[[チャン・イーモウ]]監督『[[初恋のきた道]]』に[[アメリカ映画]]『[[L.A.コンフィデンシャル]]』(特にヒロインの[[キム・ベイシンガー]]の目の芝居)[[ロバート・レッドフォード]]『[[モンタナの風に抱かれて]]』[[スティーブン・スピルバーグ]]『[[プライベート・ライアン]]』<ref>{{Cite book |和書 |author=高倉健 |year=2003 |title=旅の途中で |publisher=新潮社 |pages=30-32、99-101、174-180頁 |isbn=4-10-460401-1}}</ref>。
 
 
 
インタビューで「映画は残る!」として「『[[ローマの休日]]』とか『[[アラビアのロレンス]]』みたいな強烈な作品に、みんながもう一回しびれるときが来るんじゃないですかね。」と発言<ref>{{Cite web |author=小菅昭彦 |url=https://www.jiji.com/jc/v4?id=2012takakura-ken_int0004 |title=高倉健さんインタビュー「映画は残る!」 |work=時事ドットコムニュース |publisher=時事通信社 |accessdate=2018-08-01}}</ref>。
 
 
 
[[谷充代]]の著書『「高倉健」という生き方』によれば[[ゲイリー・クーパー]]&[[マレーネ・ディートリッヒ]]主演[[ジョセフ・フォン・スタンバーグ]]『[[モロッコ]]』と[[ロバート・テイラー]]&[[ヴィヴィアン・リー]]主演『[[哀愁]]』に[[グァルティエロ・ヤコペッティ]]監督によるイタリア映画『[[世界残酷物語]]』も絶賛している<ref>{{Cite book |和書 |author=谷充代 |date=2015-02 |title=「高倉健」という生き方 |publisher=新潮社 |series=[[新潮新書]] |pages=16、32<!--32p1 (32p1はミスタイプ?)-->、153頁 |isbn=978-4-10-610606-4}}</ref>。
 
 
 
[[高平哲郎]]インタビューで『[[ワイルドバンチ]]』や『[[ゲッタウェイ]]』で知られる[[サム・ペキンパー]]作品のファンであり、子供のころから映画が好きで特に洋画を見ていた、高校時代に見た[[ジョン・ウェイン]]映画の思い出に、[[シルヴェスター・スタローン]]の『[[ロッキー (映画)|ロッキー]]』は3回見た、[[ポール・ニューマン]]の『[[スラップ・ショット]]』が面白い、ポール・ニューマンや[[スティーブ・マックイーン]]、ヘンリー・フォンダは好きな役者と発言。ペキンパーでいえば監督作品『[[キラー・エリート (1975年の映画)|キラー・エリート]]』への出演オファーがあったという<ref>[[キネマ旬報]]2015年1月下旬号。B5。20723-01。24p-99pの「高倉健」追悼特集の「第三章 「日本」映画のスタアへ」76p-81pの1977年『[[ムービー・マガジン]]』12号のインタビュー再録より</ref>。マーロン・ブランド主演[[ベルナルド・ベルトルッチ]]監督によるイタリア映画の問題作『[[ラストタンゴ・イン・パリ]]』のような作品にでてもいいと発言<ref>[[キネマ旬報]]2015年1月下旬号。B5。20723-01。24p-99pの「高倉健」追悼特集の「第三章 「日本」映画のスタアへ」72p-75pのキネ旬1975年5月下旬号インタビュー再録より</ref>。[[映画評論家]]・[[翻訳家]]の[[山田宏一]]の高倉追悼記事によれば、高倉は[[フランス映画]]の巨匠[[ルネ・クレマン]]監督がフランス・アメリカ合作で監督したフィルムノワールの名作『[[狼は天使の匂い]]』が大好きであり、特に同作で[[アメリカ映画]]の名優[[ロバート・ライアン]]が演じた老ギャングのような役を演じてみたいと語っていた<ref>{{Cite journal |和書 |author=[[山田宏一]] |title=高倉健讃 |journal=[[キネマ旬報]] |issue=2015年1月下旬号 |publisher=キネマ旬報社 |pages=28-31 |ref=キネ旬追悼特集}}</ref>。高倉が主演した『[[冬の華]]』には高倉が好きな[[アラン・ドロン]]主演のフランスの犯罪映画の名作[[サムライ (映画)|サムライ]]の影響があるという<ref>[[#キネ旬追悼特集]]、24-99頁。</ref>。
 
 
 
[[中村努]]の前述の『[[冬の華]]』にはデニーロの『[[ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ]]』の影響も見られるという<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |title=高倉健 = Ken Takakura 1956-2014 |publisher=文藝春秋 |series=文春ムック |page=133-135 |isbn=978-4-16-008621-0 |ref=文春ムック}}</ref>。沢木耕太郎の発言によれば高倉は[[ジョン・フォード]]の『[[長い灰色の線]]』や[[リチャード・ギア]]主演の『[[愛と青春の旅立ち]]』も好き<ref>[[#文春ムック]]、64-83頁。</ref>で、NHKのインタビュー番組によれば[[笠智衆]]を尊敬しており、リドリーの『[[グラディエーター]]』が好きだという<ref>[[#文春ムック]]、84-101頁。</ref>。
 
 
 
=== 高倉ファンの著名人や高倉を尊敬している役者たち ===
 
[[黒澤明]]は自身の「映画ベスト100」的な企画で高倉主演の[[山田洋次]]『[[遥かなる山の呼び声]]』と[[向田邦子]]原作『[[あ・うん]]』の2本を入れている<ref>{{Cite book |和書 |year=2010 |title=増補新版 黒澤明 |publisher=[[河出書房新社]] |series=KAWADE夢ムック |pages=276、280頁 |isbn=978-4-309-97730-0}}河出書房新社このベスト100の初出は『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』1999年4月号。その他に日本版『[[PLAYBOY]]』2008年3月号にも再録され、2014年4月には文藝春秋より[[黒澤和子]]の解説つきで『黒澤明が選んだ100本の映画』ISBN 978-4-16-660967-3 として出ている。</ref>。
 
 
 
[[小説家]]の[[三島由紀夫]]は、高倉や[[鶴田浩二]]主演の[[任侠映画]]を好み、特に『[[昭和残侠伝 死んで貰います]]』を高評価していた<ref>[[三島由紀夫]]([[石堂淑朗]]との対談。司会・[[小川徹]])「戦争映画とやくざ映画」([[映画芸術]] 1971年2月号に掲載。対談実施日1970年10月21日)</ref>。
 
 
 
歌手・俳優の[[美輪明宏]]は『[[スポーツニッポン]]』の連載で高倉を尊敬しているという記事を書いた<ref>{{Cite book |和書 |author=[[美輪明宏]] |year=2012 |title=明るい明日を |publisher=[[パルコ|パルコ出版]] |pages={{要ページ番号|date=2018年8月}} |isbn=978-4-89194-944-0}}</ref>。
 
 
 
[[スタジオジブリ]]の[[鈴木敏夫]]は幼少のころから映画ファンであり、父と母の影響もあり邦画から洋画まで何でも見ていて、著書で高倉も好きな俳優にあげている<ref>{{Cite book |和書 |author=[[鈴木敏夫]] |year=2005 |title=映画道楽 |publisher=[[ぴあ]] |pages=11-13、47-49頁 |isbn=4-8356-1540-9}}</ref>。
 
 
 
香港の映画監督である[[ジョン・ウー]]は、『[[映画秘宝]]』2004年6月号と7月号のインタビューで高倉を憧れの映画スターの一人に挙げている{{Refnest|group="注釈"|『〈映画秘宝〉激動の20年史』にインタビューを再録<ref>{{Cite book |和書 |year=2015 |title=〈映画秘宝〉激動の20年史 |publisher=[[洋泉社]] |pages=158-167 |isbn=978-4-8003-0669-2}}</ref>。「[[チョウ・ユンファ]]を一目見たときに、[[アラン・ドロン]]やスティーブ・マックイーン、高倉健、クリント・イーストウッドといった憧れの映画スターを思い出した」と発言。}}。またウーの代表作『[[男たちの挽歌]]』のユンファの衣装やキャラは高倉主演の『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』や『[[ならず者 (1964年の映画)|ならず者]]』の影響があり、高倉主演の『[[駅 STATION]]』はリメイクしたい作品だと語っている<ref>「映画秘宝」2018年3月号のジョン・ウーのインタビュー</ref>。
 
