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− | {{出典の明記|date=2017年3月}}
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| {{基礎情報 武士 | | {{基礎情報 武士 |
| | 氏名 = 高師泰 | | | 氏名 = 高師泰 |
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| | 子 = [[高久俊|久俊]]、[[高師世|師世]]{{Sfn|田村哲夫編修|1980|p=116}}、[[明阿]]([[高師冬]]妻)、[[高久武|久武]]、[[高師秀|師秀]](師世養子)、[[高師武|師武]]([[国司氏]]祖){{Sfn|田村哲夫編修|1980|p=116}}、師次{{Sfn|田村哲夫編修|1980|p=116}} | | | 子 = [[高久俊|久俊]]、[[高師世|師世]]{{Sfn|田村哲夫編修|1980|p=116}}、[[明阿]]([[高師冬]]妻)、[[高久武|久武]]、[[高師秀|師秀]](師世養子)、[[高師武|師武]]([[国司氏]]祖){{Sfn|田村哲夫編修|1980|p=116}}、師次{{Sfn|田村哲夫編修|1980|p=116}} |
| }} | | }} |
− | '''高 師泰'''(こう の もろやす)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。[[高師直]]の兄弟(『高階系図』ではの師直の'''兄'''とされているが、同時代の史料である『[[園太暦]]』では「'''舎弟'''師泰」と記されている)。 | + | '''高 師泰'''(こう の もろやす) |
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− | == 生涯 ==
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− | [[足利尊氏]]に仕え、[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])の[[鎌倉幕府]]に対する挙兵で武功を挙げた。それにより翌年、[[建武の新政]]における[[雑訴決断所]]の奉行に[[上杉憲房 (南北朝時代)|上杉憲房]]と共に任じられた。[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])の[[中先代の乱]]でも尊氏に従って[[鎌倉]]に赴き、[[北条時行]]を破る。その後、[[新田義貞]]を総大将とする朝廷の尊氏追討軍を[[三河国]]で迎撃し、一旦は敗れるが、鎌倉に逼塞していた尊氏の出馬に従い、義貞の軍を箱根・竹ノ下の戦いで撃破した。
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− | [[京都]]へ攻め上った尊氏が朝廷軍の反攻に遭って[[九州]]へ落ちると、[[筑前国]]などの戦いで大いに活躍する。[[湊川の戦い]]では尊氏の弟[[足利直義]]の副将として武功を挙げた。その後も[[金ヶ崎城]]攻めや[[北畠顕家]]討伐で大いに活躍し、[[室町幕府]]創設にあたり軍事において大いに貢献した。正平2年/[[貞和]]3年([[1347年]])、[[楠木正行]]が挙兵すると、兄師直と協力して翌年これを討ったうえ、[[南朝 (日本)|南朝]]の本拠地である[[吉野]]に攻め入って同地を焼き払った。
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− | しかし武将としては一流、功績も数え切れぬほどの功労者であるのを良い事に次第に傲慢な態度が目立ち始めた。例えば、東山に山荘を建設しようとして、その地にあった[[菅原氏]]の墓所を掘り返し、これに対して[[菅原在登]]が異議を唱えると、在登を[[殺害]]した。このような公家や寺社と武家との対立を避けようとした直義と、武家の勢力伸張を第一と考えた師直が、幕政の主導権をめぐって対立し始める(「[[観応の擾乱]]」を参照)と、師直派の中心人物と見なされる。
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− | 師泰・師直は、正平4年/貞和5年([[1349年]])、直義の追い落としに成功する。だが、一たびは出家して政務を退いた直義は、翌正平5年/[[観応]]元年([[1350年]])、尊氏が直義の養子・[[足利直冬]]を討伐するために[[中国地方]]へ遠征した隙に京都を脱出して南朝へ帰順し、師直・師泰兄弟討伐を掲げて挙兵した。師泰は、遠征先の[[石見国]]から京都に帰還し、尊氏とともに直義と戦ったが、正平6年/[[観応]]2年([[1351年]])、[[摂津国]][[打出 (芦屋市)|打出浜]]で敗れた([[打出浜の戦い]])。和議の条件として師直と共に出家し、道勝と号する。同年2月26日、直義の手で京都へ護送される途中、復讐のために怒り狂って待ち受けていた直義派の[[上杉能憲]]らによって同国[[武庫川]]畔において、[[高師直|師直]]や息子の[[高師世|師世]]ら一族と共に、殺害された。[[享年]]は60代くらい。
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− | 武将としては一流であった。政治手腕にも長け、幕府創設期には訴訟奉行を任されている。しかし権勢に奢り高ぶったのが命取りとなり、[[一族]]もろとも[[殺害]]され、滅ぼされる羽目となった。
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− | == 偏諱を与えた人物 ==
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− | *[[毛利師親|毛利'''師'''親]]<ref>河合正治『安芸毛利一族』([[新人物往来社]]、1984年)P.42、國司由行 「[[国司氏|國司家]]に伝わる元就公からの感状」(『「毛利一族」のすべて』<別冊歴史読本>(新人物往来社、1997年)P.35)。典拠は『毛利家文書』所収 「毛利元春自筆事書案」(掲載:『[[大日本古文書]]』毛利家文書之一・第15号)。師泰の死後は元春に改名。尚、師泰が師親[[元服]]時の[[烏帽子親]]を務めたことが、師泰の子・[[高師武|師武]]に始まる[[国司氏]]が毛利氏の家臣となるきっかけとなったとされる(國司由行、同前)。</ref>
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− | ==脚注==
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− | <!--===注釈===-->
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− | {{Notelist}}
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− | <!--===出典===-->
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− | ==参考文献==
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− | * {{Cite book|和書|editor=防長新聞社山口支社編|others=三坂圭治監修|date=1966-3|title=近世防長諸家系図綜覧|publisher=防長新聞社|volume=|id={{全国書誌番号|73004060}}|ncid=BN07835639|isbn=|asin=|oclc=703821998|ref=harv}}{{クローズドアクセス}}[{{NDLDC|2984815}} 国立国会図書館デジタルコレクション]
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− | ** ''復刻'' {{Cite book|和書||editor=田村哲夫編修|others=三坂圭治監修|date=1980-11|title=近世防長諸家系図綜覧|edition=復刻版|publisher=[[マツノ書店]]|chapter=寄組国司家|id={{全国書誌番号|81035962}}|ncid=BN0189824X|isbn=|asin=|oclc=674504899|ref=harv}}
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− | == 関連作品 ==
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− | [[太平記]](1991年 NHK大河ドラマ) 演:武内伸一郎→[[塩見三省]]
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| + | 南北朝時代の武将。[[高師直]]の弟。室町幕府侍所の所司。足利尊氏に従い,延元1=建武3 (1336) 年新田義貞のこもる越前金崎城を落すなど,諸所で戦功を立て,執事師直とともに権勢をほしいままにしたが,[[観応の擾乱]]後,兄とともに上杉能憲に殺された。 |
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高 師泰(こう の もろやす)
南北朝時代の武将。高師直の弟。室町幕府侍所の所司。足利尊氏に従い,延元1=建武3 (1336) 年新田義貞のこもる越前金崎城を落すなど,諸所で戦功を立て,執事師直とともに権勢をほしいままにしたが,観応の擾乱後,兄とともに上杉能憲に殺された。
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