 
 
文春ムック「高倉健 KenTakakura 1956-2014」によれば演出家の[[鴨下信一]]は「初心者はまず『[[網走番外地 (東映)|網走番外地]]』から初めよ」と発言<ref>[[#文春ムック]]、162-164頁。</ref>。前述の鈴木敏夫は『[[日本侠客伝 昇り龍]]』を「仁侠映画の最高傑作」としている<ref>[[#文春ムック]]、159-162頁。</ref>。また同書を書評した[[七つ森書館]]の編集者・[[上原昌弘]]は同評で「わたしにとって高倉健は『幸福の黄色いハンカチ』のヒト。号泣しましたねえ。」と発言<ref>{{Cite web |author=上原昌弘 |url=http://webronza.asahi.com/culture/articles/2015030400008.html |title=[書評]『高倉健 1956〜2014』 |work=[[論座|WEBRONZA]] |publisher=朝日新聞社 |accessdate=2018-08-01}}</ref>。
 
 
 
[[脚本家]]・[[小説家]]の[[野沢尚]]は1999年に[[キネマ旬報]]が行ったアンケートで[[降旗康男]]『[[駅 STATION]]』を選んでいる<ref>『キネマ旬報 1999年10月上旬特別号 NO.1293映画人が選ぶオールタイムベスト100(外国映画篇)』『キネマ旬報1999年10月下旬号NO.1294映画人が選んだオールタイムベスト100(日本映画篇)』の野沢のアンケートより。<!--他の作品は邦画では『[[砂の器]]』や[[降旗康男]]『[[駅 STATION]]』など、洋画では[[ドン・シーゲル]]『[[ダーティハリー]]』や[[ロナルド・ニーム]]『[[ポセイドン・アドベンチャー]]』[[ウィリアム・フリードキン]]『[[エクソシスト]]』[[シドニー・ルメット]]『[[狼たちの午後]]』[[アーサー・ペン]]『[[俺たちに明日はない]]』ジャン・ギャバン&アランドロン主演の[[ジョゼ・ジョヴァンニ]]『[[暗黒街のふたり]]』[[サム・ペキンパー]]『[[わらの犬]]』『[[ゲッタウェイ]]』等を選んでいる (高倉健本人と関係のない情報。)--></ref>。同企画でCM作家の[[石井克人]]は高倉の『[[幸福の黄色いハンカチ]]』をベスト作品に選んでいる<ref>1999年[[キネマ旬報]]の特別企画「特別企画・映画人が選んだオールタイム」の日本映画ベスト100」「外国映画ベスト100」<!--で[[出崎統]]『[[エースをねらえ! (劇場版)]] 』を自身のベスト1と語り、その他に洋画では『[[ローマの休日]]』や『[[ダイ・ハード]]』『[[ニューシネマ・パラダイス]]』、邦画では『[[ソナチネ (映画)|ソナチネ]]』や『[[七人の侍]]』『[[となりのトトロ]]』『[[伝説巨神イデオン]]発動篇』と共に自身のベスト作品に選んだ。--></ref>。
 
 
 
時代劇研究家の[[春日太一]]のインタビュー本で[[仲代達矢]]は、かつて「雲の上の存在」といわれ神秘性を持っていた映画俳優たちだが、インターネットなどの影響で神秘性がなくなり「役者」という重い響きが似合う俳優がいなくなった現在においても、神秘性を持つ数少ない役者として高倉の名を挙げている<ref><!--仲代達矢、春日太一 『仲代達矢が語る 日本映画黄金時代』 PHP研究所〈PHP新書〉(原著2013年1月)。ISBN 978-4569804187。-->{{Cite book |和書 |author=春日太一 |coauthors=仲代達矢(述) |year=2017 |title=仲代達矢が語る 日本映画黄金時代 |edition=完全版 |publisher=文藝春秋 |series=文春文庫 |page=208 |isbn=978-4-16-790932-1}}</ref>。
 
 
 
[[AKB48]]の元メンバーで、現在は[[俳優|女優]]の[[前田敦子]]は映画に関する自身の著書で、高倉の『[[幸福の黄色いハンカチ]]』を好きな映画に挙げている<ref>前田敦子の映画手帖(2015年4月20日、朝日新聞出版)ISBN 9784023314061 - [[AERA]]連載の「前田敦子@試写室」に新規原稿を加えて書籍化</ref> 。
 
 
 
=== その他 ===
 
映画関係者や旧友から、本名を「おだ ごういち」と呼ばれることが多く、高倉もそう呼ばれることを否定しなかったが、親族が呼ぶ本名は「おだ たけいち」であり、高倉の姪もそう証言している<ref>{{Cite book |和書 |author=[[森功]] |year=2017 |title=高倉健 七つの顔を隠し続けた男 |publisher=講談社 |pages=226-228 |isbn=978-4-06-220551-1}}</ref>。
 
後に北九州へ向かった<ref name="sonny" />。当地で北条の名を捨て『小松屋』の屋号で両替商を営み、後に[[筑前国]]藩主[[黒田氏#佐々木氏流を称する黒田氏|黒田家]]から名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになった<ref name="sonny" />。[[江戸時代]]末期に『東路日記』を記した、筑前国の[[庄屋]]の内儀・小田宅子(おだ いえこ)は[[先祖]]にあたる<ref>{{Cite news |url=http://www.sankei.com/column/news/141119/clm1411190003-n1.html |title=【産経抄】あなたに褒められたくて |newspaper=産経ニュース |publisher=産経デジタル |date=2014-11-19 |accessdate=2014-11-26}}</ref>。
 
 
 
[[バラエティ番組]]や[[トーク番組]]への出演は『[[スター千一夜]]』『[[ズバリ!当てましょう]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])、『[[土曜大好き!830]]』([[関西テレビ放送|関西テレビ]])、『[[徹子の部屋]]』([[テレビ朝日]])や、親交のある[[田中邦衛]]・[[北大路欣也]]と3人で出演した[[1980年]]の『[[すばらしき仲間]]』([[CBCテレビ|中部日本放送]])程度であったが、平成になってからは、新作映画の[[宣伝|プロモーション]]を兼ねて『[[SMAP×SMAP]]』(1997年9月15日、関西テ
 
祖先は[[鎌倉時代]]の[[執権]][[北条氏|北条家]]の一門である[[名越氏]]の一族・刈田式部大夫と言われた[[北条篤時]]で、篤時の子孫が西国に移り、[[大内氏]]に仕えたレビ・フジテレビ)や、2001年5月17日には『[[クローズアップ現代]]』「第1424回 高倉健 素顔のメッセージ」([[日本放送協会|NHK]]) で[[国谷裕子]]からのインタビューを受けている。ちなみに『SMAP×SMAP』([[BISTRO SMAP]]) にゲスト出演したこの回は、2005年12月26日に放送された同番組の[[特別番組|特番]]『SMAP×SMAP 歴史的瞬間全部見せます!! 史上最強の4時間半SP!!』で視聴者から寄せられた『BISTRO SMAP名場面リクエスト』第1位に輝いている。
 
 
 
草彅剛にサプライズで出演したいという高倉自らの希望が実現し、2012年8月に放送された生放送のテレビ番組に生で出演した。同番組の放送内容は主演映画『あなたへ』の公開に際しての高倉健特集で、当映画に出演し高倉と共演した草彅が生出演することは告知され、前述の理由から高倉が生出演することは草彅のみならず視聴者にも事前に知らされなかった。同番組には、草彅が撮影外のことで、高倉に呼ばれてホテルで二人で朝食をとったときのエピソードを話している最中に登場した。高倉にとって15年ぶりのテレビ番組のゲスト出演で、高倉が生放送の番組に出演するのは初<ref name="SSKT">『SmaTIMES』([[フリーペーパー]])#470、2012年8月。</ref>、かつ、生涯で一度きりのこととなった<ref name = "日刊大衆・共演者" />。翌月8日と『[[プロフェッショナル 仕事の流儀]] 高倉健スペシャル』と10日に放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健インタビュースペシャル』([[日本放送協会|NHK]])では『あなたへ』の撮影現場への長期密着取材に応じ、俳優生活56年にして初めて自身のプライベートに関することや本音、俳優としての信条などの一部を明らかにしている。
 
 
 
『[[オレたちひょうきん族]]』に出演したかったらしく、ビートたけしに「僕にもひょうきん族出演の機会をください」と署名した写真を渡したことがあるが、それを聞いた[[高田文夫]]は「『[[タケちゃんマン]]』に弟子の“ケンちゃんマン”を出そう」と提案している<ref>[[#幸せ丸十年]]、186頁。</ref>。
 
 
 
[[1972年]]、東映の先輩である[[萬屋錦之介]](年は高倉の方が1歳上)の勧めで[[神奈川県]]の鎌倉霊園に生前墓を建立している。この墓所内には上述にある、「この世に生を受けなかった我が子」のために、水子地蔵も建てられている<ref>{{Cite web |url=http://jisin.jp/news/2552/4621/ |title=高倉健 あなたへ…30年間続けいていた「亡き妻への極秘墓参り」 |work=[[女性自身]] |publisher=光文社 |date=2012-08-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130818062230/http://jisin.jp/news/2552/4621/ |archivedate=2013-08-18 |accessdate=2014-01-19}}</ref>。
 
 
 
[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]の人気番組『[[大沢悠里のゆうゆうワイド]]』のファンであり、同番組からゲスト出演のオファーがあったが、映画撮影のため出演は叶わなかった。後日、同番組宛に、その旨を伝える手紙を送っている。
 
 
 
高倉と親しかった[[横尾忠則]]によると、高倉は1970年(昭和45年)11月25日に起こった[[三島事件]]に触発され、[[三島由紀夫]]の映画を製作する予定だったという<ref name="yokoo">[[横尾忠則]]「追悼・高倉健 幻となった[[三島由紀夫]]映画」([[中央公論]] 2015年正月号に掲載)</ref>。具体的プランも煮詰まり、[[ロスアンゼルス]]へ何度も渡航していた高倉について横尾は、「次第に健さんのなかに三島さんが乗り移っていくかのようで、僕は三島さんの[[霊]]が高倉健さんに映画を作らせようとしているのだなと感じていました」と述懐している<ref name="yokoo" />。ところが土壇場で未亡人([[平岡瑤子]])の了解が得られず映画製作を断念せざるを得なくなった。仕方なく高倉健は横尾に電話してきて、[[多磨霊園]]に一緒の墓参りに行きましょうと誘い、「[[カメラ]]を持ってきて下さい。一緒に撮りましょう」と言ったという<ref name="yokoo" />。また、三島は前述の通り高倉や鶴田の主演した仁侠映画のファンである。三島事件当日も、[[市ヶ谷駐屯地]]へ向かう車内では、他の「[[楯の会]]」メンバーと『唐獅子牡丹』を歌っている<ref>{{Cite book |和書 |editor=[[伊達宗克]] 編 |year=1972 |title=裁判記録 「三島由紀夫事件」 |publisher=[[講談社]] |pages={{要ページ番号|date=2018年8月}} }}</ref>。
 
 
 
[[勝新太郎]]と最初で最後の共演を果たした[[斎藤耕一]]監督作『無宿』は、[[アラン・ドロン]]主演[[ロベール・アンリコ]]監督によるフランス映画の名作『[[冒険者たち]]』をモチーフにした作品である<ref>{{Cite journal |和書 |title=天晴れ! 時代劇 |journal=キネマ旬報 |issue=臨時増刊1997年12月16日号(通巻第1243号) |pages=53-54}}</ref>。また勝は高倉が出演したアメリカ映画『[[ブラック・レイン]]』で、勝の兄の[[若山富三郎]]演じたヤクザ役の当初の候補であった<ref>{{Cite book |和書 |author=[[田崎健太]] |year=2011 |title=偶然完全 勝新太郎伝 |publisher=講談社 |pages=293-296 |isbn=978-4-06-217474-9}}</ref>。
 
<!-- また『[[ブラック・レイン]]』を鑑賞した関西人の間には「あんなん(『ブラック・レイン』)は[[大阪]]の町と違うで!」という笑い話があり、高倉が演じる刑事が[[小野みゆき]]演じるヤクザの愛人を尾行する場面がそれである。高倉は大阪で小野を尾行していたにも関わらず次の場面で2人がいる場所は[[神戸]]の[[元町 (神戸市)|]]であり「2人とも歩いて大阪から神戸まで行ったのか!」と関西に土地勘がある人間は唖然とする、という事になる<ref>[[古山敏幸]]『映画伝説 [[ジャン=ピエール・メルヴィル]]』(フィルムアート社、2009年、ISBN 978-4845909407)。同書のリノ・ヴァンチュラ主演の評に記載。</ref>。(このくだりは映画の項目に記すほうが適切なのでは?)-->
 
 
 
[[東京国際空港|羽田空港]]で高倉が[[ジャイアント馬場]]に声をかけた際には、馬場は高倉健が誰かわからず「俳優? 水戸黄門には出てねえだろ」と付き人に答え軽くあしらった<ref>{{Cite news |title=「高倉健」を“シカト”した「ジャイアント馬場」の素顔とは |newspaper=[[産業経済新聞社|IZA!]] |date=2014-12-13 |url=http://www.iza.ne.jp/kiji/sports/news/141213/spo14121312090026-n3.html |accessdate=2018-08-01}}</ref>といったエピソードがある。
 
 
 
ドキュメンタリー映画『[[健さん]]』での山下義明 (東映の演技事務担当)の証言によると、高倉は朝が弱く、東映時代は毎日20分ほど必ず遅刻して現れた。
 
 
 
やはりドキュメンタリー映画『[[健さん]]』での西村泰治(元・付き人)の証言によると、映画の中で多くの人を殺した罪への対処として、[[大津]]・[[長寿院]]の滝に参っていたという。
 
 
 
== 受賞・受章 ==
 
* [[第1回日本アカデミー賞]]・最優秀主演男優賞([[1978年]])<ref>{{Cite web |url=http://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=1#title04 |title=第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞 |publisher=日本アカデミー協会 |accessdate=2014-01-19}}</ref> - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
 
* 第4回日本アカデミー賞・最優秀主演男優賞([[1981年]])<ref>{{Cite web |url=http://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=4#title04 |title=第4回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞 |publisher= 日本アカデミー協会 |accessdate=2014-01-19}}</ref> - 『動乱』、『[[遥かなる山の呼び声]]』
 
* [[第5回日本アカデミー賞]]・最優秀主演男優賞([[1982年]])<ref>{{Cite web |url=http://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=5#title04 |title=第5回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞 |publisher=日本アカデミー協会 |accessdate=2014-01-19}}</ref> - 『駅 STATION』
 
* [[第23回日本アカデミー賞]]・最優秀主演男優賞([[2000年]])<ref>{{Cite web |url=http://www.japan-academy-prize.jp/prizes/?t=23#title04 |title=第23回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞 |publisher=日本アカデミー協会 |accessdate=2014-01-19}}</ref> - 『鉄道員(ぽっぽや)』
 
* [[第37回日本アカデミー賞]] 協会栄誉賞(2013年)<ref>{{Cite web |url=http://www.japan-academy-prize.jp/prizes/37.html#title24 |title=第37回日本アカデミー賞協会栄誉賞 |publisher=日本アカデミー協会 |accessdate=2014-01-19}}</ref>
 
* 第1回[[エランドール賞]]1956年度・新人賞
 
* 第22回[[エランドール賞]]1978年度・特別賞
 
* 第20回[[ブルーリボン賞 (映画)#第20回(1977年度)|ブルーリボン賞]] 1977年度・主演男優賞 - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
 
* 第42回[[ブルーリボン賞 (映画)#第42回(1999年度)|ブルーリボン賞]] 1999年度・主演男優賞 - 『鉄道員(ぽっぽや)』
 
* 第32回 [[1977年]] [[毎日映画コンクール]]・男優演技賞 - 『幸福の黄色いハンカチ』
 
* 第2回 1977年 [[報知映画賞]]・主演男優賞 - 『八甲田山』、『幸福の黄色いハンカチ』
 
* 第37回 [[2012年]] 報知映画賞・主演男優賞 - 『あなたへ』
 
* 第39回 [[2014年]] 報知映画賞・特別賞<ref>{{Cite news |url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/feature/hochi_eigashou/20141127-OHT1T50279.html |title=【報知映画賞】健さん、選考会1時間前に突然の悲報 次世代が功績受け継ぐ |newspaper=スポーツ報知 |publisher=報知新聞社 |date=2014-11-28 |accessdate=2014-12-01 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141205234846/http://www.hochi.co.jp/entertainment/feature/hochi_eigashou/20141127-OHT1T50279.html |archivedate=2014-12-05}}</ref>
 
* 第25回 2012年 [[日刊スポーツ映画大賞]]・主演男優賞 - 『あなたへ』
 
* 第27回 2014年 日刊スポーツ映画大賞・特別賞<ref>{{Cite news |url=http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp1-20141204-1404422.html |title=健さんに満場一致の特別賞/映画大賞 |newspaper=nikkansports.com |publisher=日刊スポーツ新聞社 |date=2014-12-04 |accessdate=2014-12-05}}</ref>
 
* 第23回[[モントリオール世界映画祭]]・主演男優賞
 
* 第51回 1977年 [[キネマ旬報]]・主演男優賞
 
* 第73回 [[1999年]] キネマ旬報・主演男優賞
 
* 1978年度[[アジア太平洋映画祭]]・主演男優賞
 
* 1982年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
 
* 1990年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
 
* 1999年度アジア太平洋映画祭・主演男優賞
 
* 2007年度サンディエゴ映画批評家協会・主演男優賞
 
* [[紫綬褒章]] [[1998年]]
 
* [[文化功労者]] [[2006年]]
 
* 第60回 [[菊池寛賞]] [[2012年]]
 
* [[文化勲章]] [[2013年]]
 
 
 
== 出演 ==
 
<small>☆太字は[[主演]]作品。</small>
 
=== 映画 ===
 
==== 東映(〜1975年) ====
 
[[1956年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[電光空手打ち]] - '''主演'''・'''忍勇作''' <small>※デビュー作</small>
 
* [[流星空手打ち]] - '''主演'''・'''忍勇作'''
 
* [[無敵の空手! チョップ先生]] - 有沢安治
 
* [[大学の石松]] - '''主演'''・'''石田松夫'''
 
* [[にっぽんGメン 特別武装班出動]] - 園川刑事
 
* '''大学の石松 ぐれん隊征伐''' - '''主演'''・'''石田松夫'''
 
* '''大学の石松 太陽族に挑戦す''' - '''主演'''・'''石田松夫'''
 
* [[夕日と拳銃 日本篇 大陸篇]] - 伊達慎太郎
 
* [[母孔雀]] - 紅谷俊夫
 
* [[拳銃を捨てろ]] - '''主演'''・'''柳光'''
 
* [[恐怖の空中殺人]] - 島田寿夫
 
}}
 
[[1957年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[喧嘩社員]] - '''主演'''・'''谷'''
 
* [[無敵社員]] - '''主演'''・'''谷'''
 
* [[第十三号棧橋]] - '''主演'''・'''矢間大吉'''
 
* '''大学の石松 女群突破''' - '''主演'''・'''石田松夫'''
 
* [[多情仏心]] - 西山普烈
 
* [[日清戦争風雲秘話 霧の街]] - 結城欽之助
 
* [[鯨と斗う男]] - '''主演'''・'''山上洋介'''
 
* [[青い海原]] - 浜田健次
 
* [[血まみれの決闘]] - '''主演'''・'''牛島五郎'''
 
* [[ジェット機出動 第101航空基地]] ‐ 中田次郎
 
}}
 
[[1958年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[娘十八御意見無用]] - 井上章吾
 
* [[多羅尾伴内]] 十三の魔王 - 塚崎譲吉
 
* [[台風息子 修学旅行の巻]] - 草上行彦
 
* [[台風息子 最高殊勲の巻]] - 草上行彦
 
* [[非常線]] - '''主演'''・'''小堀千代太'''
 
* [[恋愛自由型]] - 仙波隆也
 
* [[季節風の彼方に]] - 幸田先生
 
* [[奴の拳銃は地獄だぜ]] - 田村警部
 
* [[ひばりの花形探偵合戦]] - 三田村英次
 
* [[空中サーカス 嵐を呼ぶ猛獣]] - '''主演'''・'''山崎千吉'''
 
* [[希望の乙女]] - 相原丈二
 
* [[森と湖のまつり]] - '''主演'''・'''風森一太郎'''
 
* [[娘の中の娘]] - 石岡宏
 
}}
 
[[1959年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[旋風家族]] - 田村五郎
 
* [[無法街の野郎ども]] - 曽根文雄
 
* [[黒い指の男]] - '''主演'''・'''三田新吉'''
 
* [[獣の通る道]] - '''主演'''・'''鹿沢慎二'''
 
* [[国際スリラー映画 漂流死体]] - 山中
 
* [[地獄の底までつき合うぜ]] - 碇幹夫
 
* [[疑惑の夜]] - 久里/島<small>※二役</small>
 
* [[静かなる兇弾]] - '''主演'''・'''田口刑事'''
 
* [[高度7000米 恐怖の四時間]] - 山本桂三
 
* [[空港の魔女]] - '''主演'''・'''芦沢良平'''
 
}}
 
[[1960年の日本公開映画|1960年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[天下の快男児 万年太郎]] - '''主演'''・'''万年太郎'''
 
* [[二発目は地獄行きだぜ]] - キッドの謙
 
* [[続 べらんめえ芸者]] - 二宮卓也
 
* [[大いなる旅路]] - 岩見静夫
 
* [[ずべ公天使]] - 岸田
 
* [[大空の無法者]] - '''主演'''・'''佐竹吾郎'''
 
* [[天下の快男児 突進太郎]] - '''主演'''・'''突進太郎'''
 
* [[続々 べらんめえ芸者]] - 田所雄作
 
* [[砂漠を渡る太陽]] - 梁
 
* [[殴り込み艦隊]] - '''主演'''・'''石山中尉'''
 
* [[男ならやってみろ]] - '''主演'''・'''梶村五郎'''
 
}}
 
[[1961年の日本公開映画|1961年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[べらんめえ芸者罷り通る]] - 花村健一
 
* [[俺が地獄の手品師だ]] - 立花丈次
 
* [[天下の快男児 旋風太郎]] - '''主演'''・'''旋風太郎'''
 
* [[男の血潮がこだまする]] - 朝倉鉄男
 
* [[魚河岸の女石松]] - 喜多川達也
 
* [[花と嵐とギャング]] - スマイリー健
 
* [[ひばり民謡の旅 べらんめえ芸者佐渡へ行く]] - 竜太
 
* [[万年太郎と姐御社員]] - '''主演'''・'''万年太郎'''
 
* [[べらんめえ中乗りさん]] - 岡健一
 
* [[悪魔の手毬唄]] - '''主演'''・'''[[金田一耕助]]'''
 
}}
 
[[1962年の日本公開映画|1962年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[南太平洋波高し]] - 近藤
 
* [[べらんめえ芸者と大阪娘]] - 桧山圭吉
 
* [[二・二六事件 脱出]] - 小宮曹長
 
* [[恋と太陽とギャング]] - '''主演'''・'''石浜伸夫'''
 
* [[千姫と秀頼]] - 片桐隼人
 
* [[黄門社長漫遊記]] - 佐々助三郎
 
* [[民謡の旅・桜島 おてもやん]] - 立神修平
 
* [[東京丸の内]] - '''主演'''・'''加部一喜'''
 
* [[三百六十五夜]] - 川北小六
 
* [[暗黒街最後の日]] - 真木鉄雄
 
* [[東京アンタッチャブル]] - 原田芳夫
 
* [[遊民街の銃弾]] - 高木健二
 
* [[裏切者は地獄だぜ]] - 青野
 
}}
 
[[1963年の日本公開映画|1963年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[暗黒街の顔役 十一人のギャング]] - 沢上
 
* [[第八空挺部隊 壮烈鬼隊長]] - 岡田[[一等陸佐]]
 
* [[暴力街 (1963年の映画)|暴力街]] - '''主演'''・'''小木曽俊介'''
 
* [[人生劇場 飛車角]] - 宮川健
 
* [[東京アンタッチャブル 脱走]] - 原田芳夫
 
* [[最後の顔役]] - 嶋中悠治
 
* [[親分を倒せ]]/ - '''主演'''・'''吉岡'''
 
* [[暗黒街最大の決斗]] - 松岡真平
 
* [[宮本武蔵 二刀流開眼]] - [[佐々木小次郎]]
 
* [[恐喝 (1963年の映画)|恐喝]] - '''主演'''・'''矢吹輝男'''
 
* [[ギャング忠臣蔵]] - 浅野卓己
 
* [[鬼検事]] - '''主演'''・'''野上英一'''
 
}}
 
[[1964年の日本公開映画|1964年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[宮本武蔵 一乗寺の決斗]] - 佐々木小次郎
 
* [[東京ギャング対香港ギャング]] - 北原
 
* [[ジャコ万と鉄]] - '''主演'''・'''鉄'''
 
* [[ならず者 (1964年の映画)|ならず者]] - '''主演'''・'''南条'''
 
* [[暗黒街大通り]] - '''主演'''・'''忍鉄也'''
 
* [[日本侠客伝シリーズ|日本侠客伝]] - '''主演'''・'''辰巳の長吉''' <small>{{要出典範囲|date=2015年11月|※年度別日本映画の国内興行成績5位}}</small>
 
* [[狼と豚と人間]] - 黒木次郎
 
* [[いれずみ突撃隊]] - 衆木一等兵
 
}}
 
[[1965年の日本公開映画|1965年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[顔役 (1965年の映画)|顔役]] - 早見恭一
 
* [[飢餓海峡]] - 味村時雄・東舞鶴署捜査係長
 
* [[日本侠客伝 浪花篇]] - '''主演'''・'''藤川宗次'''
 
* [[網走番外地 (東映)|網走番外地]] - '''主演'''・'''橘真一'''
 
* [[続 網走番外地]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績6位</small>
 
* [[日本侠客伝 関東篇]] - '''主演'''・'''緒方勇''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績5位</small>
 
* [[宮本武蔵 巌流島の決斗]] - 佐々木小次郎
 
* [[昭和残侠伝 (1965年の映画)|昭和残侠伝]] - '''主演'''・'''寺島清次'''
 
* [[網走番外地 望郷篇]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績4位</small>
 
* [[網走番外地 北海篇]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績2位</small><ref>{{Cite web |url=http://www.ir-p.com/eiga/eiga65/eiga1965.html |title=映画1965興行成績 |work=RetroFun |accessdate=2016-10-08}}{{信頼性要検証|title=個人サイト|date=2016年10月}}</ref>{{信頼性要検証|title=個人サイト|date=2016年10月}}
 
}}
 
[[1966年の日本公開映画|1966年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[昭和残侠伝 唐獅子牡丹]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
* [[日本侠客伝 血斗神田祭り]] - '''主演'''・'''新三'''
 
* [[網走番外地 荒野の対決]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績9位</small>
 
* [[男の勝負]] - 千住小太郎
 
* [[昭和残侠伝 一匹狼]] - '''主演'''・'''武井繁次郎'''
 
* [[網走番外地 南国の対決]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績3位</small>
 
* [[日本侠客伝 雷門の決斗]] - '''主演'''・'''平松信太郎'''
 
* [[地獄の掟に明日はない]] - '''主演'''・'''滝田一郎'''
 
* [[網走番外地 大雪原の対決]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績1位</small>
 
}}
 
[[1967年の日本公開映画|1967年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[日本侠客伝 白刃の盃]] - '''主演'''・'''大喜多俊二'''
 
* [[網走番外地 決斗零下30度]] - '''主演'''・'''橘真一'''
 
* [[あゝ同期の桜]] - 剣持大尉 <small>※年度別日本映画の国内興行成績7位</small>
 
* [[昭和残侠伝 血染めの唐獅子]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
* [[網走番外地 悪への挑戦]] - '''主演'''・'''橘真一''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績10位</small>
 
* [[日本侠客伝 斬り込み]] - '''主演'''・'''中村真三'''
 
* [[侠客の掟]] - 石神常治 ※[[特別出演]]
 
* [[侠骨一代]] - 伊吹竜馬
 
* [[網走番外地 吹雪の斗争]] - '''主演'''・'''橘真一'''
 
}}
 
[[1968年の日本公開映画|1968年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[日本侠客伝 絶縁状]] - '''主演'''・'''浜田勇吉'''
 
* [[獄中の顔役]] - 速水恭
 
* [[荒野の渡世人]] - '''主演'''・'''ケン・カトウ'''
 
* [[侠客列伝]] - 大倉伊之助 <small>※年度別日本映画の国内興行成績7位</small>
 
* [[緋牡丹博徒シリーズ|緋牡丹博徒]] - 片桐直治 ※特別出演
 
* [[ごろつき (映画)|ごろつき]] - '''主演'''・'''大場勇'''
 
* [[人生劇場 飛車角と吉良常]] - 宮川 <small>※年度別日本映画の国内興行成績10位</small>
 
* [[新 網走番外地 (映画)|新 網走番外地]] - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
* [[博徒列伝]] - 富士上健吉 <small>※年度別日本映画の国内興行成績3位</small>
 
}}
 
[[1969年の日本公開映画|1969年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[緋牡丹博徒 花札勝負]] - 花岡彰吾
 
* [[昭和残侠伝 唐獅子仁義]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
* [[緋牡丹博徒 二代目襲名]] - 矢代幸次
 
* [[戦後最大の賭場]] - 本庄周三
 
* [[懲役三兄弟]] - 陣野勇次郎 ※特別出演
 
* [[日本侠客伝 花と龍]] - '''主演'''・'''玉井金五郎''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績同率7位</small>
 
* [[日本女侠伝 侠客芸者]] - 島田清吉
 
* [[新網走番外地 流人岬の血斗]] - '''主演'''・'''末広勝治''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績同率7位</small>
 
* [[日本暗殺秘録]] - [[相沢三郎]] <small>※年度別日本映画の国内興行成績9位</small>
 
* [[昭和残侠伝 人斬り唐獅子]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
* [[渡世人列伝]] -  佃銀次郎
 
* [[新網走番外地 さいはての流れ者]] - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
}}
 
[[1970年の日本公開映画|1970年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[日本女侠伝 真赤な度胸花]] - 風見五郎
 
* 博徒一家 - 桜井良治
 
* [[捨て身のならず者]] - '''主演'''・'''矢島'''
 
* [[日本ダービー 勝負]] - 島崎清三郎
 
* [[遊侠列伝]] - '''主演'''・'''川又辰五郎'''
 
* 新網走番外地 大森林の決斗 - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
* [[昭和残侠伝 死んで貰います]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
* [[最後の特攻隊]] - 矢代中尉
 
* [[日本侠客伝 昇り龍]] - '''主演'''・'''玉井金五郎'''
 
* [[新網走番外地 吹雪のはぐれ狼]] - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
}}
 
[[1971年の日本公開映画|1971年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[日本やくざ伝 総長への道]] - '''主演'''・'''不動竜太郎'''
 
* [[日本女侠伝 血斗乱れ花]] - 吉岡幸次
 
* [[日本侠客伝 刃]] - '''主演'''・'''鉄砲松吉'''
 
* [[ごろつき無宿]] - '''主演'''・'''武田勇'''
 
* [[新網走番外地 嵐を呼ぶ知床岬]] - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
* [[昭和残侠伝 吼えろ唐獅子]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
* [[任侠列伝 男]] - 花川佐吉
 
* [[新網走番外地 吹雪の大脱走]] - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
}}
 
[[1972年の日本公開映画|1972年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[純子引退記念映画 関東緋桜一家|関東緋桜一家]] - 倉元信三
 
* [[望郷子守唄]] - '''主演'''・'''田川正一'''
 
* [[博奕打ち外伝]] - 花井栄次(睦会宗家代貸)
 
* [[新網走番外地 嵐呼ぶダンプ仁義]] - '''主演'''・'''末広勝治'''
 
* [[昭和残侠伝 破れ傘]] - '''主演'''・'''花田秀次郎'''
 
}}
 
[[1973年の日本公開映画|1973年]]
 
* [[山口組三代目 (映画)|山口組三代目]] - '''主演'''・'''[[田岡一雄]]'''
 
* [[現代任侠史]] - '''主演'''・'''島谷良一'''
 
* [[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]] - '''主演'''・'''[[ゴルゴ13 (架空の人物)|デューク東郷]]''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績7位(『[[女囚さそり 701号怨み節]]』との併映)</small>
 
[[1974年の日本公開映画|1974年]]
 
* [[三代目襲名]] - '''主演'''・'''田岡一雄''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績4位(2本立て)</small>
 
[[1975年の日本公開映画|1975年]]
 
{{columns-list|2|
 
* [[日本任侠道 激突篇]] - '''主演'''・'''竜崎市蔵'''
 
* [[大脱獄 (1975年の映画)|大脱獄]] - '''主演'''・'''梢一郎'''
 
* [[新幹線大爆破]] - '''主演'''・'''沖田哲男'''
 
* [[神戸国際ギャング]] - '''主演'''・'''団正人'''
 
}}
 
 
 
==== 東映以外 ====
 
(1976年独立以降の東映作品含む)
 
* [[カミカゼ野郎 真昼の決斗]] ([[1966年]]、[[文芸プロダクションにんじんくらぶ|にんじんプロダクション]] / 國光影業) - 黒木史男
 
* [[祇園祭 (1968年の映画)|祇園祭]] ([[1968年の日本公開映画|1968年]]、日本映画復興協会) - 巽組代表
 
* [[燃える戦場]] ([[1970年]]、アソシエーツ & アルドリッチ・カンパニー / パロマー / ABCピクチャーズ) - 山口[[少佐]]
 
* [[無宿 (映画)|無宿]] ([[1974年]][[10月]]、[[勝新太郎|勝プロ]]) - 穴吹錠吉
 
* [[ザ・ヤクザ]] (1974年[[12月]]、[[ワーナー・ブラザース]]) - '''主演'''・'''田中健'''
 
* [[君よ憤怒の河を渉れ]] ([[1976年の日本公開映画|1976年]]、[[永田雅一|永田プロ]] / [[大映]]) - '''主演'''・'''杜丘冬人'''<small>※東映退社後第一作</small>
 
* [[八甲田山 (映画)|八甲田山]] ([[1977年の日本公開映画|1977年]][[6月]]、橋本プロ / [[東宝]] / [[シナノ企画]]) - '''主演'''・'''徳島大尉''' (第1大隊第2中隊長)<small>※[[日本アカデミー賞#日本アカデミー賞歴代受賞作品|日本アカデミー賞]] 最優秀主演男優賞、[[ブルーリボン賞 (映画)#第20回(1977年度)|ブルーリボン賞]] 主演男優賞 ※年度別日本映画の国内興行成績1位</small>
 
* [[幸福の黄色いハンカチ]] (1977年[[10月]]、[[松竹]]) - '''主演'''・'''島勇作''' <small>※[[日本アカデミー賞#日本アカデミー賞歴代受賞作品|日本アカデミー賞]] 最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞 主演男優賞</small>
 
* [[冬の華]] (1978年[[6月]]、東映) - '''主演'''・'''加納秀次'''
 
* [[野性の証明]] ([[1978年の日本公開映画|1978年]][[10月]]、[[角川春樹事務所]]) - '''主演'''・'''味沢岳史'''- <small>※年度別日本映画の日本興行成績1位</small>
 
* [[動乱 (映画)|動乱]] ([[1980年の日本公開映画|1980年]][[1月]]、[[東映]] / シナノ企画) - '''主演'''・'''宮城啓介'''- <small>※日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞 ※年度別日本映画の国内興行成績10位</small>
 
* [[遙かなる山の呼び声]] (1980年[[3月]]、松竹) - '''主演'''・'''田島耕作''' <small>※日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞</small>
 
* [[ちゃんばらグラフィティー 斬る!]] (1981年[[4月]]、東映) <small>※出演場面の抜粋</small>
 
* [[駅 STATION]] ([[1981年の日本公開映画|1981年]][[11月]]、東宝) - '''主演'''・'''三上英次'''- <small>※日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞 ※年度別日本映画の国内興行成績7位</small>
 
* [[刑事物語]] ([[1982年の日本公開映画|1982年]][[4月]]、[[キネマ旬報]])  - 三上刑事 <small>※[[友情出演]]</small>
 
* [[海峡 (映画)|海峡]] (1982年[[10月]]、東宝) - '''主演'''・'''阿久津剛''' <small>※[[東宝]]創立50周年記念作品、[[文部省]]特選</small>
 
* [[南極物語]] ([[1983年の日本公開映画|1983年]][[7月]]、[[フジテレビジョン]] / [[学習研究社]] / [[蔵原惟繕|蔵原プロダクション]]) - '''主演'''・'''潮田暁''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績1位</small>
 
* [[居酒屋兆治]] (1983年[[11月]]、田中プロ) - '''主演'''・'''兆治 (藤野英治)'''
 
* [[夜叉 (映画)|夜叉]] ([[1985年の日本公開映画|1985年]]、東宝 / グループ・エンカウンター) - '''主演'''・'''修治'''
 
* [[海へ 〜See you〜]] ([[1988年の日本公開映画|1988年]]、ニュー・センチュリー・プロデューサーズ) - '''主演'''・'''本間英次'''
 
* [[ブラック・レイン]] ([[1989年]][[10月]]、[[パラマウント映画]]) - 松本正博警部補 <small>※年度別外国映画の国内興行成績5位</small>
 
* [[あ・うん#映画|あ・うん]] (1989年[[11月]]、東宝 / フィルムフェイス) - '''主演'''・'''門倉修造''' <small>※日本アカデミー賞 優秀主演男優賞</small>
 
* [[ミスター・ベースボール]] ([[1993年]]、[[ユニバーサル映画]]) - 内山監督
 
* [[四十七人の刺客]] ([[1994年の日本公開映画|1994年]]、東宝 / [[日本テレビ放送網]] / [[サントリー]]) - '''主演'''・'''[[大石良雄|大石内蔵助]]''' <small>※日本アカデミー賞 優秀主演男優賞</small>
 
* [[鉄道員 ぽっぽや|鉄道員(ぽっぽや)]] ([[1999年の日本公開映画|1999年]]、「鉄道員」製作委員会) - '''主演'''・'''佐藤乙松''' - <small>※年度別日本映画の国内興行成績3位 ※日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞、[[ブルーリボン賞 (映画) #第42回(1999年度)|ブルーリボン賞]] 主演男優賞</small>
 
* [[ホタル (映画)|ホタル]] ([[2001年の日本公開映画|2001年]]、「ホタル」製作委員会) - '''主演'''・'''山岡秀治''' <small>※年度別日本映画の国内興行成績9位</small>
 
* [[単騎、千里を走る。]] ([[2005年の日本公開映画|2005年]]、北京新画面影業 / 張芸謀電影工作室 / 東宝) - '''主演'''・'''高田剛一''' <small>※2007年度サンディエゴ映画批評家協会 主演男優賞</small>
 
* [[あなたへ]] ([[2012年の日本公開映画|2012年]]、東宝) - '''主演'''・'''倉島英二''' <small>※遺作、第37回2012年報知映画賞 主演男優賞、第25回2012年日刊スポーツ映画大賞 主演男優賞</small>
 
 
 
=== ドラマ ===
 
;テレビドラマ
 
:* [[ぼんぼん頑張る]] ([[1956年]]<!--4月4日  - 7月4日-->、[[TBSテレビ|KRテレビ]])
 
:* [[金曜ドラマ (TBS)|金曜ドラマ]] /  [[あにき]] ([[1977年]]<!--10月7日 - 12月30日-->、[[Japan News Network|TBS系]]) - '''主演'''・'''神山栄次'''
 
:* [[土曜ドラマ (NHK)|土曜ドラマ]] ([[日本放送協会|NHK]])
 
:** [[チロルの挽歌]] ([[1992年]]<!--4月11日 - 4月18日-->) - '''主演'''・'''立石実郎''' <small>※第29回[[ギャラクシー賞]] 奨励賞</small>
 
:** [[刑事 蛇に横切られる]] ([[1995年]]<!--7月1日-->) - '''主演'''・'''秋庭実'''
 
:* [[金曜エンタテイメント]] / [[これから 海辺の旅人たち]] ([[1993年]]<!--5月21日-->、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) - '''主演'''・'''津田武彦''' <small>※[[日本民間放送連盟賞]]テレビドラマ部門 最優秀賞受賞</small>
 
:<!-- この「:」は削除しないでください。[[Help:箇条書き]]参照 -->
 
;ラジオドラマ
 
:* [[羆嵐]] ([[1980年]]<!--3月23日-->、[[TBSラジオ&コミュニケーションズ|TBSラジオ]]) - '''主演'''・'''山岡銀四郎'''<small>※[[放送文化基金賞]] 第7回ドラマ番組部門奨励賞</small>
 
 
 
=== ドキュメンタリー ===
 
* [[金曜スペシャル]]「決定版 これが高倉健だ!」([[1971年]][[3月12日]]、[[東京12チャンネル]])
 
* むかし男ありけり ([[1984年]]、[[RKB毎日放送]]) - [[檀一雄]]の足跡を高倉が案内 <small>※同年[[芸術祭 (文化庁)]] テレビ[[ドキュメンタリー]]の部 優秀賞受賞</small>
 
* 高倉健 旅の途中で… ([[1996年]] - [[2000年]]、[[ニッポン放送]])<small>※ギャラクシー賞(第34回奨励賞)、放送文化基金賞(第25回企画賞)</small>
 
* [[NHKスペシャル]]「高倉健が出会った中国」 ([[2005年]][[11月19日]]、NHK) - 映画「[[単騎、千里を走る。]]」撮影時のドキュメンタリー
 
* [[プロフェッショナル 仕事の流儀]] 「高倉健スペシャル」 ([[2012年]][[9月8日]]、NHK)
 
** 『あなたへ』撮影現場への長期密着
 
* プロフェッショナル 仕事の流儀 「高倉健インタビュースペシャル」 ([[2012年]][[9月10日]]、NHK)
 
** ロングインタビューと共演者の証言で構成
 
* [[昭和偉人伝]]([[2016年]][[3月9日]]、[[ビーエス朝日|BS朝日]])
 
 
 
=== CM ===
 
* [[アサヒビール]] (1971年 - 1972年) <small>※CM初出演。「飲んで貰います」のコピーが使用された。ちなみに高倉は下戸である。</small>
 
* [[レナウン (企業)|レナウン]] 「シンプル・ライフ」(1978年 - 1983年)
 
* [[三菱自動車工業]] 「[[三菱・ギャランΣ]]2代目・3代目」(1980年 - 1985年)
 
* [[日本生命保険]] 「ロングラン」(1984年 - 1988年) <small>※「自分、不器用ですから」はこのCMから。</small>
 
* [[ネスレ日本|ネッスル日本]] 「[[ネスカフェ#ゴールドブレンド|ネスカフェ・ゴールドブレンド]]」(1986年 - 1987年)
 
* [[日本中央競馬会|JRA]] (1992年 - 1993年) <small>※[[裕木奈江]]と共演。</small>
 
* [[富士通]] [[FMV]] (1994年 - 2000年) <small>※[[倍賞千恵子]]と共演していたが、1999年から[[田中麗奈]]と共演。</small>
 
* [[ラーク (たばこ)|ラーク]] (1996年 - 1997年)
 
* [[ポッカサッポロフード&ビバレッジ|ポッカコーポレーション]] 「Mr.Coffee」(1997年)
 
* [[キリンビバレッジ]] 「[[生茶]]」(2000年) <small>※[[永作博美]]と共演。</small>
 
* [[麒麟麦酒]] 「[[キリンラガー|キリンクラシックラガー]]」(2001年 - 2004年)
 
* [[永谷園]] 「[[お茶づけ海苔]]篇」「ひたむきに歩く篇」(2012年) ※「お茶漬け海苔」発売60周年を記念したCM<ref>{{Cite web |url=http://www.nagatanien.co.jp/contents/news_release/176.pdf |title=高倉健さん出演「お茶づけ海苔60周年記念CM」放映のご案内 |format=PDF |publisher=永谷園 |date=2012-06-29 |accessdate=2013-04-20}}{{Cite web |url=http://www.nagatanien.co.jp/enjoy/cm/detail/64/|title=出演者 高倉健|work=テレビCM紹介 |publisher=永谷園 |accessdate=2013-04-20 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120912213344/http://www.nagatanien.co.jp/enjoy/cm/detail/64/ |archivedate=2012-09-12}}</ref><ref group = "注釈">30年来の親交がある永谷園[[取締役]][[相談役]]・永谷明から和紙にしたためた出演依頼の手紙を送られ、そこに記されていた永谷の兄で創業者・[[永谷嘉男]]への思いに感動し、CM出演を決意した。- 2012年8月26日『日曜邦画劇場』(日本映画専門チャンネル)、「高倉健ロングインタビュー」での高倉の証言。</ref>{{出典無効|date=2018年8月|text=検証可能性を満たしていません。}}
 
* [[健康家族 (通信販売)|健康家族]]<ref>{{Cite web |url=http://cp.kenkoukazoku.co.jp/ninniku-story/cm/|title=健康家族 にんにく物語 / CM情報 |publisher=[[健康家族 (通信販売)|株式会社 健康家族]] |date=2014-03-27|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140328105554/http://cp.kenkoukazoku.co.jp/ninniku-story/cm/ |archivedate=2014-03-28 |accessdate=2014-03-28}}</ref>(2014年3月 - )<ref>{{Cite news |url=http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/03/27/kiji/K20140327007854250.html |title=高倉健 夢かなえる土との出会い…新CMで陽水と念願“コラボ” |newspaper=スポニチ Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |date=2014-03-27 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140528053917/http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2014/03/27/kiji/K20140327007854250.html |archivedate=2014-05-28 |accessdate=2014-05-28 }}</ref><ref group = "注釈">「不器用でも信頼のおける会社でありたい」という企業理念と企画趣旨に共感し、文化勲章受章後初のCM出演が決まった。またCMソングには高倉と同郷の[[井上陽水]]の「少年時代」が採用され、移動の車中でもよく井上の曲を聴いていた高倉は「いつか彼の曲をBGMに演技がしたいと思っていました」と話した。なお、所属事務所の意向もあり、哀悼の意を込めて没後も放映が続けられている。</ref>
 
 
 
=== 追悼番組 ===
 
* [[徹子の部屋]]「追悼・高倉健さん」 (2014年11月19日、[[テレビ朝日]])
 
* 緊急追悼特番 高倉健さん83歳逝く 不器用な男の銀幕伝説 (2014年11月21日、フジテレビ)
 
* 高倉健さん追悼特別番組 映画「[[南極物語]]」 (2014年11月21日、フジテレビ)
 
 
 
== ディスコグラフィ ==
 
* その灯を消すな ([[1958年]])
 
* 野暮は言うなよ ([[1959年]])
 
* 愛のブルース (1959年) <small>※作詞と作曲は[[江利チエミ]]</small>
 
* [[網走番外地 (曲)|網走番外地]] ([[1965年]])
 
* 男の裏町 (1965年)
 
* 横顔 (1965年) <small>※B面「男の裏町」</small>
 
* 男涙の雨が降る (1965年) <small>※B面「唐獅子牡丹」</small>
 
* 男の誓い (1965年)
 
* 唐獅子牡丹 ([[1966年]])
 
* 霧の波止場 (1966年)
 
* 男なら / 泣かせるぜ (1966年)
 
* 男ごころ ([[1968年]])
 
* 望郷子守唄 ([[1971年]]) <small>※[[日本コロムビア]]の洋楽規格「L盤」としてリリース</small>
 
* はぐれ旅 ([[1975年]])
 
* 朝顔の詩 ([[1976年]])
 
* 男の忘れもの ([[1979年]])
 
* 日本海 (1979年)
 
* 時代おくれの酒場 ([[1983年]]) <small>※B面「幸せという奴は」(詩 朗読)</small>
 
* 挽歌 ([[1990年]]) <small>※[[八代亜紀]]とデュエット。[[1991年]]に[[三菱ふそう・ファイター]]のCMで流された。</small>
 
* あの人に似ている ([[1994年]]) <small>[[裕木奈江]]とデュエット。作詞と作曲は[[さだまさし]]と[[中島みゆき]]</small></small>
 
* 約束 ([[1995年]])
 
* 旅人 ([[1996年]])
 
* 南極のペンギン 曲:[[宇崎竜童]]、集英社 <small>※CD</small>
 
 
 
== 著書・参考文献・ウェブサイト ==
 
* 『あなたに褒められたくて』林泉舎(1991年)[[集英社文庫]](1993年) <small>※[[1993年]]の「第13回日本文芸大賞」エッセイ賞を受賞<ref>{{Cite web |url=http://www.e-hon.ne.jp/bec/SC/PrizeInform?SHOUCD=575 |title=文学賞|日本文芸大賞 |publisher=全国書店ネットワーク e-hon |accessdate=2013-05-22}}</ref>。[[2008年]][[6月28日]]に『[[南の文芸館]]』([[NHKラジオ第1放送|NHKラジオ第1]]、九州・沖縄ローカル)でこの書籍から3作が朗読された。</small>
 
* 『南極のペンギン』[[集英社]](2001年)、集英社文庫(2003年) <small>※[[絵本]]。「自身の体験を子どもたちへ伝え、エールを送る」とのコンセプトで制作された<ref>{{Cite web |url=http://www.shueisha.co.jp/topic/penguin/ |title=『南極のペンギン』 |publisher=[[集英社]] |accessdate=2013-05-22}}</ref>。絵を担当したのは[[唐仁原教久]]。</small>
 
* 『旅の途中で』 [[新潮社]] (2003年)、[[新潮文庫]](2006年)
 
* 『想 俳優生活五〇年』[[今津勝幸]]撮影 集英社(2006年)、ISBN 4-08-747644-8 <small>※フォトエッセイ</small>
 
*『高倉健インタヴューズ』[[野地秩嘉]]文・構成 [[プレジデント社]] 2012 のち[[小学館文庫]]
 
* {{Cite book |和書 |title=健さんを探して <small>最後の銀幕スターの秘密</small> |author=<small>日刊スポーツ文化社会部</small> 相原斎<small>と日刊スポーツ特別取材班</small> |publisher=青志社 |date=2015-06-09 |isbn=978-4-86590-007-1 |ref=健さんを探して}}
 
* 『私の八月十五日』[[今人舎]](2015年)ISBN 4905530377。桂歌丸や村山富市と共に自身の経験が綴られている。教育機関専用に音声ガイドペン付きが700部ほど製版され、高倉健が音読した音声が収録されている。(この音声を録音したのは亡くなる直前でほとんど知られていないが実はこれが真の遺作なのである)
 
*『少年時代』唐仁原教久画 集英社 2016
 
 
 
== 脚注 ==
 
{{脚注ヘルプ}}
 
;注釈
 
{{Reflist|group="注釈"|2}}
 
;出典
 
{{Reflist|2}}
 
 
 
== 外部リンク ==
 
* {{Jmdb name|0115490}}
 
* {{allcinema name|52794}}
 
* {{kinejun name|87760}}
 
* {{imdb name|id=0847264|name=Ken Takakura}}
 
* {{URL|movie.walkerplus.com/person/82813/ |高倉健 - Movie Walker}}
 
* [http://www.city.kitakyushu.lg.jp/shimin/26501041.html 高倉健メモリアルイベント「健さんに逢いたくて2015in北九州」北九州市公式サイト]
 
* {{NHK人物録|D0016010488_00000}}
 
{{Navboxes|title=受賞|list=
 
{{毎日芸術賞}}
 
{{日本アカデミー賞最優秀主演男優賞}}
 
{{キネマ旬報ベスト・テン主演男優賞}}
 
{{ブルーリボン賞主演男優賞}}
 
{{毎日映画コンクール男優主演賞}}
 
{{エランドール賞新人賞}}
 
{{日刊スポーツ映画大賞主演男優賞}}
 
{{報知映画賞主演男優賞}}
 
}}
 
{{Normdaten}}
 
{{Portal bar|アジア|日本|福岡県|映画|人物伝}}
 
 
{{デフォルトソート:たかくら けん}}
 
{{デフォルトソート:たかくら けん}}
 
[[Category:高倉健|*]]
 
[[Category:高倉健|*]]

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高倉健(1993).jpg

高倉 健[注釈 1](たかくら けん、1931年昭和6年〉2月16日 - 2014年平成26年〉11月10日

映画俳優。本名小田剛一。1954年明治大学商学部を卒業。1955年東映に入社し,『電光空手打ち』(1956)の主役でデビュー。任侠映画「人生劇場・飛車角」(1963~64)シリーズを経て,「日本侠客伝」(1964~71),「網走番外地」(1965~67),「昭和残侠伝」(1965~72)などの任侠シリーズに主演してトップスターとなる。1976年に東映を退社。その後,『八甲田山』(1977),『幸福の黄色いハンカチ』(1977),『冬の華』(1978),『駅 STATION』(1981),『鉄道員(ぽっぽや)』(1999,モントリオール世界映画祭主演男優賞),『あなたへ』(2012)など多くの話題作に主演した。『燃える戦場』Too Late The Hero(1969)でハリウッド映画に初出演したのち,リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』Black Rain(1989),チャン・イーモウ(張芸謀)監督の『単騎,千里を走る。』(2005)など海外作品でも活躍。1998年紫綬褒章を受章,2006年文化功労者に選ばれ,2013年文化勲章を授与された。



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